第二章 大逃走
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アラクネ。
ギリシャ神話に登場する機織りの女。それが神の怒りを受けて、蜘蛛にされてしまった。
そんな話を元にして創作された、蜘蛛の体を持つ女型の化物の名前だ。
ゲームや小説に出てくるそれらは、ボス級の強敵として扱われることも多い。実際、智貴がプレイしたゲームにも登場している。
ちなみにそのゲームではボスの一体として登場し、初回は二十回以上殺された記憶がある。プレイ時間で換算すればおよそ二時間だ。
断っておくと智貴のプレイングが下手なのではなく、そのゲームの難易度そのものが高いのだ。そしてゲーム中に登場したアラクネは、そのゲームの中でも有数の初見殺しのギミックを持つ。そのせいで智貴としては、この手の外見を持つモンスターは苦手意識が強い。
ましてやついさっき、別種の様々な化物に殺されそうになったばかりなのだ。この化物を警戒しない理由はなかった。
「………………」
「………………」
互いに睨み合ったまま動かない。
蛇の時はどこを見ているかよくわからなかったが、今度は違う。アラクネの蜘蛛の頭は肉の方に向いているが、人型の方の頭は屋上を見回した後、智貴へ完全に固定されていた。完全にロックオンされている。
逃げたい。今すぐここから逃げ出したい。だがはたして逃げられるだろうか?
蜘蛛と言えば、その拘束力の高い糸が特徴だ。更には壁をのぼり、中には毒を持つものもいる。目の前のアラクネがどういう種類の蜘蛛かは知らないが、少なくとも壁を上る能力は持っているようだ。それだけでも最初に遭遇した蛇よりは追跡能力は高いだろう。
加えて、蛇よりは知性がありそうな気配を感じる。
単純に逃げるだけでは逃げられない、ただの勘だがそんな気がした。そして残念ながら、そう言った悪い勘は外れたことがない。
とにかく、今は下手に動けない。せめてアラクネ――今更だが呼称はアラクネでいいのだろうか?――の気でも逸らせないと、隙を作らないと逃げ出せる気がしなかった。
なにか、なにかないか。
そう考えた瞬間、焼いていた肉の油が炎に落ちた。
ジュゥゥゥゥゥ、と音が響き、香ばしい匂いが漂い出す。
その瞬間、智貴と、そしてアラクネの視線が動いた。どちらの視線も肉に集中する。そして理解した。
このアラクネはどうやら肉の匂いに誘われてやって来たらしい。
……肉を失うのは正直痛いが、しかしとりあえずの急場は凌いでいる。
ならば自身の安全のため、肉を引き渡すのが一番妥当な線ではないか。
問題があるとすれば、この肉の味付けがアラクネに合うかどうかだ。一口食べた次の瞬間、味付けが気に入らなくて襲ってくることはないだろうか?
逆に気に入ってくれた場合、今焼いている分だけで足りるだろうか? 目の前のアラクネの体積は軽く見積もって智貴の三倍ほどありそうだ。智貴は人より食べる方だが、目の前のこの化物がそれより食べないと言うことはないだろう。そして今焼いている串の数はは七本。絶対に足りない。
智貴はじりじりと肉に近づくと、一番焼けているそれを手に取った。
アラクネの視線を強く感じながら、智貴は肉を一つ食べてみて、残りを串ごとアラクネに差し出す。
アラクネは串を受け取ると智貴と串を見比べてから、おずおずと肉を口に運ぶ。
長い白の髪で顔が隠れていてわかりづらいが、肉を食べた瞬間、アラクネが驚いたのがわかった。それも悪い意味ではなく、いい意味で。
どうやら味付けは気に入ってくれたようだ。
よし。智貴は今焼けている分を全部アラクネに渡し、そして今焼ける全ての肉を焼いていく。
「言葉がわかるかどうか知らねーけど、説明するぞ。火が通ったらそれを食べて、空いたところに生肉を置いて焼く。肉はそこにあるから、好きなだけ焼いて食うといい」
智貴は説明するが、アラクネは聞いているのかわからない。完全に肉に夢中である。
逃げ出すなら今の内だろう。
智貴は時間稼ぎ用の肉を用意できるだけ用意すると、音をたてないように動いて、階段へ移動する。そして辿り着いたところで、全力で走り出した。
目的地は地下街だ。
幸い、この百貨店は地下フロアがあり、そこから地下街を通って別の地上出口へ出ることができる。
地下街は食事の調達のために覗いたが、瓦礫やらなんやらが転がっていて、アラクネの巨体では通れないはずだ。
地下には地下で、智貴がさっき食べた目の代わりに角の生えた猪。それに類する存在がはびこっているが、それぐらいなら逃げられる。
問題はその後だ。アラクネから確実に逃げるには距離を稼ぐのが一番だ。地上に出てもすぐにアラクネに見つかるとは思わないが、その場にとどまっていては索敵されかねない。
アラクネが自分を探すかどうかはわからない。だがこういう場合、常に最悪の事態を想定しておくべきだろう。だから智貴の勝負所は別出口から外に出て、アラクネに見つかるまでだ。
その間にアラクネの探索範囲から脱することができれば、智貴の勝ちである。
一体なにと戦っているのか自分でもよくわからないが、アラクネと一緒にいたら、気付けば彼女の腹の中、と言うこともありうる。
それだけは避けたいところだ。
「よっし、出口が見えてきた……!」
智貴は破顔して、差し込む光に駆けこむ。
無事に脱出できた安心から、一旦足を止めたところで背後から物音。
なにげなく振り返れば、口の周りを肉汁で汚したアラクネがそこにいた。
*
「だああああああああああああああああ! なんで追いかけてくるんだよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
智貴は走りながら絶叫する。いや、絶叫しながら走っているのかもしれない。
どちらでもいい。
どちらにせよ、智貴がアラクネに追いかけられているという事実は変わらないのだから。
と言うか、何故このアラクネは自分を追いかけてくるのだろうか。
想定の範囲内――待ち受けられているのは想定外だったが――のこととは言え、その理由が智貴にはわからない。
しかもこのアラクネは、どうにも全力で智貴を追っていない気がする。
さっきからアラクネは智貴からつかず離れずの距離を常に保っているのだ。だがこのアラクネは、地下への出入り口で智貴を待ち構えていた。全力疾走する智貴の先回りをして、だ。
だからアラクネは、その気になれば智貴など簡単に捕まえられる。しかしそれをしないのは一体どういうわけなのか。
アラクネの狙いがわからない。
いや、そもそもが自分とは違う真正の化物なのだから、なにか狙いがあるわけではないのかもしれない。それこそ遊び感覚で追いかけている可能性だってある。
だがそれならどうなる? どこまでこの鬼ごっこを続ければいい?
死ぬまで? それは勘弁被る。
ならばどうするか、智貴は思考を巡らせようとして、そして文字通り虎の尾を踏みつけた。
「フギャ!」
「のあっ!?」
なにかを踏みつけて、その瞬間、足をすくわれた。
転びそうになって、前転して足から着地し、そして続けて走り出そうとして――その足首をなにかに掴まれる。
すっ転んだ自分の足首を見てみれば、なにか紐のようなものが足首に撒きついていた。そして紐のようなものはビルの隙間に伸びており、そこに一頭の虎がいた。
よく見てみれば、智貴の足首に絡みつく紐のようなものは、その虎の臀部から伸びている。
そしてやはりその目は今まで通り、智貴を完全に捉えていた。
前門の虎、後門の蜘蛛とでも言おうか。
虎が雄叫びを上げて智貴を喰らおうと襲い掛かる。
あ、これ。死んだな。
智貴は訪れるだろう未来を察知して、諦観に駆られる。しかし、予測した未来は現実のものとはならなかった。
なぜなら、智貴を追いかけてきていた蜘蛛が間に入ってきたからである。
そして、智貴を拘束する紐――多分尾だろう――を引きちぎって彼を守るように虎と戦い始めた。
やはりなんと言うか、理解が追いつかない。
何故いきなり仲間割れを始めたのか、何故智貴を庇うような真似をしたのか、わからない。
ただわかるのは、逃げるなら今がその機会だと言うことだけ。
智貴は足首絡み付いていた尾を引き剥がすと、もう何度目になるかわからない全力疾走でその場を離脱するのだった。
走って、走って、走り続けた。
どのくらい走ったのか、自分でもよくわからない。気付けば直上にあった太陽が西に傾き茜色に染まりつつある。
「こ、ここまで来れば……」
もう大丈夫だろう、と智貴は足を止めた。
近場の壁に寄りかかって、肩で息をする。
今日はずっと走りっぱなしだったせいだろう。とても疲れた。
後ろを振り返ると、そこに化物の姿はない。ちゃんと振り切れたらしい。
結局なんで化物二体で争い出したのかわからなかったが、追ってこないのならなんでもいい。
「……よくよく考えたら、化物だからって仲間って訳じゃないんだよな」
ならひょっとしたら、智貴を餌として取り合っていただけなのかもしれない。
まあいい。智貴はゆるゆると首を振って頭を切り替える。
今日はじきに日が暮れる。そして今はどうあっても野宿は避けられない。なら完全に日が沈む前に寝床にできそうな場所を探しておくべきだろう。
アラクネと出会った百貨店で寝泊まりできれば一番よかったのだが、走り回ったせいで現在地がどこなのかよくわからない。それに戻ったところでアラクネと遭遇して無事でいられるかもわからないのだ。
いや、そもそも安全に眠れる場所など今の東京にあるのだろうか?
寝ている間に化物に見つかってそのままパックリ、と言うことがありそうで、正直どこで寝ても変わらない気がする。
だがだからと言って危険とわかりきっている場所で眠る気もしない。気休めでも安全な場所を探すべきだろう。
一番いいのは人間の集落でも見つけて、そこに保護してもらうことだ。しかし今のところそんな集落はおろか、人影すら見つからない。
「運良く、誰か通りかからねーかな……」
詮無き事を呟いて、智貴は壁から手を離す。そしていざ今日の寝床を探しに行こうとして、しかし足を止めてしまう。
「――――そ。今日も――――――本当に――――?」
それは人の声。
全く期待していなかったせいで、智貴は完全に停止してしまう。
直ぐに智貴の脳は再起動するが、しかしここで即座には駆け出さない。
ここは様々な化物がはびこる場所。人の声がしたからと言って、それが本当に人間のものだと言う確証はない。化物が人の声を真似ているだけと言う可能性もありうる。
智貴は慎重に物影から顔を覗かせて、声の主を確認する。そして廃墟を闊歩する人間の集団を発見した。
「あー、腹減った。今日の夕飯はどうする?」
「そうだな。今日は目的こそ達成できなかったけど、みんな頑張ってくれたし、帰りに肉でも買ってバーベキューにしようか」
「マジで!? 言質取ったからね、後でやっぱなしとか言わないでよ!」
「あらあら、それは楽しそうですわね」
「…………肉か、悪くない」
「ヒャッハー! 肉だ肉!」
そこにいたのは六人の少年少女だ。
なにかの集まりなのか、全員が全員似たような格好をしている。軍将校が着ているような紺色の上着に、下は男子がパンツで女子がひだの少ないプリーツスカート。更に手には、剣や銃と言った武器のようなものを持っている。
確かにこんな化物がはびこる廃墟を歩くなら、武器が必要なのはわかる。だがだからと言って剣はどうなのだろうか? よく見てみれば銃もライフルやマシンガンではなく、ハンドガンのようだが、あんな火力でちゃんと戦えるのだろうか?
救助隊、などには見えないが、しかし隊列を維持して歩いている所を見るに、それなりにここを歩き慣れているようには見えた。
疑問と不安は尽きないが、しかしやっと見つけた人間の姿である。
幸い、懸念してたような化け物たちの罠、と言った雰囲気はない。
智貴は意を決すると、少年たちの歩く通りに姿を露出させる。
「おーい、待ってくれ! 助けてくれー!」
後ろから声をかけると、少年たちがこちらを向く。
智貴の姿に驚いたような表情を浮かべるが、その内の一人が智貴の姿を見て痛ましそうな表情を浮かべてみせた。
そこで智貴は自分の格好がひどいことになっていることに気がつく。
散々っぱら走り回り、崩落に巻き込まれ、猪を屠殺し、そしてそのあと再び決死の大逃走。逃げる際にはあっちこっちを瓦礫の破片などに引っ掛けている。それらのせいで智貴の姿はこれでもない程にボロボロになっていた。
よく考えてみれば、だいぶひどい目に遭っている。それこそ今生きているのが不思議なぐらいに。
だがそれももう終わりだ。
「君、ボロボロじゃないか! 今すぐ応急手当てを――――」
一早くリーダーと思しき少年がそう指示を出そうとする。
彼らが何者かはわからないが、どうやら智貴を助けてくれる気はあるらしい。
安堵から思わずその場にへたり込みそうになり、そんな智貴に少年少女が駆け寄ろうとして、
「待ってください、皆さん。アレは人間じゃありません」
メンバーの一人である少女の言葉に全員が動きを止めた。
「は? なに言ってるんだ桃李。あれはどう見ても人間。それも民間人――――」
「コネクタの魔力感知レベルを最大にしてみてください。それでわかるはずです」
言われて少年たちは首に――そこある首輪に手を伸ばした。
それがなんなのか智貴にはわからない。しかしそれを弄った瞬間、少年たちの雰囲気が剣呑になる。そして敵意とでも言うべきものが智貴に向けられる。
「間違いない。これは黒い柱門周辺を汚染しているものと同じ魔力」
「つーか、なんだよ、この魔力密度。ぶっちゃけ上級レベルじゃねーか? ひょっとしてコイツ、例のアラクネが化けてるんじゃないだろうな?」
「…………魔王の魔力」
よくわからないことを言いながら、少年たちが武器を構えだす。
どうやらよくない状況のようだ。
「ちょ、ま。待てって! 俺に交戦の意思はないんだって! 降参するから落ち着いてくれよ!」
「悪いが聞けないな。そうやって騙すつもりだろう。悪魔たちにありがちな手だ」
智貴の懇願を切って捨て、リーダーの号令で少年たちが動き出す。
銃を持った者たちの一斉射撃。智貴は慌てて近くの物陰に隠れようとして、次の瞬間、その物陰の上半分がズリ落ちた。
遅れて突撃してきた少女が持っていた剣で、智貴が隠れようとした巨大な瓦礫を切り裂いたのである。
「なんじゃそりゃあ!」
「くたばれ、悪魔野郎!」
少女の横薙ぎをブリッジの体勢で回避し、すかさず腕のバネで体を起こす。
そしてそこにリーダーと思しき少年が槍を構えて突っ込んできた。
智貴は横に跳んで突撃を回避するが、すかさず横から銃で狙われ。そして背後には剣を振りかぶった少女の姿。
ほぼほぼ回避不可能なタイミング。それを――――
「こなくそ!」
「な!」「今のを避けた!?」
智貴は死ぬ気で回避した。
さっきのは本気でヤバかった。
なんせ剣を避けた直後を狙って撃たれたのだ。正直避けられるとは思わなかった。と言うか、頬にかすっているので完全に避けたとは言い難い。
「今のを避けるなんて、やっぱり人間じゃない……!」
「人間だよ! なんだよ、その魔女裁判みたいな理屈は!」
「うるさい! 人間が今の攻撃を避けられるわけがない! 皆、こうなったら出し惜しみはなしだ。魔晶カートリッジ代は俺が持つ。全力でコイツを倒すぞ!」
なにやら智貴の言動のせいでますますやる気になってしまったらしい。
少年少女たちはさっきよりも気合が入った様子で智貴を囲むように動き、攻撃を加えてくる。
どうやら本気で智貴を殺すつもりらしい。
やばいやばいやばい。マジでやばい。
なにせ今は疲労がたまっている。瞬間的な攻防ならなんとかしのげるが、このまま持久戦に持ち込まれるのはマズい。
このままでは本当に殺されかねない。
どうにかして逃げ出さなければ。そう思うも、少年たちの連携は存外に隙がない。逃げ出すのは難しそうだ。
だがそれでもやらなければならない。なにせ自分の命がかかっている。
最悪、腕の一本ぐらいは犠牲にする覚悟がいるかもしれない。
智貴がそんな風に物騒なことを考えていると、不意に背中に違和感が走る。
ビチャッ、っとなにか粘着質なものが引っ付く感覚。直後、智貴の脳をマイナスのGが襲った。
「は?」
いきなりの逆バンジーに視界が一瞬ブラックアウトする。
気絶するのは根性で耐えた智貴だったが、視界が回復した時、自分の状況が理解できずに眉根を寄せた。
とりあえず結果だけ言うと、視界が九十度傾いていた。そして下から自分を襲った少年達の声。さらにすぐ傍から虫が這うようなガサガサ音が聞こえてくる。
もの凄く嫌な予感がした。
できれば確認したくないが、しかし自分の命運がかかっている以上、そういうわけにもいかない。
覚悟を決めて首を巡らすと、自分を抱えて壁を走るアラクネの姿がそこにはあった。
どうやら自分は捕獲されたらしい。
絶望的な現実を知らされて、智貴は思わず頭を抱えたくなるのだった。