8話
「おはようございますヨミ。ゆっくり眠れましたか?」
「おはようございます。お陰様で快眠でしたよ。フェルドの方こそ休めましたか?」
「ええ、もちろん」
午前8時頃。たっぷりと睡眠をとった僕達は2日目の朝を迎えた。昨晩はあの後気を失ったように眠り、自分でも驚くほど深く寝付くことが出来た。
――何か夢を見ていた気がするけど。
どんな夢だったかは思い出せない。寝起きは悪くなかったし悪夢ではないと思うが何となくいい気分はしない。いや、今日は旅行の一番の目的であるアッシュラウ峠の散策がある。思い出せない夢のことなど忘れて楽しむ気分に切り替えねば。
「今日は一日通して曇りの見込みなので夜の予定に入っていた天体観測は厳しいかもしれません。代わりにしたいことはありますか?」
窓の外の灰色の景色を眺めた後、フェルドはこちらに目をやった。
「その必要はありません。どんな天気であれ天体観測は決行しましょう」
「曇りですよ?星なんて一つも見えないでしょう」
「目を凝らしたら見えるかもしれないではないですか」
「……君はよほど視力が良いんですね」
奇っ怪なものを見る目で僕を見ると、フェルドは面倒臭げにため息をついた。
最後の言葉にはあからさまに嫌味が入っていたし、天気の融通も利かない愚かな女だと思われたかも知れない。
――曇りだから都合が良いのだ。
晴れだったらなんの意味も無い。アッシュラウ峠周辺はそもそも湿気がたまりやすい地形だしこの時期は特にほとんどの日が曇り空だ。僕がここで星の観測をしたいと言い始めた時点でフェルドの様子は若干引いていたし、ここまで来たら恥も外聞もない。最後まで僕の目的を押し切ってやる。
午前中はゆっくりして、午後からは森林浴。戻って来て夕飯を食べた後は待ちに待った曇り空の天体観測の時が訪れる。
――午前中は、あの本を読もう。
『蒼穹の星』。何度も読み古したファンタジー小説だ。僕は公爵令嬢であるため洗練された純文学や古文、良くてロマンス小説しか家の本棚に置かれていない。どんなしきたりか少年が読むような冒険ものや剣と魔法の物語は両親から禁止されているのだ。その程度で害される僕の品位ではないというのに。
だから僕は、初めて王都の国立図書店に行った際使用人にバレないようこっそりとその冒険小説を懐に隠し、隙をついて会計を済ませた。
あの時は本当にハラハラドキドキで、そんな買い方をしたものだから僕が持っている少年向け小説は『蒼穹の星』だけだ。
今日訪れる予定のアッシュラウ峠はその冒険小説の舞台になっている場所で、主人公が序章で修行の日々を送った土地。来る時にもチラリと見えはしたのだがあの時は酔いが限界まで達していたため、正直視界はかなり霞んでいた。健常状態の今見れば感動は最高潮まで達するだろう。
聖地巡り。主人公の軌跡を辿るのだ。今日僕は修行時代の主人公が吸っていた空気や木々の揺れる音、踏み締めた大地を実際に味わうことが出来る。
――折角来たのだから全力で堪能する!
主人公の過ごしていた濃厚な日々を一日で追体験出来るとは思っていないが、彼が見ていた景色を僕も見られるという事実が堪らない。特に夜の天体観測は曇り空にこそ意味がある。僕が作中で一番好きなシーンの舞台となっていて、是が非でも見てみたかった。
身分が高い故の不自由というか、天体観測という名目をつけでもしない限り僕達が夜の外出を許されるのは難しい。
フェルドには申し訳ないが一緒に曇り空の下での星空観測を楽しんで貰おう。
朝食を食べ終えて、2・3時間各々でゆっくりと寛いだら正午前に本番が訪れる。
それまでに本を読み直して、シュミレーションして――。ともかく楽しむ準備を忘れては行けない。
高まる気持ちを抑えることもせず自室に戻り本を手に取る。皮のソファに腰掛け、とっくの昔に覚えてしまった章ページを開いた。
「これが旅行」
前世でも、令嬢になっても休暇のみ目的とした旅行は初めてだ。こんなに自由で、わくわくして、一瞬一瞬が鮮やかで色濃いものだなんて。
こんな贅沢が許されていいのだろうか、バチが当たったりしないだろうか。
――いやいや、幸せな気持ちになって良いんだ僕は。
もう、あの時の僕とは環境が違う。楽しい思いをしたって後ろめたい気持ちになる必要もない。
思考に思考を重ねながら本を読み進めていると、不意に部屋のドアがノックされた。
「ヨミ。フェルドです」
「……フェルド?」
慌てて本を閉じベッドのシーツの下に隠す。
「どうぞ」
入ってくるよう促すと、扉の前で複雑そうな表情を浮かべたフェルドと目が合った。
「雲行きが急変したらしく、午後からの天気は荒れるそうです。森林浴と天体観測はやはり明日にしましょう」
「……ぇ?」
返事もしないまま慌てて窓の方を見やる。
本に集中していたから気付かなかったが、2時間前の薄暗い曇り空とは打って変わって黒ずんだ雨雲が上空に停滞していた。
「幸い明日の天気は快晴のようなので天体観測も楽しめると思います。今日は一日温泉に浸かって休みましょう」
「……」
「ヨミ?」
「……そう、ですね」
明日は晴れで最終日。その翌日の朝には僕達はここを出なければならない。折角来たのに、でも仕方ない。曇り空の天体観測なんて確かに馬鹿げてるし、この土地にこだわらなくても出来る。星なんてこの世界ではいつでも明瞭に観れるのだ。わざわざアッシュラウ峠まで足を運んで大袈裟すぎた。
――別に大したことじゃない。
ただ予定が明日に回っただけ。少し見るものが変わっただけ。僕がここで変に落ち込んでもフェルドを困らせるだけだ。
「悪天候ならば仕方ありませんね。今日はゆっくり読書でもしましょう」
「……はい」
特に動揺する素振りも見せずサラリと諦めた僕を見てフェルドは意外そうに眉を動かした。別に残念がってなんていないのだから当然だ。そんなどうしようもないことで一々傷ついたりなどしない。だって僕は精神年齢的にいえばフェルドより歳上なんだから。記憶を取り戻す前の時間を差しい引いたって僕の精神年齢は19歳。この程度のことで年下に手を妬かせるほど子供ではない。
「ぼ……私はもう少し寝たいので、また午後会いましょう」
「分かりました。それではまた」
一人称を間違えそうになった所で、慌てて訂正する。そんな僕の様子に気付いているのかいないのか、フェルドは考え込むような素振りを見せたあと、小さく頭を下げて出ていった。
――平気。
そもそもこの旅行は僕のためのものじゃない。フェルドを休ませるために計画したものなんだから。あわよくば自分も、なんて考えてしまったからバチが当たった。
「……寝よ」
別に眠くないし落ち込んでもいないけれど、何となく今は『蒼穹の星』を手に取る気持ちになれなくてベッドの上に横たわった。すると少しの時間を置いてそんな僕を嗤うよう雨音が聞こえ始める。最初は微かな音だったものが次第に勢いを増し、あっという間に唸りとなり周囲を包み込んだ。
山の天気は変わりやすいと言うけれど、こうも変わられると憎たらしい。
――あの日もこうだった。
降りしきる雨を見て、自分が死んだ瞬間を思い出さない時はない。今日もいつもと同じようにあの雨の日を思い出したが、だからといって感情が乱れることも無く、ただただ流れ作業のように頭中で過去の映像が鮮明に繰り返された。
炎の赤が踊り雷鳴が轟く。その度に湧き出でてくる形のない感情を一つ一つ理性によって消していく。もうとっくに染み付いた習慣だ。
僕は僕。過去に囚われてなどいない。あんな奴らに影響などされていない。あの日の出来事などどうでもいい。どうでもいいから何も感じない。
僕は誰にも振り回されない。自分にすら。
雨音を聞くと心が落ち着く。
あの日感じた身が裂けるような悲しみを今の僕が否定することで、それらが全て過去の出来事であるのだと実感出来るから。ふつふつと蘇るえも言われぬ激情を理性によって統御することで、自分が誰のものでもない事実を確かめられるから。
哀しみも怒りもない。
喜びも快楽もない。
それが一番苦しくない。
落ちてくる雨音を一つも取りこぼさないよう耳に神経を集中させ、僕は再び思考の渦へと身を投じた。
――遠くで、雷の音が聞こえた気がした。