ちっちゃな嘘とちっちゃな気まずさ
「クソッ…やっぱ開かないか…」
屋上で俺だけが一人取り残されていた。唯一の出入り口のドアは固く施錠されていて、何度回しても頑として動かない。四方は2mほどはあるくすんだ緑色のフェンスで囲まれている。フェンス越しにグラウンドが立体的に一望できることから、この屋上が飛び降りてタダで済むはずのない高さに位置することを否が応でも納得させる。
「でも、声張り上げて助けを求めれば誰か来てくれそうだな」
そう考えてはみたものの、実行できずにいる。仮に助けられたとしても、初戸さんは自分を置いていってしまった罪悪感を抱いて、余計な不安を抱かせることになってしまうのは明らかだ。彼女との関係をこれ以上悪化させたくはない。
だが柔花はきっと今頃、初戸さんに同人誌を読ませてあげるとかそういった用事で呼び出し、その用事を済ませつつ、二つのメロンをじっくり味わい尽くす機会を息を荒げながらうかがっているはずだ。
……もう手段を選んでる暇はない。
俺は、思い切り息を吸った。肺は空気で限界まで満たされ、風船のように膨張しているような気分だ。
さぁ、発射用意だ……!上空に狙いを定める。できる限り声が拡散するように。
そして腹に力をーー。
ガアンッ!
突然、鍵の閉まってた扉が出口の扉がコンクリートの壁面と爆音を立てて開いた。驚きのあまり、思わず溜めに溜めた肺の空気を全て吐き出してしまうほどの勢いだ。
一体誰がーー。それは、鍵を管理している風紀委員でも校内を見回っている生活指導の先生でもなかった。
まず、目に写った長い黒髪は春風が撫でてさざなみのようになびかせていた。そんな美しい黒髪の持ち主は、か細い体を懸命に動かしてこちらへ向かって駆けてくる。太陽の光がその全容を明かすと、微笑みが似合うはずの人が今にも泣き出しそうな顔をしていた。
その人は、僕の顔を見るなりその場に立ち止まり、そのまま崩れるように座り込んだ。頬には涙が流れていた。
12:55。その光景にフラッシュを焚くように、五時限目のチャイムは屋上にまで鳴り響いた。
Π
「んー……んんー……んっんんー……」
放課後の帰り道、俺も初戸さんも会話を切り出せないまま、茜色の混じった桜の木の大通りをただ歩いていた。
沈黙に耐えられない俺は、抑えきれない不安エネルギーをほぼ無音の鼻歌に転換して何とかこの場をしのぐことでしか自分を安定できずにいる。
「あ……あのね、柔成君」
「ん゛!?ごへっ!」
昼休みぶりの会話。切り出しが突然すぎてむせちゃったけどとりあえず鼻歌なんかしてる場合じゃねぇ!今はとにかくこの気まずい雰囲気を打開するんだ!
むせて猫背になった体勢を立て直して、いつも通り、顔より下に視線がいかないよう平静を装って、だけど内面必死に初戸さんと目を合わせた。
「なっ、なに?」
「えーと、体大丈夫?」
「体?あぁ、昼休みのことね。居眠りしちゃったとはいえ、まさか閉じ込められるなんてね……ハハ……」
「うん、ね……」
……気まずい。いや違うだろ俺、もっと会話続けられるだろ。風紀委員なんで俺に気付かなかったんだーマジショックだわー、とか、最近眠気がひどくてねー、とかまだあるだろ。
「あ、そういえば昼休みにお姉さんからコレ貸してもらったんだ」
「お、柔花の初期の作品か。これ主人公の女子高生とその友達が段々と異性と意識していく表現がすごく丁寧で読みやすい、って柔花のヤツすごく自画自賛してたんだよねぇ」
「そうなんだ!さすがお姉さんだね」
「ホントね、でもアイツ最近じゃアッチ方向の路線に切り替……あ、いや……ホントねぇ……ハハ……」
……姉を話題に出してもブレーキかかって会話が弾まない。ダメだ俺、完全に初戸さんと合わなくなってる。……いや、違うか。悪いのは俺か。
あの衝撃の告白以来、俺は初戸さんに些細なことでも変な心配かけないように努力してきた。それは、胸を偽っていた初戸さんを受け入れるためであり、受け入れるのは初戸さんの清い人格を一緒に過ごしてきて肌で知ったからだ。
だけど、きっと俺の中にはもう一つ、もっと大きな理由があるのかもしれない。
「乳のない初戸さんを受け入れることで、巨乳好きを卒業すること」、それが初戸さんの勇気ある真実の告白を受けた瞬間から俺の腹の奥底で静かに流動し始めた、初戸さんと付き合いを続けようと決めた理由なのかもしれない。いや、「そうだ」と涙ながらに呟く自分がいる。
……俺の性癖のせいだ。
俺がこんなヤツでなかったら、こんなに悩む必要はないはずだ。初戸さんの余計な心配を取り攫ってあげることもできるはずだ。だけど、俺にとってはそれは偽善でしかない。巨乳好き卒業のためのツールとして利用するためのドス黒い甘言でしかない。俺はあの日、父親の書斎を覗くんじゃなかった。そうすれば、初戸さんと純粋な心で接せられたに違いない。
――俺は、初戸さんを心から好きであるはずがない。
「あのね、柔成君」
初戸さんの声でふと我に返る。足元に落ちていた視線を上げると、横には初戸さんの姿はなかった。彼女の姿は、俺のずっと後ろにあった。
歩幅すら、もう合わなくなっていたみたいだ。
「今日さ、柔成君が閉じ込められていたの見つけた時、心の中がすごく罪悪感で一杯になったんだ。私は、柔成君が閉じ込められている間、お姉さんと『どーじんし』を読んでいた訳だし……」
……。
「最低だよね。勝手に柔成君を置いていって遊びに行くし。……胸にPADつめて大きなごまかしてたし……」
…………。
「あのね、あの……本当はね、私、柔成君なら大丈夫、とか勝手に思ってたんだ。胸の大きさなんてどうでもいい、って言ってくれるって勝手に思ってたんだ……」
………………。
「でも、やっぱ柔成君だってウソつく子は嫌いだよね。ましてや胸を偽ってたなんて……まさに自分をよく見せるための都合のいいウソだよね、本当……」
……………………。
「それなのに無理して私を受け入れようとしてくれて……だけど私、それに応えられなくて……」
…………………………。
「だ、だから……ほんっ……本当にそれがつらくて……これ以上柔成君の作り笑顔見たくなくて……ごめんね……本当にゴメンね……本当に……ほんっとに……もう無理しなくていいから……」
…………………………………。
「もう、他人だと思ってください……」