第二十章 地獄の蜘蛛
*
走る、走る、走る、
無機質な廊下を、ただひたすらに、全力で走る。
何故走っているのか、どこに向かっているのかわからない。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
なんでラグネが? どうして間宮学園に? 何故自衛隊と戦っている? 機械化していたのは?
わからない。わからない。わからない。わからない、わからない、わからない。わからないわからないわからない。
視界がぐらぐら揺れて気持ち悪い。熱病に侵されたような荒い呼吸音が聞こえてきて苛々する。
気持ち悪い、苛々する。気に入らない。
どうしてこうなった? 誰が仕組んだ? なにが悪い?
様々な疑問と感情が、出口を求めて智貴の中をさまよい続ける。
グルグル、グルグルと渦を巻くように暴れまわり、やがてそれらは一つの回答を得た。
「草薙、悠馬……!」
アイツだ。これもアイツが仕組んだことに違いない。
死都からラグネの死体を回収し、改造。事故を装って智貴を襲わせようとした。
智貴が気に食わないから。だから智貴が一番嫌がる方法で殺そうとした。
ただそれだけの理由で、ラグネをあんな姿にしたのだ。
確証なんてどこにもない。しかしそうとしか考えられない。
まさか『命柱の奪い合い』で疲労したところで、たまたま改造されたラグネが逃げ出した、なんて偶然はないだろう。
「あの野郎……あの、野郎ッ…………!」
殺してやる。
地を這いずらせて、命乞いさせて、それを踏みにじって、心の臓を止めてやる。
八つ裂きにした上でさらに八つ裂きにして、グチャグチャにして、こぼれた脳みそを踏みつけにしてやる。
ただ死ぬよりもひどい目に合わせて、ラグネにしたことを後悔させて、その上で殺し尽くしてやる。
殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる。殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる。殺して殺して殺して殺して殺してころ――――――
出口を見つけた黒々とした感情。それが喜々として外の世界に現出しようとした瞬間――不意に意識が遠のいた。
『魔王気の増大を確認。危険度レベル一への到達を確認。緊急システム作動。フェーズワン、投薬による感情冷却を開始します』
脳内に警告が聞こえてきて、同時に智貴は転倒する。
またかよ。
薄れ行く意識の中で智貴は内心で毒づいた。
どうやら智貴の持つ『黒い獣の大樹』が発現しそうになると、自動でコネクタから薬が打たれる仕組みになっているらしい。
それを理解しながら、それでも智貴は薄れ行く意識を繋ぎとめ、腕で張って前に進む。
今、ここで意識を失うわけにはいかない。
こんなところで止まれない。止まってはいけない。
自分にはまだやらなければならないことがあるのだ。
だから――だから?
しかしそこで智貴はふと疑問に思う。
ここで意識を繋いで、そして自分は一体なにができるのだろうか、と。
「待って、トモ君。急に走り出してどうし……トモ君!?」
そこで唐突の背後から驚きに満ちた声が聞こえてきた。倒れたまま振り返ってみれば、そこには息の上がった姫乃の姿があった。
どうやら智貴を追いかけて走ってきたらしい。驚きの声は、智貴が倒れていたからだろう。
「大丈夫!? しっかりして!」
慌てて姫乃が駆け寄って智貴を抱き起す。
見た目小さな女の子(バニーガール姿)が自分より大きい少年を気遣って抱き起すという様は、端から見ればきっと不思議な光景だろう。他人ごとのように智貴は思った。
「ま、待ってくれ……こっちはまださっきの試合のダメージが抜けてない――って、うわ!? 穂群!?」
更に姫乃に遅れること数秒。誠二が追い付いて、再び驚きの声を上げる。
「……大丈夫だよ。ちょっとばか、すっ転んで頭を打っただけだ」
「本当に? 随分顔色も悪いよ?」
「打ち所が悪くて吐き気を覚えてるだけだ。大丈夫だよ」
「や、それって全然大丈夫じゃないと思うんだけど」
心配そうにして智貴の頭を触ろうとする姫乃の手を、智貴は軽く払って立ち上がる。
薬の影響が残っているのか、ややふらつくが、前回の時のことを考えればそれもじきに抜けるだろう。
「駄目だよ、ちゃんと診てもらわないと。頭の怪我は大事になりかねないんだし」
「大丈夫だ」
「でも…………」
「大丈夫だって言ってるんだよ!」
心配そうに寄ってくる姫乃を怒声で制する。
その怒声に驚いたのか、あるいは智貴の鋭い視線が怖かったのか、姫乃がわずかに怯む。
「大人しく治療なんて受けてる場合じゃないんだよ。すぐそこにアイツがいるんだ。俺はアイツのところに行かなきゃいけないんだ……!」
「だけど」
「うるさい。いいから俺のことは放っておいてくれ!」
なおも食い下がろうとする姫乃を視線で脅し、壁に寄りかかりながら智貴は先に進もうとした。
しかし一歩踏み出したところで、それを止めるように右肩を掴まれた。そして強い力で強制的後ろを振り向かされる。
それをしたのは誠二である。誠二は非難するような目を智貴に向けていた。
「邪魔をするなって言ってんのがわからな――――――」
パァン。
智貴の言葉は、頬に走った痛みによって強制的に中断された。
見てみれば平手を振り切った姿勢の誠二が立っていた。どうやら彼に頬を殴られたらしい。
「……本当はグーで殴りたいところだけどね。弱っているみたいだから、今はこれぐらいで勘弁しておいてあげるよ」
「なんのつもりだ、テメエ……!」
「それはこっちの台詞だよ。鹿倉は君の友達なんだろう? それをあんなぞんざいに扱うなんて……ましてや彼女は君を心配してたんだ。はっきり言って許しがたい行為だよ」
「テメエには」
「関係ない話だろうって? そうだね。でも神宮さんがこの場にいても同じようなことをしたんじゃないかな?」
喜咲の名前を出されて、智貴は怯む。
そしてその隙を突いて、誠二は言葉を畳みかける。
「今の君の行動を見たら神宮さんはどう思うかな? 君は今の行為を神宮さんに胸を張って説明できるのかい?」
「それは……」
「神宮さんの君に対する評価を下げたくなかったら、今すぐ鹿倉さんに謝るんだ。さもなくば、僕は今あったことを神宮さんに話す」
脅迫と言うには、あまりに優しい台詞に智貴は目を丸くする。
だが誠二の表情は本気だ。本気でそんな生温い台詞で脅迫できると思っているのか……いや、どちらかと言えば本気で怒っているのだろう。
ほとんど面識もない姫乃が無碍に扱われて、それで怒っているのだ。
そのあまりにもお人好しな誠二の行為に、智貴は毒気が抜かれたような気分になる。そして姫乃にかけた言葉を思い出して、罪悪感が湧き上がってきた。
「……あー、さっきは取り乱して悪かったな」
「今度なにかごはんを奢ってね。それで特別に許して上げる」
「わーったよ、どこかいい店を探しておく」
智貴の返答に姫乃はニッコリとほほ笑みを返す。その様子に、誠二も厳しくしていた表情を緩めた。
許してもらっておいてこういうのもなんだが、あっさりと許しすぎだろう。
やはり二人とも愚かしいほどに馬鹿で、お人好しである。
「……ま、そういうのは嫌いじゃないけどな」
「なにか言った?」
「なんでもねーよ」
適当に誤魔化して、智貴は真顔に戻る。
「さっきも言ったけど、体の方は大丈夫だ。心配はしてくれなくてもいい」
「本当に大丈夫?」
「ああ。呂律も足取りもしっかりしてるだろ? さっきは急ぎ過ぎて酸欠になってただけだよ」
「……うん。確かに顔色もよくなってるみたいだね。って言うか、回復速すぎない?」
「そういう体質なんでね」
なんにせよ、これで智貴の体を心配する必要はなくなっただろう。
姫乃は不思議そうにしながらも、胸のつかえが取れたような顔をしている。
ひと段落したところで、しかしここからが本番だとばかりに誠二が表情を引き締める。
「それで、君はそんな酸欠になるぐらい急いで、一体どこになにをしに行こうとしていたんだい?」
智貴は口ごもる。
さっきの様な反抗心や焦りからではない。なんと説明したものかわからないのだ。
智貴はラグネを助けたい。だがどうすれば彼女を助けられるのかわからない。
そしてその気持ちを説明するには、智貴とラグネの関係についても説明しなければならない。
はたして、ラグネのことはなんと説明したらいいのだろうか?
短い間とは言え、一緒に暮らしていたと話して、信じてもらえるだろうか?
仮に信じてもらえても、悪魔……それもラグネのような異形型のそれは人類にとっての天敵だ。それと人間が一緒にいたと言って、彼らは自分を見下げないだろうか?
智貴は改めて姫乃と誠二の二人を見る。
二人とも言葉に悩んでいる智貴を、待ってくれているようだった。
真摯な二対の視線に、智貴は小さく息をつく。
「アイツは……ラグネは、しばらく一緒に暮らしてたんだ」
わずかに逡巡してから、智貴はポツリと呟いた。
「でも死都で色々あって、アイツは死んだ。そして今、誰かに利用されて俺を襲いに来てるんだ」
「君を? どういうことだい?」
「確証があるわけじゃない。ただ、それ以外にアイツがこっちにやってくる理由が思いつかないってだけ……って、俺の話を信じるのか?」
「確かに、正直言って突拍子もない話だとは思うけどね……」
誠二は困ったように頭を掻いてから、それでも笑みを浮かべてみせた。
「でも君が突飛なことを言い出すのは今更だし、それ程驚きはないさ。それに、さっきの焦りようを見れば、君にとってとんでもなく大事なことが起きたことは疑いようがない」
「それだけの理由で信じるって言うのか?」
「それだけの理由で信じたらいけないのかい?」
「いや、だって……それにアイツは悪魔なんだぞ。ソイツのもとに駆け付けたいって言うのに、なんとも思わないのか?」
「……君がなにを言いたいのかよくわからないけど、僕が神宮さんの力になりたいって言うのと、君のその想いは大差ないんじゃないかな?」
サラリと返されて、智貴は言葉を失う。誠二の隣では、そんな智貴の様子に、姫乃がおかしそうに笑いをこらえていた。
「それでそのラグネちゃんって悪魔と同棲してたってトモ君は、これからどうするつもりだったの?」
「……正直に言うと、なにも考えてなかった」
「なにも考えずに戦闘の現場に飛び出そうとしてたの?」
驚いたように言われて、智貴は気まずさから視線を逸らしてしまう。
「し、仕方ないだろう。外でラグネが戦ってるって知ったら、いてもたってもいられなかったんだからよ」
「……なら引き留めてくれた鹿倉に感謝しないとだね。もしもあのまま飛び出してたら犬死しててもおかしくなかったわけだし」
「正論過ぎて反論の余地がねーわ」
姫乃と、そして誠二が智貴を引き留めてくれていなければ、今頃は考えもなしに銃弾が飛び交う戦場に飛び出していたことだろう。そうなっていればラグネを助けるどころの騒ぎではなくなっていたはずだ。
いや、そもそも、
「ラグネを助けることはできると思うか?」
智貴は二人に尋ねる。
智貴の主観ではラグネはすでに死んでいる。ならば今の彼女は既に生きていないのかもしれない。
「僕にはわかりかねるね」
誠二が難しい顔で首を横に振る。智貴は続けて姫乃を見た。
「……助けるって定義がどういう意味を指すのかによると思うけど、ラグネちゃんをトモ君と一緒に住んでた頃と同じ状態にするって言う意味なら、それは不可能だと思うよ」
「そう、なのか」
わかっていたことだ。
智貴が最後に見た時、ラグネはすでに死んでいた。
それは喜咲も、そして初も認めるところだ。
死んで一体どれくらい後に機械化の施術をされたのかはわからない。だが仮にどれだけ早く機械化されていても、彼女が生き返ったりはしないだろう。
死んだ者は生き返らないのが、この世界の鉄則なのだから。それは地獄変が起きた後も変わらない。
「詳しい説明が欲しいならしようか?」
姫乃の提案に智貴は黙って首を横に振る。
機械やサイボーグの知識については、自分より姫乃の方が間違いなく詳しい。そんな彼女が不可能だというのなら、やはり不可能なのだろう。
なにより智貴の知るラグネは間違っても人間と戦ったりしない。ならば今自衛隊と戦っている彼女は、やはりラグネとは別の存在になっていると考えていいだろう。
全くもって面白くない話だ。そして非常に許しがたい話でもある。
「俺がラグネを止めに行きたいって言ったら、どう思う?」
「ちょっと無理臭いかな、って思うかな」
「僕も鹿倉さんに同意するかな」
智貴の問いかけに姫乃はすまなそうに答えて、誠二もそれに同意する。
「ラグネ、だったっけ? 彼女とはすでに自衛隊が戦闘している。それに多分、神宮さんも。これだけの戦力で出向いているなら君の出る幕はない……むしろ行ったところで足手まといになると思うよ?」
「……まあ、そうだな」
智貴は今さっき戦ったばかりで疲労も抜けていなければ、持っている武器は実戦に耐えられないような競技用のものだけだ。
今の状態ではラグネを止めるどころか、ワンパンで武器ごと智貴が殺されかねない。
「君がラグネさんを止めたいのはわかる。でもそれをしようとすれば、最悪、君はそのラグネさんに殺されることになるんじゃないかな。それは君の望むところじゃないだろう? きっと神宮さんだってそんなことは望んでいない」
きっとその通りだ。
智貴にはまだやるべきことがある。
こんなところでは死んでやれないのだ。
ましてやできることがないのなら、智貴が戦場に出向く理由は――――
「――――――ん?」
そこで智貴は、しかしなにかに引っかかった。
「今の僕たちにできるのはシェルターに避難することだ。ちゃんと避難すれば、戦う神宮さんたちに余計な心配をかけることもないだろう」
「なあ、ちょっと思ったんだが」
「なんだい? まだなにかあるのかい?」
シェルターに向かおうとした誠二は、智貴に声をかけられて足を止める。その顔には僅かばかり面倒そうな色が見える。しかし智貴の想像が正しければ、今はそれを気にしている場合ではない。
「神宮はラグネと戦いに行ったんだよな?」
「絶対にとは言わないけど、状況的にはそう考えるのが妥当じゃないかな……それがどうかしたのかい?」
「アイツは、なんで戦いに行ったんだ?」
「それはもちろん。君とラグネさんを合わせないようにするためだろう? だから君たちを置いて一人で戦場に――――」
「すでに自衛隊が戦ってるのにか?」
誠二も変に感じたのか、驚いたように目を丸くする。
そう、智貴をラグネに合わせないようにするだけなら、喜咲が戦いに赴くのは変なのだ。
そもそも喜咲が智貴と一緒に避難していれば、ラグネが外で戦っているなどと気付くこともなかったのである。
一番いいのは喜咲が智貴を伴って避難すること。そうすれば、想定外が起きても対応しやすい。
しかし実際はそんな手が取られることはなかった。
指示を出したのはきっと初だろう。ならば彼女がそこまで思いつかなかったのだろうか。そんなこと、ありえない。
普通に考えれば、余計な一手。だがそれが必要手だったとするならどうなるか。
「つまり、自衛隊だけでは止められない程、ラグネは強いんじゃないか?」
そしてさっき智貴たちが見た映像では、自衛隊がラグネと戦っていたが、そこに喜咲の姿はなかった。
単純に間に合っていないだけなのだろうか。そうでなければ、いや、そうでなくとも。
今ラグネと戦っているのは自衛隊のみ。それで一体どれだけ持つのだろうか。
「あ、マズいかも」
姫乃が不意に、そんな言葉を口から漏らす。
一体なんのことだ。智貴が問おうとした瞬間、それは訪れた。
激しい衝撃を伴った破壊音。それはドームの内部、智貴たちが先ほどまでいたコートから聞こえてきたようだった。
一体なにが起きたのか――否、考えるまでもない。
「あ、トモ君!」
姫乃の制止するような声。気付けば、智貴は無意識のうちに駆けだしていた。
ラグネの目的はおそらく智貴だろう。
そんな彼女が姿を現さなかったのは、自衛隊に足止めされていたからだ。
ならばその自衛隊が壊滅していたら?
その答えが、ドームのコートに立っていた。
八本の足の内半分を機械のそれに換装し、体の各所に鉄の装甲を埋め込んだ、蜘蛛と人が合体したような異形。
ラグネがそこに立っていた。
*
廊下を駆けて、駆けて、外へ出る。
智貴が呼吸も荒いままコートへ出ると、そこには見知った顔があった。
自衛隊員を掴んだ、少女の上半身を持つ蜘蛛の化物。ラグネ。
息がつまる。
息が止まる。
予想できていたにもかかわらず、わかっていたにもかかわらず、しかし智貴は目の前にある光景に全ての動きを止めてしまう。
ドームの天井には穴が開いており、彼女はどうやらそこからドーム内に侵入したらしい。
ラグネは右腕に掴んでいた自衛隊員を、無造作に持ち上げる。
手に持つ部位は頭。それをラグネはなにげなく目線の高さまで持ち上げると、頭を掴む指に力を込めた。
「ぐ、あ、ぁあぁあ゛……!」
自衛隊員の口から苦悶のうめきが漏れる。
しかし抗う力はもう残っていないのか、あるいは手足が折れているのか、自衛隊員は声を上げるだけだった。
そんな自衛隊員の呻き声を聞いて、しかしラグネは頭を握る手から力を抜かない。逆に更なる力を込めていく。
「止めろ、ラグネ!」
反射的に智貴が叫ぶが、しかしわずかに遅かった。
グチャリ。
熟れすぎた果実でも潰すように、ラグネは自衛隊員の頭を握り潰した。
ドサリ、とコートに落ちた首無し死体に、智貴は反射的に視線を逸らしかける。だが、できない。
何故ならラグネが、こちらを見ていたからだ。
ゾクリ、とその視線に智貴は背筋が冷たくなる。
表情は見えない。感情も見えない。
だがその無機質な顔のまま、ラグネはたった今人間を殺して見せたのだ。
それがあまりに不気味で、あまりに恐ろしい。
智貴の知るラグネの姿とあまりにかけ離れていて、吐き気を覚える。
ともすれば逃げ出したくなるよう感覚を覚えるが、どうにもそう言うわけにはいかないらしい。
「敵目標を発見。探索モードから戦闘モードへ移行。最優先任務の遂行に移ります」
言葉の直後、ラグネの体が小さくなった。それが実際に小さくなったわけではなく、力を溜めているのだと理解した直後、ラグネは跳んだ。
一瞬で十数メートルの高さまで飛びあがり、五十メートルはあった間合いが消滅する。
危険信号が頭の中を駆け巡る。智貴は直感に従って体を横に飛ばすと、それまで智貴がいた場所にラグネが降ってきた。
巨大な鉄骨でも振ってきたかのように、床が陥没する。さらにテコの原理で、ラグネが落ちた周囲の床材が隆起する。
単純な質量のみの攻撃でこれ。一撃でもまともに貰えば、智貴はあっさり死ぬだろう。
いや、そもそもだ。姫乃の言ったとおり、彼女を助けることは本当にできないのだろうか?
「ラグネ! 俺だ、穂群智貴だ! わからないのか!?」
智貴の叫びに対して帰ってきたのは、言葉ではなく白い鞭だった。
修羅閃刃を使って、智貴は鞭を避ける。だがラグネはさらに白い鞭を、九本同時に智貴に振るう。
修羅閃刃はまだ解けていない。しかし全て避けるには数が多い。
一、二発掠ってもいいならなんとかできるかもしれないが、しかしなんとなく嫌な予感がする。智貴はとっさに腰から『竜を断つ剣』を抜くと、正面から迫る鞭を剣で弾いた。
しかし弾いたはずの鞭が剣から離れない。
どうやら鞭は、粘着質な蜘蛛の糸でできていたようだ。
智貴は即座に剣から手を離して距離を取る。直後、『竜を断つ剣』はあらぬ場所へと飛んでいった。
智貴は剣の行方を見送ることなく、入ってきたのとは別の出入り口に向かって走って行く。
遮蔽物のない場所ではラグネの糸は避けきれない。
まずは物陰に隠れて態勢を整えるべきだ。そう考えて智貴は全力疾走する。しかしそうはさせまいと、ラグネが再び糸を飛ばしてきた。
修羅閃刃は立て続けに使えない。仕方なく残るもう一本の剣を犠牲にする。
そしてもう数少しで通路に入れると言ったところで、智貴は不穏な気配を感じて後ろを振り返った。
するとそこには、剥がれた巨大な床材を持ち上げるラグネの姿があった。更にラグネは床材を片手に、野球の投球フォームのような姿勢を取っている。
その華麗なフォームから、一体なにをするつもりなのか。その答えを考えるよりも早く、智貴は自身の体を全力で横に飛ばした。
直後、智貴が向かっていた通路の出入り口に床材が激突する。
派手な破壊音と共に出入り口は破壊され、代わりに瓦礫の山が形成されてしまう。
逃げ道を失われた智貴は、ゴロゴロと床を転がってから起き上がり、そしてその正面にラグネが飛んできて着地した。
その距離は智貴が修羅閃刃を使えば一瞬で迫れる距離。ラグネならば素の速度でそれが可能だろう。
一番近場の退路も断たれており、逃げ出すのは非常に困難な状況と言える。
完全にマズった。
智貴は今更ながらに自身の行動を振り返って後悔する。
ラグネのもとに行ってもなにもできないと言われたにもかかわらず、彼女の下へ来てしまった。
これでは初の懸念した通りだろう。
「だから言っただろ。やはり君はおろかだな」
そう言って眉を顰める初の姿が簡単に思い浮かぶ。ムカついた智貴はそんな初を頭から追い出す。
「ラグネ、俺だ。本当にわからないのか?」
智貴が再度問いかける。やはりできるならラグネとは戦いたくはない。
しかしラグネはなにも答えない。代わりに床を蹴って智貴に襲い掛かってきた。
噛みついて来ようとする蜘蛛の頭を横に跳んで躱し、続いて放たれた蜘蛛の糸を修羅閃刃で回避する。
「ラグネ!」
駄目押しでもう一度名前を呼ぶが、ラグネの攻撃の手は緩まない。やはり意識というものが完全にないらしい。
気は進まないが、この場を脱するには、やはりラグネをどうにかするしかないようだ。
だがどうにかすると言っても一体どうすればいいのか。今の智貴は完全に無手でラグネに対抗する術がないのだ。
そしてこのまま防戦が続けば、確実に智貴の方が先に力尽きる。
完全にジリ貧だ。
なにか手立てはないものか。
ラグネの攻撃を回避しながら智貴は全力で頭を回すが、当然ながらいい作戦など思いつかない。
それでも必死で考える。
ラグネにセクハラを働いて、体を竦めている間に逃げる。駄目だ、今のラグネが思ったような反応をするとは思えない。そもそも以前のラグネもそう言ったことには疎かった。却下。
ラグネがやったようにドームの一部を破壊して、そこにラグネを生き埋めにする。それを実行するための道具もなければ、ラグネがそれに大人しく巻き込まれてくれるとは思えない。そもそも生き埋めにしたところで、脱出できないかも未知数だ。不確定要素が多すぎる。却下だ。
ならば全力で頭をぶん殴ってラグネを気絶させる。これもまず無理だろう。ラグネの頑丈さは彼女と一緒に住んでいた時に色々と確認している。しかもどういう理屈か知らないが、人型の頭と蜘蛛の頭。どちらにも脳があるようで、片方の意識を奪っても、もう片方が体を動かすのであまり意味がない。かと言って同時に人型とクモガタの意識を奪うのはほぼ不可能だ。つまりは無理。却下。
考えれば考えるほど、どツボにはまっていくような感覚。
加えて言えば、ラグネをあまり傷つけず、その上で無力化したいのだ。しかしいくら考えても、そんな奇跡のような方法は思いつかない。
そんな風に智貴が思考のループに囚われていると、不意になにかに躓いて転んでしまう。
どうやら考え事がいき過ぎて、足元がおろそかになっていたようである。
などと他人事のように考えている間に、智貴は頭から床に突っ込む。かろうじて両腕で床をついて事なきを得るが動きは止まってしまう。
そしてそんな隙を、敵は当然見過ごしてはくれない。
ラグネは機械化された蜘蛛の足を大きく振り上げる。その切っ先は鎌のように鋭く、刺されればひとたまりもないだろう。
智貴はとっさに体を捻って避けようとするが、しかし間に合いそうにない。
駄目だ、駄目だ、駄目だ。
智貴はこんなところでやられるわけにはいかない。ましてやラグネに殺されるのだけは絶対に避けたい。
ラグネの意識があれば、彼女は絶対に智貴を傷つけるのは嫌がったはずだ。そんな彼女に智貴が殺されるのは許容できない。
既に目の前のラグネが変わり果てていても、断じて認められない。
だが体は動かない。立ち上がるのが、回避が間に合わない。
せめて来る痛みに耐えるべく、智貴は体に力を込め――――
「こっちだ、化物!」
魔力弾が蜘蛛の頭と口の中にさく裂した。
予期せぬ攻撃にラグネは悲鳴のような声を上げてたじろぐ。
なんとか窮地を脱した智貴は体を起こして背後を向く。すると観客席で『無尽の弾丸』を構える誠二の姿があった。
誠二はさっきの攻撃で魔晶カートリッジを使い切ったのか、カートリッジを交換する。そしてその隙にラグネが左腕を伸ばす。
「遠藤、逃げろ!」
智貴の言葉に気付いて誠二が慌てて横に逃げる。
しかし連続する糸の攻撃には対抗できず、誠二はあっさりと白い糸に捕らわれてしまった。
だがそこでラグネは誠二への興味を失ったらしい。
その視線が再び智貴に向く。
かろうじて誠二が稼いでくれた時間を使って、智貴は体を起こした。
誠二が狙われなかったのは僥倖だが、しかし事態は何一つ解決していない。
智貴が再び気を引き締めたところで、鈍色の波がラグネを襲った。
「行って! マイベイビーズ! あとちょっと時間を稼いで!」
そう叫び、姫乃の姿が誠二と反対の観客席にあった。そしてその周りには大量のネズミ。否、ネズミ型のドローンが姫乃を守る様に溢れかえっていた。
どうやら誠二を囮にして、ドローンにラグネを襲わせたらしい。
大量の小さな機械が大型の蜘蛛を襲う姿は、見る者が見ればおぞましい様子に見えたかもしれないが、今この場に限って言えば救世主のように見えた。
だが自衛隊が止められなかった化物が、そんなドローン程度で止まるわけがなかった。
最初は手で振り落とそうとしていたラグネだったが、落とした傍から新しいドローンが登ってきていることに気付いて、違う手段を取る。
指先から糸を出し、それらを自分の体に巻いていったのだ。
一体なにをしているのか。怪訝に思う智貴だったがすぐにあることを思い出す。
――ラグネの糸が持つ粘着力は魔力によるものだ。そして粘着する対象は、糸がラグネの体に接続されている限り、自由に選択できる性質を持つ。
かくしてラグネは自分の体を覆うドローンだけを糸でからめとると、服を脱ぐようにそれらを取り払い、踏みつぶした。
「マジかよ……」
結局、誠二と姫乃の二人合わせてできたことは、数分の時間稼ぎ程度。そして当然のようにラグネの体には大した傷もできていない。
「これ以上、もう打つ手なんてないだろう……」
いよいよもって万事休すか、諦めにも似た思いに智貴は駆られるが、
「ううん、これで十分。だよね、喜咲ちゃん?」
「え?」
上を見上げる姫乃につられて智貴も上を見上げてみれば、果たしてそこには彼が待ち望んで止まない姿があった。
「――待たせたわね」
そう言って天井の穴から、翼のように槍を背にマウントした少女。神宮喜咲がコートの上へと降り立った。