第四章 (気づくのが)遅すぎた初恋
家に戻った椋介は、風呂も歯磨きもそこそこにベッドの中に入った。
頭の中では、藍の言葉がぐるぐると回っている。
(好き、か。俺はあいつのことが好きなのか?)
薄暗い部屋のなか、天井を見つめながら、椋介は考えた。
藍と初めて会ったのは、幼稚園の年少の頃だった。ウサギのぬいぐるみを握りしめ、一人でぽつんと、藍は立っていた。
話しかけても誰とも話そうとせず、また、自分から誰かと話す事も遊ぶこともなかった。ただ、ぬいぐるみと一緒に静かに絵本を読んでいた。
外を駆けずり回っていた椋介から見れば、当時の藍は、非常に影が薄く、居ようが居まいが同じだった。
ただ、その認識を改めた、というより、変な奴だと思うようになったのは、ある紙芝居を聞いた時だった。
その紙芝居は、悪い魔法使いに攫われたお姫様を王子様が助けるというありふれた物語だった。王子様は様々な試練を乗り越えながら、最終的に悪い魔法使いを倒し、最後はお姫様と結婚して幸せに暮らすという内容だ。
紙芝居が終わった時、藍は言った。
「まほうつかいは、ほんとうにわるいひとだったのかな。おひめさまは、ほんとうにしあわせになったのかな。」
まるで、その紙芝居の登場人物になったかのように、真に迫った表情を浮かべる藍に、椋介は(変な奴)と思ったのだ。
「べつにいいんじゃねぇの。どっちだって。」
そう投げやりに気味に言うと、藍はなぜか傷ついた顔をした。その顔が無性に腹ただしくて、椋介は気づけば、ほとんど力任せに叫んでいた。
「そんなにいやなら、おまえがかんがえればいいだろ!」
驚き、目を瞬かせる藍に、椋介は言った。
「おまえがしあわせにしてやればいいじゃねぇか!おひめさまもおうじも、まほうつかいも!」
ぜーぜーと息を荒げながら、椋介は藍を睨みつけた。
「しあわせにする・・・。」
小さく呟いた藍は、俯かせていた顔を上げた。
椋介は、目を開く。
そこには、目を輝かせ、嬉しそうに微笑む藍がいた。
「ありがとう!!」
椋介の言葉に触発されたのかは分からないが、藍は、その日から画用紙とクレヨンを使い、あの物語を別の物語に変えた。お姫様も王子も、悪い魔法使いでさえ幸せにする物語を考えたのだ。
その物語を先生に手伝ってもらい、紙芝居として完成させ、クラスのみんなに発表した藍は、誰よりも輝いていた。
あの日から、椋介の藍の評価は、変な奴から、たいした奴に変わった。
そこに、一人ぽつんと佇んでいた孤独な少女の面影はなかった。
小学校に入り、藍は、物おじしない性格と面倒見の良さから、友達の喧嘩の仲裁をすることもあれば、クラスの学級委員長をこなし、推薦された生徒会の副会長として仕事をする日々を送っていた。
その頃には、すでに、椋介は藍の家庭事情を把握しており、互いの家を行き来している仲でもあった。
一週間の大半を暗くなってから帰る藍に、椋介は言ったことがある。他人のために駆けずり回って楽しいか、と。少しは自分のために自分の時間を使えばいいだろう、と。
すると、藍は、何でもないという風に笑って言った。
「私、楽しいよ。だって、みんなのために、みんなが楽しくできるために動けるんだよ。」
それを聞いた時、椋介は、血の気が引く思いをした。
みんなのために。
それは、幼稚園時代の時、自身が「おひめさまもおうじも、まほうつかいもしあわせにすればいい」と言ったこととほぼ同義だったからだ。
住宅街が茜色に染まり、アスファルトに映る影が、長く長く伸びている。
夕焼けを背にしながら、椋介は唐突に口を開き、隣を歩く藍に問いかけた。
「藍、お前の好きなことは何だ?」
「なーに?突然?」
「いいから。お前の好きなことはなんだ?」
「・・・うーんと、映画を見ることでしょ。遊園地に行くこと。あと、服を買うこと。あ、本を読むのも好きだなー。それがどうかしたの?」
それを聞き、椋介は決心した。
「よし、今週の土曜日にいくぞ。」
「へ?どこに?」
「だから、映画見て、遊園地に行く。それから服と本を買う。かささぎパークなら全部揃ってるからな。朝の十時に間に会うように出るぞ。迎えに行くから用意して待ってろよ。」
「え!?椋ちゃん!?」
「いいか!忘れるなよ!」
藍の了承も得ず、半ば強引に約束を取り付けた椋介は、ランドセルを背負い直し、自分の家に向かって走り出した。
デートなどという考えはなかった。ただ、藍が誰かのためだけに生きるような人間になってほしくなかった。自分のために何かを楽しむことも、生き方の一つだと知ってほしかったのだ。
「みんなのために」。
その言葉を枷や呪縛にしないように。
よく晴れた土曜日の朝。雀が鳴き交わすなか、椋介は、藍の家のインターホンを鳴らした。
時刻は、八時。かささぎパークには電車で一時間半かかる。最寄りの小金井沢駅に着くのは、徒歩で十五分ほどかかるから、ちょうどいい時間だった。
『は~い、月島ですー。』
インターホンから聞こえてきた声は、陽気な男性のものだった。その声は、藍の父、智だった。
「あ、椋介です。藍はいますか?」
『やぁ、椋介君。ちょっと待ってくれ。今、開けるから。』
しばらくして、深緑色のドアが開き、中から智が出てきた。両手に書類の束を持ちながら、百五十センチの、男性にしては小柄な体をドアに押し付けていた。
「おはようございます。」
「おはよう。こんな恰好ですまないね。仕事が立て込んでいて。藍なら、今来るから。」
「はい。」
やがて、軽やかに階段を駆け降りる音が聞こえてきた。
「おはよう、椋ちゃん!」
智の脇をすり抜けて、藍が現れた。
赤と銀のチェックのシャツに、動きやすそうな黒のジーンズ、茶の短いブーツを履いている。肩には、白のショルダーバッグをかけていた。
「おはよ。」
椋介が挨拶を返すと、藍は嬉しそうに笑った。そして、藍は、智の方を向いて言った。
「お父さん、行ってくるね!」
「うん。暗くなる前に帰ってくるんだよ。」
「はーい。」
大きく返事を返すと、藍は椋介の手を取り、走り出した。
「行こう、椋ちゃん!!」
「うぉっ!ちょ、藍、走らなくても間に会うだろ!」
藍に引っ張られながら、椋介は転ばないように足を動かす。
「だって、今日はお休みだよ?かささぎパークにはいっぱい人が来るよ!」
藍は、瞳をきらめかせ、跳ねるように走る。なんだかんだいって、楽しみにしてくれていたようだ。内心ほっとしながら、椋介は、藍に手を引かれるまま、駅へと向かった。
かささぎパークは、七夕駅から二分ほどのところにある、商業施設の名前だ。
映画館はもちろん、図書館、遊園地、ゲームセンター、ショッピングモールがあり、一日中楽しめる場所として有名だ。椋介達同級生の間でも、知らない者はいない。
椋介は、藍が見たかったというアクション映画を見てから、観覧車とメリーゴーランドのある小さな遊園地を巡った。
遊園地内にあるレストランで昼食を食べ、ショッピングモールで、彼女がほしがっていた服と本を買った。
全てを終えた頃には、夕方の四時になっていた。
「はー。楽しかった。」
レモンスカッシュの缶を片手に持ちながら、ベンチに足を伸ばして座る藍は、至極ご満悦の様子だった。
「そりゃよかった。」
隣に座り、コーラを一口含んだ椋介は薄く笑う。
「椋ちゃんは、何か買わないの?」
「俺はいい。別にほしいものがあるわけじゃないし。」
不思議そうに首を傾げる藍に、椋介は首を振る。できれば、藍がこの体験をきっかけにして、自分の時間を持ってくれればいいと思った。
すると、おもむろに藍が眉を寄せ、う~んと唸り始めた。何事だと思いながら、藍を見ていると、何かを思いついたかのように、はっとした顔をした。
「ねぇ、椋ちゃん、明日ってひま?」
唐突に日曜日の予定を聞かれ、椋介は、戸惑いながらも答えた。
「え、あぁ。ひまっちゃぁ、ひまだけど。」
藍はレモンスカッシュの缶をベンチの端に置き、椋介の前に身を乗り出した。
「じゃぁ、明日、出かけよう!」
「で、出かけるってどこに?」
「椋ちゃんが好きなところ!水族館でも博物館でもいいよ!」
「いや、俺は別に・・・。」
「今日は私ばっかり楽しんじゃったから。そのお礼に、今度は、私が椋ちゃんの好きなところに連れて行ってあげる!」
藍は行く気満々のようで、瞳を輝かせて、椋介を見つめる。
(そんなつもりで誘ったわけじゃねぇんだけどな・・・。)
だが、一度こうだと決めた藍を説得するのは、正直、骨が折れる。
椋介は、小さく息を吐いた。
「・・・三神プラネタリウム。」
「プラネタリウム?」
「あぁ。観覧席を、銀河を走る列車に見立てて、宇宙を巡るっていうショーがあるんだ。それを見てみたいと思ってた。」
「小金井沢プラネタリウムだね!了解です!」
ガッツポーズをして意気込む藍の姿に、椋介は、思わず小さく笑った。
次の日の日曜日。小金井沢の駅からバスに乗り、椋介と藍は、隣の市―三神へと向かっていた。
三神駅のバス停で降り、インターネットで調べた地図で、三神プラネタリウムの場所へ向かった。
人々が行き交う商店街を抜け、ビルが立ち並ぶオフィス街を横目に見ながら、細い路地に入る。
そこに、ひっそりと佇むように、三神プラネタリウムはあった。
土星や木星らしい惑星を取り付けた看板が目を引く。
大きな取手のついたガラス張りのドアを押し、椋介と藍は中に入った。
適度に抑えられた照明と、黒いビロードの絨毯が二人を出迎える。館内には、オルゴール曲が流れ、入口の壁には、火星らしい赤茶けた惑星が描かれた絵がかけられていた。
「いらっしゃいませ。」
受付には、黒のスーツをかっちりと着こなした初老の男性がいた。
白髪に髭を生やしたその姿は、サンタクロースに見えなくもない。皺のはいった目じりを緩ませ、老人は言った。
「二名様でございますか?」
「あ、はい。」
椋介は頷き、二人分の入館料を払う。行く前に、藍が自分の分は自分で払うと言って聞かなかったが、昨日の昼食が藍のおごりだったことを引き合いに出し、了承してもらった。
老人は、入館料を確かめると、通路の奥を手で指し示した。
「開始は、十時半となります。ゆっくりとお楽しみください。」
「・・・どうも。」
軽く頭を下げた椋介は、藍を伴い、奥へと歩き出した。
「誰もいないね・・・。」
唖然とする藍に、椋介は、ああ、と小さく返した。
その言葉通りに、プラネタリウムの観覧席には誰もいなかった。
「マイナーってほどでもないはずなんだが。」
インターネットに載っているのだから、有名だろう。そう考えていたのだが、こうも閑散としているとは思わなかった。
「なんだか貸切みたいだね。」
最初の方こそ戸惑っていた藍だったが、気にしない事にしたのか、ずんずんと席の中央に歩いていく。
「ね、せっかくだから、真ん中に座ろうよ。」
「・・・そうだな。」
しり込みしていてもしょうがない。椋介も、席の中央に向かい、歩き出した。
十時半となり、天体ショーが始まった。
男性のアナウンスで、もうすぐ銀河へ向かう列車が出発することが伝えられる。
そして、汽笛の音とともに、列車が動き出した。
ドームの映像が次々と動き、様々な星々の様子が映し出させる。それに応じて、星にまつわる神話や物語が、優しい語り口の女性のアナウンスから紡ぎだされた。
上映は、一時間ほどで終わった。
「藍、行くぞ。」
場内が明るくなっても立とうとしない藍を、椋介は不思議に思った。
(まさか寝てるのか?)
「おい、藍!」
藍の肩を掴んだ椋介は、その頬に涙が流れているのに気づいて、ぎょっとした。
「わ、悪い。痛かったか?」
肩を強く掴み過ぎたのだろうか。椋介は床に膝をつき、藍の顔を不安げに窺った。
「椋ちゃん?」
近づいてきた椋介を不思議に思ったのか、藍は首を傾げた。
その仕草に合わせるように、涙が藍の手に零れ落ち、小さく跳ねた。
「え、あれ?何で・・・。」
自分がなぜ涙を流しているのか分からないまま、藍は、目元を擦り、涙を止めようとする。
「いいって。無理して止めなくても。」
「でも・・・。」
鼻をすすり、眉を寄せ、袖口で涙を拭こうとする藍に、椋介は優しく言った。
「父さんが言ってた。泣きたい時に泣いたほうがいいって。我慢すると、本当に泣けなくなるからって。」
「・・・・・。」
しばらくして、藍は頷き、目元から涙を溢れさせた。
泣きやんだ藍を連れて、椋介は館内を出た。
「楽しんでいただけましたか?」
受付の老人に話しかけられ、椋介は微笑んだ。
「はい。とても。」
「そちらのお嬢さんは大丈夫ですか?」
老人は、目元を赤くした藍に気づいたのか、気遣うように声をかけてきた。
「あぁ、感動して泣いてしまったみたいです。気にしないでください。」
幾分、心苦しく思う椋介に構わず、老人は髭を震わせ、嬉しそうに笑った。
「そうですか。そう思っていただけたなら嬉しい限りです。」
「それでは、これをどうぞ。このプラネタリウムができて三十周年の記念です。」
老人は、受付の奥から二つのキーホルダーを取り出し、テーブルに置いた。
それは、黄色と青の丸い石を黒い紐で繋げた簡素なものだった。
「これは、二重星を表したものです。有名なもので、はくちょう座のアルビレオがありますね。黄色と青の美しい星で、隣り合っているんです。肉眼では一つの星に見えるのですが、望遠鏡で見ると、二つの星が並んでいるように見えるんですよ。」
老人がゆったりと笑う。
「このプラネタリウムに来てくださった方々には、夫婦、家族、友人、恋人など様々な繋がりがございます。その繋がりがずっとそばにあるように。そのような思いでこのキーホルダーを作りました。よろしければどうぞ。お持ち帰りください。」
「・・・・ありがとうございます。」
椋介は、キーホルダーを手に取り、その内の一つを藍に差しだした。
受け取った藍は、老人に頭を下げる。
「ありがとうございます。いただきます。」
老人は目を細め、優しい声音で言った。
「またのお越しをお待ちしております。」
プラネタリウムを後にし、椋介と藍は三神駅へ向かっていた。
「今日はありがとうな。」
路地を歩きながら、椋介は藍に言った。
「それは私もだよ。昨日はどうもありがとう。それに、今日も楽しかったよ。」
「その割に、泣いてたけどな。」
からかうように言うと、藍が頬を膨らませた。
「あれは、本当によく分からないの!気づいたら、涙が出てたんだもん。」
「ふ~ん。まっ、いいけど。」
藍が本当に分からないというのなら、そうなんだろう。深く追求するつもりはなかったので、椋介は軽く流した。
「そういえば、腹減ったな。なんか食べてから帰るか?」
そう提案すると、藍は満面の笑みを浮かべた。
「うん!そうしよう!」
「何、食う?」
「私、さっき商店街にあった百合ヶ丘ピザっていうお店が気になってたんだ!」
「食い意地はってんなー。」
「椋ちゃんだって、パン屋さん、じっと見てたじゃない!」
そんな言い合いをしながら、椋介と藍は、商店街へと足を向けた。
三神プラネタリウムでもらったキーホルダーは、今でも部屋の壁にかけてある。
もらった当初は筆箱につけていたが、藍がランドセルにつけているのを見たときに外してしまった。同じ物をつけていると友人に知られれば、からかわれることが目に見えていたし、何より気恥かしかったのだ。
効果はあったのか分からないが、その日以来、藍は必要以上に何かを背負い込むこともなく、自分の時間を持ちながら、係や生徒会の仕事をこなしていた。
中学時代になると、同じクラスになることもなくなり、また、父が亡くなった事も重なって、徐々に藍との接点はなくなっていった。
ただ、藍は、風紀委員として、それから生徒会の書記として、こまごまと動いていたのは時折見かけた。
そして、気づけば、通学路で会えば、挨拶を交わすだけの間柄になっていた。
高校に入ってからは、さらに疎遠になった。
椋介自身も馴染みの友人だけでなく、新しく入ってきた同級生達と溶け込もうと必死だったため、藍のことなど気にかける余裕はなかった。
それが、奇妙な連中が現れたことで、再び藍と接点を持つことができた。かつてのように食事をし、家に送り届ける。しかし、それだけでは終わらなかった。
藍からの突然の告白。
そもそも、小学校まではともかく、中学、高校と、ほぼ友人以下、近所の幼馴染という肩書だけの関係だった椋介に、一世一代の告白をする気持ちが分からない。
(いや、あいつの気持ちはともかく、問題は俺だよな。)
椋介は、頭の中で、今まで藍のことをどう思っていたかを順々に整理していく。
(幼稚園で、変な奴からたいした奴に格上げ。小学校からは、家族、妹みたいな。でも、あいつ自身が他人に振り回されているのは見たくない。中学校は、委員会とか生徒会の仕事をうまくこなして、友達ともうまくやっているみたいでよかった、と。高校は・・・、中学校とほぼ同じだな、うん。)
その時、椋介は、はたと思い至った。
いくら何でも、一人の人間を、幼稚園の頃から気にかけるのはおかしくないか?
しかも家族でもない。幼馴染といえど、赤の他人だ。
(え。もしかして、俺・・・。)
椋介は、口元を手で覆う。
(幼稚園の頃から、あいつの事、・・す、好きだったってことなのか!?)
椋介は、頭がパニックになった。
(いや、待て待て。いくらなんでも長すぎだろ?それに、誰かを好きになるっていうのは、もっとこうドキドキして、甘酸っぱくて、切ない感じなんじゃないのか!?)
ドラマや漫画で見た恋愛は、だいたいそうだった。なかには、ドロドロしたものもあったが、それは除外しておく。
(そういえば、昔、母さんがいってたな。恋はするんじゃなくて、おちるものだって。恋は相手に見返りを求めるけど、見返りを求めるわけでもなく、ただ相手のために何かをしたいと思うのは愛なんだって。・・・俺は、とうの昔にあいつにおちてて、それが愛情に発展してたってことか?)
「・・・うあー。」
椋介は、思わず呻く。
叶恵が、藍に対して、恋人だの嫁だのと言っていたのは、椋介自身が気づいていない椋介の気持ちを察していたからにほかならない。下手をすると、藍の気持ちにも気づいていた可能性もある。
あの、鉄面皮のような父の表情を変え、気遣うことができた人だ。椋介の感情などお見通しだったのだろう。・・・それを認めるのは癪に障るが。
大きく息を吐き、ゆっくりと椋介は起き上がった。
「うしっ。」
両手で頬を叩き、気合いを入れる。
明日、藍に伝えよう。急だと思われるかもしれない。彼女の場合、あの状況だと自分が伝えたかったから伝えただけという気もしてくる。
だが、こっちは十一年も片思いしてきたんだ。別に早過ぎることはないだろう?
レースのカーテンから、月明かりが漏れる。その光を目にうつしながら、椋介は呟いた。
「逃げるなよ、藍。」