9話
❋❋❋❋❋
遠くで雷の鳴る音がして、いよいよ午後の予定を変えたのは正解だったと思う。まさか雷雨にまでなるとは予測しなかった。フェルドたちの住んでいる地方では雷が鳴ることなんてほとんど無いし、ヨミは驚いているかもしれない。
――様子を見に行くべきか。
フェルドは悩んだ。
天候の悪化を告げた直後、ヨミは傷付いていたように見えた。けれど数秒後にはあっさりと予定変更に頷いたので、フェルドとしてもどのように対応すれば良いか分からなかった。軽い慰めの言葉を掛けるにも、彼女はそれを望まない。元々感情の起伏が薄い人物であったが、ここまで来ると扱いづらかった。
雷鳴が近付いてくる。
想像以上に激しい天候にため息をついた。
――雷の鳴る中女性を一人置いてはおけないだろう。
雨の音も耳に煩い。
こんな遠くまで旅行に来ておいて婚約者と別室で過ごすのも確かに好ましくないのかもしれない。そもそも、彼女が何故誕生日祝いにこの旅行を選んだのかすらフェルドは分かっていないのだが。
机の上にあった書類を片付けヨミの所へ向かおうと立ち上がる。すると、見計らったタイミングで部屋の扉がノックされた。
「どうぞ」
「失礼致します」
入って来たのは執事のマルクだった。初老の男性である彼はスレイマン家に長く勤めており、フェルドが生まれた時から身の回りの世話係を担当してくれている。柔らかい物腰と落ち着いた所作が居心地が良かった。
「コーヒーをお持ち致しました」
「ありがとうございます」
マルクはコーヒーを乗せたトレイをソファ横のテーブルに置くと、書類の片付いたフェルドの机に視線を送った。
「おや、どこかへ向かわれるのですか」
「……はい。少しヨミの様子を見に」
折角コーヒーを持ってきてくれたのに申し訳ないと思いながら、部屋を出るための身支度を整える。
「コーヒーはそのまま机の上に置いておいてください。戻ってきたら飲みます」
「いえ、折角ですのでヨミ様の部屋までお持ちしましょう。お二人で積もる話もあるでしょう」
「……少し様子を見るだけですよ」
ヨミと積もる話をしたことなど婚約関係を結んでから一度もない。これから様子を見に行くのだって、雷に慣れていないであろうヨミに対する建前上のものだ。
そのままの足で部屋から出て行こうと扉へ向かうと、フェルドの様子を眺めていたマルクがふと口を開いた。
「お二人の仲は大変睦まじいですね」
「そう見えますか?」
「もちろんでございます。お互いがお互いのことを第一に考えられていらっしゃる。これはヨミ様に付き添っている侍女からお伺いした話ですが、今回の温泉旅行、ヨミ様はフェルド様の休息を促すために計画されたそうですよ」
「――ヨミが?」
耳に入ってきた言葉に驚嘆する。
頭の片隅にもなかった可能性に、一瞬フェルドの思考が停止した。マルクはそんなフェルドの様子を知ってか知らずか嬉しそうに微笑み、言葉を続けた。
「どうやら、以前からヨミ様はフェルド様の過労について心配されていたそうです。この旅行中、あのお嬢様は繰り返し私にフェルド様のご体調を尋ねて来られました。いやはや、大変お優しいお方です」
「……」
――ヨミが、自分を気に掛けていた?
フェルドが自分の耳を疑った。マルクの話が信じられなかったのだ。
確かに彼女は以前から気配りの利く印象ではあった。けれど。
ヨミは、今回の旅行の目的をにフェルドには一言も告げなかった。
礼儀的なものともまた違う心遣いに困惑する。
ヨミがフェルドの体調を気に掛ける場面は確かにあったが、それは形式的なものだと思っていた。
「お二人の逢瀬の頻度はあまり多くありませんが、それは深い信頼関係あってのものだったのですね。私感激致しました」
「……そうですか」
マルクの言葉はほとんど耳に入ってこなかった。その代わり糸を辿るように昨晩のヨミの様子を思い起こす。確かに彼女は、フェルドが資料を片付け就寝するまで部屋から出て行かなかった。自分は足元すら覚束ないほど疲労していたというのに。
――建前上のもの。それもあるのだろうが、しかし。
「コーヒー、ヨミの分の準備もお願いします。僕が持って行きますから」
「かしこまりました」
――この旅行は君の誕生祝いのものだろう。
フェルドは無意識に眉を顰めていた。
彼女は自分にそんな素振りを見せていただろうか。分からない。見せていたのかもしれないが、自分はこの旅行にくる以前から彼女の言動を特段意識したことがなかった。その必要が無いと思っていたし、ヨミも同じようにフェルドの所作に興味を持っていないのだろうと認識していたから。
その認識が間違っているわけではないはず。ヨミはフェルドに対して以前のような好意は抱いていない。それどころか、今の彼女はフェルドが自身の精神へ介入することを拒んでいる節さえあるというのに。時折彼女が見せる人間的な一面が、フェルドのヨミへの認識に霞を掛けた。
『私が生まれてきたことは大してめでたいことではない』
昨日から頭の中で何度反芻されたか分からない彼女の言葉。ヨミが単純な人間でないことはフェルド自身頭の中では理解していた。
けれど、その上で関心がなかった。
ヨミどころか、フェルドは今までどれだけの人間を系統化して決めつけてきただろうか。単純な人間などいない。その事実を表面上では理解出来ていても、他者の深意に介入することが面倒だった。
フェルドが今までヨミに対して『つまらない人間』と認識していたように、フェルド自身もまた、彼にとっての『つまらない人間』に分類されるのだ。
――ヨミは自分をどう思っている。
自分はヨミを、どう思っている。
ヨミ・サーティウス・ベルリナに対する正しい向き合い方が、いよいよフェルドには分からなくなってしまった。
お互いに関心がないのであればそれで良いだろう。自分達の関係は今のままでも利点はあれど損は無いのだから、ヨミとの距離感を縮める必要なはい。
「……面倒」
あの賢い令嬢のことだ。マルクからの言葉伝いでこの話がフェルドの耳へ入ることさえ、計算のうちなのだろう。
フェルドがこうしてヨミとの関係に頭を悩ませることすら、彼女にとっては想定内なのかもしれない。
そうであって欲しい。
そうでなければ、自分は再びヨミとの向き合い方を考え直さなければいけなくなる。
フェルドはトレイを持つ手に力を込めると、足早に廊下を進んでいった。
❋❋
「ヨミ、入ってもよろしいですか?」
控えめにノックをし、部屋の中に居るであろう人物にフェルドは声を掛けた。けれど扉の向こうからはなんの反応もなく、雷雨の音の激しさも相まって中の様子は伺えなかった。
――流石にこんな嵐の中昼寝をしていることはないだろう。
「失礼します」
返事はなかったが否定の言葉もなかったため、扉の向こうの無音を肯定と捉えたフェルドは静かにドアを開けた。
瞬間、目に入った光景に息を呑んだ。
「……っ」
ヨミはカーテンをめいいっぱいに開け、作業用の椅子を窓際に運び、ただひたすらに荒れ狂う空の様子を眺めていた。
入室したフェルドには一切視線を向けず、静かに雷雨を見続ける。
異様な姿に思わず言葉を失った。
「……」
「……」
――平気、なのか?この雷が。
彼女の放つ雰囲気は恐ろしいほど澄んでいた。黒い雷雲が激しく光を放っても、耳を劈くような落雷音が鳴り響いてもヨミは指先一つ動かさない。
その凛とした佇まいと暴力的な嵐はあまりにも不釣り合いで、フェルドの困惑に拍車をかけた。
――何をしているんだ。
後ろ姿だけで表情は見えない。けれど静かに、それでいて食い入るように荒れた空を見つめる様は恐ろしく無機質で、まるで生命もいうものを感じられなかった。
「……」
どう声をかければ良いか迷っていると、長く黙り込んでいたヨミがぽつりと、沈黙に落とし込むように言葉を零した。
「好きなんです。雷」
「……」
分からない。
雷が好きだという彼女の様子は信じられないほどに濁りがなく、それでいて冷たかった。
そんな彼女を見れば見るほど、フェルドにはヨミの言葉の真意が、ヨミの行動の深意が分からなくなる。
耳を痛めつけるような落雷音の中、二人の長い一日は始まった。