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7話





❋❋❋❋❋❋



雷は好きだった。

雷の鳴る日は唯一、認め難い現実から隔離された非現実の中にいるような感覚になれたから。

太陽の光が遮断され、灰色の建物が画一的に並べられた暗い街で漆黒の刺毛に包まれた猛獣が咆哮する。雷鳴が耳を揺らす度、そんな妄想を膨らませていた。

『このまま全部壊れてしまえば良いのに』

巨大な猛獣が思いっきり暴れて、壊して、殺して、消してくれればそれ以上素晴らしいことはない。

全部、何もかもどうでもいい。どうにでもなって欲しい。どうかなってしまうのであればいっそ、全て無かったことに。

雷は好きだった。

低く、黒く唸るように地を響かせるあの音の鳴っている間は唯一、義母と義父から浴びせられるキリキリとした罵声も、遠くのものに感じられたから。


――僕が産まれる前に父親が、僕を産むと同時に母親が亡くなったため、6歳までは児童保護施設で暮らした。

その年の秋頃若い夫婦に引き取られ、以降は都内にある築年数の経った古いアパートで、煙草の臭いに囲まれながら毎日を過ごした。

義父と義母にはDV癖があり、機嫌の悪い日にはよく暴力を振るわれた。それが普通でないことは幼いながらに理解していたが、だからといって自分にはどうこうできる訳もなく、父母の顔色を伺う癖だけが体に染み付いていった。細かい表情の機微を読んで、話しかけられた時は懸命に気に触らないよう言葉を探す。それでも暴力を振るわれることはあったけれど、機嫌の良い日は笑いかけてくれたし、食べ物をくれたりもした。

背中に散りばめられた煙草の焼入れが恥ずかしくて、学校行ったことは殆ど無い。友達がいたことも無かった。それを不幸に感じたこともあったけれど、数年も経てば何も感じなくなった。

アパートの近くのゴミ捨て場では、毎週古紙回収の日になると大量の古本が捨てられていた。理由は分からない。そこから何冊かこっそりと持ち出して、家で繰り返し読むのが習慣だった。本は好きだった。本を読んでいる間だけはその物語の中に没入出来て、生き地獄のような現実から目を逸らせたから。

一度に沢山持ち帰ると義理親にバレてしまうため、少しずつ盗って、読み古したらゴミ捨て場に戻す。それを繰り返し隠れるようにして本を読み続けた。


二人は殆ど家を空けていたから、外に出ることは容易だった。今になって思えばその時逃げ出してしまえばよかったのだが、愚かな僕の頭にその選択肢が昇ることは生涯通してなく、不登校になってからゴミ捨て場より先を出たことは一度もなかった。学校に行っていなかった分僕の得られる知識は本からのみに限られたがそれでも充分なもので、飢えたように活字を追いかけては文字の先にある豊かな物語に胸を躍らせていた。一般常識は殆ど書物から身に付けた。それらが正しいかどうかは分からないが、大体の教養は手に入ったのではないかと思う。使う場面はなかったけれど。


『お前なんかを助けてくれる者はどこにもいない』

『育ててやってることに感謝しろ』

『出来損ない』

『ここを離れるともっと苦しいことが待ってるぞ』


耳に穴が空くほど聞かされた。

小学に上がる前から刷り込まれてきため、死ぬまでずっとそれらが事実だと信じて疑わなかった。

学校には何度か行ったし幼少期は児童施設で他人の優しさに触れていた。外の世界が怖い場所ではないことも理解していたのだ。それでも誰かに助けを求めようとしなかったのは、こんな価値のない自分を気にかける人間などいるわけがないから。そして愚かなことに、義父母が機嫌の良い時何度か見せてくれた笑みに、ほんの一縷の愛を感じ取っていたから。自分が悪いだけで、二人は僕のことを愛してくれている。笑って欲しい。二人が笑ってくれると、本当に、泣きそうになるほど嬉しかった。そのためであれば、どんな苦しいことにも耐えることが出来た。


雷の鳴る日だった。


雨音が耳にまとわりついて煩さく、薄暗い曇り空が不気味だった。その日は珍しく両親どちらとも家に居て、二人でずっと何かを話し込んでいた。雨と雷の音で話の内容は聞こえなかったけれど、聞こえたところで碌なものではない。

僕が17歳になってから、両親から受ける暴力が一層酷くなった。理由は分からない。分かりたくなかった。話しかけられることも少なり、外に出る時は注意深く監視されるようになった。どうしてなのか薄々と気づいていたが、その考えに辿り着く度に首を振って目を背けていた。


雷の音がどんどんと近づいてきた。


煩くて、でも心地好くて、目を瞑ればまるで別の世界にいるような心地になれた。

様々な物語の中で、登場人物達は無償の愛を施し施されている。僕は心の何処かで義理親にそれを求めていた。依存していたのだ。稀に向けられる紛い物の優しさに、一生懸命縋り付いていた。


不意に、大きな雷が鳴った。


耳をつんざく爆発音とともに、傍にあったコンセントの元が赤い火花を散らし、周囲の布に引火した。部屋の中が乾燥していたからか火は瞬く間に燃え移り、驚いた僕は慌ててその場から離れた。

母親、だったと思う。詳しくは覚えていないけれど、両親の片方が異変に気づいて、すぐに火を消そうとした。するともう片方がその腕を掴んで、消火活動を中断させた。まだ火は回り切っていなかったため消火は容易だったし、出来ないにしても逃げる余裕はあった。


『ちょうど良いじゃないか』


周囲の音は耳が馬鹿になるくらい騒がしかったのにそれだけははっきりと耳に届いたのだから不思議なものだ。同時に、自分がこれから何を言われるかも理解した。


『お前はここに残りなさい』


両親の最後の言葉で、最後の笑顔だった。

足元が消えるような感覚とともに身体中の温度が失われ、一瞬にして唇が乾いた。あの言葉を言われた時点で、僕は死んだ。心が死んだ。

あまり覚えていないけれど、それだけは鮮明に刻まれている。


両親が児童保護手当を目的に僕を預かったのは、知っていた。そういう人間がいることも知識としては入っていた。18歳になるとその手当が支払われなくなる。3ヶ月後に18になる僕の存在が二人の足枷になることは分かっていた。それでも僕にとっては唯一無二の親だったから、そこには愛があるものだと信じて疑わなかった。今は駄目でもいつかは家族としての愛情を向けてくれるのだと。


火が回ってきた。


両親はとっくに出て行って、残された僕はそこから動くこともせずただただ赤い炎が音を立てて家具を燃やしていく様を呆然と見つめていた。


熱い。

痛い程の熱風が容赦なく肌を突き刺す。

冷たい。

それにも関わらず指先は恐ろしく冷え込んでいて、身体中の感覚が、細胞が音もなく死んでいく実感が不愉快だった。

どうして僕はここにいるのだろう。


自分がまるでこの世に存在していないような不思議な心地だった。拒絶すら生ぬるい。どうしようもなく悲しくて、悔しくて、情けなくて、そんな感情さえも消えていく感覚が気持ち悪くて、恐ろしかった。

様々な感情が弾けては消えていく。最後は自分さえも消えるのだろう。


それならば、もういい。

消えることが出来るのならばそれ以上のことはない。

あの人間達と同じ世界で生きて行くなんてまっぴらご御免だ。このまま生きたところで生き地獄ならば死んで地獄に落ちてやろう。

苦しい。悲しい。辛い。

けれどそれすらもどうでもいい。


愛なんてものは存在しない。

彼らは僕を愛していなかったし、僕だって彼らを愛していなかった。僕は両親に愛情を見出そうとしていたけれど、その中には間違いなく、愛されることによって自分の価値を確かめたいという醜いエゴも含まれていた。

愛なんて存在しない。存在するのは自己愛だけだ。

いつだって僕は他人を通して自分を見ようとしていた。誰かに依存することに自分の幸せを見出そうとしていた。


皮膚が焦げる。肺が焼ける。網膜が乾く。

けれど不思議と苦しくはなかった。


ああ、死ぬ。

死んでしまう。

やっと死ねる。


――違う。嫌だ。こんなのは。こんな気持ちは。


僕が死ぬことでアイツらは喜ぶだろう。喜んだ後に、その出来事すら忘れていくだろう。その事実がどうしても許せなかった。


違う。違う。


僕は自分の意思で死ぬのだ。

アイツらに殺されたわけじゃない。

あんな奴らの娯楽の為に命を消費された訳じゃない。

そんなの、受け入れられない。


この死は、僕の望み。

この死は、僕の希望。


――もしも輪廻転生が実在するならば。

来世は、幸せになりたい。

自分の妨げになる人間の存在しない充実した人生に、それが不可能であるならばせめて、全てを淘汰する圧倒的強者になりたい。

こんな気持ちになるのはもう嫌だ。

僕はもう、誰にも振り回されない。誰にも干渉されない。僕はもう。

――誰のものにもならない。

足元が消えていくような感覚の中、最後に目に入ったのは燃えかけた一冊の本だった。

ありきたりなロマンス小説。

美しい心を持った主人公が不遇な運命に晒されながらも最後は永劫の幸福を手に入れる、愛に満ちた小説だ。

本が燃える。

あっという間に炭に近い状態になり、黒い煙が舞い上がった。


確か僕はこの本の悪役令嬢が心底嫌いだった。ともかく傲慢で、頑固で、自分のことしか考えてなくて、愛に貪欲で、どうしようもなく愚かな少女。

でも、そうだな。

もし生まれ変わることが出来るなら、次は。


悪役令嬢までも幸せになれる世界へ。





❋❋❋❋❋暗転




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