16話
本来であればフェルド以外の男性との関わりを避けるべき身分にいる僕が何故エリックとの逢瀬を承諾したのか自分でもよく分からない。
ただ、友人という存在に憧れを抱いていたのだと思う。
人との関係性をまともに築いてこなかった僕は、初めて誰かとの会話に落ち着きを感じていた。
僕の身分を知りながら態度を変えず接してくれる彼が楽なのだ。実際会うとなれば、流石にフェルドへ一言伝えておかなければならないと思っていたのだが……。
エリックからの返信は、最後日程候補日を送って以降二ヶ月も途絶えている。
僕が提示した候補の日付はとっくに過ぎていて、呆気なく途切れてしまった縁に拍子抜けした気分だった。
「フェルドにエリックのことを伝えないのは正解だった」
文通を重ねた時間が無駄だったとは思わないけれど、こうも無慈悲に連絡を絶たれると腹が立つものだ。そもそも先に会う約束を取り付けてきたのは向こうであるというのに。
悲しいという感情は特になかった。ただ、人の絆というのは本の中で見るような素晴らしいものではなく、存外軽薄でつまらないものなのだなと、無感情の中思った。
実際、何かを失ったわけではないのだ。
僕にとっては、元々持っていなかった何かが、やはり自分には無いものなのだと判明しただけに過ぎなかった。
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ヨミ・サーティウス嬢からの手紙は、エリックが仕事場として建てた庶民向けの一軒家へ届けられていた。エリックは集中して業務を片付けたい時、基本的にはこの家へ滞在する。
大量に郵送される書類の中から、エリックはヨミの手紙を特別丁重に取り扱い読んでいた。しかしここ二ヶ月以上、エリックの手元にその手紙は届けられていない。
エリックは内心激しい後悔を打ち立てながら玄関前の郵便ポストを撫でた。
「流石に逢瀬に誘うのは良くなかったか」
昔から人との距離感を図るのは得意な方だった。財産よりも周囲と良好な関係性を築くことが重要であると理解していたエリックは、感覚的に人に好かれる術を身に付けていったし、自分には周囲を引き寄せる才能があると自覚していた。
――ヨミも、僕のことは嫌っていないと思っていた。
あれほど文通が続いていたのだ。友情を抱かれていなかったなどと誰が思う。のっぴきならない事態でも生じたのかと思いサーティウス家の周辺を探ってみたりもしたが、世間は呆れるほど平凡だった。
「エリック様、何かお探し物でも?」
玄関から中々戻ってこないエリックを心配したハロルドが、後ろから声をかけてきた。
「探し物というか……」
エリックは珍しく憂患の表情で目を伏せた。
「ヨミからの返事がこない。嫌われたのかな」
「そうでしたか」
肩を落とし項垂れるエリックの姿は、非常に稀有な光景だった。器用なエリックは感情のコントロール能力にも優れていて、他人から心許ない言葉をかけられたり国民から煙たがられたとしても無為な傷心はせず、全て理性により前向きなものへ変換してきた。
そもそも貴族達から忌み嫌われるよう立ち振る舞うことは、彼の目的を達成するための布石なのだ。エリックは朗らかで快活に見えながら、その行動の一つ一つには全て彼なりの意図が込められていた。
――この才能を。
ハロルドは思った。
この才能を、平凡な公爵令嬢に潰されてはたまらない。
「サーティウス家のご令嬢は、エリック様のご身分をご存知ないまま文通を行われていたのです。むしろ、良く続かれた方だと思いますよ」
ヨミとエリックの関係は、弟ルカスの生誕祭以降4ヶ月も続いた。これはハロルドにとって大きな誤算だった、2、3往復で終わるだろうと予測していた文通がこの家の郵便ポストで何度も受け渡しされる様子を見て、彼はただ二人の関係性を危惧した。
「……それもそうか」
「何か別のことに打ち込んでいるうち、別れの悲しみも忘れてしまうでしょう」
「収穫祭の準備も終わってないからな」
ハロルドは微笑した。
「外は冷え込みます。どうぞ中へ」
最後エリック宛に届けられたヨミの手紙をポストから抜き取り処分したのはハロルドである。彼が王国を統べる未来を心から期待しているハロルドは、万が一にもエリックが一介の貴族と結ばれることが許せなかった。
――エリック様と結ばれて良いのは、他国の王家の姫だけだ。クレリア王国の皇太子が何かの間違いで一般貴族と恋に落ちれば、国王陛下は必ずその関係を破壊しにかかるだろう。
「その時、貴方様が傷つく姿を見たくないのです」
先に書斎へ向かったエリックの背中に、ハロルドは小声で言った。彼にとってこの行動は、将来起こるはずだった悲劇の芽を、未然に摘み取ったに過ぎなかった。
「今日は少し出かけます」
10月の収穫祭も間近に迫った水曜日、僕は苦手な早起きを決行し散歩用の身軽なドレスを身にまとった。
午前6時のことである。
「ヨミ様、一体どちらへ」
規則正しい生活を心がけている僕だが、朝はとことん弱い。ちなみにいうと夜もすぐに寝てしまうので、朝が弱いからといって夜更かしが得意かというとそうでもないのだが、ともかく僕は本来朝の起床が苦手だ。
その事実は今の所僕の身の回りの世話全般を担っているアナしか知らない。
アナからの叩き起しが始まる前に自ら髪の毛を梳かし始めた僕を見て、彼女は天地がひっくり返ったような顔でこちらを二度見した。
「何か、頭でも打たれたのでしょうか……?目覚ましもかけずに」
「打っていませんよ。ただ、私は庶民の文化を知りたくて」
「庶民の、文化?」
「朝市に行ってみたいのです」
いつかの手紙の中で、エリックが朝市の活気の良さと庶民の暮らしの温かさについて記していたことがあった。
エリックとの縁は綺麗に切れてしまったが、彼が手紙の中で語った多くの庶民文化は僕の関心を引き付け、刻まれている。
エリックがいつか案内してくれるだろうと安易に思っていたが、彼はもういないので、僕は結局自分の力で朝市を楽しむことに決めたのだ。今日のために集めた小銭を懐へ仕舞いながら、僕はアナに声をかけた。
「王都のすぐ側まで馬車を出していただけますか。一応、昨晩車夫には伝えています」
アナは数度意外そうに目を瞬かせたあと、微笑した。
「かしこまりました」
いつも僕をベッドから起こすことに苦戦しているアナは、朝の大仕事が一つなくなったことへ安堵している様子だった。それとは別に軽快な彼女の姿を見て、僕は首を傾げながら声をかけた。数年前までは無口で事務的だった彼女も、ここ最近は少しずつ感情を表に出すようになっていた。
「何か良いことがありましたか?随分機嫌が良いように見えます」
アナは立ち止まり、こちらを振り返った。
「分かりません。ただ、嬉しいのです」
見慣れているモノにしか分からない僅かな頬の緩みを浮かべ、アナは口を開いた。
「〝現実が小説よりも素晴らしかったことなど一度もない〟と塞ぎ込んでいらっしゃったヨミ様が、少しずつ外の世界を知ろうと努力してくださっていることが、嬉しい」
「……」
僕は、例の小説の中で描写されていたアナの様子と今の彼女の様子を脳内で比較しながら、よく分からない感情に胸を打たれた。王城の広間、国王陛下の御前。聖女シノアを守るため勇気を振り絞り主ヨミの不貞を告発した彼女は、ヨミ・サーティウス・ベルリナのことを心の底から忌み嫌っていた。
物語の中のヨミは今の僕と違い社交的で浪費癖で本など読まなかったし、性格も異常に悪く家来全員から嫌われていた。アナもきっと酷い嫌がらせを受けていたのだろう。
悪役令嬢のメイドなどシノアの壮大な物語からすると外野も甚だしいので、アナの人柄に関する描写などほとんどなかったが……。
僕にとって彼女はモブではない。
そんな彼女が僕を恐らく嫌っていないのだろうという事実が何故か無性に嬉しかった。
「ありがとうございます」
「……」
「私も、アナが辞めずに仕えてくれていることが、嬉しいです」
途切れ途切れにそういうと、アナは微笑した。朝市へ向かう前の身支度、僕はメイドのアナと心の距離を縮めた。
「ヨミ様、何か心の変化でも生じられたのですか?最近は少し気分が浮かばれない様子でしたから、心配していたのです」
「私の気分が?」
朝市へ向かう馬車の中、アナは僕へ尋ねた。
「全く心当たりがないです。気分が落ち込んだことはありませんよ」
そういいつつ、僕の頭の中には一瞬だけエリックの存在が過ぎった。この僕との文通を放擲した事実よりも、自分から遊びへ誘っておいて僕の返事を無視したマナーの無さに幻滅していた。
「お陰様で、毎日とても楽しく過ごしています」
自分に怒りという感情があるとは思わなかった。エリックのことを考えるたび、僕は無性に腹が立つ。
「ならば良いのですが……」
アナは眉を下げた。王都までの道のりは約30分。ゴトコトと振動する車体に揺られているうち、いつの間にか目の前には目的地が見えていた。
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収穫祭準備の指示出しが完了し、今国王陛下から任せられている自動車の常用化という国家事業の計画も現実性が見始めた時分、エリックは数ヶ月ぶりに王都の朝市へ顔を出していた。ヨミとの文通が途切れてしまった事実には一時気落ちしていたが、ハロルドの言う通りがむしゃらに仕事へ向き合っているうち記憶の片隅に押しやられていった。
今ではもうほとんどヨミのことを思い浮かべる機会もなくなっていたが、このようにして仕事から離れ日常を過ごしてみると、湖の底の泡が浮上するよう音もなく彼女の存在が脳裏へちらついた。
ただ、ちらつくだけでそこに感情は乗らなかった。
ヨミからしてみれば貴族と庶民の友情だ。それも男女の友情など、端から成立させようとする方が愚かだったのだ。
「ハロルドに土産でも買って帰ろう」
特に目的もなく街を歩くことは好きだ。今後この街には電気が通り、車が走り、電話が繋がり、今よりもずっと豊かになる時代がやってくる。新しい産業が出来れば新しい職ができ、新しい職が出来れば今就職に困っている庶民達の糊口も確保される。国は潤う。
そんな未来を思い描きながら、今後の自らの動きを考えるのだ。
「――このトマトを……フェルドは何が……生魚は駄目?」
街を歩いているうち、エリックの耳は聞き覚えのある音を拾った。反射的に辺りを見回してみると、なんとどういうわけか、先日文通を断たれてしまった公爵令嬢、ヨミ・サーティウス・ベルリナが朝市の出店で買い物をしているのを見つけた。
「あ、ヨミ」
思わず声に出したあと、エリックは慌てて口を塞いだ。気軽に話しかけたかったが、ヨミの立場になったらどうだろう。自分が嫌っている人間から話しかけられたいと思うだろか。
ただそれと同時に、エリックの頭の中には一つの疑問がこびりついていた。
――ヨミは何故、自分との文通を絶ったのか。一体自分の何がヨミの気分を害したのか。
解決出来なかった疑問を晴らせる機会はもはや今しかない。何故なら〝庶民のエリック〟としてヨミと会う機会はこれで最後になるだろうから。
エリックが再びヨミへ声を掛けようと顔を上げると、その必要はなく、ヨミは既にエリックの声に反応し振り返っていた。否応なしにざわつく心臓を呼吸で抑えながら、エリックは至極冷静にヨミへ向き合った。
「久しぶり」
「……」
ヨミは唇をへの字に曲げそっぽを向いた。相当怒っている様子だ。しかしエリックには何故彼女が自分に対してそこまで怒っているのか分からない。
「なぁ、僕は何か君の気分を害するようなことをしただろうか」
「は?」
「考えても考えても結論が出ないんだ。教えてくれ。もう二度としないから」
「あなた、私を馬鹿にしているの?」
エリックが素直に疑問をぶつければぶつけるほどヨミの神経は逆撫でされていった。手紙を無視しておいてこのような台詞を吐けるエリックが信じられない。
「僕は真剣だ」
二人の尋常でない雰囲気を感じ取ったヨミのメイドのアナは、慌てふためきながら立ち尽くしている。
「……とても、し、失礼だわ」
「え?」
世界一の大国の皇太子として生まれてきたエリックは、生まれてこの方一度も〝失礼〟という言葉を言われたことがなかったため、ヨミの台詞を理解するまでに時間がかかった。
「私からの返事を無視しておいて、よくそのような飄々とした態度でいられますね」
「無視……?いや、僕は――」
「忙しいのかもしれませんが、だからといって連絡もせず約束を破る人は嫌です。アナ、行きますよ」
エリックがヨミの言葉へ返事するよりも早く、ヨミはアナを連れ踵を返した。ヨミの誤解は一向に晴れなかったが、エリックの方は彼女の発言で二人の間に起こった事象を完全に理解した。
そして、不謹慎にも大きく安堵したのだ。
「……逢瀬の約束、断られたわけじゃなかったのか」