第二章 その1 入植者の都
「あれがネウレイデンの街よ」
ドラゴンの姿となったアナは俺を手でつかみながら朝の空を翔ける。河口に発達した街と聞かされてはいたが上空から見下ろしてその意味がよくわかる、大河が海に注ぐ場所に形成された広大な三角州、その中に大小さまざまな家屋が密集していた。
俺は顔にかけたサングラスをくいっと上げて周辺の地形を観察する。あの愛染明王様の現れた夢から覚めた時、どういうわけか頭のすぐ傍に置かれていた物だ。
昨晩、俺とアナはケルベロスのチビが伏してまどろむ洞穴の中で、長い長い言い争いを続けていた。
ネウレイデンに連れて行ってほしいと頼む俺に、アナはずっと村に残ってくれと強くねだった。それでも絶対すぐに戻るからと繰り返し、ついにアナは根負けした。結果として今日一日だけはネウレイデンに入ってもよいと許可をもらったのだ。
アナの父親にもそのことを伝えると、彼は「そうか」と静かに頷き返した。
その際「あんたには感謝している。ネウレイデンと和解するための時間稼ぎができた」と耳打ちされたのは妙に印象深かった。やはりドラゴン族としても人間と争うのは避けたいのだろう。当然、その後に「だが娘はやらんぞ」と付け加えられたのだが。
滑空していたアナは徐々に徐々に降下する。向かう先は川のほとりの小さな木造の小屋だった。裏の川面にはボートが係留されている。
「ここから渡し舟に乗れば町に入れるわ」
そしてゆっくりと小屋の前の地面に両足を着ける。はばたく巨体に周囲の砂や草が巻き上げられるが、まるで無闇に土をほじくり返さないよう爪先に細心の注意を払って着地しているようだった。
アナは俺を地面に下ろすと光に包まれ、ドラゴンの姿から少女の姿へと変化する。そしてすぐに「おじさん!」と呼びながら、小屋の扉をノックしたのだった。
小屋から出てきたのは俺の身長の半分ほどの背丈しかない小柄な男。だがその尖った耳は異様に大きく、鼻も鳥のくちばしのように長く突き出している。ゴブリンという表現がまさにぴったりだった。
手には金属製のコップを持っている。酒でも飲んでいるのだろう、アルコールのにおいが漂っていた。
「やあドラゴンのお嬢ちゃんか、今日もお忍びかい?」
「ううん、今日はこの人を町まで連れていってほしいの」
そう言って手で示される俺を見て、ゴブリンの男は「ん?」と額にしわを寄せた。
「そいつはどういう人間だい?」
「私の婚約者」
途端、男は飲んでいた酒をぶっと吹き出した。そしてむせながら「冗談だろ?」と苦しそうに訊き返す。
「いいえ、私は本気よ」
だがきっぱりと断るアナ。嘘ではないと察してか、男は頭から足先まで俺をじろじろと舐め回すように見る。そして頭をぽりぽりと掻きながら自分自身を納得させるように言った。
「どういうつもりかは知らないが、お嬢ちゃんの頼みとあっちゃ断ることはできねえ。わかった、この人間のことは俺に任せろ」
どうやらOKらしい。俺は「ありがとうございます」と頭を下げる。
「本当に帰ってきてくれる?」
疑り深く尋ねるアナに俺は「もちろん」と指でマルを作る。
「じゃあ夕方、ここに迎えに来るからね」
そう言ってアナは飛び立った。俺を抱えていない分だけスピードを気にする必要がないのか、翼をはばたかせて一気に空高くまで上昇すると、そこからは戦闘機のように体の向きを自由自在に変えながら大きく弧を描く。
「随分と気に入られてんだな」
小さな点になって空の向こうへと消えてゆくアナを見遣りながら、ゴブリンのおじさんはにかっと歯を向けた。そして「乗りな」と俺を川に浮かべた小さなボートに案内する。
おじさんは自分の身長よりも長い櫂を器用に操りながら川を渡る。俺はおじさんと向かい合うように座っていたが、時々転覆しそうになるくらい大きく揺れるのでボートにしがみついていた。
「今日は流れが荒いな。落っこちねえようつかまっとけよ」
「ネウレイデンに入るのって大変なんですね」
揺られ続けて気分が悪くなる。対岸は見えてはいるが、まだまだ4分の1も渡っていない。
「そりゃあ敵が攻め込みにくくて船が出せる場所にわざと作ったんだ。おかげで魔族も人間も安心して集まってるんだが」
「魔族と人間がいっしょに暮らしているのですか?」
「ああ、魔族が狩った獣や作物を買い取ってくれるんだ。魔族は人間の工芸品と交換することもできるし、美味い酒だって飲める。別になんてことはねえ、お互い様だよ」
ガハハと笑いながらもおじさんは巧みに櫂を操る。
そういえば女騎士メリッサも魔族とは商売を基にしたつながりを持ちたいと話していた。殺されたドラゴン族の少年もここへは獣の皮を交換するために来ていたらしいし、思った以上に人間と魔族とは持ちつ持たれつの関係なのかもしれない。
「ここはな、30年前までは魔族の集落だったんだ」
不意におじさんが話し出す。顔は俺に向けているが、その眼はどこか遠い場所を眺めていた。
「俺たちゴブリンだけじゃねえ、ドラゴンや獣人、色んな魔族が暮らしていたんだ。小舟を浮かべて魚を獲り、畑を耕してトウモロコシを育てる。顔も知らない爺さんの時代から、ずっとずっと俺たちはそんな生活を続けてきたんだよ。でも海の向こうから人間が来てからすべてが変わった」
俺は無言で聞き入る。口では笑いながらもおじさんの言葉の端々からは憂いも感じられた。
「いやいや、人間には驚かされたよ。陶器や鉄のナイフなんて当時の俺たちは見たことも無かったから、魔族はみんな人間の工芸品を欲しがったさ。だから人間も毛皮を欲しがっているって知った時には、俺たちゃ必死になって獣を狩りまくったもんだよ。特にビーバーは高値で売れるって喜ばれたんだ。で、気が付けばこの通り、街ができて俺たちの集落も畑も消えてしまった。狩り尽くしたからもうここらじゃビーバーを見かけることもできねえ」
「昔に戻りたいと思ったことはありますか?」
思わず俺は尋ねていた。現代人の価値観から言えば都会の喧騒とは無縁の自給自足の生活というのはたとえ不便であっても不思議な憧憬を抱いてしまう。このおじさんはいわばその両方を経験した人物、両方の生活をどう感じているのか少なからず興味があった。
しばしおじさんはうーんと首を傾げる。だが最後には豪快に笑って答えたのだ。
「そりゃ何度もあるよ。でもこの生活になじんでしまうともう戻れねえ、それに美味いビールが飲めなくなるのは辛い。ところであんた、どこに行くんだい?」
「ボスフェルト家のお屋敷を訪ねます」
あの女騎士メリッサ・ボスフェルト。昨日は人間である俺の身柄を保護しに来たとの理由でドラゴンの村まで出向いてきたが、そんなのはどう考えても建前、実際はアナらドラゴン族との争いを収めるために話をしに来たのが本当の目的だろう。敵対する集団に単身で出向いてくるなど並大抵の度胸ではない。
それに事故とはいえメリッサも俺の瞳を見てしまっている。アナと同じく俺にただならぬ感情を抱いてしまっているはずだ。押し殺していた想いを彼女がぶちまけてしまったのもその術が原因かもしれ……いや、確実にそうだ。
あの場では途中でアナの乱入もあって中途半端なところで終わってしまったが、今日改めて話をすればより深い内容を聞き出せるだろう。
「ボスフェルト卿のところか。あの人はネウレイデン一番の騎士だよ、人間だろうと魔族だろうと分け隔てなく接してくれる」
どこに隠して持っていたのか、おじさんは酒の入ったコップを口に当てながら話す。こんなに揺れるボートの上だというのに、杯の酒は一滴もこぼれていなかった。
川を渡り終えたおじさんは近くの杭にボートをつなぎとめる。
所々に桟橋の設けられた水辺にはカヌーのような小舟から大きな帆船までさまざまな船が停泊しており、近くには積荷を保管するためのレンガ造りの倉庫が並ぶ。船乗りのためか酒場も賑わい、船から下ろしたばかりの商品を扱う店舗もずらりと道の両側を埋め尽くしていた。
人間と魔族がいっしょに暮している、というのは本当だった。行き交う人々はいわゆる普通の人間から全身毛むくじゃらで犬や猫のような獣の顔をした者、優に3メートルはありそうな巨体を揺らして歩く大男、そしてトカゲのように身体中細かい鱗でびっしりと覆いつくされた者まで風貌は様々だ。
「俺はここで飲んでる。帰りたくなったら声かけてくれ」
ゴブリンのおじさんはそう言うと港近くの酒場にスキップしながら飛び込んだ。本当に酒好きなゴブリンだな。
ボスフェルト家までは船の上でおじさんに道順を教えてもらっていた。老若男女様々な種族の人々とすれ違いながら街を歩き、やがて俺は一軒の屋敷に到着する。
「ここか」
騎士の家と聞いていたが、肩透かしを食らった気分だった。3階建てのその屋敷は周囲よりやや敷地が広い程度で、なんら変哲の無い木造の家屋だった。そもそも他の家々といっしょに並んで建っているものだから、何も知らなかったら完全に素通りしていただろう。向こうに見える風車小屋の方がよっぽど立派に思えるほどだ。
でも、ここで合っているはず。
ふうと呼吸を整えて扉の前に立つ。扉には馬の頭を模した金属製のドアノッカーが備え付けられていた。
それを掴んだ俺はガンガンとぶつけ音を鳴らす。日本ではあまりなじみないが、昔の呼び出しベルのようなものだ。
「どちら様だ?」
しばらくして扉が開かれ、中の人物は俺を見るなりあっと声を上げた。
「シンヤ!?」
出迎えた人物はメリッサだった。予想外の俺の来訪に驚いて扉を乱暴に開け放ってしまったものの、ゴホンと咳き込んで声と姿勢を整える。
「なぜここに? ドラゴンの娘から逃れてきたのか?」
「いえ、アナの同意をもらいました」
メリッサがまさかと言ったように目を丸めた。だがすぐにその表情は崩れた。
「そうか、まさか本当に来てくれるとは嬉しいぞ。せっかくだから上がってくれ」