13話
第二王子様の生誕祭に沸いているのは城内だけでなく城外も同様らしく、王城の外壁に沿うようにして並んだ露店の数々を眺めながら、僕はほんの数分前の自分の判断を呪っていた。お忍び用の地味なマントがドレスを綺麗に覆い、地面を擦っている。
「あの、あなた本当に王城の庭師なの?」
前を歩く得体の知れない青年へ剣呑を込めて話しかけると、青年はあっけらかんと首を振りながら「庭師ではないよ」と答えた。
「は?庭師じゃない?」
「でも王城で働いてるのは本当」
「……私、戻ります」
最悪である。僕は今までの人生それなりに警戒心を働かせて生きてきたつもりだけれど、それは本当に〝つもり〟だけで、ぬくぬくと安全な場所で暮らすうちに脳の扁桃体が機能不全になっていたのかも知れない。僕が帰宅願望を全面に出しながら王城の門を探していると、青年は相変わらず澄ました表情で振り返った。
「別に構わないけど、少し遊んでいったらいいのに。庶民の娯楽を楽しんだことは?」
「ありませんが」
「ちゃんと知っておいた方がいい。大丈夫だよ。今日はこの国の王子の祭典だから。不審な人物が城に近づかないよう相当厳重に警備が張られてる」
「私が言っているのはあなたのことですが」
「僕?」
「他に誰が」
青年は眼鏡の奥の瞳をぱちぱちと瞬かせながら、意外そうにこちらを見おろした。
「おかしいな。そう言われるのは初めてだ」
「そのバッジも、偽物のような気がしてきました」
僕が怪訝な表情で胸元のバッジを指さすと、彼は今度弾けたように笑った。
「あははっ!それは心外だな。そんなに怪しむならほら、確認していいよ。サーティウス家のご令嬢なら偽物と本物の区別くらいつくだろう」
「……」
青年は白々しく笑いながら、胸元に付けられていた白色のバッジを取り外し僕へ手渡した。〝エリック〟と刻まれた手の込んだ細工を手でなぞり、指先に触れる対象の質感を確かめる。僕はため息をついた。
本物なら本物で、それらしい振る舞いをして欲しいものである。
「これ、あなたの名前?」
「そう、僕の名前。好きなように呼んでいいよ」
「この国の皇太子様と全く同じ名前の使用人がいるだなんて、なんだか呼びづらいわ」
「どうして」
「同僚の方からは何も言われないの?」
「言われたことない」
即答で言い放つ〝エリック〟という名の青年を訝しげに見つめながら、僕はやっぱり帰ろうと思った。そわそわと落ち着きなく逃げ道を探している僕に気づいた彼は、共感出来ないといった表情で首を傾げながら踵を返す。
「まあ、無理にとは言わないよ。嫌々連れていくのは趣味じゃない。僕は古本市にでも行くかな」
「古本市?」
僕がオウム返しに呟くと、青年は眉を上げ振り返った。
「そう、古本市。掘り出し物を探そうと思って」
「どんな本が置いてあるの」
古本市というものに僕は生まれてこの方一度も行ったことがない。ただ、前世読んだことのあるコメディ小説の一つに、京都の古本市を舞台に描かれたものがあり、僕はその物語を読んで以降ずっと〝古本市〟という言葉の響に憧れを抱いていた。
少年は意外そうに口を開いた。
「読書が好きなのかい?」
「まあ、ほどほどには」
「公爵令嬢の好むような本はあまり置いていないと思うよ。古い小説ばかりだ。それも夢想的なね」
〝古い小説〟という言葉の、なんと魅力的なことだろう。昔の小説の方が今のものよりも僕はずっと好きなのである。僕と全く異なる価値観を持った人が描く未曾有の空間が古典小説だ。分かりやすい例でいうと、僕は前世西遊記を心から愛していた。
「古い書物にこそ、教養というものが詰まっているのです。一見は娯楽に偏った非実用的なものに思われるかも知れませんが、作者の生きた時代背景や流行の思想などを念頭に入れながら物語を読み進めると、下手な教養書以上に当時の情勢を感じることが出来ます」
エリックという青年はどうやら小説に対してそれほど感心を持っておらず、それどころか物語を妄想の産物としてやや卑下しているような節さえ感じられた。僕は彼の態度へ若干苛立ちながらも、彼の目的地が古本市からブレないようなんとか小説の魅力を伝えようとした。
すると、青年は可笑しそうに吹き出しながら僕の熱弁を受け流した。
「君珍しいな。本なんてものが好きなのか」
「あなたは好きじゃないの?」
「全く。紙にインクを垂らしただけだ」
「なら、どうして古本市に行こうとするの」
僕が詰問すると、青年は少し悩んだ後おもむろに開口した。
「んー、僕の好みというよりは、家族が好きなんだよ。プレゼントしようと思って」
「プレゼント……?」
「大事な家族が、今日誕生日なんだ」
結局、僕達は2人揃って古本市へ赴くことになった。
先程の帰宅願望はなんだったのかと言うほど素早い速度で歩く僕に、青年は呆れ半分の笑いを零した。
普段の僕であれば対外的な印象を気にして自信の発言を操作していたが、庶民の彼に何を思われたところでどうだって良い。
もしかしたらこのエリックという青年が僕に対して悪い噂を吹聴するかもしれないが、結局貴族は発言力のある人間の言葉しか聞き入れないし、そもそもこの状況、もし誰かに発見されたところで最終的に罰を受けるのは僕でなく彼の方なのだから。
例えが正しいかどうかは分からないが、日本で言う道路交通法の構図に等しい。車と人間が路上で接触した時、飛び出してきたのが人間側であったとしても厳罰を受けるのは車両の持ち主だ。貴族と平民の間にはそれにほとんど近い理不尽で分厚い透明の壁がある。
「どうしてそんなに早足なんだい?」
「葛藤してるんです」
「なんの」
「貴方を疑う心と、古本市で買い物をしてみたいという欲求とで心が割れてるの」
「正直なんだな」
「悩ましい心でいるうちは、自然と足が早まるものなんですよ。古本市が見えてきたらこの焦りも落ち着くかと」
「はははっ」
「何がおかしいの?」
「いや……クククッ、他人から見た人の印象って、案外あてにならないものなんだなって。君へ抱いていた勝手な印象を払拭するよ」
「会ったこともないあなたが私にどんな印象を抱いていたというんです。そもそも、私の名前も知らないでしょう」
青年は無愛想に言い放つ僕をゆっくり検分したあと、思い立ったよう僕の手を取り人波の奥を指さした。
「着いたよ。ここが古本市だ」
トーマス・マン、スタンダール、ヘルマン・ヘッセ、バルザック、シェイクスピアにゴーチェ。名だたる文豪を彷彿とさせる古典文学達が、雪崩を起こさんばかりに堆く積み上げられている。
特に僕の目を引いたのは〝下克上〟というタイトルの文学小説である。生まれに恵まれなかった不遇な主人公が、度重なる幸運に助けられわらしべ長者のごとく成り上がってゆく成功物語、らしい。あらすじに目を通しただけで、既に僕はこの物語に心惹かれていた。
ファンタジー小説ももちろん好きだけれど、古典文学の良さは執拗に掘り下げられた心理描写とその陰湿さにある。
ざっくり確認しただけでも、この本は正にその典型だ。
――でも、まだ三店舗目。
ちらりと周囲を見渡せば、大きな書店の陳列と相違ない大量の書物が目に入る。
王子の生誕祭を抜け出し本を買ったことがバレては不味いので、せっかく古本市に来たのに購入出来る冊数が限られていることが残念だ。
『下克上』を手に持ったまま他のめぼしい本を探していると、僕はとある失態に気がついた。
――お金がない。
買い物をするとなれば基本使用人が支払いを行ってくれるため、僕はこの世界に生まれて以降一度も財布を持ち歩いたことがなかった。当たり前のように手ぶらな自分を心の中で強く叱咤しながら、僕はドレスの装飾をマントの上からもぞもぞと漁り、紙幣の代わりになりそうな金目のものを探した。
無様である。
露店の前で不自然に身を揺らす僕に気づいたらしい青年は、笑いながら『下克上』を僕の手の中から滑り取った。
「これが欲しいの?」
「……いえ」
「何、他にも気になる本がある?」
僕は首を振り、本を両手で取り返した。
「いいえ」
他人に借りをつくることは絶対に嫌なので、当然のようこの青年にお金を立て替えて貰うという選択肢は僕にはない。そもそもまた会うという保証もどこにもないのだから。僕は『下克上』を元あった場所に戻しながら、青年に背中を向け「他の露店も見てみます」といい距離を置いた。
「どうぞ」と言ってエリックという青年から下克上の本を押し付けられたのは、僕が放心状態になって露店の間をさまよいはじめ数分経った頃である。
青年はさも当然のように本を僕へ手渡し、一言不思議そうに「貴族令嬢が手に取る本にしては政治的だ」と言い添えた。僕は受け取った本を慌てて青年へつき返した。
「買って欲しいだなんて頼んでいません。どうして勝手なことを……。戻してきます」
僕が踵を返し最初の露店へ戻ろうとすると、青年は反射的に僕の手首を掴み引き戻した。
「どうして?素直に受け取れば良いだけじゃないか」
青年の言葉に僕は反発した。
「先ほど申し上げたように、私は今この本の対価になるようなものを持ち合わせていないの」
「対価なんて要らない、強いて言うなら、〝ありがとう〟の一言くらいだ」
「言葉なんて実物の対価にはなりません」
「僕はそれで十分」
きょとんとして首を傾げる青年に苛立ちを覚えながら、僕は地面へと目を逸らした。
「感謝くらいで物が手に入るのなら、お金なんてこの世に不要だわ」
「極端だし……いやに不器用だな。別に君からの感謝が欲しいわけではないが、良い言葉は時として物の価値を凌駕するよ。誰かに喜んで貰えたら嬉しい。そのために何かを与える。単純で十分な対価だと僕は思ってる」
「それはぬるま湯で育ったあなたの思想。私はそうは思わない。本は返してきます」
「古本市は返品不可だ」
「……」
僕の理論をそれなりに慮ろうとしてくれるフェルドと違い、青年はその点頑なだった。彼の年齢も育ちも分からないが、随分優しい人に囲まれて育った人らしい。
タダほど高い物は無い。
感謝なんてものの価値を鵜呑みにして無防備に施しを受けて、そんな間抜けなことがあるだろうか。彼だって、表面ではこんな綺麗事を言っていても、心の奥底では必ず見返りを求めている。人間の行動の源はお金を軸にした損得感情なんだから。
「では、これを受け取ってください」
「ん?」
僕はマントの下に手を入れ、自身の胸元に付けられた銀のブローチを取り外した。百合の花の紋様を縁取るように埋め込まれたダイヤモンドの宝石の粒が、黄昏の僅かな光を受け透き通るように反射する。
青年は、今の状況を嘲るよう美しく輝くダイヤモンドをしばらく眺めたあと、静かに口を開いた。
「……これは君の家の教え?」
「いいえ、私の経験から得た学びです。家習とは関係ありません。人から一方的に恩を受けることをしたくないの」
「それは不可能だ」
青年は呆れたように眉を顰め言った。
「人からなんの恩も受けずに生きることは出来ない。そのブローチだって、まるで我が物顔で取り出しているけれど、君の先祖が築き上げた財産の賜物だ。君の力ではない。気持ちはありがたいが仕舞ってくれ」
僕は顔を赤くして俯いた。青年の言うことは当たっている。誰からの恩も受けないと言いながら、僕が彼に渡そうとしているこのブローチさえ、サーティウス家の令嬢であるがゆえに授かった恩寵だ。僕の台詞にはどうしようもない矛盾があった。
「それでも私は、人から物を無償で受け取るのは……」
「君からの見返りはもう受けている。一人でくる予定だった古本市にこうして誰かとくることができた。君との会話は楽しい」
青年は僕の手の上で煌々とくブローチを大きな掌で覆い隠しながら、「往来では出さない方がいい」と囁いた。僕は彼の真剣な圧にやや気圧され、おろおろしながら宝石をマントの中へ仕舞った。
「初めて会った僕がこんな風に言うのも野暮だと思うが、もう少し肩の力を抜いて生きていいと思うよ。世界はそんなに怖い場所じゃない」
「……あなたが怖い目にあったことがないからでは?人の悪意に触れたことなんてないでしょう」
やつあたりに近いような口調で吐き捨てると、青年は弾けたように笑い「そう見えるかな」と言った。
「君って難しいんだな。結局今日一日一度も笑顔を見られなかった。物欲しそうに見ていた本をプレゼントすれば喜ぶかと思ったが、気に障ってしまったようだし……。僕の弟に少しにている」
「……ごめんなさい」
僕は唇を引き結んで頭を下げた。
「あなたからの善意が嫌だったわけじゃないの」
ただ、僕にそれを受け取る器がなかっただけ。
そう言いかけて口を閉ざすと、困ったように眉を下げる僕に気づいた青年が口を開いた。
「エリックでいい」
「え?」
「僕の名前」
「……」
「君のことはなんて呼べばいい?」
僕は観念して目を閉じた。この青年はこんなよれた身なりをしているが、恐らく身分はそれほど悪くない。王城に勤めているというが、学者の家系か何かだろうか。僕は彼の身分を貴族に近い中流階級の者だと予測した。ということは、僕がサーティウス家の令嬢であることも、恐らく最初から気づかれている。
「……ヨミと呼んでいただければ」
俯き加減に口を開くと、エリックは満足げに笑った。
どうして彼がこんなに楽観的で飄々としているのか僕にはまるで分からない。分からないなりに、彼の平和的な思想を心のどこかで羨ましく感じていた。きっと何の苦労もしがらみも感じずに育ってきたのだろう。金銭に対する執着のなさが彼の育ちを表していると思った。普通の庶民であれば、あのブローチは喉から手が出るほど欲しいだろう。
「友達になろう、ヨミ。君さえ良ければまた会いたい」
「あなた、変わってる」
青年は面白可笑しそうに笑った。
「よろしく」