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10話

多分5年振りくらいの更新です。よろしくお願いします。





本当に肝心な時、まともに言葉を発せない自分が嫌いだった。

フェルドが何も言わず僕の傍に近寄るのを、心からどうでもいいような目で追いかける。「コーヒーは結構です」とややぞんざいに言ってのけると、フェルドは「そうですか」と呆気なく引き下がり、近くのテーブルの上に二人分のカップを置いた。

フェルドはそこから何も話さなかった。僕も話す気にはなれなくて、寄る辺なく彼から視線をすと、再び暗く荒れた山の空を観察した。

雷雨というのは本当に、久しぶりに見る。僕達の生まれ育ったルミサナ地方は比較的天候が穏やかで、雨は降るけれど雷を伴うことは滅多にない。アッシュラウ峠の標高はそれほど高くないが、周辺の土地の関係上気候が荒れやすいのだ。僕は天気学者でないのでこの類の知識には疎いのだけれど、小説に書いていたので知っている。

怒ったように唸る空が、時折思い出したよう金色に明滅し、重たい雷を落とす。僕は今安全な場所からそれを眺めていて、窓の外に見られる避雷針が心を落ち着かせた。

「これ」

全くの無意識のうちに僕は言葉を発していた。

僕の隣で同じように雷を眺めていたフェルドが、意外そうにこちらへ目を向ける。僕は膝の上に置いていた件の小説―『蒼弓の星』の分厚い装丁に両手を添え、箔の施されたタイトルを親指でなぞった。

「私のお気に入りの本なんです。実は、今回の旅行にアッシュラウ峠を選んだのはこの小説が理由で、私が一番好きなシーンの舞台になっている場所だから」

「……」

「主人公の過ごした場所で、主人公の行動を追って、そうしたら小説の中の彼と全く同じ感情を自分も共有できるはずだと信じていたけれど、そう都合よくはいきませんね」

フェルドは黙って僕の話を聞いていた。聞く、というよりは返す言葉が分からなかったというのが正しいのだろう。しかしその時の僕は彼のそんな細かな機微に意識を向ける余裕も無く、まるで壊れたからくり人形のよう、胸にたまったどうしようもない感情を全て言葉として吐き出していった。間違いなくこの瞬間は僕の今まで生きてきた人生の中で最も饒舌で、独り善がりな時間だった。

僕はフェルドに対して『蒼弓の星』のあらすじを滔々と語った。あまりにも僕が一生懸命に話すので、フェルドは最初こそ意外そうに目を瞬かせていたが、だんだんと驚きの表情もほどけ、最後の方は半分困ったような顔で笑っていた。彼は元来常時顔に笑顔の張り付いている人物だったけれど、その時の笑い方は通常のものと随分違い自然に見えたので、フェルドが小説に興味を持ってくれているのだと勘違いした僕はいよいよ止まらなくなった。

「私の一番好きなシーンは、主人公がこの峠を旅立つ前夜に行われた曇り空での天体観測なんです」

「曇り空?」

僕はこくこくと頷いた。

「故郷での修行を終えた主人公が冒険に立つための準備を進めていると、彼の師匠が家の扉を叩き、夜の峠へ連れ出すんです。不思議に思いつつ師の後に続くと、山の頂上に辿り着いたところで師匠は傍の切り株に腰をかけ、『今日は天気がいいから天体観測だ』って。師匠の言葉を変に思った主人公が『天体観測なんていって、この曇り空じゃ星なんて一つも見えませんよ』と返すのですが、師匠は穏やかな表情で『これでいいんだ。これ以上綺麗な空は無いんだ』と笑うんです」

フェルドの衣服の擦れる音がした。僕はそれに反応せず、雷雨の空を見つめながら言葉を続けた。

「〝想像力を働かせるんだ、アラン。想像力は全ての体験を凌駕する。過酷な旅路の中、君のもっとも美しいと思う星空をどこにでも描けるようになった時、君はその事実の偉大さを知るだろう〟」

僕はこの台詞がたまらなく好きだった。何も目に入らない真っ黒なキャンパスの中に、主人公のアランは満天の星を探した。けれどその時は結局何も見えなくて、無辺際に広がる夜空をただ眺めるだけに終わるのだ。間断ない試練の数々を乗り越えた彼は、物語の終章でこの師匠の言葉を思い出す。遠い土地、何の変哲もない曇り空の上に、彼は故郷の美しい星空を見つけるのだ。〝想像力は全ての体験を凌駕する〟。その瞬間から、彼は目を瞑るだけでどの世界にも冒険することが出来るようになった。

このシーンについて、とある評論家は「現実の意味を否定する描写だ」と厳しい提言をしていたけれど、僕はそうは思わなかった。だって、僕はずっと現実を否定したかったから。現実という強烈な感覚さえ凌駕する想像力というものが本当に存在するのならば、そんなことが本当に可能であるのならば、僕はいつまでも目を瞑って素晴らしい空想だけに浸ってしまいたかった。けれど。

「……雷雨を前に、雷雨のことしか考えられない私は、小説の主人公になんてなれない。黒い雨雲が光ると、私の想像力は消えるんです」

フェルドがこちらを見た。それに反応して見つめ返すと、彼は読み取れない表情で口を開いた。

「君の心に触れるのは、ロマンスではなく冒険譚なのですね」

「……」

フェルドの声がやけに鮮明に僕の耳に届いた。

「滞在の時間を延ばしましょう」

「え」

「僕は君とこの土地で、曇り空の天体観測をしてみたい」

「いいのですか?」

「ええ」

「あ、ありがとう、ございます」

雨脚が強くなった。空が光り、重々しい轟が大気を揺らす。

けれど怖くはなかった。むしろ不思議に清々しい感慨で、間断なく窓を叩き続ける雨滴の一粒一粒を観察するうちに、いつの間にか別の世界で失われた一人の少年の人生さえも記憶から薄れていった。

「ありがとう。フェルド」

僕がもう一度そう言った時、フェルドは返事をしなかった。代わりに唇の端をぎゅっと強く引き結び、僕の左手の甲へ自分の右掌を重ねた。薄い手袋越しに感じられるフェルドの体温が、じんわりと皮膚へ浸透していく感覚が不思議だった。


……そこから先僕達は、メイドのアナが入室してくるまで一度も口を開かなかった。

それはあまりにも長く静かで、穏やかな時間だった。





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