1.屋上へと続く階段
今日から玲奈の物語が始まります。どうぞお付き合いください。
階段を上る。
コツ、と靴音がコンクリートの壁に響く。街はまだ眠る、日の昇らない時間。玲奈はゆっくりと階段を上っていた。
…今日で終わる。
生きているのが辛かった。ずっと辛かった。
欲しいものは、たいてい手に入った。お金で買えるものならなんでも買えた。だけど、本当に欲しい人生は手に入らない、この先もずっと。
本当は玲奈自身、その事実に気づいていたのだ。気づきながら――彼といれば、いつか手に入るかもしれないと夢見ていた。
ふと立ち止まって、右手の甲を見る。うっすらとかさぶたのついた、ひっかき傷がある。もうだいぶ治っているその傷跡を、そっとなでた。なでてから、左手の爪で引っ搔いた。治りかけの傷に血がにじむ。ジンジンと痛みが広がって、少しだけ安心する。
痛みが止まないうちに消えてしまいたい。痛みも傷もなくなって、きっといつか皮膚は元どおりに、なにもなかったようにきれいになるだろう。そしてなにもなかったように、生きていくことができてしまう。これまでもそうだったように、手に入らなかったものをなかったことにして忘れて、決められた人生を歩んでいく。容易に想像がつくからこそ、もうこの人生から離れたかった。
ぎゅっと手を握りしめ、薄暗いビルの最上階にたどり着く。消えかけの蛍光灯がぱちぱちと音を立てて、その光の中にたくさんの黒い羽虫の死骸がある。私も、あの羽虫と同じだ。明るい方へと吸い寄せられて、結局死んでしまう。
ぎぃ、と重たい金属の扉を開けると、埃っぽい風が入ってきた。思わず顔をしかめながら外へ足を踏み出す。太陽もまだ上らない未明の屋上に、西園寺玲奈は進んでいった。2月の朝はまだ寒く、思わず足が震えた。それでも迷わずに歩き、自分の腰ほどの高さの手すりに足をかけて、軽々と越える。
手すりを背に、20cmほどしか幅のない足場に立つ。下は見ない。見たら足がすくんでしまう。こんなところで、怖いと思いたくなかった。これから先の人生を生きていく方がよほど怖いのだ。そんなことを考えられるくらい不思議と心は落ち着いて、凪いでいた。
私は今日ここで死にたい。これ以上大切なものを失わないために。大切な人のことを忘れないために。大切な――譲治のことを、忘れないために。
譲治は、玲奈の初めての恋人だった。いくつもの組織を束ねる財閥の二女に生まれ、家のために生きてきた玲奈にとって、初めて心から欲しいと思ったのが、譲治と歩む人生だ。
親の言うとおりに、親の決めた学校を出て、親の決めた会社で働いて、やがて親に言われるまま婿を取る、はずだった。
親が決められなかったことはいくつかある。好きになる小説。好きになる音楽。クラスで隣の席になる友達。会社のエレベーターで一緒になる先輩。そして、その先輩を好きになってしまうこと。
譲治との思い出が走馬灯のように頭を駆けめぐり、じわりと涙が浮かぶ。ふり払うようにふるふると頭を振り、目をつぶった。
――譲治さん、ごめんなさい。私なんかと出会わなければよかったね。本当にごめんなさい。
最後に見た譲治の顔が浮かんで、ぞわりと肌が粟立った。もう、あんな思い出からは逃げてしまいたい。この先一生忘れることもなく、だれかに責められることもなく、なにもなかったような顔をして生きていくくらいなら、卑怯でもいいから逃げ出してしまいたい。
「もし生まれ変わるなら、この世界ではありませんように…ここではない、別のどこかへ、遠くへ行きたい…」
そうつぶやいて、玲奈はするりとビルから飛び降りた。
今まで乗ったどのジェットコースターでも感じたことのない胃の浮遊感に叫びだしそうになるのをこらえ、地面への衝撃を待っているうちに、意識を失った。