第七章 ミノタウロスと不幸少女
*
「ほんだらばー!」
奇妙な掛け声とともに、勢いよく少年の腕が地面に生える。もとい、瓦礫の下から飛び出した。
生えてきた腕はしばらくなにかを求めるように中空をさまよった後、掌を瓦礫に引っ掛ける。
「ぬがー!」
直後、腕に引っ張られるようにして、瓦礫の下から一人の少年が姿を現す。
黒髪に目つきの悪い金眼の少年。穂群智貴だ。
地上に出てきた智貴は頭についていた砂埃を振って落とすと、自分が出てきた穴の中に手を伸ばす。そしてそんな智貴に引っ張られて一人の少女が姿を現した。
長い金髪に黒いヘッドホンの美少女。神宮喜咲である。
智貴の手を握る逆の手には、一本の巨大な槍が握られていた。
その槍こそ、地下の崩落に巻き込まれた二人を守った命の恩人ならぬ、命の恩武器。突き刺す守りである。
この槍のバリヤーで、降り注ぐ瓦礫から身を守ってくれたのだ。そして崩落が収まってからバリヤーを解き、なんとか瓦礫をどかして地上に出てきた――と言うのが、事の次第。
「……ったく、誰かさんのせいでひどい目に遭ったぞ」
地下から引き揚げた喜咲に、智貴はうんざりとした表情でそう告げる。言われた喜咲は憮然とした顔だ。
「なによ。崩落に巻き込まれたのは、私のせいだって言いたいの? 崩落はむしろアナタのせいじゃない」
「むぐ……」
確かに、全て喜咲のせいと言うのは少々言いすぎだったかもしれない。
そもそもの事の発端は、確かに喜咲がゴブリンの巣を強襲したことだが、崩落を招いたのは、ゴブリンに追い詰められたのを打開しようとした智貴の考えが原因だ。
むしろ、突き刺す守りを使って助けてくれたことを考えれば、プラマイゼロと考えてもいいだろう。
いや、多少はプラスに偏るかもしれない。業腹だが。
「悪かったよ。この結果はお前のせいって言うよりは、俺とお前のせいって言うべきだな」
「わかればいいわ。今回は特別に許してあげる」
何故か上から目線で言われ、智貴は喜咲に半眼を向ける。
まさか自分にはなんの責任もないと思っているのではないだろうか。
意図的に白を切っているのでなければ、事の発端が自分にある事を忘れているのかもしれない。
普通ならないと思える可能性だが、喜咲のポンコツっぷりを考えるとないと言い切れないのが怖いところである。
智貴はなんとも言えない表情でため息をついた。
「……まあいいや。で、これからどうする? まだ探し物を続けるのか?」
「そうね。続ける……って言いたいところだけど、流石に消耗が激しいわ。魔晶カートリッジももうないし、今日のところは引き返しましょう」
脳筋の割に現状判断をする能力は生きているらしい。
失礼なことを考えながら、智貴は自分と同じ判断結果に安堵する。そんな智貴の横で喜咲は手に持っていた槍を弄り出す。
バシュッと音がして、穂先の根元についていた魔晶カートリッジ――おそらく全部空だ――が三つ外れる。
そして地面の上に落ちたそれらを拾うと、腰に付けていた専用ポーチにしまった。
「ん? それ、空だろ。持ち帰るのか?」
「ええ。カートリッジ自体は使いまわしができるから。持って帰ればそれだけ安く済むわ」
「せせこましいねぇ……」
「持って帰ればその分、他の人間が使う魔晶カートリッジの余裕ができるでしょう。皆が皆カートリッジを死都に廃棄して行ったら、次に使う分が足りなくなるの」
実感のこもった言い方は、ひょっとしたらカートリッジが学園からなくなったことがあったのかもしれない。
「魔晶カートリッジが足りないと、普段から雑魚を蹴散らすことができないから面倒なのよ」
「最終的にはやっぱそれなのか……脳筋め」
普通に戦わないという選択肢は彼女にはないのだろうか?
いや、見つけた敵全てを滅殺しているわけではないので、戦わないこともできるのだろうけれど。
とにかくカートリッジをしまって、喜咲の方も帰り支度は済んだらしい。
いざ学園に帰ろうと、智貴たちは並んで歩きだそうとして、
「――待って」
急に剣呑な表情で足を止めた喜咲に、智貴は眉根を寄せる。
「一体どうし――――」
「ちょっと黙って」
睨むように言われて、仕方なく口を噤む。
喜咲はそんな智貴を気にすることなく、なにかを探すように周りを見渡す。一体なにを探しているのだろうか?
「……聞こえる」
「あん?」
「誰かが、助けを求めてる」
呟いて、喜咲が急に走り出す。
「ちょ!? 帰るんじゃなかったのかよ!」
智貴が叫ぶが、喜咲は走る足を止める気配はない。
嫌な予感がする。このまま放っておいたら喜咲がまた無茶をするような、そんな予感。
確証はない。しかし確信にも近い思いはあった。
「だぁぁぁぁぁ! 待て、一人で行くんじゃねえ!」
そんな彼女を放っておけるわけがない。
智貴は乱雑に頭をかいてから、喜咲を追いかけて走り始めた。
*
智貴が駆けつけた場所は死都の一角。入り組んだ路地裏の、薄汚れた袋小路。そこで見たものは、凶悪な悪魔の姿と、それに襲われそうになっているか弱い一人の少女だった。
二メートルを超える赤みがかった巨体に、牛の頭を持つ巨人。いわゆるミノタウロスだ。それが智貴たちと同じ制服で身を包んだ少女を壁際に追い詰めている。
少女は左の二の腕を怪我しているようで、右手で肩口を掴み、肘から下が紅に染まっていた。そしてその顔は悪魔を見つめて恐怖に歪んでいる。
少し離れた所には壊れた拳銃――無尽の弾丸と魔晶カートリッジが転がっている。おそらく、空になったカートリッジを入れ替えようとして、その隙を突かれたのだろう。つまり、今あの少女は丸腰なのだ。
どうやら喜咲の言葉は事実だったらしい。疑っていたわけではないが、半信半疑な気持ちはあった。だが見直して感心している暇はない。
代わりに思うのは、助けなければという思考。しかし次の瞬間、どうやってという疑問が頭をよぎる。
ミノタウロスは既に腕を振りかぶっている。どう考えても智貴たちが少女を助けるより、ミノタウロスが少女に手を下す方が早い。
つまり間に合わない。
そんな諦めに思考を支配されかける智貴だったが、
「――私があの悪魔を壁に縫い付けるわ。穂群は数秒、悪魔の動きを封じて」
「え?」
喜咲の指示に智貴は思わずその顔を見る。しかし喜咲はもうそれ以上なにも言わない。
そんな悠長なことをしている場合ではないから。だから喜咲は解き放たれた矢のような勢いで、悪魔に向かって突っ込んで行った。
「アァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!」
その細い喉から想像できないような、大きな雄叫びを喜咲が上げる。そしてそれに気付いたミノタウロスが少女を攻撃しようとしていた動きを止めて喜咲を見た。しかしわずかに遅い。
ミノタウロスがなんらかのアクションを起こすより早く、喜咲が握っていた槍の突撃が悪魔を捉える。
槍の穂先はミノタウロスの右胸部を貫通。そのまま背後の壁まで串刺しにして、ピン止めされた標本の昆虫の様にその身を壁に縫い留めた。
だがその程度で悪魔は止まらない。
胸を貫通こそしているが、致命傷には程遠い。
その証拠にミノタウロスは痛みに雄たけびを上げながらも、槍を引き抜こうと腕を伸ばす。
「穂群!」
「ああ、クソ!」
名前を呼ばれて、今度は智貴がアクションを起こす。いや、喜咲が走り出した次の瞬間から智貴は走り出していた。
正直、智貴の方はなんの準備も気構えもできていない。そんな状態で喜咲の無鉄砲に付き合うのは御免被りたいところである。
だがそんなことも言っていられない。
今、なにもしなければ最悪、少女とそして喜咲までその命を失う危険性がある。それはとても見過ごせるものではないのだ。
だから智貴は地面を蹴りつけ、ミノタウロスの膝に乗る。そして槍に伸ばされた左手に全身で絡みつく。
それは昔、智貴が妹に受けた柔道技。
「喰らいやがれ、飛びつき腕ひしぎ逆十字固め!」
全身を使って、智貴はミノタウロスの左腕を折ろうと力を込める。
ミノタウロスの腕が限界まで引き伸ばされる。その引き伸ばされる力が、関節の限界を越えれば、もうその腕は使えなくなる。智貴はそれを狙ってさらなる負荷を腕にかけるが――しかし腕は折れなかった。
理由は単純。腕を折ろうとする智貴の全身の力より、ミノタウロスの腕一本の力の方が強かったというだけのこと。
「……嘘ん」
信じられないとばかりに、間の抜けた声が智貴の喉から洩れる。そして直後、智貴の全身を激しい衝撃が貫いた。
ミノタウロスが腕にしがみつく智貴を引き剥がそうと、壁に叩きつけたのである。
槍のある前方に手を伸ばすには邪魔でも、背後に向かって腕を振るうには、智貴の存在は邪魔にもならなかったらしい。
「がぁ……!」
智貴の口から、肺の空気と共に苦痛の呻き、そして血が吐き出される。
だがそれでも智貴は腕ひしぎ逆十字固めを解くことをしない。
喜咲から言い渡された足止めを、ただ実直に遂行しているのだ。
少女や喜咲を守るために必要なら、どれだけ苦痛を覚えても、その腕を離すわけにはいかない。
そんな健気な決意を固める智貴を、更なる追撃が襲う。
智貴の拘束を解こうと今度は壁に、ミノタウロスは智貴を叩きつける。一度、二度、三度。そして四度目でついに智貴はミノタウロスの腕を離してしまう。
ゴミ屑のように、智貴は地面に転がった。
過剰なダメージを受けたせいか、あるいは頭でも打ったのか、意識がどこかぼんやりとする。体は動かない。
だから智貴を踏みつぶそうとする、ミノタウロスの足を避けることはできない。
遠ざかる意識の中、智貴は自分の終わりを予感するが、
「ご苦労様、あとは任せなさい」
そんな声で一瞬、意識がはっきりする。
声の主はいつの間にか、ミノタウロスに迫っていた。
「ガァァァァァァァァァァ!」
迫りくる新しい敵に気付いて、ミノタウロスが雄たけびを上げる。
そして喜咲は迷うことなく、手に持っていた拳銃『無尽の弾丸』の銃口を、ミノタウロスの口の中に突っ込んだ。
「首から下は頑丈みたいだけど、口の中はどうかしら?」
連続する発砲音。
口の中に吐き出された大量の魔力の弾丸はその口内をぶち破り、奥にある頭蓋を突き破って脳細胞を脳漿ごと後ろの壁にぶちまけた。
そして力を失ったその巨体は、その場に崩れ落ちる。
そんなミノタウロスの最期の光景を確認して、そこで智貴は理解する。
どうやらかろうじて自分たちは命を拾ったらしい。
安堵した瞬間、智貴の意識は暗転した。
*
「――トリプルチーズバーガーとシーフードグラタンバーガー、それと和風大葉バーガー。全部バリューセットのポテトとコーラは全部Lサイズで……ハッ、今のは夢か!?」
「夢の中とは言え、どれだけ食べるのよ」
智貴が目を覚ますと、薄暗い部屋の中、喜咲の呆れ声がそれを出迎えた。
鼻腔をくすぐるカビ臭い空気から、ここがどこぞの廃虚の中だと理解する。
「おお、神宮? なんでお前がいるんだ? つーか、なんか全身が痛いんですけど」
上体を起こすと体中に痛みが走る。
それこそつま先から頭のてっぺんまで、全てが痛い。なんと言うか、昔全身を骨折した時の痛みに似ているが、それにしては痛みが弱い。
「なんだこの全身を何度も強く打ったみたいな痛みは……」
「アナタの言った通り、何度も強く壁や地面に叩きつけられたのよ。覚えてないの?」
言われて、智貴は思い出す。
「……あー、なんか地属性のG.F.っぽい奴に殺されかけたんだったか」
「ジーエフ?」
「わからないなら流してくれていいよ。ただのゲームの話だから……つーか、俺って確か、すげーボコボコにされてたと思ったんだけど。なんで無事なんだ?」
体に痛みはある。だが智貴が受けたダメージを思えば、この程度で済むはずがないのだ。
包帯代わりの破いた制服が傷口に巻かれてはいるようだが、その程度の治療で痛みが引くとは思えない。
「ああ、それなら。彼女が手当てしてくれたからよ」
「彼女?」
智貴の疑問を受けて、喜咲が視線を後ろに向ける。つられてそちらを見てみれば、そこには見覚えのある少女が、所在なさげに棒立ちしていた。
「アンタは……」
「え、えっとあの。わ、私は獅童小向って言います。助けてくれて、その、あの、ありがとうございます」
そう言って少女、小向は智貴に向かって頭を下げる。
心なしかその表情が怯えているように見えるのは気のせいだろうか。
そして続いた喜咲の言葉で、智貴は自分の予想が間違っていなかったことを知る。
「大丈夫よ。彼、確かに顔は怖いけど中身は割と惚けてるから」
「ああ、うん。はい。わかってた。わかってたよ、俺。だから特にショックとか受けてないし」
小向が怯えていたのは、やはり智貴の顔が原因だったらしい。
よくある事だが、こうも怯えられると非常に複雑な思いを覚えてしまう。
「あ、その……ご、ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。よくある事だからな」
力なく手を振って、智貴は少女の言葉を流す。
できればしばらく一人で心の傷を癒したいところだが、喜咲の言葉が本当なら彼女は怪我を治してくれた恩人だ。そう言うわけにもいかないだろう。
「それで、アンタが俺を助けてくれたんだって?」
「は、はい」
「そっか。サンキュー、おかげで助かったよ」
智貴が礼を言うと、小向ははにかむように笑みを浮かべる。しかしその笑みにかすかに陰りがあるように見えたのは気のせいだろうか?
そんな智貴の違和感に気付くことなく、喜咲が馬鹿にするように口を開いた。
「本当、彼女には感謝すべきよ。彼女の手当がなければ、アナタは今頃、三途の川を渡っていてもおかしくないんだから」
「自覚があるから否定はしないけどよ……その原因の一端を担うお前に言われるのだけは、納得がいかねー」
どういう頭の神経をしていれば、こんなに悪びれずにいられるのだろうか。ひょっとしたら頭の中には脳みそではなく空気でも入っているのか。あるいは本当に脳みそまで筋肉でできているのかもしれない。
いや、そんなことより、
「てか、本当にそんな怪我を、ここでどうやって手当てしたんだ? ここ、廃墟だろ? そう言う……なんだっけ、魔術機があるのか?」
魔術機。魔晶カートリッジを使って超常現象にも似た新たな物理法則を現実のものとする、魔術を実行するための機械。
そう言った知識にまるで明るくないのでわからないが、つまりそれを使って智貴を治療してくれた、と言うことだろうか?
しかしそんな智貴の問いかけに、小向は言い難そうに瞳を揺らす。
「その、魔術機じゃ、ないです……」
「じゃあ、なんなんだ?」
「それは……」
言いよどむ小向。それが何故かはわからない。
だが彼女にとって都合の悪い部分に触れてしまったのかもしれないと思い、智貴は引き下がろうと考えるが、
「魔術器官」
「え?」
喜咲の言葉に振り返る。
「魔術機のオリジナルのオリジナル。本来、悪魔だけが待つ、魔術を生体で持つ器官。それが魔術器官。それが彼女の持つ、アナタを救った力よ」
「悪魔だけが持つ……って、じゃあ獅童は悪魔なのか?」
「いいえ、違うわ」
前後で矛盾する物言いに、智貴は未理解から眉根を寄せ……そして気付く。喜咲はさっき『本来』と言ったのだと。
そしてそんな智貴の思考を先回りするように、小向が震える声で答えを口にした。
「わ、私は、悪魔の血を引く人間『妖混じり』なんです」
悪魔、と言う存在は地獄変前からこの世界に潜んでいたらしい。
それがいつからかわからない。一説によればこの世界ができた頃からいたとのことだ。
そしてそんな悪魔たちは人と子を成した。
理由は様々。なんとなくだったり、遊びだったり、あるいは人間側に請われたり、中には人間と相思相愛になったものもいたのだとか。
とにかく、そうして人間という種に悪魔の血が混ざることになったのである。
そうして悪魔の血を色濃く受け継いだ人間、あるいは先祖返りによって悪魔の血の濃さを取り戻した人間を『妖混じり』と呼ぶらしい。
彼ら、妖混じりは一見すれば普通の人間と大差ない。中には人と違う姿の物もいるにはいるが、その多くはほぼ普通の人間と変わらない容姿をしている。
科学的にもその身体構造は人間とほぼ変わらないらしい――ほぼ一点を除いて。
それが魔術器官。魔術を発生させるための生体器官である。
悪魔を悪魔足らしめているのはこの魔術器官なのだ。悪魔と呼ばれる存在は、必ず体、あるいは魂のどこかにこれを持つ。
まさに悪魔の力と呼ぶに相応しい力を発生させる器官を、だ。
そして世間一般的に、悪魔は化物として忌み嫌われており、悪魔と同じ魔術器官を持つ妖混じりも、普通の人間たちからは嫌われ、恐れられた。
もっとも様々な検証の結果、通常生物と悪魔の違いは、この魔術器官だけと言われているのだ。
悪魔とは魔術を自身の生態に取り入れた生物。つまり、ただの一般人からしてみれば悪魔も妖混じりも変わりないのである。
「えーと、じゃああれか。さっき妖混じりって言い渋ってたのは、俺に怖がられるかもって思ったからなのか?」
二人から妖混じりについての説明を聞き終えて、智貴がそう結論付けると、喜咲は小さく頷いてみせた。
「学園は魔術機を使う関係上差別意識は低いけど、それでも完全にないわけじゃない。だからあまり親しくない相手には妖混じりであることを隠そうとするものらしいわ」
「なるほど。それでお前はそのことを問答無用でばらそうとした、と。鬼か、お前」
まさに鬼畜と呼ぶべき所業に、智貴が呆れた声を上げると、喜咲はなんでもない事のように肩を竦めてみせた。
「まどろっこしいのは嫌いなのよ。それに、アナタにそのことを隠す意味もないし」
「隠す意味がない? なんで?」
まさか彼女には智貴が他者を差別したり軽蔑したりすることのない聖人君子にでも見えているのだろうか。
だとしたらそれを馬車馬の如く扱う彼女は本物の鬼畜だろう。
「自覚がないようだから教えてあげるけど、アナタも彼女と同じ妖混じりだからよ」
「え? あー……なるほど。黒い獣の大樹もお前らで言うところの魔術器官に当たるのか」
確かにあれは悪魔の力と呼んで然るべき力だろう。いや、魔王の力と呼んでもいいかもしれない。
そんな風に智貴が一人首を縦に振っている横で、小向は目を丸くする。
「え? あの、……ほ、穂群くんも妖混じりなんですか?」
「らしいな。まぁ、実際に魔術器官を使ってみせるわけにはいかないから、証明はできないけど」
「使えない、んですか?」
「それもあるけど、ここで使うと最悪俺以外全員死ぬ」
使えない理由には制御できないというのもあるが、一番の理由はやはり小向たちを殺しかねないからだ。流石に恩人を自己紹介で亡き者にするなどと言うトラウマを、自ら抱え込みたくはない。
智貴の発言をどう思ったのか、小向は曖昧な笑みでそれを流す。ひょっとしたら過剰表現のつまらないジョークと思われたのかもしれない。
それならそれでいい。智貴としてもその辺りは触れ回りたい話ではない。黒い獣の大樹は智貴にとってあまり気分のいい話ではないのだ。
だから智貴は話を切り替える。
「それより、アンタのその魔術器官ってどんなんなんだ? 俺の怪我を治療してくれたのって、その力なんだろう?」
痛みはあるが、それでも体を動かす分には支障はない。
意識を失う前のことを考えれば、今の状態が非常に奇跡的であると思っていいだろう。
これがどのようにしてもたらされたものなのか、今はそちらの方に興味がある。
なにせ自分の体に関わることだ。下手に副作用とかがあるのなら、そのリスクについて知っておきたい。
そんな智貴の内心を読んだわけではないだろうが、小向の表情がほんのかすかに陰る。
「えっと、その。勘違いされてるみたいだから言いますけど、私の力では治療そのものはできないんです」
「あん? でもアンタが怪我を治してくれたんだろ?」
記憶違いだろうか。そう思って喜咲を見る。
「獅童さんがしたのは治療じゃなくて手当てよ」
「……それってなんか違うのか?」
「治療って言うのは医療行為。手当はもっとアバウトな処置に対する行為で、つまりは……あー、自分で考えなさい」
「おい、いくら脳筋だからって途中で説明を投げるんじゃねーよ」
せっかく少しだけ見直しかけていたのに、と智貴は呆れる。
「とりあえず、怪我を治したって言うよりはあくまで傷口を塞いだ、とか応急処置的な意味合いが強いってことでいいのか?」
「あ、はい。大体そう言う考え方で合ってます」
小向は頷くと、不意に右手を差し出して見せた。その掌にはなにやら複雑な文様のようなものが刻まれている。
なんのつもりだろうと思った次の瞬間、彼女の掌の文様が淡く輝きだす。薄い緑色の見る者に安らぎを与える色の光だ。
「……これが私の魔術器官『忌まわしき癒しの右手』です。効果は、簡単に言うと魔術のかさぶたを作る能力ですね」
「かさぶた?」
「はい。魔力で特殊な膜を作ってそれで傷口を塞ぐんです。同じ要領で骨や血管をつなぐこともできます。でもそれはあくまで傷を塞いでいるだけなので……」
「怪我が治ったわけじゃないってことか」
成程、と智貴は納得する。
体に痛みはあるものの、問題なく動かせるのはそう言った理由によるものらしい。
つまりこのまま放置していては、また傷口が開くと言うことだろう。
「なんか副作用とか、デメリットはあるのか?」
「そういうのはあんまり……ただ怪我が治ったわけではないから、無茶をすれば怪我が酷くなりかねません。あと制限時間もあります」
「どのくらい持つんだ?」
「込めた魔力の量によりますけど……大体六時間から十八時間ぐらいですね。今回は十時間ぐらいで、魔力を込め直せば延長できます」
「じゃあ、その効果が切れる前に病院なりなんなりに行ってちゃんと治療を受ける必要があるってことか」
「そう、なんですけど……」
肯定して、しかし小向は何故か言いよどむ。代わりに喜咲がその続きを受け持った。
「外を見てみればわかると思うわ」
怪訝な表情を浮かべて、智貴は喜咲に言われるがまま窓に近づく。もっとも窓と言ってもそこは廃ビル。ガラスは嵌められていない、ただの四角い穴だ。
非常に風通しのいいその窓に近づく過程で、智貴は窓から嫌な雰囲気の風が流れ込むのを感じる。
「ああ、少し離れた所から外を見ることをお勧めするわ。でないと気分が悪くなるわよ」
「ああん? それはどういう――――」
窓の外。見えた光景に、智貴は思わず言葉を途中で止める。
理由は単純。外に見える死都の風景に虹色のグラーデションがかかっていたからだ。
「魔力嵐。今死都全土がこの異常気象に覆われているのよ」
喜咲の言葉に、智貴は閉口する。
魔力嵐と言うものが、具体的になんなのかはわからない。
ただどうやらまた面倒なことになったらしい。
一難去ってまた一難。
連続する不幸な局面に、智貴は項垂れて息をつくのだった。