7 気持ちの問題
夜も更け、静まりかえった寝室。部屋の主人は既に眠りに落ちていた。スゥッと愛らしい寝息を立てており、起きる気配は見られない。
そんな中、ピコピコッと耳を左右に揺らす者はゆっくりと主人の枕元へと忍び寄る。
かの者は小さい体の割にとても利口だ。油断している今ならば、獲物を仕留めることなど容易いことだと考えるだろう。味見をした限りでは、とても柔らかく美味しそうな肉。
主人に拾われてから今までの間、傷だらけだった体を癒し、彼らの警戒を解くために大人しく出された物だけを口にして、可愛い無害なシュバルラビンを演じていたのだ。肉に飢えている者にとって、このあどけない表情を浮かべながら眠る主人は、この上ないご馳走だろう。
半開きの口から、重力に従って落ちそうになる涎を啜る。未だ、主人の起きる気配はゼロ。食らいつくのであれば、今がチャンスだ。
もう我慢ができないのか、かの者は涎をポタリと垂らしながら主人の頬へと牙を立てようとする。
しかし、いきなり耳を掴まれた。美味しそうな主人に心を奪われ、彼が入室した気配に気が付かなかったのだ。
彼は、声を上げようとしたシュバルラビンの口を布で塞ぎ、そのまま主人の部屋から連れ出す。
連れて来たのは、己のテリトリー。ここならば、あの子達に気が付かれる事はない。
「………悪く思うな」
俺だって命を奪うのは嫌だ。だが、お前はうちの戦力である妹に牙を向けたんだ。生かしておくわけにはいかない。
そう言い、シュバルラビンの体をシンクの中で押さえつけた。
しかし、シュバルラビンも己の命がかかっている以上、黙ってやられる訳がない。なんとか逃がれようと、その柔らかい毛の中に隠し持っていた爪で、己を押さえつけている手を引っ掻く。
引っ掻かれた彼の手からは、赤い液体がポタポタと落ちている。だが、押えつける力が弱まることはない。
右手に持つカステラナイフが、シュバルラビンの首に添えられる。
「………ごめんな」
シュッとカステラナイフが引かれた。途端に、シュバルラビンの首元から赤黒い液体が勢いよく飛び出る。それはシンクの中を赤く染めた。
やがて、シュバルラビンは動かなくなる。シュバルラビンの息が止まったのを確認すると、彼はカステラナイフをシンクに置き、店から出ると近くの草原に遺体となったシュバルラビンを丁寧に埋葬する。もちろん、妹達にバレないように。
血塗れになったシンクを隅から隅まで丁寧に掃除し、アルコール消毒を施すと、隠蔽は完了した。
「………後は、ハルへの言い訳か」
彼は、重いため息をつくと自身の怪我を治療し、睡眠を取るために自室へと戻った。
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朝、目が覚めるといつもカゴで眠っているはずのシュバルラビンの姿が見えないことに気が付いた。どこにいるのだろうかと部屋の中を探してみるが、一向に姿が見えない。
賢いからリビングにいるのかなと部屋を出ると、そこにいたのはアキ兄とナツ姉だけでシュバルラビンはどこにもいなかった。
「あ、おはよう。ハル」
「おはよう。ねぇ、シュバルラビンさん、見てない?」
部屋にいないんだけど、と問いかける。すると、アキ兄が少し言いにくそうに。
「……昨日、出て行ったぞ」
と言った。
詳しく聞いてみると、アキ兄が寝ようとした時に私の部屋から物音がしたから、様子を見に行ったらシュバルラビンが窓を開けて出て行ったそうだ。
「……俺の姿に気が付いたみたいで、お礼のように頭を下げて行ったぞ」
「………そう、なんだ」
そっか、出て行っちゃったんだ。窓の音、全然気が付かなかったな。
……私、ちゃんと治ってよかったねともさよならとも言ってないのに……。
けど、仕方ないね。いい子だったから、私に心配かけないように出て行ったかもしれないし。
……でも、お別れくらい言ってあげたかったな……。
「………」
「……ほら、ハル、元気出しな。そのうち会いに来てくれるよ」
よしよしと、ナツ姉に頭を撫でられてしまう。ここで、アキ兄の左手に包帯が巻かれていることに気が付いた。
「アキ兄、その手どうしたの?」
「………ん?………あぁ、今日の王子用ケーキを考えながら洋梨の皮を剥いていたら、ペティナイフでザクッと……」
それはナツ姉も知らなかったのか、ケーキ考えながら怪我するとかバカでしょ!とアキ兄に言った。
でも、想像しただけで凄く痛そうだ。特に、アキ兄が研いだ後の包丁は本当に鋭いから、少し引いただけで切れちゃうし……。
「アキ兄、大丈夫?」
「………大丈夫だ。それより早くご飯食べな。もうすぐ仕事の時間だぞ」
「はーい」
ナツ姉が作ってくれたベーコンエッグの乗ったトーストを口に含む。だけど、隣で野菜をもしゃもしゃと食べていたシュバルラビンさんがいなくて、少し寂しく思う。
でも、いつまでもくよくよしてても仕方ないし、気持ちを切り替えてお仕事しないとね。
そう考えながら朝食を食べ終えると、1階へ向かいコック服に着替えて、厨房でケーキを作り始めた。
いつものように生菓子や焼き菓子を作り、いつものように開店準備、店が開店したらいつものように接客して、注文された紅茶を入れる。
しかし、紅茶を飲むアレン様の動きがピタリと止まった。何かと思い、首を傾げる。
「ハル」
「はい?」
「………紅茶が不味い」
アレン様から吐き出された言葉に、カチンッと固まってしまった。不味いと面等向かってハッキリ言われたのは初めてで、少し戸惑ってしまう。
私は紅茶を淹れるのには自信がある。いつも通りの温度とやり方で淹れているので、不味いなんてことはないはずだ。アレン様が好きなダージリンの入った瓶を私が間違えるはずがないもの。
すると、アレン様がナツ姉をちょいちょいと手招きをした。ナツ姉も何で私呼ばれたんだろうというような表情を浮かべながら、こちらへとやってくる。
「はいはーい。アレン様が私を呼ぶなんて珍しいですね?」
「ナツ、悪いがカフェラテ淹れてくれるか?」
いきなりの注文に、ナツ姉が目をパチクリと瞬かせる。いつもハルが淹れた紅茶しか飲まないのにと言葉にするナツ姉に向かって、飲んでみろといいながらティーカップを差し出した。
ナツ姉はティーカップを受け取ると何の疑いもなく、私の淹れたダージリンを口にする。
「……いつもの味じゃない」
「だから、ナツにカフェラテを頼んでいるんだ」
「………なるほどね。わかりましたよ」
ナツ姉が、カフェラテを淹れにカウンター内へ戻る。
「ハル。次に俺が来るまでに紅茶の味、元に戻しておけ」
じゃないと許さない。
そう目で訴えていた。下げろと言われたので、素直に飲まれなかったダージリンを手に、とぼとぼとカウンターへ戻ろうとする。
途中でリーザさんに呼び止められた。
「ハルちゃん、大丈夫?悩み事があるなら相談に乗るよ?」
「え?あ、えっと、アレン様に紅茶……美味しくないって言われちゃって……」
「そうじゃないよ。……何かあったんでしょ?」
だって、彼の言う通り今日のハルちゃんが淹れた紅茶は、あまり美味しくないんだ。……とリーザさんにもそう言われてしまった。
別に悩み事はないし、何かあったとしたらシュバルラビンのことくらいだと発言すると、そういえばシュバルラビンはどうした?とドーマさんが問いかけてきた。
「………実は、シュバルラビンさんがいなくなっちゃって」
とりあえず、アキ兄が話していたことをそのままリーザさん達に伝える。
少し複雑そうな表情を浮かべているが、ちゃんと私の話を聞いてくれた。さよならくらい言いたかった、見送ってあげたかったと伝えると、ハルちゃんは優しい子だね、きっとシュバルラビンもどこかで喜んでるよと頭を撫でられる。
リザードマン特有の鱗のある大きくて少しひんやりとした手だったが、とても暖かく感じた。
「……きっと、紅茶があまり美味しくなかった原因は、ハルちゃんの気持ちが切り替わってなかったからだな」
ドーマさんの言う通り、気持ちを切り替えた気でいただけで、本当はどこかで引っかかっていたのかもしれない。話を聞いてもらってどこか心がホッとした。
「ハルちゃん、何かあったらちゃんというんだよ?」
「そうだぞ」
俺達は君達の味方だからいつでも相談してと笑う彼らに、ありがとうと伝えると大きく頷いてくれる。
………後で、リーザさんとドーマさんのお持ち帰り用ケーキにこっそり1品増やしておこう。そう考えながら、カウンター内へと引っ込んだ。