第一章 その1 愛をください!
貫徹三日目、ついに限界がきてパソコンデスクに突っ伏した俺の意識はそのまま途切れてしまった。
気が付けば周囲は満開の蓮の花。地平線の彼方まで淡いピンクの花と大きな葉で埋め尽くされている。
そして足元を見てさらにぎょっとする。俺は大きな蓮の葉の上に両足を乗せ、水の上に浮いていたのだ。
まさしくこの世とは思えない異様な光景。しかし妙に落ち着いていられるのは不思議だった。
「大迫シンヤ、29歳。死因は過労……なかなかにハードな人生を送ってこられたのですね」
突如聞こえた声に顔を上げる。見るとさっきまで誰も立っていなかったはずの目の前に、ひとりの女性が立っていた。
薄い白の衣を纏い、首や腕には金属の装飾品を身に付けている。そして長い黒髪をさらに魅力的に見せるキリリと整った目鼻立ち、百人いれば全員が美人と評するだろう。
お、女の人!? しかもすっげー美人。
いきなり現れた美女に完全にパニックに陥っていた。
こんなに女性と接近したのは久しぶりだ。コンビニで若い女の子の店員とやり取りするだけでさえどぎまぎしてしまう俺だ、目の前で会話するというだけで社長面談以上の緊張に心が凍り付く。
そんな女性は手元に巻物のような紙を広げて眺めていると、ガッチガチに固まる俺をふと見てにこりと微笑んだのだった。
「これは失礼しました。ようこそ死後の世界へ」
「死後の世界!?」
俺はようやく声を上げる。なんとなく予想はついていたものの、いざ言われると驚きと落胆とで虚しさがこみ上げる。
お父様、お母様。先立ってしまった息子をどうかお許しください。死亡保険はかけていましたので、せめてそれを基に息子の葬儀を執り行ってください。
それにまだ見ていない録り溜めたアニメもあったのに……あと自宅のパソコン。中の秘密のデータが誰かに見られたりしないだろうか?
人生やり残したことだらけ。親孝行さえろくにしていないというのに、極楽浄土に誘われてしまうとは。
「いえ、違います。ここは極楽ではありません」
女性が横やりを入れ、俺は再びぎょっと飛び上がる。
考えを読まれただと? この女、何者だ?
「ここは私の庭。普通なら死後三途の川を渡って閻魔様の裁きを受けてもらうところですが、今回は事情がちょっと違いまして……と、自己紹介がまだでしたね」
女は巻物を閉じると、少しばかり腰を曲げた。
「私、愛染明王と申します。恋愛や縁結びを司る仏と言えばわかりやすいでしょうか」
「明王様? は、初めまして」
なんということだろう。死んだ後に導いてくださるのはよくわからん神様ではなく仏様だったか。俺も日本人だな。
頭を下げ、掌を合わせる。念仏も唱えようとするが、残念ながら般若心経の冒頭しか覚えていないので声には出せなかった。
それにしても愛染明王って、どこかで聞き覚えのあるような……。
「いえ、私とあなたが出会うのは初めてではありません。覚えておいででしょうか、あなたが高校生の時、高野山の宿坊に泊りに来たことを」
愛染明王と名乗った女性はにこりと微笑みを投げかけながら話した。
「宿坊? あ!」
言われてようやく思い出した。
俺は小中高一貫の男子校に通っていた。仏教系の学校で、高校生になれば高野山の寺でしばらくの間泊まり込んでの勉強合宿を行うのが恒例行事だった。
その時、朝のお勤めで護摩供を行った。護摩木という木の札に願い事を書き、それを火にくべて祈願するというものだが、お堂の中で催されるこの儀式は炎の熱と木の焼ける匂い、そして唱えられる念仏とが合わさり独特な空気が漂い、ただならぬご利益を感じさせる。
「彼女ができますように、彼女ができますように……」
燃え盛る炎を前にブツブツと念じるのは高校生の頃の俺。この頃、俺は親友に彼女ができたと聞き悔しさでメラメラだった。
「お前、仏様に煩悩ぶつけてどうする」
隣から同級生が笑いを堪えて突っ込むが、炎の傍らに座る住職は優しく諭した。
「いや、むしろ良いことです。愛染明王様は愛欲……煩悩を悟りへのエネルギーとして受け止めてくださるのです。もっと煩悩をぶつけ、それをバネにして上の次元を目指しましょう」
あの時の住職の言葉は今も時々思い出す。モテたいという一心で勉強に仕事にと打ち込んでこれたのは事実だ。
そしてその時炎を通して俺たちを見守っていたのは巨大な明王像。六本の腕には鈴や杵、そして弓矢を持った鬼のような形相の仏像だった。
「愛染明王って、まさか?」
「そうです、その時の愛染明王が私なのです」
やはりそうだったか。あの時俺は護摩焚きを通して、この仏さまに願いを届けていたのか。
それにしてもあんな泣く子も黙る憤怒の相の仏像なのに、まさか本体はこんな美女だったとは。あまりにも俗っぽ過ぎる願いを知られ、急に恥ずかしくなってしまった。
「人間、神仏に祈願する時は多少の見栄が混じるか、もしくは最初からあてにせずただ形だけで祈っていることがほとんどなのですが……あそこまで正直に煩悩を投げかけられたのは珍しく、ついあなたに興味を持ってしまいました。それから度々あなたの行いを見守らせていただきましたが、なかなかに善行を積まれてきましたね」
「善行ですか? そんな良いことをした覚えはないのですが」
意外なことを言われ、俺はつい訊き返した。ずっと生活のため将来のためと仕事をしてきただけだ、善行なんて呼べるほど立派な行いをした記憶はないぞ。
「いえいえ、これをご覧ください……あ、これ閻魔様からの借り物なんで大切に扱ってくださいね」
そう言って明王様はどこからともなく一枚の板を取り出す。それは塵ひとつつかぬほど磨かれた鏡だった。その鏡面をこちらに向けた途端、鏡の中にテレビのように別の映像が映し出される。
若かりし日の俺だった。電車の中で目の悪い人が近くにいれば、手を引いて案内する。夏休み、地震や台風の災害があれば被災地まで行ってボランティアにも参加した。小学生の時、いじめっ子がクラスの子をいじめている時に横から割り込んで制する姿も映っていた。
こんなこと、とうに記憶の彼方だというのに。ちゃんと見守られていたならそれは素直に嬉しく思う。
「あなたは困っている人がいれば放っておけない、そういう性根の持ち主です」
つまりは根っからのお人好しという意味なんだが、こうも褒められると照れくさくなってきたな。
「ですが、だからこそ生前の願いが報われなかったのは残念でなりません」
明王様は少しばかりしんみりする。
結局、俺は一度も彼女ができなかった。それどころか女の子と手すらつないだことの無いまま死んでしまったのだ。
高校卒業後、進学した理系の単科大学は男女比99:1の魔境。誘われて参加した合コンも緊張のあまりろくに話せず終わってしまった苦い思い出もある。
就職先の会社は盆も年末年始も関係無しの残業地獄。高度情報社会と化した21世紀の日本、その裏にはインフラと化したネットワークを24時間保守点検している我々IT土方がいるのだ。
そもそも生まれ持ってのバッチバチの天然パーマに日本人かと疑われるほど色黒の肌と強面要素をこれでもかと備えている。おまけに小さい頃から習ってきた居合道のおかげで、えらい筋肉がついている。こんなニューヨークのダウンタウンをうろついていそうな怪しさプンプンの男、女の子が近付いてくるなどまず有り得ない。
嫌なことを思い出し、俺も沈んでしまう。
「そこであなたのほどのお人好し……ゲフン、自己犠牲のできる方が報われないまま亡くなるのは愛染明王としても惜しく思っています。そこで、あなたの願い、是非ともかなえて差し上げましょう」
「本当ですか!?」
明王様の言葉に俺は喜びを隠せなかった。言い直したのが少し気になるが、モテモテになれるなら願っても無いチャンス。
「ええ、ですが生憎タダでとはいきません。ひとつ条件があります」
そして明王様は別の映像を見せる。映し出されたのは広大な平原、そこを闊歩する鎧の騎兵たち。その格好はまさしく中世ヨーロッパと呼ぶにふさわしい、全身を金属の甲冑に覆われた物々しい姿だった。
「ここはシンヤさんの住む世界とはまた別の世界。種族同士の争いが激化し、平和とは程遠い状態。そこでシンヤさんにはこの世界に平和を導いていただきたいのです。イエスと言っていただけるなら、こちらの世界で新たな人生を再開させましょう」
「そんな、平和ってどうすれば?」
おいおい、随分とハードな条件じゃないか。そんな難題できるはずがないと、俺は首を横に振った。
「ご安心ください。ひとつ愛染明王の加護で大いなる力を授けます。それこそシンヤさんの望んだ『愛の力』です」
明王様が俺を指差したその時だった。俺の目の奥から炎が吹き上がったような熱を帯び、俺は「ぐわあ!」と唸って膝をついたのだった。
「な、何をする!」
「力を授けました。あなたの瞳を見た異性なら誰でもあなたに恋に落ちる。その『愛の力』をもってこの世界を救ってください」
平然と言ってのける明王様。俺はまだ目玉から煙が出ているような気がして、手で目を覆いながら「つまり……どういうことです?」と尋ね返した。
「生まれ変われて嬉しくないのですか?」
「それは嬉しいですけど……」
「はい、じゃあけってーい!」
「ああ!?」
直後、俺の身体が淡い光に包まれる。どうやら俺はよくわからんままにその別世界とやらに転送されるらしい。
それにしても随分と強引なやり口。あの明王様に祈願したことを今さらながら後悔した。
そして俺は目覚めた。場所は平原のど真ん中。
「いてて、何だったんだ、今の?」
起き上がりながらきょろきょろと辺りを見回す。一面の淡い緑の草原、所々に木々が繁茂し向こうには連なる山々も見えるが、ほぼ平坦な大地と言っていい。
死んで異世界に来たというのは本当なのか?
考えながら掌をぼうっと見た時、俺は驚いて立ち上がった。
「これ、俺の身体か!?」
そこにあったのは随分と瑞々しい、若かりし頃の手。今のようにパソコンでなく鉛筆を握って勉強していたせいで、くっきりと盛り上がっているペンだこ。
それに腰や肩の重みが無い。まるで10代の頃に戻った気分だ。
どうやらこの世界に来るに際して、愛染明王様は俺の身体を若返らせてくれたらしい。ちょうど宿坊で祈願した高校生の頃の姿だった。
ちなみに服だけはいつも着ているジーパンとTシャツのようだ。30目前にして今さら学生服を着るのはさすがに気が引けるので、まあこれはラッキーだな。
それにしても……俺は再び頭を抱える。
「何だよ、『愛の力』って」
ぼそっと呟く。明王様はこの世界を『愛の力』で救えと言ったが、それはどういうことか?
たしか俺の目を見たら云々とか話していたが、ちゃんと説明もされていないので今一意味が分からない。
あれこれと考え込んでいたその時だった。
ドドドドドドド……。
凄い地鳴りだ。大地が揺れ、俺はよろめく。
「な、何だ?」
地震だろうかと首を回した時、俺は見た。
平原の向こうから押し寄せる騎兵隊。その数は目に入るだけでも軽く100を超えている。
な、なななな何ですと!?
声も出なかった。ギラギラに輝く甲冑に身を包み、長槍を高々と掲げ疾走する姿は映画で見るのとまったく同じ、それでも実物の迫力はまるで違った。
それが土煙を巻き上げてこっちに突っ込んでくるのだ。焦らないわけがない。
今すぐここから逃げよう。そう思って振り返った時、俺はおそらくこれまでで一番仰天した。
空を見上げる。そこには翼を持った巨大な影……そう、ドラゴンだ。何十体というドラゴンの群れが、まっすぐこちらに飛来して向かってきていたのだった。