1話 幸せとは何たるか
1話 幸せとは何たるか
愛は幻想だ。
種の存続のため人類の誕生と共に備え付けられた生理的欲求を盲目的に追い続けた祖先達が、その動物的な本能に無理やり名称を当て嵌めた、それが"愛"である。
言葉を変えてもう一度言おう。
この世の中で美しく讃えられている"愛"という言葉の伴う全ての事象は、人類の遺伝子に組み込まれた仕組みの延長の産物に過ぎず、そこに本人の意向は反映されていない。
家族愛、友愛、恋愛含む全ての愛を信じる憐れな諸君に告ぐ。
愛の中に君達の自由意志は存在しない。
君達が自分自身の意思によってその感情を抱いているのではなく、脳の伝達信号によりそう勘違いさせられているだけなのだ。
愛は幻想。
そう、幻想である。
――なので。
僕が一時的にでも彼に抱いたあの不明瞭な感情もまた、幻想であるべきなのである。
❋❋❋❋❋❋❋❋❋
彼女の人生における最も大きな不幸は2つ。
1つは、公爵令嬢として女の幸せを追い求め励んでいた矢先に「男」であった前世の記憶を思い出してしまったこと。
もう1つは、自身が前世読んでいた御伽噺の登場人物の一人――よりにもよって悪役令嬢ヨミ・サーティウス・ベルリナに転生していたことである。
その中で唯一幸いだったのは、それらの事実を思い出すタイミングが手遅れになる時期より幾分か早かったことだ。
ヨミが自分の前世を思い出したのは本当についさっき。あまりにも唐突に、何の前触れもなく記憶が脳内を駆け巡ったためきっかけを話すにも難しいのだが、要約すると昨日の晩御飯を思い出そうとしたついでに前世の記憶も思い出した。齢にして十の春、それは彼女が公爵家の長男フェルド・スレイマン・ディークと婚約を交わした翌日のことであった。
思い出すと同時に彼女は失望した。
その現実にではなく自分自身にである。
何故今までこんなにも大事なことを思い出さなかったのかと。何の了見でアナなにも愚かな思考回路を持ち合わせていたのかと。
彼女の前世は17歳で他界した日本人の少年。
本を読むことで人生の欠陥を補ってきた物語好きの男子だった。息をするように文字を追いかけ、その中に描かれた理想的な空間に胸を踊らせる毎日を送っていたのだが、ある日住んでいたアパートの火災に巻き込まれ死亡した。
世に未練は無かった。
ただ出来るならば、来世は自分の妨げになる人間の存在しない充実した人生に、それが不可能であるならばせめて、全てを淘汰する圧倒的強者になりたいと、そう願った。
だからこそ己に心底呆れたのだ。
ヨミはフェルドに対して熱烈な恋愛感情を抱いていた。春夏秋冬朝昼晩非常に激しい求愛を繰り返し、周囲の者が呆れるほどの執着を見せていた。しかしフェルドにはいつまで経っても見向きもされず、痺れを切らせたヨミは最後当たり屋に近い手法を用い強制的に婚約関係を結ばせたのだ。目を凝らさなければ分からないような小さなかすり傷を大袈裟に両手で抑え唸り声をあげる彼女を見て、こんなにも強欲な公爵令嬢がこの世に存在したのかと誰もが驚いた。
それ以上に驚愕だったのは、フェルドが彼女の理不尽な要望を受け入れた事実であった。
公爵令嬢ヨミの性格は当時既に世間には知れ渡っており、取り柄といえば身の丈に合わない権力と人間離れした美しい容姿だけであると誰もが思っていた。
既に地位も名誉も持ち合わせているスレイマン家の長男が彼女との婚約を結ぶなどとは予想打にしていなかったのだ。
ヨミはフェルドが好きだった。本当に、大好きだった。フェルドはヨミのことを好きではなかったが、嫌いでもなかった。それは彼女に限った話ではなくもっと根本的な部分の問題で、彼はそもそも他人に興味が無かった。
毎日尽きることなく持ち掛けられる縁談の数々にうんざりしていた彼は、爵位も高く歴史のあるサーティウス家からの縁談を受けることにしたのだ。
――家柄も申し分ない。性格に難はあるがもう少し歳を重ねれば自然と落ち着いてくるはずだ。適当に逢瀬の機会を設ければ単純なあの令嬢は満足するだろうし、立ち回りによっては彼女の好意も利用出来る。
お互いに利点しかない縁談であることは、誰もが認める事実であった。
******
――どうしたものか。
縁談成立の翌日、ピアノのお稽古を終えたヨミ・サーティウス・ベルリナは窓際で頭を抱え考え込んでいた。
――よりにもよって女性、しかも僕が一番嫌いだった登場人物に転生するなんて。有り得ない。これは何かの間違いだ。悪夢だってもっとマシな内容だぞ。
ヨミ・サーティウス・ベルリナは僕が前世読んでいた少女向けフアナタジー小説の悪役令嬢だ。
そう、悪役の令嬢。悪役。悪である。
前世の僕はヨミの横柄な態度への不快感に耐えられず本を途中で投げ出したほど、ヒロインの幸せを阻害するこのキャラクターが大嫌いだった。
愚直で打算的で狡猾で自己中心的で、読者にとっては兎にも角にも不愉快な人物。それがヨミ・サーティウス・ベルリナ・であり、僕だ。
――最悪。
どうしてこの僕がこんな目に合わなければならないのだろう。転生するにしてももっと他の登場人物であるべきだった。ヨミは論外。物語の最後どころか途中でヒロインに楯突いた報いを受け投獄される、作中屈指の噛ませ犬だ。ナルシストだしお金とフェルドにしか興味無いし他人のことを常に見下しているし、ともかくクズ人間の定義をランダムで掻き集めて無理やり繋ぎ合わせたような酷い人物設定だ。
何が悲しくてこんな境遇に立たされなければならないのか、わけが分からなかった。
「どうせ女性に転生するならシノアに生まれたかった」
切実な感想だった。
僕に女体化願望は微塵も無いが、どうせならヒロインに生まれたかった。
ヨミなんて脇役、ただの引き立て役じゃないか。
――ここで作品を大まかに説明しよう。
物語のヒロインであるシノア・リアナーゼはごく普通の平民の娘であったが、両親を不幸な事故で亡くしてしまい、身寄りの無くなった所を生前関わりのあった準貴族のリアナーゼ家に養子として迎え入れられた。リアナーゼ家は爵位の中では最も低い身分の準男爵の位であったため生活はそれほど豪勢なものではなかったが、特に不自由なく育つことが出来た。
引き取ってくれた夫妻は心からシノアを愛し、彼等の愛情を一心に受けたシノアは誰よりも心優しく、感情豊かな少女に育った。純白の心を持ったシノアは町中の人からも好かれ充実した日々を送っていたのだが、王国の貴族には十五歳になると王都にあるロズウェル学園へ通わなければならない義務があったため、泣く泣く町を旅立つことになる。
そこから先はお察しの通り。入学初日に運命的な出会いを果たした最終的な彼女の結婚相手がフェルドで、その恋敵として陰湿な妨げをしてくるのがフェルドの婚約者ヨミこと僕である。フェルドは会って間もなく美しく気丈な心を持ったシノアに興味を持つ。それに嫉妬したヨミは稚拙で卑怯な手管で彼女を虐めるのだが、シノアは誰に縋ることもなく、聡明かつ健気に嫌がらせへ立ち向かう。その純真な姿勢に心打たれたフェルドはシノアへの恋心に気づき、彼女との一生を誓うことにしたのだ。もちろん悪業が露呈したヨミは最後、投獄されると共に全ての権力を剥奪された。
よくある王道なロマンス小説。
だからこそヒロインの幸せは約束されていて、心美しい者は遍く報われて、夢のような世界に没入出来た。
読む側は。
僕は出る側だし報われない側なので、悪夢だし地獄である。
――本当に、どうしたものか。
このまま順当に物語が進めばヨミは檻の中にぶち込まれる。記憶が戻ったからにはまずその最悪の結末を阻止するために尽力するべきだ。目標達成に向けてすべき最善の策は、物語の最後ヨミを断罪するフェルド達との接触を避けることなのだが――
そう易々とスレイマン家との婚約関係は解消するわけにはいかない。
正確にはしたくない。
スレイマン家とサーティウス家は公爵家の中でも特に歴史のある名家で、多数の貴族と交流を結んでいる。サーティウス家長女である僕とスレイマン家長男のフェルドが婚姻関係を結べば、ほぼ間違いなく大公の階級に昇進し莫大な富と権力が得られるだろう。
大公の地位に就けばその奥方も王城への自由な出入りが許される。王家の血筋でない僕が、王族と貴族の階級が完全に区分されているこの世界で手に入れることが出来る最上級のステータスである。
是が非でも手に入れたい。
一度巨大な権力さえ手に入れることが出来れば安定した生活と膨大な財――つまりは最上級の幸せが確約されるのだ。
公爵家の中で最も大公の位に近いスレイマン家の人間との結婚は絶対だ。フェルドとの縁談を今更覆す気など更々ない。ならばどうするか。
真っ先に思い浮かぶ方法としては、シノアとフェルドの出会いを阻止し、あの物語のシナリオを全て無かったことにするというものがある。僕が彼女達との接触を避けるのではなく、そもそもフェルドとシノアを接触させなければ良いのだ。
ストーリーを捻じ曲げることにはなるが時系列的には可能性があるし、今世での幸せの妨げになる者は早急に排除したい。
出来れば学園に入学させたくないのだが、それが中々難しかったりする。
確か、シノアがリアナーゼ家に引き取れたのは齢七つの時。既に三年前準貴族階級に仲間入りしている。彼女の両親の事故を強制的に防ぎ養子になる下りを丸々無かったことにする作戦が最も平和で効果的だったのであろうが、その選択肢は既に閉ざされてしまっていた。
また、いくら公爵令嬢といえども、齢十の、しかも女の性に生まれたヨミの力では出来ることなど限られている。
リアナーゼ家の主人の勤務地域を国外に移させ物理的距離を置くことも、他国から引き抜いて貰い国籍ごと変更させることも、酷ではあるが爵位を剥奪することもリアナーゼ家とは何の縁もない僕には不可能だ。どうしても行動に不自然が生じてしまう。
現時点、シノアをどうにかするのは無理だ。強引にに頭を悩ませて時間を浪費するのはやめよう。
どうにかするべきはシノアではなく、フェルドの方だ。
彼とヨミとの関係性を学園入学までに極力改善させる。フェルドのヨミに対する無関心はそのままであったとしても、婚姻を結ぶに至るスレイマン家側のメリットを実感させればより肯定的な婚約にはなるだろう。
また、そのうえで僕が最も安全かつ平和的に危険を回避できる方法が一つある。
単純に、シノアに危害を加えなければいいのだ。浅はかな虐めさえしなければ僕が何をしようと表立って糾弾されることはないだろう。法に触れなければ投獄される心配もない。
僕にはこのシナリオに自信があった。その根拠は、記憶を取り戻したことにより芋づる式に戻ってきた『理性』にある。
幸い、今の僕はヨミでありヨミではない。
記憶が戻る前フェルドに抱いていたあの形容し難い熱烈な感情も、前世を思い出すと同時に冷め切った。生憎、僕に同性を愛する趣味は無いのだ。
物語の中のヨミは最後嫉妬に狂って思考を掻き乱し、非常に原始的な方法でルシアを陥れようとしていたが僕は間違いなくそうならない。
そもそも嫉妬に狂わない。
〝悪いことをしない〟というのは当然として、同時に現在世間に広まっているであろう僕の悪評も払拭していきたい。
スレイマン家の親族はもちろん、それ以外の貴族階級の者達が抱いているヨミへのマイナスイメージを覆しておけば、もしもフェルドとシノアが恋に落ちるという最悪の展開が訪れたとしてもそうすんなりと事は運ばないはずだ。何か事態が発生した際、最終的に一番厄介になるのは問題そのものではなく風評被害である。
『私は何も悪いことはしていません。むしろこんなに素晴らしい行いをしています。倫理観のない女に婚約者を奪われた被害者です』。この論調を徹底したうえで誰からも後ろ指を指されずに済む土台を作っておきたいのだ。これはどのトラブルにも共通する事項だが、結局、最大の事後対応は事前対策なのである。
・・・大丈夫。僕は必ず幸福を手に入れる。
前世の記憶を思い出して最初の休憩時間での出来事だった。
――次は確か語学の時間だったな。
本棚から必要教材を取り出し机の上に並べると、もう時期この部屋に訪れるであろう家庭教師を待った。焦ってはいけない。全て裏目に出る。人間関係の構築に惜しみなく時間を注いでいくのだ。
ざっくりと前回教わったページの復習をしていると、自室のドアがノックされた。
予定よりもやや早い時間である
「どうぞ」
「失礼致します」
首を傾げながら扉を開けると、入ってきたのはメイドだった。
メイドのアナ。僕の身の回りのお世話をしてくれている若い女性だ。
艶やかな赤い髪と頬に薄ら浮かぶそばかすが印象深い。引っ込み思案な性格なのかいつも自信なさげな表情で俯いているのが少々気になるが、それ以外は非常に優秀で僕も特に支障もなく毎日を過ごすことが出来ている。
――彼女との距離も縮めないとな。
このメイドは、物語の作中・・・ヨミにとっての物語の終了なのだが、聖女シノアを守るため主のヨミの悪行を告発したサーティウス家の使用人の一人だ。
僕は無理矢理に笑みを作り、「どういたしましたか」と尋ねた。
アナは形の良い唇を開いた。
「よ、ヨミ様。フェルド様がお見えになられました」
「・・・フェルド様が?」
昨日婚約してからの今日、そしてさっき記憶を思い出してからの、今である。