悪役令嬢ビビアナの恋
歴史あるイノセンシア王国の南、港町アンドラデの船着き場で、公爵令嬢ビビアナは幼馴染の俺と綱引きをしていた。
否、船に乗ろうとしている彼女を、俺は全力で引っ張っているのだ。
「放しなさい!ルカ・オルディアレス!しつこいわよ!王太子殿下の側近だからって、私の自由を奪う権利はないはずよ!」
動く度に艶めく黒い髪が風に靡く。少しつり目の青い瞳が、怒りに満ちて俺を睨む。ビビアナが俺の家名を呼ぶ時は、本気で怒っている時だ。
「今度という今度は放さない。お前、一体どこにいくつもりだ!」
「この船を見れば分かるでしょう?アスタシフォンに行く貿易船だもの」
俺は大きな船の上に翻る旗を見て、緑色の目を細めた。ビビアナの向こうで太陽が眩しく輝いている。
「見りゃ分かる。俺が言いたいのはそんなんじゃない。お前が外国に逃げようとしてるわけが知りたいんだ!」
船の桟橋で行ったり来たりしている若い男女を、船員は困った顔で眺めている。
「そろそろ決めてくれないか」
「乗るのか、乗らねえのか」
日焼けした頬をぽりぽりと掻いて、リーダー格の船員が問いかける。
「乗ります!乗せてください!」
「ダメだ、すぐに下りるんだ!」
俺はビビアナの細い腰に腕を回し、持ち上げるようにして桟橋から離れた。
◆◆◆
小一時間後、船は汽笛を鳴らして出航した。
波の彼方に消えていく貿易船を見送り、ビビアナは肩で息をしていた。
「……つ、次の船に乗るわっ。あなたの妨害には負けないわ、ルカ」
「妨害ねえ……」
ああ、疲れた。
どっと疲れが押し寄せたが、俺はがっちりと彼女の腕を掴んでいる。船着き場の傍にあるベンチに脚を投げ出して座ると、仕方なくビビアナは隣に腰かけた。
「無理に船に乗らなくてもいいと思うんだけどな」
「私が生きる道は外国しかないのよ。あなたには話したでしょう?セレドニオ様はもうすぐ運命の女性と出会うのよ。名ばかりの婚約者の私を棄てて、彼女と幸せになるの」
「またその話か」
「イノセンシア国立学園高等部三年の時、王太子殿下は運命の女性と……」
はあ。
こいつの思い込み、どうにかなんないものかな。
◆◆◆
オルディアレス侯爵の次男・俺ルカの幼馴染のビビアナは、昔から少し変わったところのある令嬢だった。令嬢らしからぬ活発さと、物怖じしない態度、成長しても変わらない言葉づかいは今も健在だ。話しやすくて丁度いい。
公爵でもある父の宰相に連れられて、王宮にもよく出入りしていたビビアナは、王太子セレドニオ・ブエナベントゥラ・シーロ・サバス・ディ・シルベストレ・イノセンシア殿下と、殿下の側近の俺と顔馴染になった。
初めはお互いに名前しか教えていなかったが、俺の家名と殿下の長い名前を聞いたビビアナは、
「私の人生、もう終わりだわ!」
と泣き叫んで走り去って行った。
それからもことあるごとに、ビビアナは
「よろしいですか、セレドニオ様。私と婚約などしてはいけませんよ」
だの
「ルカ、私達は親友よね?あなたに好きな女性ができても、決して邪魔はしないわ。だから、私を逆恨みして殺したりしないでちょうだいね」
だのと、謎の言葉を発してきた。
間違っても俺はビビアナを殺したりはしない。
親友だと念を押された時は、死んでしまいたいくらい辛かったが、それでも彼女を手に掛けようとは思わなかった。
大切な、大切な幼馴染のビビアナに、いつの頃からか恋をしていたからだ。
だが、国王と宰相の間で、ビビアナを王太子セレドニオの婚約者にと決めてしまった。
「終わりだわ、私、バッドエンド確定よ。罪が露見したお父様共々処刑されて死んでしまうんだわ!」
と意味不明な叫びを上げるビビアナの隣で、俺もまた、絶望していた。
宰相は清廉潔白な人だ。悪事に手を染め、賄賂を強請るようなことはしないのに。
◆◆◆
「腕を放して、ルカ」
「放したらお前はどこに行くか分からないだろ」
「次の船が来るまで、宿でも取るわ。お金ならほら、こんなに……」
世間知らずなビビアナは、スカートの下から金貨が入った袋を取り出した。一瞬見えた白い脚に俺の目は釘付けになった。
「ったく、どこに隠してんだ。金貨を持ってきたのか。悪いが、銀貨や銅貨がないと、店主が腰を抜かすぞ」
「困ったわ……馬車も返してしまったもの」
ビビアナはがっくりと肩を落とした。腕から手を離し、いつものようにぽんぽんと彼女の頭を撫でてやると、つり目がちな青い瞳が細められる。
――可愛い。
思わず見とれてしまった。
だめだだめだ、絆されている場合ではない。
今度という今度は、ビビアナの思い込みをきれいさっぱり消し去ってやらなければ。
「金なら俺が持ってる。……一晩か二晩泊まって、王都に帰れるくらいはな。宿を取ろう。部屋でじっくり説得してやる」
腕組みをしてビビアナの青い瞳を見据える。
「悪い顔をしているわね、ルカ」
「当たり前だ。逃亡者を捕縛したんだからな」
◆◆◆
「セレドニオ様は、まだ例の令嬢に会ってないらしいぞ」
「そ、そうなの?」
王都の邸と領地の館くらいしか泊まったことがないビビアナに、小汚い宿に泊まれとは言えず、近隣の宿屋の中では一番上等な部屋を取った。年頃の男女が一緒に泊まるとあって、店主には新婚旅行だと勘違いされ、彼女に店主との会話が聞こえていないかハラハラした。
ベッドに腰掛けて隣のベッドに座るビビアナに向かい合う。ビビアナは落ち着かない気分でシーツをくしゃくしゃと掴んでは放している。
「一年にいるメラニア嬢だろ。まあ、確かに美人で、殿下の好みど真ん中って感じだな」
「ふ、ふーん……」
「目が泳いでるぞ」
「き、気のせいよ。で?ルカはどう思ったの?」
「は?俺?」
「メラニア様と会ったんでしょ?可愛いって思った?惚れちゃった?」
ベッドから立ち上がり、ビビアナは俺の肩を掴んで揺さぶった。
――か、顔が近すぎんだろ!
全身の血が顔に集まるのを感じた。
「惚れ……るわけないだろ!俺はっ……」
腕を振り払ってビビアナをベッドに座らせる。
「メラニア嬢に惚れたりしない」
「だって、あなたは『攻略対象』なのに……『ヒロイン』に会ったら、問答無用でドキドキしちゃうはずよ」
お前以外にドキドキしたことはない、と言ってやりたい。
この気持ちは一生打ち明けるわけにはいかない。ビビアナはセレドニオ殿下の妃になるのだから。
「その、『攻略対象』だから『ヒロイン』に惚れるっていうの、絶対じゃないだろ」
俺はどうやら、ビビアナの言う『攻略対象』らしいのだが、メラニアを好ましいと思えない。俺を遠くから見ていた彼女は、隣にいたビビアナを憎らしげに睨んでいたのだ。
あんなおっかない女はお断りだ。
俺はビビアナしか愛せない。
「おかしいわ……」
「クラウディオもイルデフォンソもニコラスも、メラニア嬢と会ったらしいが、特に何とも思わなかったと聞いた。そもそも、皆が皆一目惚れするわけないしな」
「うう……」
高等部三年のクラウディオはビビアナの兄で、将来の宰相と目されている秀才だ。中等部に溺愛している婚約者がいる。浮気などするはずがない。俺達と同じ二年生で、神官長の息子のイルデフォンソは神の道に邁進していて生涯独身を貫くと宣言しているし、一つ年下の騎士団長の息子のニコラスは、三年のお姉様に首ったけだ。要するに三人とも、メラニアの入る隙はない。
「だからさ、前から言ってる通り、お前の勘違い、思い込みってやつだよ。変な妄想から離れて現実を見るんだ、ビビアナ。セレドニオ殿下は幼馴染のお前を嫌ってなんかいないし、王太子妃に迎えるだろうさ」
自分で言いながら、俺の心は傷ついていく。
ビビアナの目を覚まさせる。
そのためなら、王太子妃になれると安心させるしかないんだ。
◆◆◆
俺の話を聞いて俯いていたビビアナは、観念したように瞳を閉じた。
「そうね」
「おお、分かってくれたか」
「ええ。……やっぱり私、明日の船でアスタシフォンに行くわ」
――は?
「何言ってんだ。お前のいるべき場所はここだろ?」
訳が分からなかった。
これだけ説得しても、ビビアナはまだ思い込みから抜けられないのか。
「ルカは……どうするの?」
イルデ達の話をしたからか?ビビアナは俺を心配して……いる割には外国に行こうとしてるよな?どういう風の吹き回しだ。
「レンドン子爵のご令嬢と婚約したって、お父様から聞いたわ。何でも子爵家から熱烈なお申し出があったとか」
「婚約?」
聞いていないぞ。変な噂をビビアナの耳に入れるな。
「よかったわね、ナディア様はお優しくて美人で、令嬢らしい振る舞いができる方だもの」
「おい」
「私とは違って、礼儀作法もしっかりしててっ……」
「ビビアナ!」
大きな青い瞳から、ぽろぽろと涙が零れたのを見たとき、ひとりでに俺の身体が動いていた。何も言わずに彼女を抱きしめる。
「ルカ……?」
耳元を驚いた声が掠める。
ビビアナの顔を見られない。戸惑う彼女を見たらきっと後悔する。
「俺はセレドニオ殿下に忠誠を誓っている。お前が殿下の妃になるのなら、生涯二人の傍に仕えよう」
俺にできる精一杯の告白だった。
王太子妃の座を蹴って、侯爵家の次男の俺を選んでくれとは言えなかった。公爵令嬢、しかも宰相の一人娘だ。王太子妃になるべく手塩にかけて育てられた箱入り娘の彼女を、格下の家の俺が望めるはずもない。
「……帰ろう、王都へ。きっと皆、心配して待ってるぞ」
抱きしめていた腕を解き、ぽんぽんと彼女の頭を撫でる。そのまま黒髪を指先で辿ると、目元を真っ赤に腫らしたビビアナは小さく笑った。
◆◆◆
「同じ部屋に泊まったことは、誰にも言うなよ」
ビビアナはこくんと頷いた。
夕べ、俺達には何も起こらなかった。
隣のベッドで寝息を立てるビビアナを確認し、夜遅くにベッドに入ったものの、長いこと寝付けなかった。
宿屋に聞いて安い馬車を借り、帰り道はビビアナと二人で御者席に座った。宿の主人は泣き腫らした顔のビビアナを見て、俺が無体を働いたと思ったらしく、
「無茶したらダメだよ旦那。いくら若いったって限度があらあね」
と小声で諭してきた。
余計なお世話だ!
無体を働くどころか、キスだってしたことがないんだぞ。
多分この先もずっと、ビビアナとキスなんかしないだろうな。王太子妃になるんだから。
イライラして手綱を握ると、馬にもそれが伝わったらしく、さっきから走る速度が安定しない。揺れる御者席ではなく荷台に乗るようにとビビアナに言うが、彼女は頑として受け付けなかった。
「ルカの隣がいいの」
だから、そういう誤解するようなことを言うな!
馬車は舗装されていない道をガタガタと走る。大きく揺れるとビビアナが俺に凭れかかってくる。腕に感じる柔らかな何かと、優しい香りが俺の忍耐力をガリガリと削っていく。
非常に厄介だ。
厄介ごとは早く終わらせるに限る。馬に鞭を打ち、さらに速度を上げた。
「ルカ、そんなに飛ばしたら、きゃっ!……ほら、危ないわよ」
「さっさと王都に帰るんだ。ぐずぐずしてたら『ヒロイン』に殿下を取られる。ゆっくりしていられないだろ」
「私はゆっくりでいいの!何なら三日くらいかかっても」
「はあ……お前なあ……」
王都から港町までは馬車で一日もあれば着く。三日かかった理由を説明できない以上、予定通りに帰るしかない。従者もつけずに二人だけで何日も一緒に過ごしたと知られれば、あらぬ誤解を受ける恐れがある。それこそ、王太子の婚約者から外されるだろう。
「いい加減にしろ。……勘違いしそうになるだろ」
心の叫びが口をついて出る。馬車の走行音がうるさくて、ビビアナには聞こえなかったらしい。
前を向いたまま道の先を見つめていると、遠くに王都の城壁が見えてきた。
「お、もうすぐ着くぞ」
隣に座るビビアナにわざと明るく声をかける。
王都と東の丘陵地帯、西の砂漠地帯への分岐点を過ぎたあたりから、ビビアナは黙り込んだままだった。慣れない馬車の旅で疲れたに違いない。公爵家に連れていって休ませてやらなければ。
「……もう、旅も終わりかあ」
「元気がないな。どうした?御者席は疲れたか」
「ううん。楽しかったよ。……一生の思い出になるくらい」
馬車の速度を落として彼女を見る。
俯いたビビアナの肩が微かに震えていた。
◆◆◆
「いよいよ明日ですね。ご卒業おめでとうございます、殿下」
「ありがとう、ルカ。君とも一年離れることになるのだね。……ビビアナとも」
――ああ、まただ。
セレドニオ殿下の口から彼女の名前を聞く度に、俺の胸はギリッと痛む。
殿下に呼ばれて、俺は生徒会室にいた。
前生徒会長であるセレドニオ殿下と、現生徒会長の俺が密談できる数少ない部屋の一つだ。
ゆったりと脚を組んで椅子に腰かけた殿下は、生徒会室付きの侍女が淹れた紅茶に口をつけ、感慨深そうに溜息をついている。
ビビアナが言っていた、運命の卒業パーティまであと一日だ。『攻略対象』のセレドニオ殿下は『悪役令嬢』ビビアナと婚約したまま、『ヒロイン』メラニア嬢とはあまり親しくはならなかったようだ。ビビアナに言わせれば、メラニア嬢は殿下の『攻略』を失敗したようだとのこと。ぽっと出の男爵令嬢より、幼馴染の公爵令嬢の方を殿下は選んだのだ。
「君達の愉快なやり取りが聞けなくなるかと思うと、残念で仕方がないよ。私はあれが大好きなんだ」
「そうですか……」
遠回しにビビアナが好きだと言っているのだろう。俺には感想を述べる資格はない。
「君ともビビアナとも、卒業しても仲良くやっていきたいと思っている。僕が傍にいなくても、君がビビアナを守ってくれると信じているよ」
「……命に代えましても」
殿下は優雅に美しく笑った。馬車で城下に出れば、道行く人が皆その笑顔に骨抜きにされると言われる美貌を持つ王太子だ。美しいビビアナの隣に立つのは彼をおいて他にはいない。
「ねえ、ルカ」
「はい」
「私は君の忠誠心を疑ってはいないよ。ただ……」
俺から視線を逸らして紫色の瞳を眇める。
何を言われるのだろう?心臓が大きく跳ねる。
「幼馴染として言わせてもらえば、君は本当に愚か者だ」
顔をぐいと近づけて低い声で囁き、セレドニオ殿下は長い丈の上着を翻して部屋を出て行った。
◆◆◆
卒業パーティーが開かれる大広間に、多くの生徒達が集まっている。
俺は殿下に命令されて、黒に銀の刺繍が施された堅苦しい上着を着て参加していた。何でも、黒い服を着て来なかったら反逆罪に問うのだそうだ。王族の考えることは時々訳が分からない。
生徒達のざわめきが大きくなった。
皆の視線の先を辿れば、セレドニオ殿下がビビアナの手を取って入場してきたところだった。白の上着を着た殿下はまさに神々しい王子そのものだったし、隣を歩くビビアナは……何だ、あれは。
ビビアナは美しかった。
その場にいたどの令嬢よりも、はるかに美しく輝いていた。
しかし、着ているドレスに皆が首を傾げている。令嬢達はひそひそと囁き合う。
「ビビアナ様のドレス、斬新ですこと」
「あれは、灰色?それとも茶色ですの?」
「深緑色の刺繍が目立ちませんわね」
確かにその通りだ。
婚約者の王太子が卒業するパーティーなのに、地味すぎるだろう。
ビビアナは変わった令嬢だから、多少不釣り合いなドレスで参加しようとも、もはや悪い噂が立つこともない。皆そんなものだと思っているのだ。黒い髪なのだから、赤や黄色のドレスを着ればもっと華やかに目立つだろうに。
「皆、聞いてくれ!」
思いを巡らせていた俺の耳に、セレドニオ殿下の声が響いてくる。殿下が壇上に上がる前に、ビビアナは広間の片隅に身を寄せていた。何もあんなに隅に行かなくてもいいだろうに。
「王太子妃になるんだから、堂々としていれば……」
仕方がない。俺の出番だ。
足音を立てずに人ごみに隠れようとしているビビアナの傍へ行き、肘まである手袋をしている腕を無言で掴んだ。
「ルカ……!」
「隠れていてはダメだろう?殿下の晴れ舞台なんだから」
「でも……」
「ドレスが地味だからとか言うんじゃないよな。お前らしくないぞ。……ほら、行くんだ。殿下の傍に」
俺はビビアナの頭を撫で……られなかった。
目ざとく察した彼女に、手を払われてしまったのだ。
「嫌」
「我儘言うなよ」
「だって、嫌なんだもの」
「殿下が嫌いなのか?違うだろう」
「セレドニオ様は優しいし、お兄様みたいで大好きよ」
ぐさ。
大好き……。
俺の胸に何かが刺さった気がする。
「そうだよ。殿下は優しい」
「ルカと違ってね」
ぐさぐさ。
またも胸に衝撃が走る。ああ、どうにでもしてくれ。
「悪かったな。優しくなくて」
「私がアスタシフォンに行こうとしてたのを、無理に引っ張って帰ってきて」
「まだ根に持ってたのか……」
「せっかくイケメンの船員さんと仲良くなれるチャンスだったのに……」
「イケメンて何だよ」
「カッコいい男子のことよ」
「お前……男目当てで船に乗る気だったのか!?」
初めて聞いたぞ、それは。
優しくないと言われたことより、地味にくる。何度か打ち込まれた拳が後から効いてくる、そんな感じだ。
「い、いいでしょ。ルカはナディア様と仲良くするんだし、私みたいな幼馴染がいたんじゃ夫婦仲に亀裂が入っちゃうわ」
「俺は婚約なんかしていない。父上から断ってもらったからな」
ビビアナの青い瞳が丸くなった。
きょとんとして俺を見つめている。
「本当なの?」
「前にも言ったと思ったが?」
「聞いてないし」
「俺は殿下とお前の傍にいる。殿下はともかく、お前は世話が焼けるから、結婚なんかしてるヒマないだろ」
さっさと行けとばかりに手をひらひらさせてやると、ビビアナは頬を膨らませて俺を睨んだ。
「酷い……」
「王宮の中で迷子になるわ、宝物庫から国宝の剣を持ち出してくるわ、お前には振り回されっぱなしだった。この間の家出騒ぎもそうだ。令嬢が伴も連れずに海を渡るなんて、何を考えているんだか。これ以上俺を振り回すなよ。心配する身にもなってくれ」
「心配……してくれたの?」
恐る恐る俺を見上げる瞳にドキリとする。可愛くて心臓に悪すぎる。
「当たり前だ。少しは自重しろ」
「あのね、ルカ」
「ん?」
セレドニオ殿下のお話がそろそろ終わりそうな気配だ。ビビアナは彼の傍に行かなければならない。背中を向けて立ち去ろうとして、彼女はこちらを振り返った。部屋の中央の灯りが彼女の頬を照らし、逆光で表情が読み取れない。
「最後に……これで最後にするから、もう一度だけあなたを振り回してもいい?」
「え?あ、ああ……」
俺の返事に頷いて、ビビアナは明るい大広間の中央へ踏み出して行った。
◆◆◆
心地よい秋の風がビビアナの黒髪を撫でていく。
庭園のテーブルにうつ伏せで寝ている彼女は、顔にレースのテーブルクロスの型がついてしまっても気にしないのだろう。
俺はいつも通り、彼女の隣で本を読んでいる。読んでいるというより、何となくページをめくっていると言えばいいのか。
大波乱の卒業パーティーから数か月。
俺達を取り巻く環境は大きく変わった。
「私、アンドラデの宿で、ルカと一夜を過ごしました!」
大勢の生徒の前で、ビビアナははっきりと言い切った。
殿下の感動的なお話の後に、とんでもない爆弾発言が飛び出たのだ。それも、婚約者の令嬢の口から。
その場にいた全員の視線が俺を射抜き、膝が震えて倒れるかと思ったほどだ。
俺は必死でビビアナのいる大広間の中央まで走り出て、なおも何か言い続けようとする彼女の口を塞いだ。
「馬鹿!嘘を言うな!」
「嘘じゃないもの!同じ部屋に泊まったでしょう?」
泊まった、ああ、確かに泊まったさ。
色っぽいことは何一つ起こらなかったけどな!
「誤解を受けるような発言をするな。仮にもお前は……」
「セレドニオ様の婚約者?だったら何?」
「お前が心配していたような、『バッドエンド』とやらは起こらなかった。殿下と幸せになれるんだ」
ビビアナの美しい顔が歪み、眉間に皺が寄った。
「ほら、やっぱりルカは優しくない」
「いいから、さっき言ったことは嘘だと言え」
「い、や!」
「ったく、振り回しすぎだぞ」
釈明をしようとした俺の腕がぐいっと引かれた。驚いて彼女を見た瞬間、首の後ろに手が回され、唇に柔らかな感触を感じた。
キス?
もしかしなくても、キスだよな?
公衆の面前で、忠誠を捧げる殿下の婚約者と、キス?
どれだけビビアナを好きでも、叶わないと思っていた想いが……叶った、のか?
あまりの衝撃に俺の頭の中は真っ白になって、その後のことは覚えていない。
セレドニオ殿下はずっと前から、ビビアナの気持ちに気づいていたそうだ。勿論、俺の気持ちにも。ビビアナ以外に仲の良い令嬢がいなかったという理由で、彼女がご自分の婚約者に選ばれたことを心苦しく思っていたらしい。一方で、殿下に婚約を破棄されたら、父の宰相諸共罪を着せられて処刑されると怯える彼女を安心させたいという思いもあり、婚約を破棄するには至らなかった。
「私からビビアナを奪ってみせるくらいのことをしてもよかったんだよ。ルカは意気地なしだからなあ」
と半ば呆れ顔で俺の背中を叩いた。
卒業パーティーでは、真っ白になって固まっている俺とビビアナを祝福するように呼びかけ、合意の上での婚約解消であると、会場にいた全員に印象付けてくださった。俺にビビアナの髪と同じ黒い服を着るように言い、ビビアナが俺の髪と瞳の色のドレスを着ることを許した。殿下のご配慮がなければ、俺とビビアナは今も批判の矢面に立たされていたことだろう。
『一夜を過ごした発言』についてビビアナが何も否定しなかったため、彼女の父の宰相は嫁入り前の娘が傷物にされたと怒り、事なかれ主義ののんびり屋である我が父・オルディアレス侯爵の尻を叩いて、俺達の婚約を決めた。卒業したら俺がビビアナの婿になる。あの宰相が義父なのは恐ろしいが、彼女の隣にいられるのなら構わない。
風が吹いて、ビビアナの髪に落ち葉が絡む。
起こさないようにそっと取ったつもりが、無意識に彼女の頭を撫でていたようだ。
「ん……」
悩ましい吐息を漏らしたビビアナがゆっくりと瞳を開いた。
「……ルカ?」
「もう少し寝ていてもいいぞ」
顔の向きを変えた彼女は、予想通り、頬にレースのテーブルクロスの模様がついている。
「じゃあ、もう少し……」
幸せそうに呟いたビビアナの寝顔を見ながら、俺は再び本のページに目をやった。
誤字脱字ありましたら申し訳ございません。