6話
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旅行だからといって気が抜けていたのかも知れない。そんな自覚はなかったが、今日は何故かいつものように上手く立ち回れない。
あの後はこまめに休憩を取りながら進んでゆき、僕達は日が落ちる頃ようやく宿にたどり着いた。一日目の流れとしてはおよそ予定通りだ。
その後はご飯を食べて、温泉に入って、ともかくこれ以上ないというほどにくつろいだ。旅行の日数は四泊五日。その間少々の散策はすれど身体に負荷がかかるような予定は入れていないため、フェルドもゆっくりと休めるはずだ。……それなのに。
――ああもう、眠い。何で寝ないんだフェルドは。
温泉に入ったあとのこの眠気は何なのだろう。信じられないくらい眠くて先程から身体は早く寝ろと訴えている。僕だってそうしたいしそうすればどれだけ気持ちが良いだろうかと思うのに。
「……フェルド、そろそろ寝ませんか?」
「僕のことは気にせず先に寝てください」
――信じられない。旅行先にまで仕事を持ち込むなんて。最悪。折角この僕が気を利かせて予定を組んだというのに。
部屋は異なるとはいえフェルドの寝室に明かりがついたままではこちらとしても寝るに寝られない。僕が部屋に戻ったらフェルドが寝ているかどうかなんて確認のしようもないのだし、さっさと戻ればよい話ではあるのだが、彼が起きていると知った状態で寝るのは気が引ける。
「仕事、無理せず休んだらどうですか?疲れているのでしょう?」
「これが終わったら休みますよ。ヨミの方こそ長距離の移動で疲れているでしょう」
「……まあ、否定はしませんが」
それはもう、かつてないほど疲れているさ。死ぬほど眠い。けれどそれとこれとは別じゃないか。僕は今回フェルドを仕事から遠ざけようと思ってこの旅行を計画立てたのに、フェルドはまるで当事者でないように振る舞う。
そりゃあ僕の誕生日祝いという名目ではあるけれど、僕としてはフェルドがこの機会を利用してゆっくり出来れば良いだろうと考えていたのに。
「私だけ寝ても意味が無いではないですか」
「……どういうことです?」
「貴方が仕事をしている中寝るのはさすがに気が引けますし、休むに休めないということです」
例えばこの婚約関係がそのまま続き僕とフェルドが結婚したとして、一家の主は男であるフェルドだ。僕はその配偶者に過ぎなくて、常に夫の存在を立てる立場にいなければならない。どんな状況であれ生物学的に女である僕が男のフェルドより先に寝ることは世間からして良く見られない。この世界は関白主義が主流なのである。
「……」
「……」
「……確かに、そうですね」
しばらくの沈黙を置いて、フェルドは降参したように頷いた。その様子を見て僕はほっと胸を撫で下ろす。
――良かった。
ほら、フェルドも休みたかったのだ。疲れている癖に強がって仕事をして、全く格好つけしいな奴だ。
「そうとなれば早く寝ましょう。フェルドも長旅で疲れたでしょう、私は疲れていませんが」
世話の焼けるやつである。
僕が気を使ってやらなければ寝ることもすんなり出来ないのか。
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机の上の書類を片付けて寝支度を始めるとヨミは安心したように胸を撫でおろした。よほど疲れていたのだろう。彼女の足元はおぼつかなく、瞳もぼんやりとしている。普段の隙のない佇まいはどこへ行ってしまったのか、肩にかかる癖のない黒髪が所在なさげに揺れる。
――この少女と対峙していると、息が詰まる。
フェルドは小さくため息をつくと、相変わらず居心地が悪そうにこちらの様子を窺うヨミから目を背けた。
こんな時でさえ彼女は“世間体”を気に掛ける。彼女の大事にする“世間体”を示すべき相手はここにはいないのにである。今日この宿はフェルド達とその世話係、護衛兵で貸し切っているし、そもそもこの旅行は公的なものでもなければ社交ですらない。
恐らくこれは彼女の体に染みついたもので、サーティウス家の教育によって培われたものだ。それを知っているからこそ彼女の言動について自分から何か言おうという気は到底起きなかった。
極端な言い方をすれば、ヨミに対して関心が持てなかった。
ヨミ・サーティウス・ベルリナは確かに同年代の他の公爵令嬢たちに比べれば聡明で大人びた、欠陥のない人物ではあるが、しかしそれだけだった。彼女は常に大人たちの都合の良いように振る舞い華麗とも言えるほど器用な立ち回りをする。保身のため、地位を確立するため、家の顔を立てるため、それらが悪いことであるとは思わないが、ヨミの場合はそれらの行動の全てに本人の意思のようなものが感じられなかった。
国に関係なく地位の高い貴族令嬢のほとんどがヨミのように教養ばかりを重んじている。フェルドにとってもそれは都合の良いことではあるのだが、だからこそ彼女にそれ以上の感情が湧き上がることもまた、無かった。周囲の貴族からは気品もあり容姿も美しいヨミとの婚約を度々羨ましがられるが、フェルドにとってヨミは何ら特別ではない、彼女もまたその他大勢の一人に過ぎないのだ。
「それでは、おやすみなさい」
「はい。また明日」
ヨミを寝室まで送り軽く言葉を交わすと、扉が閉まるのを見届けて踵を返した。
――また明日、か。
『私が生まれてきたことは、大してめでたいことではない』
今日の昼彼女の口から出た言葉を思い出す。
由緒ある公爵家の令嬢、それでいて周囲からの人望も厚く同世代の令嬢達に比べて遥かに才に富んでいる。そんな明らかに恵まれている少女の言葉とは思えなかった。
フェルドは、フェルドといない時のヨミを知らない。
彼女の家庭環境も両親との関係も興味を抱いたことがなかったため分からない。
返す言葉がないというのはああいうことを言うのだろう。適当な慰めの言葉を掛けることは簡単だったが、それが出来なかったのは彼女の言葉の中に悲観的な感情を一切感じさせられなかったからだ。
彼女はあの言葉を客観的な事実として発しており、嘆くことすらしていなかった。その様子はある種異様ともとらえることが出来るものだった。
ヨミは自身のことを本気で無価値であると思っている。それは何かの悲劇に感化されたような一時的なものでもなければ、過去の不幸を無理やり拾って自身の中で肥大化させている訳でもない。彼女の潜在意識に深く根付いた思考であるように見えた。どんな環境下で育てば彼女の様な人格が出来上がるのか、フェルドには理解が出来なかった。
生き辛いだろう、と心から思う。
ヨミの立ち振る舞いは一切の無駄を感じさせないほどに完璧で、隙が無い。それらをあの年で完成させるには常人では到底成し得ない、身を削るような努力が必要なはずだ。
それが自分自身のためであるのであれば、まだ良い。けれどフェルドにはそうは見えなかった。
ヨミは常に他人の顔色を見て自らの言動を管理している。それが悪いことであるとは思わないし、寧ろ人との調和を保つ上でその技能は必須ともいえるものだ。けれど彼女は、それを過ぎるが故に完全に自分を殺してしまっている。
ヨミと対峙していると、息が詰まる。
それは、彼女の完璧の裏側に、危ういまでの繊細さが秘められているから。
その張り詰められた糸がぷつりと切れてしまったとき彼女はどうなってしまうのか。そう思わされる瞬間が度々あった。見ている側の肝が冷えるほどヨミはいつもギリギリを生きている。まるで今にも割れそうなガラス細工のような、溢れんばかりの水が張られた水瓶のような切迫した精神を、懸命に理性で押さえつけている。
深入りをするつもりは毛頭ない。
ヨミもそれを望んでいない。
僕達には今の距離感が最も適している。
……はずだ。
フェルドは一つ息を吐くと、枕元の明かりをそっと消した。




