好奇心は猫を殺した。
フォルカさんが会いに来てくれたあの夜以降、私は再び元の健康体を取り戻したようだ。
本当にあの原因不明の状態異常は何だったんだろうと不思議に思うが、それよりも最近の空模様がこの所は曇天ばかりで昼間でも薄暗い日々が続いててその内大雨でも降るんじゃないかと危惧している。
私がこの世界に来てから雨が降った日なんてあまりなかったように思う。まぁ、元の世界と同じように天気がコロコロ変わる環境なら当たり前なのかもしれないけど…。
「…はぁ〜ぁ…」
薄暗い雲に覆われた空を見ていると、いつか見た悪夢の光景が脳裏をよぎって少し不安になってしまうのだった。
(何黄昏てんだよ…遅刻すんぞ)
「おわっ!ヤバっ!!」
通学路で突っ立ったまま空を見上げている私はアリスにせっつかれるのと同時に予鈴が鳴ったので、慌てて教室へ向かった。
ー巻きぞえアリスの異世界冒険記52-
色んな騒動があったものの、学園生活は特に大きく変化する事なく今日も無事に終わりを告げるチャイムが鳴っている。
ニールは相変わらず眠りから覚めず、最近のカミルは何だか忙しそうにしているし、以前まではやれ王子様に馴れ馴れしいやら、下民が!とか陰口を叩いていた貴族生徒も慣れのせいか特に絡んで来ないし、本当に何もイベントが起こらない状態だ。
平和っちゃあ、平和なのだが…
「何だかなぁ…」
(毎日毎日何を憂いてんだか)
放課後の生徒が少なくなってゆく様子を眺めながら校内のベンチで項垂れる私の脳裏にアリスの呆れたような声が響いてくる。
「ん〜…いや、フォルカさんには大人しく学園生活送ってなと言われたもののさ…何だか周りに置いて行かれているみたいでやっぱ焦っちゃうってか」
(そんな周りが気になるなら悶々としてねーで行動に出りゃいーんじゃねーのかよ)
「でもぉ…迷惑かけたくないしぃ〜。カミルは特に問題起こしたらまずい立場じゃん?」
(知るかよ。つーかオメェーは本当に危機感のない女だなァ…拉致られた件ももう忘れたのか?アイツらの目的が俺様ならまた同じ目に遭うって思わねーのかよ)
「それはそうだけど…でもフォルカさんが大人しくしとけって言ったのは考えなしじゃなくて、その方が安全なんだってことだと思うし」
実際にあの件以来、今まで襲撃されたりしていない。アリスを狙っていた連中も流石にリーゼンフェルト国内では大事を起こせないみたいだから私も街を出ない限り大丈夫なんだと思う…多分。
(頭お花畑か?…あの連中が大人しくしてると本気で思ってんならテメェーは救いようのない馬鹿だなァ!)
「そんなに貶すほどかな!?……てか何でそんなに脅すのさ。アリスもしかして何か知ってたりするの?」
どうも朝起きたらいつの間にか寝た時の状況と違うような違和感をよく抱くことがあるので、間違いなくアリスが何かしらの悪さをしてるのは把握している。
しかし特にカミルやクロード様達王族に危害を加えている様子はないし、学園の生徒にも危害を加えてないから大丈夫かなと見逃していた。
変わったこと言えば、以前会った冒険者ギルドのおっさんから親しげに声をかけられた時はビビり散らかしたっけ…思いの外良好な反応で吃驚したし、アリスは悪さを働くどころか一緒に調査クエストに励んでいたらしく、何というか…それで気が晴れるならむしろいい傾向に思える…いや…しかし何かを企んでるみたいでやっぱり不穏なんだよなぁ。
(…そりゃテメーの方がわかってんじゃねーの?)
「え?」
(気になって同じことばかり考えてりゃ、筒抜けだっつーの。そんなに気になるならウダウダ唸ってねーで確認すりゃいいのによ)
「えー…っと、それはなぁ…」
あの夢の光景は何なのかと気にはなるけど、私に覚えがなけりゃ、アリスの見ている夢の可能性もあるように思うから、言うこと聞くのはちょっと戸惑われるのだ。
しかしあの場所はアリスのこと以前に誘拐犯の残党も侵入していた事があったから気になる。
あの誘拐犯の2人のチンピラは捕まっていたけど、ボスである姉御肌の女の人がいたはずなんだよなぁ〜。かなり痛い目に遭わされてよく覚えているからこそ彼女の足取りが不透明なままなのが気がかりだ。
てかチンピラ2人があそこにいたのもボスである彼女の指示なら失敗してそのままなんてことあるのかな?そもそもカミル誘拐事件も3人の誘拐犯の裏に何者かが手引きしているようだったし……
「うぅうぅう〜〜〜…ん……ちょっとだけ、遠くから覗くだけならいいよね…?ねっ?」
(俺様に聞いてどーすんだよ。帰るか見に行くかの前にさっさと移動すれば?)
どんよりと頭上に広がる灰色の雲を見て、とりあえず雨に降られる前にベンチから立ち上がってひとまず校門へ向かった。
校門前ではあくびを溢しながら生徒を見送っているいつかの警備員さんに『さようなら〜』と声をかけた後に学園寮に向かう道と反対の道を見比べ、一度深呼吸をして意を決した私は学園寮に背を向けてゆっくりと歩き出した。
レンガ道の坂を登る途中で私の横を慌ただしく駆けて行く元気な子供達、塀の上を優雅に歩く鍵しっぽの黒猫、その先にある街灯の側ではお買い物帰りの奥さん達がお喋りに夢中になっている。
それはいつもと何ら変わらぬ何気ない日常そのものでとても平和だ。
拍子抜けするくらいに変化がないどころか、2階の窓から顔出す女性に向かって道のど真ん中で花束をかざして見せてプロポーズする男性の姿など映画のワンシーンを目の前で繰り広げられるし、平和な日常と言うか最早ラブコメの雰囲気に飲まれて立ち止まって拍手を送る人々の一員と化してしまったらり。
度々そんなことを繰り返しながらやがて川のせせらぎが聴こえてきて、背の高い建物の間を抜ければ整備された小道に挟まれた綺麗な川が目に入る。
川の脇道へと繋がる階段を足取り軽く駆け降りて、大きな橋の下に入って行く。
「……」
まだ何かが起きたわけでもないけど、明かりの差さない暗い橋の下は人々の喧騒も遠くに感じてちょっと雰囲気が怖い。
先ほどまでは軽かった足取りも重くなって自分の足音にビビりながら進む私にアリスが呆れたように笑った。
(トロトロ歩いて何がしてーんだよ、テメェーは)
「…いやだって何か暗いし…不気味じゃん?慎重になっちゃうて…」
肝試しとか、夜の静かな雰囲気とか怖がるくらいには肝の小さいくせに本当1人で何やってんだかと今更後悔する。
ちょっと覗いたら終わりだと思ってたのに、まだ辿り着いてもないのにビビり散らかしてアリスに咎められるまでもなく我ながら自分が情けない…。
そんなに長い距離でもないのにフェンスの扉の前までが酷く遠く離れているように感じた。
カサカサカサカサッ
「ヒィッ!?!??ヒンッ!!!」
突然隅の暗がりから響く不穏な物音に心臓がキュッと跳ね上がった。
そして赤い瞳を輝かせて暗がりから姿を現したのは小さなネズミ。
(ネズミじゃねーかよ…しょうもねーモンにビビってんじゃねーぞ)
情けない悲鳴が口から漏れ出すと、そののままスマホのバイブレーション如く震えまくる私にアリスが益々呆れ果てている。
今までも怖い展開がなかったかと言えば割とあった方だけど、今日の得体の知れない緊張感がまるで肌に突き刺さってくるようで不安が拭えないのだ。
チューッと走り去ったネズミを見送りながら改めて呼吸を整え、ゆっくりとフェンスの扉へと近付いた。
「……」
扉は以前の事件の影響で強固な鎖や錠前が施されており、誰かが侵入した形跡も見当たらなかった。
ホッと胸を撫で下ろし、取り越し苦労だったと安堵感に全身の力が抜けてしまうが本当に何事もなくてよかった…。
(……良かったじゃねーか)
「本当だよ…はぁ〜〜安心したらお腹空いちゃった、串焼き食べてかーえろっ」
途端に気分が明るくなってきて先ほどまでの恐怖心は何処へやら、私は再び軽くなった足取りで踵を返した。
橋の下から出ようとしたちょうどその時、ポツポツと大粒の雨が降り始めてきてしまった。
降るとは予想していたけど、まさかこのタイミングでかぁ〜なんて、
(…っ!!オイッ!)
呑気に空の様子を伺っていた私に急にアリスの少し焦ったような声がしたと思った矢先だった。
ドンっと背中に勢いよく何かがぶつかった。
「ぁ……え……」
何が起きたか私はよくわからなかった。
ぶつかった部分がとても熱くて、
やがてこの熱さが痛みだと理解した時には視界が酷く霞み、
ノイズがかったテレビみたいに景色が歪み、
状況を把握する余裕もないままに、
私の意識は暗い闇の底へと落ちていったからーー。
そんな暗闇の中で最後にチャリっと何かの金具が擦れたような音がやけに耳に残った後には激しくなってきた雨の音を聞いていたけど、ついに何も聞こえなくなった。
そうしてじわりじわりと意識が途切れる時にはいつかワルツさんの飼い犬に殺されかけた時のことを思い出して…あ、また死にかけてんだなんて今更理解した。
……
……………
………………………
………………………………。
ざあーと降りしきる雨の音が聴こえる…。
「イッテェ……クソが…まともに受けやがって…」
悪態をつく声がしたと思えばザバァッと暗く揺らいでいた視界が大きく揺れ、苦悶の表情を浮かべる自分の顔と激しく地面を打ちつける豪雨の様子が見てとれた。
……ああ、これアリス視点か。
ようやく理解したものの、頭がぼうっとしているようで豪雨によって浸水した地面の上に転がっていた身体を気だるげに起こしたアリスがビシャビシャと水を滴らせながら背中に刺さっていた異物を勢いよく抜いて、地面に投げ捨てた。
それは鋭利な刀身を赤く濡らした鋭いナイフ、抜いた時に流れ出た鮮血が足元の水面を瞬く間に赤く滲ませる。
「不老不死でよかったなぁ?普通なら間違いなく死んでたぜ、お前」
(…………)
「…まだ呆けてんのか?まっ、自動的に俺様に意識が渡っちまう程にショックだった様だし?そのまま大人しくしてな」
くつくつと悪い顔で笑うアリスに私は何も言えなかった。
ジルベルトさんの不老不死の恩恵があったから平気だったけど、あの瞬間私は間違いなく死んだ。
結果的にはこうして助かっているし、平気そうに立ち上がって動き出すアリスの様子から傷は塞がっていってるのもわかるが、死を実感するほどの傷を負った記憶が思い出される度にない身体が酷く震えてるようで萎縮してしまう。
1回目の時はまぁ事故だしとか、飢えた獣の前へ飛び出たからにはああなるって妙に納得してしまった、けど今回はダメだ。
全く予想してない、死ぬなんて微塵も思ってない時に通り魔に遭遇して突然命を落とすような、そんな衝撃があった。
痛い目にも怖い目に何度も遭遇してきたけれど、死ぬほどの痛みなんて慣れるわけもなく、私は身体を乗っ取ったアリスに文句一つ言えずに黙って彼の動向を見守っていた。
「生憎誰にやられたかも確認できなかったが、相当手際が良かったぜ?それに…」
雨で増水した川から溢れた水によってぷかぷかと浮きながら流されそうになっているナイフを拾い上げて、手のひらで遊ばせながら柄の底の部分を確認するアリス。一緒になって確かめると太陽の中に目が描かれた何処かで見たマークが彫られてることがわかった。
「やっぱ例の狂信者共の仕業だったなぁ?それにテメェーの根拠のねー不安は当たってたってことだ、ハハッ!その結果俺様に身体の主導権を渡しちまったわけだけどな」
さらにアリスはネズミが飛び出して来た暗がりの辺りにまるで闇に紛れるために黒いインクで壁に描かれた怪しい魔法陣を発見する。
「この使用済みの陣は転移魔法の類か…連中、計画的に侵入する気満々だったってことだろうぜ」
頑丈に閉じられていたはずの扉は想定外の方法で無惨にドアごと破壊されている。増水した水に濡れた地面に捨てられたドアを見ていると、不安を煽っていた夢と同じ結果を辿っていることに私はまた恐怖を抱いていた。
「フンッ…俺様には都合の良い結果とは言え、連中にしてやられたのは気にくわねぇ。まとめてぶっ殺してやるぜ」
アリスは殺意満々の意地の悪い笑みを浮かべて、ドアを踏みつけながら暗い扉の奥へと足を踏み入れた。
どう考えたって最悪の事態になっているのだから、カミルやクロード様にいち早く異変を報告するべきなのに、わかっていても身体を奪い返そうとかアリスを止めようとか、そんな気力は少しも湧いてこなかった。
ただただもう痛い目に遭いたくなくて、フォルカさんの言いつけを破ったこと後悔するばかりで、今の私にはアリスに話しかける気も起こらなかった。
「…まっ…そう心配すんなって。邪魔さえしなければ俺様が面倒なこと全部片付けてやるよ」
信用できるはずのない胡散臭いアリスの言葉
「痛い思いはもうしたくないんだろ?……俺様に任せときな。お前を脅やかすモンぜーんぶ取り除いてやるよ……全部なァ…」
…………今までのアリスのことを思えばこんなの裏があるに決まってるってわかることなのに、
今はその言葉がとても力強く、
もう何か行動を起こすことが恐ろしくなった私にはいやに心地よくて、
考えるのも億劫で何もかも全てを委ねたくなった。