3話
「それにしても、ヨミ様は大変聡明なお嬢様になられましたね。あの方であれば安心してスレイマン家に迎え入れることが出来るでしょう」
執事のマルクが顔色を伺うようにフェルドの方へ目を向ける。フェルドは敢えてそれに気が付かないふりをして窓際に視線を逸らした。
――周囲の人間は全員、サーティウス家との縁談に賛成だ。
フェルド自身、スレイマン家の発展のためにこの婚約は絶対的なものだと理解しているし、周囲の後押しに抵抗するつもりもない。しかし。
――ヨミ嬢の様子が明らかに変わっていた。
おかしくなったのでは無い。逆に、おかしくないことがおかしいのだ。
今までの彼女はそうだった。誰が見てもわかるほどにフェルドへの好意を露わにして周囲を顧みず付き纏ってきた。頬をめいいっぱい赤く染め、普段は涼し気な瞳を潤ませながらこちらを見つめ、溢れ出た感情を抑えることもしなかった。
けれどあの日はどうだ。
彼女の目の奥には感情が見えなかった。先日まであれほど奔放な行いをしていた少女だったというのに、だ。
まるで別の人間と会話しているような心地だった。いや、別の人間ではない。
あの日の彼女は、初めて会った時のヨミ・サーティウス・ベルリナに似ていた。
相手の顔色を伺い、周囲の人間を品定めし系統化する。まるで無機物のような少女。全てが合理的に整頓されていて、生身の人間と会話をしている心地がしなかった。
――彼女は一体何なんだ。
大人達がすんなりと彼女の変化を受け入れていることに懐疑すら感じる。いつだって彼らは都合の良い変容には寛大なのだ。
彼女の言動が落ち着いたこと自体にはフェルド自身安心している。けれどそのことが彼女にとって良いことであるのかどうかは、今のフェルドには分かり兼ねる事案だった。
――まあいい。
同い年の者の中で、あれほど無欠な令嬢を見たことがない。
あの日だけでなく、その翌日の親を伴った会合の時も彼女の振る舞いは相変わらず隙のないものだった。
ヨミの心はもうフェルドのところにはない。フェルドだけがその事実を知っていた。
フェルドもそれで構わない。
それならば何も心配する必要はないではないか。
――下手に馴れ合おうとしてくる前の彼女よりも遥かに都合が良い。多少不自然ではあるがこれ以上彼女のことを気に掛けるのはやめにしよう。
フェルドは小さく息を吐くと、次の予定に向けて思考を切り替えた。
❋❋❋❋❋❋❋❋❋
「ヨミ。調子はいかがですか?」
「・・・御機嫌ようフェルド。ご存知の通りすこぶる健康ですよ」
婚約が正式に決定して約1年と半年。
あれ以来フェルドは定期的にヨミの屋敷に訪れるようになった。
とは言っても毎回散歩やお茶をしながら他愛もない会話をするだけで、逢瀬自体大人達の機嫌を保つための形式的なものだ。回数を重ねるうちに名前呼びも定着してしまった。
最初の方こそスレイマン家との距離を縮めようと気を引き締めて会話をしていたが、今では特に話すことが無さすぎて昨日の晩御飯の話をしている。当初の目的である”フェルドにヨミとの婚約の利点を感じてもらう”ことに関しても彼は元々理解しているようだったし、何か新しいアクションを起こすこともなく凡庸な時間を送っていた。
――逢瀬の頻度は2週間に1度程。
決して多い方ではないが僕としてはこのくらいが調度良い。ただ、如何せん世間体が良くない。
既に婚約関係を結んでいる他の貴族と比べてみても僕達の会う頻度の少なさは悪目立ちする。
お互いもっと逢瀬の回数を増やさなければならないのは理解していたが、ストレスのかからない今の距離間が個人的にはかなり楽だった。
「ヨミ」
「何でしょう?」
「何か欲しいものはありますか?」
「ざ・・・欲しいもの、ですか」
あまりにも唐突な質問であったため反射的に財力と答えそうになったが、すんでのところで言葉を飲み込んだ。同時に質問の意図を理解する。
――そういえば、次回会う時は僕の誕生日だ。
12歳の誕生日。
もうそんな時期だ。3年後には学園に入学し僕の破滅ルートが幕を開ける。まあもちろんそんな展開にはさせないが。
「お気持ちだけで十分です」
「その返答が一番困ります」
正直プレゼントに関しては特にリクエストも無いし勝手に選んで欲しい。フェルドとしても出来るものならそうしたいのだろうが、心の底から僕に興味が無い彼にはヨミの欲しいものなんて思い浮かびもしないのだ。適当な装飾品を繕えば良いのに変なところで律儀な奴。
――特に無いな。本当に。
欲しいのもが無いわけではないが、僕に手に入れられないものは彼とて簡単には調達出来ないだろう。
チラリとフェルドの方を見ると、笑みを浮かべてはいるが相変わらず喰えない表情でこちらを見つめている。
「・・・」
――決めた。
「温泉に行きたいです」
「・・・温泉?」
物のリクエストが来ると思っていたのであろう。フェルドは心底驚いた様子で僕の言葉を反芻した。
「そう、温泉。クルアニア地方にあるタレド温泉に行きたいです」
「また、どうしてそんな場所に?」
温泉だけでも驚愕だっただろうに、タレドの名前を聞くとフェルドは案の定眉をひそめた。
クルアニア地方は年中通して悪天候の日が多い。盆地型になっているあの地域は周囲を巨大な2つの湖に囲まれており、特にこの時期は季節風の影響もあり上空に湿気が集まりやすいのだ。
温泉に行くにしてももっと別に良い所があるだろうというのが当然の感想である。
「一度行ってみたかった。それだけです」
「・・・」
質問の答えになっていないことは分かっている。でも、言っても納得されないだろうし、こっちだって言いたくない。フェルドはほんの少し眉をひそめたが追求する程でもなかったらしく、しばらくの逡巡をおいてこちらへ向き直った。
「分かりました。お互いの予定を調整したいので、近日中に誕生日前後1週間の日程を教えていただけますか?それを見て後日連絡します」
「はい」
「・・・今日も楽しかったです。それではまた」
「こちらこそ。フェルドもお身体お気をさつけて」
貼り付けたような笑みと共に淡々とした様子で頭を下げると、フェルドは真っ直ぐな足取りで部屋を出ていった。
どうせ行くならアッシュラウ峠だ。
僕が敢えてクルアニア地方を選んだのはタレド温泉のすぐ側にあるアッシュラウ峠に興味があったから。何の変哲もないただの峠で特に観光の名所というわけでもないのだが、あの周辺は僕が今一番好きな文学小説の舞台になっているため一度現地を見てみたかった。
僕達の住む地域からは遠く入り組んだ場所にはあるが、いっその事そのくらいの方が良いだろう。なんせ。
――フェルドが疲れている様子だった。
今日だけじゃなくこの前も、その前だって顔色が良くなかった。
僕の場合は今女の性別だし嫁ぐ側だから、確かに作法や語学の稽古は忙しいがそうと言ってもたかが知れている。けれど彼は公爵家の長男で跡継ぎだ、忙しいの質が違う。人伝いに聞いた話だが、彼は今親の付き添いとしてスレイマン家の商談のほとんどに同席し、大人ですら手を焼くような仕事も任されているらしい。英才教育を通り越して拷問である。
彼だって、少々大人びているとはいえ単なる12歳の少年なのだ。
――クルアニア地方はかなり辺境にあるし、少しは仕事脳から離れられるだろう。
過労で倒れられてもお見舞いとか面倒だし、僕だってあの地域は観光したいし、たまにはこういう提案も良いはずだ。
軽い気持ちで席を立ち上がると、僕は次に行われるダンスレッスンの準備を整え広間へ向かった。