迷子のありすと奈落の救世主
屋敷に入ってから今までずっと存在を認識していたのに何で気づかなかったのだろう。
天井に張り付く暗闇へと伸びた糸の先で赤く光る大きな8つの丸い目全てが私を映し出す。
わらわらと天井の暗闇に先程から見かけていた蜘蛛達が集まる度に暗闇が蠢いてその大きさを増した。
沢山の鋭利な牙がギラギラ光っては獲物を前にした猛獣のようにボトボトと涎を垂れ流している。
フワリとカミルの光の蝶々が天井を照らした時垣間見えるその暗闇の正体は8つの鋭利な脚で器用に糸を渡り歩き、天井に張り付く黒く巨大な化け蜘蛛だった。
ー巻きぞえアリスの異世界冒険記38ー
「〜〜〜っ!!!」
あまりに間近に見てしまったその異形の化け物に口からは声にならない悲鳴だけが漏れて身体は震えるばかりで上手く動かせない。
「のどか姉ちゃん!大人しくしてな!」
即座にナイフを取り出したニールが踊り場の手すりを蹴って、その勢いのまま私の左腕を絡め取る糸目掛けてナイフで切り掛かるが、
「!?嘘だろ!?切ねぇぞ!!」
鋭利なナイフで傷つかないその糸はゴムのように激しくしなるだけで、切れる様子もなくニールは勢いのままステンドグラスの方へと飛んで行く。
そんなニールへ照準を定めた化け蜘蛛はその口から粘着質のある白い塊を吐き出した。
「おわーっ!!?」
「ニール!!」
見事に空中を移動するニールを捉えた白い塊はボンドのように絡みつき、体勢を立て直すことも出来ないままニールは派手に壊れかけのステンドグラスを突き破って行った。
アレは相当痛そうだとか考えるほどには心に余裕ができて、漸く身体が動くようになった私はすぐ様空いている手で背負っているリュックから魔道具を取り出そうと身をよじった。
リュックの留め具が中々外れずに苦戦してる間にも少しずつ引き上げられて余計に焦る。
手こずって引っ張り上げれている間にも下からカミルが魔法攻撃を大蜘蛛目掛けて放つ。
「焼き尽くせ!ヒートゲイル!」
赤い魔方陣からカッと飛び出した炎は私を避けて竜巻のように渦を巻き、化け蜘蛛へと命中する。
その火は化け蜘蛛を包み込み、蜘蛛の糸へと燃え広がるが、私が熱いだけで糸は切れないし、鎮火してしまうとんだフレンドリーファイアだった。
だが化け蜘蛛にも多少ダメージが通っているのか、一度苦しそうに呻いた後怒ったようにカミルへとニールに放った白い塊とは別の黒くドロドロしたヘドロのようなものを吐き出した。
「カミル様っ!」
それをシールドを張って迎え撃とうとしていたカミルをマクシム団長が横からバッと掻っ攫い、回避する。
ヘドロが命中した床は絨毯はおろか、床下まで一瞬でドロドロに溶け落ちる。
それを見て強力な溶解液だと理解した私もカミルも青ざめ、カミルのシールドの強度がどれほどかわからないがマクシム団長がいて本当に良かったと思う。
追撃を行う化け蜘蛛の攻撃を避けながらマクシム団長はカミルを射程外となる1階右側に身を隠した。
その隙に何とかリュックの留め具を外せた私はいくつか魔道具を落としながらも、目的の魔道具の取っ手を掴みバサッと広げた鋼鉄の傘にボタリと化け蜘蛛の口の端から零れ落ちた溶解液がちょうど降りかかり、ジュッと音を立てて弾けた。
「ま、間に合った!あ、あ危なかった…」
(危機一髪…オイ、早く糸を解けよ。出来ねーなら俺様に身体を使わせな!)
「そんなこと言われても!」
絡め取られている左腕にネックレスを巻いているせいか、アリスが喚いているのがいつもより遠く聞こえる。
というかよく見たら糸は私の腕と言うよりもネックレスの方に絡まっているような…。
考えている間に1階廊下から飛び出してきたマクシム団長が恐ろしい速さで階段を駆け上がって来る。
即座に反応して溶解液を吐く化け蜘蛛の攻撃など最小限の動きで避けると、マクシム団長は安定しない細い手すりの上を走り槍を構えては化け蜘蛛の脚の関節を的確に薙ぎ払った。
次の瞬間、何かが傘に重くのしかかった後に床に落ちた。
それは化け蜘蛛の2本の脚のようで、どうもマクシム団長によってあっさりと切り離されたようだ。
悲鳴を上げて悶え苦しむ化け蜘蛛にさらに容赦無く投槍の要領でマクシム団長が槍を投げれば大きく膨らんでいた腹部に突き刺さる。
ぼたぼたとその槍を伝って蜘蛛の体液が滴り落ちて来るから、傘をさしてて本当に良かった…と言うやっぱりマクシム団長おかしいくらいに強い。
「おっ!?おわぁああっ!?!?」
さっきの槍が致命傷だったのか天井に張り付く力を失った化け蜘蛛は大きく揺らぎ、私も左右に振られて、ついに化け蜘蛛が床へと落ちると私も引っ張られるようにシャンデリアのガラス片が散った床に叩きつけられた。
床に落ちたことでさらに槍が深々と突き刺さり、耳をつんざくおぞましい悲鳴を上げる化け蜘蛛と同じように地面に叩きつけられた衝撃とガラス片が皮膚を切って私も悶える。
化け蜘蛛はとにかくエントランスホールから逃げ出そうとしているのか、残った脚でバランス悪く歩き出した所、化け蜘蛛の側頭部を巨大な炎の球が焼き払った。
「和を放せ!」
廊下から魔方陣を展開するカミルがいくつもの炎の球を放つ。
魔法攻撃の集中砲火受けた蜘蛛の側頭部は焼けただれ、化け蜘蛛は痛みに悲鳴を上げて暴れながら正面大扉を体当たりで開け放った。
所が開け放った瞬間化け蜘蛛の目の前で弾けた閃光が蜘蛛の8つの目を眩ませる。
「効いたぜ…クソ蜘蛛野郎!!くたばれっ!」
そんな怒声と閃光の中から放たれた2発の斬撃が蜘蛛の目を切り裂き、さらなる傷を負った化け物は大きな悲鳴を上げた。
大扉前には血まみれになりながらもドヤ顔でゴーグルを装着し、ナイフをクルクルと器用に振り回して化け蜘蛛の体液を飛ばすニールが立っている。
立っていることさえままならないのか、ふらつく化け蜘蛛はカタカタと長い脚を震わせ下がるが、背後からは剣を抜いたマクシム団長が、右横にはカミルといよいよ追い詰められたと思えばばっと蜘蛛は私に絡めていた糸を縮めだして、体液を撒き散らしながら屋敷の左側へと駆け出した。
「むっ!」
「和っ!!」
「姉ちゃんっ!!」
「うわーーっ!!!」
屋敷の左側と言えば白い霧でどうなっているかわからない所だが、化け蜘蛛は躊躇することなく飛び込んでいく。
慌てて私を確保しようとしたマクシム団長の腕をすり抜け、私は引きずられるまま白い霧に消えた化け蜘蛛の後を追うことになった。
白い霧に突入してから直ぐに木の床を引きずられている感覚がなくなり、変わらない真っ白な景色の中をひたすら落ちていくような浮遊感が全身を襲う。
仮にあの屋敷に地下があったとしてもありえないくらい長い浮遊時間にはまるで初めてこの世界に落ちてきた時と同じ感覚を覚える。
持っていた傘で飛べないか一瞬試したが、腕がもげそうになるくらい負荷がかかったからすぐにやめた。
「どうしよう!アリスゥウーーッ!!」
(うるせぇ!!さっさと身体を明け渡すか、自力で糸をどうにかしやがれ!!)
そんなことを言われたって痛みもあって意識がはっきりしすぎる上にパニック状態の今、代わる代わらないのやりとりなんてしてる暇はない。
真っ先に落ちていく化け蜘蛛も何を思ってこんな所に落ちに来たんだかわからないが、されるがままはやばいと言うことだけは確かだ。
幸い私には転移可能な魔法の鞄があるのだ、落ち着いて場所さえイメージ出来れば化け蜘蛛ごとではあるが飛べるはずだ。
しかし飛ぼうにもどこに…ぶっちゃけ幽霊屋敷前は曖昧にしか覚えてないし、町は町民を危険にさらす可能性があるし、ひとまず無難に1番馴染み深いジルベルトさん家の前に…緊張しながらもイメージを膨らませて意識を集中させてみるが…
(戻っちゃだめ…あの子の所に行って)
と脳内に囁きかけてくる声のせいで失敗して余計にバランスを崩した。
こんなことが出来るのはアリスくらいだが、まるで少女のごとく可愛らしい声でやけに女々しくてゾワっとした。
「ちょっとアリスゥ!こんな時に変な茶々入れないでよ!」
(はぁ?何言ってやがる…俺様は何もしてねーぞ!)
「はぁ〜〜っ!?じゃぁ、今のはだウッッ!!?」
『誰?!』と紡がれるはずの言葉は突然鳩尾を襲う強烈な衝撃で短い悲鳴に変わった。
気がつけば白い霧は晴れ、夜のように薄暗い空間の上空に投げ出された。
そして化け蜘蛛に引っ張られるまま落ちていたのだが、その化け蜘蛛が脆かっただろう教会のような建物の屋根を十字架ごと突き破り落ちた勢いで、私は運悪く地面に突き立った十字架に腹部を強く打ち付けてしまったのである。
猛烈な痛みと屋根が崩れて起こる砂埃やらにむせ苦しみ、悶えている私と同じく重症のはずの化け蜘蛛はマクシム団長にぶった切られた脚の傷口から真新たらしい脚を生やしてスクッと立ち上がったではないか。
「うっそ…再生したよ…」
(再生じゃねぇ、よく見な。さっきより図体が縮んでるぜ…足りねー部分を補うために身を削ったわけだ)
言われてみればサイズがちょっと小さくなった気がする。
元が手の平サイズの蜘蛛の集合体だから好きなように身体を変化できるってことなのだろう。
しかしこれは実にまずい状況だ…私は多大なダメージを受けて瀕死な上に鋼鉄の傘も手から滑り落ちて無防備状態、一方相手は縮んだものの脚も生えて鋭い牙をガチガチ鳴らしながらジリジリ近づいて来る。
「ヒェ…」
これは私の手にはとても負えない…ので、アリスに代われ代われと願うものの微妙にハッキリした意識のせいか、身体の受け渡しが上手くいかないし、もうそんな暇なさそうなくらい近い。
このままバリバリと頭からこの蜘蛛に食べられて不老不死も関係なく死んでしまうんだと思わず神に祈るように両手を合わせて情けなく悲観していると、
「オイ、お前…女…」
背後から今の状況にそぐわない場違いすぎる気怠げな声が耳に届いた。
いい感じに十字架に垂れ下がって苦痛でろくに動けないから確認はしてないが、少年のような青年のような曖昧ながらも低めの声にこの場には私とアリスの他に恐らく男がいることだけは理解した。
あぁ、まさかこんな廃墟に人がいるなんて思わなかった…この化け蜘蛛に襲われる前にどうか逃げてほしいと願う私とは裏腹に気怠げな声はどうやら私に話しかけてるようでまた聞こえてきた。
「女」
「…和です…」
我ながらこの大ピンチの中、何を悠長に自己紹介してるんだろう。
ただまだ見ぬ背後の人に化け蜘蛛が何かたじろいでいるから生きながらえてる状況だ。
「……の…どか?」
「はい…」
「…助けてやろうか」
「マジ?…助けてください!」
誰だかわからないし、笑いを含んだ何だか不気味な声に信用していいものか一瞬思案するが、もう頼れる当てもないからどうにもなれとお願いすることにした。
「…いいぜ」
私がハッキリと答えて返事が返って来た瞬間、目の前に迫っていた化け蜘蛛の身体が突然風船が破裂するように豪快に弾け飛んだ。
「うひゃぁあーーっ!!!」
(…最悪)
やっと腹部へのダメージが引いて来たと思えば、弾け飛んだ化け蜘蛛から飛び散った肉片や体液やらを間近で浴びて精神に大ダメージを受けることになるとは予想外がすぎる。
頭にクリーンヒットした蠢く肉片が気持ち悪くて暴れていれば、引っかかっていた十字架から滑り落ちた地面はヌメッとしててさらに気持ち悪いし、とにかく最悪である。
「どうだ…満足したか」
気分はもう最悪であるが助けてもらったことには違いないと顔のベタベタを拭って振り返る。
幾分かクリアになった視界に薄暗い教会内に乱雑に並ぶ壊れかけの長椅子と下敷きになってぐちゃぐちゃになった赤い絨毯と穴ぼこだらけの木の床。
暗い空間でも淡く光るステンドグラスを背景に淡く発光する若木の根が絡みつく随分ボロボロになった手を合わせて祈る美しい女性の像、その前の祭壇に座っていた人物がおもむろに段差を飛び越えて私の前に立った。
「…よぉ」
長い黄金の杖を持った暗い褐色の肌に太陽のように淡い黄金色のニールとちょっと似たツンツンヘアー、両耳にはやたらと目立つ逆さ十字架のピアス、そして光を感じない翡翠色の気怠げな瞳の少年がニヤリと悪巧みをしているように口元を歪ませながら私を見下ろしていた。
「のどか…貴様はレブルの民か」
お礼を言うより先に少年の口から飛んできた質問に何を言ってるのか理解できず、フリーズした私は言葉を失った。