第三章 思いがけないことは、突然やってくる
その日の夕食は、手の込んだものだった。
クリームシチューにハンバーグ、主食にはご飯とフランスパンを切ったもの。副菜には、卵を散らせたレタスと人参のサラダ。デザートには、ババロワ。
三人での食事は、数年経ったとは思えないほど、明るくにぎやかなものだった。
「藍、家までおく、る・・。」
食事を終え、家まで送ろうと声を掛けた椋介は、リビングの奥にある仏壇に手を合わせている藍を見て、言葉を飲み込んだ。
その仏壇には、亡くなった父、グレン・シーカーがいる。
少しくせのある茶色の髪に青い瞳。位牌の隣に、穏やかな笑みを浮かべた、四十代ほどの男の写真が立てかけられていた。
「ありがとうな。」
手を合わせ終え、振り返った藍に、椋介は礼を言った。
「ううん。おじさんにもお世話になったから。・・もう四年になるんだね。」
思いを馳せるように目を遠くにやる藍を見て、椋介も意識を沈ませた。
父・グレンは、椋介が中学校に上げる前に、癌で亡くなった。
生真面目な父と、明るく奔放な母の掛けあいは、椋介の記憶に残っている。
突拍子もないことを母が言いだし、それに呆れと困惑が入り混じったような表情を浮かべ、諌める父。
「初めておじさんに会った時、怒られているんじゃないかって思ったの。」
藍が口を開き、父の第一印象を話し出した。
「確かに、父さんは表情をあまり顔に出さなかったからな。」
生前、グレンが声を荒げることは、一度もなかった。
いたずらをした時も、ただじっと椋介の目を見つめるだけだった。だが、それは、ただ叱られるよりも堪え、椋介は自分から謝った。
グレンは、たまの休みに家にいても、書斎で読書をしているか、仕事-考古学の書類を整理していることが多かった。キャッチボールやサッカーなどで、一緒に遊んだ記憶もない。
けれど、書斎に入り、彼の集めた本―世界の遺跡や歴史、美術、建築、恐竜、海や陸の生物に関するもの―を眺めるのは、椋介にとって旅行をすることに等しかった。
そして、休みの日や自身の誕生日に、グレンと全国の博物館や美術館、動物園を回るのが、椋介の楽しみであり、誕生日プレゼントになっていた。その影響もあってか、中学、高校ともに、美術部に在籍している。
「この写真、とても素敵ね。私、おじさんに何度か会ってるけど、こんな風に笑っているのは見たことなかったな。」
藍が振り向き、写真を見て言った。
「俺達三人で、小笠原諸島にイルカを見に行った時があってさ。船の上で写真でも撮ろうってことになったんだ。父さん、写真を撮られるのすごく嫌がるのに、あの時だけは違ってた。・・・その後だよ。父さんが倒れて、俺と母さんが末期の癌だって知ったのは。父さんはずっと隠していたんだ。痛みだってあっただろうに、無理をして。結局、あの旅行が最初で最後の家族旅行になった・・・。」
だから、仏壇の写真を見る時、少し辛い。何も知らず、はしゃいでいた自分。その裏で痛みと吐き気に戦っていた父を思うと、胸が締め付けられる。
ふと、右手にぬくもりを感じ、椋介は顔を上げた。いつの間にか、藍が隣に立ち、仏壇を見つめながら、椋介の手を握っていた。
「・・・あの写真は、おじさんの、おばさんや椋ちゃんの想いが一杯詰まった笑顔なんだね・・・。」
椋介の悔恨を拭うような手のぬくもり。そして、父、グレンが幸せだったことを、優しく包み込むような言葉で囁かれ、椋介は思わず言葉に詰まった。
「・・・ありがとう。」
椋介の言葉に、藍は、手を握り返すことで答えた。
「今日はありがとうございました。夕ご飯、おいしかったです。」
玄関の前で、藍は叶恵に向かって頭を下げた。
「こちらこそ楽しかったわ。うちは息子一人だけだから、藍ちゃんが来てくれると、花が咲いたようにパァッと明るくなるわ。あ、なんなら、本当にうちの子になっちゃう?」
「は?」
思いもかけない叶恵の言葉に、椋介は目を丸くさせた。藍の方を見れば、彼女も驚いたように固まっている。
「だ・か・ら、椋介のお嫁さんになってくれれば、藍ちゃんは私の義理の娘ってことになるわ。それだったら、ずっとここにいられるじゃない?」
良い事を思いついたとでもいうように、にこにこと満面の笑みを浮かべる叶恵に、椋介はとうとう堪忍袋の緒が切れた。
「なに馬鹿なこと言ってんだよ!!藍の都合も考えろ!!」
怒りのままに靴を履き、立ち尽くす藍の手を引っ張り、椋介は、勢いよくドアを開けた。
外は、すでに夕闇に沈んでおり、細い三日月が空中に浮かんでいた。
外灯がぽつぽつと灯るアスファルトの道を、藍の手を掴みながら、椋介は彼女の家を目指して歩いた。その歩き方は、若干荒い。
(まったく、何考えてるんだ。母さんの奴。俺達はただの幼馴染だっての。・・・父さん、よくあの人と結婚したよな。俺だったら、根を上げてるぞ。)
いつの間にか思考がずれていたが、そこは深く考えなかった。
「・・・ちゃん!椋ちゃん!待って!!」
その時、必死な藍の声が耳に入り、椋介は、はっと我に返った。足を止め、振り返れば、椋介の腕を掴む藍の姿があった。
「もう大丈夫だから。手を放して。」
気づけば、藍の家の前まで来ていた。深緑色のドアが特徴的なその一軒家は、黒や茶などシンプルな色合いのドアが多い住宅街のなかで、一際、鮮やかな色を放っていた。
「わ、悪い。」
考え込んでいて気づかなかった。椋介は、慌てて藍の手を離した。思っていたより強く握りしめていたせいか、藍の手が微かに赤くなっていることが、外灯の明かりで分かった。
「送ってくれて、ありがとう。」
叶恵の発言を気にした風もなく、藍は、静かに微笑みながら礼を言った。
どぎまぎしているのは俺だけか。椋介は自嘲気味に笑う。
「あぁ。ちゃんと鍵閉めて寝ろよ。」
すると、藍はおかしそうに笑い声を上げた。
「ふふ。椋ちゃん、お母さんみたい。」
「俺は性別を変えたつもりはねえぞ?せめてお兄さんと言え。」
心外だと思いながら、藍に言うと、彼女は「えー。」という不満そうな声を出した。
「私のほうがお姉さんだよ。誕生日、五月だし。」
「二か月早いってだけだろ。対して変わらねえよ。」
「変わる。」
「変わらない。」
「変わる。」
しばらく言い合いを続けていたが、何だか馬鹿馬鹿しくなった。
「止めるか。」
「そうだね。」
椋介の言葉に、藍もあっさりと頷く。もとより本気ではなかったらしい。
こうして、どちらが姉で兄かというくだらない争いは幕を閉じた。
「じゃぁ、また明日。学校で。」
ドアの前に立ち、藍は手を振った。
「おう、じゃあな。」
片手を上げ、椋介はもと来た道を引き返す。そうして、一歩踏み出そうとした時だった。
「椋ちゃん。」
顔を向ければ、藍が目に強い光を湛え、椋介を見ていた。斜めにかかる外灯の明かりが、襟首まで切りそろえた短い髪と、藍の顔を照らす。
彼女は、瞳を潤ませ、うっすらと頬を赤く染めていた。
「私、椋ちゃんが好きだよ。お嫁さんになりたいって思うくらいには。」
そう言って、花が咲き綻ぶような綺麗な笑みを浮かべると、「おやすみなさい!」と言って、家の中に入って言った。
「え?」
椋介は、茫然としたまま、先ほどまで藍が立っていた場所を穴が開くほど見つめていた。
好き?すき?スキ?
誰が?
藍が。俺を。
「・・・・・・。」
それを認識した途端、椋介の顔は、鬼灯のように真っ赤になった。
「嘘だろ・・・。」
右手で顔を覆い、椋介は耳まで赤くしながら、途方に暮れた。