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夏への十秒

作者: 相川信吾

・今年の横溝正史ミステリ大賞に応募したのですが、落ちてしまったので、多くの方に読んで頂きたいと考え投稿させて頂きました。

・アドバイス頂けると大変嬉しく思います。

        序章


 ――調子がいい。

 竹刀を二十本ばかり振った後、沢木豊は心の中で呟いた。

 空気を切り裂く鋭い音が周りの木々の中――それから、ぽかりとそこだけ開いた頭上の空へと吸い込まれていく。母校寺町小学校の裏にある小さな山の中。生え茂る木々の間に一ヶ所、嘘のように存在する何もない空間、豊はそこで素振りをしていた。

 足元の懐中電灯は消してある。月もなく、辺りは真っ暗である。インターハイ県予選の団体戦が明日へと迫っていた。対戦相手を暗闇の中に描き出し、豊はそいつに向かって鋭い面を放った。右足が地面を打ち鳴らす音が、一瞬空気を震わせ、すぐに闇の中へと溶け込んでいく。後には竹刀を構えなおす豊の微かな息遣いだけが残った。

 ――調子がいい。

 続けて二十本振った後、豊は再度内心に呟いた。竹刀が軽い。彼の繰り出すどんな振りに対しても竹刀は素直に従った。体と竹刀が完全に同化しているのを感じる。こんなことは年に何度もなかった。この感触を体に刻みこませたい。明日が試合でなかったら、このまま何時間でも振り続けることだろう。

 しかし、今日は早く休むべきだった。百五十本ほどで彼は素振りを終えた。竹刀を竹刀袋に入れると傍らに寝かせ、自らもその隣で仰向けに寝転がった。いつものように頭を空っぽにして、目を閉じる。背中の下の固く冷たい地面が消え、体が落下するいつもの感覚があった。そして、その下に広がるやわらかな海にそっと抱きとめられた。何も考えずゆっくりとその海の中を漂い続ける。彼が一番癒される瞬間だった。

 豊が初めて竹刀を持ってここに来たのは、中学生の時だった。試合前に夜の山で素振りをするというのを、なんとなく格好良く感じ、思いつきで実行したのが最初だった。翌日の試合、豊はこれ以上無い好成績を収めた。次の試合の前夜も同じようにここに来て竹刀を振った。そしてその試合でも、彼は勝てるはずの無い相手に勝ってしまう。そうして、試合前夜の山での素振りは豊にとって外せない行事になってしまった。いわゆるジンクスだが、彼は、この山には確かに何かがあると感じている。彼のイメージの中でその何かは無数の小さな粒で、霧のようにこの空間を満たしていた。それが、この場所に横たわった時、自分の体をやわらかく支えてくれる海の正体なのだと彼は信じている。その海の中を漂い、与えられる力をそっと受け取り、持ち帰る。それが、試合前のいつもの儀式だった。自分から積極的に働きかけることはしない。この場に漂う力は無限ではなく、だから自ら積極的に働きかけ、多くを持ち帰りすぎると、枯渇してしまう気がしていたからだ。

 しかし、今、豊はその慣例を破ろうとしていた。今日、最大限の力を得られれば、二度とこの山の恩恵にあずかれなくなってもいい。それだけの強い想いがあった。

 頭の中では、この数ヶ月間の出来事が浮かんでは消え、ぐるぐると渦巻いていた。

 ノートに記されていた父の夢。それを叶えると決めた瞬間の血が沸騰するような想い。反発し、去っていった一人の部員。そして、全ての始まりともいえる父の余命宣告。

 気づけば、豊は強く両手を握りしめ、胸の内に悲鳴に近い声を絞り出していた。

 ――インターハイに行かせてくれ。

 瞼の裏には、病魔に蝕まれた父の、弱々しい笑みがあった。

 ――どうかインターハイに行かせてくれ。頼む。

 何度も何度も繰り返した。



        一


 半年前――


 冬休みが開け、二日が経った。長槻高校の校舎はどこも、夏は暑く冬は寒い。豊が入学する数年前に完成したこの新校舎は、だから生徒や教職員には非常に評判が悪かった。冬寒いのは体育館の一階にある剣道場やその隣にある倉庫も例外ではない。体の熱を全て奪っていきそうな倉庫の床から尻を上げると、豊はパイプ椅子を机の下から引き出し、腰をおろした。ばらした竹刀を床から拾い上げ、組みあげを再開する。昨日の練習後に見つけたささくれを、昼休みを利用して削っていたのだ。縦は道場と同じ、横も道場の四分の一ほどもあるこの倉庫は剣道や卓球の用具だけを仕舞うには、あまりに広く、がらんとしていた。道場に置いている防具を、倉庫に仕舞うようにしようかと何度か考えたことはあるが、結局実行には移していない。今の剣道部の人数には、道場もまた充分に広かった。

 組み直した竹刀をチェックし終わるのとほぼ同じタイミングで、制服のポケットが震えた。竹刀を竹刀置き場に入れながら、携帯電話を取り出す。そしてパイプ椅子の背にもたれた。

『例の合同稽古の件なんですが、今週の土曜日でどうですか』

 短い挨拶の後、電話の向こうの声がそう言った。

「はい、よろこんで。午前で大丈夫ですか」

『はい、そちらにお任せします』

 ふと気配を感じて視線を上げると、一八〇センチの長身が豊を見下ろしていた。同期の北村健一だった。剣道部には珍しい色黒の顔が期待に満ちた目で話を聞いている。豊は胃が痛くなるのを感じた。合同稽古か? 口の動きだけでそう聞く北村に、豊は曖昧にうなずいてみせた。

「やったじゃねえか、豊!」

 電話を終えると、北村が豊の両肩を掴んで言った。相変わらず凄い力だった。豊は彼のぶ厚い手をそっと外し、立ち上がった。

「北高だよ」

 竹刀置き場から組み直したばかりの竹刀を取り出し、落胆する北村の顔は見ないようにして、道場に向かった。強いところとできるかもしれないと、安易に言い過ぎた。だが、自信はあったのだ。友人が副キャプテンを務める高校。長槻とは釣り合わない強豪校だが、強く頼めば合同稽古の一回くらい組んでもらえると思っていた。しかし、全く相手にされなかった。それ以外の強豪校にも何校か当たってみたが、結果は同じだった。受けてくれるのは、北高――長槻北高校のような、昔から長槻と付き合いのある、地元の高校だけだった。

「例のところは駄目だったんだな」

 鏡に向かって竹刀を振る豊の横に、北村が並んだ。豊は黙ってうなずいた。

「何の実績も無い高校だもんな。相手にされなくて当たり前か」

 北村はため息と共にその言葉を吐き出した。

「でも、あの二人とやりたくないものかなあ」

「あいつらが新人戦で勝ってれば、少しは違ったのかもな」

 北村の声は暗かった。

「終わったことだ。今度の北泉で見せるしかないだろ」

 北泉――北泉学校剣道大会は、北泉地区十一市の高校のみによる小さな大会だが、県内二番手の今暁学園をはじめ、強豪校も何校か出場する。アピールには絶好の場だった。

「話が逆だろ、豊。試合で勝てるようになるために強いところと稽古するんだ。今のままじゃ北泉でだって負ける」

 北村は明らかに苛立っていた。

「落ち着けよ」

「お前はもうちょっと焦れ。キャプテンがそんなんでどうするんだよ。インターハイは半年後だぞ。わかってるのか?」

「わかってるよ」

 北村の焦る気持ちを、豊は理解できているつもりだった。強力な新人二人の加入に夢を見、新人戦で現実を見せられ、何かを変えなければならないと思っているのは彼も一緒だった。自分たちよりも遙かに格上の選手を育てきれず、解決策を外に求めてしまう気持ちもわかる。だから、あてにしていた高校に断られても、続けて他の高校にもあたり、決して強豪とは言えないものの近隣では一番の北高との合同稽古を取ってきたのだった。

「今日のミーティング、どうするんだ?」

 気を取り直して素振りを始めた豊を北村のぶっきらぼうな質問が邪魔した。試合の一ヶ月前にはいつもミーティングを入れることになっていた。そこで何を話すか、豊の頭の中ではまだ固まっていなかった。たまには自分でも考えて欲しい。人任せな彼の台詞に苛立つ気持ちを抑えて豊は答えた。

「北泉で勝つために、今の何を変えなければいけないか、話し合う」

「何を変えるべきか――か。自明な気がするけどな」

 意味あり気な呟きだったが、真意はわからなかった。聞き流すことにして、豊は竹刀を振ることに専念した。

 二人で黙々と竹刀を振っていると、がらりと引き戸の開く音がした。道場への入り口は二つある。一つは、運動場や部室棟と向き合う、屋外に面した引き戸、もう一つは体育館内通路へと繋がる引き戸である。今開いたのは後者の方だった。鏡越しに目をやると、一年生部員、岸谷颯太のすらりとした長身が姿を現した。失礼します――礼をすると同時に、さらさらの金髪が前に垂れる。頭を上げ、乱れた前髪を整えながら、二人に近づいてきた。その金色の前髪の向こうには、涼しげなのにどこか人懐っこい目が見え隠れしていた。

「こんにちは」

 颯太は鏡に向かって竹刀を振り続けている豊と北村に対してそれぞれ一度ずつ頭を下げると、学ランの上と靴下を脱ぎ、壁際に寄せた。そして早速、壁のそばに置いてある打ち込み台に向かい、竹刀を構えた。前進しながら面を打ち、後退しながら中断に構える。

 豊は手を止め、彼のその姿を見つめていた。綺麗な正面打ちだった。始めて一年足らずの初心者には見えなかった。素振りだけではない。防具をつけての稽古でも、豊は彼のセンスに度々驚かされた。得意技は面打ちだった。跳躍力がずば抜けていて、考えられないような間合いからでも相手に届く。

 ――少し肩に力が入っているか。

 豊が思った頃には、北村が指摘していた。

「まだ直ってないですか」

 颯太は手を止め、肩の力を抜くように両腕をぶらぶらとさせ、再び構えた。正面打ちを繰り返す。しばらくそれを眺めていた北村が言った。

「土曜、北高と合同稽古入ったから」

 颯太の顔がぱっと華やいだ。

「嬉しそうじゃねえか」

 北村がつまらそうに呟く。

「駄目ですか。部内じゃ全然歯が立たないんで、たまには外とやって勝ちたいんですよ。因縁の相手もいるし」

 颯太は白い歯を見せて笑った。

「北高は他とはちょっと違うぞ」

 豊は言った。地元の高校の中では一番強いところとの稽古を取ってきたのだという北村への小さなアピールだった。

「知ってますよ。でもこれまで勝てなかった相手にも最近ちょっとずつ勝てるようになってきているんで、北高ともそこそこやれるようになったかなって」

 確かにそうかもしれないと豊は思う。颯太の近頃の成長を見ていると、北高のほとんどの選手と互角に稽古ができそうな気がした。

「ところで誰だ、因縁の相手って」

 北村が訊ねた。

「奥田っていう腹の立つ奴がいたんですよ」

「ライバルがいるっていうのはいいことだけど、くれぐれもあいつらの真似して形崩さないようにしろよ」

 豊は言った。北高の剣道は汚い。勝つために手段を選ばない姿勢が稽古にも出ていて、喧嘩を売ってきているのかと思うようなぶつかり方をしてくる者も多い。そういった剣道をされるとついやり返したくなり、粗い剣道をしてしまったことが豊自身何度かあった。

「わかってます」

 昼休み終了五分前を知らせる予鈴が聞こえてきた。颯太が打ち込み台に向き直った。

「お、必殺技か」

 北村の言葉に、颯太が黙って微かにうなずく。

「突き!」

 片手で放たれた弱々しい突きは打ち込み台の突き垂れをかすり、左に外れた。そして、颯太はたたらを踏んだ。

「どこが必殺技なんだよ」

 豊は苦笑した。颯太はもう随分前からこの未完成な片手突きを必殺技と呼び、しきりに練習している。

「せっかくいい面持ってるんだから、そっちを必殺技にしろよ」

「まあ、たまに練習するくらい許してやれよ」

 北村はそう言うと、竹刀を置きに倉庫へ向かった。豊と颯太もその後に続く。

「今日の練習は外ですよね」

 道場を出ると、颯太が訊ねた。

「ああ」

 豊はうなずいた。剣道部は、卓球部と交代で剣道場を使っている。だから平日は、二日に一回しか道場が使えない。今日は使えない日だった。部活は外でのトレーニングとなる。

「何する予定なんですか」

「いつも通り、ランニング・筋トレ・素振り」

 豊は自分の声が投げやりにならないよう気をつけながら答えた。外でのトレーニングも大切だが、防具無しでの練習には限界がある。できれば毎日道場でやりたかった。

「今日のランニングは豊さんに勝ちますよ」

 長槻高校の西にはランニングにちょうど良いコースがある。足を痛めない土の道が南北に長く延びていて、その一部を剣道部はランニングに使っていた。ゴールは道の途中にある広場で、そこでいつも筋トレメニューをこなしてから帰ることにしていた。

「お前のライバルは北村だろうが」

 豊は笑った。ランニングの順位はいつも決まっていた。最初にゴールするのは一年生でありながら長槻高校剣道部の突出した二大エースである樋口と甲斐の二人で、そこから大きく開いて三番手でゴールするのが豊だった。そこに颯太、北村がこの順で続き、さらに遅れて一年生部員の小山裕之が続く。長槻の剣道部はマネージャーの霧島玲奈を除くと、この六人で全てだった。

「北村さんじゃ相手にならないですよ」

 颯太は隣の北村を見て挑戦的な笑みを浮かべた。

「ああ? 負けたら土下座しろよ」

 しかし、その日のランニングでも六人の順位はいつもの通りだった。広場での筋トレ、帰りの軽いジョギングを終え、学校に戻る道を歩いていると、豊の隣に颯太が並んだ

「今日は信号に救われましたね」

「出たぞ、恒例の負け惜しみ」

 言ったのは豊ではなく後ろを歩く樋口だった。

「うるせえよ。入ってくんなよ」

「おお。怖い怖い」

 甲斐が面白がって言う。

「でも信号まで食らいついてたのは事実だよ」

 小山が後ろから助け船を出した。

「そうだよな、ありがとう小山」

「負けは負けだよ」

 豊と颯太の先を歩く北村が、にやにやしながら振り返った。

「そういう北村さんこそ、今日はだいぶ僕と離れてたんじゃないです?」

「俺は誰かさんと違って啖呵切ってないし」

 校門をくぐり、運動場の横を通って部室に向かう。部室棟は運動場の隣に体育館と向かい合う形で建てられている。プレハブの二階建てで、一階と二階にそれぞれ部屋が十ずつ入っていた。剣道部の部室は男子が一階の端、女子部室がそのすぐ上にある。

 男子部室の前まで来ると、樋口が小さく声を上げた。彼の視線の先には、部室の前に綺麗に揃えて置かれた一足の靴があった。ドアに目をやると、ジョギング前には閉めていたダイアル式の南京錠が外れていた。今日は空いている教室が無いため、ミーティングには男子部室を使用することにしていた。そういう時、玲奈はいつも中を片づけておいてくれるのだ。

「甲斐、あれロッカーに隠したか」

「あ、しまった」

 二人の会話からなんとなく事情はわかった。

「颯太のせいにでもしておけばいいだろ」

 豊は部室前に立てかけてある六つの竹刀から自分のものを選び、体育館と部室棟の間の道に立った。

「いいですよ、別に。みんなのせいで僕のイメージなんて下がりようのないとこまで来てますからね」

「何被害者ぶってるんだよ。あれだって実際お前のだろうが」

 樋口は笑いながら竹刀を取り、豊の前に立った。五人が一列に並ぶのを待ち、豊は号令をかけた。

「正面打ち、三十本始め!」

 豊の号令に全員の顔から笑みが消え、真剣な剣士の顔に変わる。一、メン、二、メン――というかけ声が、他の運動部の声に混じり、夕暮れの空へと抜けていった。


「テーマはもちろん北泉なんだけど――」

 剣道部の部室は畳敷きだが、その一角には豊が入部する前に誰かが拾ってきたベンチが置かれている。練習後、そのベンチに腰かけた豊は、ゆっくりと全員を見回した。隣には北村が、反対側の壁際には樋口、甲斐、小山、颯太の顔が並び、そこから少し離れて玲奈がきちんと膝を揃えて座っている。彼女のそばの本棚には、樋口たちの心配どおり、颯太の持ち込んだ成人向けの雑誌がきちんと整頓され積み重ねられていた。壁にかかった小型のホワイトボードに、正の字が最後の一画を残して書かれている。これで四度目という意味だ。豊は全体に視線を戻し、言葉を続けた。

「勝つために何をしなければならないか話し合いたい」

「勝つっていうのは優勝するってことな」

 北村が補足するように言った。沈黙が部屋を覆った。

 北泉大会は、県内二位の今暁学園の天下といってよく、ほぼ毎年彼らが優勝していた。そして新人戦の団体戦、長槻はこの今暁に五人全員が敗れるという完敗を喫していた。

 沈黙は長かった。新人戦の傷が今なお癒えていないことを思い知らされる瞬間だった。試合結果は決して悪くなかったと豊自身は思っている。三回戦敗退とはいえ、二回戦で破った相手は県内ベスト8の常連である桜塚高校だった。今までの長槻であれば到底敵う相手ではなかった。

 ――桜塚に勝ったんだぞ。

 今のような時が訪れるたびに、豊は胸を張れと活を入れたくなる。しかし、そうしないのは、彼らの沈んでいる理由が、長槻が今暁に負けたこと自体にはなく、樋口と甲斐までもが負けたという事実から来ていることを知っているからだった。それほどまでに二人に対する皆の期待は大きかった。

「当たり前のことを言っただけだぞ。今暁に勝てなくて清竜に勝てるか」

 静寂を破り北村がついにその名前を出した。

 清竜――。

 この県で剣道をする者にその名を知らない者はいない。中高一貫校である清竜の剣道部は、中高共に全国大会の常連であり、特に高校は七年連続でインターハイ出場を果たしている。この県は清竜と今暁の二強と言われているが、実際は清竜の一強といった方が今や正しかった。

 部室の中を一層の静寂が覆った。名前の持つ強さ、勝ち続けることの大きさを豊が思い知る瞬間だった。清竜の二文字を聞くだけで、圧倒される。どうあっても敵わないのではないかと、思わされる。しかし、と豊は思った。

 ――それも一度負けるまでのことなのかもしれない。

 豊の視線はいつの間にか、目の前の二人に向けられている。

 樋口遼一と甲斐英治。

 負けたことで名を落とした例がそこにあった。

 一年前、二人は県内選りすぐりの才能が集まる清竜中学の、大将と副将だった。しかもその実力は他の清竜レギュラーを圧倒していた。特に樋口の名は、県内はもちろん、近隣であれば他県でも知っている者がいる程だった。だから、その二人がそのまま清竜高校に上がらず、無名の公立校に進むというニュースは、大きな衝撃を持って迎えられた。清竜を出ても尚、無敵でいられるのか、誰もが注目していた。インターハイ県予選では負けなかった。もっとも、個人戦は半ば強引に三年生に出場を奪われ出られず、団体戦は強豪と当たる前にチームが敗退していたため、二人が目立った活躍をしたというわけでもなかった。周りの注目は、秋の新人戦に持ち越された。その団体戦で、彼らは負けた。相手は清竜ではなく、これまで一度も負けたことのない今暁の選手だった。その一敗で彼らはスターの座から転がり落ちた。翌週の個人戦でも両者共に早い段階で今暁の選手に敗れ、挽回することはできなかった。

 二人の悔しさは、痛いほどに伝わってくる。新人戦以降の二人の稽古には鬼気迫るものがある。基本打ち一つを取ってみても、どの瞬間も、竹刀を含めた全身のあらゆる場所に神経を行き届かせているのが見て取れる。それだけの意識があるから、周りに自分たちよりも強い者がいない中でも確実に実力をつけていけるのだ。先日、新人戦のビデオを見返した時、豊は再生した瞬間驚いた。長槻の選手の動きが、それがわずか数ヶ月前のものにも関わらず、非常に悪く感じられたのだ。思わず最近の映像と比較してみた。やはり新人戦と今では動きが全然違っていた。樋口と甲斐以外の者が、彼らに引っ張り上げられて強くなっているのは当然だとしても、樋口たち自身も見違えるほどに成長していた。

 インターハイ出場は決して夢ではない。そう再認識した瞬間だった。豊はそれを手繰り寄せるためにできることは全てしたいと考え、日々悩んでいた。北村にはことあるごとに意識が低いと言われるが、インターハイ出場への想いは自分も負けていないと豊は思っている。

「北村自身は、勝つために何をすべきだと思う」

「いつも言ってるとおりだよ。強いところとやる。それに尽きる」

 そんなことかと、豊は思った。昼の言葉が妙に意味あり気だったから何かあるのかと思ったのだ。他の部員からも特に案は出てこなかった。

「後一ヶ月だから一日一日の練習を大事にしていこう」

 結局、何が決まるわけでもなくミーティングは終わった。帰宅前のおしゃべりが始まった。

 小山がホワイトボードを指差し、正の字が完成すると何が起こるのか聞いている。「さあ。あと一回試してみる?」玲奈の目が光った。北村が思いついたかのように颯太の髪の色を注意しだした。一日一回は指摘しないと気が済まないらしい。樋口と甲斐は立ち上がり、早速帰り支度を始めようとしている。制服に着替えようとしないのは、まだ玲奈が部室にいるからだけではない。彼らは毎日家までの道を走って帰るのだ。

 豊は複雑な思いでその二人を見ていた。ストイックではある。練習環境を与えられれば、その中で最大限のパフォーマンスを見せる。ただ、主体性は無い。ミーティングでも意見を求められなければ口を開かない。

 豊の視線を感じたのか、樋口が不思議そうな目で彼を見る。

『弟子にして下さい』

 小学生時代、勝手に道場に上がってきた樋口の、それが第一声だった。僕も! 彼の後ろからそう叫んだのが甲斐だった。余っている竹刀を二人に渡し、その持ち方から教えた日のことを、豊はついこの間ことのように思い出せる。甲斐はその頃から大人しかったが、樋口は違った。色んなものに疑問を持ち、様々な提案をし、跳ね返されると噛みついてきた。今では考えられないことだった。清竜の恵まれすぎた環境は彼をそういう部分では小さくしたのかもしれないと、豊は思う。やがて樋口は豊から視線を外すと「失礼します」と誰とも無く言いおいて、甲斐とともに部室を出た。



        二


 部室のドアを閉じると、雑談の声は消え、吹きすさぶ寒風の音が代わって甲斐と樋口を包んだ。

 寒さから逃れるように樋口が走り出し、甲斐はすぐにそれを追った。

「悩んでるな、豊さん」

 校門を出てしばらく走ると、甲斐はミーティング中考えていたことを口にした。

 樋口は黙って前を向いたまま走っている。

「あんな無意味なミーティング、豊さんらしくない」

「みんなもっと考えてくれっていうメッセージだよ」

 樋口が言った。甲斐はうなずいた。

「特に俺らに言ってるんだろうな。全国を目指せる学校にしか見えない世界を見てきた俺らに」

「何かできることがあると甲斐は思うか」

「ああ。豊さんの知らない景色を俺らは見てきた」

 二人はさっき走ったばかりの道に来ていた。この道をさっきとは逆、まっすぐ北に進むと甲斐と樋口、それから豊の住む町がある。少し足を止め、アキレス腱を伸ばす。さっき走った時よりも風が強くなっている。周囲の木々がざわざわと揺れる。日はとうに沈み、等間隔に並ぶ街灯だけがどこまでも続く長い道の上を照らしている。樋口が走り始めた。最初からハイペースだった。慌てて追いながら、甲斐は言った。

「清竜時代と今で、何が同じで何が違うか、一回考えてみないか」

「そして、清竜に合わせるのか」

「それが勝つための早道なら」

 甲斐は言いながら、樋口がどうも乗り気でないことに気づいた。

「何か不満なのか」

「こっちに移ってくる時に『私立の常識を押し付けるのはやめよう。あくまで長槻の形に従って練習すべきだ』って言ったのはお前だぞ。『それでも密度の濃い練習をすれば強くなれるはずだ』って。あれは嘘だったのか」

 確かにそうだった。いかに物足りなく感じても、自分たちがしてきたことを押しつけるのは傲慢だと甲斐は思っていた。今でもそれは変わっていない。しかし――。

「今は、豊さんの方から意見求めてる感じだろ。それに押しつけるわけじゃない」

「でも、内容で変えるべき部分があるとは思えないぞ。練習時間も去年よりだいぶ増えた。オフをゼロにして朝練も毎日入れるか? たぶん誰か潰れるぞ」

 それくらいで――甲斐は言いそうになってやめた。これが、以前押し付けないでおこうと言った私立の常識なのかもしれない。確かに小山は、今の練習でもほとんど限界に近いように見える。

「頑張りすぎる奴が多いからな。これ以上きつくなる方向への提案は、控えた方がいいと思う」

 甲斐は部員の顔を思い浮かべてみた。甲斐たちの提案に対して『ちょっときつすぎるだろ』といった言葉を返す者は豊以外には、いそうになかった。

「部員の力をきちんと把握している豊さんに、その辺りのことは任せておくべきだ。俺らじゃどの程度まで上げていいか、わからない」

 樋口の言うことは一々もっともだった。

「そもそも、俺らはそんなことができる器じゃないだろ」

 沈んだ声だった。清竜での三年間は、やはり樋口の胸にも傷を負わせているのだと、甲斐はその言葉を聞いて思った。彼の胸に当時の孤独感が、堰を切ったように押し寄せてきた。思い出している間に、樋口は続けて言った。

「持ってる物なんて剣道の実力以外に無いんだから、貢献できる方法で貢献していこうぜ」

「技術面での指導ってことになるかな」

「ああ、それと試合で勝つこと」

 樋口の口調が急に強くなった。「こいつらまで試合を繋げられればなんとかなるって思われる存在になることだ」

 甲斐の胸に苦い物が込み上げてきた。新人戦の今暁戦、副将の甲斐に回ってきた時点で、長槻の勝ちは無くなっていた。しかし、それでも自分たちはなんとしてでも勝っておく必要があった。あそこで勝っていれば、今暁とも、あるいは清竜とだって、充分にやりあえるのだということを実感として皆に与えることができたはずだ。

「次は絶対に負けられないな」

 甲斐は呟いた。

「引き分けも駄目だ。勝つ。それが俺らの役目だ」

 樋口は走るペースを上げた。引き離されないようについていく。冬枯れの木々と立ち並ぶ電柱が、スピードを上げて後ろに流れていく。そう、勝つということこそが自分たちの最大の役割だった。地面を蹴る足に力が入った。

 しばらく走った後、甲斐は言った。

「今暁の奴ら、強くなってたな」

 樋口は数秒間何も言わなかったが、やがて「ああ」と一言呟いた。

「環境ってやっぱり大きいのかな」

 強くなっていたのは今暁の選手だけではない。清竜の選手たちもそれに輪をかけて成長していた。竹刀の振りだけ見ても、ずっと速く正確になっていた。樋口の口から失笑が漏れた。何を今さらと言いたげだった。甲斐は少しむっとして押し黙った。しばらくの間沈黙が続いた。

「環境と言えば、言わなくてよかったのか」

 樋口が言った。

「何を?」

「どれだけ有名になっても強豪校とは稽古できませんって」

「そんな士気下げるようなこと言えるわけないだろ」

「まあな。でも、期待させてがっかりさせるのもな」

 その気持ちは甲斐にもあった。

 豊も北村も目標は高校生活最後の試合であるインターハイ県予選においている。日ごろの言葉からそれは明らかだった。北泉大会でできるだけ名前を売り、強豪校との合同稽古を取りつける、強い選手との練習を繰り返して経験を積み、そしてインターハイ県予選に臨む――。それが実現不可能な構想だと気づくのは、あるいは早い方がいいのかもしれない。

 それに、今日も豊は、合同稽古をさせてくれる高校を探すのかもしれなかった。受話器を手に見えない相手に頭を下げている豊の姿を想像して、甲斐は「クソどもが」と吐き出していた。怒りと同時に、微かな後悔が胸の中に広がっていく。もう少し違う辞め方をしていたら、事態は少しは違っていたのかもしれない。

 ――清竜舐めたらどうなるか、思い知らせてやるよ。

 そっと囁くようにして言われたその言葉が耳の奥で反響する。

「クソが」

 甲斐は再度吐き捨てるようにして言った。

 おかしいと思ったのだ。なぜこれほどまでに長槻が敬遠されるのか。確かに強豪校は多くの場合、強豪同士で合同稽古を行う。しかし、長槻も決して弱小では無い。一校くらいやりましょうと言ってくれても良さそうなものだった。甲斐は自分のつてを使って合同稽古を用意しようとした。県でベスト8に残るのは、清竜・今暁を含めてだいたい十数校に絞られる。そのうちの一つに知り合いがいた。長槻から遠いこともあって豊はまだそこに声をかけていなかった。甲斐は連絡をとってみることにした。

『お前と樋口とやれるなら、みんな喜ぶだろう。明日うちの主将に聞いてみるよ』

 その軽い口調に甲斐は拍子抜けしたような気分になった。翌日返事があった。すまん。それが相手の第一声だった。その暗い声を聞いた瞬間、甲斐は悟った。何かあるのだ。理由を訊いたが、予定が詰まっていると繰り返すばかりだった。甲斐は粘った。本当のことを教えてくれ、もう何校も断られてるんだ。相手は長い間渋っていたが、最後には言いにくそうに答えた。

『できないんだ。お前らとやると清竜とできなくなるらしい』

 清竜が裏から手を回している――言葉にしてみて、その大げさな響きに思わず笑ってしまった。

『あいつらわざわざ長槻との稽古を禁止して回ってるのか。警戒されたもんだな』

 しかし、相手は真剣だった。

『清竜主催の合同稽古でお前らの話が出たんだ。各校の主将が集まった時に世間話の延長みたいな感じで出たらしいんだけど、話し方にはっきりとお前らを干すってニュアンスがこもってたらしい』

『それでみんな怖じ気づいてるのか。長槻の相手をしたら清竜会にいられなくなるって』

 外に出て改めて実感するのが、この県での清竜の異常な存在感だった。試合、特にインターハイで勝ちすぎたのだ。たかが一高校の開く、年に二回の練習試合に呼ばれることが、県下の高校の間では今やステータスにすらなっている。声をかけられる高校はだいたい決まっていて、それらの高校は多少の揶揄を込めて清竜会と呼ばれていた。長槻が新人戦で惨敗を喫した今暁もまたその一員である。

 相手は甲斐の言葉にこもったあからさまな侮蔑の響きに腹を立てたのか、しばらく黙っていたが、やがて『仕方ないだろ』と呟いた。

『まあな』

 そう答えるしかなかった。清竜を敵にするということは、清竜会の他の高校をも敵に回すことになる。長槻との合同稽古に、そんなリスクを背負う価値が無いのは明らかだった。

『この話、俺はたまたま知らなかったんだけど、聞いてみたら結構みんな知ってたよ。お前の言う清竜会の外にも広まってるって』

 その言葉に甲斐は軽く目眩を覚えた。まともな高校は全滅かもしれない。その時初めてそう思った。どこも第二の長槻にはなりたくないはずだ。強い者ほど強豪校との稽古の価値を知っている。

 清竜舐めたらどうなるか――。

 あれは脅しではなかったのだ。

「潰してやる」

 樋口が言った。自分と同じことを考えていたに違いない。彼は続けて言った。

「勝てるはずだぞ、俺らは。これまで勝ってきた相手なんだから」

「ああ」甲斐は答えた。「他の三人だってそれなり以上の実力はある」

 インターハイ県予選の個人戦には、おそらく樋口と甲斐が出る。しかし、例え個人戦で清竜の選手に勝っても、清竜高校を破ったということにはならないだろう。やはり団体戦で勝ちたかった。単に試合と言った場合には団体戦を指すようになってきていることを、甲斐は心地よく感じていた。清竜時代は個人戦以外ほとんど興味が持てなかった。

「特に豊さんの伸び方は凄い」

 甲斐は続けて言った。

「確かに。昨日の稽古で俺から取った面見たか? 俺しばらく動けなかったもんなあ」

 樋口の声は興奮していた。

「ああ。あれは凄かった」

 稽古終盤の一本勝負、豊の竹刀はじわりじわりと樋口の攻めを崩していった。豊の竹刀が樋口の面を真っ二つに割った瞬間、甲斐は思わず声を漏らした。まぐれでもなければ樋口のミスでもない。真正面から樋口と勝負し、そして勝ったのだ。これほど綺麗に樋口が負けるのを見るのは、久しぶりだった。

「豊さんなら、通用する」

 樋口は強い口調で言った。「だから、俺らがしっかりすれば、勝てる可能性は充分にあるんだ」

「そう。面取られて喜んでる場合じゃないぞ」

 冗談のつもりで言ったのだが、樋口は笑わなかった。

「その通りだな」

 真剣な声で言って、腕時計を見た。「いつもよりペースが遅い。いくぞ」

 二人はいつの間にか下がっていたペースを上げた。小石の混ざる土を蹴り、前へ前へと体を運ぶ。湧き上がったアドレナリンが甲斐の心をハイにしている。あの憎い清竜高校を倒し、その黄金期に終止符を打つ。考えただけでわくわくする。その想像がいかに楽観的なものか、甲斐はよくわかっていた。樋口ももちろんそうだろう。しかし、少しでも明るい方を向いていないと気が滅入りそうなのだ。だから、清竜どころか今暁に惨敗したんだぞと皮肉に笑うもう一人の自分は隅へと追いやり、清竜の副将に面を叩きつける自分の姿を何度も何度も頭の中で繰り返し想像した。



        三


 家の前で二人の男がもめていた。男たちの声が大きく、随分遠くから声は聞こえていたため、豊は家に着くころには、だいたいの事情がわかっていた。四十手前と見える方の男がタバコを道に捨て、五十五才の方に注意されているのだ。そのまま口論が続くようならどうしようかと悩んでいたが、豊が着く直前にポイ捨て男は捨て台詞を残して去っていった。手には無理矢理押し込まれた吸い殻があった。五十五才の方はなんの気負いも無く、口元には微かに笑みさえ浮かべている。

「ただいま」

 豊はその男に言った。豊の父であり、長槻高校剣道部の顧問でもある彼は、「おかえり」と何事もなかったかのように微笑むと、豊の前を歩き、玄関へと向かった。その背中にはいつものとおり強い自信が漲っている。

『誰に対してもおどおどせずに自分に自信のある男になれ』

 五歳まで施設で育った豊は、いつも何かを恐れ、人の顔色を伺っているような子供だった。この言葉は、豊の養父になって以来、父が繰り返し話して聞かせてきた言葉だった。その後、彼は決まってこう付け足した。

『ただし、高圧的な人間にはなるなよ。偉そうな態度で自分を守らなければ自信を保てないなら、所詮はその程度の人間だってことだ』

 父は豊の知る中でその言葉を体現している唯一の者だった。周りに自信あり気な人はいるが、そういう者はだいたいにおいて偉そうだったり、自分より強い者におどおどしていたりした。

 家に上がると、父はガラス戸を開け、食卓へと向かった。開けっ放しの戸から温かい風が漏れ出て、炊きたてのごはんと焼き魚のいい匂いを運んできた。戸を閉めない父に母が不審気に振り返り、豊を見て笑顔になった。

「あら、おかえり」

「ただいま」

 部屋に入って後ろ手に戸を閉める。食卓の上には、父と母の分の食事が並び湯気を出している。まだ手をつけられていなかった。用意ができたところのようだ。台所に立つ母の隣に並び、豊は自分の茶碗にごはんをよそった

「父さん、また揉めてたよ」

「ポイ捨てを注意しただけだ」

「窓の外を見て突然出て行くから何かと思えば、また……」

 母が呆れたような、もう諦めたような声で言う。豊は、茶碗とコップ、自分の箸を持って父の隣に座った。ドアに近い側に父と豊が座り、台所に近い側に母が座る。十二年前、二人にもらわれてこの家に来た時から、ずっと変わらない席順だった。母が味噌汁と焼き魚を豊の前に置いてくれた。魚は母の前に置いてあったものだ。顔を上げると、「すぐに焼けるから」と彼女は台所の魚焼き器に目をやった。 豊はありがとうの意味を込めてうなずき、いただきますと手を合わせた。

「今度の土曜、北高と合同稽古入ったから」

「北高か」

 父の顔が曇ったような気がした。

「この前言ってた所はどうなったんだ」

「ダメだった」

 豊は首を振った。

「みんながっかりしてただろ」

「うん。でも颯太は張り切ってたよ。なんでも北高に因縁の相手がいるらしい」

「ほう。そうか」

 父は呟き、魚を口に運んだ。そして宙の一点を見つめる。剣道の話の途中で父がこうするのは、話に出てきた人物の稽古姿を蘇らせている時だった。豊は邪魔をせずに食事に取りかかった。父はすぐに口を開いた。

「あの子は伸びるよ。筋がいい」

 豊はうなずいた。同感だった。

「でも、お前が好きなのは小山だろ」

 豊は苦笑いを浮かべた。図星だったのだ。むろん人柄ではなく剣風について聞いている。小山は自分に似ている。豊は以前からそう思っていた。それだけに見ていて胸が苦しくなる。

 打って勝つのではなく、勝ってから打つ。

 これが剣道の本質だと豊も思っている。しかし、打突で勝負が決まる以上、打つスピード・テクニックも、やはり重要な要素となる。小山はそれを軽視しているところがある。そもそも、なんとしてでも取るという一本に対する執着心が小さい。技の数は少ないし、フェイントの練習も嫌がる。『勝つためだけのテクニックを磨く時間があるなら、本当に強くなるための稽古を』はっきりとそう口にしたこともある。彼との稽古は確かに気持ちいい。決して待たず前へ前へと攻めてくる。豊の打ちを竹刀で受けるようなこともないし、打たれることを恐れず真っ直ぐに向かってくる。正しい稽古の仕方だと思う。勝ちに飢え、相手に竹刀を当てることばかりに執心しがちな初心者の颯太にとってはいいお手本となっている。しかし、小山は稽古と同じように試合をする。分けて考える器用さが無いのだ。いやらしさの無い素直な剣道、相手にとってはやりやすいだろう。もっといやらしくと口を酸っぱくして言うのだが、変える様子は無い。レギュラーの一角を担う者としてもっと試合巧者になって欲しいと思う。

 だが――それと同時に心のどこかで、こいつはこのままでいいと思う気持ちがあるのも確かだった。

「父さんだって一番好きなのは小山なんだろ」

 父は不自然なほど試合の勝敗にこだわらない。そもそも試合について口にすることがほとんど無かった。しかし、稽古の内容にはうるさかった。テクニックに依存するなというのが口癖である。父の考え方を最もよく体現しているのが小山だった。

「いい稽古するからな」

 いい稽古をする。豊も習いたての頃はしばしば言われた言葉だった。もちろん褒め言葉だが、言われて素直には喜べなかった。やはり試合に勝てていなかったことがその原因だった。試合に勝っていれば、純粋に「強い」と言ってもらえているはずだという気持ちがあった。

「稽古がいいだけじゃない、確実に強くなってる」

 小山のために豊は言った。もちろん本心でもある。

「ああ」

 父はうなずいた。「お前も北村もそうだ。颯太はともかく、子どもの頃からやってるお前らが短期間でこんなに伸びるっていうのは、やっぱりあの子らの影響が大きいんだろうな」

「うん。大きいなんてもんじゃない」

 北村の言うとおり、やはり強い者と多くやることこそが強くなるための近道なのだ。樋口や甲斐とやる時は、いつも自分の限界以上の集中力が引き出されているのを感じる。

「そういえばお前、樋口に勝ったらしいな。今日、学校で本人から聞いたんだが」

「へえ、凄いじゃない」

 母が大げさに声をあげる。

「勝ったって言っても一本勝負で面決めただけだよ」

「でもかなり興奮してたぞ。完全に負けたって」

 昨日の一本勝負を思い出し、豊は体が熱くなるのを感じた。

 その勝負で、豊は今までになく充実していた。剣先での一進一退の勝負の中で、少しずつだが自分が優位な状況に立ちつつあるのを感じていた。焦り・興奮・恐怖、そういったものを全て脇に置いて、冷え切った頭の中でぎりぎりの勝機を待った。見えたと思った瞬間、豊は全てを捨てて跳んだ。凄い面が打てたと感じた。自分にとって大きな価値を持つ勝負になったと思った。樋口たちの背中に、ついに手が届いた気がしたのだ。樋口もそれを感じてくれているようだ。

 しかし、では試合での樋口や甲斐に近づいたのかといえば、それはまた別の話だった。稽古においては相手の長所と真正面から向き合って勝負をする彼らだが、試合では当然そこを避けて勝負をする。むろん結果は大きく変わってくる。

「試合で勝ってこそだよ」

 豊の言葉に、父は曖昧にうなずいただけだった。

「しかし、お前らにとってはプラスでも、彼らにとってはライバルがいなくて大変だよなあ」

「そもそも、なんで長槻に来たのかしら」

 母が言った。

「さあ」

 豊は首を捻った。何度か聞いたことはあったが、いつもはぐらかされていた。

『四月から長槻でお世話になります』

 樋口と甲斐が揃って豊の家を訪れたのは一年前のちょうど今頃だった。突然のことだった。『どうしてうちに』豊の問いに『豊さんがいるからですよ』と甲斐は微笑んだ。樋口は、そうそうと言うように頷いていた。

 思えば二人が清竜に行くと言いに来たのもちょうどこの季節で、それもやはり突然だった。『一緒に行きませんか』二人は言ったが、豊はもう間もなく中学へ上がろうかという時期で、動き出すには色々と遅すぎた。豊はそのまま地元の公立中学に上がり、その一年後、二人は清竜中学へと進んでいった。

 だから、樋口と甲斐は突然豊の前から消え、突然戻ってきた格好だった。

 再会した彼らは見違える程に成長していた。清竜での活躍は、当然追ってはいたが、実際に竹刀を構えた時の威圧感は想像を遥かに超えていて、すぐに自分とは全く別次元の選手になったことを思い知らされた。

「三年で差がつくもんだなあ」

 その時の衝撃を思い出して、豊は我知らず呟いていた。彼らが清竜に行く前までは、豊の方がまだ遥かに強かったのだ。

「昨日勝ったんだろ」

 言ってみそ汁に口をつけた父が目だけで笑った。

「まあね」

 豊も合わせて笑った。やっとまともに勝負できるところまで来たという感慨は確かにある。

「ごちそうさま」

 豊は重ねた食器を持って立ち上がり、流しへと持っていった。

「じゃあ、宿題してくる」

「あんまり頑張りすぎないようにね」

 背中に母の声がかかり、豊は振り返って微笑んだ。

「うん、ありがとう」

 言葉とは裏腹に、もっと頑張らなければと、思う。目の端に、空いたままになった壁の穴がある。セロハンテープで繋いだ破れた壁紙がある。父はもう覚えていないだろうが、十年程前、豊は新しい家を買ってやると、彼に約束していた。

 約束は必ず守るという哲学は、父では無く母に教わったものだった。母はしかし、父とは違い、口に出してそれを伝えることはしなかった。日常生活の中で、どんな些細な約束もきちんと守る姿を見せることで、彼女は息子にそれを伝えた。父は、必ず約束を守る母のことをとても誇りに思っている。母のようになれとよく話した。

 しかし、豊が新しい家を買ってやりたいと思っているのは、約束したからというだけではなかった。自分を拾ってくれた両親への恩返しに家をプレゼントする――それは、今や豊の夢になりつつあった。

「勉強もだけど部活も無理はするなよ。お前が抑えないと、あいつら限度知らないから」

 父が言った。

「わかったよ」

 豊は笑った。稽古好きの父がこんなことを言うのは珍しかった。練習熱心なメンバーに恵まれたということだ。

 ――というよりも、そういう奴しか残らなかったのか。

 黒江という前のキャプテンが酷かったのだ。機嫌が悪いと周りに当たり散らし、特に目の敵にされていた豊はたびたびリンチに近い目に遭っていた。今の二年生も一年生も、最初は例年通り二十人近くの部員がいたのだが、それが数ヶ月で今の人数になった。

 ――いや、一年生は一ヶ月だったか。

 豊は階段を上りながら、大勢の一年生が一斉に辞めていった去年の春のことを思い出していた。



        四


 その頃、北村に注意された髪を鏡に映しながら、颯太は同じく、去年の春の出来事を思い出していた。

 ――そんなハリネズミみたいな頭が許されて、どうしてストパーが駄目なんですか!

 自分が放った怒声が耳の奥で鳴り響いた。

 あれは練習が外の日で、ハリネズミ頭の黒江は、最初からあまり機嫌がよくなかった。自分の前に並ぶ一年生を見回し、彼は言った。

『あのテンパの奴は休みか』

 一年生が入部してから半月しか経っておらず、黒江はまだ全員の名前を覚えていなかった。

『来ています』

 黒江の前に立っていた颯太が答えた。

『いないだろうが』

 黒江が言うと、『僕ですが』と、テンパ――天然パーマの宮瀬がおずおずと手を上げた。黒江は訝しげな表情で彼の顔を見た。その目がきらりと光った。

『お前、髪どうしたんだ』

『パーマを当てて……』

 宮瀬は消え入りそうな声で言った。

『はあ?』

 聞き返した声は怒声に近かった。下校中の生徒たちがぎょっと彼を振り向いた。黒江はまっすぐに宮瀬に向かって歩いていくと、彼の胸ぐらをつかんだ。

『お前、舐めてるのか』

 静かだがドスの利いた声だった。

『チャラチャラしてんじゃねえぞ!』

 黒江は宮瀬の体を押した。小柄な体が後ろに吹っ飛ぶ。倒れた彼に向かって、黒江は尚も罵声を浴びせた。その姿を見ながら、颯太は胸の奥でふつふつとした怒りが湧き上がってくるのを感じていた。彼は数日前に宮瀬が、今度ストレートパーマを当てるのだと嬉しそうに話すのを聞いていた。癖毛は前からずっとコンプレックスだったようだ。長年気にしていた癖毛を直しただけで、なぜこのような仕打ちを受けなければならないのか。ただのストレートの髪の毛と、ムースで固めハリネズミのようにして立てた髪型と、どちらがチャラチャラしているというのか。

『そんなハリネズミみたいな頭が許されて、どうしてストパーが駄目なんですか!』

 気づいた時にはその言葉が口をついて出ていた。

 黒江は颯太のそばに来ると、ぞっとするような低い声で言った。

『お前、殺されたいのか』

『いえ、殺されたくありません』

 おどけた声で返すと、次の瞬間頬を張られた。

 ――この野郎。

 殴り返すのはなんとかこらえた。その代わりに練習後、颯太は美容院に行き髪を金色に染めた。

 翌日、颯太を見た黒江は一瞬ぽかんと口を開いた後、声にならない呻き声を上げた。その時の様子を思い出すと、颯太は今でも笑いそうになる。それくらい間抜けな顔だった。

 その日から颯太と宮瀬に対する陰湿ないじめが始まった。彼らが起こす些細なミスを口実に、一年生全体に連帯責任としてペナルティーを科すのだ。一年生が彼らを恨むように仕向け、孤立させようという腹だった。しかし、それはあまり上手くいかなかった。そうなる前に、剣道部に幻滅した部員たちが次々と辞めていったからだ。宮瀬は最後の方まで残っていた。颯太は顔を合わせるたびに彼を元気づけた。俺はあいつらが卒業するまでこの髪の毛でいる、お前も頑張れ。しかし彼もついには『ごめんね』という言葉を最後に辞めていった。

 ――ごめんね、か。

 その時の宮瀬の顔を思い出して、颯太は胸が痛くなった。辛い思いをさせたのかもしれなかった。本当はもっと早く辞めたかったのだろう。颯太のせいで、なかなか辞められなかったのだ。

 金髪にすることに、もはやほとんど意味は無い。黒江はもう颯太の髪の色になど全く興味は無いだろう。金髪を続けようが辞めようが、なんとも思わないに違いない。一方黒にすればたくさんの人が喜ぶ。今日までに豊を除く剣道部全員から直接的間接的に、黒にしろと言われていた。両親にも毎日のように注意される。それでも颯太が今も金髪なのは、気に入っているからでは無かった。宮瀬に、黒江たちが卒業するまで続けると約束したからだ。黒に戻すと、その時嘘をついたことになる。

 時計を見ると八時を少し過ぎていた。颯太は竹刀を手に部屋を出た。毎晩三十分は竹刀を振ることに決めている。

 髪の問題は一旦棚上げし、週末の合同稽古へと思考を巡らせた。楽しみだった。他校との稽古で、颯太はかなり自信をつけてきていた。長槻の選手相手には全く歯が立たないが、他校の選手にはそうでもない。互角以上に戦える相手の数が、やるたびに増えていく。だから颯太は、自分の成長を実感できる合同稽古をいつも楽しみにしていた。

 素振りは近所の公園で行う。誰もいない公園の中、一本一本を区切って振る。二十分ほど繰り返した後、颯太は竹刀を構え、目の前の空間に一人の人物を描き出した。

 剣道を始めて間もない頃から、颯太は、こうして実際に竹刀を構えながら試合の場面を空想してきた。空想の中の彼は長槻のエースであり大将だった。場面の設定として一番よく使うのは、インターハイ県予選の決勝、二勝二敗で回ってきた大将戦だった。自分が勝てばインターハイ出場が決まる場面である。相手は清竜の佐久間。両者一歩も譲らずに五分が経過し、試合終了の笛が鳴ろうとするその瞬間から空想はスタートする。そして、終了間際に繰り出されるのが、渾身の必殺技だった。

 颯太がそれに初めて出会ったのは、新人戦決勝の大将戦だった。今暁の新藤が、清竜の佐久間に向かって繰り出したのだ。左手一本で打った伸びのある突き打ちに、会場は万雷の拍手に包まれた。その大会で佐久間が奪われた唯一の一本だった。それを見て以来、颯太はその技に取りつかれてしまった。片手突きを見るのはそれが初めてではなかったが、遠間から瞬間的に喉元を突き、次の一瞬には元の構えに戻る新藤のその突きは、颯太の目に全くの別物に映った。

 それは、まるで必殺技だった。

 颯太はいつかあれと同じ技が打ちたいと思い、毎日のように片手突きの練習に励んでいる。そして、いつかあれと同じ技が打てるようになると信じて、形にすらなっていない自分の片手突きもまた、必殺技と呼び続けているのだった。

 颯太が今この公園の中に作り出している空想世界はしかし、普段の舞台とは少し違っていた。インターハイ県予選のような大舞台ではなく、相手も清竜の佐久間のような大選手ではなかった。舞台は普段利用している長槻高校の剣道場で、相手は北高の奥田という選手だった。まだ剣道を始めて半年に満たない颯太に対して、稽古中になぜか続けざまに突きを打ってきた相手だった。手も足も出ない颯太は打たれ続け、最後には後ろに転倒してしまうはめになった。『こんな奴がいて――』その日の練習後、颯太は樋口に話した。樋口は少し真剣な目になり『ちゃんと突き返しただろうな』と言った。

『いや、まだ突き打ちの練習はほとんどしてないし』

『関係ないよ』

 樋口は首を振った。『突きは打たれたら、絶対に打ち返せ。舐められるぞ』

 やはり真剣な顔をしていた。颯太は黙ってうなずいた。そして、その日から奥田は颯太にとって因縁の相手になった。今では自分が何をされたのかわかっている。土曜の合同稽古では、稽古のどこかで必ずやり返そうと決めていた。

 はじめ!

 公園の中に生み出された剣道場に、主審の声がこだました。五分の試合時間を待つつもりなどなかった。颯太は一歩奥田に近づくと、思いっきり踏み切り、左手で竹刀を突き出した。颯太の手に確かな手応えを残して、奥田の頭が勢いよく後ろに仰け反る。竹刀を構え直し、コート内を見渡す。三人の審判の持つ旗が、全て上がっている。突きあり。必殺技成功。

 颯太は一つうなずくと、竹刀を構え直し、空想をリセットした。開始線に立ち、主審が再び試合開始の合図を出すのを待つ。合図と共に前に出る。必殺技を繰り出す。突きあり。必殺技成功。

 それから三十分、冬の夜の冷たい風の中で、彼はひたすら片手突きを繰り返した。



        五


「桑原先生の方が上座だよね」

 聞くまでもないことを言いながら、小山は桑原の防具袋から防具を取り出した。颯太は小山のそばに桑原の竹刀袋を置くと、沢木の防具を取りに行った。

 北高は十分前に到着している。桑原は沢木と共に部室に、生徒たちは樋口と甲斐の案内で更衣室に連れられている。

「でもなんでだろう」

 桑原の防具から少し離れた位置に沢木の防具を置いていると、小山が言った。颯太は巻きつけてある胴紐をほどきながら小山に顔を向けた。

「確か同い年だよね。なんであんなに偉そうなんだろう」

 道場の中は二人だけだったが、最後の方は流石に声を落としていた。

「性格だろ。どこの学校に対してもあんな感じだし」

「ここらじゃ自分が一番挌上だと思ってるんだろうね」

「まあ、一応そうなんじゃないか?」

「十年前の栄光? 確かに凄いけど、いつまで言うんだよって思うよ」

 北高に赴任する前の高校で、桑原は顧問としてインターハイ県予選の準優勝を経験している。彼の口癖は『以前団体で決勝まで行った時――』だった。実力も今の長槻を除けばこの辺りでは一番強いはずだが、いつまで言うのだという小山の感想はもっともだった。

「北高とやるといつも気分悪くなるんだよね」

 桑原の防具を準備し終えた小山は、颯太のそばに来て言った。

「同感だけど、北高って今、練習試合のオファー凄いらしいよ。反則技のレパートリーの多さと質の高さに、教えて欲しいっていう学校が結構出てきてるらしい」

「なんだよ反則技の質の高さって」

 小山は不愉快そうに言った。

「審判にほとんど気づかれないんだって。最初は否定的だった学校の中にも、教えてくれって言い出してるところが結構あるらしい。うちではあり得ないことだけどな」

「豊さんがそんなもの認めるはずがないからね」

「ああ。それに、万一考えが変わったとしても、とてもじゃないけど今更教えて下さいとは言えないだろう」

 桑原が反則技を教えようとする度に、豊は露骨に嫌悪感を顕わにし、それを拒絶していた。今更、やっぱり教えて下さいとは言えるはずがなかった。

「かわいそうなのは生徒だよ。あんな剣道させられて」

 小山は本気で気の毒そうに眉を寄せた。

「いや、あいつらも同罪だろ」

 去年の稽古では随分腹の立つ思いをした。奥田だけではない。ほとんどの選手が喧嘩腰のような形でかかってきた。桑原の言いなりになって汚い行為を繰り返す彼らも、桑原と同じだと颯太は感じていた。

 二人は自分たちの防具を出しに、道場の隅にある防具置きの棚へ向かった。近づくにつれ、湿った剣道の臭いが濃くなる。

「防具の棚、外に置いた方がいいのかもしれないな」

 防具の中に入り込んだピンポン球を卓球部が息を止めながら取り出す姿を何度か見たことがある。その度に気の毒になる。剣道部以外には耐えられない臭いだろうと想像はつく。

「元々はそうしてたらしいよ」

 小山が言った。「道場出てすぐ左の軒下に、僕らの道着を干してる場所があるだろ? 元々はあの向こうに防具も置いてたらしい」

 初耳だった。

「どうして中に入れるようになったんだ」

「僕らが入る前の年にいたずらがあったんだって。被害にあったのは北村さんの防具で、夜の間に地面に投げ捨てられていたらしい。それ以来、中に移したんだって。沢木先生と豊さんがちょうど法事で帰省している間の出来事で、二人とも学校に来てびっくりしたらしいよ。あるべき場所に防具が一つも無いものだから、全部盗まれんだと思って、危うく大騒ぎになりかけたんだって」

「それはびっくりするだろうな」

 小山の話に笑っていると、ふと、男子更衣室から、北高の選手たちの騒がしい声が聞こえてきた。女子部員も今頃少し離れた所にある女子更衣室で着替えているのだろう。北高は部員の半数を女子が占める。

「いいよな。女子がいっぱいいて」

 颯太は思わず言っていた。

「うちだって霧島さんがいるからいいだろ」

 小山がすかさず言った。「先輩目当てで入ったんだし」

「いつまでそれ言うんだよ」

 颯太は苦笑した。確かに、颯太が剣道部を見に来たきっかけは玲奈だった。剣道部にすごい美人がいる――中学時代からのバンド仲間のリュウジに誘われて軽い気持ちで見学に来たのだった。リュウジは雰囲気に馴染めずすぐに辞めていった。今は、部活はせずに、バンドだけをやっている。

「豊さんには勝てないよ」

 颯太はしゃがんで棚の一番下にある防具を引っ張り出した。取り出しやすい位置には、引退した三年生の防具が未だにずらりと並んでいる。もう来ないならいい加減持って帰れよ――毎度お決まりになった悪態をつきながら防具を運ぶ。

「でも豊さんは霧島さんのこと相手にしてないんだから」

「声大きいぞ」

 颯太はさりげなく辺りを見回した。玲奈が豊に片想いしていることを颯太たちが知ったのは、ただの偶然からだった。小山と食堂にいた時に、玲奈の友人二人が声を潜めて噂しているのを、たまたま耳にしたのだ。だから、それは周知の事実というわけではなかった。

 やがて樋口と甲斐が北高の部員を引き連れて道場に入ってきた。

 練習は桑原の指揮で始められた。どの学校で練習をしても、彼はいつも勝手に指揮を取る。練習メニュー自体は長槻と似たシンプルな内容だった。掛かり手の左右両面打ちを竹刀で受ける「切り返し」から始まり、面や小手などの基本的な打突練習を行う「基本打ち」へと進んでいく。基本打ちの際は、一区切り終えるごとに一つずつ立ち位置を移動して別の相手と組んだ。奥田と当たったのは一度目が、小手面打ち(小手と面の連続技)の時、二度目が引き技(鍔ぜり合いから下がりながら出す技)の時だった。引き技の際、颯太は自分と奥田の実力差がほとんど無くなったか、あるいはむしろ逆転したかもしれないと感じた。桑原から、できるだけ相手の技を防ぐようにという指示が出ていたにも関わらず、颯太は三本中二本を決めることができた。奥田は颯太に竹刀を触れさせることすらできなかった。

 基本打ちが終わると、次は打ち込みだった。打ち込みは、決められた技を連続的に繰り出す稽古だった。指示された内容は、面・体当たり・引き面・面・体当たり・引き小手・面・体当たり・引き胴・小手面・体当たり・引き面・小手面・体当たり・引き小手・小手面・体当たり・引き胴――そして、最後に面フェイント小手だった。桑原が騙し小手と呼ぶこのフェイント技は、面を打つと見せかけて相手が手元を上げたところを、小手打ちで押さえる技で、颯太はこの日初めて知った。見よう見まねでやっているところを豊に捕まった。

「実際に面を打ちに行ってるから、フェイントになってないぞ。それじゃ、遅い。面の方向に突き出すように竹刀を出せ。攻めが効いていれば少しの動きでも、相手の手元は上がる。それから小手を見るな」

 難しいが、フェイントの練習は楽しかった。試合の中で、自分の思い通りに相手を動かし、そこに技を決められたら、さぞかし気持ちいいだろうなと思った。途中、小山を見ると、フェイントを介さずに小手を打っていた。毎日のように豊や北村からフェイント等のテクニックも磨けと言われているが、やはり従うつもりはないようだった。

「やめ」

 桑原が号令をかけた。

「休憩終わったら試合」

 休憩中、長槻の部員は豊の元に集まった。

「颯太、今日はお前も出るぞ」

 豊はぽんと颯太の肩を叩いた。

「はい」

 勢いよく返事をした。団体戦は基本的に五人戦なので、六人目の颯太は出る時と出ない時があった。桑原がホワイトボードに線を引いていく。小山が、自分が書きますと飛んでいったが、構わんと追い返された。

「颯太は一番手だ。後は普段のオーダー通り、俺・小山・北村・甲斐・樋口」

 豊が言った。

「はい」

 答えながらホワイトボードを見つめる。先日の公園での空想のように、試合で奥田と対戦することになるのかもしれなかった。彼は颯太と同じく補欠選手である。先鋒を任される可能性は高かった。桑原が北高の先鋒の名前を書いた。心臓がどくんと音を立てた。奥田だった。

 颯太が試合に必要な道具を取りに行こうとすると、甲斐にぽんと尻を蹴られた。

「体温めとけ」

 そう言って自分が倉庫に入っていった。

「勝てるぞ」

 素振りをしていると、樋口が声をかけてきた。

「お前なら勝てる。ただ、やたらフェイント使うから気をつけろ。あいつは打ちたい場所を目で追いかけるから、きちんと見てれば引っかからない」

「わかった」

 颯太はうなずいた。「よく覚えてるんだな」

「前ここでやった時、変なことばっかりしてくるから、むかついてぼこぼこにした覚えがある」

「お前のせいか」

 颯太は唸った。

「何が?」

「あいつが俺に突き打ちまくってきたの、お前にやられた腹いせだよ、きっと」

「ああ。あれ、あいつなのか」

 樋口は笑った。「じゃあ、わかってるよな?」

「もちろん。初太刀から行くよ」

「必殺技?」

「ああ」

「楽しみにしてるよ」

 樋口はにやりと笑みを浮かべた。


 審判は主審が沢木、副審は桑原と北高の選手が務めた。審判の両手にはそれぞれ赤と白の旗が握られている。打ちが決まったと判断した時、審判は打ちを決めた選手に相当する色を上げる。この試合では、長槻が赤で北高が白だった。選手はそれぞれの色を示すタスキを背中につけている。

 颯太は面・小手をつけたままでの素振りを終え、他の選手と共にコートへと向かった。試合の前には、出る選手全員で立礼をする。先鋒と次鋒はこの段階ですでに面と小手をつけている。互いに礼をした後、全員でコートの外に出る。皆が少し離れた場所に並んで正座する中、先鋒の颯太と奥田だけが立ったままコートのそばに残った。コートを隔てた相手と向き合い、二人で合わせるようにして一歩コートに踏み込む。提刀のまま礼をし、三歩で開始線まで進む。三歩目と同時に竹刀を抜き、蹲踞の姿勢を取る。

 沢木の号令を待ちながら、颯太は奥田の面の奥を睨みつけた。左腕がうずうずしていた。

「はじめ」

 立ち上がり、奥田が「やっ!」と気合の声を入れた瞬間だった。颯太は間髪入れずに踏み込むと昨日のシミュレーションの通りに片手突きを繰り出した。竹刀は突き垂れを滑り、上手く決まらなかったが、動揺を隠せない相手はすぐに体勢を立て直すことができなかった。颯太はすかさず竹刀を両手に握り直し、面を打った。

「メン!」

 綺麗に打てた時特有の音と手ごたえがあった。さっと相手の横をすり抜けて振り返ると三本の赤い旗が上がっていた。

「面あり」

 主審の声があがった。開始線に向かってゆっくりと歩いていく。長槻の部員たちは立ち上がらんばかりの状態で拍手している。樋口は声こそ出していないものの爆笑していた。颯太と目が合うとうんうんと何度もうなずく。やはり剣道も団体競技だと思うのはこんな時だった。ガッツポーズは一本取り消しの理由になりえるが、大事な試合で思わずやってしまう選手の気持ちも理解できる。声援を背中で受けながら開始線に立つ。奥田は先に構えて待っていた。立ち姿から、凄まじい怒りが伝わってきた。

「二本目」

 沢木の合図と同時に動き出した奥田は、間合いに入ると同時に打ってきた。慌てて竹刀で防ぐ。激しい連打で、颯太は防戦一方となった。引き技で離れる。奥田はすかさず追いかけてきた。二人の距離が急速に縮まる。

「後ろ無いぞ」

 豊の声がかかった。コートから足が出ると、場外反則を取られる。颯太は左足をふんばり、体を止めた。反則は一回までは問題無いが、二回犯すと相手に一本が与えられてしまう。奥田がぐんぐん迫ってくる。ここで受けると、また防戦一方になる。颯太は面を打ちに出ようとした。しかし、引き技直後で重心は後ろにある。元に戻すのに時間を取られ、面を打ちに飛び出すのが一瞬遅れた。左足で地面を蹴ったその瞬間だった。相手の竹刀がわずかに上がり、続いて軽い衝撃が小手にあった。直後、颯太は体当たりをくらって、場外に突き飛ばされていた。相手は、竹刀の先を颯太の喉元に向けたまま一気に颯太から離れていった。

 北高では、打ちの判定が際どいと感じた時に、行うことを義務付けられていることがある。

「小手、小手、小手!」

 彼は叫びながら沢木を見た。迷っている時にこれをやられると、上げてしまう審判が稀にいるのだ。しかし、沢木の手はすでに白の旗を上げていた。残りの二人も上げている。

「小手あり」

 あっという間に取り返されてしまったのだった。

 颯太はゆっくりと立ち上がった。したたかに打ち付けた腰が痛む。急いで戻ると見下される。胸を張り背筋を伸ばし、なるべく大きく見えるような恰好でコートに戻った。試合は三本勝負だ。次で勝負が決まる。

「勝負」

 三本目はなかなか決まらなかった。次第に集中力も途切れ、このまま試合時間の五分が過ぎて引き分けになるのではと思った頃、届きそうもない間合いから向こうが面を打ちに飛び出してきた。防ごうと何気なく竹刀を上げる。直後、颯太は小手を打たれていた。

「小手あり」

 沢木の声が上がった。

 ――騙し小手か。

 負けた悔しさと気を抜いた自分への腹立たしさで顔がかっと熱くなった。荒れる胸のうちを外に出さないようにし、たいしたことじゃないという風を装って開始線へと戻った。

「勝負あり」

 蹲踞をして竹刀を納めながら、颯太は相手を睨みつけた。目を逸らしてふっと薄笑いを浮かべた奥田を見て、颯太の頭は沸騰した。面の奥に目をつけたまま立ち上がり竹刀を帯刀した。そのまま後ろに下がる。互いに礼をしてコートの外に出た。次鋒の豊と軽く小手を合わせる。外した面を、並べた小手の上に乗せると、颯太はふうと大きく息をついた。それを聞いた樋口がふっと笑みを浮かべて颯太を見た。何か声をかけようとしているようだったが、沢木の「はじめ」という声と同時にコートへと目を戻してしまった。颯太は頭に巻きつけた面タオルを外すとごしごしと顔の汗を拭いた。

 去年歯が立たなかった相手によく健闘したという気持ちは無かった。負けたという事実と悔しさだけが頭の中で膨らみ続け、目の前で行われる試合の内容には全く集中できなかった。ようやく落ち着いて見られるようになった頃には、豊はあっさり二本取って勝利していた。

 次の試合、小山の対戦相手が放った明らかに軽い小手が一本になった。桑原が旗を上げるのにつられるようにしてもう一人の副審があげたのだ。沢木は「軽すぎる」という意思を全面に出しながら下げたままの旗を何度も交差させたが、やがて諦めたように旗を上げ、「小手あり」と言った。判定の最終決定権は主審にある。しかし、よほどのことがない限り、二人上げれば一本とするのが普通だった。颯太は桑原に目を向けた。彼が沢木に主審を任せた時は、おっと思ったが、案外それは北高側の審判の数を増やすためだったのかもしれない。両校から審判を出す場合、主審と副審は出す学校を分けるというのがこの辺りでは慣例になっている。何が何でも勝つという姿勢は、こういう部分にも及んでいるのかもしれなかった。

 この後、小山は二本取り返して勝ち、後の三人も全員二本勝ちしたため結局長槻が取られたのは颯太の二本と、小山のこの一本だけだった。

 試合後、桑原は面・小手をつけたままの両校の大将にそれを外すように言うと、一旦全員を集合させた。長槻と北高の部員が弧を描くようにして桑原を囲む。桑原は一同を見回してから話し出した。

「君たちは強い。しかし、今の試合を通じてうちが君たちに勝っていた部分が一つある。何かわかるか?」

 誰も答えなかった。

「それは、なんとしてでも勝つという気持ちだ」

 ――やっぱりそれか。

 彼の言うとおり、北高の選手はがむしゃらだ。しかし、彼らの必死さはどこかいびつな形をしている。他の高校とは気合の向いているベクトルが違うのだ。彼らの試合を見ると、颯太はいつも独裁国家のサッカーを思い出す。審判の目を盗んでの「ファール」や、判定後の猛抗議、そして何よりも選手の悲壮さがそれを思い起こさせるのだ。公式試合では、規定より軽い竹刀の柄に水を含ませ重さをごまかしているという噂もある。重さを測定した後にドライヤーで乾かし、軽くなった竹刀を使うというのだ。さすがにそこまではしていないだろうが、本当かもしれないと思わせるものを桑原は持っている。

「十年前、私の見ていた子たちがインターハイ県予選の決勝まで行けたのは、ひとえに勝ちへの意識が他の高校の何倍もあったからだと思っている」

 桑原は北高のキャプテンに竹刀をよこせという仕草をした。

「しかし、それだけでは練習時間で私立には適わない。ではどこで補うのか。君、どう思う」

 桑原は小山を指した

「いかに集中して稽古するかでしょうか」

 桑原は苦笑いを浮かべ、

「私立の子らも、かなり集中して練習してると思うぞ」

 桑原は尚も答えを待つそぶりを見せたが、小山はさっさと言えと言わんばかりに、黙って彼を見つめている。しばらくして桑原は口を開いた。

「彼らの思いもつかないようなことをしなければ、ダメだ。一つの例として君たちに私の考えた小手を教えたいと思う。小手は打突部位の中で最も位置が変わり、それゆえ打つ角度も最も変化する。試合で勝つにはあらゆる場面を想定して、小手がどこにあっても打てるようにしておきたい」

 桑原は小山を立たせ、自分の右斜め前で構えさせた。自分は小山に打ちやすいように、敢えて小手に隙を作って構えている。しかし空けているとはいえ、地面に垂直方向に打つ普通の小手打ちでは決まらない位置に彼の小手はあった。手首を返し、地面に水平に打つ必要がある。

「そこから最短距離で竹刀を小手に当ててくれるかな」

 小山は竹刀を反時計回りに捻り、水平に近い角度で桑原の小手を打った。決まらなかった。竹刀は小手を滑り、打った小山は体勢を崩した。

 ――これの打ち方を教えてくれるのか。

 この小手は覚えて損はないはずだった。技の数は多ければ多いほどいいと颯太は思っている。桑原がたびたび持ってくる反則技やそれに近い裏技に比べればずっと聞く価値がある。

「悪くはないが、最短ではない」

 桑原は、今度は小山に小手を空けさせた。

「これが最短距離だ」

 桑原は手を捻らずに地面に水平に竹刀を振り、小山の小手に当てて止めた。そして、どうだ? というように顔を上げた。

 颯太は唖然とした。桑原は、いわば自分の竹刀を刃の向きと垂直な方向に動かし、刀の側面で打ったわけだ。確かにそれが最短距離で、確かに一番速く打てる方法なのだろうが、そんなものを一本にしてくれる審判などいるはずがなかった。

 豊たちの反応を窺う。豊は邪道な技の説明を許してしまったことに気づき、苦虫を噛み潰したような顔をしている。北村は興味深そうに続く言葉を待っており、樋口と甲斐は苦笑を浮かべていた。唯一顔の見えない小山は、こちらに背を向けたまま微動だにしない。

「握ってる方向に対して垂直に動かしているわけだから力が入らない。従って音が鳴らない。これがこの小手のネックだ。しかし、それは足を大きく打ち鳴らすことでなんとかなる。その音で小手の音が掻き消されたと審判に思わせるのだ。次に弦の向きだが――」

 竹刀には剣先から柄までぴんと弦が張られている。弦の反対側が刀の刃にあたり、打突はそこで行わなくてはならない。今は刀の側面で打っており、そのため弦はまともに打った時と比べて九十度回転した位置にある。

「これは打った後で離しながら捻る」

 そう言って桑原は竹刀を捻り、まともに打った場合の向きに戻しながら小手から離した。打ち終わった時の刃の向きを、まともに打った時のそれと同じにすることで、審判の目を欺くのだ。

 果たしてそれほど上手くいくのだろうか。やはりこんな技かという失望よりも興味の方が、颯太の中で大きくなっていた。

「後は演技力だ。早く打つとどう見えるか、やってみよう」

 桑原は再び小山に構えさせ、その小手を打った。

 颯太は思わず感心してしまった。確かにちゃんと打っているように見えるのだ。打ちの直後に刃の向きが変わることはないという先入観があるから、わかって見ていても騙されそうになる。この錯覚には桑原の自信満々な立ち振る舞いも明らかに一役買っていた。これが彼の言う演技力なのだろう。

「これはただの一例だが、こういう常識からは考えられないような方法を常に考え、そして実践に移すことで、純粋な公立校ですら強豪私立と戦えるようになると私は信じている。君たちなら、インターハイ出場も十分にありえると思う」

 長槻は清竜出身の二人がいる以上「純粋」な公立校ではないと言っているのだ。つまり、万一県予選で優勝してインターハイに出場しても、それは十年前に「純粋」な公立校で自分が成し遂げた準優勝を超えるような偉業ではないと暗にほのめかし、保険をかけているのだ。どこまでもこの人らしい。颯太と豊は苦笑を交し合ったが、この言葉に噛み付いたのは意外なことに樋口だった。

「まるで長槻が純粋な公立じゃないみたいですね」

 普段であればこういう時、誰よりも露骨に冷笑を浮かべる彼の硬い声に、颯太は口元の笑いを引っ込めた。

「そういうわけじゃないが、君らのいる長槻を他の公立や今までの長槻と同じに考えるわけにはいかないだろう。もちろん誉めてるんだよ」

 桑原は動じる様子もなく答えた。樋口は首を振った。 

「長槻が純粋な公立でなければ北高も純粋な公立で無いはずです。私立の中学から来た選手が何人かいるのを知っています。ついでに言えば、先生が十年前にインターハイ県予選の決勝まで行かれた時のチームも――」

「樋口、失礼だろうが」

 沢木の一喝で、樋口は一瞬口を閉じたがすぐに開いて、

「確かに僕と甲斐の剣道は清竜で磨かれたものです。しかし、僕たちの剣道の根元の部分は沢木先生の剣道なんです。僕たちは剣道のイロハを沢木先生に教わりました。そういう意味では僕たち以上に純粋な長槻の選手など――沢木先輩を除けば、どの代にもいないのではないでしょうか」

 樋口は肩を怒らせて言った。颯太には、彼がなぜこれほど熱くなっているのかよくわからなかった。まるで外様のように言われたことに腹を立てているのだろうか。

 樋口はちらりと沢木に目をやり、桑原に「失礼しました」と頭を下げた。桑原は樋口に顔を向けたまま何も言わない。豊がさっと歩み寄り「地稽古でよろしいですか」と訊いた。地稽古とは本来、道場で行う稽古全部の総称だが、この辺りでは、相手との特別な取り決めなしに試合に近い形式で行う互角稽古の意味で使われるのが普通だった。いつもの稽古の流れであれば、このくらいのタイミングで地稽古に入ることが多い。桑原は何も答えなかった。

「それでは地稽古を始めます」

 豊が声を張り上げて、練習は地稽古へと突入していった。


 練習後、桑原の防具を片づける颯太の元に北村がやって来た。すでに着替え終わって制服を着ていた。

「この前言ってた因縁の相手って、今日やった相手なんだってな」

「はい。そうです」

 颯太は顔を上げた。

「こだわりのある相手とやるなら、それだけ気を張ってやれ。最後、抜かなきゃ取られなかった」

 颯太は返事ができなかった。気を抜いたことがばれているとは思わなかった。

「すみません」

「そいつとの最後の試合になるかもしれないっていうくらいの気持ちでやらないとな」

 そしてふっと微笑を浮かべた。

「こんな大袈裟な話をするにはわけがあるんだ」

 北村は颯太に防具の片づけを続けるように言うと、隣にあぐらをかいて話し始めた。

「俺にも中学時代、そういう相手がいたんだ。一度も勝ったことのない相手だった。その日の部内試合でも、俺は途中までそいつにいつものように負けてた。でも、試合時間が過ぎ去り、そのまま負けようかという時に、土壇場で一本を取ったんだ。一対一。次に一本取った方が勝ちという展開になった。いよいよ残り時間が後少しになった頃、気づけば相手はライン際にいた。そして、なんと相手はすでに一つ反則を取られていたんだ」

 北村は言葉を切り颯太を見た。

「押し出せば北村さんが勝つ場面ですね」

 北村はうなずいた。

「俺はどうしても勝ちたかった。だから、相手に思いっきりぶつかって突き飛ばした。体重の軽いそいつは吹っ飛んで壁にぶち当たり、そのまま崩れ落ちた。そして、俺は勝った。でも、それがそいつとの最後の試合になってしまった。そいつは怪我で、剣道ができない体になってしまったんだ」

「そんなに激しくぶつかったんですか」

 颯太は驚いて訊ねた。

「ん?」

 北村は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに違う違うと笑いながら言った。

「その試合の翌日に事故に遭ったんだ。その怪我が元で、激しい運動ができなくなった」

「最後の試合、北村さんは後悔しているのですか」

「ちゃんと勝てないなら、負けたままでいたら良かったと思わないでもないな」

「ちゃんとした勝ちですよ。相手はきっと納得している」

「相手は納得してるよ。納得していないのは俺だ」

 北村は立ち上がった。

「さっきの彼がどうでもいい相手なら別にいい。でも、お前にとってこだわりのある相手なら、あいつと二度と試合ができなくなっても後悔しないような勝負をしろ」

「はい」

「じゃあ、今日は用事があるからこれで帰るな」

 そう言って立ち去っていった。彼を目で追うと入り口の向こうに自転車が置かれているのが見えた。わざわざ自転車を一旦停めて、颯太に今の話をしに来てくれたのだった。そして、それは話すのが辛い内容だったのかもしれなかった。去って行く彼の足取りには全く力が無かった。その背中は丸まり、大きな荷物を背負わされた人のもののように見えた。

 颯太は北村の言葉を反芻しながら、桑原の防具を片づけ、続いて沢木の防具も棚へと運んだ。北村の伝えたかったことよりも、剣道を出来なくなった相手のことばかりが頭の中に浮かんでいた。どの程度の怪我だったのだろう。どれだけの思いで剣道を諦めたのだろう。病室のベッドに座り虚空を見つめる少年の姿が、颯太の頭からしばらく離れなかった。

 練習後に先生の道着を畳むのも一年生の役目である。

 颯太は沢木と桑原のいる部室へと向かった。中から話し声が聞こえてくる。颯太は思わず足を止めた。内容はほとんど聞き取れないのだが、ノックを躊躇させるような雰囲気がそこにはあったのだ。口調は、大人同士の会話というよりも同級生同士の会話――父と父の友人が話す時の感じに似ている。しかし、会話に漂う空気はそんな和やかなものではなかった。力関係に差があるのを、また、上の者が下の者を馬鹿にしているのを、露骨に感じさせられるものだった。そして、その関係性は(今の年齢以上の経験の無い自分がなぜそのように感じるのか、上手く説明することはできないのだが)なんとなく学生時代特有のもののように思えた。もしかすると彼らは昔からの知り合いなのかもしれなかった。そして、その頃の関係が今にまで継続しているのかもしれなかった。

「また新人戦みたいな結果だったら失笑ものだな。なんのための補強かと」

 桑原の絡むような声が聞こえてきた。沢木の返事はぼそぼそとして聞き取れない。

 颯太は以前、不良に絡まれているところを沢木に助けられたことがある。相手は二十代前半の男四人組だった。絡まれた理由はよく覚えていない。金髪について何か言われたような気がするが、要は面白半分でおもちゃにされようとしていたのだった。偶然クルマで通りかかった沢木は、停車して降りてくるなり彼らを一喝した。そして、ゆっくりと颯太の手を引いてクルマに乗せるとそのまま走り出したのだ。その時の沢木の表情には緊張も気負いもなく、至っていつも通りだった。その普段通りの様子が、颯太にはたまらなく格好良く見えた。緊張で心臓が早鐘を打っている自分とは全然違った。思えば沢木はいつもそうだった。偉ぶるわけではなくいつも謙虚なのに、どんな相手に対しても決して気後れすることなく自信を持って接していた。

 今、部室の中から聞こえてくる声は、その沢木のイメージを打ち砕くに十分なものだった。彼は今、明らかに小さくなっている。

「失礼します」

 聞いていられなくなって、颯太は扉を開けた。

「道着を」

 言いながら、沢木の脱ぎ捨てられた道着を拾う。

「先に桑原先生のを」

「いや、いいよ」

 沢木を遮るようにして桑原が言う。颯太は「すぐに畳んで持ってくるので」と言いながら桑原の道着を奪い、沢木の道着と一緒に道場に持っていった。道着を畳んでいると豊が通りかかったので聞いてみた。

「沢木先生と桑原先生って昔からの知り合いなんですか」

「さあ、聞いたことないけどな」

 豊は首を傾げた。

「そうですか」

「どうして?」

「いえ、別になんでも無いんです」

 颯太は慌てて答えた。沢木が桑原に対してあんなに小さくなっているところを豊は見たことがあるのだろうか。できればあって欲しくない。そして、これからも見ずに済ませて欲しかった。父親の話をする時の彼の顔は、いつもこちらが恥ずかしくなるくらいに誇らしげだった。その顔が、いつまでも曇らないでいて欲しかった。

 豊はしばらく不思議そうに颯太を見ていたが、すぐに思い出したかのように「そういえば」と言った。

「あんなしょぼいフェイントにひっかかるなよ。しかも、直前に稽古で散々受けたばかりのフェイントに」

「すみません」

 颯太は頭を下げた。

「罰としてその金髪やめるか」

 冗談めかした口調だったが、やめて欲しい気持ちが全くないわけではないことが、笑いきれていない目元でわかった。これで剣道部員全員に言われたことになる。そろそろ潮時かもしれなかった。



        六


 翌日の部活後、颯太は小山を誘い、駅前のグリーンスパイスというカレー屋に行った。

「豊さんに髪黒くしろって言われたよ」

 注文を終えると颯太は早速言った。

「ついにかあ。どうするの」

「そろそろ潮時かなって」

「うん。黒の方が絶対格好良いよ」

「まあ、金髪なんて似合ってないよな」

 店員が注文を取りに来た。樋口のお気に入りの店員だった。彼女に会いたがる彼に付き合って来ているうちに、いつの間にか颯太たちもここの常連になっていた。颯太はポークカツカレー、小山はコロッケカレーを頼んだ。

 ふと、聞き覚えのある声がして、颯太は顔を上げた。店の奥を見ると、こちらに背を向けて座っている北村の姿が目に入った。北村は二人で来ていた。もう片方は颯太の知らない人だが、聞こえてきた話の内容からすると、どうやら昔からの友人のようだった。特に気にもとめずカレーを食べていた颯太の耳に、北村のその言葉は突然飛び込んできた。

「同じ部だから気まずくなるのも嫌だし、告白は卒業してからと思ってたんだけど、そんなこと言ってるうちに――」

 聞き取れるぎりぎりの声だったが、小山のアイコンタクトで、彼もまた聞こえたことを知った。三学年通して剣道部の女子は玲奈しかいない。颯太は全身を耳にして北村の話に集中した。しかし、元々小さかった声をさらにひそめ始めたため、話が続いているのはわかったものの内容は全く聞こえなかった。途中、北村が自嘲するように笑い、キーホルダーのようなものを見せていた。何かのブランドだろうか、表面にMの一文字が金色で入っている。店内の照明に反射してそれがきらりと光った。それからしばらくして、北村たちは立ち上がった。彼らが近づいてくるにつれ、話も聞き取れるようになった。

「……あいつは、剣道だけじゃなく、多分全てが俺より上だ」

 北村は颯太たちに気付く様子もなく話していた。

「ライバルのことなんて気にしたら負けだ」

 相手が言った。少し先に立った客がレジにいて、彼らはその後ろでレジが開くのを待っていた。

「早く動けよ。気を持たせること言われてキープされてるうちに、そいつに気持ち持ってかれたんだろ。そいつが今興味持ってないからって安心してたら、また同じ目に遭うかもしれないんだ」

「キープってわけじゃないと思う。たぶんあいつ自身、自分の気持ちがよく――」

「わかったよ。ただ、とにかく女は落ち込んでるところが狙い目なんだ。好機を逃すな」

 北村は答えずに黙っていたが、やがて深く息をついた。

「覚悟決めるかな」

 彼が言ったところでレジが開き、それが颯太の聞き取れた最後の言葉となった。

「三角関係か」

 彼らが出て行った後、小山は困ったという表情を浮かべながらも好奇心を隠そうとはしなかった。

「北村さんも知ってたんだな。霧島さんが豊さんのことを好きだって」

 颯太はやり切れない思いで言った。

「豊さんから聞いたんだとしたら酷な話だね」

「そうだな」

 颯太はうなずいた。北村は近々玲奈に想いを告げるのだろうか。部の中がめちゃくちゃにならなければいいがと颯太は思った。


 髪を黒くするならまず宮瀬と相談してからだ。颯太は小山と別れた後、宮瀬に電話をかけた。リュウジの家にいると言うので、学校から直接そちらへ向かうことにした。

 リュウジの家は颯太の自宅から歩いて十分のところにある。中学時代は頻繁に来た家だったが、最近は全くだった。前に来たのはいつ頃だろうと考えながら颯太はベルを鳴らした。

「あら、いらっしゃい」

 リュウジの母親は颯太を見て目を丸くした。

「お久しぶりです」

 頭を下げ、自分で門を開けて中に入った。

 二階のリュウジの部屋へ向かう。リュウジは机の前の椅子に座ってギターをいじり、宮瀬はベッドに寝転がって漫画を読んでいた。

「そろそろ剣道も飽きたか」

 リュウジは言って宮瀬の方に顔を向けた。「まあ、続いた方だよ」

「戻るの? ボーカル譲ってもいいよ、キーボードやるから」

 宮瀬は漫画を閉じて、体を起こした。

「キーボードまだいないんだ。でも、あいにく戻れないよ。剣道で手一杯」

 颯太は宮瀬の隣にどすんと腰を落とした。

「意外と続くな」

 リュウジが言う。

「まだ一年経ってないよ」

 颯太は苦笑した。

「シャレで見に行った部活に入っちゃって、しかも一年も続けるなんて予想外もいいとこだよ」

「意外と奥が深くて面白いんだよ」

「ふうん」

 リュウジは興味無さそうに言うと首を回した。

「霧島さんはどうしてる。豊さんとくっついたの?」

「あんまり広めるなよ」

 口の軽いリュウジに話したことを後悔しながら言った。

「宮瀬にしか言ってないよ」

「みんなが一人に言えば、すぐに広まるんだよ」

 言っている間に、リュウジに話した自分も人のことを言えないことに気付き、颯太は話を変えた。

「それよりお前らは? 彼女できたのか」

「できる気配無し」

 リュウジが言い、宮瀬も首を振った。

「情けないバンドだな、おい」

「じゃあ、お前はどうなんだよ」

 リュウジが指を突きつけてくる。

「そうだよ」

 宮瀬も口を尖らせた。

「俺も豊さんと一緒でストイックだから」

「そんなことだろうと思った」

 リュウジはギターに戻った。宮瀬も漫画に目を戻した。

「でも、本当に時間無いんだよなあ。新人戦からみんな目の色変ってるし」

「そんなの言い訳にならねえよ」

「部内にも霧島さん以外に女いないし」

「ははあ」

 リュウジは意味あり気な笑みを浮かべて宮瀬を見た。「てっきりバンドに戻りたいっていう話かと思ったけど、これはどうやら」

「なるほど。女っ気の無い生活に嫌気がさして、軽音部の僕らに」

「いや、それも違うんだ」

「でもなあ、遅いよ、遅い。カワイイ子はとっくに彼氏作ってるからな」

 リュウジが言う。

「いや、だから違うんだって」

 颯太は慌てて否定した。

「そうか。じゃあ、どうしたんだ」

 リュウジに改めて訊かれて、颯太は黙ってしまった。切り出し方を用意していなかったのだ。

「あのな――」

 よほど深刻な顔をしていたのだろう、宮瀬の顔が若干強張った。

「なんだよ」

 リュウジが焦れたように言う。

「あのな宮瀬」

 宮瀬は黙ってうなずく。

「俺、髪黒くしようと思うんだけど」

 宮瀬は颯太を見たまま「う、うん」と呟き、続いてリュウジと顔を見合わせた。二人はしばらくそのままでいたが、数秒後同時に吹き出した。

「勝手にしろよ」

「ホントだよ」

 そして二人とも大声で笑い始めた。

「だから、なんだよ。宮瀬はお前の彼女か」

「告白されるのかと思ったよ」

 颯太は二人の笑いが治まるまで、合わせて笑うしかなかった。

「でも、どうして」

 しばらくしてリュウジが訊いた。表情はまだ笑いを引きずっている。

「まあ、やっぱり剣道部は黒髪かなと」

 いや、そうじゃなくて――の言葉が被って、二人はまた笑った。

「どうして宮瀬にそれを言いに来るんだよ」

「約束したからな、宮瀬と」

 颯太は少し憮然としながら言った。宮瀬は気まずそうな顔をして颯太を見ている。覚えていないのだろう。

「黒江が卒業するまで金髪でいるって約束しただろ」

「ああ、そうだったかも」

 宮瀬は頭をかいた。

「覚えてないならいいや。とにかく俺は黒髪にする」

「坊主だ」

 リュウジが立ち上がった。「剣士には長すぎる」

「いや、え?」

 颯太は慌てて手を伸ばしてリュウジを抑えた。

「他にどうするんだよ」

「確かに長すぎるけど、坊主までいかなくてもいいだろ」

「じゃあ、黒染めするのか」

「そうなるな」

 あまり具体的なことは考えていなかった。

「そんなの男らしくない」

「剣道部らしくない」

 宮瀬までそんなことを言う。

「確かにそうかもしれないけど――」

「はい、坊主ね」

 リュウジは言いながら颯太の横を通ろうとした。リュウジの弟が坊主頭だったことを思い出し、颯太は彼の腰にしがみついた。

「ちょっと、一回落ち着こうぜ」

「どけ、他に道はない」

「いや、でも坊主は。心の準備が――」

「ダメ、ダメ」

 颯太を振り切ってリュウジは部屋を出て行った。ドタドタという足音が階段を駆け下りてすぐまた上がってくる。現れたリュウジの手にはバリカンが握られていた。

「ここでやってもいいけど、できれば風呂場に移ってほしい」

 こんな展開になるとは来る時は思ってもみなかった。颯太は溜め息をつき、宮瀬に引っ張り上げられるまま立ち上がった。



        七


 ――手につかないな。

 数学の参考書を閉じると、豊は立ち上がった。机の電気を消し、立てかけてあった竹刀を手に取る。ほとんど無意識の行動だった。いつの頃からか鉛筆か竹刀、どちらかを握っていないと、罪悪感を覚えるようになっていた。

 本当は勉強一本に絞るべきなのかもしれなかった。早く金を稼ぎたい。両親に楽な思いをさせたかった。豊の家には今借金がある。去年亡くなった祖母にかかった治療費だ。両親は借金の存在自体を豊に隠している。だから、その正確な額はわからない。しかし、生活が今相当苦しいのは確かなはずだった。

 ――それでも大学に行かせてくれる。

 それに報いるために是が非でも偏差値の高い企業受けのいい大学に入らなければならなかった。そして給料の高い会社に入り、両親に楽な生活と立派な家をプレゼントするのだ。『こんなボロい家、二度と来るか』小学生の頃、豊の口論の相手が言ったその言葉を聞いた時の父の顔は今でも覚えている。何事にも動じないはずの父が浮かべたほとんど怯えたような表情は、深く豊の心臓を抉った。父に二度とこんな顔をさせてはいけないと子ども心に思ったものだ。

 ――何本か振ったらまた勉強だ。

 そう自分に言い聞かせて、部屋を出た。ぎしぎしと鳴る階段を下りていくと、ガラス戸の向こうの話し声がぴたりと止むのがわかった。豊に聞かせたくない話――金の話だろう。胸の中がすうっと冷たくなる。祖母が癌を発症してから、こんな瞬間がだんだんと増えていった。豊はさっさと玄関に向かい、外に出た。

 アルバイトを考えたこともある。しかし、父の許可がおりなかった。そんな暇があるなら剣道をやってろ。そう言われた。その言葉に甘えて、豊は勉強と剣道だけをやっている。

 家の前の道に立ち、豊は素振りをした。向かいから強い風が吹いてくる。その風を切るようにして、一本一本頭の中で数えながら振る。五十まで数えて、豊は竹刀を下ろした。

 ――さあ、どうしようか。

 振り仰いだ視線の先には、赤い空に佇む裏山があった。どうせ今日も、勉強は手につかない。何本か振ったら戻るというのは自分に対する言い訳で、部屋を出る前から山に行くことは決めていたのだ。ガラス戸の向こうで沈黙する両親の横を再び通る気にもならない。豊は竹刀を片手に歩き出した。

 裏山の平地は今日も豊に優しかった。

 ここに来ると心が穏やかになる。勉強か剣道どちらかをしていなければならないという脅迫観念にも似た思いから解放される。

 しかし、胸の中の全てのものから逃げ出せたわけではなかった。

『時間無いのわかってるから、別に何もしなくていいから、今までどおりでいいから、だから――』

 付き合ってほしい――豊の返事を聞く前から泣き始めていた玲奈の顔が、頭の中から離れてくれない。

 豊は地面に竹刀を置き、その場に腰をおろした。そして、地面の砂をさらさらと両手で撫でた。

 無理に決まっている。剣道と勉強二つだけでも、どちらかが中途半端になることを常に恐れているのだ。剣道の途中にはハチマキを締めて問題集に向かうライバルたちの姿が、勉強している最中には朝も夜も無く練習を続ける強豪校の選手たちが、頭をかすめる。いくつもの事柄を分けて考え、切り替えて取り組めるほど自分は器用な人間ではない。ましてや女の子と付き合うなど。

 ――告白されただけで、三日経ってもこのざまなのだから。

 しかも、過去にもう二度も告白されている相手だった。

 気づけば日が沈み、すぐ近くの木々すら見えなくなっていた。ひんやりとした風が地面を這ってきた。体がぶるっと震えた。このまま冷たい空気の中で体をいじめていたい気もするが、そんな感傷的な気持ちよりも先に体調管理を考えてしまうのが豊だった。竹刀を手に取り、再び素振りを始める。

 ――なぜ俺なのだ。

 竹刀を振りながら、豊は思った。

 玲奈の人気は凄まじい。学校の中にはもちろん、外にまでファンがいるくらいだ。颯太も入部のきっかけは玲奈だったらしい。

 ――その中で、どうして俺なのか。

 自分は過大に評価されている。今回に限らない。いつもそう感じている。そんな大した人間じゃないと時々大声で叫び出したくなる。樋口や甲斐の見せる過剰なまでの尊敬の念は、豊を喜ばせる以上に怖がらせる。本当の自分を知った時の彼らの落胆した顔が脳裏に浮かぶ。

 豊は自分の能力を正確に知っているつもりだった。自分は人よりも我慢強く、人が面倒だと思うことがあまり苦にならない。長所だと胸を張っていい部分だと思っている。周りの評価がこの一点に留まっているのであれば、豊も素直にそれを受け入れているだろう。しかし、実際は違う。人よりも深く大きな人間だと誤解されている。やっかいなのは、それを快く思ってしまう自分だった。つい彼らのイメージの中の自分に合うような振る舞いをし、発言をしてしまう。めっきの上にめっきを塗って仮面の自分を作り上げ、そして一人になるとそれが剥がれ落ちた時のことを想像して青くなる。そんな自分の弱さが、豊は嫌で嫌で仕方がなかった。

 ――強く大きくなりたい。

 ――本物になりたい。

 溶岩のように熱くたぎった感情が体の奥底から湧き出してくるのは、いつだってこういう時だった。

 ぐちゃぐちゃとした思考を断ち切るように豊は竹刀を振った。

 瑣末なことに囚われず、筋を通して、真っ直ぐに。

 ――そしてもっと単純に。

 がむしゃらに振り続けているうちに、その言葉はやがて催眠術のように豊の中に浸透していく。剣道と勉強両方を頑張り、その二つと両立できない恋愛は諦める。自分の人間性を磨き、周りの過大評価が過大でなくなるように努力する。単純明快な方針に、気持ちが嘘のように落ち着いていく。少なくともこの瞬間だけは、複雑で弱い自分とはおさらばし、単純で強い人間になれている気がする。そんなのは仮面だと、情けなく吠える自分も、今はいない。

 息を整えると、豊は元来た道を戻っていった。懐中電灯を持ってきていなかったが、馴れた道だ、何度か木の根に足を引っかけたものの転ばずに下りられた。

 門の前に二つの人影があるのを見つけたのは、家へと向かう最後の角を折れてしばらく歩いてからだった。近づいてみると、それは樋口と甲斐だった。

「どうした樋口」

 インターホンを押そうとしていた指が止まり、驚いた顔がこちらを向いた。

「豊さん。驚かせないでくださいよ」

「どうした。ゲームでもやりに来たか」

 自分で言って懐かしくなった。小学生の頃、道場での練習後、樋口と甲斐は時々豊の家にテレビゲームをしに来た。彼らがうちに来るのはその頃以来だった。

「懐かしいですね。やりますか、サッカー?」

 甲斐が言った。当時の彼らが最も熱心に遊んだのがサッカーゲームだった。豊を入れて交代で遊んでいるのは最初の何回かで、途中から二人ともコントローラーを離さなくなった。仕方なく豊だけ違うことをし、やがて始まる喧嘩の仲裁に備えるというのがいつものパターンだった。

「ちょっと話があるんです」

 樋口が甲斐の肩に手をかけて言った。「別に明日でもいいんですけど。こいつと話しているうちに、久しぶりに行くかっていう話になって」

「じゃあ、あがってくか?」

 豊は二人を連れて家に入った。両親に声をかける。

「久しぶり」

 母の顔がぱっと明るくなった。

「どういうわけか懐かしいなあ。ほとんど毎日会ってるのに」

 母の後ろから父が顔を出す。

「そうですね。なんだか小学生に戻った気がします」

 甲斐が笑った。

 やはり皆そうなのだ。いつも会っているのに、なぜか同窓会に来た時のような気分だった。子供の頃から代わらない甲斐の邪気のない笑顔を見ているうちに、ふいに、彼が初めて試合に勝った日のことが思い出された。甲斐は当時、全く試合に勝てていなかった。決して実力で周りに劣っているわけではない。ただ、試合になるとなぜか消極的になり、いい部分を出せないまま、負けることが多かった。とにかく自信を持たさなければならない、そう思った豊は試合前に彼の頭を叩いた。

『大丈夫だよ。お前は俺の弟子なんだから、弱いわけないんだ』

 咄嗟に思いついた勇気づけの言葉だが、効果はあった。甲斐は実力通りの力を発揮し、その日、ついに試合に勝ったのだ。彼は樋口と一緒にずっとはしゃいでいたが、豊が近寄り、よくやったなと声をかけると、やっと勝てましたと笑顔で答え、その次の瞬間、顔を歪め、わっと声を上げて泣き始めたのだった。

 豊がもらい泣きしないようにするのに必死だったその日のことを、甲斐はおそらくもうすっかり忘れているだろう。しかし、豊にとっては、可愛い愛弟子の忘れられない初勝利だった。

 部屋に移ると豊は椅子に腰掛け、二人を等分に眺めた。ここに二人が入るのもむろん小学生の頃以来だった。また懐かしさが込み上げてきた。

「適当に座って」

 二人は豊の前に膝を揃えた。

「あ、いいぞ崩して」

 二人ははいと声を合わせて素直に従った。あぐらを組んで豊と向き合う。

「話っていうのは?」

「強豪校との合同稽古に関してです」

 甲斐が口を開いた。

「ああ、あれね。探してはいるんだけどなあ。どこも――」

「いえ」

 樋口が遮る。「たぶん無理です。合同稽古は、ずっと」

「わけがあるんだな」

 樋口はうなずいた。大きな驚きはなかった。何度も電話をかけている中で受話器の向こうの声に違和感を覚えるのは一度や二度ではなかった。何かあると思っていた。それが二人と、おそらくは二人が清竜を辞めたことと繋がっているのであろうことも。

「気づいてたんですね」

 樋口が豊の目を覗きこむようにして言った。

「なんとなくな。清竜辞めたことと何か関係あるのか」

「さすがですね」

 樋口は感嘆の声を洩らした。「清竜の奴らの仕業だったんです」

「そんなことだろうと思った」

 豊は首を回した。「まあ、考えようによっては、清竜を動かせるだけの選手になったってことだ」

「そんな格好のいいもんじゃないですよ」

 甲斐は笑って否定した。「清竜はたいして動いてません。クラスのイジメと一緒です。力のある奴が『あいつ気に入らない』って言えばすぐにそれが総意になる。下手にかばって巻き添え食いたくないですからね」

「なるほどな」

「あること無いこと吹き込んでるんでしょう、きっと」

 樋口が悔しそうに口を歪めた。

「『無いこと』はともかく『あること』には興味あるな。無理に話せとは言わないけど」

「話します」

 樋口がきっぱりとした口調で言った。「それを話しに来たんで」

 そして甲斐に目を向けた。甲斐はうなずくと「僕から話しますね」と言った。

 その時、ドアにノックがあり、盆にお茶と和菓子を乗せた母が入ってきた。彼女が出て行くと、甲斐はずっと喉が渇いていたのだろう、一息にコップを空けた。

「始まりは、キャプテンに投げかけた樋口の言葉で、僕らは中学二年生でした」

 盆の上に静かにコップを置いて甲斐は話し始めた。

 話している間、甲斐はずっと遠くを見るような目をしていた。そして、記憶の中身を慎重に言葉に置き換えるようにぽつりぽつりと話した。その間、樋口は口を挟まずに甲斐の横で空を睨んでいた。



        八


「油断しすぎです」

 樋口が叩きつけるようにその言葉を発したのは、全国大会進出を決めた翌日のミーティングでのことだった。

「どういう意味だ」

 言われた当人ではなくその隣に座る副キャプテンの的場が声を荒げた。

「まあまあ」

 キャプテンの佐久間が的場を制した。顔は樋口に向けられている。その目は、後輩の突然の突き上げに対する動揺を隠しきれていなかった。このしゃべりすぎる目が、彼の勝率を下げている一つの要因ではないかと、甲斐はいつも思っていた。

「具体的に言ってくれ」

「昨日の初戦です」

 樋口は短く答えた。

 初戦はかなり格下の無名校が相手だった。大将の佐久間に回った時点で四―〇、勝負はついていた。佐久間のウィークポイントはスタミナだ。だからスタミナ温存を重視した試合運びは間違いではなかった。しかし、その試合、佐久間は明らかに手を抜いていた。そして、不用意に面を打ちに出たところを小手で押さえられた。

「あんな相手に小手取られたんですよ」

「すぐに二本取り返した」

「当然です。いばることじゃない」

 気を抜いて一本を奪われ、がむしゃらになって取り返す。一つの大会に一度は見られる光景だった。取られた後の集中力は確かに非凡だと甲斐も思っているが、それを本気モードなどと呼んで喜んでいる周りのことは理解ができなかった。集中し直して取り返すことなど、当たり前のことで、焦点を当てるべきなのは最初から百パーセントを出せず、一本を取られてしまったことのはずだった。樋口が今しているような発言が佐久間と同じ三年生から起こらないことこそ問題だと甲斐は思っていた。

「大事なのは優勝することだろ。一試合だけ取り上げてぎゃあぎゃあ言ってどうする」

「今回に限らず先輩はよく抜きます」

「重要な場面で抜いたことは一度もない」

「清竜の大将として、どんな場面でも抜くべきじゃないでしょう」 

「集中力には限度がある。ずっと決勝戦くらいの気の張りようで全試合持つわけがない」

「俺はもちます。でも、今はそれはどうでもいいんです。スタミナ温存が作戦ならそれでもいい。ただ、それなら一生懸命それを実行すべきなんです。適当にやられると士気が落ちます。相手にも失礼です。常に隙の無い試合をする。それが清竜の大将なんじゃないですか」

「先生が会議でいないからって調子に乗りすぎだろ」

 二人のやり取りに的場が割って入った。

「先生の、いるいないは関係ありません。どっちにしても言うつもりでした。昨日の佐久間先輩の剣道は清竜の大将として――」

「さっきからやたらと『清竜の大将として』って繰り返してるけど、お前清竜の何なわけ?」

 的場の言葉に三年生を中心に笑いが起こった。樋口はきっと彼らを睨みつけた。

「俺は清竜のファンです。小四の夏、初めて全中で見た時からずっと」

 視線を落とすと、膝の上で握り締めた彼の手が微かに震えていた。樋口の気持ちは痛いほどよくわかった。自分だって同じ思いなのだ。歯がゆくて苛立たしい。

 四年生の夏、中学の全国大会が甲斐の住む県で行われた。会場へは甲斐の父親が連れていってくれた。樋口と、あと二人、道場の仲間が一緒だった。豊にももちろん声をかけたのだが、何かの用事で来られなかった。

 県の代表は清竜。もちろん名前は知っていた。剣道の強い中高一貫校――しかし、その試合ぶりを直に目にしたのは、その日が初めてだった。

 清竜の剣道は非常にオーソドックスだった。しかし、他の中学よりもずっと綺麗でずっと速く――そして、圧倒的に強かった。ビデオ撮影を父に頼み、甲斐たちは清竜のコート移動に合わせて会場内を走りまわった。客席の前の通路で手すりにしがみついて、選手の動きの全てを目に焼きつけんと、必死になってコートを見つめた。

 対戦相手には様々な選手がいた。ヒットアンドアウェーのようにちょこまかと竹刀を出し入れする選手、すぐに竹刀を上げ、隙あらばくっついて鍔ぜり合いに持ち込む選手、巨体を活かして相撲のように無理矢理相手を場外に押し出そうとする選手。どんな作戦や小細工も、清竜の選手は正に一刀両断に切り捨てていった。動じず、スタイルを崩さず、教科書通りの正面打ちで相手を沈めていく。

 そして、その年清竜は日本一になった。

 優勝が決まった瞬間、全身に鳥肌が立った。胸の奥底で熱いものが急速に膨らんでいくのを感じた。すげえ、すげえ、その言葉が頭の中で何度も繰り返された。

 それまで甲斐の中では、豊が唯一無二のカリスマだった。しかし、その日から沢木豊の名前の隣に清竜の二文字が刻み込まれることになった。それは樋口も同じだった。五年生に上がる頃には、二人とも清竜に行きたいと強く思うようになっていた。あの清竜の剣道部に入れるように、あの清竜でレギュラーになれるように、二人は死に物狂いで稽古した。豆がつぶれて左手がぐちゃぐちゃになっても、足の裏の皮がずるりと剥けて肉がはみ出しても、こんなことで音を上げていたら清竜ではやれんぞと励まし合い、テーピングでぐるぐるになった手足で稽古に出た。

 後から知ったのだが、甲斐と樋口が見たのは清竜史上最強といわれたチームだった。その三年後、彼らは全く同じオーダーで選抜・インターハイ、それから九州で行われる玉竜旗大会と、三つの大会で全国優勝をかっさらっていった。

 そのチームと比べるのは酷だとは思う。しかし、甲斐と樋口にとっては彼らこそ清竜なのだ。それに、去年まではここまで幻滅させられるようなことはなかった。特に甲斐たちが一年生だった時のキャプテン――小堀は、さすが清竜と思わせられるような人だった。

 佐久間たちも決して弱くはない。なんといっても全国出場を果たしたのだ。谷間の世代と呼ばれ、監督にもOBにも軽んじられている彼らに同情もする。しかし、実力が問題なのではない、樋口が言うように心の問題なのだ。なめてかかって引きずり出され、出小手を取られるなど、そんな大将は甲斐も断じて認められなかった。

「あんな試合、小堀先輩だったらありえない」

 続いた言葉に、甲斐はどきりとした。ここで卒業生の名前を出す必要はなかった。挑発にしかならない。甲斐がなかなか話に入ってこなくて焦っているのかもしれなかった。来てくれというメッセージにも取れた。樋口がついに切り込んでいったのだ。共に清竜に憧れ続けてきた者として、なんとかして変えなければいけないと、ずっと言い合ってきた者として、加勢すべきタイミングなのかもしれない。しかし、樋口の言い方はあまりに攻撃的すぎた。

「いない人の話をしてどうする」

 佐久間が言った。声色は穏やかだったが、一瞬鋭い目つきになったのを甲斐は見逃さなかった。

「小堀先輩はいません。でも清竜には――」

 樋口の視線が一瞬甲斐の方へふれた。甲斐は息を呑んだ。

 ――今言うのかそれを?

 僕らがいます――彼はそう続けるつもりなのだ。昨日、試合後の帰り道、甲斐と樋口は今後の清竜について話し合った。そして、清竜の大将と副将は自分たちが務めるしかないという結論に達した。傲慢だとは思わなかった。冷静に見て、他に適任者はいなかった。しかし、昨日の今日で彼がそれを口にするとは思っていなかった。ただ、今を逃せば言うチャンスが当分訪れないであろうことも確かだ。甲斐は覚悟を決めた。机に視線を落とし、体を固くして続く樋口の言葉を待った。

「――僕がいます」

 諦めたような声に甲斐ははっと顔を上げた。目を合わせずに下を向いた甲斐を、樋口は勘違いしたのだ。巻き込むな、そう言っていると思ったのだ。違う――。甲斐のその言葉はしかし声にはならなかった。場は、険悪な空気に包まれていた。何か言うことで、今樋口に突き刺さっている視線が全て自分に来るのだと想像すると、甲斐はどうしても声を上げることができなかった。

 樋口と佐久間の睨みあいは、数分ほど続いた。やがて、佐久間がすっと立ち上がった。

「今日はこれまでにしよう」

「オーダーの再検討をお願いします」

「オーダーを決めるのは俺でもお前でもない」

 佐久間が諭すように言った。

「では、先生へ直談判してもよろしいですか」

「お前、なめんのもいい加減にしとけよ」

 両手を机に叩きつけたのは的場だった。

 樋口は何も言い返さず、黙って佐久間を見ていた。佐久間はともかくお前など端から相手にしていないという気持ちがありありと出ていた。

 佐久間は黙って、部屋を出て行った。

 そして、その日のミーティングは終わった。

 帰り道、電車でもバスでも樋口はずっとしゃべっていた。テレビで見た剣道ドキュメンタリーの話、伏線を回収しきれないまま終わった連載漫画の話、整形疑惑のあるアイドルの話……。樋口が話し、甲斐が聞き役にまわるのはいつものことだった。しかし、その日の樋口は甲斐に口を挟む暇すら与えてくれなかった。今日のことには触れるな――樋口の口から零れ出す無意味な言葉の羅列に、その意思を感じた。樋口の家で別れた時、片手を上げてドアの向こうに消えていく背中が、少し遠くに感じられた。

「顔を立ててやれだとよ」

 翌々日の稽古前、樋口が言った。知らない間に顧問と話をしていたのだった。

「そうか」

 甲斐はそれだけ言ってうなずいた。

 それ以来、佐久間たちとの衝突もなく、清竜中学剣道部は、少なくとも表面上はそれまでと何も変わらなかった。全国大会を前にいがみ合っている暇が無いということもあった。

 エスカレーター式の一貫校なので、三年生は全国大会が終わってからも引退しなかった。そのまま残り続ける。樋口は三年生とも同期や後輩とも、今までどおりに接していた。しかし、まわりの態度は確実に変化していった。彼のことを冷ややかな目で見る者が増えていった。どう接していいかわからないのは甲斐も同じだった。樋口は彼に対して自分の考えをあまり話さなくなっていた。クラブ内で今までと同じ姿勢を保ちながら、樋口は明らかに浮いていった。誰もそれをなんとかしようとはしなかった。

 ――自分も含めて。

 ――殻にこもって立ち入らせないのは樋口の方だ。

 巻き込みたくないからだと知っていながら、甲斐は自分にそんな言い訳をして、樋口の胸のうちを聞き出す努力をしなかった。

 樋口が再び三年生に対する不満を口にしたのは、清竜高校主催の合同稽古の時だった。県内の主要な高校を集めての稽古なのだが、清竜中学もレギュラーは毎回参加する決まりになっていた。

 甲斐と樋口は、この合同稽古が大嫌いだった。王様のようにふんぞり返る清竜と、彼らにすりよっていく他校の選手たち。高め合うためではなく、レベルの高い者の集まりに参加している満足感を得ることが主たる目的で、樋口の言葉を借りれば「ただのマスターベーション」だった。周りに見せつけるためと自分の満足とのために、必死に清竜と対等な口を利こうとする選手の顔は、醜悪そのものだった。相手の機嫌を損ねない範囲内でどこまで馴れ馴れしくできるか図っている様子がうっとうしく、ライバル校としてのプライドは無いのかと問いただしたくなる。そういう彼らの態度にあからさまな優越感を滲ませる清竜の選手の表情も俗っぽくて嫌だった。

 練習後、ジュースやお茶を配りまわって一段落ついた頃、樋口が小堀に駆け寄っていくのが見えた。ひっきりなしに声をかけられていた小堀がちょうど空いたのだった。甲斐も地稽古で彼に相手をしてもらっていた。慌てて樋口の後を追う。

 小堀は二人を並べて軽くアドバイスをした後、「全国大会は惜しかったな」と言った。

「はい。最後の試合は代表者戦までいったんですけど」

 甲斐は答えた瞬間、しまったと思った。

「納得できない試合でした」

 樋口はやはり入ってきた。やめとけ――咄嗟に樋口の腕を叩いた。彼は甲斐を見向きもしなかった。小堀は黙って続く言葉を待っていた。慌てて辺りを見回す。近くに清竜中学の部員がちらほらと見えた。樋口の言葉は止まらなかった。

「代表者戦が佐久間先輩だったことです」

「お前なら勝てた。そう言いたいのか」

「おそらく。少なくとも僕の方が勝つ確率が高かった」

 小堀は何も言わず微かに笑った。

「終わったことを色々言っても仕方無いとは思います。中学で終わりなら僕もこんなこと言わないんですよ。でも――」

 そこで言葉を切って樋口は自分の手に視線を落とした。そして、顔を上げて真正面から小堀を見た。

「高校も、こうなんですか」

「こう、とは?」

「年功序列で出す人間決めるんですか」

「そんなことはない。今だってそうじゃないだろ。現に個人戦にはお前らが出てるじゃないか」

「代表者戦で佐久間先輩を出すのが、勝つために最良の手だと思いますか」

 小堀は少し考えた後、静かに訊いた。

「勝つ確率が一番高くなるように人を選ぶべき――そう思うか」

「先輩は、そうは思わないんですか」

 小堀はうなずいた。

「色んなものを考慮に入れて総合的に判断すべきだと思う」

 樋口は納得いかないという表情を隠そうともしなかった。

「例えば、めちゃくちゃ強いんだけど一切部活に顔を出さない選手がいたとして、そいつを部の代表として送り出したいと思うか」

「俺はちゃんと出ています」

「わかってる。あくまで極論として言っただけだ。お前は剣道の実力ではなく、別の理由で選ばれなかったんだ。力が足りなかったんだよ」

「力ってなんですか? 具体的に言ってください」

 樋口の言葉に何も答えず、小堀は去っていった。

 樋口の口にしたこれらの不満は、翌日には部内に広まっていた。それから樋口はまた孤立の度合いを深めた。

 そして――数日後の稽古で、その事件は起こった。

 佐久間が樋口の喉を突いたのだ。

 小堀の言葉が影響したのか、樋口は数日間明らかに悩んでいた。口数が極端に少なくなり、稽古にすら身が入っていないようだった。その日の掛り稽古も、甲斐の目には流しているように見えた。だから、気の入っていない彼に佐久間が突きを打ったのはむしろ当然とも言えた。しかし、その突きは突き垂れの横を通り樋口の喉に突き刺さった。竹刀が大きくしなり、佐久間の両手と樋口の喉を繋いだ。竹刀が突き刺さっていた時間はおそらく一瞬だったのだろうが、甲斐にはとても長く感じられた。樋口は崩れ落ち、何度も咳き込んだ。佐久間は駆け寄らずその様子をじっと見ていた。面を被っているため表情はわからない。

「ふざけんな!」

 しわがれた声で樋口が叫んだ。「わざとやりやがって」

 甲斐ははっとして佐久間に目を移した。防具の無い場所を打たれた時、それがわざとかわざとでないかを判別するのは、経験上わりと容易だった。なんとなくわかるのだ。

 否定して欲しい。そう思いながら甲斐は佐久間を見つめた。突き垂れを外して喉を打つのは、非常に危険な行為である。下手をすれば死ぬことだってある。他の者ならともかく佐久間がそれをやったとは信じたくなかった。結局のところ、甲斐も樋口も人間的には佐久間を信頼していたのだ。厳しい中にもフォローを忘れない指導方法や、上や下に軽んじられても威厳を失わずに凛としているその強さを尊敬していた。間違っても、突っかかってくる後輩に口では何も言わず、偶然を装い報復するような小さな人間ではないと、思っていた。

 だから――否定して欲しかった。

 いつの間にか稽古は中断され、皆が二人を見ていた。今のはやりすぎだ。死ぬぞ。そういった声がさざ波のようにその場を満たしていた。樋口は何も声を発さない佐久間に詰め寄った。そして、数々の暴言を浴びせかけた。佐久間の才能の無さをあげつらい、やめてしまえとまで言った。聞くに堪えない言葉ばかりだったが、彼の怒りは理解できた。甲斐はしばらく言わせておいてから、彼を佐久間から引き離した。

「本当にわざと外したんですか」

 甲斐は面の奥を覗き込み、静かに訊ねた。返事は無かった。

「結構勢いよく行きましたよね。危険でしょう」

 佐久間は甲斐から目を外すと、部員全員に向かって声を張り上げた。

「掛り稽古再開。五分延長!」

 甲斐は信じられない思いで佐久間を見ていた。まとまらない気持ちの中で、自分はこの後きっとひどく傷つくことになるのだろうという予感だけが育っていった。やがて――呆然と立ち尽くす甲斐を押し退けて、誰かが佐久間にかかっていった。

 翌日から樋口は完全に孤立した。ほとんど誰も彼と口を利かなくなったのだ。

 佐久間への批判が噴出し、樋口擁護の声が増えると予想していた甲斐にとって、この結果は衝撃的だった。佐久間の指示があったのだろうと樋口は言った。彼がそんな陰湿なことをするはずがない――それまでの甲斐であればそう言っただろうが、甲斐の中の佐久間像は大きく崩れていた。樋口の言うとおりかもしれないと彼は思った。それに、甲斐にとってそれはもうどうでもよかった。指示が出たにしろ自主的にしろ、皆が樋口を無視している、それだけは確かなのだ。

 ――自分くらいは樋口につかなければ。

 そう思った。今まで放っておいた負い目もあった。そうして、甲斐は樋口と共に孤立することとなった。

 佐久間の代が卒業すると、話しかけてくる者がぽつぽつと出始めた。しかし、甲斐も樋口も自分たちを無視してきた奴らと、もう一度仲良くするつもりにはなれなかった。一応表面的な会話だけはするものの、心の内からは完全に閉め出した。そうしているうちに、剣道部の中で甲斐と樋口はほとんど客人のような立場に置かれていった。争うわけでも喧嘩をするわけでもなく普通にそこにいて、適度に話もする。しかし、そこに心の交流は一切なかった。

 団体戦は妙な感じになった。キャプテンである中堅の選手までで一旦試合が終わり、後は二人の仕上げを待つといった形になった。頼りにされているという気持ちにはならなかった。勝ち星を取ってくるロボットを見るような目で、他の部員たちは彼らを見た。甲斐たち自身も、清竜のために戦っているという意識は持っていなかった。ほとんど個人戦のつもりで試合をしていた。

 甲斐と樋口が、他校への進学を決めるまでそう長い時間はかからなかった。後何年も、佐久間たちや今の同期と付き合っていく気にはなれなかった。清竜への憧れはとっくに消え去っていた。そして、募らせていた憧れの分だけ、どす黒い憎しみが心の底に広がっていた。

 清竜を辞める――剣道部にそれを告げた翌日だった。佐久間と的場が、校門で彼らを待ち受けていた。

「辞めることないだろ」

 開口一番佐久間が言った。的場は佐久間の隣で苛立たし気に彼らを睨んでいた。

「こんなに早く高校まで伝わるとは思いませんでした」

 甲斐は答えた。

「有名人だからな」

 佐久間が微笑む。

「光栄です」

 なんの感情もこもらない声で樋口が言った。

 それでは。目礼して横を通ろうとすると、佐久間が慌てたように遮った。そして再び言った。辞めることないだろ。的場に目を移すと、門にもたれて貧乏ゆすりをしていた。それを見て甲斐は確信した。彼らは自分の意思でここにいるわけではない。

「上に言われたんですね。連れ戻すようにって」

 甲斐は自分の口元がにやけるのを意識しながら言った。この一年で自分と樋口がいかに暗く嫌な人間になったか、充分に自覚していた。甲斐たちは惰性のようにして毎日を生きていた。そして、無気力・無関心の中で清竜への憎しみだけを心の中で日々増幅させてきた。その憎しみの象徴のような相手が目の前にいる。嫌な笑みを浮かべていると自覚しながらも、甲斐はふつふつとこみ上げる笑いを抑えることができなかった。

「ああ、なるほど」

 樋口は言うと嘲るようにして笑った。

「大変ですね新三年生も。新二年があんたらで、一年があいつらか」

 佐久間たちが谷間の世代と呼ばれたのは、その下に甲斐と樋口がいたからだった。二人が抜けた後の甲斐たちの代は、佐久間の代とさして変わりはない。

「まあ、そういうことだ」

 佐久間は素直にうなずいた。

「もう無理ですよ。行く高校も決めましたから」

 甲斐が言った。

「どこだ」

 佐久間が訊いた。

「長槻です」

「長槻?」

 佐久間が素っ頓狂な声を上げた。「剣道辞めるのか」

「長槻にもありますよ、剣道部」

 甲斐は答えた。

「でも、全国目指せるような学校じゃないだろ」

「ちゃんと調べてから言って下さいよ」

 樋口が笑った。「長槻の沢木・北村はなかなかのモノですよ。ここに僕らが加われば、少なくともこれからの清竜よりは全国に近い学校になるんじゃないですか」

 甲斐も樋口に続いた。

「清竜に行っても小堀さんたちは夏ですぐに抜けちゃうわけでしょ? 佐久間さんたちに代変わりしてからの清竜なんて、想像してみてもなんの魅力も感じないんですよね」

 失礼します。そう言って佐久間と的場の間を抜けようとした時、ふらっと的場が近づいてきた。そして甲斐の耳元でゆっくりと言ったのだ。

「清竜舐めたらどうなるか、思い知らせてやるよ」



        九


「そして、思い知らされたわけか」

 甲斐が話し終えると、豊は言った。

「そういうことになりますね」

 甲斐は苦笑した。

 狭い室内に沈黙が降りてきた。時計は七時半を指している。甲斐が話すのを一時間以上聞いていたことになる。

「一つ訊いていいか」

「どうぞ」

 甲斐はうなずいた。豊は樋口の顔も視界に入れながら訊ねた。

「樋口が突きを打たれるまでは、お前ら佐久間のこと好きだったのか」

 予想外の質問なのか甲斐は怪訝な表情を見せ、何も答えずに再び下を向いた。ややあって、彼は答えた。

「人間的には、素晴らしい人だと思っていました」

 樋口も同じなのだろう。何も言わないが違えば主張するはずだ。

「あの日の一件だけで、それがひっくり返ったわけか」

「だけ、ってことはないでしょ。非常に危険な行為です」

 甲斐が鼻白んだ。豊が何も答えないでいると、彼は続けた。

「それに危険だからっていうだけじゃないんです。歯向かってくる後輩に口では何も言わないで、偶然装って稽古で攻撃するっていう、その器の小ささに絶望したんです」

 もっともな話だ。確かにもっともな話なのだが、豊には佐久間の気持ちもわかる気がするのだ。正論ばかりぶつけられれば、言い返したくても言える言葉はない。だから、筋だけは通っている樋口の言葉をきちんと受け止め、非礼を質すことなく耐えに耐えていたのだろう。合同稽古での話を耳にして、その日心は少々穏やかではなかったのかもしれない。掛り稽古で気の入らない打ちを繰り返す樋口を見て、舐められたと感じたのかもしれない。怒りで思わずやってしまったか。

「残念だな」

 思ったことがそのまま声になった。

「何がです?」

 甲斐が言った。

「お前らにもう少し忍耐力があったら、きっと上手くやれてたんだよ」

「そうかもしれません」

 甲斐が言った。樋口も意外と素直にうなずいた。

 再び、部屋の中に沈黙が降りてきた。

「じゃあ、そろそろ」

 甲斐が立ち上がった。

「とにかく申し訳ありませんが、こういった事情で強豪校との合同稽古は諦めてください」

 樋口はそう言って頭を下げた。

「まあ、あんまり気にするな。先生や部のメンバーには俺から言っておこうか」

「お願いします。全部話してくれて構いません」

 豊は、二人を玄関まで送っていった。靴を履きながら、樋口がぼそぼそと言った。

「豊さんが清竜に来ていたら――って時々思いますよ。何もかもがきっと全然違ってた」

「甘えるな」

 豊は一喝した。「俺が行って変わるなら、お前らだって変えられたんだよ。変えられなかったのはお前ら自身のせいだ」

 この考えを今も持ち続けているから、彼らはいつまでも受け身なのだと豊は思った。

「惰性で過ごした中三を、もし僕らが必死にやっていたとしても、多分大きくは変えられなかった。豊さんと僕らとを同列で語るのは無理があります。器が違い過ぎる」

「何つまらないこと言ってるんだ? 器や才能を言い訳にしだしたら終わりだぞ。まだ十六だろうが」

「はい」

 樋口は、それ以上は何も言い返さず萎れてみせた。


 樋口と甲斐が家を後にし、豊が玄関のドアに鍵をかけていると、後ろでガラス戸の開く音がした。

「だいぶ主将らしくなってきたじゃないか」

 振り向くと父が微笑んでいた。

「ああ」

 照れて曖昧な返事だけを残して部屋に戻ろうとしたが、晩ごはんだと父に呼び止められた。

 ――主将らしくなんてなっていない。

 玉子焼きに箸を伸ばす父を見ながら、豊は思った。

『器が違い過ぎる』

 そう言われてさっき嬉しかった。後輩に誉められて喜んでいるような奴が、それを悟られないように無理矢理硬い顔を作っているような奴が、今示されている敬意が侮蔑に変わるのを死ぬほど恐れているような奴が、主将らしいはずがなかった。

 さっきの二人が、食卓の上にちらちらと浮かんでは消える。

 羨ましいと思うことは多い。周囲に迎合せずに正しいと信じることを貫き通すその単純な強さは、豊が欲しくてたまらないものだった。憧れていると言ってしまってもいい。

 しかし、彼らの厳しさは自分だけではなく他人にも向けられる。いや、一部の他人と言うべきか。彼らは興味のない相手の行動にはほとんど関心を示さない。そういった相手が下らないことをしてもただ冷笑を浮かべるだけだ。厳しさを見せるのは認めている相手にだけだった。彼らが認める人というのはきっと少ないのだろう。だが、一旦認めた相手には過剰なほどの期待をかける。わずかなぶれすら許さない。そして、一度でもぶれると烈火のごとく怒る。裏切られたと感じ、憎しみすら覚えるようになる。

 気持ちはわからないでもない。しかし、認めてほしいと頼んだわけでも要求したわけでもないのだ。佐久間も、清竜も、そして――

 ――俺も。

 訊いてみたかった。もし、自分が佐久間と同じようなことをしたら、二人は自分をを切って捨てるのか。たった一つの落ち度で、この十年間を投げてしまうのか。

 そこまで思ったところで視線に気づき、豊は顔を上げた。母が心配そうに見ていた。大丈夫だと微笑んでみせる。

「あの子ら、何か話があって来たのか」

 父が聞いた。

「うん。清竜を辞めた時の話を聞いたよ」

 豊は甲斐に聞いた話を短くかいつまんで話し、強豪校とは練習試合をできそうにない旨を伝えた。

「そうか。この前樋口が桑原先生にくってかかった理由がわかったよ。清竜を憎んでいるから、その名前がいつまでも自分について回るのが嫌で仕方無かったんだろうな。だから純粋な公立校ではないという発言に腹が立ったんだ。あれは明らかに清竜出身の二人を指して言っていたからな」

 そうかもしれない。しかし、そうだとしても、あの日の行動は樋口の普段の行動とはかけ離れていた。認めていない相手には何を言われても取り合わないのがいつもの樋口だった。

「でも、まさか俺の剣道が原点だと思ってくれているとはね。嬉しかったよ」

 黙ってうなずいておいたが、原点は沢木先生――考えてみればこれも妙な発言だった。確かに父も時々樋口たちを指導していたが、彼らに剣道の基礎を教えたのはどう考えても豊たちの通っていた道場の江坂という先生だった。

「立場上、注意せざるを得なかったけどね」

 言い足した父の顔をちらりと見て、豊は食事に戻った。あの日、樋口を注意する父の口調はいつもとどこか違っていた。桑原の顔色を伺うような注意の仕方に見えた。そして、思えばそれはあの日に始まったことでは無いような気がした。先日の颯太の質問が思い出された。

「父さん」

「ん?」

「父さんって桑原先生と昔からの知り合いなの?」

 その質問に父だけでなく母までもが顔を上げた。

「ああ」

 父の顔がひきつった。それを見て、豊はその質問を後悔した。取り繕ったように微笑む目の奥が、明らかに笑っていなかった。こちらを向いた二つの瞳が、微かに揺れている。

「高校の同級生でな」

 ということは母の同級生でもあるということになる。豊はそれ以上聞かずに話題を変えた。



        十


 話を聞いて最も落胆したのは、やはり北村だった。

「本当かよ。どうするんだよ」

 彼はそう言って天井を見上げた。

 熱くなりすぎて視野が狭くなっているように、豊には見えた。北村は、強い相手とやることが強くなる唯一の方法だと信じ込んでいる節がある。最初のうちはそれでもよかった。事実強い相手とやることが上達への早道だから。しかし、相手がなかなか見つからない中で、だんだん手段が目的化していってはいないか? 強豪とやることが、一つの目標になってはいないか? 強豪校とやれれば上手くいく、できなければどうにもならない――そんな単純な思考回路に陥ってはいないか?

「仕方ないよ。違う方法で強くなるしかないでしょ」

 北村の隣に座る玲奈が諭すように言った。

「でもよお」

 北村は樋口と甲斐にちらりと視線をやった。二人は床に落としたままの目を上げなかった。北村はそのまま何も言わず、再び上を向いてため息をついた。颯太と小山は北村のそんな様子をじっと眺めている。

 樋口と甲斐が豊の家に来てから二日後、部室でのミーティングだった。二人と相談した後、稽古後に部員を集め、彼らに聞いたことをそのまま話したのだ。

「毎日強豪とやったからといって全国に行けるとは限らない。その逆もまた真なんじゃないのか」

 豊の言葉に北村はぴくりと眉を動かした。ゆっくりとこちらに顔を向ける。

「気づいてるか、豊。俺もお前も実力が去年とは桁違いになってる。努力の賜物か? それもあるかもしれない。でも――」

「樋口と甲斐だ」

 北村が言い終える前に豊は言った。北村はうなずく。

「俺とお前はこいつらで強くなった。でも、こいつらはどうすればいいんだ」

「北村さん」

 甲斐が口を挟んだ。

「新人戦に関しては僕も樋口も心底反省しています。以前も言いましたが、北泉では今暁なんかには決して負けません」

「引き分けもない」

 差し挟まれた樋口の言葉に甲斐はうなずいた。

「そうでした。必ず勝ちます」

「まるで凄いことでも達成するみたいな言い方だな」

 北村が言った。

「どういう意味だ」

 豊は北村を見た。

「まるで凄いことでも達成するみたいじゃないか。今暁に勝ちますなんて、天下の清竜の大将と副将の言葉じゃない。目線が下がってるんだ」

「そんなことは……」

 甲斐の絞り出すようなその声を北村は遮った。

「勘違いするなよ。責めてるんじゃない。頼りきっていながら、責めれるはずもない。こんな環境でずっとやっていれば力も目線も下がってくるのが当たり前なんだよ。俺らみたいな弱い相手とだけやってて、強くなれるはずなんて無い」

「どんな相手とやっても、極端な話一人でも、強くなれるのが剣道だと、僕は思っています」

 樋口が言った。

「ありえない」

 北村は首を振った。彼が正しいのかもしれないと豊は思う。しかし、二人の立場であればこう言うしかないだろう。もうどうしようもないのだ。玲奈の言うように、違う方法で強くなるしかないのだ。

「全く名前の無い学校が全国に登場して暴れまわるなんて色んなスポーツでよく聞くことだ。彼らは日頃から全国レベルの選手たちとやっていたのか」

 北村に問いかけた。

「それは奇跡か、あるいは突出した指導者がいるのか――」

 顧問が豊の父であることに思いが至ったのか、北村はそこで言葉を切った。しかし、すぐに口を開いた。

「沢木先生はもちろんいい先生だが、試合を全然重視していない。そういう意味では、全国に導いてくれるような指導者ではない」

 誰も言い返さなかった。北村の言っていることは皆が知っていることだった。強豪校との練習ができない今の環境の中でインターハイ出場を狙う無謀さなど改めて言われなくてもわかっていた。

 その後の長い沈黙を破ったのは、樋口のどこかずれた一言だった。

「沢木先生って本当に試合に関心無いんでしょうか」

 皆、ゆっくりと樋口に目を移した。

「どういう意味だ」

 北村が、訊いた。

「いえ、すみません、独り言です」

 樋口はそう言ったきり押し黙ってしまった。再び誰も言葉を発さない時間が続いた。何も発言は出てきそうになかったので、豊はまとめに入った。

「これからも強豪校に打診は続けていく。ただ、ほとんど期待できそうにないということは気に留めておいてくれ」

 他に何かあるかと、部室の中を見回す。「ある」と北村が言った。

「小山のことだ」

 北村の視線に小山が身をすくめた。

「毎回言うようだけど、北泉では全体を考えた剣道をしてくれよ」

 北村は貧乏ゆすりをしながら言った。格上の者に対しても正面からぶつかり、その結果すぐに負けてしまう小山に対して、もう少し考えた試合運びをしろというのは、北村だけではなく豊も何度も言っていることだった。

 小山は答えなかった。

「しつこいと思ってるかもしれないけど重要なことだから、しつこく言ってるんだ」

 返事をしない小山に北村は焦れたように言った。

「一回聞かせてくれないか、小山の試合に対する考え方を。いつもこの話になると黙ってしまうからわからない」

 豊はできるだけ小山を追いつめないように気をつけながら言った。

「逃げたくないんです」

 小山は一言それだけを言って口をつぐんだ。

「逃げろなんて言ったことないだろ」

 北村が言う。

「僕にとって勝負を避けるというのはそういうことです」

 返す言葉は無かった。実力に差のありすぎる強い選手には真っ向から当たるのではなく勝負を避けて引き分けを狙いに行くことも考えるべきだと、事実、豊も北村もしばしば口にしてきていた。

「個人戦ではそうかもしれない」

 やがて樋口が口を開いた。

「でも今話しているのは団体戦だからな。勝利を近づけるという意味では立派な作戦だ。野球の敬遠に近いものだと思えばいい」

「スポーツのことはわからない」

 スポーツの前に「他の」とつけないところに、剣道は武道であって決してスポーツではないと訴える小山の強い気持ちが見えた。それについては豊も異議を唱えるつもりは無い。

「負けるとわかっているのに策無くぶつかる方が逃げだという考え方もある」

 北村が言う。豊はそれにうなずき、その後を継いだ。

「そして、それは団体戦に限ったことじゃない。個人戦でだって言えることだ。相手の実力を計り、それに応じた試合運びをするのも剣道の実力だと思わないか。小山の戦い方だと自分より弱い相手には勝つだろうけど、強い相手には必ず負ける。それは試合じゃなくて、いわばただの実力の再確認だ」

 小山は、嵐が過ぎ去るのを耐えるように、ただじっと黙っている。

「とにかく、意識を変えてもらえないことには、お前を外さざるを得なくなるかもしれない」

 北村はそう言うと、続いて懇願するような声を出した。

「もう充分に言ってきた。もう充分に待った。わかったと言ってくれ」

 相当追い込まれていると、豊は感じた。途切れそうなインターハイへの糸を必死に繋げ止めようとしている。何も言えずにいる小山に豊は言った。

「明日、教室を一つ予約してミーティングをする。その時までに考えをまとめておいてくれ」

「聞いてないぞ。こんなに何度も悠長にミーティングなんてやってる暇あるのか」

 北村が噛みつく。

「俺らはもう少し正確に自分の実力を知っておく必要がある。みんな多分自分の力を過小評価している。俺らは順調に強くなっている」

「俺らが強くなってることはさっき言ったところだ。問題は樋口と甲斐だろうが」

「樋口と甲斐を含めての話だ」

「どうしてそう言える?」

「その証拠を明日見せたい。練習時間は削らない。昼休みに三十分だけ時間をもらえればいい」

 豊は北村から全体に視線を移し、言った。突然の提案に、肯定的なコメントも否定的な言葉も出ることはなかった。北村は面白くなさそうに横を向いていた。


 北村と共に部室を出た豊の足取りは重かった。

「寄ってっていいか」

 校門を出たところで豊は言った。

「ああ」

 北村は豊を見ずに言った。両手をポケットに入れ、硬い顔をしながら歩いている。彼の口から時折溜め息が漏れた。

「やっぱりショックか?」

 豊は訊いた。

「お前はショックじゃないのか」

 豊は答えなかった。おそらく北村ほどの衝撃は受けていない。半ば予想していたからでもあるが。

「おかしいよ、みんな。なんであの場で俺だけが浮いてるんだよ。仕方ないかって感じで、他人事みたいに」

「でも事実仕方ないだろ」

「ああ、仕方ないよ」

 北村は豊に顔を向け、噛みつくように言った。

「でも、諦め方があっさりしすぎてるんだよ。もっと必死になって何か方法はないか探して探して、それでもダメでやっと諦めるっていうのならわかるんだけど――」

「これからも諦めずに探し続けるってさっき言ったところじゃないか」

 北村は答えずに近くにある自販機に向かった。ホットコーヒーを握り、豊に並んだ。二人で駅への道を歩く。北村の家は駅のすぐそばにあった。北村がしゃかしゃかとコーヒーを振る。乱暴な手つきだった。

「みんな真剣だ。頑張ってない奴なんていない」

「わかってるよ」

 言いながらも、北村は缶を振る手を止めなかった。早足に近い歩き方で彼の家へと向かう。豊は置いていかれないようにすぐ後ろを無言のままついていった。家に着いても、北村は何も言わず門を開けて入っていってしまった。門の前で立ち止まっていると、北村がドアを開けてこちらを見た。早く来いよとその目が言っていた。

 北村の部屋に上がっても、無言は続いていた。豊は何も材料を用意してはいなかった。なんとなく北村と話をした方がいいという思いだけで、寄っていいかと聞いたのだった。

 先に口を開いたのは北村だった。

「明日ミーティングするとか、先に言えよ。勝手に決めんなよ」

「悪い。ビデオ、いつかみんなで見る時間を持とうとは前から思ってたんだけどな。さっきのミーティングで早い方がいいと思って」

「助け船か?」

 刺すような目で、北村は言った。「小山が見てられなかったか」

「そういうわけじゃない」

「追い込む場面だよ、あそこは。無理矢理『はい』って言わせて、ちゃんとやらせないと。ただでさえ使えないのに」

「そういう言い方をするな」

 強くなった語気に自分で驚き、豊はそこで言葉を止めた。

「甘いんだよ、お前は」

 北村は舌打ちをし、苛立たしげに貧乏揺すりを始めた。

「やめるか?」

 唐突に彼は言った。「インターハイ目指すの」

「馬鹿なこと言うなよ」

「本気でやらなきゃ目指してるって言えねえんだよ」

「だからみんな一生懸命にやってるだろうが」

 豊は首を振った。この調子だと今日は建設的な話はできそうになかった。

「帰るわ」

 座っていた椅子から腰を上げると、ドアへと向かった。

「豊」

 北村が呼び止めた。

 豊は振り返った。

「インターハイ、行こうぜ」

「ああ」

 口調の熱さに少し戸惑いながらもうなずいた。

「俺理解できないんだよ。なぜみんなもっと必死にならないのか」

「だから……頑張ってるだろ」

「ああ、わかってる。頑張ってる。でも、どこか暢気なんだよ。今の状況のまま精一杯練習やってその結果行けたらいい――とか、そんなんじゃなくて、もっとがむしゃらに、どうしてインターハイだけを見れない」

 豊は答えなかった。質問されているのではない。

「知ってるか、豊? お前が想像してる以上に、お前は部に影響を与えている」

「なんだ急に」

「まずお前に本気になってもらわないと、話にならないんだよ」

「俺のせいで周りが本気になれていない。そう言いたいのか」

 北村は何も言わなかった。

 豊は首を振って北村に背を向け、片手を上げたままドアの向こうへと消えた。パタンと音を立ててドアが閉まり、部屋の中には北村だけが残された。閉まったドアに豊の姿を描き出し、北村はじっとそれを見つめた。

 ――なぜ死力を尽くさない。

 ――なぜチャンスを最大限に生かさない。

 清竜中の大将と副将が来ると知った時、夢の世界でしかなかったインターハイが、一気に現実のものとして北村の下に降りてきた。北村だけでなく豊も興奮していたはずだった。それでも日が経つにつれ、わかってきた。自分と豊の気持ちに決定的な温度差があることに。

 この部の空気は豊が作り上げている。自分がどんなに叫んでもわめいても、その言葉が豊のそれと一致しない限り、部員の気持ちは動かせない。

 ――なあ、豊。

 俺らに全国がこんなにも近づくことなんて、多分もう二度とない。なぜもっとなりふり構わず目を血走らせてそれを手繰り寄せようとしないんだ。取り返しがつかなくなってから悔やんでも――。

 ――遅いんだぞ。

『大丈夫だよ、ケンちゃん』

 この一週間、胸の痛みを引き連れて何度も蘇ってきている過去の言葉だった。あの夏、階段の一段目に座った玲奈が、こちらを見上げてそう言った時、北村は安堵と共に、ただ小さくうなずいていた。彼女のついた優しい嘘に、わずかな疑いすら持たなかった。いや、嘘と呼ぶのは正確ではないかもしれない。彼女自身自分のことを、あの段階では正確には理解していなかったのだろうから。周りの空気がじっとりとまとわりつくような不快な季節で、日は沈もうとしているのに、全身からじんわりと汗が染み出していた。足元のコンクリートは汚くひび割れ、少し離れた場所には欠けたプラスチックのコップが転がっていて、遠く小さく救急車のサイレンが聞こえていた。

 一週間前、改めて考えてみればいたって妥当な解を突きつけられ、目を背ける間もなく真実が全身を満たしていったあの瞬間まで、北村は何もわかっていなかった。しかし、振り返ってみれば、それを裏付ける予感やヒントは、いつも目の届くところにあった。例えば、黒江に突き飛ばされ、床に身体を打ちつける豊を見つめ、もうやめてと呟く玲奈の声――そこにこもる熱の異常さは、確かに普通では無かった。

 食後、北村は手ぶらで家を出た。十五分ほど離れた場所に沼がある。彼はそこに向かった。立ち入り禁止の柵を乗り越えて向こう側に降り立った時、初めてそこに先客がいることに気づいた。締めつけるような胸の痛みが改めて彼を襲った。

「玲奈」

 呼びかけると、彼女は水面にやっていた顔をこちらに向けた。風が髪を乱したが、彼女は気にする様子もなく北村に向かって微笑んだ。

「ケンちゃん」

 北村は彼女のそばに腰かけた。黒い水面に月が写っている。傍らにあった石を手に取り、右手の中で重さを計った。投げた石は月から少し離れた場所に落ち、ゆらゆらとそれを揺らめかせた。

「この沼、本当に落ち着くね」

「水が落ち着かせるのかな」

 北村は答えた。

「あの時の探検で、凄いもの見つけた! って思ったけど、本当に結構凄いものだったね」

 玲奈が笑った。

 小さい頃、「探検」と称して二人はよくこの辺りをうろついた。入ってはいけないと言われていた林の中で、何か一つ爪あとを残そうと、変わった物が無いか探して歩いた。立ち入り禁止の看板のついた柵を見た時は流石に少し怖気づいたが、玲奈の『やめとこう』の声で引けなくなった。自分が怖がっているのを悟られたくなかったのだ。大丈夫大丈夫、そう言いながら北村は柵に取りついた。先に柵の向こう側に行って手招きすると、おっかなびっくりといった様子で玲奈も柵を乗り越えてきた。二人のすぐそばに沼があった。二人はそのそばに座り、顔を見合わせた。

『こんなところに沼があったんだね』

 大人からすれば小さな距離なのだが、当時の彼らは林のかなり奥深くまで入ってきたと感じていた。未開の地に誰も見つけたことのないものを発見した時のような興奮を二人は覚えていた。

 一人で何かを考えたい時、北村はよくここに来た。玲奈もそうだと知ったのは中二の春、今日のようにここで鉢合わせた時だった。ここで会うのはそれ以来になる。

「この前ね、好きな人にふられたんだ」

 玲奈がぽつりと言った。

「そうなんだ」

 北村は無理して答えた。知っているとは言えなかった。一週間前の土曜日、あの北高との合同稽古からの帰り、彼はその瞬間を目撃していた。普段は使わない路地にたまたま入ったところで、偶然二人の姿が目に飛び込んできたのだった。玲奈は顔を覆って泣いていて、そのそばで豊は困ったように突っ立っていた。何が起こっているのかは一目でわかった。

「相手、沢木君なんだ」

 玲奈が言った。

「そうか」

「驚かないの」

「なんとなくわかってたから」

 彼女を見ずに言った。

 玲奈は何も答えなかった。黙って目の前の沼を眺めていた。

 どちらが辛いのだろう。想いを告げてふられた彼女と、好きな人が片想いをしている相手の大きさに、動くことすらできずにいる自分。そう考えてしまい、北村は心の中で失笑を浮かべた。告白できないことすら人のせいにしている自分は悲しいくらいに小物だった。彼女と豊のあの場面を見てしまった翌日に、グリーンスパイスで友人と交わした会話が思い出された。あの時固めたはずの覚悟はこんなものだったのだろうか。

「今日のミーティング、ごめんね」

 玲奈の言葉で北村は我に帰った。「樋口君たちの手前ああ言う風に――仕方ないじゃないみたいに――言うしかなかったけど、ケンちゃんの気持ち本当は凄くよくわかるよ。剣道始めた頃から、ケンちゃんの目は全国に向いてたもんね。道場の誰にも勝てないうちから」

「そうだったかなあ」

 北村は苦笑した。

「うん。中学の時は名門の私立高校でもやっていけるようにって一生懸命稽古して、それは両親の反対で公立の長槻に来てからも変わらなかった。上はどうしようもないけど万一下に沢木君みたいな子が入ってきたら狙えるって、全国への夢は捨てなかった。そして、本当に入ってきたんだもんね、凄い子が二人も。そりゃ熱くなるよね。全国がこんなにも近づいたの、初めてだもんね」

 幼稚園から小中高とずっと同じ学校に通い、ずっと北村のそばにいた彼女ならではの言葉だった。豊との言い合いでささくれ立った心が、少しばかり癒やされるのを感じた。

「でも、どうすればいいんだろう」

 玲奈は小さく溜め息をついた。

「豊だ。豊が変われば変わる。部の柱は実質豊一人だからな」

 突然金髪をやめて坊主にしてきた颯太。いつまでも意地張ってられませんからと笑っていたが、よくよく聞いてみると前日豊に注意されたのだという。北村が何度言っても直してこなかった奴が、豊の一声で直してきた。ついに豊さんにも言われちゃって――頭をかいて笑っていた。むっとした気持ちは腹の底に仕舞った。こんなことは、今に始まったことではなかった。

 ――豊さんが言ってたんですけど。

 ――でも豊さんが。

 ――豊さんはどう言ってるんです?

 豊、豊、豊。後輩たちのいくつもの言葉が頭の中をぐるぐると回り、そこに沼を見つめる玲奈のシルエットが加わって、北村は思わず吐き出していた。

「どいつもこいつも、豊、豊、豊だ」

 玲奈がびくりと体を震わせた。

「ごめん」

 小さく呟き、北村はうつむいた。

 北村自身、豊の偉大さは十分に理解している。集中が切れかけた時のファイトの言葉、ナーバスになっている時に大丈夫だよと背中を叩く手、一瞬も気を途切れさせずに稽古を乗り切った時の、今日は凄く良かったと浮かべる笑顔。欲しい時に欲しいものをくれる彼に幾度となく救われてきた。しかし、それと同時に嫉妬も覚えていた。ことあるごとに見せつけられる器の差、スケールの差が悔しかった。自分よりも遥かに高い位置から爽やかに笑う彼に、時おり煮えたぎるような憎しみを覚えた。

 風が吹き、沼の臭気に微かな甘い香りが混じった。玲奈の髪が風にそよいでいる。彼女はじっと前を見つめていた。ここにはいない人を見る、切ない視線。

 言うと決めた言葉があった。逃げ続けていることはもうできなかった。その決心の芽は北村の中で、もう十分に育っていた。

 ――言わないと。

 そう強く思うのに、まるで喉に仕切りがあるかのように言葉が上がってこなかった。口にすればきっと二人は今までと同じ関係ではいられない。言った先には激しい後悔が待っているかもしれなかった。それでも……言わなければ必ずもっと後悔する。

『大丈夫だよ、ケンちゃん』

 柔らかな表情で笑う彼女が、目の前に浮かんでいた。あの夏、北村の言葉を制してそう言った彼女の目は、だから心配しないで待っててと確かに伝えていた。それなのに――。

 今ならわかる、あれが痛みを押し隠しての必死の言葉だったのだと。

 隣で玲奈が小さく咳き込んだ。辛そうに歪んだ端正な顔。

 北村は覚悟を決めた。彼女の背にそっと手を回そうとした。言うと決めた言葉を押し出そうとした。しかし、どちらも果たせなかった。玲奈の視線が北村を突いたのだった。咎めるような強い視線だった。反射的に手を引き、彼女の目から逃れるように、目の前の景色に視線を転じた。かさかさと揺れる木々や、それに合わせて震える水面、空にぽかりと浮かんだ満月。それら全てが自分を笑っているような気がした。

 豊が自分の立場であれば、逃げなかっただろう。そう考えてしまう自分が情けなかった。

 玲奈は北村に向けた視線が嘘だったかのように、切ない目で、また沼に石を放り始めた。しばらくして、水面に突き出た棒のようなものを狙っているのだとわかった。石は全く当たる気配がなかった。北村も近くの石を拾っては、彼女と同じペースでそれを放った。やはり当たらなかった。

「上手く行かないね、色々と」

 やがて、しみじみといった口調で玲奈が呟いた。

「ああ、でも――」

 北村は拾った小さな石を、痛いほど握り締めた。

「伝えたい人に伝えたい想いを届けられるのは、きっと幸せなことだと思うよ」

「そうだね」

 答えるまでに小さな間があった。少し遅れて玲奈のすすり泣く声が聞こえて来た。北村は立ち上がり、手の中の小石を沼の棒に思いっきり投げつけた。またまた外れた石のつくる同心円状の波は、沼に映る月をしばらく揺らしていたが、すぐに何事もなかったかのように静かな水面が戻ってきた。沼の月から空の月へと目を移した北村は、そっと小さく息をついた。



        十一


 久しぶりに晴れた。外よりも寒いと言われるこの校舎だが、それは案外事実かもしれなかった。窓のそばの陽だまりを通る時、横顔が一瞬驚くほどに温かくなる。颯太はミーティングの開かれる教室へと向かっていた。窓の外を、五六人の男女が談笑しながら颯太を抜かしていく。絵に描いたような青春。自分もそういう高校生活を送っていた可能性もあるのだなと、少し寂しく見送っていると後ろから声をかけられた。

「背高くなったな、小山」

 振り返らなくても誰かわかった。

「もう飽きたよ、それ」

「あれ? 颯太か」

 樋口はわざとらしく驚く真似をした。颯太はそれを無視して窓に映る自分に目をやった。一週間前までは小山の専売特許だった坊主頭も、今や彼だけのものではない。初めての髪型に自分はまだ馴染めずにいるが、周りには好評だった。剣道部や家族だけでなく、同級生の女子にも意外と評判がいい。

「お前らも含めて全員が強くなってるって豊さん言ってたけど、本当かな」

 颯太は頭を触ろうとする樋口の手を押さえながら言った。

「可能性はあると思うぞ」

 樋口は言った。「俺も甲斐も清竜時代の何倍ものモチベーションで稽古してるからな。弱くなってるってことはないと思う」

「強くなった証拠を見せるって言ってたけど」

「どうやらビデオらしい」

「映像でわかるもんなのか、強さなんて」

「まあ、ある程度はわかるよ、動きでな。新人戦、遠くからウォームアップを見ただけで、俺も甲斐も正直言って清竜に圧倒されたからな」

「そういうもんか」

「ビデオは勉強になるから見た方がいいぞ。たまには見てるのか」

「いや」

「絶対見た方がいい。色んな発見がある」

 樋口はミーティング用に借りた教室のドアを開けた。もう全員揃っていた。テレビにはパソコンの画面が映し出されている。甲斐が操作をしていた。

「まずビデオを見るから適当な場所に座ってくれ」

 豊がそう言うと同時に画面に動画アプリケーションが開き、甲斐の操作でそれはすぐに全画面表示にされた。最初に再生されたのは新人戦の今暁戦での豊の試合だった。一分ほどそれが流れた後、ふいに映像が切り替わった。誰かが操作したわけではない。そのように編集されているのだ。

「先生のパソコンで編集したんだ」

 豊は言った。「今までのが去年の新人戦で、これが先週の北高との試合だ」

「全然違いますね」

 しばらくして樋口が小さく感心したような声を出した。

 颯太は心の中でうなずいた。映像でだいたいわかるといった樋口の言葉が嘘でないことを知った。初心者の颯太にすら、動きが遙かにシャープになっていることがわかる。続いて、小山と北村の、去年と先週の映像が流れた。どちらも豊と同じく映像でわかるくらいに変わっていた。甲斐の去年の映像から先週の映像に切り替わった瞬間、ちょっとしたどよめきが起こった。豊は正しいことを言っていた。甲斐もまた他の三人と同様、はっきりとわかるくらいに大きく成長していた。

「本当に長槻全体が成長している」

 玲奈が小さく呟くのが聞こえた。

 先週の甲斐から去年の樋口に切り替わった。評価というものが常に相対的にしか行い得ないことを颯太が実感した瞬間だった。すでに十二分に一流だったはずの新人戦時代の樋口の動きが先週の甲斐を見た後では、ひどく鈍く見えた。そして、対戦相手の今暁の選手も。続いて先週の樋口の映像に切り替わった。皆の口から感嘆のため息が漏れた。甲斐と同様、樋口もまた一目でわかる程大きな進化を遂げていた。

 豊は続いて別の動画ファイルを開いた。北高や他の地元の高校の、過去と現在の映像を比べた動画だった。彼らと練習試合をする度に玲奈が撮ってきた映像だった。彼らの動きは、少なくとも見てわかるほどには変わっていなかった。

「うちは樋口と甲斐も含めて、ちょっと類が無いくらいの勢いで強くなっている。だから――」

 豊はそう言って動画を閉じると、もう一つ別の動画を開いた。

「ここと比べても見劣りはしない」

 颯太は今度こそ、アドレナリンがわき出る、血が沸騰するような感覚を覚えた。教室の空気が、周りもまた同じ気持ちだということを示していた。まるでその場の温度が一、二度上昇したようだった。

 今回の動画はこれまでのものよりも少し編集が凝っていた。画面の左側には先週の樋口、そして右側には新人戦の決勝を戦う清竜の佐久間が映し出されていた。

「見劣りしないどころか……」

 そう呟いたのは小山だった。

「ああ。当時の清竜よりも俺らの方が上だ」

 甲斐が言った。

「まあ、映像でわかることなんてあくまで一部だけどな。球のスピードだけでピッチャーを判断できないように、外から見た動きだけで強さなてわかるはずがない。バッターボックスに立ってもいないうちから『清竜よりも強くなってる』なんて浮かれすぎもいいところだ」

 北村が諌めるように言った。しかし、誰もがわかっている言わずもがなの言葉をあえて口にしなければならないことが、逆に彼が受けている衝撃の大きさを伝えていた。

「少なくとも、当時の清竜と、見てすぐわかるほどの差は無い」

 豊が悠然と一同を見渡した。

「もちろん、清竜も今暁も成長しているだろう。当時のまま止まっているとは考えられない。でも、自分たちの稽古に自信は持とう。今の過酷な稽古の先にはインターハイ出場があるのだと信じて毎日の稽古に望もう。この急激な成長を考えれば、それは決して夢物語では無いと思う。どうだ、樋口」

「正直、ここまで自分たちが伸びているとは思っていませんでした。でも、よく考えてみれば、清竜時代の投げやりな僕らと今の僕らでは、やる気が全く違う。遙かに高いモチベーションで毎日稽古をしている。成長の速度が上がるのも当然なのかもしれませんね」

 豊はその言葉に満足したように皆を見渡した。

「今の練習を続けて行ければ必ず俺らは強くなれる。インターハイだつて夢じゃない。そう俺は確信している。ただ、それには条件がある」

 豊はそこで言葉を切った。そして、小山を見た。

「この前の話、結論は出たか」

「はい。出ました」

 小山は全員の視線を一心に浴び、少し上気した声で言った。

「聞かせてくれ」

「皆の言う通りにします。相手の力量に合わせた試合展開。場合によっては勝負を避ける……」

 ほっとした空気が教室の中を包んだ。

 颯太は安心する気持ちの反面、胸の中を冷たい風が吹き抜けていくのも感じていた。チームにとって一番いい結論が出たはずだったのに、信念の塊のような小山が自分の哲学を曲げるところをいざ目の当たりにすると、やはり寂しかった。

 入部当初、颯太がまず豊に言われたのが、小山の真似をしろということだった。それ以来、颯太は自分の剣道の形をできるだけ小山に近づけるように努力している。わからないことがある時に真っ先に質問する相手も小山であり、剣道に関するほとんどのことは彼から教わった。その中には心構えも含まれる。それは言葉で伝えられることもあれば、態度で教えられることもあった。練習中疲れてだれてきた時に、スタミナの無い彼が一切抜かずに竹刀を振っているのを見ると、しっかりしなければと思う。他の人が言えば綺麗ごとや負け惜しみに聞こえる「勝つことが全てではない」という言葉も、彼が言うと素直に心に沁みてくる。彼のこだわりの強さ、信念がそのまま言葉の強さに結びついていた。その彼が、ついに妥協した。

 ミーティングが終わり、小山と共に廊下を歩きながら、颯太はどう声をかけていいかわからなかった。顔に当たる日差しを今度は左に感じながら、颯太は話しかける言葉を探していた。窓の外の生徒たちが皆同じ方向に早足で歩いていく。休み時間は残り少なくなっていた。

「ありがとうな」

 北村が小山の肩を叩き、二人の元を通り過ぎていった。

「どういたしましてって言う場面でもないよね」

 小山が颯太を見て笑った。

「ああ」

「どうして急に折れたのかって思ってる?」

 颯太は素直にうなずいた。

「たいした理由は無いよ。僕だけの試合じゃない。そう考えたら、我を通し続けるのはやっぱりダメだろうって、ただそれだけだよ」

「そうか」

 あまり気の利いた返事は出てこなかった。

「もちろん嬉しいことではないよ、勝負を避けるっていうのは。みんなみたいに、先鋒戦から大将戦までの五つの試合を、試合ではなく、団体戦っていう一つの試合の一部みたいに考えることができれば、作戦として勝負を避けるっていう発想もできるのかもしれないけど……。その考え方からすれば、たとえ勝負を避けたとしても、それは試合全体から逃げているわけじゃなくて、試合の一部において引いているだけってことになるからね」

「でも団体戦っていうのはそもそもそういうもんなんじゃないかな」

「うん。たぶんそうなんだと思う。だからきっとみんなの方が正しいんだよ」

 やけになったような口調では無かった。その目には強い覚悟があった。

「でもね、岸谷君。一回だけ僕の本音を聞いてくれる?」

 颯太は小山の目を見て話を促した。

「個人戦だろうが団体戦だろうが、コート上で剣士が二人竹刀を交えれば、やっぱりそれは一つの試合であり、全てを賭けるべき勝負だと僕は思ってる。そこから降りて勝負を避けて、形だけはまるで勝負したかのように取り繕って――そういうの、本当のことを言うとしたくない」

 でも――と彼は続けた。

「そうするって言ったからには徹底するよ。決めたからには、従うよ。自分が敵わない相手とは勝負せずに引き分けにいく。中途半端にだけは絶対にならない。だから、今言ったようなことを言うのもこれが最後だ」

 その後、小山はずっと無言だったが、別れ際にふと立ち止まって言った。

「今は、うちが勝ちだけを追い求める学校にならないか、それだけが不安だ。勝つことのみを重要視して、急速に北高みたいになっていった時に、その流れを食い止める自信が僕には無いから……」

「豊さんがそうはさせないだろ」

 颯太が言うと、それもそうだねと、小山は笑った。いい笑顔だった。そして、颯太は信念の塊のような彼がなぜ折れたのか理解できたような気がした。

 小山は黒江の標的になっていたことがある。ポリシーの強い彼は時々黒江の指示通りに動かないことがあった。黒江はそれが気に入らなかった。頻発する暴力に、小山は耐えかね、豊に相談した。それは相談というよりも退部の報告に近かった。一週間待ってくれ。その報告を聞いた豊は言った。一週間経っても暴力が無くならなかったら、その時に辞めてくれと。そして、翌日から小山への暴力は止まった。予兆を感じる度に豊は黒江に噛みついたのだ。黒江は小山どころでは無くなった。豊はその日から黒江が引退するまでほぼ連日、稽古の名を借りた暴力にさらされることになった。

 ――豊さんのために何かがしたい。

 豊に救われた小山はいつもその言葉を口にした。熱い口調で彼がそう話すのを聞く時、そのためなら彼は自分の信念すら曲げるのかもしれないと、颯太はいつも感じていたのだった。もし万一、小山が心配するように豊が北高のような邪道な道を選んだ場合、彼は今度はどうするのだろうか――想像して胸が苦しくなった。どのような選択をしようとも、彼にとっては辛い道になるに違いなかった。


 やると言ったからには徹底すると言った小山の言葉は本当だった。彼は周りからのアドバイスに素直に従い、守りの堅さは短期間で格段に上達した。

 小山の姿勢に触発されるかのように、他のメンバーもまた、これまで以上の集中力で自分たちの技術を向上させていった。それがはっきりと形になって表れたのが、北泉三日前の地元校との練習試合だった。颯太こそ苦戦しての勝利だったが、他の五人は相手に何もさせない間に二本を勝ち取っていた。長槻は周りの高校とはもはや別格なのだと、颯太はこの試合で確信した。

「北泉で優勝しても強豪校と稽古はできないかもしれない。それでも今回勝つことには大きな意味がある。どうしてかわかるか」

 ある日の部活後、皆の前で北村が言った。

「自信になるからですか」

 樋口が訊ねた。

「それもある。でも一番のポイントは清竜にプレッシャーがかけられることだ」

「清竜は出ませんよ」

 樋口が不思議そうに言った。

「それでもだ。いや、むしろ出ないからこそなんだ」

「どういう意味だ」

 豊が訊いた。

「北泉でいい成績を上げれば、話題になる。優勝すれば、これはニュースになる。潰したはずの樋口と甲斐が、びくともしてないことが、絶対に清竜の耳にも入る。不気味だぞ。ベスト8レベルの高校とは頻繁に練習し、相手の手の内を知り尽くすことが当たり前になってる彼らだけど、ナンバー2のはずの今暁を下した長槻については、その姿を見ることすらできない」

「自分たちで締め出してますからね」

 甲斐は楽しそうに言った。

「まさか、他の高校に北泉での長槻の試合を見せてくれなんて言えないだろうから、映像ですら僕らのことは見れないわけですね」

 樋口もなるほどというようにうなずいている。

「記憶から消し去りたい樋口と甲斐が、確かな戦績と共に自分たちの前に戻ってくる。しかもその姿はインターハイ県予選当日まで全く見えない。そりゃ、確かに不気味だな」

 豊が感心したように言った。

 確実に成長に繋がる練習を自分たちが積んでいるのだと実感できたこと、それから、北泉の優勝に大きな効果が期待できそうだと気づいたことから、北泉直前の長槻は、自信・モチベーションともに、これまでで最高の状態にあった。

 北泉前日の部室でのミーティング、豊を囲むメンバーの表情は、明日を待ちきれない思いに満ちていた。

「今暁戦については、甲斐、樋口に繋ぐために、前三人は引き分けを狙う。俺と北村は相手に一本も許さない。小山も最低でも一本負けに抑えてくれ」

「はい」

 小山はうなずいた。

「桜塚・柏陵相手にも同じ作戦で行く。普通にやっても大丈夫だろうけど、今回は結果にこだわりたい。大事に行こう」

 異論は出なかった。豊と北村が引き分け、小山は一本負け以上、樋口と甲斐がきっちり決める。皆の間でそのイメージはすでに固まっていた。何もかもが上手く回る流れの中で、誰もが今暁への勝利を信じていた。

 そして、北泉当日の朝がやってきた。


 待ち合わせ場所は長槻駅だった。颯太は待ち合わせよりもだいぶ早い電車に乗った。一年生は基本的に三十分前集合ということになっている。颯太は扉にもたれかかり窓の外を走り去る景色をぼんやりと見ていた。飛んでいく家々が速度を落とし、駅のホームが流れ込んできた。立てかけていた竹刀袋を左手に持ち、右手で防具袋を担ぎ上げる。ベンチがゆっくりと進入してきたところで窓の向こうの景色は止まった。ベンチには玲奈が座っていた。扉が開くと、颯太は人波に押される前にいち早く外に出た。

「おはようございます」

 挨拶すると、玲奈はおはようと言いながら、隣にどうぞという仕草を見せた。

「失礼します」

 素直に彼女に従う。

「早いですね」

「うん。なんか早く目が覚めちゃって」

 微かに香るシャンプーの匂いと、至近距離で見せられたにこやかな笑顔に、にわかに鼓動が高まった。この人が自分のことを好きだと、豊は知っているのだろうか。玲奈の態度は、知ってみればわりとあからさまだった。もしかすると、既に想いは伝えているのかもしれなかった。一方の北村は玲奈と男同士のような関係を崩さないでいる。「覚悟を決める」と話してはいたが、おそらく動いてはいない。試合前だから自制しているのかもしれなかった。

 轟音を響かせて電車が滑り込んできた。

「おはようございます」

 目の前の車両から樋口と甲斐が降りてきた。

「おっす」

 少し離れた車両から北村も降りてきて、颯太は彼に席を譲った。北村と玲奈が隣り合う形となった。どうしても意識してしまう。二人は残念ながらお似合いとは言いづらかった。がさつな色黒の男と、筆を持ってキャンバスに向かうのが似合いそうな美少女は、むしろ対極なものの代表のように見えた。玲奈は中学時代、何か部活をやっていたのだろうか。颯太は今更ながらに思った。

「霧島さんって中学時代、何か部活やってたんですか」

「剣道部だよ」

 玲奈は竹刀を振る格好をした。

「マネージャーですか」

「ううん、選手」

「えっ」

 颯太は思わず声をあげた。樋口と甲斐も目を見張って玲奈を見た。

「みんなして、そんな驚かなくてもいいじゃない。結構強かったんだから」

「いや、全然やってた感じが無いので」

 樋口が弁解する。甲斐も隣でうなずいている。二人もやはり颯太と同じように思っていたのだ。彼女には剣道をしていた雰囲気が全く無かった。

 電車が滑り込んできた。颯太たちの前で開いた扉の向こうに、豊と小山がいた。これで全員だった。沢木はクルマで移動するため、現地で落ち合うことになっている。予定の電車はまだだいぶ先だったが、全員が揃ったためその電車で早めに行くことになった。

 目的の駅に着き、改札に向かって歩いていると、自分たちと同じように制服を着て防具袋を担いでいる集団が何組か見受けられた。その数は、会場が近づくにつれて増えていった。

 途中のコンビニには、制服姿の選手や応援の者が溜まっていた。その中に坊主頭ばかりの一際目立つ集団がいた。買い物済みらしく、それぞれの手には食料の入ったレジ袋がぶらさがっている。そのうちの一人がふらっと近づいてきた。

「久しぶりだね、樋口君」

 柔らかいが心を落ち着かせなくする声音だった、相手に緊張を強いるタイプの。

「お久しぶりです、新藤さん」

 樋口は頭を下げた。

 ――この人が新藤か。

 颯太はまじまじと彼を見つめた。颯太が知っているのは面をつけた姿だけで、顔を見るのは初めてだった。整った顔立ちだが、全体的に冷たい印象を与える顔だった。

「あれからだいぶ鍛えたね、わかるよ」

 新藤は樋口の体を上から下まで舐めるように見た。

「ありがとうございます」

 樋口が静かに答える。新藤は樋口から目を離し、続けて甲斐を見た。二人は長い時間見合っていたがどちらも言葉を発さないまま、新藤が目を逸らした。彼は逸らした目を豊に移し、続いて残りの部員も順番に見ていった。順番が自分に来た時、颯太は目が合った瞬間に逸らしていた。視線の力に弾かれた形だった。甲斐が何も声を発さずに、ただ新藤と見合っていた理由がわかった。突然挑まれた睨み合いにとっさに応じ、そして勝ったのだ。

 新藤から離した目を周囲に向けて、颯太はいつの間にか自分たちが場の中心になっていることに気づいた。今暁だけではなく長槻もまた地元北泉地区では有名だった。樋口や甲斐の事情も知れ渡っている。もちろん、二人が新人戦で今暁に負けたことも――。

「お手柔らかに頼むよ」

 新藤がぽんと樋口の肩に手をおいた。格下に対する接し方だった。樋口は肩におかれた手に目もくれず、涼しい目で新藤を見た。

「こちらこそ」

 その言葉にうなずいて、新藤は彼を待つ残りの部員の元へと踵を返した。

 その時、呟きが聞こえた。

「一回勝ったくらいで」

 甲斐だった。新藤に聞こえるか聞こえないかという絶妙の声音だった。新藤の肩が一瞬ぴくりと動いた気がした。しかし、彼は振り返ることなくそのまま歩き去っていった。

 そして、止まっていた時間が動き出した。人が流れ始めた。今暁はキャプテンを迎え入れて会場へと動き出し、長槻はコンビニに向かって歩き出した。

「一回でも負けは負けだ。いばる権利は向こうにある、違うか」

 樋口が前を行く甲斐の背中を軽く叩いた。

「そうか?」

 甲斐は前を向いたままだった。

「そうだ」

 樋口は即答した。「逆に言うと、今日勝てば前の負けなんてなんでもなくなる」

「早く終わらせたいもんだな」

 甲斐は不機嫌そうに呟いた。


 会場は八つのコートに区切られていた。奥の四つが男子、手前の四つが女子だ。それぞれのコートで四校が総当たり戦を行い、上位の二校がトーナメントに進出する。男子は、昨年の優勝・準優勝校である今暁・白陵学園がシードで、予選リーグには出ない。

 今回の大会から、颯太は補欠ながら選手として出場している。ただ、ビデオ撮影とスコア表の作成を玲奈一人ではできないため、大会中は今まで通り玲奈の手伝いをすることになっている。今までとの違いはウォームアップに参加するようになったことと、制服ではなく道着をつけていることくらいだった。それだけでも、颯太は普段よりも長槻の一員としての意識が高まっているのを感じていた。長槻の試合が始まった時の高揚はこれまでのものとは一味違っていた。

 一試合目は、五人とも三分かからずに二本を取っての完勝だった。

 颯太は豊のタスキを外しに向かった。次の試合、赤から白にタスキの色が変わる。白いタスキをつけていると、第四コートから大きなどよめきが起こった。今暁女子の大将戦だった。どよめきは、当然ながらことが終わった後に起こる。颯太が目をやった頃には、選手は大きな拍手に包まれながら開始線へと向かっており、何が決まったのかはわからなかった。

「審判うちの先生だ」

 玲奈が呟いた。颯太は主審に目を移した。腕の先に赤い旗を掲げた沢木がいた。斜めに挙がった腕は途中で折れそうなくらいに細く、左腕の自慢の腕時計は、かなりずり下がっていた。

「痩せたよね」

 玲奈が言った。

「やっぱり霧島さんもそう思います?」

「うん」

 玲奈は心配そうに呟いた。続いてタスキをつけに行った北村も、気になるのかずっとそちらに視線をやっている。もう一度沢木に目をやり、その痩せ方が病的だと改めて思った。北村は一言も発さずにそちらを見ていた。その思い詰めたような表情に颯太は一層不安を強めた。北村はその試合が終わるまでずっとそちらを見ていた。

 長槻の試合はもちろん、それ以外も気になる学校は撮るため、颯太は午前中いっぱい忙しかった。途中で豊が他校の試合は三脚で定点録画のまま放っておいてもいいと言ってくれたため、多少楽になったが、それでも予選ブロックが終わり昼休憩に入った頃には、颯太はすでに疲れきっていた。一本も落とさずに決勝トーナメントへと駒を進めた長槻の調子の良さだけが救いだった。昼ごはんを食べた後、疲れに追い打ちをかける出来事があった。

「なんだこれ?」

「あーあ。豊さんが甘やかすから」

 ビデオを覗き込む樋口と甲斐の間に割って入ると二人はビデオの画面を向けてきた。ズームのし過ぎで試合の運用を手伝うコート係と呼ばれる高校生ボランティアばかりが映っている。選手の姿はたまにフレームに入ってきてはすぐに出て行く。明らかな失敗だった。

「時計係がかわいいから許してやれ」

 後ろから見ていた豊が笑った。

「性格もマジメそうだしな」

 北村が言った。「ストップウォッチなんてほら、試合が終わる何秒も前に持って」

 彼女はストップウォッチを掴むとそのまま、じっとそれを見下ろしていた。その何秒か後、ストップウォッチを押すのと同時に立ち上がり、笛を吹いた。その仕草がかわいらしくて、また盛り上がっていると、後ろから声がかかった。

「余裕あるんだね」

 道着を着た新藤は流石に雰囲気があった。

「はい」

 甲斐はその一言で会話を終わらせようとした。

「さすがだね。俺なんて緊張してさっきから何度もトイレに行ってるのに」

「気が散るからいちいち絡みにこないでくれるか」

 北村があっちに行けというように右手を振った。

「北村君か。話には聞いてるよ」

 新藤は嘲笑に近い笑みを浮かべた。北村の顔が怒りで赤く染まった。彼はしばらく新藤を睨みつけていたが、やがて低い声で消えろと言った。

「グッドラック」

 北村に再び嫌な笑みを投げかけ、新藤は去っていった。

「せいぜい後数時間の間、威張らせてあげましょう」

 樋口が声をかけた。新藤の後ろ姿を睨みつけていた北村は我に帰ったように、樋口に顔を向けるとああと小さくうなずいた。


 午後からの決勝トーナメントを控えて、颯太たちは会場の入り口付近に立っていた。トーナメント進出はシードの今暁と白陵を含めて十校。桜塚はもちろん、北校も残っている。会場内には始まった時とほぼ同数の人数がまだ残っている。応援に来ているOBなどで何人か帰った者がいる程度だ。その多くが、トーナメント表が貼られることになるホワイトボード付近を眺めていた。大会委員が今まさにトーナメント表であろう大きな用紙をそこに運んでいるのだ。颯太は運ばれるトーナメント表から目を離せずにいた。今暁と白陵は、リーグ戦は免除だが、トーナメントではシードの位置に行くとは限らない。十校ともが十の枠のどこに行く可能性も平等に持っている。つまり、一戦目から今暁と当たる可能性もあるのだった。

 委員がホワイトボードの前に立つ。そこに向かって、ぞろぞろと場内の人間が動き出す。颯太たちもゆっくりと歩き出した。目は、起き上がってこちらを向いたその紙に吸い付いている。颯太は、左から順に長槻の名前を探した。

 探す必要は無かった。長槻の名は一番左にあった。その隣にあるのは、桜塚だ。一試合目の相手は桜塚高校だった。

 ――今暁は?

 桜塚の右は無名校。今暁は、その隣にいた。両者どちらもシードではなかった。つまり、今暁とは、二戦目で当たるということだ。

「新人戦と一緒ですね」

 樋口が言った。

「ああ、新人戦の二回戦からやり直しだ」

 北村が強い口調で言った。「正しい序列を思い知らせてやらないとな」

 豊が集合をかけた。

「桜塚、言うまでもなく強豪だ。気を引き締めて行こう」

 はいと全員が声を揃えた。

 その三十分後には試合が始まっていた。

 長槻と同じく桜塚のオーダーも新人戦と同じだった。桜塚の特徴は小柄ですばしっこい人が多いというところだ。スピード感のある剣道というイメージがある。新人戦では全員が、激しい打ち合いを仕掛けてきた。

 颯太は、ストップウォッチを片手にコート中央を見つめていた。通常ストップウォッチの持ち込みは禁止されているが、このような非公式の大会では黙認されていた。味方への助言に使うわけではない。スコア表に技の決まった時間を記録するために使用するのだ。

 先鋒二人が、コートの中央で蹲踞の姿勢になっている。

「はじめ」

 審判の声と同時に両者は立ち上がった。

 先鋒戦の展開は新人戦と同様となった。豊は徹底的な守りの中にも隙を見せず、ひたすら逃げる。苛立ちを隠せない相手の剣は残り時間が少なくなるに従い、荒くなった。豊は冷静にそれをかわす。そして、五分間を逃げ切った。

「よし」

 笛が鳴った瞬間、北村が呟くのが聞こえた。次鋒の小山がすっと一歩踏み出す。コートから出てくる豊と拳を合わせて、そしてもう一歩――コートに入った。

 次鋒戦は、まるで先鋒戦をなぞるような試合展開になった。特に小山の動きは豊にそっくりだった。ただ、相手は先鋒に比べて少々荒っぽかった。先鋒次鋒と続けて逃げにかかった長槻に腹を立てているのかもしれなかった。連打と共に激しい体当たりを仕掛けてくる。相手は重量級だった。小山よりも身長は低いが、おそらく体重は二十キロ以上重い。小山は何度も場外に弾き飛ばされそうになりながらも踏ん張っていた。颯太の手はいつしか汗でびっしょりになっていた。小山自身のためにも引き分けさせてやりたかった。複雑な心中は脇において五分という時間を消費することに全力を捧げる彼の姿には、いやが上にも胸が熱くなった。報われて欲しかった。

 ――小山、耐えろ。

 しかし、開始時間四分が過ぎた頃だった。相手の執拗な体当たりを受けて小山は少し体勢を崩した。その一瞬をつかれた。次の瞬間、鮮やかな引き小手を決められていた。打たれた小手の音が耳の奥で長く尾を引いた。白い旗が三つ一斉にコートの上に開く。

 ――後一分か……。

 もう少しだった。思っている間にも試合は進んでいく。二人は開始線に戻り、主審の「はじめ」の声に促されるように、二本目へと突入していった。

 残りの一分は、短いようで長かった。しかし、小山は集中を切らさなかった。ただ受けているだけでは、すぐに崩され打たれてしまう。冒険をせず、隙を作らない範囲内でいかに攻撃を仕掛け、相手の打ちを封じるか、その駆け引きが大切だった。勝負したかのように取り繕う――そう表現し、嫌っていたとは思えないくらい見事に、小山はそれを実戦していた。相手の激しい当たりに耐えに耐え、じわりじわりと残り時間を消費する。

 そして、笛がなった。始めの四分よりも長く感じた一分を、小山は逃げ切ったのだ。

 彼が礼をして引き上げてくると、颯太は手が痛くなるくらいの大きな拍手を送った。体が熱くなっていた。

「完璧だ」

 中堅の北村が言い、小山と拳をあわせた。熱い何かが、小山の手から北村へと流れ移るのが、見えた気がした。

 北村もまた当初からの計画のとおり勝負はしなかった。序盤は、小山の熱戦の空気を引きずったまま、熱い気持ちで応援していた颯太だったが、途中から自分の心が微妙に変化していることに気づいた。北村も相手も、取った本数はゼロ本ずつ。このまま引き分ければシミュレーションどおりの形で甲斐・樋口に繋がることになる。それにも関わらず颯太の胸には漠然とした不安が生じ始めていた。さっきまでの余裕がないのだ。試合運びにも、長槻の応援にも。

 北村の小手がすかされ、相手は抜き面を放った。咄嗟に反応し、顔を上げて面金に当てたものの、一人の審判の旗が上がるほどの際どい打ちだった。危ない場面はそれからも続いた。颯太の不安は徐々に膨れ上がり、それは北村が相手に強引な小手面を決められてしまった瞬間、一気に体内を満たした。反射的に手の中のストップウォッチを見る。残り時間は二分強だった。

 北村は計画に無い果敢な攻めを仕掛け始めた。跳んでもいい安全のラインを一気に下げ、攻めに攻めた。

 しかし、それが報われることはなかった。

 笛が響き、審判が「やめ」をコールした。互いに礼を交わし、北村が戻ってきた。彼にかける周りの言葉が妙に力強く、それが皆の不安をあらわにしていた。不安を覚えているのは、やはり自分だけではなかった。皆感じているのだ。桜塚に対する評価が低すぎたことに。いやあるいは――

 ――自分たちへの評価が高すぎた?

 颯太の視線はわずかな時間、隣のコートに流れた。今暁の試合はすでに大将戦を迎えていた。防具をつけた新藤は先程よりも更に大きく見えた。オーラを感じた。ここに集まる高校生の中で、自分たちは唯一無二であると、特別な存在なのだと、見る者に語りかけている。翻って長槻は――

 副将戦はもう始まっている。相手はしつこく小手を狙ってきていた。甲斐は明らかに押されている。彼が立ち直りそうになったところを、相手が更に小手に跳んできた。浅い小手は決まらず、相手は体当たりをして素早く離れた。再び同じタイミングで跳んでくる。甲斐は応じきれない。相手は体当たりをして、後ろに跳んだ。そして三度小手に――

 ――あれ?

 相手は踏み込みと同時に手を出してはいなかった。そして、すぐに小手打ちが続いた。タイミングを狂わさされた甲斐はなすすべなく小手を取られていた。

「二段か」

 豊が呟くのを聞いた。相手は二段に踏み込んで、打ちのタイミングをずらしてきたのだ。だが、颯太にとってそんなことはどうでもよかった。甲斐までもが取られてしまったのだ。あっという間に。

 桜塚の応援はお祭り騒ぎだった。騒々しいほどに湧き上がっている。新人戦の今暁との試合に似ていた。嫌な連想だった。

 胸の中にあるのは今や不安ではなかった。ただ、強い寂寥感だけがそこにあった。そんな気持ちになっている場合でないのはわかっている。現在二敗一分け。長槻が勝つための最低条件は甲斐と樋口が共に勝つことだった。そのためには、甲斐はここから二本取らなければならない。

「取り返そう」

 自分の発した言葉がどこか空虚に響いた。このまま二本取り返せると期待できない自分が苛立たしい。甲斐の立ち姿からは、午前の試合では確かにあった強者の輝きが、こそげ落ちてしまっていた。

 ――焦ることはない。

 颯太は自分に言い聞かせた。時間はまだ残り四分を切ったところだ。

 甲斐は攻勢に出ようとしていた。後の無い彼に他の選択肢は無かった。壮絶な打ち合いが始まった。竹刀と竹刀がかち合う音に、気合をぶつけ合う二人の声が交じり合う。どちらも決定打は出ないまま、時間だけが過ぎていく。

 ストップウォッチを見る。残りは二分半。このまま一本も取れなければ、長槻の負けは決まる。いや、一本でも足りないのだ。二本取らなければ、長槻に勝ちの可能性はなくなる。

 そして、二人の打ち合いを見ているうちに颯太は気づいた。

 頭が揺さぶられたような気がした。この打ち合い、両者の気持ちは対等では無い。必死の思いで打ちに出ているのは甲斐だけだった。相手は、そのふりをしているのだ。実際は、勝負をしていない。考えてみれば当然だった。このまま行けば勝ちという状況で、敢えて危険な勝負を挑む必要はない。だが、ショックなのは、相手がいとも容易くそれを行っているように見えることだった。対する甲斐は焦りが体に出ている。辛い光景だった。樋口・甲斐が苦戦するのは今暁以上――いや、昨日まではもはや清竜以外にいないと思っていた。それがまさかここで……。

 残り時間、一分。

 ――頼む。樋口に繋いでくれ。

 甲斐が強引に面を打ちに跳んだ。かわされ、たたらを踏む。相手の反撃が甲斐を襲った。慌てて竹刀で防ぎ、逃げるようにして離れる。

「無理に追うな」

 桜塚から指示が飛んだ。相手は優雅にも見える足取りでじわじわと甲斐に攻め寄った。甲斐は一気に間合いを詰める。構えた竹刀同士が小刻みにぶつかり合った。そして、甲斐は小手面を放った。いなされる。彼はそこから連打を放った。連続して打ち込み、隙を作り出そうとしているのだ。しかし、相手の防御は固かった。状況を打開できないまま、時間だけが過ぎていく。

 時計係りが、笛に手をやった。目はストップウォッチを見据えている。颯太は自分の手元のストップウォッチに目を落とした。八秒前だった。七秒、六秒……

 甲斐は相手をコート際に追い込んでいた。じわじわと詰め寄っている。なんとなく、決まる予感がした。時間内に次の太刀を繰り出せれば、それは相手の面を割るような気がした。

 五秒、四秒、

 そこで笛が鳴った。

「やめ!」

 審判がコールした。思わず舌打ちした。時計係と自分の時計が少しずれていたのだ。よくあることだった。審判が「やめ」をかけるなどして試合が止まる度に、時計は止まる。そして、「はじめ」と同時に動き出す。審判の声を聞いてから時計を操作するため颯太と時計係との間で、時計を止めたりスタートさせたりするタイミングは、若干ずれる。その差が積もり積もって試合終了時には、これくらいの差になるのだ。

 後四秒あれば、おそらく甲斐は跳んでいた。見たかった。しかし、コート上には相手の勝ちを示す白い旗が既に掲げられている。甲斐はゆっくりと開始線に戻った。肩が落ちている。桜塚は大騒ぎだ。本当に今暁戦の再現を見ているようだった。これで長槻の負けは確定した。次には進めない。今暁と勝負をつける権利は、もはや無い。

 終わったのだ。

 甲斐は弱い足取りで戻ってきた。背筋は辛うじて伸びている。北村の隣にゆっくりと正座する。面を外し手ぬぐいで顔を拭くとコートに託すような眼差しを向けた。すがるようなと言った方が正しいかもしれない。お前は勝ってくれ。目には切実な光があった。

 大将戦――

 試合開始と同時に、樋口が気合の一声を上げた。それは体育館内にこだまし、場内の空気を震わせた。多数の目がこのコートに引き寄せられた。発散される凄みが吹きつけてきて、颯太は思わず身震いをした。

 樋口はじわりじわりと相手との間合いをつめた。桜塚の剣風は陰を潜め、相手はなかなか初太刀を放とうとしなかった。樋口に呑まれているのだ。樋口の体には殺気が漲っていた。眼光が相手を射抜いているのを、見えるはずもないのに、見た気がした。集中しきった時の樋口は怖い。颯太など、思わず退いてしまう。あるいは、逆に引きずり出されるようにして飛びかかり、軽く応じ技を決められてしまう。しかし、相手は下がらなかった。少しずつだが間を詰めてきていた。勝負は一瞬との直感に、颯太は溜まった唾を飲み込むことすらできなかった。コートからは打ち合いの音も踏み込みの音も聞こえてこない。両者は樋口の第一声以来、まだ声すら出していなかった。突如、相手が床を大きく打ち鳴らした。その場にいた多くの者がびくりと体を反応させたが、樋口は動じなかった。むしろ、そこで生まれた隙に付け込もうと、また少し間を詰め、次の瞬間――跳んでいた。

 跳んだのは樋口だけではなかった。ほとんど同時に、相手の左足も地面を蹴っていた。どちらの竹刀も相手の面に向かっていた。樋口の竹刀が一瞬早く相手の面を捉えた。しかし、同時との判定だった。赤白どちらの旗も挙がらなかった。惜しい。息をつき天井を仰ぎ見たその瞬間だった。応援だけでなく相手の気もまた一瞬切れたのを樋口は見逃していなかった。中途半端な間合いで止まってしまった相手に、小手をくらわせ身体を引き、一気に場外まで飛び出していった。

「小手あり」

 長槻側の拍手が爆発した。颯太もまた取りつかれたように両手を打ち鳴らした。コート上には見事に三つの赤い旗が舞い、揺れている。くすんだ赤だが、颯太の目にそれは眩しかった。もう随分長い間味方の旗が上がるのを見ていなかった気がする。その後、両者共に惜しい打ちは何本かあったものの決めきれず、そのまま試合時間の五分が過ぎ去った。樋口の一本勝ち。長槻はどうにか一矢報いた形となった。


 試合後、樋口が一本取った時の騒ぎが嘘かのように、長槻の部員は皆一様に無口だった。ひっそりと壁際に佇み、目の前で繰り広げられる白陵の試合をぼんやりと見ていた。

「しっかり見とけよ。機会はそう無いんだぞ」

 豊が何か言うたびに、一瞬皆の背筋は伸びる。しかし集中は長くは持たなかった。颯太はできるだけ何も考えないようにし、白陵の剣道を網膜に焼きつけようと必死になった。確かに強豪校の試合を間近で見られる貴重な機会だった。しかし、気づけば気持ちはさっきの試合に戻っている。無力感と得体の知れない喪失感にさいなまされている。

「無理があるんだよ」

 ざわと背筋がうずいた。声は右手から聞こえた。隣の樋口の、その向こう。誰の声か、見なくてもわかった。

「邪魔なんで消えてください」

 樋口の声は至って静かだった。沈黙が後に続いた。しかし、樋口の向こうに尚気配はあった。離れる様子はない。樋口もまた、微動だにしない。口を開く様子もなかった。動きの無い二人に、わけのわからない引力が颯太の首を右に引っ張っている。颯太は試合から目を離し、思い切って彼を見た。そして言っていた。

「無理があるって、何がです?」

 新藤は少し驚いた表情を見せ、しかしすぐに元の余裕ある笑顔に戻って言った。

「無理があるんだよ。たった二人で強くなろうなんて」

 話し始めこそ颯太を見ていたが、すぐに樋口に目を移していた。話の中のもう一人――甲斐はトイレに立っていていない。

 樋口は答えなかった。

「でも、最後勝ってくれて、流石にほっとしたよ。君まで負けたらどうしようかと」

「邪魔」

 樋口は短くそう言った。

「ん?」

 新藤は言ったが、樋口はもう答えなかった。

 白陵の選手が見事な面を決めた。歓声が上がる。新藤は少しの間そちらに顔を向け、何か思案するように目を細めた。つられて見ただけで試合に興味は無さそうだった。そのまま樋口を見ずに、彼は言った。

「二人でうちに来いよ」

 その場にいた全員が反応した。それは長槻の部員だけに限らなかった。近くにいる者全員が聞き耳を立てている。しかし、樋口に動じた様子はない。じっと試合に目を向けている。コートの中では二人の選手が鍔迫り合いの最中だった。硬直した試合に審判の「やめ」がかかった。

 樋口が口を開いた

「頭悪いんじゃないですか」

「なぜだ? 利害は一致してるんだ。清竜に勝つために俺らは――」

「引き抜くのに、わざわざみんなといるとこで声をかけるところが、馬鹿だって言ってるんですよ」

「うちの先生にも言われたよ」

 颯太ははっと彼の顔を見た。樋口・甲斐の引き抜きは新藤の戯言ではなく、今暁としての意思ということだろうか。

「でも、こそこそやるのは卑怯すぎるだろ」

 新藤の言い分に、樋口は苦笑した。

「堂々とやれば卑怯じゃないとでも」

「そうは言わないけど、背に腹は変えられない。知っての通り、清竜は今年谷間の世代だ。チャンスなんだ。でも、悲しいかな、それでも尚俺たちとはかなりの差がある。インターハイまでに縮められる差ではない。ただ、君たちが来たら別だ。おそらく戦力は逆転する」

「そうですかねえ」

 割り込んできたのは、いつの間にか戻ってきていた甲斐だった。

「桜塚相手にあのザマですよ」

 すぐ後ろに、桜塚の控えが何人か立っているが、甲斐に気にする様子はなかった。

「実質一人しか練習相手がいないんだから、しょうがないよ。大事なのは今の実力じゃなくて資質――」

「さっきから失礼だな」

 樋口がついに苛立ちを露わにした。「練習相手は五人いる。先生いれたら六人ですよ。合同練習だってしょっちゅうやってるんです」

 そして、そろそろ消えてくださいと言った。

「君たちは中学時代ずっと加速度的に成長してきたんだ。周りが似た速度で成長してるから気づかないだけで、どんなにスランプに見える時だってそうだった」

 最後の説得に入ろうとするかのように新藤は少し早口で言った。

「君たちはいわば強い風に背を押されながら走ってたんだ。そのとてつもない速さの追い風の中で、君らはその風をたぶん体感できていなかった。それは勝手に吹いてる風じゃない。君たちを含めた清竜中学の部員全員の、人並み外れた努力によって吹く風だ。でも、その部分の努力を君たちはたぶん努力とは見ていなかった。吹いてる風に乗っているだけで進む距離を、たぶん成長とは認識していなかった。それ以上にいかに進むか、その部分だけを努力と捉え、プラスされた距離の分だけを成長と捉えていた」

「何が言いたいんですか」

 樋口はうるさそうに言った。

 まあ、もうちょっと聞いてくれよ――そう言って新藤は続けた。

「高校に入り、自分の身を運んでくれる風はぐんと弱くなった。でもそもそも意識の外にあった風だ。君たちは風が弱くなったことを漠然としか感じていなかった。成長や努力というのは、本来絶対的な物なんだけど、さっきも言ったように相対的にしかなかなか実感されない。だから、ひょっとして今日まで、君たちは自分が物凄く成長したと感じてたんじゃないか? そして、それは優しく緩やかに吹く弱小校の風の中から見れば、きっと正しいんだろう。でもね、高校になって更に勢いの増した猛烈な風の中を走る俺たちから見たら――」

 彼は反応を窺うように樋口を見た。

「弱くなってるよ。しかも急激にね」

 辺りは静かだった。周りの話し声は、もう無くなっていた。雑音が消え、試合にまつわる音だけが異様にクリアに聞こえる。目前で竹刀と竹刀ががちゃりとぶつかり、白陵の背中で赤いタスキが小さく揺れた。

 ――ずいぶんはっきりと言う。

 でも、正しいのだろう。今の話は別に強豪から移ってきた二人にのみ当てはまる話ではない。その他の部員は、元より「ゆるやかな風」の中にいた。だから、新人戦のビデオを見て今の今暁・桜塚を想像した時に、皆がプラスしていたのは地元校のゆっくりとした成長量だった。そして勘違いは起こった。

「何をごちゃごちゃややこしいことを」

 樋口は吐き捨てた。

「要はいい環境にいた方が成長しやすいってことでしょ。そんなことみんな知ってますよ」

「環境の差を努力で埋めるのは無理だよ」

 新藤は言った。体温を感じさせない冷たい声だった。

「ずいぶんあっさり言ってくれますね。いい環境にいなければ変えようと、他県の学校にまで合同稽古のお願いに行ってるのに」

 事実だった。豊は県内の高校に見切りをつけ、県外に声をかけ始めていた。

「そうした地道な努力はいつか花開くだろう。積み重ねた経験や築き上げた人脈は必ず長槻の財産になる」

 ただし――と新藤は樋口に叩きつけた。

「五年や十年のスパンで見た場合にね。今すぐには無理だ。君たち、まだ一年生だからたっぷり時間があるとでも思ってるんじゃないか。でも、よく考えてみろ、君たちに残された時間は、後一年半なんだ。一年半なんてあっという間だよ」

「そんなに待つつもりなんてないですよ。今年の夏には結果を出します」

「結果?」

「インターハイ出場です。インターハイ県予選の団体戦、今年は長槻が優勝します」

 失笑を漏らしたのは、新藤だけではなかった。空気の揺れでわかった。後ろに立っていた桜塚の二人組も笑っていた。いや、それ以外も。颯太はかっと頭に血が上るのを感じた。体ごと桜塚の二人に向けると、目が合った方を思いっきり睨みつけた。相手はひるまなかった。彼はもう片方と顔を見合わせ、また少し笑った。颯太はしばらく彼を睨みつけていたが、相手はもう目を合わせてこようとはしなかった。桜塚から目を離し、他の者にも目をやった。そして、自分たちを見る彼らの目に、大きく分けて二種類あることに気づいた。一つは嘲笑、そしてもう一つは、憐れみだった。颯太は屈辱的な思いで、元へと向き直った。

「どちらにしても一回練習を見に来てくれよ」

 新藤はもう真剣な顔に戻っている。

「いいんですか、新藤さん。俺たちと練習すると王様の逆鱗に触れますよ」

 新藤はふっと小さく笑った。

「意外と鈍感だな君も。こんなに堂々と誘ってるんだ、気づかないかな」

「なんだよ」

 樋口は苛立たしげに言った。

「俺らと清竜は、もう切れてんだよ」

「なぜ?」

 思わずといった様子で、樋口が訊いた。

 新藤は話し始めの言葉を探すように、少しの間沈黙した。

「この前、清竜との合同稽古があったんだ。いわゆる清竜会じゃなくて、うちと清竜二校だけでの合同稽古。その稽古の後、そこの顧問が言ったんだよ『強くなった。さらに他を引き離したな』って。凄くないか、この言葉? 強くなって差が開くのは、清竜以外の高校とだろ。つまり、この発言の中に、清竜は含まれてないんだ。要するに言葉の外に『うちは別格だけど』ってのが入ってるわけだよ」

 樋口が少し笑った。

「清竜らしくていいじゃないですか」

「ああ。別にそれに腹が立ったとかそういうことじゃないんだ。その言葉を一瞬違和感無く聞き流していた自分に、危機感を覚えたんだ。心のどこかで自分も清竜とその他を分けて考えてたんだ。まずいと思った」

「それで自立ってわけですか」

 樋口の言葉に馬鹿にした響きはなかった。

「ああ。いつまでもあの王制の下にいたら、本格的に腐ってしまうと思ったんだ。反対意見の方が多かったけど最終的にはみんな呑んでくれたよ。今の状態が異常ってことはみんな気づいてるんだ」

「僕と甲斐を入れる話もその時に?」

 新藤はうなずいた。

「ここで頂点取らないと、ただ転落していくだけだからね。頂点とって、現状を一気に壊してしまおうって話になった。今年はチャンスだ。清竜は谷間だし、幸い助っ人の目処もある」

「幸いというか前提だ」

 突然聞き覚えのない声が割って入った。新藤の後ろに背の高い男が立っていた。垂れネームには葛城とある。今暁の副将だった。

「それが無けりゃ、清竜切るなんて暴挙許すわけがない」

「勇み足でしょ。助っ人は入らない」

 樋口は言った。

「今日わかっただろ。共倒れだぞ」

 葛城は低い声で言った。

「倒れるのはそっちだけですよ」

 葛城の目つきが変わった。そのままじっと射るような目で樋口を見つめていたが、やがて新藤の肩をつついて言った。

「試合だ。行くぞ」

 新藤はちらりと葛城に目をやり、手の中の紙切れを樋口に押しつけた。

「俺の連絡先だ。一回練習に来い。決めるのはそれからでも遅くないだろ」

 樋口は受け取らなかった。

 新藤の手が颯太の方に伸びてきた。気づけば手の中に紙を押し込まれていた。そのまま小走りで去っていこうとした彼だが、ふと北村の前で足を止めると、彼の手にも紙切れを押し込んだ。そして去って行った。北村はすぐに紙を開いた。番号の羅列が一瞬見えたかと思うと、すぐに手の中に隠れて見えなくなった。紙を握りつぶした彼の手は怒りで震えていた。颯太も自分が渡された紙切れを開いた。新藤の名前の下に、十一桁の番号が並んでいる。これだけ堂々と引き抜きに来られて、流石にニコニコとはしていられなかった。小走りで去っていく二人の背中を睨みつける。彼らは何事もなかったかのように今暁の他のメンバーに混ざり、試合の準備に取りかかった。


 その後、今暁はあれほど強かった桜塚をなんなく下し、そのまま当たり前のように優勝した。


        十二


 部室の窓から、風に揺れる道着が見える。色あせ、ほとんど白色になったその道着は、まともな状態でかかっているにも関わらず、颯太には今にも吹き飛ばされそうに見えた。三月の風は冷たい中にも芯に温かさがあると例年感じてきた颯太だったが、今年はそう思えなかった。窓の外に吹く風は、依然いまいましい冬の風でしかなかった。

「練習前に先生から話がある」

 豊が部室内を見回して言った。はいと答えた皆の声に北泉以前の活気は無かった。颯太自身元気よく答えられた自信は無かった。何度か稽古に訪れている沢木も部員の士気が落ちていることを敏感に察知しているはずだった。話というのはそのことだろう。颯太は外に干してある道着を取りに行くためにのっそりと腰を上げた。

 沢木はまず全員に一冊ずつノートを配った。表紙には「剣道ノート」と印刷されたシールが貼られている。ノートを渡された時、颯太は沢木の手に釘付けになった。その筋張った手は颯太の知っている沢木のものではなかった。彼の急激な痩せ方については豊も気づいていて、検査に行くことを何度も薦めていると話していた。

「今日からつけて欲しい」

 全員にノートが行き渡ったことを確認すると沢木は口を開いた。

「練習を通じて感じたことを書き留めるのが目的だけど、それ以外のことも書いていけないわけじゃない。俺は高校生の時からつけてるんだが、剣道が全く出てこない日もわりとある。でもそういうのも、後から見たら、この時はこういう考えだったんだなって結構参考になるんだ。二月に入ってから、君たちが悩んでいると頻繁に感じるようになった。今の気持ち、それから、近い将来必ずやってくるであろう君たちがこれを乗り越える時の気持ち、書き留めておけば後できっと役に立つ」

 沢木の話はそれだけだった。

 その夜、別々に学校を出た玲奈に、駅のホームで偶然会った。

「先生の話、おかしいと感じたこと無い?」

 彼女は颯太を見つけると近寄ってくるなりそう言った。

「おかしい?」

「うん。話に試合が全く出てこないでしょ」

「試合のための練習はしないっていうのが先生の方針だから、自然なことなんじゃないですか。関心が無いんでしょう」

 玲奈は小さく首を振った。

「私もそう納得してた時期はある。でも、それじゃあ説明のつかないことがたくさんあるの。今日とか明らかに変だったよ。二月に入って部の雰囲気が変わったことには気づいてるのに、その原因が北泉だと、わからないはずないよね?」

 颯太はうなずいた。

「それなのに、あえてそこに触れないような話し方をしてた。先生っていつもそうなの。試合の話どころか、試合があったことや試合って単語すら避けて話す。もし関心が無いんだとすれば、そこまで徹底して避けないはず」

 玲奈はきっぱりとそう言った。

「じゃあ、むしろ?」

 彼女はうなずいた。

「関心はきっと、かなり強い」

「でも、関心が強いことと試合の話を避けることにも、繋がりは見えないんですが」

「たぶん、気持ちが暴走するのを避けてるんじゃないかな」

「どういう意味ですか」

 颯太が訊ねると、あくまで想像だけどと前置きして彼女は言った。

「勝ちへの気持ちが先行しすぎて桑原先生みたいになってしまいそうだとか、歯止めが利かなくなって教え子を潰してしまいそうだとか、そういう暴走する自分に対する不安があるのかもしれない。だからあえて自分を試合から遠ざけてるんじゃないかなあ」

「気持ちを抑えてるって感じることあります?」

 彼女はうなずいた。

「それは確かだと思う。私もそうだったからわかるの。高校に上がってマネージャーとして引き続き剣道部に関わると決めてからも、気持ちが暴走するのを怖れて、しばらくは剣道の話をすることを避け続けてた」

 何があって辞めることになったのか、聞く勇気はなかった。話の流れから考えれば、辞めた理由はきっと悲しいもので、話すのが辛い内容のはずだった。

「私が剣道を辞めた理由、ケンちゃんに聞いてない?」

 颯太がうなずきかけた時、足下を振動させ、特急が滑り込んできた。風が吹きつけてきて、彼女は顔をしかめた。電車が止まり、斜め前でドアが開いた。颯太は電車へと踏み出しかけた足を止めた。玲奈の降りる駅に特急は止まらない。

 ――乗らないの?

 玲奈が目で問うのを気づかないふりでやり過ごし、特急のドアが閉まるのを待った。彼女は何も言わずに乱れた髪をかきあげた。

「中学の時、背中に怪我をしてね、激しい運動ができなくなっちゃったんだ」

 思わず息を呑んだ。玲奈の口調は軽かったが、それが却って彼女の辛さを表現しているようだった。彼女は続けた。

「間抜けな話なんだけど、階段から落ちちゃったんだ。滑り台を滑り降りるように、段の数だけ背中打って、その中の一撃が『あ、これはまずいな』って思うくらい重たくて、落ちてからしばらくは声も出なかった。まずいって言っても、まさかここまでまずいことになるとは想像してなかったんだけど」

 颯太は黙ってうなずいた。

「剣道見てて辛いなら剣道部になんて入らなければいいんだろうけど、やっぱり離れられなかったのよね。でもショック療法としては良かったのかもしれない。おかげで今では剣道と向き合うことに抵抗は無くなったし、こうして剣道の話だって気軽にできるわけだから」

 彼女の台詞の語尾は、やがて走り込んできた電車の音に取って変わった。目の前でドアが開き、乗客が四五人車両から降りてきた。乗る人と降りる人の入れ替わりが一段落すると、彼女は言った。

「私のさっきの想像が当たってるか外れてるかはわからないけど、そういう複雑な思いが、たぶん先生にもあるんだと思うよ」

 ふと、沢木が試合に関心が無いということに疑問を唱えている人がもう一人いたことを思い出した。あれは誰だったか。昨夜見たドラマへと移っていった玲奈の話に適当な相槌を打ちながら、颯太は考えた。思い出したのは、彼女が電車を降り、車内に一人残されてからだった。

「どうして試合に関心があると思うんだ」

 翌日の放課後、部室へ向かう道を歩きながら颯太は樋口に訊いてみた。

「桑原を凄い目で見てたんだ」

 樋口は辺りを見回す素振りの後、続けた。

「北高との練習試合で桑原が、長槻は純粋な公立校ではないって言ったの覚えてるか。まるで仮にインターハイ県予選で優勝したとしてもお前の力ではないと、先生に釘を刺すように」

 颯太はうなずいた。桑原のその言葉に樋口は激しく噛みついたのだ。小馬鹿にして笑ういつもの彼とのギャップに驚いた記憶がある。

「あの時、先生がとてつもなく暗い目をして桑原を見ていたんだ。先生が実は強く結果を求めてるんじゃないかって思ったのはその時だよ。そして、俺は声を上げた。ここで言い返さないと、先生が酷く傷つくんじゃないかっていう予感がしたんだ」

「そういうことか。不思議だったんだよ。お前があんな場面でムキになってるのが」

「最初は俺も笑ってたんだよ。それが先生の顔を見て気分は一変した。先生はまるで鋭い指摘を受けたかのように顔を強張らせていて、俺は何がなんでも長槻が純粋に先生のチームだってあの場で言い張らないといけないと思ったんだ。最初こそ自分の判断が正しいか半信半疑だったけど、先生の顔が明るさを取り戻していくのを見て、確信できたよ」

 部室では豊が一人で着替えていた。

 北泉以降、長槻の空気は大きく変わった。皆口数が減り、あれだけ勢いのあった北村すら沈み込んでいる日が多くなった。そんな中、豊だけは例外だった。キャプテンとして立て直さなければならないという責任感からだろうか、北泉前よりもずっと激しく闘志を体ごとぶつけてくる。それに応えようとして応えられないもどかしさから、颯太は豊といる時間を居心地悪いものに感じることが多くなっていた。

「すぐに着替えて準備」

 豊はそう言い残して部室から出ていった。

 その三十分後、颯太は地獄の中にいた。息が上がりきったと思ってからもう何分も経過していた。颯太は一刻も早く休ませて欲しかった。呼吸が苦しい。朦朧とした視界に汗が混じり、目の前にいる者のほとんど輪郭しか捕らえられなかった。そのぼんやりとした人型の陰から叱咤の声が飛ぶ。豊の声だ。だが、颯太には、その声と人型の正体とを結びつけられるだけの思考力が、もう残っていない。小手に重い打ちが入る。続いて脳天にも衝撃が加わり、颯太は体勢を崩した。再び小手を打たれ、竹刀を取り落としそうになる。豊の竹刀が振り上げられるのを見て、面を守ろうと咄嗟に竹刀を上げた瞬間、胴を打たれ、続く面・体当たりで後ろに吹き飛んだ。ファイトの声がかかる。早く立ち上がろうと思うが、疲労の溜まった足が言うことをきかない。胴が掴まれ、引きずり起こされた。そして、再び連打が颯太を襲う。何本もの打ちを浴びた後、ふとそれの途切れる瞬間があった。相手の小手に隙が見えた。決めればここから解放される。颯太は思い切って跳んだ。竹刀が小手に当たろうとした瞬間、そこにあったはずの小手が消えていた。そして、頭への衝撃が続いた。小手抜き面――罠にかかったのだ。

「簡単に跳ぶな!」

 豊の怒声が聞こえた。はい。そう怒鳴りながら颯太は再び豊にかかっていった。解放されたのはそれから五分が経ってからだった。肩で息をつきながら、颯太は束の間の休憩をむさぼった。目の前では樋口と甲斐が激しい打ち合いを繰り広げている。

 豊には小山がかかっていった。すぐに豊の怒声が聞こえた。

「もっと頭を使え」

 小山は正面打ちを放ったところを、迎え突きで応じられ、後ろに吹っ飛んだ。

「頭を使えと言ってるだろうが」

 その稽古の間、小山は床を転がされ続けた。

「そんなことじゃ次も負けるぞ。いいのか」

 豊の声は感情を制しきれず、少し震えているように颯太には聞こえた。今にも地団駄を踏みそうな様子だった。彼はそれくらい必死だった。それに応えたいと思うのだが、どう足掻いても自分の気持ちは奮い立たなかった。颯太以外も一緒なのだろう。がむしゃらになっているのは豊一人で、その姿は周りから浮いているようにすら見えた。

「全然ダメだ」

 部活後の部室で豊は綿タオルを畳に投げつけた。

「お前ら。いいのか、このまま負け犬で?」

 豊は苛立たしげに周りを見回した。皆が小さく首を振った。モチベーションを上げたいのに上がらない歯がゆさに、誰もが自分自身に苛立ちを感じている。

 そこから一ヶ月間の豊の奮起は、目を見張るものがあった。北泉と同じ轍は踏まないと、豊は練習内容を次々と改良していった。そこには、試合に直結する効率的な練習に特化しようという意思がみえた。彼の孤軍奮闘する様子に、沈み込んでいた颯太たちもやがて、引きずり上げられるようにして熱を取り戻していった。豊によって力ずくで回復させられていったのだ。長槻は北泉前の状態を取り戻したように見えた。

 それが錯覚だと颯太が気づくまでに、そう長くはかからなかった。

 春休みに入って二日目のその日、颯太は小山に片手突きを試そうとしていた。狙いを定めて飛び出し、決まったと思った瞬間だった。颯太の打ちは下に向かって強く弾かれていた。竹刀を持っていかれないように力を入れたが無駄だった。最後まで抵抗するように粘っていた薬指と小指も引き剥がされ、支えを失った竹刀はなす術なく床の上でバウンドした。

「目線が喉元に落ちるから、バレバレなんだよ」

 竹刀を拾いに屈んだ颯太の頭上から、小山の声がした。突き放すような、どこか冷めた言葉だった。

「今の岸谷君のレベルでそんな技ばっかり打ってたら、剣が歪むよ。もっとも、こんなことは僕じゃなくて豊さんが言うべきなんだけど」

 疲れた声をしていた。上座側では豊と北村の、下座側では樋口と甲斐の、活気に満ちた稽古の声がしている。颯太はふと、祭りの会場から少し外れた空間に、突然迷い込んでしまった時のような、心細い感情に襲われていた。今の長槻の方向性に小山が合っているはずが無いことに、颯太はそれまで思いを馳せることがなかった。

「心配だ」

 帰りに颯太が誘ったグリーンスパイスで、小山はうつむいていた。目の前の皿にも長く手をつけていなかった。

「前は北村さんが暴走しても豊さんが歯止めになってた。でも、今はどこまでも行きそうな気配がある。このままだと、遠くないうちに、うちは北高になる」

 颯太は返事をできないまま黙っているしかなかった。小山の発言は見当違いなものではなかった。北高になるはずがないと今や断言できない自分がいた。そのような空気は確かにあった。カレーを食べている間、二人の間にほとんど会話は無かった。そして、小山は終始辛そうな顔をしていた。豊さんのために何かがしたい――小山の絞り出すような声が頭の中で鳴り響いている。その想いが無ければあるいはずっと楽なのかもしれなかった。合わないから剣道は別の場所で続ける――そんな単純な選択を選ぶことができるのかもしれなかった。正しい剣道への想いと豊に恩返ししたいという想い、相矛盾する想いを抱えて、小山は今、身を引きちぎられそうな苦しみを味わっているに違いなかった。颯太が食べ終わると同時に小山は席を立った。小山の皿にはカレーがまだ半分以上残っていた。食べないのかと目で訊ねたが彼は黙って首を振りレジに向かった。それから二人はずっと無口だった。颯太は別れる間際になんとか一言声をかけた。

「うちはまだ北高じゃないだろ。だから、頑張ろうよ」

 その颯太の言葉に、小山は表情こそ曇ったままだったが、それでもかろうじてそうだねと呟いた。

 小山が休部を宣言したのは、それからわずか数日後、春休みが終わり、新学期がスタートした初日の朝だった。

「明日から樋口と甲斐は夜、俺と追加練習な」

 朝練直後の部室で豊が突然言った。

「そんなこと、許されるわけがないだろ」

 北村が呆れたように言った。剣道部は学校で許されているぎりぎりの時間まで練習をしている。これ以上練習時間を延ばすことは不可能なはずだった。

「学校は使わない。場所は俺が子供の頃に通っていた道場だ」

 豊はそう言うと、「江坂先生の了承は得ている」と樋口と甲斐の方を向いた。

「今日の夜、挨拶に行く。来れるか」

 はいと二人は口を揃えた。そして、その後、一瞬、戸惑いを確かめ合うかのように目配せし合った。それを見て、颯太は彼らもまた今初めてこの話を聞いたのだと知った。

「なぜそういうことを俺に相談せずに決めるかな」

 北村が苛立たしげに言った。

「悪い。でも賛成してくれ。インターハイに行くためには、今言った三人だけは清竜と互角にやれる必要がある」

「他の者はどう足掻いても無駄だと」

「そうだ」

 揚げ足を取るかのような北村の言葉にも、豊は動じずにそう答えた。「清竜とまともにやりあえるようにはならない」

「まあ、確かにな」

 北村は道着の紐を揃えながら、小さく苦笑した。そして樋口と甲斐を見やった。

「お前らは大丈夫なのか? オーバーワークで怪我したら意味ないぞ」

「大丈夫です」

「問題ないです」

 樋口と甲斐が答えた。

「なんか僕らはいらないって言われてるみたいですね」

 小山がぼそっと呟いた。

「そんなことは無いよ」

 豊は首を振った。

「清竜戦でもその他の試合でも、全員の力が必要なのは言うまでもない」

「今無駄だって言ったばかりじゃないか」

 北村が笑った。

「まともにやり合うようになるのは無理だって言ったんだ。まともじゃない方法を使えば、勝つのは無理でも取られる本数を減らすことはできる」

「まともじゃないっていうのは?」

 北村が訊いた。

「色々あるだろう。なんのために嫌な思いをして北高と練習してるんだよ」

「なるほど。つまりは、北高になれと」

「極端に言えばそういうことだ。体操やフィギュアスケートじゃないんだ。美しさを追求しても勝ちには繋がらない」

 まずいなと思う間もなく、颯太のすぐ隣で畳が大きな音を立てた。

「豊さん。つまらない冗談はやめて下さい。本気で言ってるんですか」

 振り下ろした右手を畳の上で震わせながら、小山は悲痛な声で言った。

 豊は小山から目を離さず言った。

「本気だ。練習量の少ない公立校が勝つためにはあのスタイルしかないはずなんだ」

 小山の口が何か言葉を押し出そうと小さく震えた。しかし、いつまで待っても彼の声は聞かれなかった。

「そういう意味で北高との合同稽古は増やしていく。できるだけ彼らのやり方を吸収するんだ」

 小山は泣き出しそうな顔で豊を見ていた。

「そんな顔をするな、小山。北泉で思い知っただろ? 俺らがインターハイに行くには手段を選んでいられないんだ」

「そんなの本末転倒です。試合結果だけにこだわるのは、先生の意思にも反する」

「いや、そんなことはない」

 颯太は顔を上げた。豊がこれを否定するのは初めてだった。沢木は試合を重視しないと、北村が北泉前に言った時も、それに対して樋口が疑問を口にした時も、豊は何も言わなかった。その彼が今はっきりと否定したのだ。あれから豊は、父親の何かに触れたのだろうか。樋口が見たというあの暗い目の意味を、彼はもう知っているのかもしれなかった。

「そういうやり方をするのはインターハイまでの期間限定ですか」

「それはお前ら次第だ。この夏で俺らは引退する。それ以降のやり方に俺は口を出せない」

 豊は静かに言った。

「では、僕はそれまで休部します」

 部室の中の時間が止まった。呼吸の音すらない完全な静けさがやってきた。誰も身体一つ動かさなかった。やがて、登校する生徒の笑い声や、ボールが壁に打ちつけられる小さな音が聞こえてきた。

「わかった」

 一時間にも二時間にも感じられるような気詰まりな時間を破ったその言葉が、豊の答えだった。

 颯太は耳を疑った。冷たすぎるからというだけではない。レギュラーが一人抜ければインターハイ出場の可能性は大きく下がる。それなのにあまりにもあっさりし過ぎている。それとも、実は影響はほとんど出ないのだろうか。小山が先ほど指摘したとおり、本音のところでは小山程度の戦力は『必要ない』ということなのだろうか。

 小山は力なく立ち上がると、部室のドアに手をかけた。

「インターハイ頑張って下さい。応援はしてます」

 そう言い残して部室を出て行った。かける言葉もまとまらないままに、颯太は外に飛び出していた。

「小山」

 呼んでも彼は振り返らなかった。颯太は走り寄り彼の肩を掴んだ。ぼんやりとした目で小山は颯太を見た。

「岸谷君、残念だよ」

「極端に言ってるんだよ、豊さんは。まさか長槻を北高にするつもりなんてない」

「どうしてそう言いきれるの」

 小山の目はまっすぐに颯太を見ていた。颯太が答えられずにいると、彼は言った。

「豊さんは北村さんに洗脳されてる。このまま突っ走るよ、あの人は」

 豊の今の状態が北村に影響されてのものだとは考え辛かった。小山も本当は気づいているのだろう。ただ、認めたくないのだ。自分が誰よりも尊敬している者が、自分の意思で、思いもかけない方向に進もうとしていることを。

「僕が抜けたら岸谷君もレギュラーだ。頑張ってよ。インターハイ県予選は応援に行くから」

 小山はそう言い残すとくるりと踵を返し、歩き始めた。そして、颯太が何を言ってももう振り返らなかった。

「戻ってきたし、再開しようか」

 颯太が部室に戻ると豊が言った。

「冷たすぎないか、豊」

 北村が言い、玲奈が困った表情でうなずく。

「そうかもしれない。でも、インターハイに出るためなら、俺は本当に手段を選ぶつもりはない。だから、小山にとっては部にい続ける方がきっと辛いはずだ」

「豊、一体どうしたんだよ」

 北村が改めてというようにその質問を出した。

「前からずっと変わってないよ。インターハイに出るためにできる限りのことをやる。それだけだ」

「いや変わった。前のお前なら、全員で目指すことを第一に考えたはずだ」

「そのスタンスでインターハイ出場を目指せると思っていたからだ。それが甘すぎる考えだとこの前の北泉で思い知った。俺らに手段を選んでいる余裕は無い。全てを犠牲にしてインターハイに賭けるか、それとも仲良く手を取り合って、インターハイを目指している幻想に酔うか、そのどちらかだ」

 筋は通っているが、そこにいつもの豊の説得力は無かった。泳ぎ気味の目は誰の顔も見ていない。言葉も、まるで問い詰められているかのように途切れ途切れだった。

「話してみろ、豊。何があった」

 北村が再度訊いた。

 しばらく間があった。

「私的事情から、どうしてもインターハイに行かなければならなくなった」

 豊はぽつりとそれだけを言った。彼に集まった全員の目は、しかし、そこから全く動かなかった。そんな半端な答えでよしとする空気は無かった。皆の視線に気づかぬふりを決め込んでいた豊だったが、やがて観念したかのように吐き出した。

「団体戦でのインターハイ出場が先生の悲願だと、最近知った。夢を叶えてやりたい」

 玲奈の言葉は正しかったのだ。沢木は試合への想いを押し殺して、部の指導を行ってきたのだ。そして、豊は最近、そのことを知った。豊を変えたのは北泉の敗戦ではなく、父親の影響だったということだ。

 しかし、颯太は、話にはまだ続きがあるのを感じ取っていた。父親の想いを彼が知ったということと、今の思いつめた表情との間には、まだ大きな隔たりがある。早く続きをと思う一方で、逃げ出したくなるような嫌な感覚があった。その隔たりを繋ぐものとして、思い当たるものが無いわけではなかった。静かな時間が流れ、それは呟きのような彼の言葉によって破られた。

「親父が病気だということがわかった。重病だ。余命は半年」

 誰かが息を呑むのが聞こえた。

 豊の手は固く握りしめられ、太ももの上で微かに震えていた。沢木のことを皆の前で初めて親父と呼んだことにも気づいていないようだった。

「半年……」

 玲奈の呟きが宙に溶けて消えた。

「ああ。半年だ」

 豊が惚けたように言った。玲奈はうつむいて何も答えず、北村は窓に視線を逃がし、そのまま動こうとはしなかった。樋口は豊の胸あたりを見てじっとしており、甲斐は交差させた指に目を落としていた。落ち着き無く視線をさまよわせていた颯太も、最後には北村と同じように窓の外に目をやった。豊の話の途中から、皆、颯太と同様何かしらの予感は感じ始めていたはずだった。急激に痩せ始めた沢木と、夢を叶えてやりたいと絞り出す豊の口調からそれを連想するのは容易かった。

 いつまでたっても誰も口を開こうとはしなかった。やがて授業開始十分前の予鈴が鳴り、豊以外は皆、救われたように立ち上がった。豊は動く気配を見せなかった。最後に部室を出た颯太がしばらくして後ろを振り返っても、部室のドアは中に豊を残したまま開く気配を見せなかった。一足のスニーカーがその前に綺麗に並べて置かれている。


        十三


 部室に残った豊は、ベンチに座ったままぼんやりとしていた。

 自分の私的な感情で部を動かしている。その罪悪感が胸の中にうずまいている。しかし、元々目標はインターハイ出場で、手段を選んでいられない以上、父のことを抜きにしてもこういう道を選ばざるを得なかったはずだという思いもある。

 ――言い訳だろうか。

 そうかもしれなかった。以前の自分であれば、北村の言うように、全員で目指す道を追求していたかもしれなかった。考えてわかることではない。どう足掻いてもあの頃の自分の感覚は取り戻せない。自分は父の本心を知ってしまい、父はあと半年で死ぬ。

 遠くで授業開始のチャイムが鳴っている。豊は一瞬腰を浮かせかけたが、一時間目は休むことにして、さっきまでよりも深くベンチに腰掛けた。

 父が死ぬ。

 何度も反芻して消化したはずの事実だったが、まだ完全には受け入れられていないようだった。先程、父の余命を口にして以来、腹の底が冷たく重かった。動けず、壁のひび割れをぼんやりと目でなぞっているうちに、彼の心は知らず知らずのうちに父の病気を知った北泉直後のあの日の食卓へと帰っていった。


 余命半年――

 夕食の席で唐突に発せられたその言葉はあまりに軽かったため、豊は一瞬何か聞き違えをしたのかと思った。しかし、平静を装う父の顔からは、抑えきれない苦悩の色が滲み出ていて、息子にそれが聞き違いではないと教えていた。母は質問を拒絶するように下を向いている。

「そうか」

 何に納得したわけでもないが、豊は口の中でそう呟いた。心の中はしんと静かだった。自分の体の中に透明度の高い湖が一面に広がっているような気がしていた。落ちてきた巨大な岩を飲み込んで、水面は完全に静止していた。さざ波一つ立っていない。

「何かしたいこととか、して欲しいこととかある?」

 豊が訊くと、父は静かに笑った。

「今までどおりに接して欲しい」

「わかった」

 彼は早速その願いを聞き入れることにした。

 いつものように食器を流しに運ぶと、いつものように自分の部屋に戻った。気持ちは本当に静かだった。ただ、これがいつまでも続くはずがないことは、わかっていた。だから、近いうちに確実に訪れる大きな衝撃が怖かった。太平に見える水面を破って巨大な水柱が立ち上るのを、できるだけ遅らせたいと思う気持ちと、来るならいっそ早く来て欲しいという気持ちが同居していた。

 ベッドに横になる。天井を見上げてじっとしていると、水面を目指して上る気泡のようにいくつかの場面が沸き上がってきた。

 最初の場面は施設にいた頃の記憶だった。

 飴玉の乗った手が五歳の豊の前に差し出されている。彼はおずおずとそれに手を伸ばした。その手の主の目を、彼はまだまともに見ることができていなかった。見ようとはするのだが、口元まで視線を上げ、すぐに下に戻してを繰り返していた。しっかりと顔を見る勇気がどうしても出てこなかった。この相手が特別なのではない。ほとんど誰に対しても豊は多かれ少なかれ怯えながら接していた。

『ありがとう』

 蚊の鳴くような声でそう言うと、薄い緑色の飴玉を口に入れた。色で半ば予想がついていたが、それはメロン味だった。その味が、豊は大嫌いだった。甘ったるい香りが鼻をつき、ベタベタした液体が口の中を覆っていく。豊はそれでも何も言わずに飴を舐め続けた。大人に遠慮ばかりしている子供だった。相手の気分を害することを、極端に恐れていた。

 飴をくれた男とそれから何往復か会話を続けた。男の隣には彼の妻らしい人がいて、彼女にも何度か話しかけられた。豊はうつむきながら、無難な答えを返していた。

 ふいに男がしゃがんで、豊と同じ目の高さまで下がってきた。合ってしまった目を、豊は慌てて逸らした。男は優しい目をしていた。温かな眼差しがまだ自分に注がれているのを感じて、豊は体を固くした。

『ごめんな坊主。飴嫌いだったか』

 突然のその言葉に、豊は怒られたかのように、ぎくりと身を縮こまらせた。彼は隣の女性からハンカチを受け取り、手の上に開いて豊の前に差し出した。『出したらいいよ』

 その優しい声音に引き出されるようにして、豊の口は意志とは無関係にその飴を吐き出していた。そして自分でも何が何だかわからないうちに、声を上げて泣き出していた。

『我慢してたんだね。ごめんな』

 男は優しく豊の頭を撫でた。飴が不味かったから、舐めているのが辛かったから泣いているわけではない。ただ突然ぷつりと緊張の糸が切れたのだった。豊は何も言葉を発しないまま、大きな声で泣き続けた。男は『悪かった』と言いながら豊を抱き寄せた。抱き寄せられ、泣き続けているうちに、豊は彼の胸の中で眠っていた。

 それが沢木智則――父との初めての出会いだった。

 父は剣道によって気の小さな豊を鍛えようとした。強くなれと、彼はことあるごとに言った。豊は父の思い通りの人物になるために毎日一生懸命だった。誰に対しても物怖じしない、自分に自信のある人間。それが父の語る理想の男であり、事実父もそういう人間だった。豊の毎日は、父を真似する毎日だった。それが父の理想に近づく最も確実な方法だと信じていた。何かに迷った時は、父ならどうするかを考え行動した。そうしているうちに、やがて父の考え方は豊に吸収され、父の理想と豊のそれに差は無くなっていった。剣道については特にそうだった。父の目指している剣道こそが、剣道の正しい姿だと信じてそれを追い続けてきた。

 父への初めての隠し事は、裏山の平地のことだった。そこで眠ってしまい夜遅く家に帰った豊を、父は厳しく責めた。どこに行っていたと頬を張られた。それでも隠し通していられたのは、裏山の存在を知られるとその不思議なパワーが無くなってしまうと信じていたからというのもあるが、父の目にどこか肯定的な色が混じっていたというのが大きかった。口を割らないという強い意志を見せた息子に、彼は苛立ちと同時に満足も感じていたのだろう。

 無敵だと思っていた父の怯えた目を見たのは小学五年の春だった。その日、豊は自宅に友人を招いていた。原因は思い出せないが、そこでその友人と軽い口論になった。最後には、彼は豊の部屋を飛び出し、「こんなボロい家二度と来るか」という捨て台詞とともに出て行った。何か言い返そうと部屋を出た豊の前に、父がいた。その父が、見たことがないほど小さく見えた。一瞬豊と合わせた目を逸らし、そして弱々しく笑った。そのうち新しい家を俺が買ってやる。豊はそう言っていた。その瞬間から、父に立派な家を買ってやることが豊の夢になった。

 家を買ってやる――。

 ベッドに横たわった豊の頭の中で、その言葉が反響した。あと半年で父は死ぬ。家を買うなどというのは、もう無理な夢だった。拾ってくれた親に恩返しをと思う時、豊はいつも言い訳のようにその夢を持ち出してきた。勉強や剣道を一生懸命頑張ることがそれを実現するための最良の手段だと言い聞かせ、自分のことばかりに取り組んできた。振り返ってみれば、肩たたき一つしてやったことは無かった。

 頭にかっと熱いものを感じ、気づけば豊は部屋を飛び出していた。

 そこに父がいた。

 母は勢いよく部屋から出てきた息子に、階段を登り切る一つ手前の段で立ちつくしていた。彼女がどんな顔をしているか確認する余裕は無かった。狭い廊下の壁に父を押しつけるようにして豊は迫っていた。

「やり残したこと、何も無いわけないだろ。あと何十年もあると思ってた人生に、突然幕下ろされて」

 父は穏やかな表情を崩さなかった。その目に、裏山の平地を隠し通した息子に見せた、あの優しい色が混じっているのを感じた。父が自分の行動にうなずいてくれている気がして、押しつける手には更に力が入った。

「何かあるだろ。言えよ」

 何一つ恩返しらしきものをできていない焦りが、体の中に渦巻いていた。豊は父の胸ぐらを掴まんばかりに迫っていた。父にかける声がだんだん大きく荒くなっていく。自制することはできなかった。

「何かあるだろ!」

 何度目かにそう言った時、父の目に一瞬逡巡が宿った。豊は自分がそれに気づいたことを気取られないように迫り続け、少なくとも口よりは多くを語りそうなその目に神経を注いだ。悲壮感に満ちた豊の顔を映し出し、その瞳は揺れていた。しかし、豊を見てはいない。その目は未だ逡巡を孕み、ここでは無いどこかを見ている。唇が何かを伝えるように一度微かに動き、閉じた。豊は辛抱強く待った。

 ふと、父の目に別の色が宿った。見覚えのある色だった。見たのがついさっきだったようにも、遠い昔だったようにも思えた。何かに迷った目をうっすらとその色が覆っている。瞬きが二度瞳を隠したが、その後現れた目に、それは二度とも残っていた。いつもの強い光ではなく、弱く情けない色だった。父の見てはいけない部分を見てしまったような、居心地の悪い思いが豊の胸に芽生え――そして、思い出した。『家がボロい』という豊の友人の言葉を聞いた時に、彼はこの目をしたのだった。自信に溢れた強い父が、子供の言葉一つで目を泳がせ、まるでいじめられっ子のように卑屈に笑った。あの時の父が今、目の前にいた。

 ――ひょっとして俺に怯えているのか。

 豊は思わず少し離れた。父ははっとしたように豊を見た。目の中から迷いや卑屈さが一瞬で消え、いつもの強く穏やかな目になっていた。それを見た瞬間、今のが自分の思い違いだったと確信した。そして、引き出せそうだった父の言葉を聞くのに失敗したことも同時に知った。父は少し体を引き、余裕のある笑みを浮かべた。

「特別にして欲しいことなんて何もないよ」

 言い切る強い口調に、豊は逆に、何かあるのだと確信を深めたが、それが何か知る術はもう無かった。

「わかったよ。おやすみ」

 母の方も見たが彼女の視線は床に向けられており、しばらく待ってもそのままだった。

 部屋に戻り、ドアを閉める。そして、つい十分前と同じようにベッドに仰向けになった。収穫はあった。やり残したことが一つあることだけは、少なくともはっきりした。天井との間の空間に、先ほどの父の顔が浮かんでいる。家をボロいと言われた時のあの卑屈な目がこちらを見下ろしていた。手がかりはその目以外にない。それが手がかりではなく答えそのものだという可能性はあるのだろうか。新しい家を建ててやる――あの時一度口にして以来誰にも言わずに温めてきた長年の夢は、父の夢でもあったのだろうか。そうであれば、そう簡単に口にできない理由もわかる。不可能なことを言っても自分を困らせるだけだから――。だが、直感はそれを否定していた。父は明らかにその願いを口にすることを躊躇していた。不可能な願いであれば躊躇いも何も無いはずだった。

 豊は一階へ向った。水が欲しかった。ダイニングに入り、何気なく食卓に目をやった。そして、思い出したことがあった。あの何かに怯えるような卑屈な目を、自分はもっとずっと最近見ている。

『昔からの知り合いなの?』

 この部屋で桑原との関係を聞いた時、父はやはりその目をしていたのだ。

 食卓につきグラスについだ水を飲んでいると、部屋の外、階段の上の方で小さな物音がした。それは遠慮がちにゆっくりと階段を下りてきた。足音で母だとわかった。わずかな躊躇の気配の後、豊の背後で戸が優しく開かれた。

「母さん」

 彼女に背を向けたまま、豊は呟いた。母は何も言わずに食卓を回り込み、彼の向かいに座った。

「ずいぶん急だね」

 豊は少し目を上げて母を見た。

「そうね」

 今日になってから、ようやく母の顔をまともに見た気がした。目の下を、まるで長年積み重ねてそうなったかのように濃い隈が覆っている。

「いつわかったの」

「一週間くらい前」

「検査、いつの間にか受けてたんだ」

「そうみたいね」

 豊はコップに残っていた最後の一口を飲んだ。コップが食卓に置かれる音が狭い部屋に小さく反響した。蛍光灯の明かりが小刻みに震え、食卓の上では母の指がテーブルクロスのラインをなぞっていた。その手に、呟きがこぼれ落ちた。

「本心だと思うよ。変わらずに接して欲しいのよ。わたしがお父さんの立場でもきっとそう思うもの」

 そうかもしれなかった。しかし、豊はもう見てしまっていた、何かを訴えようとして動いた唇を、何かを見つめて揺れた瞳を――。父は確かに何かを豊に告げようとしていた。それを無視することは、もうできなかった。

「父さんと桑原って何かあるの」

 豊は呟くような口調で、そう訊いた。その問いが聞こえなかったかのように、母は再びテーブルクロスをなぞり始めた。指先を見つめる彼女の目がしかし、一瞬、動揺で揺れたのを豊は見逃してはいなかった。そして、自分が思いがけず正しい手がかりを掴んでいたことを、さらにはその先の答えを、母がおそらく持っているのであろうことを、知った。

「学生時代はあまり仲良くなかったみたいよ。今は知らないけど」

 母は嘘をつけない人だった。その母を追い詰めたくなくて、豊は慎重に言葉を押し出した。

「今もいいようには見えない。何かきっかけがあったの」

 母はうつむいてまだテーブルクロスをいじっていた。痛いほどの静寂が続いた。台所の冷蔵庫の重低音が部屋に満ちていく。三十秒ほど待って限界だと思った。

「わかった。言わなくていいよ」

 豊は中身の空いたコップを掴むと台所の流しに運んだ。

「ごめんね。でも、約束だから」

 豊の背を母の声が追ってきた。

「ううん」

 豊はそっと息をついた。約束したのであれば、母は話さない。彼女から聞き出すことは不可能と言うことだった。

 テーブルに戻ると彼女は、疲れたように首を垂れていた。

「寝よう」

 母の肩に手を置いた。薄い布を通して骨張った肩の感触が伝わってきて、その瞬間、申し訳ない気持ちが急激に沸き上がってきた。父を気遣い、母を支えなければならない自分が、父を問い詰め、母を困らせている。テーブルのへりを掴んで立ち上がる母に手を貸し、一緒に二階へと上りながら、それでも豊はなんとかして父のやり残したことを知らなければならないと思っていた。

 最初の数日、豊はおとなしくしていた。それとなく父や母を観察し、振る舞いから何かを読み取ろうとした。その結果得られたのは、確実に減っていく残り時間に対する焦りだけだった。そして、再び父や母を問い詰めるようになった。言い方がきつくならないようにと気をつけているつもりでも、気がつけばいつも声が大きくなっていた。母はうつむき、父は余裕ある態度で微笑む。あの日、目に宿った逡巡の色はもはやどこにも見られなくなっていた。

 そうして何もわからないうちに一日一日が確実に過ぎていった。そして、八日が過ぎた。

 その日、父と母が共に家を空け、豊は一人残された。彼は机に向かい、物理の問題集を解いていた。集中はできていなかった。どうしても左側の壁に意識が行ってしまう。両親を乗せた車のエンジン音が聞こえなくなってから、ずっとそうだった。壁の向こうは両親の寝室だった。

 シャーペンを置き、首を回す。何度か浮かしかけては戻していた腰を上げ、廊下へと向かった。そうしながらも、自分が最後の一線は越えない確信はあった。すでに何度かチャンスはあったのだ。その度に廊下には出るものの結局何もせずに戻ってきていた。

 廊下に出て、両親の寝室を見て思わず足を止めた。ドアが細く開いていたのだ。その僅かな隙間から見える範囲に目的のものが、まるで豊に見せようという何かの意志が働いたかのように、置かれていた。自分への言い訳を用意する暇もなく、豊は気づいた時にはドアを開き、寝室に足を踏み入れていた。ベッドの隣の小さな机に置かれたそれを手に取り、次の瞬間――彼はあっさりと一線を越えていた。

 父の剣道ノートに全て書かれているのではないか――。そう思いついたのは、自分のノートをつけている時だった。父の気持ちが未だにわからないことへの焦りを書き連ねているうちに、父もまた自分の思いをノートに書いているかもしれないと思ったのだ。部員に剣道ノートを配った時、剣道に無関係なこともたくさん書いていると、確かに話していた。

 ノートは新しくしたばかりのようだった。最初のページの日付は二月一日、北泉大会前に皆でビデオを見た日だった。


二月一日

 豊から今日の報告を受けた。昼休み、豊は昔と今の自分達を比較したビデオを皆に見せたらしい。自分達の成長具合を見て自信をつけるという意図自体は成功したようだが、それが吉と出るか凶と出るか私には判断がつかない。この県の強豪校は、新人戦から加速度的に成長するきらいがある。おそらくうちと彼らの差は縮まるどころか広がっている。北泉で負けることはほぼ確実だろう。そこからの奮起が呼ぶ奇跡を期待してきたが、自信が強すぎると崩されたときにシュンとなる可能性がある。

 一つ収穫があった。小山がチームの勝ちに徹すると明言したことだ。岸谷は素材はいいが、今はまだ代表には荷が重い。小山を使わざるを得ない状況だ。小山が一本負けでこらえられるようになれば、今よりはだいぶ楽になる。


 ページをめくる。続くページのうち、ただの記録のような熱の入っていない文章は読み飛ばし、気になる部分だけを拾っていく


二月十三日

 北泉大会当日。桑原に会う。話す時、目の中にはいつものように嘲りがあった。私を軽く見て馬鹿にしているのが手に取るように伝わってくる。腹が立つのは私自身どうしても彼に強い口が利けないことだった。視線が交わると咄嗟に反らし、気づけば彼に話を合わせて愛想笑いを浮かべている。高校を卒業した時の倍以上の年齢になってもまだ、あの頃の関係性を引きずる自分が悔しくてならない。いちいちねちっこく絡んでくるこの男にいつか吠え面をかかしてやりたい。後生大事に抱え込んでいるあの勲章を色褪せさせてやるしか方法はないのだろうか。

 予想通りだが、長槻は桜塚に完敗した。生徒達は、新人戦の時の悔しさとはまた別の呆然とした表情を浮かべていた。まさか負けるとはといった顔だった。これが尾を引かず、インターハイに切り替えていけることを祈る。

 長槻の試合後、今暁のキャプテンが樋口と甲斐に転入の勧誘をかけてきたらしい。本人達に行く気は全く無いようで安心した。もう二月だというのに随分と無茶なことを仕掛けてくる。それだけこの二人には価値があるということだろう。彼らを擁するうちがインターハイに出場するのも、決して夢物語ではないと教えられた気分だった。


 正味二日分を読んだだけで、豊の頭はすでに混乱していた。別の者が書いた日記のように思えた。書いたのが別の者であれば、何も問題は無い。生徒の勝ちを願う普通の想いが書かれているだけだ。しかし、これを書いたのは試合への無関心を貫き通してきたあの父だ。たったこれだけ読んだだけでも試合に強い関心を持っていることがわかる。

 そう考えている間にも豊の指はページを繰り、目は字を追っている。

 北泉大会から日を追うごとに、日記の内容は重くなっていった。それまでもちらほらあった体調に関する内容が日ごとに量を増していく。最初の検査で不審な影が見つかってからのスピードは速かった。精密検査、告知――余命宣告。

 まず母に説明があり、父はその後に担当医から直接告知を受けたようだ。病院とのその後の話し合いは、余命をどう過ごすかに焦点が当てられた。父の希望は唯一つ、できるだけ今まで通りに過ごしたいというものだった。そして、それは尊重された。日常生活を自力で送れる間は入院はせず、できるだけ病院外での生活を長くしようという方針に決まった。仕事もしばらくは続けられると書かれている。

 そして、父の余命を豊が知らされた日のページに差し掛かった。豊に余命を告げるまでの描写は丁寧に書かれていたが、豊に詰め寄られるシーンあたりから筆致や文体が激しく、感情的になっていった。


 豊の手が私の服を掴み、気づけば壁に押しつけられていた。胸を圧迫する手は小刻みに震えている。息子から初めて浴びせられる怒声は荒々しい中にも底に流れる悲しさがあって、私は思わず彼を胸に抱きかかえたくなる衝動にかられた。

 して欲しいことを言えと何度も繰り返す豊が愛おしくて仕方がない。何も無い、できるだけ今まで通りに過ごしたい――心の底から言う私の言葉も耳に入らない様子で、ぐいぐいと私を壁に押しつける。荒々しいはずの怒声が泣き声に聞こえ、胸を押しつけているはずの腕が、私にしがみついているように弱々しく見える。手負いの犬のように鳴く彼を見て、正直に言って私は少し嬉しかった。

 余命のことを豊に話そうと決めてから、頭の中には、私の母が亡くなった時の彼の反応が絶えずちらついていた。自分の祖母が亡くなったことを知らされた時、おばあちゃん子だった豊は一言「そう」とだけ呟き、顔色一つ変えなかったのだ。その後も全く普段通りだった。もちろん、気丈に振る舞っているだけで内心には悲しみが渦巻いているのだとわかってはいた。それでも、それを見て少し寂しかったのだ。

 あの時と同じように、やはり豊は何事もなかったかのように振る舞うのだろうか――余命が半年しか無いことを彼に告げながら、私はそのことばかりを気にしていた。そしてやはり、豊は取り乱さなかった。全く動じる様子もなく、いつも通りの豊だった。今まで通りに接して欲しいと言っておきながら勝手だとは思うが、そんな豊の姿を見て心臓の真ん中を冷たい風が通り抜けていくような感覚に襲われていた。普段は全く考えることのない繋がらない血にまで考えがおよび、寂しさと同時に自己嫌悪すら抱えながら、さっさとダイニングを後にする息子の背を目で追っていた。

 その矢先のこの行動だった。何かして欲しいことは――という言葉以上に、彼が取り乱していること自体が、私にとっては感動的なことだった。

 何かあるだろ!

 何度目の怒声だっただろうか。その言葉を初めて真っ正面から受けた私は一瞬脳がゆさぶられたような感覚に陥った。医者に余命を告げられてから、なんとその瞬間まで、真実、私の頭の中からその願いは離れていたのだ。それまではほぼ毎日思い描いていた夢だったというのに。こんな惨めな夢を死ぬ直前にまで見ていることが情けなくて、自分でも気づかないうちに頭の奥の引き出しに仕舞っていたのだろうか。いずれにしても豊に言えるはずのない夢ではあった。そうわかってはいても、いつの間にか頭の中には、亡霊のように桑原の顔が浮かんでいる。そして、彼と顔を合わす度にそうなるように、私の精神は高校時代に飛んでいた――この男に不必要に怯えていた、一度口にしてしまった一言を死ぬほど後悔していたあの高校時代に。いや、高校時代だけではない、その後悔は未だに私の中にある。あの一言がなければあの暗い毎日は無かったかもしれない……。私の生活の中に、『目を見て話せない相手』というものを作らずに済んだかもしれない……。

 まるで取り返しのつかないことのように過去のせいにしている。卑怯な考え方だと十分わかっている。取り返しなど本当はいくらでもつく。今でも、もし勇気を出して彼と対等以上に接することができれば、そんな昔の一言などその瞬間に、過去に口にした何万もの言葉に埋もれた何の変哲もない言葉へと変わってしまうはずなのだ。でも、そんなことは不可能なのだと、私は知っている。何故なら、私は桑原に会う機会があれば、いつもその淡い期待と共に、逃げずに出て行き、そして毎回失敗してきたのだから。だからこそ、私はいつしか教え子を使って自分の劣等感を解消するというあの情けない夢を、毎日見続けることになったのだから。


 そこからのページはほとんどが日常の記述に留まっており、流し読みに近い形で読み進めていたが、残りページも後わずかとなったところで豊はページをくる指を止めた。ここまで読み進めてほぼ見えかけていた父の夢が、そこにはっきりと記述されていたのだ。


 余命がいっそもう少し短ければ諦められるのに。あるいは選手たちの実力がもう少し低ければ――。長槻がインターハイ県予選で優勝する光景ばかりが私の頭の中で渦巻いている。ずっと縋り付いてきたその夢を叶えて、想像の中の私はしかし、晴れ晴れしい顔で勝利を祝う選手たちではなく、一人の男の顔ばかりを凝視している。高校時代からずっと続いてきた強者と弱者の立場がこの時ばかりは逆転するのだ。彼のプライドの元である『公立での決勝進出』は『公立での優勝』を前に、あっという間に色褪せてしまう。彼は肩を落とすだろうか、それとも精一杯の強がりで余裕ぶった態度を取るだろうか。いずれにしても私はその時初めて相手よりも大きな余裕を持って彼と対峙することができると思う。そして、その瞬間ばかりを夢想して私は毎日を生きている。実現する可能性がゼロでない分、その夢想は後に辛いものを残す。


 ついに父の夢に到達した。そして、その夢は自分がこれまで追い続けてきたものと変わりはないはずだった。それにも関わらず、豊の胸は鉛を飲み込んだように重かった。ずっと漠然と遠くにあったインターハイが、急に絶望的な距離だけ離れた先に、はっきりとした輪郭を持って現れたような感覚があった。だが、豊の心はもう決まっていた。それが父の夢なのであれば、これからの全てを剣道にぶつけ、何が何でも叶えて見せる。しかし、その具体的な手段を練る前に、豊はそもそもの発端――つまり、高校時代に父と桑原との間に何があったのかを見ておきたいと思った。

 探すのに、ほとんど時間はかからなかった。試しに開けた押し入れの上段に、父の記録は大量の束となって並んでいた。左奥の束の一番上のノートのナンバーが1だった。父が剣道ノートをつけ始めたのは高校からだから、とりあえずその束をチェックすればよいだろう。三十冊ほどのノートの束を押し入れの奥から引きずり出し、床に下ろす。ノートの束は紐テープで固く括られている。豊は押し入れの中の紐テープの玉を一つ掴むと、部屋の中の痕跡を消し、ノートの束と共に自室に戻った。これで両親が帰ってきても、ばたばたしなくて済む。自室で束を括り、隙を見て返しておけばいいのだ。万一戻す前に押し入れを開けられても、ノートの束が一つ、紐テープの玉が一つ無くなったことに気づくことはないだろう。

 部屋に戻り、ハサミを入れると紐が四方にはらりと落ちた。一冊目だけ手に取ると、豊はベッドに座り最初から目を通していった。剣道部に入部して一ヶ月ほどが経った高校一年生の五月から、日記はスタートしていた。最初は剣道に関わることしか書いていなかったが、夏休みに入った頃から普通の日記に書くような内容が増えていった。桑原の名前自体はかなり早い段階で出てくる。剣道部新入生で唯一の経験者であり、新入部員のリーダー的存在だったようだ。夏休みが終わるまで読んでも、まだ父と彼との間に確執は見えない。ただ、桑原は派手な目立つタイプ、父は地味で目立たないタイプで、正反対の性格をしていたということはなんとなく伝わってきた。

 二学期になり、突然現れた名前があった。河島志保――母の名前だった。二学期から保険委員で一緒になったと書いてある。それをきっかけに話すようになったようだ。頻繁にでは無いがコンスタントに名前が出てくるようになった。最初にあったイベントらしいイベントは、彼女が父に腕時計を買ってくるというものだった。父には当時、どうしても手に入れたい腕時計があった。当時流行っていたその腕時計はどの店でも売り切れで、手に入れるのが非常に困難だった。父が友人とそれについて話していたところ、偶然耳にした彼女が、それなら家の近所の店にまだ残ってたから、お金をくれれば週末に買ってきてあげるよと言ったのだ。父は喜んで彼女に貯めていたお金を渡した。週明け、彼女は約束通り腕時計を持って現れたが、時計と一緒に渡されたレシートを見て父は驚いた。店の住所は県外だった。どうしてこんなところで? 父は訊ねた。近所の店ではもう売り切れてしまっていたのだと彼女は言った。わざわざ別の店にまで探しに行かなくても、そう言ってくれればそれでよかったのに。父がそう言うと、彼女は照れたように答えた。

 約束したから――。

 この時の印象が強かったのだろう、家庭科の時間を使って行われた「褒める能力を鍛える」という授業で彼女とたまたま同じ班になった時、父は彼女の好きなところとして『約束を守るところ』を挙げている。

 この段階ではまだ父の彼女に対する特別な想いというものは書かれていない。初めてそれらしき感情が記載されるのは、二冊目のノートに入ってからだった。

 父は彼女と帰り道が同じだった。二人とも部活があるため、帰る時間が同じになることは少なかったが、その日は学校を出たところで偶然一緒になったようだ。帰り道での世間話の中で、彼女が桑原の話を出した。桑原の名が彼女から出るのはそれほど不自然なことでは無かった。彼らは三人とも同じクラスだったし、父と桑原は同じ剣道部だった。そしてその日、桑原はクラスであることをしきりに自慢していた。

『一年でレギュラーなんて凄いよね』

 彼女は言った。そう。その前日に桑原は一年生ながらレギュラーに抜擢されたのだ。

『ああ、そうだね』

 答えながら、父は自分が激しく嫉妬していることに気づいた。そして、この時、彼は初めて彼女への想いを意識したのだった。

『あいつの家行ったことある?』

 気づけば彼は一度だけ行ったことのある桑原の家について面白おかしく話して聞かせていた。

『あいつの家、建ってるのが不思議なくらいのオンボロなんだ――』

 そこまで読んで、豊は一度目を閉じた。今読んだものを自分の中で整理する時間が必要だった。父の夢に関する、これは大きなヒントになるはずだった。豊が詰め寄った時の、父のあの怯えを含んだ表情を、彼は過去に二度見たことがある。一度目は小学生時代、同級生が帰り際に『こんなボロい家、二度と来るか』と言い捨てて帰った時、二度目は父に桑原を昔から知っているのか訊ねた時だった。そして今、家がボロいという言葉と桑原、二つのキーワードが同時に現れた。偶然であるはずがなかった。しばらく考えてみたが、ノートに記されたこの会話と、父の目に浮かんだあの怯えの色を繋ぐものは思い浮かばなかった。そして、そのまま平穏な高校生活を映し出して、一つ目のノートは終わった。二冊目も単調といっていい調子で日記は続いていく。母――河島志保との関係にも特に進展は見られず、平凡な日常の繰り返しだった。父が多少桑原を煙たがっていることは読み取れるが、まだ大きな確執の原因になるようなことは出てこなかった。

 それはノートの丁度半分過ぎの辺りで突然現れた。

 その記述自体『それが始まったのは突然だった――』という書き出しから始まっていた。その日の記述を読み終わった後、豊は一旦ノートを置き、窓の向こうに目をやった。

 日は傾きかけ、西の空を赤く燃え上がらせていた。その火が消え落ちる頃には、自分の中の衝撃も薄れ、幾分冷静になれているような気がして、豊はとりあえず何も考えずに赤く染まった山際を眺めていた。

 燃える夕日を山が溶かしきった頃、まだ冷めやらぬ頭をそのままに、豊はもう一度そのページに向かった。


十一月八日

 それが始まったのは突然だった。確信になったのは今日だったが、始まりはもう少し前になる。一昨日の段階で、クラスの様子は確かにおかしかった。もともと桑原のグループとは付き合いが浅いから気づきにくかったが、今から考えるとかなりあからさまだった。普段は注目を浴びることの無い自分になぜか視線が集まっていた。嗜虐と嘲りの入り混じった不快な視線が――。自分の格好に変な部分があるのか一日中気になっていたが、結局何が問題なのかわからないままだった。

 翌日の昼休み、桑原の方から何やらオレの悪口らしきものが聞こえてきた。内容はよく聞こえなかったが、ところどころに聞こえる沢木という言葉がやたらと耳についた。その後に決まって起こる不快な笑いも。それでもその日まではまだオレと桑原との、あるいはもう少し広げてもせいぜい桑原のグループとの間の問題だった。それが今日の放課後までには、もうほとんどクラス全体が面白がって流れに乗りオレのことを馬鹿にするようになっていた。

「なんでズボン、夏服なんだよ」

 五時間目の後の休み時間、桑原がどうでもいいことを声高に言い、笑った。どうでもいいことな上に、冬服のズボンは美術の時間に絵の具で汚してしまい、代わりに夏物を穿いているのだという事情を彼は知っているのだ。何人かが桑原の笑いに追従して笑っている。その中に、わりと仲がいいと思っていた奴が混じっていてオレは酷くみじめになった。女子も笑っていて、オレは恐る恐る河島さんを盗み見た。彼女は笑っていなかった。それどころか軽蔑そのものの目で桑原を睨んでいた。そして、オレの視線に気づいてこちらを見ると、一瞬ひどく申し訳なさそうな目をした後、すぐに俯いてしまった。

 彼女は桑原のこの行動の理由を知っている。そして、それに対して責任を感じている。そこから導かれるのは、たった一つの結論だった。

 一週間ほど前、帰り道で河島さんと一緒になった時、オレは一度行った彼の家について、彼女に面白おかしく話して聞かせた。オレのしたその話が河島さんを通して桑原に伝わったのだろう。桑原も壁と床の継ぎ目に出来た割れ目を指して「雑草が生えてきたことがある」などと笑っていたから気にしていないのだと思い話のネタにしてしまったが、自分で言う分には笑えても人に言われると腹が立つことなどよくあることだ。オレの言い方も、それこそ悪口に沿わない軽いものだったから、河島さんも告げ口のつもりもなく桑原にその話をしたのだろう。しかし、そのことが、ここまでさせるほどに、彼を怒らせたのだ。


 遠い日の午後、家をボロいと言われた父の見せたあの目の意味するところを、この日、豊は初めて正しく知ったのだった。今にして思えば、傷つくというよりも、ほとんどうろたえていたあの目を見て、おかしいと感じるべきだったのかもしれない。あの時、父はただ自分の人生を変える引き金となった言葉を思い出し、あのような表情を浮かべたのだ。それを勘違いして、父に家を買ってやることを見当違いの夢として、豊はこれまでを生きてきたのだった。

 衝撃の大きさを宥められないままに、豊はノートに戻った。

 三日をかけて、父の剣道ノート全てに目を通した。

 そこには桑原から逃れるように小さくなって毎日を過ごす父の高校生活があった。唯一の救いはその後、母――河島志保への告白が実り、交際がスタートしたことだが、それすらも、桑原に見つかることに怯えながらの、びくびくしたものになった。しかし、桑原にばれないようにしたいと彼女に言うのは父のプライドが邪魔してできなかった。結果、交際の事実は桑原に伝わってしまう。父がそのことを知ったのは交際して初めて迎えた彼女の誕生日だった。その日、父は彼女と食事に行き、そこでプレゼントを渡すことにしていた。部活後、早く帰りたくてうずうずしている父をよそに、桑原が同学年だけで食事に行こうと言い出した。皆がそれに賛成する中、父は、一人今日は無理だと切り出した。

『どうしてだよ』

『ちょっと用事があって』

『用事ってなんだよ』

『別になんだっていいだろ』

 桑原のねちねちとした絡みを振り切ってその場を後にした父の背中を、小さな呟きが追ってきた。

『誕生日だからかな』

 思わず振り返った父の前に、敵意に満ちた蛇のような目が二つ浮かんでいた。

 ――知られていたのだ。

 逃げるようにしてその場を後にした父の頭の中で、その言葉が反響し、その日のデートは終始心ここにあらずといった状況だった。あいつは必ず二人の仲を引き裂きに来る。その恐怖で食事の味は何一つわからなかった。

 その予感はすぐに現実の物となった。桑原は彼女のいる時を狙って、父をいたぶるようになった。毎日のように彼女の前で恥をかかされ、彼のノートはどんどん荒れていった。桑原を殺してやると雑な字で書き殴られたページもあった。

 大学に進み、桑原の毒牙から逃れた父に、一つの考えが生まれる。一言でいうとそれは強くあらねばならないという想いだった。弱者に高圧的な態度を取るのは論外だったが、強者に強く弱者に優しいというのも、父の考える理想の男とは違っていた。どんな相手に対しても気負わず等しく接するというのが、彼のポリシーだった。父の大学生活は、そういう人間になるためだけに捧げられたと言っても過言では無かった。大学三年生の夏、様々な種類の人と交わり自信をつけていた父は、桑原の待つ同窓会にも、ほとんど臆することなく出かけていくことができた。しかし、会場の居酒屋に入った瞬間、父の心はあっという間に高校時代に引き戻されていた。居酒屋の中で繰り広げられたのはほとんど高校生活の再現そのものだった。桑原とはろくに目も合わせられず、へらへらと追従笑いすら浮かべてしまう始末だった。深く傷ついた父は、改めて自分の甘さに気づき、よりストイックに自分を磨く毎日へと戻っていった。

 それ以降、長い間剣道ノートに波は無かった。高校教師になり、母と結婚、養子に豊を迎えるなど、イベントはたくさんあったが、そこには平穏で幸せな毎日が綴られていた。再び桑原が登場するのは、今から五年前の四月だった。彼が北高に赴任してきたのだ。初めて桑原と対面した時、父は大学三年生の時のあの気持ちを再び味わうことになった。心は高校時代に返り、どうしたって桑原と対等に対峙することはできなかった。それは以降の五年間、何度努力してみても同じことだった。いつしか父の目は、桑原が何かある度に持ち出してくるインターハイ県予選決勝進出に向けられるようになっていった。これを破れば桑原も今のような大きな顔をできない。そして、今度こそ桑原よりも優位な気持ちで彼と話すことができる。そう考えるようになっていった。そして、そんな個人的な動機で生徒を動かすことは、父には絶対にできなかった。だから、父は以降、試合について口を挟むことを一切辞めるようになった。ただ心の中だけでインターハイ県予選の優勝、すなわちインターハイ出場を願い続けた。

 そして今に至る――。

 まもなく一時間目が終わろうとしていた。部室の中で豊はまだベンチに座り、壁を見ていた。父のために何が何でもインターハイ出場を目指すと決めてから、豊にはこの部の何もかもが、ぬるく見えるようになっていた。もっとがむしゃらに、どうしてインターハイだけを見れない、自分に向かってそう吠えた時の北村の焦りが、今の豊には手に取るようにわかる。そう、あの時の自分は全然がむしゃらではなかった。北村は不満で仕方がなかっただろう。改めて見返してみれば、やれるのにやっていないことがたくさんあった。

 時間が無くて皆に見せられなかったオーダー表を鞄から取り出し、畳の上に敷いて眺めた。インターハイ県予選用のオーダーだった。小山が一時的にとはいえ去るのは残念だが、このオーダーを見る前だったというのはせめてもの救いだった。インターハイに出場できる可能性をわずかでも作り出すために、見直せるものは全て見直した。そのうちの一つがオーダー、選手の順番だった。

 豊の視線の先には補欠欄から滑り込んできた一つの新しい名前がある。

 岸谷。

 純粋に剣道の実力で比較すればまだまだ小山の方が上だった。しかし、相手の攻撃をかわし続けるという視点に立った場合、これは逆転する。それに、颯太には何かを持っていそうな雰囲気がある。

 ――これを見て颯太はなんと言うだろうか。

 そう考えて豊は薄く笑った。本当に久しぶりに笑った気がした。


        十四


 放課後、部室に入った颯太は、それを見て何かの冗談かと思った。先に来ていた樋口がいたずらっぽい視線をよこしてくる。

「どういうことですか」

 ベンチの豊に問うた。

「そのままだ」

「そのままと言っても……」

 畳の上に敷かれたオーダー表の補欠欄には小山の名前があった。自分はレギュラーに昇格している。小山が休部すると言った今、彼の代わりにレギュラーに昇格するのは当然のことだったが、問題はその位置だった。颯太は自分が小山の代わりに次鋒に入るのだと信じ込んでいた。それがなぜ――。

「なぜ、僕が大将なんですか?」

「実力だよ」

 樋口が言い、その隣で豊が笑った。

「そう実力だ」

 戸惑い、どこに向けていいかわからない視線を再びオーダー表に落として、颯太はおかしいのがそこだけでは無いことに気づいた。大将の自分の横には副将北村がいる。それ以外にも中堅樋口、次鋒豊、先鋒甲斐と、メンバーのポジションが総入れ替えになっている。

「なんなんですか、このシャッフルは?」

 その答えは、玲奈を含めた全員が揃ってから、道場の中で聞かされた。

「この県で優勝するには清竜に勝つことが絶対条件になる」

 豊は清竜のオーダーが書かれたホワイトボードの前に立って言った。

「樋口、甲斐。今のままで佐久間と的場に勝てるか」

「厳しいです」

 樋口が答えた。臆面もなくネガティブな言葉が出せるのは、この先の話の流れをすでに聞かされているからだろう。

「佐久間と的場は、うちの県じゃ別格だ。この二人には、樋口や甲斐といえど、そうそう勝てない。ただ、この二人に勝つのが清竜に勝つための必須条件なのかと言えば、そうでもない」

 颯太はやっと今回のオーダー変更の意図が見えてきた。

「前三人で決めるということですね」

「その通り」

 豊は颯太を見て微笑むとホワイトボードに書かれた清竜のオーダーと比較するように、長槻のオーダーを書いた。清竜は、大将・副将・中堅・先鋒・次鋒の順に強い。今回のオーダーは、相手の三弱にこちらの三強を当てるというものだった。

「清竜は二強と三弱の差が非常に大きい。前三人できっちり片をつける」

「ただ――弱いと言っても、少なくとも桜塚の大将よりは強い。朝話したように夜練を取り入れて四六時中稽古したとしても、守りに入られれば前三人で確実に勝てるとは限らない。だから、お前ら二人には、最初から二本取られるつもりでいてもらっては困る」

 豊は北村とその隣に立つ颯太を交互に見ながら言った。

「まさか勝てというつもりか」

 北村が言った。

「前三人が二敗したらな」

 豊が笑った。

「それは冗談として、もし前三人のうち一人でも引き分け以下の者がいた場合、お前ら二人にみすみす二本取られて戻ってきてもらうわけにはいかない。なんとしてでも守りきってもらわないと。だから、北村と颯太には今日以降、守りの練習に徹してもらう。それ以外の練習はほぼしない」

 豊は樋口と甲斐に目を転じた。

「俺ら――特にお前ら二人の相手は徹底的に守りに入る可能性が高い。わざわざお前ら相手に勝ち星を取らなくても、後ろで取れば楽なわけだからな。だから、俺らは逆に守りを崩す練習を中心に行っていく」

 そして、豊は全体を見渡した。

「インターハイ県予選の直前、北村と颯太は、俺らから五分間逃げ続けられるようになっていなければならない。そうじゃないととてもじゃないが佐久間・的場の攻撃をかわし続けることはできない。逆に俺らは北村と颯太から確実に二本取れるようになっていないといけない。そうじゃないと守りに入った清竜にはとても勝つことはできない」

「矛盾の話そのままね。その両方が達成される状態なんてあり得ない」

 玲奈が笑った。

「そうだな。でも、どちらもそういう気持ちでいなければならないのは確かだ」

「いわば僕らと北村さんたちとの勝負ですね」

 甲斐がこちらを向いた。

「勝つぞ、颯太」

 北村がばんと背中を叩いた。

「はい」

 その日の稽古から、練習内容は一変した。颯太たちには十五分程度の基本技の練習以外、攻撃の練習はほとんど無くなった。とにかく守る。ただ受けるだけでは相手にいいように攻められるので、技が途切れたところをすかさず打つテクニックも必要だった。安易に受けるなと言われてきた前日までと百八十度変わった練習について行くのに必死で、小山ときちんと話ができたのは、彼が休部を決めた日の三日後の昼休みだった。

「道場で振ったらいいじゃないか」

 体育館の横のピロティで小山は竹刀を振っていた。

「休部してるのに、使えるわけないだろ」

「たまに卓球部じゃない奴らが卓球してるぞ」

「知らないよ、そんなの」

 小山はほとんど颯太を見ずに竹刀を振り続けた。

「俺、なんと大将に抜擢されたんだ」

「そう」

 気を引こうとして言った言葉だったが、小山の反応は薄かった。

「県内広しといえども、こんな短期間で補欠から大将に駆け上がったのは俺くらいだろうな」

「前で決めようとしてるの?」

 小山が渋々というように竹刀を振る手を止めて、颯太を見た。

「その通り」

 反応は今ひとつだったが、こちらを向かせることには成功した。

「じゃあ、岸谷君と北村さんは何するの?」

「ひたすら逃げる」

 颯太は竹刀をかわすように身をくねらせた。

「五分間逃げ続けるの?」

「ああ。最近は相手の攻撃を受ける練習ばっかりだ」

 小山はふと真顔になって颯太を見た。

「岸谷君。僕は本当に長槻の剣道部を応援してるんだ。どんな手段を使ってでもインターハイに行くと決めたみんなに、自分はそれに加われないまでも、頑張って欲しいと思ってる。でも、これだけは忘れないで欲しい。君が今毎日やっているのは剣道じゃ無いよ」

 颯太は肩をすくめた。

「まあ、そう言うなよ」

 もちろん知っている。当たり前のように皆で繰り返している練習だから、大きな罪悪感や違和感は無かったが、ひたすら竹刀から逃げまわることが、剣道の練習であるはずがなかった。

「せっかくの才能を棒に振ってるんだよ」

 小山が言った。

「そんなに大げさに言わなくても。インターハイ県予選が過ぎれば、元に戻すよ」

「竹刀を上げて相手の打ちを防ぐのなんて何も言われなくても勝手についてしまう癖で、それを散々注意されて徐々に無くしていけるものなのに、そんなことを四六時中積極的にやっていたら、完全に身についちゃって、外すのは本当に大変だよ」

 小山は首を振って溜め息をついた。

 それもわかっていた。この短期間でもう身体が勝手に相手の竹刀を受けに行くようになっている。楽な方向に身は傾いていく。

「わかってるよ」

 颯太は、やや嫌気がさして言った。小山は慌てたように手を振った。

「何度も言うけど、僕はみんなを応援してる。そのために何ができるか探してるくらいだ」

「戻ってきてくれるのが一番だと思うぞ」

「それは無理」

 小山は首を振った。「豊さんが北村さんの道を選ぶ限りは戻れない」

 北村さんの道と言った時の小山の目はぞっとするほど冷たく、颯太は思わず後じさりしそうになった。どうしても豊が北村にそそのかされたことにしたいらしい。もしかしたら、北村のせいで剣道部にいられなくなったというくらいにまで思っているのかもしれなかった。

「最近沢木先生休みがちだね。やっぱり体悪いの」

「ああ」

 沢木の余命のことを告げるべきか、颯太は迷っていた。それを伝えれば、北村のせいで豊が変わったという小山の思い込みを消してやることもできるはずだった。しかし、結局、それは豊に委ねるべきだと判断し、颯太はそれを口にしなかった。

「朝練できない日も多いんじゃないの」

 長槻高校は、生徒のみでの朝練を禁止していた。そのため、沢木が来られない日は、本来であれば朝練はできない。形だけの副顧問もいるにはいるが自宅が遠方で朝早く出て来られそうになく、頼ることはできなかった

「防具を付けないという条件付きで特別に許可をもらってるから大丈夫。合鍵も預かってるしね」

「そう」

 そう言ったきり、颯太が立ち去るまでの十分間、小山はずっと無口だった。

 その日の練習もまた、竹刀を受け続けるだけのものだった。

 部活が終わった後、颯太は駅前のボウリング場に向かった。その一角にあるビリヤード場でリュウジと宮瀬が待っているはずだった。その道すがら、颯太は昼の小山の言葉を思い出していた。それは練習中もずっと颯太につきまとっていたものだった。

 君が毎日やっているのは剣道じゃないよ――。

 道の小石を蹴りながら歩く。二三回蹴ったところで石は車道に外れた。前を女子バスケット部が横一列になって歩いていた。車道に一旦降りて彼女らを抜き去り歩道に戻る。

 今日、自分は何回竹刀を振っただろうか――。

 自転車が苛立たしげにベルを鳴らして追い抜いていった。さっきとは別の石を強めに蹴ってみたが、自転車までの距離を届きすらしなかった。それは近くの木の根元に当たった。何気なく目を上げてみてそれが桜の木だということを思い出した。まだ三分咲きといったところだった。

 もう新入生は入学してきている。やがて剣道部にも何人かが入ってくるだろう。彼らは、自分や北村の姿を見てどう思うのだろうか。沢木のため、豊のためという想いだけで気持ちを持たせているが、このままでいいのかという考えが、その想いに急速に迫ろうとしていた。

 気づけばリュウジと宮瀬が突いている台のそばに立っていた。

 宮瀬が突いたところだった。強力なバックスピンのかかった手玉は三番ボールに当たって跳ね返り、ポケットの手前ぎりぎりで止まっていた九番に向かって転がっていった。宮瀬はキューを持ったまま見守り、リュウジは立ち上がった。九番ボールはポケットに消え、テーブルの上には白玉と、三番から八番までのボールが残った。

「凄ーい」

 聞き覚えのある声がして颯太は台から目を離した。玲奈とその友人が二人でこちらを見ていた。友人の顔に見覚えがあった。黒髪のショートが似合っている。切れ長の美しい目をした和風の美人だったが、どこで見たのかは思い出せなかった。彼女たちの手にはキューが握られていた。テーブルにはまだ開いていないジュースの缶が二つあった。今から始めるところらしかった。

 颯太は小さく会釈をし、リュウジを押しのけて台に向かった。

 宮瀬は強い。一つも玉を入れることなく颯太も負けた。颯太は来て早々にリュウジに台を明け渡して近くの椅子に腰を下ろした。足を組み玲奈たちの試合を見る。

 玲奈が打つところだった。キューを構えた玲奈の姿勢は驚くほど様になっていた。運動はできそうにないというイメージを吹き飛ばす光景だった。しかし、よくよく考えてみれば運動ができないはずはなかった。中学時代、彼女は相当剣道が強かったはずなのだ。

 彼女たちもまたナインボールをしていた。玲奈の友人に突く順番が移った。彼女のフォームも非常に綺麗だった。冷徹に獲物を見据えるような目。彼女もまた運動部なのだろうと颯太は思った。やがて一試合が終わり、トイレにでも行くのか、玲奈の友人が台を離れた。玲奈はちらと颯太たちの台を見てまだ試合の途中であることを確認すると、片手のキューを少し持ち上げて見せた。

「やろうよ」

 颯太は誘われるままに台に向かった。九つの玉を三角形の木枠に入れ、所定の位置に整えた。そして、白玉を玲奈の方へ転がした。台の向こう側で玲奈がキューを構えた。颯太は自分のこれからを彼女に相談すべきか考えていた。そうしている間に玲奈の方から口を開いた。

「あの子、滝田舞ちゃん。今暁剣道部の女子側のキャプテンだよ」

 どこで見たのか思い出した。北泉の会場で彼女を一度見ているのだ。

「なぜ今暁が? 樋口と甲斐の件ですか」

 樋口と甲斐の元には、未だにコンスタントに今暁からの勧誘があると聞いていた。

「ううん。遊びに来ただけだよ。中学で同じ剣道部だったの。私がキャプテンで彼女が副キャプテンだった」

「霧島さんが剣道強かったっていうのが未だに信じられないんですよね」

 颯太の打ちは狙いをやや外した。ポケットの右の壁に当たり赤い玉が動きを止めた。

「失礼な」と彼女は笑った。「でも、めちゃくちゃ強いってわけじゃないよ。そこそこだよ」

 彼女は三・四・五とボールを順番に落としていく。

「北村さんよりも強かったんでしょ、相当ですよ」

「途中までね」

「途中までって、最後に一回負けただけじゃないですか」

 玲奈は手を止めて顔を上げた。

「プライドの高いケンちゃんが、よくそこまで話したね」

「相手が霧島さんだとは言っていませんでした。ずっと勝てない相手がいたとだけ」

「じゃあ、どうして私だってわかったの」

「最後の勝負の翌日、その相手は大きな怪我をしたらしいんです。そして剣道ができなくなった」

「ふうん」

 興味を無くしたように彼女はキューを構え直し、白玉に向かった。

「最後の勝負、北村さんは後悔しているみたいでした」

 彼女が打つのを待って颯太は言った。

「後悔?」

 今度は大きな反応を見せた。

「まともに打って勝ったわけじゃなくて、反則二回取らせての勝ちだったから。次の日に霧島さんああいうことになって、それが最後の試合になっちゃったでしょ?」

 玲奈はなぜか小さく声を上げて笑った。しばらく笑った後、彼女は「そういうことね」と言った。「まともな勝ちだよ」

「僕もそう思います」

 しばらくして舞が戻ってきた。打つのは颯太の番だった。玲奈が難しいショットを外し、九番ボールはポケットのすぐそばにあった。白玉は絶好の位置。颯太は確実に決めると、舞の方を向いた。彼女は小さく拍手をしてみせた。

「滝田です。はじめまして」

「岸谷です」

 颯太は頭を下げた。

「負け交代でしょ。私が向こう行ってくる」

 舞と交代しようとする颯太を押しとどめ、玲奈はリュウジと宮瀬の台へと小走りで去っていった。その様子を見守っていた舞が小さく吐息を漏らした。

「元気そうで良かった。一時は無理してるのがバレバレの見てられない状態だったから」

 そこまで言って、はっと颯太を見た。

「知ってるよね」

「はい。階段を落ちたと」

 舞は安堵の表情を浮かべ、キューを磨き始めた。

「そう合宿所の階段。彼女が落ちていく音、今でも時々夢の中で聞くの」

「現場にいたんですか」

 彼女はうなずいた。

「洗い終わったコップをたくさん盆に乗せて玲奈は階段を上っていったの。私と北村君は、その時近くの足洗い場で残りの洗い物をしてた。突然、悲鳴と同時にコップが割れて落ちていく音が聞こえて、思わず振り返ったんだけど、そこからは階段の壁しか見えなくて、北村君と二人、洗い物を投げ出して走ったの。そこには、粉々になったコップと一緒にそこまで滑り落ちてきた玲奈がいた」

 白玉を転がしてやると舞は左手でそれを止め、すぐに突いた。九つの玉が綺麗にブレイクし、そのうち二つがポケットに入った。

「心配しないでって笑ってたんだよ。まあ、剣道ができなくなるってわかってからもそう言ってたくらいなんだけどね」

 顔を上げた舞は泣き笑いのような表情をしていた。

「強いですよね」

「うん。凄く強い子だと思う」

 ふと、舞に相談してみようと思った。長く剣道をしている人なら必ずその意義について考えたことがあるはずだった。

「滝田さんって、このままでいいのかなって思ったことあります?」

「このままって、剣道で?」

「はい」

「しょっちゅうね。周期的にやってくるよ」

「じゃあ、僕には今、その記念すべき第一回がやってきています」

「そうなの、おめでとう」

 彼女は微笑んだ。茶化す言い方ではなかった。

「実は今守りきる練習ばっかりしてるんです」

「本気だったんだね。北泉での樋口君の宣言」

「はい。長槻は本気でインターハイ出場を狙っています」

 舞が早くというように台に目をやった。颯太のショットは外れ二番ボールがころころと台の上を転がった。舞は鋭い打ちでその二番ボールを沈めながら、言った。

「今のままでいいと思うよ」

 意味がわからず彼女の顔を見る。舞はこちらに視線を向けず、ほとんど狙いも定めず三番ボールに手玉をぶつけた。三番ボールは台を長辺方向に二往復し、やがて止まった。

「そんな練習やってるってことは、補欠じゃなくてレギュラーなんでしょ? こんな練習をしていていいのかとか、悩んでるのかもしれないけど、何を犠牲にしてでも大舞台での経験は得ておくべきだと思う」

 公式戦一日で優に稽古半年分の経験になると、舞は言った。

「半年分ですか」

「そう。初めて出場するのと二度目に出場するのじゃ気持ちは全然違うしね。次出る時は主戦力として出るんだろうから、その時のことだけ考えてみても、今回の出場には意味がある」

「主戦力か……」

 頭の中で何度もインターハイ県予選決勝の舞台を思い描いてきたが、心の底ではレギュラーに選ばれることすら難しいと思ってきた。

「そんな弱気でどうする。佐久間君に決めるんでしょ――」

 そう言うと舞はキューを左手に持ち替え、そのまま颯太に向けて突き出してきた。ぴんと伸びた左手の延長のようにキューが伸び、颯太の喉から一センチのところで止まった。驚き、睨むようにして舞を見た颯太に、彼女はにこりと微笑んで言った。

「必殺技」

 顔がかっと熱くなった。

「どうしてそれを」

 聞くまでもない。玲奈だ。舞は答えずキューを引くと、台にひょいと腰掛けた。息を呑む程白い太ももが露わになって颯太は思わず目を逸らした。

「でも、佐久間君の弱点はそこじゃないよ、近いけど」

「どこなんですか」

 ふふふと舞は笑った。

「知りたい?」

「はい」

 舞は妖艶な仕草で脚を揺らせた。颯太の目に、彼女が急に五つも六つも年上の女に映った。

「首筋」

 そして舞はくっくと笑った。

「なに変なこと言ってるの」

 いつの間にか玲奈が舞の後ろに立っていた。

「霧島さんこそ、なに変なこと吹き込んでるんですか」

 颯太がすかさず突っ込むと、なんのこと? と、とぼけた。

「もういいです」

 颯太は、ほとんど狙いもつけず、力強く玉を打った。


「あの女、今暁のスパイだったわけか」

 帰り道、リュウジが言った。

「だから、違ったんだって」

「本人がそう言ってるだけだろ、霧島さんから何聞き出してるかわからないぞ」

「岸谷君の必殺技についてだって聞き出してたわけだからね」

 宮瀬がからかってくる。

 三人は駅まで来ていた。リュウジと宮瀬は自転車通学なのでここで別れる。

「試合見に行くからな」

 押していた自転車に乗りながらリュウジが言った。

「僕も行くからね」

 宮瀬が同じく自転車にまたがり左手を挙げた。

 家に着くと颯太はすぐに竹刀を持って外に出た。思いっきり身体を動かしたい気分だった。何本か竹刀を振った後、颯太は早素振りに切り替えた。その場で連続的に素振りを行う早素振りは、短時間でかなりの体力を消耗できる。何かに突き動かされるようにして、颯太はその反復運動を繰り返した。

 しばらく振った後、颯太は竹刀を下ろし、息を整えた。街灯の明かりの中、自分の影が薄く地面に伸びている。風は無かった。とても静かな夜だった。荒い息が治まった頃、颯太はおずおずとすり足で一歩前に出た。ビリヤード場での会話に触発されたのか、身体がうずいていた。久しぶりに打ってみたくなっていた。

 構えて相手を見据える。目の前に浮かび上がるのは佐久間だ。

 間断のない攻め合い。かちかちと合わさる竹刀。いつの間にか颯太の周りにはインターハイ県予選の会場ができあがっていた。しかし、周りの全てを視界の外において、颯太は相手の目だけを見ている。佐久間の呼吸が颯太には手に取るようにわかった。相手の竹刀を押しのけて颯太の竹刀が佐久間の喉を向いている。颯太は大きく踏み込み左手を突きだした。左手の先の伸びた竹刀が、佐久間の喉を守る突き垂れを突いた。はっきりとした手応え。すぐに竹刀を引き寄せ、構える。目を見開き、信じられないという表情で颯太を見る佐久間。その顔に颯太は笑顔で応えた。次の瞬間、静寂が破られた。会場から万雷の拍手が降り注いできたのだった。


 その三時間ほど前、颯太がまだビリヤード場にいた頃、甲斐は樋口と共に江坂道場の門の前に立っていた。門の向こうには、茶色い陶器の傘立てがあった。豊と樋口と共に追加練習前の挨拶に来た時には、ひどく懐かしく感じた玄関も、この数日で既に毎日見る風景の一部になろうとしている。声を上げて、来たことを伝えると、二人はそのまま門を開けた。少し遅れて「いらっしゃい」という江坂の野太い声が聞こえてきた。

 庭を通り、道場の引き戸を引くと、道着姿の豊が竹刀を振っていた。二人は急いで道場脇にある物置兼更衣室に入ると、道着に着替えた。小走りで豊の前に並ぶ。

「今日はちょっと遅いじゃないか」

「来る前に女と一戦交えてきたんで」

 樋口が答える。

「その割には早いな」

「早いんですよ、こいつは」

 甲斐は言った。

「知らないだろ。適当なこと言うなよ」

「じゃあ、どうなんだよ」

「早いよ」

 三人は同時に笑った。

 竹刀を持って集まる時の、この弛緩した一瞬が、甲斐は好きだった。この道場で共に竹刀を振っていた小学生時代を思い出す瞬間でもあった。自分が豊に手取り足取り指導を受けているところや、投げ飛ばされ床を転がされているところ、この道場で過ごした日々の一瞬一瞬がいつもスライドショーのようにして甲斐の前に繰り広げられていった。

 この日、甲斐の前に広がっていたのは、しかし、道場内の風景ではなく、ここから遠く離れた富士山頂からの景色だった。

 江坂道場の子供たちとその保護者で行われた小学生登山の二日目、真っ暗な中八合目を出発し、わけもわからず歩いて辿りついたゴールである。その場所で、甲斐たちは大人たちに言われるがまま黒に染まった景色をぼんやりと眺めていた。やがて、黄色と赤の入り交じった一筋の線が水平に伸び、その真っ暗な世界を二つに切り裂いた。続いて、線の中心に円い光が生まれた。それは、周囲に光を滲ませながら、どんどん大きくなっていった。目の前の景色が急速に明るくなっていく。それでも世界は尚、先ほどの線を境に、二つに分かれたままだった。下には無限に続く雲海が広がり、上には澄んだ青空が広がっていた。やがて、めくるめく変化が嘘だったかのような静的な風景が、まるで何時間も前からそうであったかのように、甲斐たちの前に身を横たえた。真っ青な空と雪のような雲。

 人々が動きだし、ざわめきが戻ってきても、甲斐たち三人は動かなかった。豊がじっと青空と雲海の交わるあたりを眺めている。甲斐と樋口はその真似をして彼の両隣に並んでいた。しばらくして豊が口を開いた。

『いつか三人で日本一になろうな』

 甲斐と樋口が五年生、豊が六年生の時の夏休みだった。その翌年豊は地元の公立校に、更に一年後、甲斐と樋口は清竜に進むことになる。

「ストレッチ!」

 豊の号令で我に返り、甲斐は腕を伸ばした。アキレス腱を伸ばしている目の前の男は、剣道が楽しくて仕方が無いといった様子のあの頃の少年ではなかった。沢木にインターハイ出場を見せてやりたいその一心で、自分を追い詰めている。長い付き合いだが、豊がここまで余裕を失っているのを見るのは初めてだった。なんとかしてやりたいと、見るたびに思う。

 ――豊さんがいるからだよ。

 少し前に自分の発した言葉が蘇ってきた。学校帰りに『一戦交えてきた』女に対して言った言葉だ。彼女は、正門の前に人待ち顔で立っていたが、甲斐と樋口を認めると、ごく自然な様子で二人に近づいてきたのだった。

『佐久間君を恨んでるんでしょ』

 佐久間の昔の恋人である彼女の、それが一言目だった。

『そして清竜全体を憎んでる』

 少し間をおいてそう続けた。甲斐はうなずいた。否定しても仕方が無かった。

『そして清竜を潰すために剣道を続けてる』

 甲斐は再びうなずいた。それだけが目的では無かったが、清竜の時代を終わらせることが、辛い稽古に打ち克つための大きなモチベーションになっていることは確かだった。

『じゃあ、なぜうちに来ずに長槻にとどまっているの』

 その言葉を聞いて初めて彼女が今暁に進んだことを思い出した。未だにしつこく佐久間にまとわりついているという噂で彼女の名を聞くことが多いため、甲斐の中で彼女は、今暁のキャプテンというよりも佐久間の元彼女だった。

 確かに、なぜなのだろう――。

 彼女の率直な質問に、甲斐の頭はなかなか答えを出せなかった。今暁に行くのは確かに早道に違いなかった。それなのに、北泉で誘われた時、一切心は動かなかった。新藤の尊大な態度への反発か? 今更強豪に移ることをかっこ悪いと感じたからか。

『豊さんがいるからだよ』

 頭が答えを出す前に、口がそう答えていた。

『ふうん』

 彼女はおかしそうに言うと、まあいいやと呟いた。

『男子のことはどうでもいいし』

 そう言いながら、鞄から封筒を取り出した。中になんらかのディスクメディアが入っているのがわかった。

『新藤君から。玲奈ちゃん通じて渡そうと思ったんだけど、先に君たちに会ったから』

 そして、彼らに興味をなくしたように門の向こうに目をやった。

『玲奈ちゃん、まだ?』

 もうすぐ出てくると樋口が言うと、彼女はそうと言ったきり、そのまま二人には目もくれなかった。

 ――豊さんがいるから。

 なぜ長槻に来るのか豊に訊かれた時も、甲斐はそう答えた。それはあながち嘘ではなかった。三人で頂点を目指す。清竜に行ったことで叶わなくなった夢を叶えるために、二人は長槻に来たのだった。

 三人で筋肉を伸ばしながら、甲斐はじんわりと心が熱くなるのを感じていた。目指すのは日本一ではなく全国大会、一緒に富士山を登ったあの頃から夢のランクは一つ下がったが、気にはならなかった。三人また一緒だ。清竜への私怨のような暗いモチベーションなど捨てても、やっていけそうな気すらする。それに、他のメンバーも良かった。一緒に全国を目指そうと思える仲間だった。

 ――小山が揃っていれば言うことなしなのだが……。

 その思いがぽつりと冷たい滴のように甲斐の胸に落ちた。休部を決めた小山も、それを認めた豊も、どちらも間違っていないと思ってはいる。北泉以降の、勝ちに行く練習をこなしながら、小山はいつも苦しそうだった。それが練習の雰囲気に影響してもいた。それでも戻ってきて欲しいと思う気持ちは強い。

『凄く複雑な気持ちだよ、甲斐君』

 廊下で偶然会った時、小山はうつむき気味にそう話した。

『豊さんから、先生のこと聞いたよ。だから応援したいけど、でも、北高流なんてやるわけにはいかない。自分では手を汚さずにみんなを応援している自分がひどく卑怯な人間になった気がするんだ』

『考えすぎだよ、小山。実際のところ汚い練習なんてしてないんだ。一回見学に来てみればいい』

『でも、それはテクニックを知らないからでしょ? 例えば、審判の目を欺き、勝ちに繋げられる反則技があれば、豊さんはきっとそれを取り入れたいと思っている』

『それは、そうかもしれないけど』

『そうである限り、長槻はもはや前の長槻じゃないし、僕はそこにはいられない』

 小山のその言葉に対して、甲斐は何も言うことができなかった。

『先生のことで豊さんの心は弱ってる。その弱った心のせいで北村さんに流されてしまったんだ』

 北村は関係無いだろうと甲斐は言ったが、小山は答えずに独り言のように呟いた。

『そうか。やっぱりやり方を知っていれば使いたいわけか、反則技。そこまで来ているわけか』

『いや、そうかもしれないっていうだけだぞ』

 あの時慌てて言った甲斐の言葉は、真剣な表情で押し黙った小山の耳にはおそらくもう届いていなかった。次会った時にはきちんと否定しようと思った。反則技すら使いかねないあの異常な熱さは小山が休部する前後の一時だけで、今はもうそんな考えはどこにも無いはずだった。

 練習後、樋口が鞄から封筒を取り出した。

「新藤さんからプレゼントです」

 言いながら封筒を破る。中からDVDとメモが出てきた。


樋口君、甲斐君

 君たちの加入はもう諦めた。自分たちだけの力でインターハイを目指します。これは、夢を見させてくれた君たちへの心ばかりのプレゼントです。

新藤悟


 最後の署名の隣には、新藤の携帯電話の番号とメールアドレスが記載されていた。

 甲斐たちは早速このDVDを豊の家で見ることにした。沢木に借りたノートパソコンを机に置いて、豊はDVDをセットした。甲斐と樋口は椅子に座る豊の両側から画面を覗き込んだ。

「念のため音量絞るか」

「そうですね、どんな卑猥な動画かわからないですからね」

 そう言っている間に動画はスタートしていた。画面の中央に白い文字が浮かんだ。

 対清竜 親善試合

 その下に小さく記された日付は今年の二月だった。おそらく今暁が清竜と絶縁するきっかけとなった練習試合だった。

 メモの内容を文字通りは受け取れなかった。レベルの差を思い知れば、いよいよ今暁行きを検討するかもしれない。そういう思いで新藤はこのDVDを送ってきたのかもしれなかった。メモの最後にわざわざ電話番号とメールアドレスをつけてくるところがその証拠のように思えた。そこには事実唖然とする程の力を持った清竜の姿が納められていた。北泉で無敵の力を見せた今暁が、次々と倒されていく。対戦相手として佐久間や的場を見ていた場合、事実三人は戦意を喪失していたかもしれなかった。しかし、今や敵は先鋒から中堅の、水沢・加藤・瀬戸だった。動画を見終わった後の彼らの感想は、揃って「なんとかなる」だった。北泉の時の油断とは違うと、甲斐は思っている。彼らは自分たちの中で追いつける限界のラインというのを引いていて、樋口と甲斐にとっては、それが新藤のレベルだった。そして、水沢と瀬戸は新藤と同じくらいのレベル、加藤はそれよりもだいぶ落ちるというのが動画を見る限りでの印象だった。

「どんな選手なんだ」

 豊が、彼と当たることになる次鋒の加藤について訊いた。加藤は甲斐と樋口の一つ先輩であり、豊にとっては同学年にあたる。

「不器用だけど稽古熱心な人でした」

 剣風を聞いているのであって、そんなことを聞いているのでないことはもちろん樋口も気づいていて、他に付け足す言葉を探して空を睨んでいたが、結局何も出てこなかった。甲斐の中にもそれ以上の印象は無かった。スタミナを絞りきるように限界ギリギリまで自分を追い込み、体育館の真ん中でぶっ倒れる姿をよく覚えている。どんな剣道をしていたか、甲斐の記憶にはほとんど残っていない。その頃の甲斐にとって他の部員のことなど――特に佐久間の代については――完全に関心の外にあった。

 ただ、そんな中、強く印象に残っている選手が、佐久間と的場の他に一人いた。それが、樋口の対戦相手となる中堅の瀬戸だった。彼は、甲斐と樋口の加入によってレギュラーを外された選手のうちの一人だった。

『才能って残酷だよな』

 レギュラー落ちが決まった日の帰り道、樋口の横で彼はぽつりとそうこぼした。三人は駅までの道をゆっくりと歩いていた。辺りはもう真っ暗で街灯の光も薄暗く、瀬戸のことはもちろん、隣を歩く樋口の表情もほとんどわからなかった。無難な返事を探して頭を回転させていた甲斐をよそに、ぶっきらぼうとも取れる口調で樋口は言った。

『それって、もてないのを顔のせいにしてる奴と同じ言い分ですよ。才能なんて強くなるための一条件でしかないでしょう』

 瀬戸の口からは、何も出てこなかった。痛いくらいの沈黙を破ったのは、またもや樋口だった。

『でも、才能のせいにして諦めてくれた方が、ライバルとしては楽ですけどね』

 そう笑ったのだ。瀬戸は尚も黙ったままだった。樋口の失礼な物言いに腹を立てたのかと思ったが、この時、彼はその言葉に強く感銘を受けていたのだった。その頃、清竜の選手のおそらく全員が、樋口の才能に傷ついていた。躊躇なく自分と樋口を比較する顧問の教師を前に、甲斐もまた例外ではなかった。生まれ持ったものの差に、毎日血を吐くような練習を繰り返すことの無意味さを誰もが感じていた。だから、その言葉に救われたのは、瀬戸だけではなかった。才能は要素の一つでしかないという言葉は、それが樋口から出たというだけで、真理か否かといった議論とは別のところで、皆の胸に巣食っていた諦めや倦怠感、それから樋口に対する様々な思いを溶かしたのだった。甲斐と樋口がスムーズに代表に迎え入れられたのも、今考えれば瀬戸の広めたその話が大きかったのだろう。瀬戸はそれ以降、完全に樋口に惚れ込み、茶化す同期に『年下に憧れて悪いか?』と堂々と言ってすらいた。

 それでもあの日――佐久間が樋口の喉を突く事件があった日から、彼もまた樋口を避けるようになった。

 気づいた時には、甲斐の心は何度も思い出しているあの場面に立ち返っていた。

 佐久間の竹刀が樋口の喉に突き刺さっている。激しく咳き込む樋口。わざと外しやがって。道場に響くしわがれた声。本当にわざと外したんですか。甲斐の質問に答えず目を逸らした佐久間。

 佐久間はついにその問いに答えることは無かった。『樋口が突きを打たれるまでは、お前ら佐久間のこと好きだったのか』耳の奥で豊の声がした。『人間的には、素晴らしい人だと思っていました』自分の言葉が続いた。

 あの事件が無かったら、今でも自分たちは清竜で剣道を続けていたのだろうか。

「なあ、樋口。今更なんだけど、佐久間さんの突き、どうしてわざと外したってわかったんだ」

「なんとなくだよ」

 ――まあ、そうだろうな。

 外れたのがわざとかそうでないかなど、なんとなく以外でわかるはずがなかった。しかし、甲斐の無言を納得がいかないサインと取ったのか、樋口は続けた。

「佐久間は竹刀が喉に刺さってからも突き続けた。竹刀を外したのはしばらくしてからだった。わざとでないなら、的を外した瞬間思わず竹刀を引く。そういうもんだろ」

「そうだな」

 それに、佐久間はわざと突いたことを否定しなかった。そして、目を逸らした。疚しい部分無しに、佐久間があのような目の逸らし方をするとは思えなかった。

 カメラは時折、コートの脇に座る佐久間の顔を映し出した。その度に、心臓をぎゅっと掴まれるような痛みが甲斐を襲った。尊敬していたのだと思う。大将の資質は無くとも、キャプテンは彼しかいないと思っていた、あの一件までは……。

 あの日の樋口は明らかに気合いが入っていなかった。わざと外したのだとしても、だからそれを公然と認め、例えば樋口に喝の一つでも入れるのであればそれで良かったのだ。罵声を浴びせる樋口に言葉一つ返せず、問い詰める甲斐に対しても目を逸らすことしかできない彼の姿からは、カリスマの一欠片すら認めることができなかった。失望は大きかった。

「今度の北高との練習試合、オーダーは前のままでやるんですか?」

 樋口の声で甲斐は我に返った。

「もちろん。新オーダーは極秘中の極秘だからな」

 オーダー変更は、他校に直前まで知られたくないというのが豊の考えだった。動揺を狙っての意味もあるが、それだけではない。戦略を練る暇を与えないためだった。冷静に考えれば、樋口や甲斐との勝負を避け、戦力的に有利な後ろで勝負する方が楽なはずだ。しかし、先鋒は決して引いてはならないという団体戦の鉄則を破るのは、そう簡単なことではない。ましてや、相手が格下の高校であれば尚更だ。判断を誤り、樋口や甲斐とも真っ向勝負で来る可能性は、戦略を練る時間が短いほど上がる。それが豊の狙いだった。

「北高といえば反則技も色々持ってますが、それは敢えて吸収する必要無いですよね」

 甲斐は訊いてみた。

「ああ」

 予想通り豊はすぐにうなずいた。やはり、小山の勘違いは正しておかなければならないと甲斐は思った。明言こそしてこなかったが、あの頃の豊には確かに反則技すら使いかねない雰囲気があった。その頃のイメージを小山はまだ持っていて、それが甲斐との会話でさらに深く根付いてしまっている可能性があった。


 日曜日の練習試合、颯太たちは長槻駅前で待ち合わせをして、そこから一緒にバスで北高に向かうことにしていた。集合時間の一時間前に駅前に来ていた颯太は、昼食を取る店を探してうろうろしていた。悩んだ末、颯太は結局グリーンスパイスに入ることにした。

 ドアを開け、颯太は思わず一歩下がって店名を確認した。装飾はそのままに別の店に変わったのかと思ったのだ。樋口のお気に入りの店員が、颯太を見つけて微笑んだ。

「いらっしゃいませ」

 カウンターに座り注文を終えると、颯太は彼女に訊いた。

「どうしたんですか、その服」

「サプライズで昨日から一週間これなんです。似合いますか」

 彼女はメイド服のような自分の服を指さして言った。颯太はうなずいた。緑がベースの白いフリルのついたその制服は、彼女にもこの店にもよく似合っていた。

「マスターの趣味なんです」

 困ったというようにしかめ面を作ってみせると、彼女は仕事に戻っていった。五分後、出てきたカレーを食べながらぼんやりとしていた颯太はふと、この店のトレイが学校の食堂にあるものとおそらく同じ製品であることに気づいた。縦横比が学校の剣道場に近いからか、食堂で食べるといつの間にかトレイの上に竹刀を振る自分たちの姿を描き出してしまうのだが、不思議とこの店ではそんな経験は無かった。そんなことを考えているうちに、三日前に北高との練習試合が決まった時から脳内で繰り広げているシーンが、トレイの上に描き出されていた。奥田との試合のシミュレーションだ。開始後すぐに勝負を決められ、唖然と立ち尽くす奥田の顔を思い浮かべ、颯太は薄い笑みを浮かべた。視線を感じて、顔を上げると、先程の彼女が気味悪そうに颯太を見ていた。目が合うと慌てた様子で視線を逸らした。気まずくなり、急いでカレーを食べきると、店を出た。

 バスの中でも颯太はずっと奥田を倒す場面を想像していた。

「顔つきが怖いぞ」

 豊に指摘された。

「北高のオーダーが変わってなければ、奥田と当たるんです」

 前回六対六で試合をした時、奥田の出番は三番目だった。北高は長槻と同じように、先鋒に補欠、以降をレギュラーオーダーで並べるという形で組んでいる様子だったので、おそらく奥田は補欠から次鋒に上がったのだろう。今の長槻の練習試合用のオーダーは、シンプルに次鋒小山の位置に颯太を入れただけのものだ。五対五で試合をする今回、奥田と当たる可能性は高かった。

「そんなにあいつとやりたいのか」

 豊がおかしそうに笑った。

「そりゃそうですよ。次は絶対にやり返すって、あの日強く誓ったんですよ、僕は」

「誰がどう見てもとっくにの昔に抜いてるんだから、もういいだろ」

「駄目です。試合でやり返すんです」

「わかった」

 豊が呆れたように言った。「彼が次鋒だろうがそうじゃなかろうが、当たるように調整してやるよ」

「ありがとうございます」

 しかし、調整の必要は無かった。一時間後、コートを挟んで颯太と向かい合っているのはやはり次鋒奥田だった。十メートル四方の白い枠線の中に、足を踏み入れる。同時にコートに入った奥田の動きは、少しぎこちなかった。相手が颯太だということを明らかに意識している。奥田とは、試合こそ颯太が敗れたあの日以来していなかったが、地稽古はしている。その中で、力量が逆転したことを既に肌で感じているはずだった。

 主審の桑原をはじめ、審判は全員北高の者だった。沢木が欠席のため、長槻に審判ができる余剰の人間はいなのだ。

 ――いや、いないわけではない。

 颯太の意識は一瞬試合から離れた。審判なら玲奈ができるはずだった。考えてみれば、彼女は審判のような剣道経験が必要な仕事を一切しない。剣道の話をしていても経験者ならではの言葉というのは、聞いた覚えがなかった。それが、彼女が経験者だと、どうしても感じられない理由の一つかもしれなかった。

 はじめ!

 試合が始まって約十秒後、颯太の竹刀はもう相手の面を割っていた。渋々といった感じで挙がった三本の旗に苦笑しながら長槻側を見ると、全員が苦笑いを噛み殺した顔をしていた。

 二本目以降も、颯太が押し続けた。面白いように技が当たる。しかし、決定打はあえて出さなかった。どうしても奥田に決めたい技があった。浅い面打ちを繰り返して、それを繰り出す好機を待った。一回の試合で何度も試せる技では無い。少しずつ、自分に都合のいい状況に持ち込む。相手をコート際に追い込んでいく。相手がこれ以上は下がれないところまで来ても、颯太は尚じりじりと身体を前へ運んだ。そして、間合に入った時には跳んでいた。面に向かって一直線に伸びてくる竹刀を防ごうと、相手の竹刀が上がった。次の瞬間には、颯太は奥田の右小手を打ち据えていた。

「小手!」

 快音を残し、颯太はさっと離れた。取り残された奥田は、起こった出来事が信じられないといった様子で呆然と立ち尽くしている。開始線に戻る颯太もまた、信じられない気持ちだった。練習試合で奥田に決められた騙し小手で、今度は自分が勝つ。最初からそのつもりではいたが、ここまで見事に決まるとは自分でも思っていなかったのだ。長槻側は大盛り上がりだった。大歓声と拍手に迎えられ、颯太は皆の元に戻った。

 試合はそこから長槻側が三連続で二本勝ちし、全員二本勝ちでの勝利という結果となった。格下相手の半ば当然の結果だったが、颯太が以前決められた技でリベンジを果たしたことで、試合後の休憩時間、長槻側には終始華やいだ気分が漂っていた。

 休憩が終わると、桑原が全員を集め、おもむろに話し出した。

「今日はとっておきの技を君たちに伝授しようと思う」

「それは正しい技なのでしょうか」

 豊の目が鋭くなった。

「いや。これまで君が嫌がってきた種類の技だ」

「では、今回も嫌がらせて頂きます」

 桑原は怪訝な表情を浮かべた。話が違うぞという顔だった。北泉以降の長槻の変化についてなんらかの情報を耳にしているのかもしれなかった。しかし、桑原の電話番号を知っているのは部内で豊だけだ。何かの前情報があったとすれば豊自身からのものだろう。彼はもしかすると、父親の病気について知った直後の、あの沸騰した頭のまま桑原にコンタクトを取ったことがあるのかもしれなかった。そして、北高の全てを吸収したいとうようなことを言ってしまったのかもしれなかった。

 桑原は素直に引き下がり、稽古は地稽古へと移っていった。

「小山君は、今日は休みか」

 練習後、道着を畳む颯太の元に桑原がやってきた。

「彼は休部しました」

 桑原の顔に驚きの色が走った。

「何か事情があるのか」

「目指す方向性が違うというのが理由です」

「確かにお前らとは合わないだろうな」

 桑原は納得したようにうなずいた。先程の反応といい、今の言葉といい、長槻のイメージが北泉前から変わっていなければ出ないもののように思える。やはり、彼は、長槻が変わったという何かしらの情報を得ているようだった。

「長槻が合わないならうちで練習しろと伝えてくれ」

 つまらない冗談だった。断腸の思いで休部を決めた小山の気持ちを考えると、笑う気にはなれなかった。桑原は颯太の反応を待っていたが、無視されているのを知って、やがて離れていった。


 練習試合からの帰り、防具等の荷物を置きに学校へ向かっていると、帰宅途中のバスケ部顧問に出くわした。彼は皆の肩にかかった竹刀袋と防具袋に目をやった。

「体育館は施錠したぞ。残ってる先生もいないから、それは持って帰って明日置きに来てくれ」

「いや――」

 豊が言いかけると、彼は思い出したように手を叩いた。

「そういえば君らは合鍵を持ってるんだったな」

 皆でぞろぞろと学校へと向かう。防具を持っていない玲奈もビデオや救急箱を戻すために、一緒に来ていた。颯太は、部室の番号式の南京錠を開けると、ドアを開け、開けっ放しのまま、豊のロッカーの前に立った。ロッカーを開け、中から携帯ラジオを取り出す。電池を入れる部分の蓋を開ける。他にすることも無いからだろうが、外で待っている者全員が自分の手元に集中しているのを感じて、意味もなく緊張した。爆弾処理班にでもなった気分で、合い鍵を取り出すと、電池の蓋を元に戻し、携帯ラジオをロッカーに仕舞う。そして、すぐに部室を出た。そこで待っていた他のメンバーと共に、道場に向かい、鍵を開けた。真っ暗な道場に入り、手探りで照明のスイッチを探して押した。明るくなった道場の片隅に、自分たちの防具の分だけ隙間の空いた棚が待ち構えていた。

 防具を戻して、学校を後にすると、外で夕食を取るという他のメンバーと別れ、颯太は真っ直ぐ家に帰った。疲労が溜まっているのを感じた。思っている以上に奥田を意識していたのかもしれなかった。夕食を終えた頃には全身がぐったりとしていて、シャワーを浴びるとすぐにベッドに横になった。

 早く寝たためか、翌日はいつもよりもだいぶ早く目が覚めた。身体の重さはなくなっていた。いつもよりも早い時間に家を出る。普段とまるで違う人たちが乗っている電車は新鮮だった。辺りを見渡していると、隣の車両に見知った顔を発見した。小山だった。

 長槻駅に着くと、颯太は彼に駆け寄った。

「早いな。いつもこの時間なのか」

 小山は驚いた様子で振り返った。颯太を見て表情を緩める。

「そうだよ」

 朝練のある颯太よりもさらに十五分早い時間に小山はいつも登校しているということだった。

「そんなに早く来て何するんだ」

「決まってるじゃないか。朝練だよ」

 昼練だけでなく朝練まで続けているとは、知らなかった。一緒にやろうと口まで出かかったが押さえた。昼練の時のやりとりを繰り返すだけだ。

 グリーンスパイスの横を通り過ぎる。今は中に誰もおらず真っ暗だが、あと数時間後にはあの制服に身を包んだ店員が忙しく働きまわっていることだろう。

「グリーンスパイス、制服がメイド服みたいになったんだ」

 颯太は店を指差して言った。

「へえ、そうなんだ」

「どう思う」

「いいんじゃないかな、似合ってれば」

「似合ってたけど、困ってたよ。マスターの趣味なんだって」

「災難だね」

 小山は笑った。「しばらく耐えるしかないね。それか、期間が終わるまで休みをとるか」

「まあ、樋口のお気に入りのあの子は、意外とまんざらでも無さそうだったよ」

 小山とは部室前で別れた。朝練に来るのは、今日は颯太が一番乗りだった。部室のドアについた番号式の南京錠のロックを外し、中に入る。そして、豊のロッカーにある携帯ラジオから鍵を取り出した。

 道場の鍵を開け、引き戸を開く。中に足を踏み入れる。その姿勢のまま、颯太は動けなくなった。

 薄暗い道場の中の大部分はいつもと同じだった。丁寧に拭かれたホワイトボード、乱れなく防具を身につけた打ち込み用の人形、保護扉がぴたりと閉じられた壁の大鏡。それら全てがいつも通りに静かにそこに佇んでいた。ただ、道場の奥にのぞく倉庫の床だけが普段と違っていた。正確には床の上に散らばるいくつかの物体だった。倉庫や道場にあるのは極めて自然で、ただ、この位置にあるのは非常に不自然なそれを見つめて、颯太は立ち止まってしまった。金縛りが解けると、ゆっくりとそのうちの一つに向かって歩いていった。倉庫の外からは、ひっくり返った垂れしか見えなかったが、入ってみてそれが広範囲に散らばった一人分の防具だとわかった。それを持ち上げ表を見る。垂れネームには「北村」と記されていた。散らばった他の部分を拾い、一カ所に集めた。散らばっていたものを集めてきたからだろうか、一カ所に固まったそれは、まるで下半身の見つかっていないバラバラ死体のように見えた。

「どうしたんだ」

 背後から豊の声がした。

「北村さんの防具が散らばってたんです」

 颯太は彼が見た状況を説明した。豊は話を聞き終わると、体育館内通路に繋がるドアへと向かった。鍵がかかっていることを確認すると、外に通じる方のドアを見て言った。

「あっちのドアの鍵はお前が開けるまでしまってたんだよな」

「はい」

 豊は首をかしげた。

「倉庫には剣道場からしか入れない。そして、その剣道場のドアは二つとも施錠されていた。じゃあ、犯人はどうやって入ったんだろう」


「密室事件か」

 北村はおもしろくもなさそうに言った。昨日、皆で防具を返しに来た時点で、体育館は施錠されていた。剣道場も同様で、その本鍵のある体育教官室もまた、体育館の中にあるため、アクセスは不可能だ。つまり、剣道場に入るためには、豊のロッカー内に保管されている合鍵を使う以外に方法は無いのだった。

 北村は倉庫に一つだけあるパイプ椅子を引き寄せるとそこに腰を下ろした。

「まず合鍵の存在を知ってる人間をはっきりさせよう。ここにいるメンバーと玲奈と小山でいいか」

「小山は知らないんじゃないか」

 豊が言った。合鍵を預かることになったのは、小山が休部してからだった。

「誰もあいつに話してないか」

 嘘をついても仕方がない。北村の言葉に、颯太は仕方無く手を上げた。

「この前、話しました」

 北村はうなずくと辺りを見回した。

「他に、誰かに話した奴はいるか」

 誰も手を上げなかった。

 北村は苛立った様子で立ち上がり、床に置いたままの彼の防具へと歩いていった。そして、丁寧に防具をまとめ始めた。その手が何かを思いついたかのように突然止まった。そして、そっと胴を持ち上げ、覗き込むようにして裏を確認した。その後、彼は皆の目から裏側を隠すようにして胴を手繰り寄せ、垂れと一緒に胴紐で結び合わせた。しかし、颯太の目はすでに北村が隠そうとしたものを捉えていた。そこには、はっきりと刻まれた二本の傷があった。横に引かれた傷の中心から縦の傷が下向きに引かれ、その二本の組み合わせは、アルファベットのTと読むことができた。

「今日の朝早くに誰かが体育教官室から鍵を取って開けたという可能性は無いですか」

 樋口が口を開いた。

「今日一番に来たのは誰だ」

 北村が一同を見渡した。颯太は小さく手を上げると時計を見ながら言った。「六時四十五分頃です」

「そんな時間に体育教官室開いてるかな」

 甲斐が言った。朝練のために体育教師の何人かはかなり早い時間から来ているだろうが、それがだいたい何時頃なのか、颯太たちは知らなかった。

「ちょっと見てこようか」

 豊が言い、颯太と北村が彼と共に行くことになった。教官室は体育館二階の、階段を上がってすぐの場所にある。豊がノックをする。窓の磨りガラスから透ける明かりから、中に人がいるのはわかった。返事を待って豊がドアを開けた。昨日駅前で会ったバスケ部の顧問が一人席に座っていた。

「どうした?」

 軽い調子で声をかけられた。

「お一人ですか」

 豊が聞いた。

「ああ」

「卓球部か誰かが、剣道場の鍵を持って行きませんでしたか」

「いや。ずっとここに座ってるが、今日ここに来たのはお前らだけだぞ、どうかしたのか」

 事情を説明しようと口を開きかけた豊を北村が遮った。

「なんでもないんです。失礼しました」

 彼はそう言うと、出口へと体を向け、颯太と豊を促すように二人の背中に手を当てた。颯太は一瞬豊と顔を見合わせたが、促されるまま外に出た。

「報告しておいた方がいいんじゃないか、こういうことは」

 道場に戻ると豊が言った。北村は答えず、ずかずかと倉庫に行くと、再びパイプ椅子に腰を下ろした。気まずい沈黙が五人を包んだ。

「名探偵の推理を聞かせてやろう」

 しばらくして、北村が顔を上げた。

「今二階に聞きに行って、俺の防具をまき散らした犯人が、教官室にある鍵は使えなかったということがわかった。昨夜俺らが防具を置きに来た時点で教官室は閉まっていたから、昨夜はそれ以降、中にある道場の鍵を手に入れることはできなかったはずだし、今朝体育教官室が開いてからも、中に先生がずっといたから、目を盗んで持って行くということはできなかったはずだ。つまり、犯人は教官室の鍵ではなく、合鍵を使ったということになる」

 皆の目が颯太の右手の中にある合鍵に集まった。

「合鍵を手に入れるためには二つの条件が必要になる。一つは、部室の南京錠の暗証番号を知っていること。そして、もう一つは、そもそもこの合鍵の存在を知っているということだ」

 そこにいる全員がうなずいた。

「前者は、OBを含めた剣道部の全男子部員、後者は、現役の剣道部と体育教師陣。では、その両方を満たすのは?」

 彼は再びそこにいる四人の顔を順に見ていった。そして返事を待たずに言った。

「俺を含めたここにいる五人、それから小山。犯人の候補はたったそれだけだ。その中に犯人がいる」

 そして手元の防具に目を落とした。

「それだけで十分にショックだ。誰がやったかなんて知りたくない」

 そのどこか芝居がかった台詞回しに、颯太は幾分冷めた目で北村を見ていた。ふと、ある予感が頭をよぎった。颯太は言ってみた。

「沢木先生はどうです? 部室の暗証番号知らないでしょうか」

 北村は一瞬顔を上げて颯太を見たが、すぐに防具に戻し、知らないだろうと言った。他もうなずいた。沢木が部室に入ることはあるが、そんな時は必ず誰かが前もって開けておく。彼が鍵の番号を知っているなど、颯太自身思っていなかった。北村の反応を見たかったのだ。颯太は続いて言った。

「ただ、体育教師陣を容疑者から外すのは尚早じゃないですか」

「だから、部室の番号を知ってるはずが無いだろ」

 北村は苛立ったように言った。

「合鍵を使う必要なんて無いですよ」

 颯太は首を振った。「本物の方を使えばいい。体育教師なら、いつでも教官室にある本物の鍵を取れる」

 北村は防具に目を落とし、興味無さげに首を振った。激しい貧乏ゆすり。苛立ちを隠しきれていない。早くこの話を終わらせたいのだ。直感は外れていないようだった。彼にはおそらくもう犯人の目星がついている。そしてその犯人を庇っているのだ。だから、これ以上話が長引き、犯人が特定されることを嫌っている。

 颯太はそれ以上は何も言わず、防具を置きに倉庫を出て行く北村の後ろ姿を見送った。いつも広く大きな背中が、今日は少し小さく見えた。もう何も言ってくれるなとその背中が語っていた。何か感ずるものがあるのかもしれない、その言葉は颯太一人に向けられている気がした。北村の思い描いている犯人は、おそらく颯太の頭の中にいる者と、同一人物のはずだった。

 北村が道場に戻ってきた。四人で豊の前に竹刀を構える。そして、いつもよりも三十分遅れで朝練の素振りが始まった。素振りの間中、颯太の頭の中で、この悲しい犯行の様子が繰り返し再生された。道場の棚から北村の防具を取り、倉庫の床にぶちまける。気持ちを抑えきれない中で、それでも神聖な道場は避けて倉庫に投げつけているところに、犯人の性根が現れているような気がして、颯太はやりきれない気持ちになった。

 その日の昼休み、食堂で友人と昼ごはんを食べていると、樋口と甲斐が、どんな風に防具がばらまかれていたのか聞きにきた。興味深そうにしている友人と彼らに対して、颯太はトレイを倉庫に見たてて説明を始めた。

「まず垂れがこの辺りにあったんだ」

「何してるの、みんな集まって」

 その声に振り返ると玲奈が立っていた。

「北村さんの防具がどんな風にばらまかれていたか説明してるんです」

「え、どういうこと」」

「そうか、玲奈さんはまだ知らないんですね」

 樋口が言った。

「今朝、朝練に来たら北村さんの防具が床にばらまかれてたんです」

 颯太はそれだけを言うと、空いている席を玲奈に薦め、説明に戻った。

「垂れから少し離れて、面はこの辺りに落ちてた」

 ストローの袋をちぎって、トレイの上に置く。

「ちなみに、どっちが北なんだ」

 樋口が口を挟んだ。

「えーと、どっちになるかな」

 颯太はこの辺りの東西南北の感覚が怪しかった。悩んでいる颯太を見かねたように玲奈が言った。

「方角よりも、例えば竹刀置き場とか、目印を置けばわかりやすいんじゃないの」

「ああ、そうですね」

 颯太は竹刀置き場として箸をトレイの右側に置いた。そして、ストローの袋を千切りながら小手や胴のあった場所に置いていった。

「倉庫のほぼ全域に広がってるんだなあ。北村さん個人に恨みがあるんだろうね」

 甲斐が言った。

「たまたま北村さんの防具が選ばれたわけじゃなさそうだな」

 樋口がうなずく。

 颯太は玲奈に聞いてみた。

「霧島さんはどう思います」

 玲奈は答えずに、眉を寄せて、無言で首を振った。

「鍵云々の話は抜きにしても、犯人は限られるよな」

 甲斐が呟いた。その通りだった。北村に恨みがあるからといって剣道に全く関係のない人間が、わざわざ道場まで来て防具を投げるというのは、あり得ないことでは無いだろうが、考えにくかった。それに犯人は、防具を床に投げつけるのに、わざわざ防具の置いてあった道場から倉庫に移動している。防具を投げるという明らかに剣道の精神に反する行動を取りながら、最後の理性で神聖な道場でそれを行うのは避けている。そんな動きを見せるのは剣道関係者以外にありそうに無かった。

「剣道関係者で北村さんに恨みを持つ者ね」

 樋口はそう言った後、言葉を選ぶように押し黙った。

「案外つまらないことを」

 やがて彼の口をついて出たのは、そんな呟きだった。誰もそれに答えなかった。しばらくして、甲斐が絞り出すようにして言った。

「俺のせいかもしれない」

「どういうことだ」

 樋口が聞いた。

「小山は、豊さんが北村さんの影響を受けて反則技も辞さない考えになってしまったと思い込んでる。その誤解を俺は解くどころか後押ししてしまったのかもしれない」

 不愉快な気持ちが込み上げてくるのを感じた。なんの証拠もなく今まで仲間だった者を疑っているのだ。しかし、冷静に考えてみれば、自分に彼らを批判する資格は無かった。もちろん、自分と彼らとの間に違いが無いわけではない。自分の場合は、本人が本来であれば知らないはずのことを口走っているという、致命的なミスに気づいている。しかし、そんなものは所詮後付けの理屈だった。散らばった防具を見た瞬間には、それを投げている様子からその表情まで、颯太もまた反射的に思い描いていたのだから。

「何してるんだ」

 尖った声が降りかかってきて、颯太は顔を挙げた。北村だった。

「今朝のことを話していただけです」

 颯太は答えた。北村はじっと颯太の顔を睨みつけてきた。どういうつもりだと、彼の顔は語っていた。特に意味はありません、その目に態度で返しながら、颯太は目を逸らした。

 北村は舌打ちをして足音も荒くその場を去っていった。颯太が彼に捕まったのは、食堂を出て一人になった時だった。

「誰がやったかを暴きだして、何か生まれるものがあると思うか」

「いえ」

 北村は颯太を睨みつけるようにして言った。

「見当ついてるんだろうけど黙ってろよ。証拠も無しに適当なこと言うなよ」

 颯太はうなずいておいた。確かに颯太の持っているものは証拠と呼べるほどのものではなかった。


 その日の帰り、行きと同じように、颯太は偶然小山に会った。今度は電車ではなく駅に向かう道の途中だった。前方を一人で歩く彼に早足で追いつき、背中を叩いた。びっくりしたと笑う彼の横に並び、駅への道を歩いた。

「夕方の練習って今どうしてるんだ」

 この時刻まで学校にいるのだから、何かをしているのは間違いなかった。

「陸上部に頼んで、期間限定で長距離グループの練習に参加させてもらってる」

「昨日一昨日も陸上部と?」

「ううん。週末は地元の道場に行こうと思ってるんだけどね。まだネットでどこがいいか探してるところ。昨日一昨日はずっと引きこもってたよ」

 小山は少し早口で、一息に話した。まるで颯太に言葉を挟ませないようにしているかのようだった。

「本当に?」

 颯太は訊ねた。

「なんで嘘つかないといけないんだよ」

 強ばった横顔が全てを物語っていた。颯太は自分の抱いている予感が正しいことを悟った。

 二人は長い間無言だった。

「桜だったんだね」

 しばらくして、小山は沈黙に耐えかねたように唐突に言った。彼の視線を追うと、立ち並ぶ木々の枝にところどころ桃色が混じっている。

「もうすぐ新入生が入ってくるな」

 颯太は言った「その時に小山はいない」

「仕方ないよ。世代が代わり、今の北村さんの剣道の時代が終わったら、また戻るから」

 小山の足元で小枝が小さな音を立てた。

「別に北村さん主体って感じじゃ全然無いんだぞ」

 颯太は言った。

「ううん。今の剣道部は北村さんだろ。豊さんがそれに流されてる」

 小山は頑なな表情で言った。颯太は首を振った。

「何も変わってないんだよ。俺と北村さんが守り中心の練習をさせられてるだけで」

「そんなことないよ。甲斐君に聞いたよ。やり方さえわかれば反則技すら使う勢いらしいじゃないか、北村さんのせいで」

 強い口調で睨みつけてくる小山と、颯太の視線が衝突した。心臓をぐっと掴まれた気がした。疑念が確信に変わった瞬間だった。やはり、その誤解が彼を動かしたのだ。

 それから小山が電車を降りるまでの間、颯太はその言葉をかけるべきかどうか、迷っていた。

 ――引きこもってたなんて嘘なんだろ?

 朝、グリーンスパイスの制服が変わった話をした時、小山は言った。

『しばらく耐えるしかないね。それか、期間が終わるまで休みをとるか』

 制服の変更が期間限定であることに颯太は触れていない。制服の変更は土曜日であり、サプライズなので当然事前の告知も無かった。週末ずっと引きこもっていたはずの彼が、なぜ制服の変更が一時的なものだと知っていたのか。土日は引きこもっていたというのが嘘で、実は長槻駅に来ていたからだと考えるのが最も自然だった、颯太には隠したい何らかの事情で――。

 入部当初、笑顔で剣道の素晴らしさを説いてくれた彼の笑顔が思い出されて仕方がなかった。正々堂々の精神を磨くことが一番の目的なのだと笑顔で話していた。

 颯太は小さく息をついた。その小山に正々堂々とは程遠い行動を取らせてしまった。それが辛くて颯太はついに最後まで彼に声をかけることができなかった。ホームを歩いていく彼の背中を、ただ見送っていた。甲斐と同様、彼の誤解を解いてやれなかったことに気づいたのは、ドアが閉まり電車の中で一人になってからだった。


        十五


 一ヶ月が経った。その間に、颯太にとって二つの大きな出来事があった。一つは後輩ができたことだった。男女合わせて十人の新入部員が入ってきた。期待していた経験者は無く、彼らはしばらく外での筋トレと素振りをメインに行うことになった。一年生の教育は玲奈が行うことになった。

 もう一つは颯太が勝手に始めたことで、片手突きの練習再開だった。攻めの伴わない防御は非常に脆い。そのため、颯太も北村も相手が不利な状況では、積極的に打つように言われている。特に引き技の直後のように相手の重心が下がっているような時は、必ず追いかけて打つことになっていた。ただ、颯太の場合、打っていいのは得意な面打ちに限定されていた。他の技を無理して打てば、返し技を食らう可能性が高かったからだ。

『取るために打ってるんじゃない。取られないために打ってるんだ』

 だから決まらなくも問題無いというのが、豊の説明だった。しかし、一本くらい取るための技があってもいいのではというのが、颯太の思いだった。ずっと面しか打たないでいれば、相手は颯太にはそれしかないと考えるはずだった。その隙をつけないかと思い、豊が何も言ってこないことをいいことに、颯太は必殺技の練習を続けた。

 その日も、颯太は虎視眈々と片手突きを打つタイミングを窺っていた。相手は豊だった。突きは簡単に弾かれ、次の瞬間強かに面を打ち据えられていた。その直後、彼に呼ばれた。こちらに来いと手招きをする豊の姿に、颯太は何かを言い渡される予感を感じていた。ついに、やめろと言われるのだろうか。微かな不安を抱きながら、颯太は彼の元に駆け寄った。

「なあ、颯太――」

 ほら来た――颯太は心の中で呟いて、豊の続く言葉を待った。

「それ、本物にしないか」

 颯太は一瞬何かを聞き違えたのかと思った。彼は呆けたように豊を見ていた。

「俺と一緒に、それを本当に通用する必殺技に仕上げよう」

 聞き違えではなかった。

「はい」

 颯太は慌ててそう答えた。練習中は一旦そこで話が終わった。練習後、倉庫に連れて行かれた。豊は周りに誰もいないことを確認すると話し始めた。

「特訓は江坂道場で、樋口と甲斐との追加練習が終わった後に行う」

「彼らと一緒ではまずいんですか」

「次に皆の前で片手突きを見せるのは、インターハイ県予選、しかもお前まで回った時点でチームが引き分けか、一本差で負けている時だ。それまでは、俺以外の人間には徹底的に隠してもらう。敵を騙すにはまず味方からだ。奥の手があると味方が知っていれば、その空気がどうしても出てしまう。他のメンバーには、もう手が無いと本気で思い込み、沈んでいてもらわないと困る。そうすれば相手の油断を誘える」

「その隙を付くと」

「そうだ。だから、今後は通常の練習では隠しておいてくれ」

 颯太はうなずいた。そしてその瞬間、公園の中で毎日のように聞いている、あの会場を埋め尽くす拍手と賞賛の声が颯太を取り巻いていた。颯太まで回って引き分け以下の場面というのは、本来あってはいけない場面だった。前三人で決めるというのが、長槻の作戦である。ただ、万一引き分け以下で回ってしまった場合にも、縋れる何かを残しておきたいというのが豊の考えだった。想定しているのは、間違いなく清竜戦。豊が頼りにしてくれている。そのことが、公園でのいつもの空想にさらに濃い輪郭を与えてくれるような気がした。

 特訓は週に二回、樋口と甲斐が帰った後に三十分ずつ行われた。


 小山と話をする機会が訪れたのは、それから三日後の朝だった。普段よりも少し遅れて登校する小山が、颯太と同じ電車に乗ってきたのだった。

「今日は遅いじゃないか」

「昨日帰るのが遅かったからね」

「道場はどんな感じ?」

 風の噂で、彼が地元の道場に通い始めたことを聞いていた。

「楽しいよ、そっちは?」

「うちは小山が休部する前と、何も変わりはないよ」

「まだ戻れないよ」

「何も言ってないだろ」

 颯太は苦笑した。「誤解を解いておきたいだけだよ」

「僕が何か誤解しているとでも」

 挑戦的な声音だった。颯太はうなずいた。

「北高といえば反則技だ。だから、北高を目指すという言葉を聞いて小山は豊さんが反則技すら辞さない考え方になったと思い込んだ」

「そう言ってたからね」

「いや、豊さんは北高を目指すと言っただけだ」

「同じことでしょ」

 颯太は首を振った。

「現に反則技の話など出たこともない。やり方を知らないだけだと思うかもしれないけど、それも違う。俺らはあれから一度、桑原に反則技の提案を受けてるんだ。でもね――」

 颯太は小山の表情を見逃さないように、彼の顔を見ながらゆっくりと言った。このことを小山は一番知りたがっているはずなのだった。

「豊さん断ったよ」

 小山は目を逸らし、「そう」と小さくつぶやいた。

「北村さんに完全に洗脳されてるわけじゃないんだ」

「それがまず誤解なんだよ。豊さんは自分の意思で今の道を選んでる。そして、それにみんなが納得してついて行ってる。これが今の剣道部の構図だよ」

「本当に?」

 小山の顔が意地悪く歪み、今度は颯太が目を逸らしていた。小山のそんな表情を、颯太は見たくなかった。

「聞いたよ、北村さんの防具のこと。みんなが納得してるなら、どうしてあんなことが起こるんだ。そんな風に言葉にならない弱者の声を聞き流しているなら、同じことが近いうちにきっとまた起こるよ」

 ぞっとするほど低い声でそう言った。

 しばらく無言の時が続いた。それを破ったのは小山だった。

「岸谷君は僕が逃げたと思う?」

「そうは思ってないけど」

「北村さんはそう言ってた。あの人は僕が自分を守っているだけだとも言った。勝負に勝てないから、負けの言い訳のように自分の哲学守ってるんだって」

「そんなことを……」

「その通りなんだよ」

 颯太の言葉を遮って小山は言った。「北村さんの言う通りなんだ。でも、そんなこと言う必要無いだろ。本当のことだって言う必要がないなら言わなくていいじゃないか。僕はただ北村さんに自分の苦しみと、長槻を本当に応援していることを伝えたかっただけなのに」

「俺は知ってるよ。お前が応援してくれてること」

 本心だった。自分はついていけなくても、なんとかして豊の力になりたいと思っていること。その気持ちだけは誰よりも理解しているつもりだった。

「そうか。そう聞いて少しは救われたよ」

 小山は控えめにではあるが、笑った。その笑顔で颯太もまた、少し救われた思いがした。

 小山とは部室の前で別れた。ドアの前には既に靴が一足並んでいた。北村のものだった。

「小山は逃げたんですか」

 部室に入り北村の隣に座ると、颯太は言った。小山の寂しげな表情がまだ脳裏に焼きついていて、颯太の口調を荒くさせていた。北村は、小さく舌打ちをすると、窓の外に目をやった。北村の防具がばらまかれた日以来、颯太と彼の関係はあまり良くなかった。

「お前はそう思わないのか」

「思いません」

「小山自身は思ってるよ」

「はい。そう言ってました。でも、そんなこと言う必要など無いのにとも言ってました。そして、弱者の声に耳を貸さない僕らの態度が、先日のあの防具のばらまきを引き起こしたのだと言ってました」

 北村は窓から颯太に視線を移し、じっと睨んだ。

「あいつは弱者なのか」

「違うと思います」

 颯太は首を振った。

 北村はうなずいた。

「俺もそう思う。あいつは弱者なんかじゃない。本当は俺よりもずっと強い。お前はわかってるだろうけど」

「それでも、あんなことをするくらいまで追いつめられていたことは事実です」

「俺が追いつめたと言いたいのか」

「断言はできませんが可能性は高いと思います。なにせ、ばらまかれていたのは北村さんの防具です」

 北村は再び舌打ちをした。

「話がずれたな。それと小山が逃げたこととは関係ない」

「誰もが常に強くいられるわけじゃない。北村さんは逃げたこと無いんですか」

 北村は答えなかった。

「例えば、好きな人がいるのに告白できなかったことなんて誰にでもあるんじゃないですか」

 むろん、玲奈とのことを言っている。口にしてから冷静さを欠いた質問だと反省した。

 彼はしばらく颯太を睨みつけた後、ぼそりと言った。

「店出る直前にお前らに気づいて、しまったと思ったんだ。やっぱり、聞き耳立ててたのかよ」

 颯太は目だけでうなずいた。

「先週告白して、実は今付き合ってる」

「え?」

 想定外の答えに颯太は言葉を失った。二人とはほぼ毎日顔を合わせているが、全く気づかなかった。

「盗み聞きしてたなら知ってるだろうけど、どう考えても勝ち目の無い相手と争っての勝ちだ」

「はい」

 北村の口から失笑が漏れた。

「何が『はい』だよ。俺があいつより劣ってるのを認めるのかよ」

「いえ、そういうわけじゃ――」

「あいつのこと知らないだろ。あれで案外優柔不断なんだよ。奴の曖昧な態度につけ込んで、横から奪ったっていうのが事実だ。正面から争って勝てる相手じゃない」

 北村は自虐的に笑うと、お前のインターハイ県予選の参考にしろよと言った。

「正面からは勝てなくても、やりようによっては佐久間を出し抜くことだってできるんだ」

 そして、ふと思い出したかのように訊いた。

「そういやお前、必殺の片手突き全然打たなくなったな。前はやたらと打ちまくってたのに」

「豊さんに封印されたんで」

 誰かに聞かれたらそう答えろと豊に言われていた。

「やたらとこだわってたのにな」

「仕方ないです」

「そうだな。俺もそう思う。自分の置かれてる環境の中で、一番輝ける方法を探すしかないんだ」

 颯太は黙ってうなずいた。自分自身に言い聞かせてきた言葉なのだろう。いくらインターハイに行くことだけを目指してきたのだとしても、高校最後の試合を、相手の竹刀から逃げ続けて終えることに、何も感じていないはずが無かった。

「小山にはそれを伝えたかったんだけどな。休部は本当に正しい答えなのかって。その前にあいつがヒートアップしたんだ。俺が豊を洗脳したんだと噛みついてきた。それで、俺も言い方が悪くなった」

「そういうことなんですか」

「ああ。ちょっと笑ってしまったけどな。小山の奴、俺に豊が動かせるなんて本当に思ってるのかな。必死に叫び続けて、それでもどうにもならなかったのに」

 うなずく他無かった。

「でも、一番動かしたい人の心は動かせたわけですね」

 我ながら下手な言い回しだった。北村は苦笑した。

「あいつ、お前のこと凄く買ってるみたいだぞ。お前なら例え佐久間相手でも何かを起こすような気がする、新藤の次に佐久間に片手突きを決めるのはお前かもしれないって、冗談ともつかない口調で言ってたよ」

「封印されちゃったんですけどね」

「ああ、そうだったな」

 本番で勝手に打っちゃえよ。北村はそう続けて笑った。颯太も彼に合わせて笑った。

「でも、付き合ってたなんて全然そんな様子無かったですね」

「最近だからな」

「いつ頃ですか」

「この前北高と練習があっただろ? あの何日か前だ」

 その日の部活後、北村は友人と夕食を食べに行き、帰りに一人で駅前のレンタルビデオ屋に寄ったのだという。

「棚と棚の間に一瞬玲奈の姿が見えたような気がしたから回り込んでみたら、あいつ、奥で洋画を選んでた」

 北村は思い出すように目を細めて訥々と話した。

「俺に気づいた玲奈は『さっきからずっと借りようか悩んでるの』とDVDのパッケージを指差したんだ。『悩むなら借りろよ』俺が言うと、あいつこっちも見ずに『悩んでる時間が楽しいの』ってそのまま動こうとしなかったよ。『友達がいてもお構いなし』そう続ける玲奈に笑いながら、俺はそれに付き合うことにしたんだ。そのDVDを一緒に覗き込みながら取り止めもない話をした。剣道と関係無いところであいつとそんな風に話をするのなんて考えてみれば中学以来だったし、なんだか凄く楽しかった。玲奈も同じみたいで、いつもよりも随分口数が多かった気がする。でも、しばらくして玲奈は流石に飽きたらしくて、もう帰るねって言いながらさっさと歩き出したんだ。俺は今の時間が終わってしまうのがなんだかもったいなく感じて、もう少し見ててもいいのにって呟いてた。するとあいつ、速めかけていた足を止めて、それもそうだよねって微笑んだんだ。その瞬間だよ、俺がいけるかもなんて分不相応なことを考えたのは」

 そこまで話して、北村は急に真顔になり、面白いかこの話? と聞いてきた。内容よりも『あいつ』と繰り返す様子に、自分の彼女を名前で呼ぶことへの照れを感じて、それが一番面白かった。颯太がうなずくと彼は話を続けた。

「そのまましばらく二人でビデオ屋で過ごした後、駅前の公園のベンチに移ってお互いの最近のことを話し合ったんだ。そこであいつの上手くいかない恋愛の話を聞いた。俺、気づいた時には告白してた。期待はしてなかった。知ってたからな、あいつが剣道の強い男にしか興味無いの」

「北村さんは強いじゃないですか」

「あいつの基準には達してないよ」

「でもOKだったんですね」

「ああ。北泉でのあのザマだって見てるのにな。だから、まあ、タイミングは大事なんだろうな」

「運命でしょう」

 茶化す颯太に北村は笑ったが、でもあの日あそこで会わなければ、あんなムードにはならなかっただろうし、結局いつまでも言えないままで終わってたのかもしれないなと言った。

 いつの間にか颯太の頭の中で、北村と玲奈の歴史が構成されていった。

 二人は幼少から仲良く遊ぶ間柄だった。剣道は玲奈が先に始め、北村は彼女に誘われて始めた。北村はいつまで経っても玲奈に勝てなかった。しかし、最終的には、本人の納得しない形だったとはいえ、部内戦で勝利する。そして、玲奈が怪我で剣道ができなくなったため、それが二人の最後の試合になる。同じ高校に進み、どちらも剣道部に入る。

 玲奈にとっては自分が諦めなければならなかった剣道を毎日見るのは辛いことだった。とりわけ北村に対しては思うところは多かった。膨れあがる気持ちを抑えつけながら、そして叶わない豊への片想いでさらに心をささくれ立たせながら、彼女は毎日を送っていた。

 一方の北村は、そんな彼女を想いながら気持ちを打ち明けられずにいた。同じ部で気まずくなるのも嫌だからと、告白は卒業まで待つことにしていた。ライバルの豊より剣道が弱く、北泉で惨めな負けを晒したことが気にもなった。しかし、外で偶然彼女に会い、その場の空気も手伝って告白することができた。そして、彼らは付き合うことになった。玲奈のささくれ立った心は、北村との毎日に癒やされ、回復していった。

 ――いや、そうじゃない。

 このストーリーには矛盾がある。颯太は、北村を見る自分の目が険しくなるのを感じていた。彼は本当に全てを正しく話しているのだろうか。

「仲良くやってるんですか」

 水を向けてみた。

「付き合ってすぐだからな。悪くなる暇も無い。何も問題なくやってるよ」

 北村はなんの気負いもなくそう答えた。

 ――じゃあ、なぜ防具はばらまかれたのですか。

 率直にそれを問うべきだろうか。樋口や甲斐は小山を疑っているようだが、あの犯人は明らかに玲奈だ。そして、北村もまた、それを知っている。気づいたのは、おそらくあの日の朝、防具をまとめ出した時だ。あの時、彼は明らかに何かあることを予感しながら、胴の裏側を覗いていた。外に置いていた防具を中に仕舞うきっかけになったという二年前の防具ばらまきと今回の件が繋がっている可能性に、あの時思い至ったのだ。胴の裏を覗いたのは、両者の共通点を確認するためだった。あのTの文字の意味はわからないが、おそらく二年前も同様のマークが胴の裏につけられていたのではないだろうか。それを確認し、両方の事件が繋がっていると確信した時点で、北村は犯人が玲奈だと確信した。二年前から剣道部に在籍しているのは、北村本人を除けば沢木・豊・玲奈の三名。そして、沢木と豊には、二年前の件については、法事でいなかったというアリバイがあるのだ。

 そして、彼女を庇った。

 彼が玲奈を犯人と見抜き、彼女を庇ったことは、容疑者から意図的に彼女を外そうとした彼の態度からも明らかだった。ミーティングで部室を使う時に中を片づけておいてくれる彼女が南京錠の暗証番号を知らないはずがない。それなのに、彼はいかにもロジカルな語り口で容疑者から玲奈を外してしまった。そして、颯太に論理の穴を突かれ、体育教師にまで容疑者の範囲を広げられて、あからさまに迷惑そうな態度を取った。そのまま再検討が始まって玲奈の名が浮上するのを恐れたのだ。そして、その日の昼、玲奈を交えて防具がばらまかれた話をしていることに怒りを露わにした。

 ――誰がやったかを暴きだして、何か生まれるものがあると思うか。

 そして、続けて言ったのだ。

 ――見当ついてるんだろうけど黙ってろよ。証拠も無しに適当なこと言うなよ。

 つまり、彼は犯人が玲奈だと気づいていて、かつ、颯太が同じく彼女を犯人だと気づいていることも知っている。その彼がなぜ颯太が抱いている疑問に気づかないのだろうか。すなわち、『なぜ玲奈は付き合った数日後に、道場に忍び込み、彼氏の防具をばらまいたのか』という疑問に。男女の関係には色んな形があるということなのかもしれない。しかし、付き合ってすぐだから仲の悪くなる暇も無いと答えた彼からは、なんの衒いも感じられなかった。まるで颯太の疑問に気づいてすらいないかのように。

「じゃあ、霧島さんはなぜ防具をばらまくようなことをしたのでしょう」

 颯太はついにそれを聞いた。

「じゃあってなんだよ」

 ぶっきらぼうに北村は答えた。「まあ、腹が立つんだろうな。自分が諦めた夢を俺が追っていることに」

 そして、睨むように颯太を見た。

「知ってるんだろ、あいつの怪我のこと」

「知っています」

「じゃあ、もういいだろ」

 北村はそう言うと不機嫌そうに窓の外に目を移した。

 ――それで仲良くやっていると言えるのかよ。

 颯太は心の中で呟いた。二人の間で済まされるべき話に周りが巻き込まれ、小山など無実の罪を着せられている。玲奈が犯人だと言うわけにもいかず、颯太はまだ樋口たちの誤解を解けないでいる。

 十分後、樋口がやってきた。部室に流れる空気の悪さに明らかに戸惑っていたが、豊のロッカーからラジオを取り出すと蓋を開け、中から鍵を取り出した。そして、何も言わずに道場へと向かった。それを何気なく見ていた颯太は、突然自分の間抜けさに思い至り、声を上げそうになった。自分は小山に合鍵の存在は教えたが、それをラジオの中に隠していることはおろか、部室に保管していることすら言っていないのだ。合鍵があるという情報だけから、その場所を見つけ出し、それを使って道場に入るなど、どう考えても不可能だった。それに早く気づいていれば、樋口と甲斐に誤解させずに済んだはずなのだった。


 自分が大きな思い違いをしていたことに気づいたのはその一週間後、六月に入ってすぐのことだった。その日の夜、部活を終え、帰ろうとしていた颯太は、ふと忘れ物を思い出し、学校への道を引き返していた。部のパソコンにある佐久間の動画を見ておけと言われているのに、もう何日も持ち帰るのを忘れていたのだ。豊との特訓のある日だったが、樋口と甲斐の練習が終わるまでまだまだ時間に余裕があり、急いではいなかった。颯太の行く道には街灯が並び、足元を明るく照らしているが、脇に逸れる道は暗く、目を凝らさなければ路上駐車のクルマの存在すら闇に紛れて気づけなかった。

 それらの道の一つに三つの人影を見つけた。最初に目に留まったのは北村の長身だったが、すぐに自分がそこにいる三人全員を知っていることに気がついた。後の二人は玲奈と、今暁の舞だった。北村も舞を知っているのだろうかと思いかけ、すぐにそれが当然だということに気づいた。三人とも同じ中学の剣道部なのだった。

 北村と玲奈が付き合っていることを舞は知っているのだろうか。それとも今その話をしているのだろうか。野次馬根性で足を止め、物陰から耳を澄ませていると、すぐに「じゃあね」という舞の声が聞こえ、足音が一つ遠ざかっていった。残った北村と玲奈の様子が気になり、ひょいと覗いて現れた光景に、颯太は自分の目を疑った。そこにあるのは予想通り、手を繋いで歩いてくる男女の人影だったが、颯太の想像とは一ヶ所が大きく違っていた。すらりとした肢体に思いきったショートヘア。北村と手を繋いで歩いているのは、明らかに舞だった。

 街灯の光を受けた鞄のアクセサリーが、その瞬間はっきりとMの文字を浮かび上がらせた。そして、その光は稲妻のようにして、颯太の抱き続けてきた思い違いを照らし出したのだった。

 北村がずっと想い続けてきたのも、現在交際しているのも、玲奈では無かった。そのことを颯太は今知ったのだ。

 グリーンスパイスで北村の話を漏れ聞いたところから、颯太の勘違いは始まっていた。

『同じ部だから気まずくなるのも嫌だし、告白は卒業してからって思ってたんだけど、そんなこと言っているうちに――』

 そう彼が話したのは中学時代の話で、後には『別の男に取られた』といった言葉が続いたのだろう。佐久間の弱点について『首筋』と答える舞の艶っぽい声が耳元で蘇った。

「久しぶり」

 同じ声が間近でした。舞がにこやかに微笑んでいた。ビリヤードのキューを突きつけてきた時と同じいたずらっぽい笑顔だった。颯太が必殺技と称して片手突きの練習をしていると彼女に話したのも、玲奈ではなく北村だったのかもしれない。ふと、そんなことが頭をよぎった。

「お久しぶりです。予想外の組み合わせに驚いています」

「岸谷君に会った、ちょうどあの日から、わたしたち付き合い始めたんだよ。あの後玲奈ちゃんとビデオ屋さんに行って、偶然彼に会ったの」

「こいつにはもう話したよ」

 北村が口を挟んだ。

 そう。颯太は全て聞いている。棚と棚との間に玲奈を見かけ、回り込んだところで舞の姿を見つけたことも、長い間棚から動かない彼女に痺れを切らした玲奈が帰るねといって歩き出し、それを追いかけようとした舞を北村の呟きが引き止めたことも、そして、その後は二人だけでビデオ屋に残ったのだということも、全て聞いていた。北村が照れて名前を出さず終始舞をあいつと呼んだため、三人の登場人物を二人と間違って受け取ってしまってはいたが。

「久しぶりに会って盛り上がったわけですね」

「よく見たら佐久間君より男前だしね。声も渋いからメールじゃなくて電話でアタックしてくれればもっと早くなびいてたかも」

「しょうがないだろうが、番号知らなかったんだから」

「聞く勇気も無いところがダメなの。それに二月以降についてはその言い訳も通用しないよ」

 舞はぴしゃりと言った。

「ホント口が軽いよな。何で初対面の奴に、大会中に馬鹿にされないと行けないんだよ」

 北村は本気で不機嫌そうだった。二人の会話から、彼がいつ舞の携帯電話の番号を入手したのかわかった。その場面を自分は見ていたのだ。新藤が樋口と甲斐を口説きに来た時、彼は颯太の手に自分の名前と電話番号を書いた紙を押し込むと、北村の手には舞の名前と番号を書いた紙を押し込んでいったのだ。

「面白いんだもん。駆け引きにもなっていないような中途半端なメールばっかり送ってきて」

 そして、颯太を見て笑った。「新藤君とかに見せて笑ってたんだ」

 言葉とは裏腹に、舞の表情に惚れられた側の優越感はほとんど見られなかった。ただ純粋に、とても幸せそうに見える。そして、そんな彼女を見ているうちに、彼女は、本当はずっと前から北村に告白されるのを待っていたんじゃないかと思った。剣道の強い男が好きだと振り上げた旗を降ろせずに意地のように佐久間を追いながら、北村からの連絡が一線を越えるのを待っていたのかもしれなかった。もし、そうだとすれば、あの新藤の行為にもまた、なんらかの形で舞の意思は作用していたのかもしれない。北村の手に押し込まれたあの紙は、かけてきて――という彼女の想いを乗せたメッセージだったのかもしれなかった。

「玲奈ちゃんも上手くいくといいのにね」

 確かに口は軽い。颯太は心の中で苦笑した。しかし、彼女のこの言葉にも、親友へのありがちな優越感は微塵も感じられなかった。純粋にそう思っているのが伝わってきた。ただ、その言葉は別の理由で、颯太を憂鬱にさせた。怪我のことだけではなく、北村だけが恋愛を成就させていることもまた、玲奈が感情を爆発させた理由なのかもしれない。防具がばらまかれたのは、北村と舞が付き合い始めた数日後だった。剣道ができなくなり豊との恋愛も上手くいかない自分と、インターハイを目指し彼女もできた北村。その差にやり場の無い怒りが膨れ上がったのかもしれなかった。

「あまり霧島さんに見せつけない方がいいかもしれません」

「なんでだよ」

 何気なく発した自分の言葉が地雷を踏んだことを颯太はまだ気づいていなかった。

「北村さんだけが全てを手にいれたところを見せつけられるのが、おそらく彼女には一番辛いことだからです」

「じゃあ、俺は剣道をやめ、彼女も生涯作らずに生きるべきだっていうのか」

「いや、そんなことは――」

 北村は舞の存在を忘れたかのように、颯太に詰め寄ってきた。

「事情通ぶって偉そうにしやがって。玲奈が剣道を諦め辛い思いをしていることと、俺が充実して生きることと、なんの関係があるんだ」

 北村は更に迫ってきた。

「玲奈が苦しんでいる以上、俺には楽しく生きる権利なんてないと、お前はそう言いたいのか」

 颯太は強く首を振った。玲奈の苦しみに北村が合わせる必要などどこにもない。デリカシーが無いのは北村ではなく自分だった。自分だけが夢を追っていていいのか? 北村がその葛藤に苦しんできたことはその目を見れば一目瞭然だった。

「あの日に戻れたらと何度考えたか。あの時、あいつとまともに勝負していればと何度考えたか」

 震える声でその言葉をぶつけてくる北村は、やがて舞に引っ張られるようにして去って行った。


 あまり霧島さんに見せつけない方がいい、北村にそう言ったにも関わらず、彼と別れて校門をくぐり、道場の窓から漏れる明るい光を目にしてもまだ、それが起こる可能性は完全に颯太の想像の外にあった。

 近づいてみると道場のドアはわずかに開いていて、そこから漏れた光が、まるで中へと導く細い道のように、筋となり伸びていた。颯太はそれを辿るようにして歩いていった。その途中のことだった。ドアの隙間から何かを打ちつける激しい音が飛び出してきて、颯太の足を止めた。その音はそれからも断続的に続いた。やがて打ちつけられる音に、物が壊れる乾いた音が加わるようになった。そして、ぷつりと物音が途絶えた。しばらく外で待ち、完全に音が止んだことを確認すると、颯太はそっとドアを開いた。

 道場内に異変は無かった。その代わり、倉庫の中で予想した通りの光景が広がっていた。手に握られた竹刀は鐔のすぐ上から折れていて辺りには破片が散らばっていた。

「どうしたの」

 玲奈は顔だけをこちらに向けて言った。

「ちょっと忘れ物を。そっちこそ何をしているんですか」

「素振り」

 玲奈の言葉に少し笑うと、颯太は靴を脱ぎ、道場に上がった。

「北村さんが憎いんですか」

「あまり驚いてないみたいね。私がしてることに」

 玲奈は質問には答えず、そう言った。崩れ落ちたように道場の真ん中に座り、竹刀の残骸を両手で握りしめる彼女は、まるで何かに祈っているかのように見えた。彼女が握る竹刀の柄にカッターで彫られた記号があった。Tの字の縦棒の真ん中から右に向かって線が伸びていた。颯太はやっと胴に書かれていた字の意味が理解できた気がした。あれはTでは無く正の字の最初の二画だったのだ。おそらく一画目は、颯太が入る前の夏、最初に防具がばらまかれた時に記されたものなのだろう。北村はそこに今回縦線が足されているのを見つけ、前回と同一犯によるものと、ひいては玲奈によるものと断定したのだ。

「彫るのは、胴にって決めてたんじゃないですか」

「全然。どうして?」

「なんとなくです。一本ずつ足していく方が、連続性があって美しいから」

「別に、美しさを求めてやってないし」

 玲奈は少し楽しげだった。

「正の字が完成すると、何が起こるんです?」

「さあ。私にもわからない。あと二回待ってみる?」

 彼女はそう言って笑った。「それより、あまり驚いていないのはなぜ? 気づいてたの、私だって?」

 颯太はうなずいた。

「最初からそんな気はしていたので」

「どうして?」

「霧島さんが、剣道経験が必要な仕事をしないこととか、剣道経験者ならではの話をしないことに、ちょうどあの日の前日、気がついたんです」

「それと、防具のばらまきがどう繋がるの」

「霧島さんは以前、剣道の話をしても気持ちが暴走することはなくなったって言ってましたけど、実際のところはまだ剣道と距離を取っている。つまり、霧島さんは言葉とは裏腹にやっぱり心の中で暴走の火種を抱えていて、それを必死に抑え込んでるんじゃないかって思ったんです。その矢先の出来事でした。だから、散らばった防具を見て真っ先に頭に浮かんだのは、霧島さんでした」

「安直ね」

「でも、防具に当たるっていう発想は剣道をやってる者からしか生まれないだろうから、犯人が剣道関係者なのは間違いなさそうでしょ? それに、そういう人が度々現れるとも考えにくいから、僕らが入る前の夏に北村さんの防具がばらまかれた件も、おそらくは同一人物による可能性が高い。そう考えると一昨年からこの学校にいる今の三年生と沢木先生しか残らないんです。北村さん本人を除くと豊さんと霧島さんと沢木先生の三人だけ。そして豊さんと沢木先生には、一昨年の方については、法事で田舎に帰ってたっていうアリバイがある。残るのは霧島さんだけなんです」

 玲奈は失笑を浮かべると竹刀をゆらゆらと揺らした。推理が粗すぎるとその顔が言っていた。挑発に乗ってしまっているのを感じながら、颯太は言葉を続けた。こんな探偵の真似事をする必要などどこにもないはずだった。犯人はすでに自白しているのだ。

「確信したのはあの日食堂で話した時です。あの時、霧島さんは、本来であれば言えないはずのことを口にしているんです。気づいていましたか」

 玲奈は黙って首を振った。

「ばらまかれた防具の倉庫内での位置を、僕が説明しようとしていた時のことです。あの時、竹刀置場を示したら位置関係がわかりやすいんじゃないかって、霧島さん言ったでしょ。あれがミスなんです」

 玲奈は颯太が何を言いたいのかわかったようだった。小さくなるほどと呟いた。

「霧島さんがこの件を知ってからそのコメントをするまでの間に、防具がばらまかれたのが倉庫だったということは誰も口にしていません。だから、あの段階では、霧島さんはまだ、現場が倉庫だと知っていてはいけなかったんです。防具が床にばらまかれたとだけ聞いて、現場が倉庫だなんて普通は思いませんよね。防具が置いてあるのは道場なんですから」

「その通りね」

 彼女はついにそう言った。

「樋口と甲斐はまだ、小山のせいだと思っています」

「それは気になってた。誤解を解かないとと思いつつ、なかなか自分がやったとは言い出せなかった」

 そして、破壊された竹刀に向けていた目を颯太に向けた。

「颯太君は小山君のことは全く疑わなかったの?」

「小山だったら僕は仮に現場を押さえていても信じられなかったと思います。彼が、彼の信じる剣道の精神に反することをするはずがない。唯一の例外が、それが豊さんのためになる場合です。例えば、北泉で守りに徹した時」

「それから、北高に反則技の伝授をお願いしに行った時ね」

 颯太は驚いて玲奈を見た。

「気づいてたんですね」

「変だったからね、桑原先生の反応が。話が違うぞって顔してたから、誰かがお願いしに行ったんだろうなとは思った。それが小山君かなっていうのはただの勘だけど」

「小山で間違いないと思います」

 颯太は答えた。

「練習試合の翌朝、小山は、その前の週末に長槻に来ていなければ知らないはずのことを知っていました。それなのに、彼は、週末は家に引きこもっていたと僕に話したんです。なぜ嘘をついたのか。長槻駅に来た理由が、僕には隠したいものだったからでしょう。北高行きのバスに乗るためだったんだと思います」

「嘘が下手なのは私だけじゃなかったのね」

 剣道部を休部した小山は、それでも豊のためにできることを探し求めていた。甲斐との会話の中で豊が反則技を取り入れたがっていると思い込んだ小山は、桑原にそれを頼むことを決意する。反則技に嫌悪感を示し続けてきた豊が今更頼むのは難しい。自分が頭を下げて少しでもスムーズに進むのであればと思ったのだろう。しかし、桑原の電話番号を知っているのは豊だけだった。だから、小山はバスを使い、直接反則技の伝授を頼みに行くしかなかった。小山は長槻が方針変更したのだと桑原に説明した後、自分が来たことは伏せて欲しい、豊さんからはとても頼めないことだろうから自主的に来たのだと言って帰った。当日、豊のいつも通りの毅然とした断り方を見て、桑原は何かを感じた。小山の話が本当なら、表面上は断っても、どこかに隙があるはずだった。しかし、豊はいつも通り完全に拒否している。小山の不在も気になる。何かがおかしい。そして、颯太に小山の話をしに来た。小山休部の話を聞き、桑原は反則技伝授のお願いが小山のスタンドプレーだと理解したのだろう。そして、反則技も辞さない小山と、それを受け入れない豊という誤った構図が桑原の頭の中にできあがってしまった。だから、長槻が合わないなら北高に来いと伝えてくれという彼の言葉は冗談ではなく、本心だったのだろう。

 桑原が完全に誤解してしまうくらい小山は熱心だったということだ。

 ――豊さんのために何かがしたい。

 小山は自分の気持ちを何度も奮い起して、桑原に頭を下げたのだろう。胸を締めつけるような痛みが走った。反則技を教えて欲しいと頭を下げる。事情があるとはいえ、それは小山が常々語っていた正々堂々の精神とは対局にある行動だった。

「そういえば、来る途中でケンちゃんと舞ちゃんに会ったんじゃない?」

 思い出したように玲奈が言った。

「はい」

 颯太はうなずいた。

「あの二人付き合ってるんだよ」

「さっき聞きました。霧島さんも今日聞いたんですか」

「ううん」

 玲奈は首を振った。「当日。三人でビデオ屋にいて、さあ帰ろうって歩きだしたらついてきてなくて、店に戻ったらなんかいい感じで、そこに私のいる場所なんかなくて……。一人で家に帰ったら、晩に舞ちゃんから電話があったの」

 玲奈の話し方は、とても苦しそうで、そうですかと返す自分の声もまた神妙なものになっていた。それに気づいたのか、玲奈は努めて明るい声で聞いた。

「幸せそうだった?」

「北村さんは後悔していました」

 今の自分は危険だと颯太は思った。言うべきかそうでないかの判断のつかないまま、口の中に生まれた言葉をそのまま垂れ流している。しかし、言葉は止まらなかった。

「霧島さんを突き飛ばして勝ったことをです」

「前聞いたよ。最後になるならまともに勝負しておけば良かったって思ってるんでしょ」

 颯太は首を振った。玲奈は黙って竹刀を揺らしている。

「突き飛ばしたこと自体をです」

 玲奈の手の中で竹刀が動きを止めた。

「ふうん。変わったの」

 おかしそうに言ったが表情は硬かった。

「変わったというか、気づいたんでしょう。この数ヶ月の間に」

「どうして今頃」

「わかりません」

 颯太は正直に答えた。

「勘のいい誰かさんが引っ掻き回すからかもね。騙されたふりでどうせこれも気づいてたんでしょ」

「はい」

 ――事情通ぶって偉そうにしやがって。

 耳の奥で北村の声がした。自重するべきかもしれなかった。しかし、やはり口は止まらなかった。

「霧島さん、階段を落ちた時の様子を、滑り台を滑り降りるようにして落ちたって表現したでしょ?」

 玲奈はうなずいた。

「でも、滝田さんは霧島さんが階段を落ちた時、霧島さんは登ってるところだったって話してるんです。おかしいと思ったのはその時です。僕には登ってる時に転んで、背中から滑り落ちるというのがどうしてもイメージできませんでした。普通に考えれば、うつ伏せに倒れるでしょう」

「それで階段から落ちたというのが狂言だと」

「はい。その時、霧島さんは手に洗い終わったポットやコップを持っていました。あなたは見える範囲に誰もいないこと、ただし音が聞こえる範囲には人がいることを確認し、それを階段の上方に向かって投げ上げ、派手な音を起こしたのでしょう。そして人が集まってくる前に、まるで滑り落ちてきたかのような格好で階段の一段目に座ったんです。ただ、なぜそんなことをしたのか、それはすぐにはわかりませんでした」

 話を切って玲奈を見ると、彼女は促すように顎を小さく動かした。

「一番に思いつくのは、きつい合宿から逃げ出したくて怪我をしたふりをしたというものです。でも、もしそうだとするとその怪我のふりを今まで続けていることになる。そんなはずがないので怪我は本当なのでしょう。となると、あなたはその時には既に怪我をしていて、その真の原因を隠したかったのだとしか考えられません。そして、あなたはこの直前にひとつ、怪我をしていてもおかしくない体験をしている」

 玲奈はその大きな瞳で颯太を見つめていたが、やがて目を伏せて笑った。

「なるほど。第三者がいとも簡単に想像できちゃうことを、ケンちゃんは今頃になって気づいたわけね」

 颯太はうなずいた。

「少なくとも、北高がうちに来た日――僕が騙し小手で奥田に負けたあの日――までは、まだ気づいていなかったのだと思います。あの日に、僕は霧島さんとの勝負の話を聞いたんです。あの時、北村さんは僕の言葉を訂正してまで、怪我の原因は勝負ではなく、その後の事故だったのだと話しています」

「でも、その一週間後にはケンちゃん、気づいてたよ」

「えっ?」

 颯太は驚いて彼女を見た。

「どうしてわかるんですか」

「言いに来たからね」

 玲奈はぽつりと言った。「私の家の近くに沼があるの。小さい頃にケンちゃんと一緒に見つけた沼。凄く落ち着く空間で、悩んだり落ち込んだりした時によく行く場所なんだけど、そこに彼が言いに来たの。言わせなかったけどね。何も気づいてないっていう態度で、目だけで制した。聞いてしまえば何かが壊れてしまいそうで怖かったから。なんとかバランスを取ってる私の心が、彼にその話をされることをきっかけにどうなるか、自分でもわからなかったから」

 そう話す玲奈の声は小さく震えていた。

「怪我の原因を隠していたそもそもの理由は、北村さんに責任を感じさせたくなかったからですか」

 玲奈は小さくうなずいた。

「試合が近かったからね。メンタルの弱いケンちゃんがこれをきっかけに崩れるかもしれないと思ったの。隠しきれてるとは思ってなかったんだけどね。階段に座る私に彼が駆けつけてきてくれた時、痛み押し殺して大丈夫なんて笑ってたけど『あんたのせいで』っていう思いが目に込もるのを完全に防げた自信は無かったから」

「自分の怪我の重さを、その時には自覚していたんですね」

「まさか」

 玲奈は首を振った。「こんなに酷いとは思ってなかったよ。それでも、数日で治るものじゃないのはわかったし、二週間後に控えていた試合に出られそうにないことはわかってたから、やっぱり恨みがましい目で見てしまったと思う」

 そして、会話が途切れた。遠ざかっていく電車の音が遠くに聞こえた。それが聞こえなくなると完全に近い静けさが訪れた。やがて、一つの小さな咳がその静寂を破った。隣を見ると、玲奈が顔をしかめていた。

「咳をするとね、痛むの。それを知ってるから、ケンちゃん、前はよく咳するたびにさすってくれたんだ。あの日も、そうしようとしてくれたんだと思う。咳をした瞬間、背中に腕が回される気配がして、彼の顔に目を向けたら、決心固めた目が私を見つめてた。その時に初めて知ったの、彼が怪我の原因を知ったことを。そしてそれを口にしようとしていることを。私、反射的に拒絶してた」

 彼女の目が微かに光って揺れた。

 北村は何をきっかけにその一週間で怪我の原因を知ったのだろう。一つ確かなのは、こればかりは『事情通』の自分が原因ではなさそうだということだった。当時の颯太は、北村の話に出てくる相手が玲奈であることすら知らなかったのだから。

「颯太君知ってた?」

 独り言のような玲奈の言葉が倉庫の中で小さく響いた。

「怪我してダメになったらね、ずっと笑ってないと駄目なんだよ。ちょっとイラっとしただけで、特権ふりかざしてるみたいに見られて。気を使わせ続けると、それは絶対いつか自分に対するうとましさに変わるから」

 涙に濡れた、胸が締めつけられるような声だった。

「だからずっと笑ってきたんですね」

 颯太はようやくそれだけを言った。

「そう。でも、どうしたってね、自分の中でどす黒いものは溜まっていくの。特にケンちゃんへの憎しみは、それが理不尽なものだってわかっていても抑えようがなく膨らんでいく。私にとっても剣道は夢だったからね。私にはもう夢は見れないのに、それを潰した本人は夢に向かって走ってる。辛くて辛くて。それでも笑ってないといけないの。なぜなら私の怪我なんて他の人にとったら、もう済んだイベントで、辛そうにしている理由にそれを上げても、いい加減に立ち直れよと思われるだけだから」

 そんなことはないとは言えなかった。何ヶ月も何年間も同じ理由でため息をつき続ける者の近くにいて、うとましさが生じないと言い切ることはできなかった。代わりに颯太は、掃除をしましょうと言った。竹刀の残骸が道場中に飛び散っている。

「私がやるからいいよ」

「わかりました」

 颯太は素直に立ち上がった。早く一人になりたい気分なのかもしれなかった。倉庫を出て道場の真ん中辺りに来たところで玲奈の声がした。

「後でケンちゃんに会ってみる」

 振り返ると玲奈が真っ直ぐにこちらを見ていた。どこか危うかったさっきまでの目とは違う、何かを決心した目だった。

「それから、防具のこと皆にどう言うか今日中に考えておくね」

「ただの喧嘩でいいと思いますよ」

 颯太は答えると、返事を待たずに外に出た。佐久間の動画を持って帰るのを、またまた忘れたことに気づいたのは、乗り込んだ電車が長槻駅を出発し、随分経ってからだった。


 林の中は暗く全く明かりが無かった。沼へと続く道を歩きながら、北村はずっと一つの場面を思い返していた。

『大丈夫だよ、ケンちゃん』

 あの夏、階段の一段目に座った玲奈が、こちらを見てそう言った時、北村は安堵すると共に、ただ小さくうなずいていた。彼女のその言葉を疑ってみることすらしなかった。周りの空気がじっとりとまとわりつくような不快な季節で、日は沈もうとしているのに、全身からは常にじんわりと汗が染み出し続けていた。足元のコンクリートは汚くひび割れ、少し離れた場所には彼女の代わりに落ちて欠けたコップが転がり、誰かが呼んだ救急車のサイレンが遠く小さく聞こえていた。

 数ヶ月前、改めて考えてみればいたって妥当な解を突きつけられ、目を背ける間もなく真実が全身を満たしていったあの瞬間まで、北村は何もわかっていなかった。しかし、振り返ってみれば、それを裏付けるような予感やヒントは、至る所にばらまかれていた。例えば、黒江に突き飛ばされ床に身体を打ちつける豊を見つめ、やめてと呟く玲奈の声――そこにこもる熱の異常さは、確かに普通では無かった。

 その日から、北村は激しく自分を責めた。そして、彼女の剣道人生を奪った重い事実に苦しみ抜いた後、かけなければならない言葉を紡ぎあげていた。頭を下げたところで許されるはずがないことはわかっていた。ずっと続いてきた自分たちの仲が少なからず形を変えるであろうこともわかっていた。それでも言うと固く決めた言葉があった。それなのに――何も言えなかった。彼女の鋭い視線に貫かれて、強かったはずの決心は脆くも崩れ去っていた。

 立ち入り禁止の柵にたどり着くと、その向こうにあの時と同じようにか細い小さな背中がこちらを向いていた。あの時と違うのは、彼女がここにいることを前もって知っていたということだった。北村は今日玲奈に呼び出されてここに来ていた。

 彼が柵を乗り越えている間、彼女は振り返らなかった。彼女の横に並ぶと、北村はそっと腰をおろした。

「お前の怪我の本当の理由、知ってたんだ。知ってて目を逸らしてた」

「怪しいなあ。ケンちゃん鈍感だから。颯太君にでも教えてもらったんじゃないの」

 北村は驚いて玲奈を見つめた。その通りだと心の中で呟く。

『そんなに激しくぶつかったんですか』

 北村が突き飛ばしたせいで怪我を負ったのか――あの日、そう訊ねてきた彼のその言葉は、鋼の鞭のように北村の心を打った。突き飛ばされて背中を打ったという事実と、怪我で選手生命が絶たれた事実、この二つを結ぶものとして、それは最も妥当な解だった。それに気づいた時、誤解だと説明しながら、北村はもう自分の言葉を信じてはいなかった。記憶の中のあちこちに、裏付けの材料が転がっていて、それが妥当な解というよりも正解なのだと、北村に教えていた。

「ごめんね、防具」

「いいよ。もっとやられても文句は言えないんだ。幸い何も壊れてないし」

「今度は壊しちゃった」

 玲奈はそっと北村の前に右手に握られたものを差し出した。鍔より上が丸ごとない、竹刀と呼ぶには無残すぎる代物だった。二人はしばらく見つめ合っていたが、同時に吹き出した。

「派手に折ったな」

「うん。ごめんね」

 そして笑顔のまま続けた「ケンちゃんは、謝らないでね」

 北村は息を呑んだ。再び、言うと決めた言葉を抑えられてしまったのだ。

「女だからって手を抜かずにライバルとして見てくれてたこと、ずっと嬉しいと思ってたんだから」

「自分より強い相手に手抜く馬鹿がいるかよ」

「みんなどこか加減してた、私より弱くても。そして負けたことをそのせいにしてた」

 それから長い間、二人は無言のまま沼を見ていた。今日も明るい月が水面に浮かんで、揺れていた。風は前に比べてずっと温かくなっていた。左腕に空気の揺れを感じて隣を見ると、玲奈が立ち上がっていた。

「インターハイ予選頑張って」

 少し早口で言った後、彼女は「言えた」と微笑んだ。

「ケンちゃんにこんなこと言える日が来るなんて思ってなかった」

「無理しなくても――」

「ううん」

 玲奈は北村を見下ろし、首を振った。「自分のため。ずっと色んなものを憎んでいても、それは絶対健康なことじゃないから」

 玲奈の顔が一瞬月に照らし出された。青白い光を受けたその端正な横顔は息を呑む程美しく、北村は状況も忘れて見惚れていた。

 本当にぼうっとしていたのだろう。気づけば、北村のそばから玲奈は消えていた。辺りを見渡すと、彼女の姿は柵の向こう側にあった。それが完全に見えなくなるのを待って北村は立ち上がった。抑えきれない熱いものが体の奥底から湧き上ってきていた。北村は近くに落ちていた石を掴んだ。狙いを定め、沼から突き出た棒に向かって投げつける。カーンという金属音が響き、北村は驚いて棒を見た。棒は小刻みに震えている。それが完全に止まり、静かな沼が戻ってきてからも、北村はそのまま、そこに立ち続けていた。


        十六


 夜の薄暗い病棟は不審者の侵入を阻み、固く扉を閉ざしていた。開かない自動ドアの前で豊は、インターホンを押すでもなく、父を呼ぶでもなく、ドアの前に立ちつくしていた。颯太との練習の後、気づけばここにいたのだった。もう十一時になろうとしていた。豊の足は動かなかった。八階の個室でベッドに横たわる骨と皮だけになった父の姿が、目の前のガラスに映し出された。そんな姿になっても父はいつも治療費のことを気にしていた。

 突然、そのドアが開いた。中から患者の家族と思われる中年の男性が出てきた。豊に軽く会釈しながら横を通り過ぎていった。会釈を返し、ドアが閉まる前に中に入る。

 病室に入ると、父はいつものように豊が何も言う前から「豊か」と言った。

「どうしていつもドアを開けただけで俺だってわかるんだ」

「なんとなくだな。入ってきた時の空気の揺れでお前だとわかる」

「そうなんだ」

 少し感動しながらベッドのそばに立ち、父のげっそりと痩せた顔を見下ろした。こちらを見返すその顔が突然破顔した。

「そんなわけ無いだろ。ノックもせずに入ってくる失礼な奴が家族を含めてお前しかいないからだよ」

「なんだ、そんなことかよ」

 豊はソファーに腰を下ろした。

「生命保険は借金の返済をしても少しは余る」

「何回も聞いたからいいよ、金の話は」

 豊はソファーの背に身を預けると言った。

「将来家を買ってやるのが俺の夢だったんだけど、もう時間が無いな」

「家なんて、あるじゃないか」

「覚えてないかもしれないけど、小学生の頃、友達にあの家のことをボロいって言われたことがあったんだ。それを耳にした父さんの顔、見てられないくらいに辛そうだった。それ以来、家を買うのが俺の夢になった」

「それはな……」

「知ってるよ。でも、見続けてきた夢が突然消えてなくなるわけもないだろ。剣道だってそうなんだ。試合に気のないふりをずっとされてきて、突然インターハイ出場が夢だったなんて言われても、簡単に対応できるわけないんだよ」

 父のせいではない。父の夢を叶えるというのは自分一人で決めたことだったし、気持ちの制御に時間がかかり、失う必要が無かったメンバーを休部に追い込んでしまったのも、自分の未熟さが原因だった。

 父は長い間豊を見つめた後、言った。

「ノート、読んだんだな」

 豊はうなずいた。

「家の話まで知ってるのか。母さんは、最新のノートだけを机の上に置いたはずだけど」

「俺は母さんと違って一冊で終わる程自制の効く人間じゃない。あらかた読んだよ」

 父は首を振った。

「母さんは多分読んでないよ。『ここに豊の知りたいことが書いてあるんでしょ』そう言って、俺が仕舞おうとしたノートを取り上げたんだ。『見せてもいいわよね。人間、本当に知られたくないことは日記にも書かないものだから』って」

 父はそう言うと大きく息をついた。

「もう全部知ってるんだな。桑原の家についての不用意な発言で始まった嫌がらせのことも、それ以来あいつの前に出ると蛇に睨まれた蛙みたいに動けなくなることも、そして、それを取り除きたい一心で、お前らのインターハイ出場に賭けていることも」

「ああ。そして、俺は暴走した。汚い剣道で勝って父さんが喜ぶはずがないってことに気づいた時には、小山はいなくなってた」

 豊は小さく深呼吸をした。また、父のせいにしかけている。

「今日、部活の帰りに小山に会ったんだ」

 豊は話し出した。会ったのは偶然だった。お久しぶりですと最初に話しかけてきたのは小山だった。『反則技やめたって聞いてほっとしました』そう言って覗き込むようにして豊の顔を見た。その目を見て豊は初めて気づいた。『お前が桑原に頼んでくれたんだな』豊の質問に小山は答えなかった。『辛い想いをさせたな、でも元々反則技なんて使う予定無かったんだ、誤解させた俺が悪いんだけど』嘘をついた。口に出してこそいなかったが、あの頃の自分は北高の反則技を吸収することを本気で考えていた。小山はおそらく自分の嘘を察知していただろう。しかし、それには触れず、ただ、『とにかくほっとしました。断ってくれなかったら、僕はずっと自分を責めていたかもしれません』とだけ言った。『戻ってきてくれないか。お前がいた頃と何も変わっていないんだ』豊の言葉に、小山はきっぱりと首を振った。『今岸谷君や北村さんがやっている練習についても僕は賛成できません』そして、その中に混じって剣道をするのが苦痛だというよりも、批判的な自分が混じることで今のまとまりを壊してしまうのが怖いのだと続けた。

「俺、何も言えなかったよ。色んな考え方の選手をまとめ上げる才覚なんて俺には無いから」

「このまま小山抜きで走るって決めたのか」

 豊はうなずいた。

「お前が決めたのなら、俺は何も言わない」

 そして――と、彼は呟くようにして続けた「謝ることもしない」

「もちろん。俺が決めた道だ。謝られたって困る」

「小山も同じことを言うだろうな。彼もまた自分で決めたんだ」

「そうだね」

 父の枕元に置かれたカレンダーが目に留まった。五月はもうまもなく終わろうとしていた。彼の病気を豊が知ってから早くも三ヶ月が経っていた。豊の目線に気づいたのか父が言った。

「インターハイ県予選まで後一ヶ月を切ったな。それまではなんとか生きてられそうだ」

「今まで偉そうにしてすみませんって、桑原に土下座させてやるよ」

 父は軽く笑った。

「そうだ。生きてるだけじゃ駄目だな。見に行けるだけの体力もつけておかないと」

「母さんは約束してくれたよ。担いででも連れて行くって」

「そうか。母さんが約束したなら、安心だ」

 そして、父は目を閉じた。「悪いけど、そろそろ寝るぞ」

 すぐに規則正しい寝息が聞こえてきた。豊は立ち上がり、さっさと病室を後にした。寝ている父を見るのは好きでは無かった。そのまま二度と起きてこないような気がするからだった。


 数日後の昼休み、豊は颯太を食堂に呼び出した。

「必殺技の練習、今日から毎日やりたいんだけど、どうだ」

「どうしたんですか急に」

 カツ丼のカツが彼の口元で止まった。

「お前には悪いんだけど、最初はそれほど期待してなかったんだ」

 颯太は続きを促すように無言で豊を見つめた。その真剣な表情に、胸が痛んだ。それほどどころではない。期待はゼロだった。わざわざ時間をとって片手突きの練習を入れてきたのは、彼が普段の練習でそれを打つのをやめさせるためだった。そもそも守りばかりさせているのは、守りに入られた場合の崩し方の練習台として考えているからで、北村はともかく颯太を試合の戦力として見たことなどなかった。片手突きの繰り返しは、彼の守りを隙だらけにして練習台としての価値を落とすだけでなく、危険でもあった。ただ、無理矢理やめさせて、やる気を無くされるのも怖かった。士気低下がちょっとしたきっかけで起こることも、それが与えるインパクトも、北泉直後に嫌という程味わっていた。そこで、片手突きに特化した練習を別途入れることで、彼のやる気を維持しつつ、普段の練習では打たせないようにしてきたのだった。

「清竜のビデオを何度も見ているうちに、佐久間に必殺技を決めるのは、それほど無茶なことではないような気がしてきたんだ」

「どういうことですか」

「佐久間はここ一番の勝負で勝つために、試合の中で徹底した効率化を計っている」

「確かに、弱い相手には手を抜くと、樋口や甲斐から聞いたことがあります」

「正確に言うと、一番体力や精神力を使わずに済む方法を取ってるんだ。だから、確かに弱い相手に本気で対峙することは少ない。でも、あっという間に二本取れるくらい弱い相手には、集中して勝ちに行ってる。だらだら時間を使うよりもそっちの方が消耗せずに済むからね。要はどっちが楽かなんだ」

 なるほどと颯太はうなずいた。

「仮に俺らが前三人で決めることに失敗して、引き分けの状態でお前まで回ったとする。残念ながら一本目を取られるのは時間の問題だろう。ただ、その過程で、二本目を取りに行くよりも、このまま時間切れに持ち込む方が楽と思わせることができれば、そのまま耐えきることは不可能では無いはずなんだ」

「守りは堅いが攻撃は一辺倒で御しやすいと思われれば一番いいわけですね。そうして相手の油断を誘った上で、終盤に一発勝負に出る。成功すれば代表者戦に持ち込めると」

 さすがに飲み込みが早い。宇高はその通りだとうなずいた。

「ただ、一つ問題がある。取られた直後の佐久間は異常に強い」

「それも聞いたことがあります。本気佐久間って呼ばれてるとか」

「ああ。だから、起死回生の一発を狙うタイミングは試合時間が終了する直前でないといけない」

「それをどう計るんです?」

 颯太が身を乗り出してきた。豊は思わず口ごもった。そこなのだった。コートの外から合図を出すことは厳密には禁じられているが、ある程度は黙認されているから大丈夫だろう。しかし、インターハイ県予選の会場でストップウォッチはむろん使えない。時間の感覚を磨いても自分の体内時計ではせいぜい三十秒単位の計測が関の山に思える。三十秒あれば佐久間はきっと取り返す。豊の様子から、まだ案が無いことを悟ったのだろう。颯太は椅子に座り直すと、そこがネックですよねとうなずいた。

 その問題は宿題にすることにして、二人は昼練のために道場に向かった。

「最近よく清竜のビデオを見てるんですか」

「ああ。データで勝つ確率を少しでも上げられないか。最近そればかりを考えてる」

 道場にはまだ誰も来ていなかった。電気をつけ、竹刀を取りに倉庫に向かう。

「この前、久しぶりに先生の病室に行ったんだ」

「どうでしたか」

「まあまあ、元気だったよ。でも、先生のための見舞いというよりも逃げ込んだというのが正しいかもしれないな」

「どういうことですか」

「学校の帰りに小山に会ったんだ。反則技を使わないって知っても、やっぱり戻れないって言ってた。今の長槻は、どっちにしても受け入れられないって。それを聞いた途端、なんだか得体の知れない焦りが一気に込み上げてきて、お前との練習が終わった後、気づけば先生の病院の前に立ってた」

「先生はなんと言ってました」

「小山の選んだ道だと」

 正確ではないが大きく間違ってもいないだろう。

「僕もそう思います」

「そうかもしれない。でも、改めて独りになって考えるとな、本当の意味で自分の道を選ぶことなんて、俺にしかできないってことが身に沁みてわかってきたんだ。小山は前のままの長槻で剣道をやりたいと思ってるだろうし、北村はもっと手段を選ばずにインターハイに向かって突き進みたいと思ってるかもしれない」

「でも、それがリーダーの特権でしょう」

「特権には必ず義務がついてくる。俺はそれをきちんと果たさなければならない」

 果たせているか不安で仕方がないという言葉をすんでのところで言い替えた。

「それで清竜のビデオを?」

 豊はうなずいた。

「前三人については何度も研究してるけど、的場と佐久間についてはおろそかになってた」

「捨てていたからですね」

 颯太が睨むふりをした。

「捨ててはいない。捨ててたらこんなに守りの練習ばかりさせるわけないだろ」

 また、嘘をついた。

 ――いや、嘘なのだろうか。

 豊は思い直した。少なくとも完全に捨てていたわけではない。もし、完全に捨てていたなら、新オーダーでわざわざ小山に代えて颯太を起用するはずがなかった。今のオーダーを決めた時、自分は確かに颯太に期待をしていた。何かを持っていると感じたのだ。もっと冷静にならなければならない。少し偽悪的になりすぎているのかもしれなかった。

 豊は手を前に突き出し、打ち込み台を指さした。

「打ってみろ」

 颯太は黙って打ち込み台に向かって竹刀を構えた。静かな時間が過ぎ、それは突然破られた。突きという大きな声と同時に突き出された竹刀は正確に突き垂れを捉え、すぐに颯太の手元に戻った。後にはカタカタと揺れる打ち込み台だけが残った。

 その時、窓からかっと日が射し込んできた。目を上げると雲間から顔を出した太陽が、まだ六月も始めだというのに暑い夏の到来を予感させて、ギラついていた。その眩い光の中に、豊は清竜と対峙する自分たちの姿を確かに見た。

 颯太にばれないように息を吸う。

 もうまもなく、その日はやってくる。

 インターハイ県予選は三週間後に迫っていた。


        十七


 ――インターハイ県予選前夜


 空気のぬるい夜だった。家を出た豊は右手に竹刀の重さを感じながら、裏山へと続く道を歩いていた。明日の今頃には、全てが決まっている。どのような結果が待っているのか全く見当がつかなかった。全力で走ってきたが、その結果自分たちがどの位置にいるのかは、まるでわからない。もしかすると清竜などから見れば自分たちは遙か下の方でうごめいているだけの存在なのかもしれなかった。それでも、怖れは無かった。半信半疑で進んできた道だが、間違いじゃなかったと今なら言える。やれることは全てやった。後は神頼みしか残っていない。

 道路から外れ、木々の中に歩を進めていく。半年ほど通っていない道だったが、体は覚えていた。進むべき道へ手が勝手に懐中電灯の光を向けていた。体に引っかかる枝を振り払いながら、豊はまっすぐに登っていく。やがて生え茂る木々の間に、嘘のように何も無い空間が姿を現した。その真ん中で足を止める。見上げると、広場と同じ面積だけ覗いた空いっぱいに、星が散らばっている。懐中電灯の灯を消し、豊はしばらくその星を眺めていた。やがて、頭を元に戻し、竹刀を手に取った。

 百五十本程振った後、竹刀を竹刀袋に入れて地面に横たわらせると、その隣で仰向けになった。火照った体に冷たい地面は心地よかった。その感触が突然消え去った。豊の体は僅かな距離を落下した後やわらかな海に抱きかかえられた。外部の全てのものから隔離され、ただゆらゆらと揺れ続ける豊の耳に、昨日の母の言葉が蘇ってきた。

『夢見てもいいのかな。父さんが堂々と胸を張って桑原君と話している姿を』

『頑張るよ』

 精一杯の言葉だった。

『私にとっても夢なの。私の迂闊な言葉から全てがスタートしたから……』

 二人が付き合う前に父がもらした桑原の家がボロいという言葉、それを母が桑原に伝えたことが、そもそもの始まりなのだと考えれば、彼女は正しかった。それをきっかけに桑原のグループの父への執拗な嫌がらせが始まっていったのだ。

 ――ずっと責任を感じてきたのだろうか。

 そう考えているうちに、母は言葉を続けていた。

『最近はうわごとですらインターハイ、インターハイって言ってるのよ。私、本当に、担いででもお父さん連れていくから。最高の試合を見せてね』

 約束するよ。

 あの時答えた自分の言葉が耳の中で響いた。

 豊の身を包む柔らかいものが、自分の気持ちを映して温度を上げた気がした。この中を漂いながら、そのパワーの一部をそっともらって変えるというのが、これまでの豊のやり方だった。自分から取りに行っても得られる量は大きくは変わらず、それでいて決して無限ではないはずのこの場の力は、大きく消費してしまうような気がしていたからだ。豊はしかし、今そのルールを破ろうとしていた。中学の頃から自分を見守ってくれていたこの場所に対して、初めて能動的に働きかけようとしていた。もし今日十分な力がもらえるのであれば、自分が二度とこの山の力の恩恵に預かれなくなったとしても、悔いはないと思えた。

 気づけば、豊は強く両手を握りしめ、胸の内に悲鳴に近い声を絞り出していた。

 ――インターハイに行かせてくれ。

 瞼の裏には、病魔に蝕まれた父の、弱々しい笑みがあった。

 ――どうかインターハイに行かせてくれ。頼む。

 何度も何度も繰り返した。


        十八


 当日は、快晴だった。

 開場前、青空をバックに建つ県立武道館は、一階・二階共に入り口前は制服を着た高校生で溢れていた。一階にいるのはほとんどが大会の出場選手であり、二階には主に応援の者が少しでもいい席を確保するために並んでいる。長槻のメンバーは、一階が選手六名と副顧問、二階が玲奈や一年生を始めとする応援と、二手に別れていた。

 開場まで二十分となった頃、静かなざわめきが起こり、豊は振り返った。百人に近い数の坊主頭の高校生集団が到着していた。補欠二名を含む選手七名と顧問だけがそのまま豊たちのいる一階入口に向かい、残りは二階入口へと向かった。大量の坊主頭が階段を上っていく姿は壮観ではあったが、その場にいる者の目は皆、彼らではなくこちらへ歩いてくる七名の選手に向けられていた。周りの視線をものともせず、普段通りの立ち振る舞いをする彼らは、やはり特別な輝きを放っていた。その輝きは、しかし、彼らの実力以上に、彼らの先輩たちが積み重ねてきた歴史に負うところが大きかった。七年連続のインターハイ出場――その偉業を八年連続に変えることができるのか、それともここで途絶えさせてしまうのか、ここにいる誰もが強い関心を持っていた。今年が、記録が途切れる可能性の最も高い年であるという話は、県内のあらゆる場所でささやかれている。羨望や畏怖の視線には、だから、好奇の成分が少なからず混ざっている。

 先頭を歩いていた顧問の男が、豊のすぐそばで足を止めた。

「久しぶりだね、樋口君、甲斐君」

 彼は、父の代わりに来ている長槻の副顧問と軽く挨拶を交わした後、そう言った。

「清竜会以来ですか」

 樋口が言った。

「清竜会? ああ、招待試合ね」

 彼は当時を思い出すように目を細めた。「あの日の稽古、今でも思い出すよ。君と稽古するまで僕は、剣道の才能っていうのは体の奥にひっそりと潜んでいるものかと思ってたんだ。でも、君とやってそうとは限らないということを知った。君はまるで才能を見せつけることが目的かのように、動作の端々に非凡なものを込めてきた。今まで見たことのないタイプだった。二年後に君を育てるのだと思うと、わくわくしたよ。それなのに――」

「馬鹿な奴だ」

 後を引き取るようにして、的場が言った。「今は見る影もない。お前ら、桜塚にまで負けたらしいじゃねえか。恥ずかしいからうち出身だなんてもう言うなよ」

「樋口は負けてない。負けたのは俺だけですよ」

 甲斐が言った。

「よくそんなことを偉そうに言えるな。お前は負けてんじゃねえか」

「もうやめとけ」

 静観を決め込んでいた佐久間が的場の肩を掴んだ。視線は樋口と甲斐に据えられている。

「終わった選手相手に何ムキになっている」

「終わった選手かどうか今日の試合で思い知らせてあげますよ」

 樋口が言った。

「思い知らせるって俺らと試合する気なのか」

 佐久間が呆れたように言った。長槻は準決勝まで清竜とは当たらない。

「もちろん。今年の清竜はベスト4止まりです」

 的場が再び目をむいた。

「桜塚に負けた地元の大会でも、大口叩いてたらしいな。いつまで過去に生きてるんだよ。もうそんなとこにはいないんだよ、お前らは。桜塚にひねられるような二流の選手なんだよ」

「的場さんこそいつの話してるんです?」

 樋口が彼に微笑みかけた。

「は?」

「今の僕らは、北泉の時とは違うんですよ」

 的場は苦笑した。

「さすがに可哀想になる。一気に墜ちるとこうなっちゃうのか」

「僕らのインターハイ出場、例年なら確かに大それた夢かもしれませんね。でも、今年はそうでもない。理由は二つあります」

 的場は、まあ言えよというように顎をしゃくった。

「一つ目は、言うまでもないことですが、インターハイ出場への最大のハードルである清竜の実力が、例年よりも格段に低い。いつもの天才集団ではなく、努力だけの凡人だ」

「言うねえ」

 それまで黙っていた佐久間が言った。余裕あり気に笑みを保っているが、その表情は強張っていた。

「もう一つは、そのことを今大会の出場選手全員が知っているということ。今回こそは、どこかが清竜を倒すんじゃないかという空気が会場中に漂っていることです。いつもはそうじゃなかった。無敵を誇る清竜高校――その言葉だけで相手校は圧倒され、萎縮し、冷静な判断力を失ってきました。そして空回りし、普段の実力を出せないまま散っていく。でも、今年は違います。強いのは確かだが、決して無敵ではない。そのことを皆が知っています。少なくとも強豪校は萎縮しない。落ち着いて、冷静に、持てる力を全てぶつけてきます。そんな相手と試合を重ね、疲弊したあなたたちが相手なら、僕らにだって可能性は充分にある」

 感情に任せた口喧嘩ではなく戦略なのだと豊は気づいた。清竜の実力が例年よりも低いのは事実だが、負けたことのない清竜が今なお神格化されており、依然畏怖の対象であることもまた事実だった。例年ほど強くはないはずだと頭で理解していても、相対する者は清竜という言葉だけで足がすくむはずだった。樋口はそれを崩しにかかっているのだ。『たいしたことがないと皆が知っている』と口に出して周りに聞かせ、半ば強引に、今年の清竜は恐るるに足らずという空気を作りに行っている。相手の気持ちを逆なでする台詞回しも敢えて使っているはずだった。喰ってかかる清竜と軽くあしらう樋口の構図が続けば続く程、清竜の威厳は薄まっていく。そして、『今年の清竜は例年とは明らかに劣る』という会場内のムードができあがっていく。

 言い合いは続き、樋口の戦略通り、そのムードは急速に濃くなっていった。清竜がそれに気づく様子は無かった。樋口の言葉は清竜の選手の心を抉り、彼らは目に見えて余裕を失っていった。谷間の世代――その言葉を誰よりも強く意識し、その言葉に誰よりも深く傷つけられてきたのは、今目の前にいる七人のはずだった。樋口の才能があれば――一度ならずそう思ってきたはずの彼らを凡人と切って捨てる樋口の言葉は、あまりに残酷に思えた。しかし、それが清竜へのダメージになるのであれば、そして結果として長槻のインターハイへの可能性を少しでも高めてくれるのであれば、彼を止める気にはなれなかった。

 清竜側の顧問が見るに見かねて入ってきた。

「どっちが正しいか、すぐにわかるじゃないか」

 そう言って、佐久間と的場を樋口から引き離し、そのまま立ち去っていった。


 この県のインターハイ予選は、決勝リーグ等のない単純なトーナメント方式で行われる。今年の出場校は一三一校、優勝するためには計七勝が必要となる。組み合わせは事前に引かれたくじにより決められており、出場者は皆自分がどの高校と対戦することになるか前もって把握していた。

 長槻は、清竜とは準決勝まで、今暁とは決勝まで当たらないという絶好の場所にいた。これ以上は望めないほどの好位置だったが、豊の胸中は不安で覆われていた。その出所ははっきりとしていた。勝ち進めば三戦目で当たる桜塚の存在だった。北泉大会と重なるのだ。あの時、自分たちは今暁だけをライバル視していた。そして彼らと対戦する前に、その遙か格下の桜塚に敗れた。そして今、自分たちの目は清竜だけに向けられている。

「今更心配してもしょうがないですよ。一勝を積み重ねていくしかない」

 樋口の言葉に、豊は静かにパンフレットを閉じた。開いていたのは、桜塚のオーダーが載っているページだった。心を読まれたようで恥ずかしかった。

「案の定、どこも新人戦と同じオーダーで来ていますね」

「ああ」

 豊はパンフレットを樋口に渡すと体育館をぐるりと見渡した。すでに各コートの第一試合は始まっている。竹刀と竹刀がせめぎ合う音、選手が打ち鳴らす踏み込みの音が休まることなく鳴り響き、会場の空気を震わせている。八コート×二人、計十六名の選手が同時に試合を行っていることになる。その一角に桜塚の選手の姿もあった。気にしないようにすればするほど、どうしてもそちらに目が行ってしまう。豊は自分たちの応援席に目を移した。いつの間にか父と母が到着していた。その周りに玲奈と一年生の姿がある。そこから少し離れた場所に懐かしい顔があった。小山は目が合うと小さく頭を下げた。しっかりと見させてもらいますと、その目が言っていた。まあ、見ていてくれ。強がって呟き、笑いかけてみせた。

 一戦目、二戦目は、順当に勝ち上がった。それでも、胸の底にへばりついた桜塚への意識は、一向に薄れることは無かった。桜塚との試合が近づいてくることで、むしろ色濃く豊の胸の中を染めていった。北泉での、甲斐が敗れて敗退が決まったあの瞬間が何度も脳裏をよぎる。

 そして――あっという間に桜塚戦はやってきた。

 円陣を組み、皆の顔を見回す。どの顔にも穏やかな表情の中に隠しきれない緊張感が覗いている。

「練習通りにやる。それだけだ」

 全員が「はい」と声を合わせる。

 桜塚は真っ向勝負で来た。一度勝った余裕からか、甲斐相手であれば引き分けで良しという攻め方ではなかった。甲斐は、たたみかけてくる攻撃を軽くいなしながら、相手を観察していた。そして、試合開始から数十秒、初めて攻撃に出た。面打ち。白い旗が三本一斉に上がる。面あり。拍手が湧き起こる。

 そして、二本目が始まってすぐ、甲斐は焦る桜塚の面打ちを誘い、相手が引きずり出されるように打ちに来たところで、抜き胴を打って駆け抜けた。胴あり。審判の声が響いた。どよめきが起こった。甲斐はわずか二振りで二本を奪ったのだ。

 コートから戻ってくる甲斐はまっすぐこちらを見てはいなかった。彼の視線の先には、勝てば次に当たる高校がいた。偵察に来ていたのだ。圧倒的な甲斐の力に、一様に表情が強張っている。彼らへのパフォーマンスのために鮮やかな勝ちを演出したのだとすれば、その効果は絶大だった。彼らは明らかにショックを受けていた。

 豊は戻ってきた甲斐と軽く拳を合わせた。良くやった。彼は小さく頷き、微笑んだ。鮮やかな勝利は、味方への追い風にもなっている。開始線に立ち相手と構え合った時には、豊の胸に巣くっていた不安は嘘のように軽くなっていた。

 次鋒戦は探り合いながらの試合となった。先鋒戦を落とした桜塚と、前三人で決める戦略の長槻、次鋒戦で落とせないのはどちらも同じだった。相手の心を読もうと、豊は相手の目、それから竹刀の先に意識を集中させた。相手は迷っている。両者の竹刀が接触するたびに、竹刀が手のひらへそれを伝えてくる。目が微かに泳いでいる。何度か仕掛けてきたが、いずれもポーズだった。すぐに元の構えに戻る。豊もまた迷っていた。攻め込むタイミングを計りながら、まだ思い切った行動には移せていなかった。探り合いは一分ほど続いた。そして、ある瞬間から、相手の戦術がはっきりとしたものへと変わった。簡単には攻略できないと判断したのか、一気に守り優先の戦略へと転じたのだ。

 相手の守りは想像以上に堅かった。時間が経つにつれ、心の中は少しずつ焦りに支配されていった。もっと早く勝負に出るべきだったか。後悔の念が襲う。気が早り、十分な勝算の無いまま面を打ちに出た。その出端に、小手を打たれた。わずかに浅い。落ち着け。自分に言い聞かせる。しかし、前三人で三勝、これが清竜に勝つための絶対条件だ。桜塚などで躓いてはいられないのもまた事実だった。焦りを抑えつつ、それでも一本を急ぐ必要があった。

 相手はなかなか崩れなかった。知りうる限りの手を使って攻めるが、上手くいかない。あらゆる企みが弾き返された。

 そして――笛の音が鳴り響いた。

「やめ」

 豊は思わず天を仰いだ。桜塚相手ですら前三人で決めることができなかった。コートから出て次の樋口と拳を合わせる。

 ――大丈夫。北村さんを信じましょう。

 樋口の目はそう笑っていた。

 樋口もまた、最初の三十秒で面を決めた。偵察に来ていた高校の顔が再び強張った。しかし、彼らが最も声を無くしたのは、攻撃ではなく守りの場面だった。それは二本目開始後すぐに訪れた。まず樋口が足を滑らせた。彼らしからぬミスで小手に大きな隙が生まれた。間髪おかず、相手の竹刀がそこを狙って飛んできた。誰もが一本を奪われたと思った。その瞬間だった。樋口は腕をさっと前に動かしたのだ。相手の竹刀は小手の後ろ、樋口の腕に当たり、一本にならなかった。コートの周りで小さなどよめきが生まれた。どう考えてもよけられるタイミングでは無かった。咄嗟の判断で、腕を引く代わりに押したことが決め手だった。引いていれば樋口の反射を持ってしても決められていただろう。一瞬で最善手を見抜き、それを実行に移す。彼の才能が最も鮮やかに現れた場面だった。

 その一分後、樋口は教科書通りの美しい引き小手で二本目を決めた。

 北村が樋口と拳を合わせ、入れ替わりに悠然とコートに入っていく。彼の背中は北泉大会の時よりも一回り大きく見えた。その後ろ姿を目で追いながら、豊は祈るような気持ちでいた。

 決して仲が良かったわけではない。私生活での付き合いなど皆無だった。部活でも、いつも同じ方向を見てきたわけではなかった。意見についても彼よりも後輩の樋口や甲斐の言葉を重視することの方がずっと多かった。それでも、豊は彼に対して常に、他の者には感じないある種の感情を持っていた。それは黒江がキャプテンをやっていた頃の暗い時代の長槻を、共にくぐり抜けてきた同志としての感情なのだと思う。感謝の気持ちもある。ずっと訴え続けた部の形にようやく辿り着いたと思ったら、与えられた役割はひたすら守り続けるというもの。思うところはたくさんあるだろうに、文句も言わず、それに取り組んできた。誰よりも熱い思いを持ち続け、誰よりも報われずに耐え続けてきたのが北村だった。だからこそ、ここで魅せて欲しかった。これまでの二戦も、余裕を持って引き分けに持ち込んできている。だが、今の北村にとってそれらの相手に引き分けることなどなんでもないことのはずだった。桜塚の副将レベルから引き分けを勝ち取って、初めて快挙と呼べる。

 ――見せ場だ、北村。

 北村は相手と構え会うと、こくりと小さくうなずいた。いつもの彼の癖だが、豊には自分の声が届いたように思えて、すでに汗ばんでいる手を握りしめた。

「はじめ!」

 審判の声がコート上の静けさを破り、両チームの拍手がそれに続いた。後の無い桜塚は序盤から果敢に攻めてきた。それをゆったりと落ち着いた動作で払う北村の動きは、一見、先の二戦と同じように余裕に満ちて見えた。しかし、一番近くで長く見てきた豊には、彼の全身に行き渡った集中の糸が見えていた。ぎりぎりのところでよけている場面も、彼の余裕ある立ち振る舞いが簡単に見せるのだ。そして、格下の相手に軽くあしらわれている事実と、確実に削られていく残り時間が、相手を焦らせ、その攻撃をより激しくさせていく。それをなんなくという様子で凌ぎながら、実際は冷や汗にまみれているはずの面の奥が、豊にははっきりと見えていた。

「もうちょっとだ!」

 豊は声を上げた。北村の動きに明らかに疲れが見え始めていた。豊の感覚では、時間は残り約一分。ここから二本取られない限り、長槻の勝ちは決まる。だが、できれば一本も取られずに決めてほしかった。そして、長槻の応援席から今日一番の拍手を勝ち取ってほしかった。北村の動きは、見た目にも余裕が無くなってきた。無理矢理相手にくっついて打ちを封じるなど、試合運びは徐々に苦しいものになってきた。相手にもそれは伝わっている。まだチャンスは残っていると、怒濤の打ちで攻めてきた。

 試合時間残りわずかのところだった。相手の小手打ちが走った。

 ――軽い。

 豊の内心の声を打ち破り、主審が赤の旗を振り上げた。だが、間髪入れず副審の二人が異議を唱えるジェスチャーを行った。一本は入らない。相手は一瞬不服そうに審判を見た。その隙を突いて、北村が小手面の連続技を繰り出した。だが、相手の反射神経はやはり一流だった。彼は即座に体を仰け反らせて辛うじて竹刀を面金で受けた。

 ――残り時間は?

 豊は時計係りに目をやった。時計係りがちょうどストップウォッチに手を伸ばしたところだった。豊は無意識のうちに頭の中でそこからの秒数を数えあげていった。十を数えた時、鋭い笛の音が鳴った。引き分けだ。

 ――素晴らしい。

 自分の拍手と重なり合うようにして、大音量の拍手が長槻の応援席から降り注いできた。


 長槻応援席の最後部に位置取るリュウジの前で、万雷の拍手が鳴り響いた。北村が引き分けきり、長槻の勝ちが決まったのだ。彼は、皆と同様に拍手しながら湧き上がる応援席を見渡した。最前列に沢木の縮んだ後ろ姿があった。挨拶に行った時は意識の怪しかった彼も、手を二度三度鳴らして喜んでいた。応援席に漂う安堵感が、以前負けたところとやるのがいかに不安だったかを物語っていた。続く颯太は二本負けに終わったが、長槻のベスト16入りは変わらない。隣の宮瀬は颯太の試合が終わってからいつまでも拍手を続けていた。リュウジもいつまでもこの雰囲気を味わっていたい気持ちだったが、席を立つことにした。トイレに行きたいのをずっと我慢していたのだ。応援席の中を進んでいくと、皆がそれぞれ別の試合を見ていることに気づく。さっきの長槻の試合も、当たり前のことだが、関心を持って見ていたのは、長槻の関係者の他には対戦相手の桜塚の関係者しかいなかったのだろう。

 用を済ませて席に戻る途中、彼はふと通路で足を止めた。樋口の名前が聞こえてきたのだった。声の方を向くと、坊主頭がずらりと並んでいた。そして、そこが清竜の応援席だということに気づいた。入学当初の短期間しか剣道部に席を置いていないリュウジでも清竜の名は知っていた。リュウジは近くの空いた席に座り、聞き耳を立てた。

「まさか樋口を瀬戸にぶつけてくるとはな」

「負けたくないだろうな、樋口にだけは」

「ああ。一番あいつに裏切られたと感じてるのは瀬戸だろうから」

 その時、大きな拍手が沸き起こり、彼らの会話はそこで終わった。清竜の試合が始まるのだった。リュウジが清竜の応援席と想像していた範囲は、そのほんの一角でしかなかった。彼の周りで総計二百人に達しようかという人々が揃った拍手を送っている。試合に目を向けているのは、その何倍もの人数だった。急に会場の空気が変わったような気がした。自分の高校の試合が無い者は、ほとんどがこのコートに注目しているようだった。

 先鋒を鼓舞する清竜の選手に目を向ける。長槻・清竜両者共に勝ち続ければ、いずれ樋口と当たる選手――瀬戸である。体格のいい他の選手と比べて比較的痩せていて、背は一番高かった。中性的に整った顔立ちで、少し垂れ気味の目が優しい印象を与えている。彼と樋口との間に何があったのか。気になったが、試合が終わるまで続きは聞けそうになかった。リュウジはここで清竜の試合を見ていくことにした。

 清竜の試合は、リュウジから見ても圧倒的だった。立っているだけでも華のある彼らだが、試合姿はそれに輪をかけて恰好が良かった。必要最低限の動きで、一発で仕留めるという印象だった。樋口や甲斐が一目惚れしたという話も納得だった。これが代々受け継がれてきた清竜の試合の形なのだろう。今の選手は、谷間の世代と呼ばれているという話だが、素人にも違いを感じさせるところは、やはり別格なのだと思う。そして、一本が決まる度に沸く歓声もまた他の高校とは比べ物にならない。

 この試合一番の拍手と声援の波が押し寄せてきた。清竜の大将が二本目の面を決めたのだった。五人全員が二本勝ちだった。歓声と拍手は長いこと止まなかった。大会は間違いなく清竜高校を中心に動いている。圧倒的な力とこの大観衆――長槻が相手にしようとしている存在の大きさを、リュウジは改めて思い知った。

「お、調子乗りの新藤だ」

 拍手が止み静寂が戻ってきた頃、清竜の一人が言った。彼らの見ている方向に目を向けると、コートのそばに貼られたオーダー表に今暁の文字が見えた。調子乗りの新藤と呼ばれたのは、そこの大将だった。

「県内で孤立した挙句、樋口と甲斐の獲得にも失敗して、無様なもんだな」

 一人が嘲るように笑い、周りの者が続いて笑った。

 新藤の試合は彼が一本取った後、しばらく膠着状態が続いた。

 二分程が経過した。新藤が遠間から大きく前に飛び出した。そして、竹刀を投げた。少なくともリュウジの目にはそのように見えた。しかし、投げたはずの竹刀は一瞬の後に、新藤の手元に戻っていた。振り上げられた三本の赤い旗が、一本が決まったことを示している。

 ――なんだ今のは?

 スポーツ中継であれば、必ずリプレイの流れる場面だが、現実には過ぎ去った場面が繰り返されることはない。視線の先のコートでは、各校の七名(五名+補欠二名)が互いに礼を交わしていて、舞台は着々と次の試合に明け渡されようとしていた。しかし、頭の中で今の場面を繰り返し再生しているうちに、捉えられなかった部分が推測で補足され、やがて一繋がりのスムーズな技として頭の中で再現されるようになった。片手で竹刀を突き出し、相手を突いた後、竹刀を瞬時に手元に回収する――。

 ――片手突き。

 颯太が必殺技にしようと取り組んできた技。今のがそうだったのではないだろうか。

 短い剣道部生活だったが、試合のビデオはそれなりに見た。しかし、これだけ大きく、派手な技は、リュウジの記憶にはなかった。取り憑かれたようにこれをマスターしようとした颯太の気持ちがわかった気がした。

 近くにいた清竜の選手たちもまた、明らかに新藤の技に目を奪われていた。それを取り繕うかのように彼らは笑った。

「佐久間に決めて味しめたんだろうな」

「打ってくるかな、佐久間にも」

「くるだろう、佐久間の徹底した突き対策のことなんて何も知らずに」

「調子に乗って反抗しなければ、情報として入ってきたかもしれないのにな」

 誰かがあざ笑うように言った。

 佐久間の姿は、今暁が今まさに試合をしていたコートの近くにある。清竜の試合が終わってすぐに、新藤の試合を見に来たのだ。リュウジは彼がそこにいるのを、新藤が片手突きを決める前から気づいていた。そして、片手突きが決まった時、佐久間はちょうど、視界に入る位置にいた。だから、突きが決まった瞬間、佐久間の表情がひどく強張ったのを見ている。彼が取り組んできた片手突き対策に自信を持ち、打ってくればいいと考えている応援サイドとは違い、どうにかして打ってくるのを阻止したいという想いが見えた。それはすぐに大胆不敵な表情で覆われたから、気づいた人は少ないのかもしれなかった。

 リュウジはしばらくその場に残っていたが、話題が樋口と瀬戸の話に戻る様子は無かったため、席を後にした。

 長槻側の応援席に戻ると、リュウジは玲奈にパンフレットを借り、長槻と清竜の位置を確認した。清竜が後一回、長槻が後二回勝てば、両者は激突することになる。一言で二回勝つと言っても簡単なことではない。桜塚を倒し、長槻は今ベスト一六にいる。玲奈によると、今年はくじ運が良く、トーナメント表の長槻とは逆側の方で、強豪校がつぶし合う形で組まれているようだった。しかし、今後試合をする相手が弱小校というわけでは、むろん無かった。特に二試合後に当たる相手は、この県の強豪といえば必ず名の挙がる高校で、実力は桜塚を上回るという話だった。

 試合と試合の間隔は、勝ち上がるにつれ当然短くなる。長槻の次の試合はリュウジが想像していたよりもだいぶ早く回ってきた。その試合、甲斐がまず二本勝ちし、続いて豊の一本勝ち、樋口の二本勝ちが続き、早々に勝敗は決まった。

「あっさり決まりましたね」

 北村とバトンタッチでコートを出て行く樋口を見ながら、リュウジは玲奈に話しかけた。

 玲奈はうなずいた後で言った。

「でもね、基本的にはこういう勝ち方以外は想定していないオーダーなの。さっきの桜塚戦みたいに副将戦までもつれたら、清竜戦ではまず勝てない」

「その清竜戦、いよいよ近づいてきましたね」

 宮瀬は興奮を抑えきれない様子だった。

「次の津川高校もかなり強いから、まずはそこをどう倒すかだけどね。とはいえ、 現時点でもベスト8、冷静に考えればもの凄い快挙だよね」

 玲奈はパンフレットのトーナメント表を膝の上に広げた。そして、すでに消えた強豪校の名前を挙げながら、ここまで残ることがいかに凄いのか語って聞かせた。

「この残った八校は順当なんですか」

「桜塚の代わりにうちがいること以外は順当だと思うよ」

「このまま行くとベスト4は?」

「清竜・今暁・白稜、そして普通に考えれば次にうちと当たる津川高校。もちろん私は、準決勝に上がるのはうちだって、信じてるけどね」

 話ながらも玲奈の目はじっとコートに据えられて動かない。コート上では、北村がまだ頑張っている。勝敗はすでに決しているが、まだ試合が終わったわけではなかった。

「北村。もう一回見せてくれ」

 応援席の前方で大きな声が弾けた。沢木だった。痩せこけたその体のどこにそれだけのエネルギーがあるのかと驚く程、覇気のある声だった。そして、北村もそれに答えた。今度は守る場面では無い。だから、格上相手に完璧に防御を固めながら、それでも何度も攻撃を繰り出し、相手を慌てさせた。そして、結果的に一本も取られることなく引き分けに持ち込んだ。試合が終わった瞬間、割れるような拍手が沸き起こった。沢木もまた大きな動作で手を打ち鳴らしている。後ろから見ても彼のこけた頬に満面の笑みが広がっているのが見えるような気がした。

 続いて颯太がコートに入った。

 ――続けよ颯太。

 心の中でエールを送り、甲斐は拍手を送った。

 颯太はしかし、北村と違い、ひたすら守り続けるだけだった。攻撃といえば、相手が引き技等で下がった時に追いかけて打つ面くらいだった。

「颯太はなぜ打たないのでしょう」

 宮瀬は不満げだった。

「守りの練習しかさせてこなかったからね」

 玲奈が答える。

「でも勝敗に関係の無いところで守ってどうするんです」

 リュウジもまた、颯太に北村と同じようなパフォーマンスを期待していただけに、不満は大きかった。玲奈は黙ってしまった。彼女を困らせたことに焦ったリュウジは慌てて言い足した。

「でも、それなら佐久間に片手突きを打つこともないわけですね。佐久間は突き対策、完璧にしてきているみたいなんでちょっと心配だったんですけど」

 新藤の片手突きにこそ恐れを感じていたようだが、颯太の腕では間違いなく綺麗に対応され、片手突きに対する応じ技の、いいデモンストレーションにされてしまうだけだろう。

「それは確かだよ」

 玲奈はうなずいた。「片手突きは沢木君に禁止されて練習ですら打ってないからね」

 ビリヤードの帰りに聞いた片手突き封印の話は本当だったのだ。彼に何も技がないのは少々寂しいが仕方ないかもしれなかった。颯太に回るまでに決着がつけられないような強豪校の大将相手に彼ができることなど、確かに守ることくらいだろう。

 試合時間の終わりを告げる笛が鳴り響いた。拍手が沸き起こる。内容こそ北村とは異なるが、颯太もまた一本も取られることなく引き分けたのだった。


「徹底してるな、颯太」

 甲斐は近くでストレッチする颯太に近づきながら言った。

「俺の仕事は守ることだからな」

「だからって、勝負決まった後の試合でまでそうする必要はあるのか」

「下手に一本取って、取りに行くのが癖になったらどうするんだよ」

「それもそうだな」

「心配しなくても、勝負の決まった状態で佐久間まで回してくれたら、暴れてやるよ」

「楽しみにしとくよ」

 甲斐は颯太に笑いかけると、腕の筋を伸ばしながら、会場を見渡した。コート数は八つ。残っている高校の数も八つだった。八校に八つのコートは必要無い。そのうち半分を使って、この後準々決勝が同時に行われる。そして勝ち上がった四校での準決勝が、これもまた同時に行われる。長槻はこの後、準々決勝、準決勝と同じコートで試合をすることになる。既に一度そこで試合はしている。桜塚戦だ。颯太は昼過ぎからしきりにそのコートでの試合を気にしていた。桜塚戦が終わってからも時々見ていたので、不思議に感じていたのだが、最初から桜塚戦というよりも清竜戦を意識して見ていたのだろう。今、そのコートは空だった。甲斐はそこに清竜の先鋒、水沢を描き出し、彼と対峙する自分を想像した。

 ふいに、強い視線を感じ、顔を上げた。まさに今思い描いていた相手がそこにいた。水沢は目が合っても微動だにしなかった。ずっと前から甲斐に目を据えていたのかもしれない。表情は硬かった。瞳が怒りに燃えているのが、甲斐の位置からでもわかった。オーダーに腹を立てているのだ。勝てる相手だと思われた。そのことが彼のプライドに火をつけたのだろう。近よれば斬られそうな気迫を感じながら、甲斐はふと、長い間思い出さなかったある場面を思い出していた。

『逃げんのかよ、案外つまらん奴だったんだな』

 だるそうに吐き捨てる口調とは裏腹に、彼の目は今と同じ色に燃えていた。

『逃げるわけじゃない。いても仕方がないと思ったんだ』

『どうしてそう思うんだ』

『お前らみたいな奴と剣道してたって仕方ないからだよ』

『俺らみたいな奴? よくわからないな。具体的に言えよ』

『ミスしたふりで喉を突く卑劣な男につくような奴らだよ。どうせ佐久間から無視しろって指示が出たんだろ』

 水沢は唖然とした顔で甲斐を見つめた。

『お前、それ本気で言ってんのか。そんな指示があったって本気で思っているのか』

 甲斐と樋口が答えないでいると、彼は嘲るような笑みを浮かべた。

『何もわかってないんじゃないか。佐久間さんなんて、なんの関係もないのに』

 甲斐はほとんど彼の話を聞いていなかった。もう無関係な人間だ。無視して立ち去ろうと踵を返した。その背中に声が浴びせられた。

『結局、怖かったんだろ。自分から近づいて拒否されるのが怖かったんだろ。だから、嫌われる前に嫌ってたんだ。そんな、ありもしない理由を無理矢理信じて。これからもそうやって生きていけばいい。自分に都合のいいようにねじ曲げられた思い出を抱えて、せいぜい俺らを憎み続けていればいいよ。負け犬が』

 遠ざかるにつれ、聞こえづらくなっていく彼の言葉を、甲斐はしかし全て聞き取っていた。一つだけ言えることがある。自分はきっとあの頃から、彼の言うことが正しいと心の奥底では気づいていたのだろう。自分たちが無視される要因を相手側に決めつけたのも、歩み寄る相手をはねつけたのも、周りをつまらない人間だと思い込もうとしたのも、全て自分を守るためだった。認めるよ、水沢。俺はつまらん奴だ。

 ――でも、逃げていただけじゃない。

 甲斐は、自分を睨みつけている水沢を睨み返した。逃げ出した先で、自分は死にものぐるいでやってきた。いつか憎い清竜を倒すのだと自分に言い聞かせながら。それが仮に理不尽な動機だとしても、稽古への姿勢が一生懸命だったのは確かだ。手を抜いたことは一度もなかった。それでも――。

 ――お前と勝負になると思うことは、失礼に当たるのか?

「行くぞ」

 豊に呼ばれた。津川高校との準々決勝が始まろうとしていた。

 先鋒戦、甲斐の相手はあからさまに守りに入っていた。一定距離以内には入ってすらこない。甲斐はよしと小さく呟いた。この時のために、この数ヶ月間、北村と颯太を相手にひたすら切り崩す練習をしてきたのだ。しかし、むろん相手の守りは格段に堅かった。引き分けは許されない。綺麗とはいえないが、挑発でゆさぶることに決めた。

 甲斐はじっと相手の目を見つめた。こちらを見返す切れ長の目に問いかける。

 ――情けなくないのか、そんな弱腰で?

 感情を廃した目に、変化は見られなかった。

 ――津川の名が泣くぞ。

 両者面を打ち合い、鍔迫り合いになった。相手の顔が間近にあった。甲斐は微笑んで見せた。そして、囁きかけた。

「プライド無いのか」

 反応は無い。涼しい目が油断無く甲斐を見つめている。

「時間切れまで逃げ回って褒められて、それで嬉しいか」

 やはり反応は無かった。

「頭撫でてもらうためにやってんのか、剣道?」

 わずかに反応があった。相手の眉がぴくりと動いた。怒りと、挑発に乗るなという想いがせめぎ合い、使う必要の無い神経が使われた。そこをつく。甲斐は引き面の動作に入った。相手は我に返ったように手元を上げた。拍子抜けする程簡単に罠にかかった。そのまま、がら空きの胴に竹刀を打ち込み、後ろに跳びしさる。

「胴あり!」

 挑発に弱いタイプのようだった。開始線についてもまだ、彼の顔は真っ赤だった。立ち直る前に、決めておきたかった。甲斐は、引き続き目で挑発し続け、そして、二本目開始早々に面を決め、二本勝ちで豊にタスキを繋いだ。

 戻りながら、清竜の方を確認する。長槻と同時に始まった先鋒戦がまだ続いていた。水沢の相手は、今の甲斐の対戦相手よりも明らかに格下だった。そんな相手に、彼はまだ一本しか取っていなかった。勝ったな。そう思ったところで、水沢を意識しすぎている自分に気づいた。今はとにかく目の前の試合に集中するべきだった。

 次鋒戦、豊は開始早々から劣勢に立たされていた。相手は百九十センチをゆうに越す上段の選手だった。豊が少しでも距離を詰めると相手はすかさず凄まじい面を振り下ろして来た。かろうじて交わしながら、豊は前に出るのをやめなかった。

 その姿に、初めて出会った時の彼の姿が重なった。

 あの日、樋口に続き道場の入り口に立った甲斐の目に飛び込んできたのは、大人が自分よりも遥かに背の低い子供に竹刀を打ちつける異様な光景だった。しかし、その子供は何事もなかったかのように、大人に向かっていった。そして、その度に激しい面打ちを脳天に食らっていた。それでも、彼は怯むことなくその大人にぶつかっていった。それが何度も繰り返された。そして、彼は遂には何かの技を決めたのだ。今となっては、あれは相手がわざと打たせたのだろうということも想像がつくが、当時の甲斐にはそんなことはわからなかった。自分たちと同じような子供が大人と対等に渡り合っている。そのことに感動した。自分もこうなりたいと一気に引き込まれた。そして、弟子にしてくださいと叫ぶ樋口に負けじと『僕も』と声を張り上げたのだった。

 遙かに上の相手に怯まず攻める今の豊の姿は、確かにあの頃の豊の延長線上にあった。あの時覚えた感動が胸の中で蘇ってくる。

 再び鋭い面が振り下ろされた。よけた豊の肩に竹刀が当たった。豊は一気に前に出ると、鍔迫り合いに持ち込んだ。相手が引き技で下がろうとする。豊はそれを許さず追いかけた。相手に上段に構えさせる隙を与えない。やがて、試合は中段同士の打ち合いへと移っていった。相手の竹刀が豊の面や小手を何度も襲い、相手側の旗が二回上がった。いずれも他二名の審判に軽いと判断され、ことなきを得た。危ない場面は続く。豊のレベルでは本来であれば引き分けで十分という相手だ。しかし、長槻のオーダーは前三人で決めることが前提だ。引き分けでは足りないのだ。それをわかっているから、豊は何度危ない状況になっても前に出た。

 残り約一分となったところで、相手にわずかな隙が生まれた。試合開始以来唯一の隙と言えた。豊はそこを逃さなかった。すかさず間合いを詰め、そして、相手の小手に竹刀を打ちつけた。

 小手あり。

 審判全員の旗が揚がり、長槻の選手と応援席から割れるような拍手が沸き起こった。

 一本を取られてから、相手の攻撃は激しさを増した。打ち下ろされる面と小手に苦しめられながら、豊は今度こそ守りに徹した。激しい雨のように降りかかる竹刀を、受け続け、交わし続けた。

 そして、試合終了を告げる笛の音が鳴った。

 大金星だった。気づけば痛くなるほど手を叩いていた。コートの外で待っている樋口に、戻ってきた豊は小さくうなずいた。面の奥から柔らかな笑顔が覗く。この笑顔に自分と樋口はやられたのだ。弟子にして下さい――大声で言いながら、緊張でガチガチに強張っていた二人の心を、その笑顔があっという間に溶かしたのだった。いいぞ――そう言いながら持っていた竹刀を樋口に渡したあの瞬間と、二人が拳と拳を合わせる今この瞬間が重なって見えた。

 豊に代わって樋口がコートに足を踏み入れた。気持ちはまだ、剣道を始めた当初のあの頃に戻ったままだった。

 剣道を始めて最初に伸びたのは樋口だった。瞬く間に同年代の経験者に追いつき、そして追い越していった。甲斐はなかなか勝てるようにならなかった。悪循環だった。勝てない記憶が自信を無くさせ、自信の無さが体を縮こませ、そして、それが負けを呼び込んだ。

『大丈夫だよ。お前は俺の弟子なんだから弱いわけ無いんだ』

 間もなく始まる試合に怯えていた甲斐に、ある日豊が声をかけた。その言葉が呪縛を解いた。そうだ、自分は豊さんの弟子なのだから弱いわけが無い。なぜそんな当然のことに気づかなかったのだろうと、不思議にすら思った。そして、その試合で甲斐は初めて勝った。それをきっかけに、甲斐もまた道場の同年代をごぼう抜きにしていった。樋口に追いついた。そう思った。それが思い込みだと知ったのは清竜に入ってからのことだった。

 目の前の試合は樋口のペースで進んでいる。相手はいかにも辛そうだった。樋口が跳んだ。振り上げた竹刀が、相手の面に向かって飛んでいく。相手は面を守るために竹刀を上げた。次の瞬間、樋口の竹刀が軌道を変えた。胴打ち。綺麗に決まった。拍手が沸き起こる。オーソドックスな面フェイント胴――多くの者がそう見ただろう。しかし、今のはそうでは無かった。樋口は明らかに本気で面を打ちに行っていた。そして、胴が空いたのを見て、胴打ちに切り替えたのだ。

 ――凄いな。

 思わず溜め息が出る。

 小学生時代に無くなったと思った差が一気に開いたのは、清竜中に上がってからだった。差がついたというよりも、元々あった差を、清竜中学に入って初めて思い知らされたというのが正しいのかもしれなかった。天才と学年ナンバー2、二人に向けられる眼差しは完全に別物だった。最初はどこが違うのかと反発していた甲斐だったが、ハイレベルな場所で凄まじい勢いで花を咲かせていく彼を見ているうちに、その差を受け入れざるを得なくなっていった。樋口の非凡さは判断の正確さと早さ、それから、それを実行に移すまでのスピードにあった。特に予期せぬ状況に陥った時の樋口の判断は、手足に脳がついているのではないかと思わせるほど、早かった。そして、彼はほとんど無意識の中でそれらの行動を取っていた。だから、先程、津川の選手に決めた胴打ちについて『いいフェイントだった』と誰かが言ったとしても、樋口は笑顔でありがとうと返すかもしれない。謙遜でも、否定するのが面倒なわけでもなく、自分でもよくわかっていないのだ。桜塚戦で足を滑らせた後に取った咄嗟の動きも、完全な無意識から出たもののはずだった。あの試合の後、褒める豊に対して樋口はこう答えた。

『あれ相手が気負いすぎてミスっただけですよ』

『格好つけちゃって』

 笑う豊にそれ以上の反論はしなかったが、樋口は明らかに不服そうだった。本当にそう信じていたのだ。

 樋口の小手が走った。続いて面。連続技が相手を襲う。無駄の無い、洗練された動きは、相変わらず芸術的ですらあった。この才能で、清竜のあの絶対的な年功序列の世界で、彼は発言権を得ていったのだ。冷ややかな視線で不愉快さを露わにする者は多かったが、彼の言論が封じられることはなかった。年上が偉いという建前以上に、彼らを縛っているのは強者が偉いという本能的な感覚だった。瀬戸が樋口の一言に大きな影響を受けたように、誰もが彼の言動や行動から自由ではいられなかった。的場もまた例外では無かった。そして、その呪縛から逃れるように、ことさら高圧的な態度で樋口に接した。

 歓声と拍手が響き渡った。旗が三本挙がっている。立ち尽くす相手をよそに樋口は優雅な足取りで開始線へと帰って行く。やがて、相手も開始線につき、礼を交わし、中堅戦が終わった。長槻のベスト4進出が決まったのだ。次は清竜戦だ。

 ――ついにここまで来たか。

 目は勝手に隣のコートを見ていた。

 副将戦だった。的場の竹刀が相手の面を襲う。速い。そのたった一振りで悟った。今の自分ではどう足掻いてもこいつには勝てない。ビデオで見て理解はしていたはずだった。しかし、直接対戦する相手ではないからと映像では無視できた相手も、直に目の当たりにするとそういうわけにもいかなかった。自分が劣っているのを認めることを、的場の姿は強く迫ってきた。甲斐は歯ぎしりをした。俺は今やこんな奴にも負けているのだ。そして、同時に、今の自分の気持ちをほとんどの清竜の部員はずっと感じてきたのだと思った。暴れ回る暴君に対して、甲斐や樋口には剣道で上回っている気持ちの余裕があった。しかし、そうでない者の方がずっと多かったはずだ。

 ――そして、彼の言いなりになっていった。

 あの頃、的場は焦っていたのだと思う。どれだけ必死になっても、彼は樋口を抑えることができなかった。甲斐も相手にしていなかった。それを見た他の後輩たちが図に乗り始めるのも時間の問題のように思えたに違いない。だから、下級生の中に少しでも反抗的な者がいると、彼は樋口や甲斐に対するのと同じくらい理不尽な仕打ちを行った。そして、それは上手くいったと言えるだろう。下級生はそのほとんどが彼の意のままに動くようになった。それに味を占めた的場は同期に対しても同じ手を使った。政治の弱い佐久間の代わりに上とのやりとりを一手に引き受けていたこともあり、彼はやがて清竜の中で佐久間を上回る力をつけていった。

 ――今もそうなのだろうか。

 そう思った瞬間、小手ありの声がした。北村が小手を決められたのだ。勝負はついたものの、まだ試合は続いている。過去に耽っている場合では無かった。自分を戒め、目の前の試合に集中する。結局、北村はすぐに二本目を取られ、続く颯太も、粘ったものの一本負けとなった。

 立ち上がり、五人でコートの真ん中へと向かう。津川の選手の表情には、悔しさの中にも清々しさがあった。どこか託すような目でこちらを見ている。綺麗ではない勝ち方をしてしまった甲斐の相手もまた例外ではなかった。全員で礼をする前に、甲斐は彼に対して小さく頭を下げた。

 津川もまた、今暁と同様、清竜の王政をぶち壊したいのだろう。当たり前なのかもしれなかった。一高校の言いなりになり、一つの学校を爪弾きにするような真似など、誰もしたくはないはずだった。だから、表だって擁護することこそできないまでも、内心では負けずに勝ち上がってこいという気持ちでいてくれたのかもしれなかった。

 清竜時代、樋口を排除した者たちも同じような心境だったのだろうか。

 ――いや、違う。

 あの事件以前は確かにそうかもしれなかった。冷ややかな視線の中にも、いくらかの思いやりは見られた気がする。しかし、それはあの事件を境にして完全に消滅した。普通に考えれば樋口擁護の声が大きくなるところで、皆の態度は一気に真逆の方向へと振れた。完全に殻を閉ざし、あからさまに樋口と距離を取った。

 佐久間の指示? いや、今になって甲斐は初めてその不自然さに思い至った。あの当時、明らかに佐久間よりも力を持っていた的場が必死に樋口を干そうとしてやっと持って行けたのが、事件直前のあの状況だった。そこから、佐久間の指示一つで、完全な孤立にまで樋口を追い込めたとは思えないのだ。

 では、やはりあの拒絶は自主的なものだったということなのだろうか。喉を突かれたのは樋口なのに?

 理由が考えられるとすれば、あの時に樋口が佐久間に対して浴びせた罵声くらいだろうか。佐久間を先輩とも思わぬようなあの態度が、反感を呼んだのかもしれなかった。しかし――

 水沢の言葉が蘇ってくる。佐久間さんなんて関係無いのに――彼はそう言ったのだ。樋口が佐久間に罵声を浴びせたことが、彼らが樋口を拒絶した原因なのだとすれば、佐久間は関係無いなどという言い方はしないはずだった。

 ――佐久間の突きとは全くの別件が原因なのだろうか。

 当時のことを思い出そうとしてみたが、あの日のことでそれ以外に大きな出来事は見当たらなかった。

 ――忘れているだけだろうか。

 ふいに、割れるような拍手が降り注いできた。振り向くと、清竜の大将戦が終わったところだった。スコア表には清竜側にのみ計十個の丸が入っている。全員が二本勝ちしての完全勝利だった。そのスコア表に記された五名の名前にオーバーラップしてそれぞれの顔が浮かび上がっていた。その顔に知らず知らずのうちに問いかけていた。

 ――なぜ樋口を拒絶した。

 そして、佐久間の顔を睨みつけた。

 ――そもそもなぜわざと外して打つような卑怯な真似をした。

「どうしたんだ」

 声をかけられた。樋口が怪訝な顔をして立っていた。

「清竜時代のことを思い出していた」

 樋口は呆れたように首を振った。

「今考えるべきことじゃない。やっとここまで来たんだ。今は勝つことだけに集中するべきだ」

 その通りだった。過去は関係無かった。余計なことを考えている余裕などあるはずがなかった。

「わかった。勝つことだけを考えるよ」

 二人の視線に気づいたのか、的場がこちらに顔を向けた。それに合わせて、清竜の他の部員もこちらを見た。甲斐と樋口は、青竜の七人と向かい合う形になった。的場が薄く笑った。両者の睨み合いは十秒ほど続いた。防具をつけた彼らは流石に華があった。やがて、清竜は示し合わせたかのように同時に視線を外し、甲斐たちに背を向けた。まるで、自分たちが一気に孤立に追い込まれたあの日の再現を見ているかのようだった。


 長槻の応援席は大騒ぎだった。

「ベスト4だよ、ベスト4」

 玲奈が何度も繰り返した。それに対して宮瀬が毎回律儀にはいとうなずいている。遠慮がちだった一年生も樋口が勝って長槻の勝ちが決まった時には全員立ち上がって飛び跳ねていた。リュウジは、周りの注目が次の清竜―長槻戦へと移っていく音が聞こえるような気がした。もう一つの準決勝である今暁―白陵戦の方に興味があるのは、関係者くらいだろう。清竜―長槻には話題性もある。どの学校にも情報通はいて、清竜と樋口・甲斐の関係は今、会場のあちこちで囁かれていた。

 ざわついていた会場が急に静かになった。周りの視線を辿ってコートに目を落とす。そこには、清竜と睨み合う樋口と甲斐の姿があった。睨み合いは十秒ほど続いた。そして、清竜の選手は彼らに背を向け歩き出した。これまでよりも一段大きなざわめきが応援席を満たす。リュウジは歩き去る清竜を目で追い、その表情を観察した。それは決して余裕ある人間の表情ではなかった。それもそのはずだ。玲奈によると清竜が樋口と甲斐を見るのは半年以上前の新人戦以来、竹刀を交えるのは中学卒業以来だという。今日の大会でも、プライドが邪魔をしてほとんど偵察はしていないはずだ。だから、おそらく彼らの中には中学時代の樋口・甲斐と自分たちとの実力差が、未だに色濃く残っている。大会序盤でこそ、長槻の最新の実績は北泉での惨敗だった。しかし、今やインターハイ県予選準決勝進出こそが、彼らの最新実績だ。その事実を前に、長槻を弱小と切って捨てることは、もはや不可能だろう。

 もう一度あたりを見回す。今やほぼ全ての者が清竜と長槻を見ているようだった。ざわめきと呼ぶには大きすぎる音の渦が応援席を包んでいる。この何百もの観客が見つめる先に自分の親友が混じっている。そのことが、なんだか愉快だった。

 ――頑張れよ、颯太。

 清竜と長槻の選手が動き出した。ついに、準決勝が始まろうとしているのだった。


 試合前の整列、清竜の選手たちと向かい合って、甲斐は面金越しに二種類の清竜高校を見ていた。表側に見えるのは、七年連続インターハイ出場校としての清竜。歴代の選手に一段落ちる実力でトップ校の座を守るプレッシャーが時折顔を覗かせてはいるが、それでも凛とした姿でそこに立っている。その裏側に見えるのは中学時代の部活仲間としての清竜だった。二年の歳月は、彼らの顔の輪郭を、随分とシャープなものにしていた。どれだけ強くなったのだろう。甲斐は一瞬自分の立場を忘れて、純粋に興味を覚えていた。

 試合開始の時が来た。全員で礼をし、拍手をしながら離れる。全員がコートから出ると、甲斐は一人コート際に立ち、向こう側の水沢と合わせるようにして一礼をした。そして、二人同時にコートに足を踏み入れた。開始線まで歩を進め、竹刀を抜き、蹲踞の姿勢で構える。やや上目遣いの水沢の目が、甲斐を捉えて動かない。一度も負けたことの無い相手。しかし、当時と変わったのが、顔つきだけであるはずがなかった。

 はじめの合図がかかった。

 夢にまで見た清竜戦の幕が開けた。

 前に出る。竹刀と竹刀が触れ合う。喉元を刺す竹刀の圧力は、これまでの相手とはやはり別格だった。十秒程度の攻め合いの後、二人はほぼ同時に面を打ち、鍔迫り合いになった。水沢の目が揺れた。甲斐の力を計りかねている。記憶の中の力量差が邪魔をしているのだ。甲斐もまた十分には相手の力を掌握できていない。ただ、自分よりも遙かに上であることは確かだった。それでも、甲斐のミッションは、ここをはったりで乗り切り、引き分けきればそれでいいというものではない。課されているのは勝利だった。

 どう勝つか。ビデオで何度も見た彼の動きを思い出す。特に目立った特徴や癖があるわけではない。清竜の選手の多くがそうだった。特定の能力が突出しているわけではなく、あらゆる面で少しずつ他校を上回り、総合的には圧倒するというのが、清竜という高校だった。それが特徴といえば特徴と呼べるのかもしれなかった。

 ビデオでは見つからなかった弱点がどこかに無いか。甲斐は相手の一挙手一投足にまで目をこらし、観察を続けた。その間にも試合は進んでいく。何度も鋭い打ちが甲斐を襲い、すんでのところでそれを交わした。

 一分が経過した。

 甲斐は辛くも一本も許さずに立ち回っていた。ふと、甲斐のアンテナに引っかかるものがあった。水沢の肩だ。それが過去の記憶を呼び起こした。水沢は、相手を攻め崩そうとする際に、明確に狙いを決めて動くことが多い。何を狙っているのか竹刀さばきから判別するのは難しい。しかし、小手を狙っている時に限っていえば、その限りでは無かった。小手を狙う時だけ、彼は呼吸の間隔が微妙に長くなるのだ。

 試合が進むにつれ、甲斐は彼のその癖がまだ残っていることを知った。半年ほど前の自分の構えを思い出そうとする。その構えの時期、甲斐は練習で嫌というほど樋口に小手を決められていた。修正した部分をあえて元に戻す。隙を作る。

反応はあった。流石に早い。やがて、小手を狙って彼の息遣いが変わった。甲斐は身構えた。彼が小手を打ってきたら、それをかわし、小手抜き面を叩き込むつもりだった。

 相手が打ちに出た。小手打ちだった。竹刀を上げてそれをかわそうとし――しかし、かなわなかった。予想を遥かに上回る速い打ちが、上がりかけた甲斐の小手を抑えたのだ。水沢の顔がいつの間にかごく至近距離にあった。その目が笑っていた。読まれていたのだ。

 開始線に戻る甲斐の内心には焦りが渦巻いていた。身体に染み込んだはずの時間の感覚もまた消え失せていた。二本目開始直後の彼はほとんどパニック寸前の心境だった。後何分残っているのかまるでわからない。

「大丈夫だ」

 その時、甲斐の背後で豊の声がした。その声に、気持ちがすっと落ち着いていくのを感じた。

 ――大丈夫だ。

 その言葉に救われたのは、小学生時代のあの時だけではなかった。それ以降もことあるごとに甲斐はその言葉を呼び起こしてきた。苦しくなった時、不安になった時、頭の中で再生されるその声はいつだって甲斐に勇気を与えてくれた。この言葉無しに、清竜でのあの苦しい時代をくぐり抜けることは、おそらくできなかった。

 ――大丈夫だ。

 今度は、自分で自分に呟いた。

 二分は経っていないはずだった。残り時間は三分強。時間だけで見れば二本を取り戻すのには十分だった。しかし、もはや甲斐には相手の力が嫌というほど見えてしまっている。水沢との距離は目眩がするほど大きかった。時間は着実に過ぎ去っていく。それでも、取られないことで精一杯な甲斐は、全く打開策を見いだせていなかった。相手もまた完全に甲斐の力量を見抜いていた。序盤、水沢の目をくらませていた清竜時代の記憶は、今や彼の武器へと変わっていた。甲斐の強みや弱点は、清竜時代から大きく変化していない。水沢の攻めのポイントは腹が立つほど的確だった。

 更に時間が経った。二本目開始から三分半は経っている。いつ試合時間終了の笛が鳴るかわからない状態の中、甲斐は必死に焦りを沈めて水沢に立ち向かっていた。

 鍔迫り合いの状態から、引き小手を打って下がる。コート際で足を止めた時、颯太の声がした。

「十秒しか無いぞ」

 清竜側には聞こえず、甲斐には届く絶妙の声量だった。

 ――十秒。

 颯太の時間感覚を信じれば、ワンチャンスあるか無いかだった。

 その時、ふいに、水沢の構えに、序盤には無い隙が見えた。左脇が甘い。その理由に思い至り、甲斐は心の中でガッツポーズをした。相手の右ではなく左側を打つ逆胴を、中学時代の甲斐は大いに苦手にしていた。そのことを水沢は覚えているのだ。その記憶が無意識に、集中力に偏りを生じさせている。今も逆胴は得意ではない。しかし、打てないわけではなかった。

 ――ダメでもともと。賭けるべきだ、この一撃に。

 水沢に連打を浴びせる。受けに回った彼の左脇が、ある瞬間大きく空いた。

「胴!」

 ぱーんと大きな音が鳴った。一本とみなされるか否か、際どい打ちだった。

 審判を見る。旗は一本……。いや、一拍遅れてもう一本が上がった。唯一挙げていなかった主審が渋々といった様子でそれを受け入れた。

「胴あり」

 開始線に戻り、水沢の悔しげな顔と対面する。しかし、その表情は想像していたものとはやや違っていた。予想していたのは、試合前に見せたあの敵意に満ちた目だったが、今の彼の顔はむしろ、先程対戦を終えた津川のものに近かった。悔しさと焦りの中に、恵まれない環境の中で良くそこまで伸びたという賞賛の色が確かにあった。

 そして、その瞬間だった。胸の底から溢れ出すようにして懐かしさが込上げてきた。それを本能に近い部分で押し込んでいる自分を感じて、甲斐は自分が、自分で意識しているよりもずっと厚いフィルターをあの日々にかけてきたことを知った。押さえ込んだ手の隙間から溢れ出してきた景色の数々は、どれもこれも戸惑うくらいにきらめいていた。初めてレギュラー入りが決まった時の祝福の嵐、才能なんて強くなるための要素の一つだ――その言葉一つで樋口に傾倒した瀬戸、その彼を単純だ情けないと笑いながらも、同じようにその言葉に勇気づけられていた先輩たち、素直で前向きな彼らの笑顔と、今目の前にいる水沢の柔らかな視線とは、なんの問題もなく繋がった。

 ――関係無い。今は、次の一本だ。

「はじめ」

 試合が再開した。直後、笛が鳴った。颯太の時間感覚は完璧だったことになる。やめがかかり、両者開始線に戻る。

「引き分け」

 味方の待つコート外に向かう甲斐の足取りは重かった。引き分けを勝ち取ったという感覚は無い。勝てなかった。勝利だけが自分に求められてきたことだったのに――。なんとか豊と拳を合わせる。恐る恐る彼の顔を見ると、いつものように優しい目がうなずいてくれていた。今一番気持ちが追い込まれているのは豊のはずだった。そんな中、甲斐を思いやり、精一杯優しい笑顔を見せてくれているのだ。この人は、なぜこんなにも大きいのか――。甲斐は、自分の場所に崩れるようにして座った。

 豊の試合が始まって一分が経ち、自分の引き分けが、考えていた以上に致命的であることがわかってきた。幸いまだ一本も取られていないが、豊と相手との間には、甲斐と水沢以上の開きがあった。豊はそんな相手に必ず勝たなければならない。前三人で三勝、最低でも二勝一分――そういう計算で組まれたオーダーだ。それ以下では可能性が消えると思っていい。

 豊はむろんこの状況を十分に把握しているはずだった。先鋒戦以上に強く一本が求められており、取られた場合のダメージはその比ではない。加えて力の差も先鋒戦よりも開いている。途方にくれそうになる自分をなんとか奮い立たせている彼の顔が見えるようだった。

『強くなりたい』

 ある日の稽古後に、絞り出すようにして呟いた豊の声が耳朶を打った。あの日、豊は調子が悪く、甲斐に地稽古で立ち続けに打ち据えられていた。

『強くなりたい』

 彼はとりつかれたかのようにその言葉を繰り返した。今思えば、あれは沢木の病状が急激に悪くなったという時期と重なっている。強くなれるなら悪魔にでも魂を売り飛ばす。そんな切迫した目で彼は空の一点を睨みつけていた。豊は今きっとあの時の目をしている。

 加藤は強かった。ビデオでは、他の四人と随分差があるように見えたが、生で見ると映像ではわからない多くのものが見えてくる。直線的で大胆な剣風に中学時代の面影は残っていたが、老獪さと計算高さがそれに加わっていて、先鋒の水沢とほとんど差は無いように見える。腐っても清竜。谷間の世代とセットで使われてきたその言葉が、頭をよぎる。

 豊が小手を放った。わずかに浅く、審判の旗は上がらない。間髪置かずに加藤が小手面打ちを放つ。際どい。甲斐は牽制するように審判に視線を走らせた。一本上がっている。しかし、後の二人は浅いとみなした。心臓が飛び跳ねるように脈打っている。

 ――捨て身だ、豊さん。

 甲斐の体感では残りは約二分だった。今の小手は返し技を恐れたことで浅くなってしまったように思えた。ここはもう賭けに出る他なかった。このまま引き分けで終われば、清竜に勝つ可能性はほぼなくなる。仕掛けにいく時間帯だった。

「豊、思い切って行け!」

 言ったのは北村だった。その言葉が届いたのかどうか。その約三十秒後、豊は面を打ちに踏み込んだ。彼の普段の間合いよりもやや離れたところからの打ちだった。

「小手」

 絶望的な音を後に残し、加藤は呆然と立ち尽くす豊から離れていった。完璧なカウンターだった。甲斐はおもわずうつむき、唇を噛んだ。終わったという言葉を必死に頭から追い出そうとしていた。残り時間は一分以上ある。二本取るのが不可能な時間帯では無い。

 豊が立て続けに繰り出す連続技に加藤が応じ、手数の少なかった前半とは打って変わった激しい打ち合いが始まった。

 両者決定打の無いまま時間だけが過ぎていく。主審の後ろにいる時計係の目線が机に置かれたストップウォッチに行く回数が増え、もう駄目だと思った頃だった。加藤の竹刀がふとわずかに下がり、それと同時に豊が飛んでいた。間合いはさっき面に打ちに出た時よりもさらに遠い。一瞬の出来事だった。瞬きの後には、豊の右手は竹刀から離れており、ぴんと伸びた左手の先にはその延長のように竹刀が伸び、加藤の突き垂れを捕らえていた。甲斐の目にその光景は長く留まったが、竹刀が加藤を突いていたのも時間にすれば一瞬のことだったはずだ。豊は、両手に竹刀を取り戻すと、まるで決めポーズのように大げさな残心を見せ、加藤に向かって構えなおした。白い旗が三本上がっている。

 どよめきに続き、長槻の応援席だけでは決して説明がつかない大きさの拍手が降ってきた。興奮で血が頭に上るのを感じた。これが豊だ、これが俺らのリーダーだ。よく見ろ、長槻は俺と樋口だけじゃない、清竜と互角にやれるのは俺たちだけじゃない。甲斐は会場を見回した。お前に言われなくても見ればわかると、捨て身の大技を決めた豊へ賛辞を惜しまないたくさんの目が笑っていた。

 その後も、激しい打ち合いは続いた。豊に引き分けを守るという発想は当然無い。大将と副将に勝ち目が無い以上、これは次鋒戦ではなく、いわば二敗一分で回ってきた副将戦だった。引き分けると負けが決まる。

 だが、如何せん時間がなかった。時計係がストップウォッチを手に取り、そして立ち上がった。終わりを告げる笛が鳴り響く。

「やめ!」

 審判の声を聞きながら、甲斐はゆっくりと目を閉じた。瞼の裏には一瞬の隙をついて放たれた美しい片手突きがまだ残っていた。十度やれば九度は敗れる相手に捨て身で挑み一度は失敗。それでも集中力を保ち続け、五分の中に空いた一瞬の穴を、今度は見事に一本に繋げたのだった。素晴らしい試合だった。

 ――先生も、もう充分に満足しているに違いない。

 その感慨に試合を諦めかけている自分を感じて甲斐は慌てた。とにかく一勝だ。そうすれば、万に一つの道が開ける。そして、彼はコート際に立つ幼なじみの背に目をやった。

 樋口がその場で小さく跳ねた。その何気ない仕草で彼はもう周りの空気を自分のものへと変えていた。応援席の空気が明らかに自分や豊の試合の時とは違う静けさに包まれている。

「はじめ!」

 樋口と瀬戸の打ち合いを見ているうちに、気持ちは今日何度も思い返しているあの日々へと、またまた戻っていった。

 樋口は清竜でレギュラー入りするとすぐに、学年のまとめ役としての役割も求められるようになっていった。甲斐にはその座を争うつもりはなかった。そんな役、やらない方が剣道にだけ打ち込めていい。ずっと豊を見てきた甲斐にとって、それは負け惜しみではなく本心だった。煩わしい部分を全て押しつけている自覚はあった。その態度を信頼と捉えた樋口に、時として過激な行動を取らせてしまっていることも把握していた。だから、樋口の行動がエスカレートし、佐久間とのあの事件で彼が完全に孤立してしまった時、迷うことなく彼の味方についた。そして、離れていった者たちを恨んだ。特に瀬戸――。

 同期にたしなめられながらも樋口への心酔を隠そうとはしなかった彼の態度も、価値の高い選手であれという無言のプレッシャーを樋口に与えていたはずだった。それなのに、見捨てた。

 甲斐はコートに立つ瀬戸の面の奥を見ようと目を細めた。表情は見えない。それでも甲斐は目を離さなかった。そこにあるはずの顔を睨みつけることで、憎しみを呼び起こそうとした。しかし、面の奥に描き出されたのは唾棄したくなるような敵の姿ではなく、ハンバーガー屋で甲斐のトレイからポテトを摘みあげるいたずらっぽい笑顔だった。

 清竜の剣道部は炭酸飲料の摂取と通学途中の買い食いを禁止していた。学校帰りにハンバーガーセットを頼み、コーラを飲んでいた甲斐と樋口は、だから二重の意味でルール違反をしていた。学校の近くとはいえ、禁止されているのだから剣道部は来ないとたかをくくり、二人はよくそこを利用していた。事実、それまで剣道部の者を見かけたことなど一度もなかった。その油断がその日、窓際の席に座るという失態を犯させた。そこを瀬戸に見つかった。窓越しに目が合い、彼が引き返してきた時、甲斐は思わず目を伏せて身構えた。当時、甲斐・樋口・瀬戸の三人は、後二名と共にレギュラー二枠を巡る熾烈な争いを繰り広げていた。そして、ちょうど樋口と甲斐に落ち着こうとしていた頃だった。このルール違反が明るみに出れば、それはあっという間に逆転するはずだった。

『家まで待てないくらい腹減ったか』

 瀬戸は笑いながら近くの席に腰かけた。彼は話している間、ずっとにこやかだった。しかし、その笑みの奥に策略が潜んでいるような気がして、甲斐は上の空で返事をしていた。樋口も似たようなものだったと思う。その様子に、二人が何を考えているか理解したのだろう。甲斐のポテトを摘んで口に運び、彼は笑ったのだ。

『これで俺も同罪だ』

 結局その件が他の部員に伝わることはなく、その一週間後、樋口と甲斐のレギュラー入りが決定したのだった。

 この記憶もまた、長い間忘れていたものだった。水沢が指摘した通り、自分は本当に、都合の悪いもの全てに封をして、青竜への憎しみを育ててきたのだろう。自分がもし、青竜の良い部分も悪い部分もありのままに見ることができていれば、そして、自分たちの欠点に真っ正面から向き合うことができていれば、仮に青竜を出ることになっていたとしても、今とはまた別の心持ちでこの大会に臨むことができたのかもしれなかった。そして、樋口への佐久間の突きや、その後の皆の反応といった今の自分には不可解な行動についての、きっと存在するのであろう妥当な理由にも、辿り着いていたのかもしれなかった。

 しかし、今は多くを考えることはしたくなかった。

 瀬戸を睨んで呼び起こそうとした憎しみは訪れず、むしろ呼び起こさなければ現れない程、清竜への憎しみが薄れていることに気づかされただけだった。モチベーションの糧を失うことに、焦り、暴れ回る内なる自分が、憎しみの残滓に手を伸ばし、必死に引き寄せようとしている。甲斐はその手をそっと押さえた。自分はこの先ずっと剣道を続けていくつもりだった。清竜への憎しみのような不健全なモチベーションからは、いつか卒業しなければならないのだ。

 ――ああ、ごちゃごちゃと考えるな。

 純粋な気持ちで自校を応援できているこの瞬間を、今は大切にしたかった。青竜への想いにとらわれずに味方を応援する――久しく忘れていた健全な感覚で試合に臨めていることが、ただ幸せだった。この感覚がずっと続いて欲しかった。

 どよめきがあがった。瀬戸の小手を樋口が間一髪受けたのだ。瀬戸は体勢を崩している。

 ――行け。

 甲斐が思うより先に樋口は小手面打ちを繰り出していた。それを交わした瀬戸は一気に下がり間合いを切った。樋口がそれを追う。相手に体勢を整わせないうちに、小手打ちに出る。やや浅い。二人は体をぶつけ、鍔迫り合いの体勢に入った。しかし、それも一瞬のことだった。瀬戸が引き胴を打って離れたのだ。不十分。一本にはならなかった。そして、二人は元の間合いに戻って互いを見やった。コート上はまた静かになった。互いの竹刀の触れ合う音がかちかちと細かく空気を震わせている。そして――何度目かになる小手打ちが樋口を襲った。かろうじてよけた。瀬戸は昔から小手の上手い選手だった。何種類もの小手を持っていて、様々な方向から打てる。決め技に面が多いため、面を得意とする選手だと思われがちだったが、非凡なのは小手打ちで、シャープな小手で動きを封じた結果として、派手に面が決まるということが多い。この試合においても、樋口は面の出端に何度も小手を決められそうになっており、動きを制限されていた。随分前から一度も面を打っていない。やりにくい試合のはずだったが、甲斐の目に、樋口は不思議といきいきとして見えた。プレッシャーのかかった場面で格上相手に苦戦し、それでもこの場を楽しんでいる。清竜時代にしばしば目にした光景だった。こんな時、樋口はいつだって普段以上の動きをした。

 そして――必ず勝った。

 瀬戸が連打をしかけてきた。無駄を削ぎ落とした鞭のようにしなやかな打ちが面や小手を襲う。強引に打ち崩そうとする瀬戸に、樋口は応じるので手一杯だった。連打の仕上げは引き面だった。際どいところで外れた。入っただろという抗議のこもった拍手が清竜サイドから起こった。完全に押されている。しかし、それでも、最終的には樋口が勝つことに、甲斐はなんの疑いも持っていなかった。それどころか今の苦戦すら、終盤の逆転をドラマティックにするための伏線のようにしか思えなかった。

 樋口が引き胴を打って、瀬戸から離れた。審判の旗は上がらない。

 樋口は未だに一度も面を打っていなかった。もちろん瀬戸の小手の切れ味に動きを止められているのが主な理由なのだろうが、不思議なのは小手を打たれる可能性の低い場面でも面を打っていないことだった。

 ――面から意識を外そうとしている?

 そうに違いなかった。面は封じたと思わせることで、相手の防御への意識を小手や胴に集中させているのだ。そう結論づけたのと、樋口が遠間を詰める右足を踏み出したのは同時だった。思い切りよく間を詰めてきた樋口に、瀬戸が動揺したのが見て取れた。その一瞬でもう勝負は決まっていた。樋口の左足が地面を蹴り、彼の体を一気に前へと押し出した。面打ちへの警戒心はやはり弱まっていて、瀬戸の対応は遅れた。それでも小手で面を抑えてきた序盤のイメージが、強く残っていたのだろう。瀬戸は無理に小手で応じようと竹刀を上げた。完全に手遅れだった。後出しの弱い小手打ちを弾き飛ばしながら樋口の竹刀は相手の面を打ち据えていた。

 旗が三本上がり、面ありの声が響いた。

 拍手とどよめきが場内を満たした。コートの外の騒ぎを余所に、樋口は何食わぬ顔で開始線まで戻っていく。

 二本目は開始直後から激しい打ち合いになった。樋口は守らなかった。真っ正面から応じた。明らかに瀬戸の方が上のはずなのに、その差はもうほとんど感じられなかった。樋口の堂々とした動きと瀬戸の焦りに満ちた動きで強弱はむしろ逆転して見えた。そして、そこから約二分後、再び教科書のように美しい面打ちで、樋口は瀬戸を沈めた。ショックで動けずにいる瀬戸をよそに、樋口はゆっくりと開始線に戻った。蹲踞し、竹刀を収め、礼をする。それら一連の仕草のどこにも気負いや力みは感じられなかった。それでいて、その背中には静かな迫力と存在感があり、主役は自分だと語っている。

 ――ああ、エースだ。

 甲斐は震える胸の内にそう呟いていた。


 清竜が七年ぶりにリードを許したこと、そして、その相手が無名校の長槻であることに、会場は騒然としていた。メンバーの中に元清竜トップの選手が二人もいて、その二人が共に中堅以前に置かれていても尚、この時点でのリードが騒がれる。長槻がこれまでに目立った戦績を上げてきていないという理由もむろんあるのだろうが、颯太は学校の名の持つ重さというものを感じずにはいられなかった。颯太自身、樋口の勝ちの分だけリードしたスコア表を見て、心浮き立つ部分が無いわけではない。しかし、本来はここで二勝は最低でもしていなければならなかったことを何人が正しく把握しているだろうか。この後、溜め息に包まれることになる二つの試合を思い浮かべて、颯太は暗い気持ちになった。

 北村がコートに入る。期待のこもった拍手が、会場中から降ってくる。

 しかし――副将戦は、まさに瞬殺だった。北村はただ圧倒的な力から身を守るように竹刀を掲げ、的場はその弱気な防御を上から木っ端微塵に叩き潰した。一分経たないうちに旗が二回上がり、副将戦は終わった。樋口の作ったリードはあっという間に消えてなくなり、試合は振り出しに戻った。

 颯太は思わず笑ってしまいそうになった。北村に対してでは無い。あまりに身の程知らずで楽観的な作戦を描いてきた自分に対してだった。流しに入った佐久間からなら逃げ続けられるかもしれないと考え、豊と一緒に作戦を練ってきた。彼らがリードしている場合、更に一本を取りにいくよりも試合時間を乗り切った方が楽だと判断すれば、佐久間はそちらを選ぶ。そして、そちらを選ばせることができれば、試合時間の五分間を乗り切り、最後の大勝負に賭けることもできる。そうして引き分けをもぎ取り、代表者戦に持ち込むという作戦を、大まじめに考えてきた。そして、その作戦を成立させるために、最後の場面で打つ片手突きを毎日のように練習し、試合完了のタイミングを正確に掴む方法も練ってきたのだ。

 しかし、今の北村の試合を見る限り、自分が佐久間相手に五分間逃げ切ることなど夢のまた夢に違いなかった。時計係の仕草から残り時間を読み取る方法を思いつき、豊に話しにいった時の高揚が、今となってはひどく滑稽なものとして思い出される。

『時計係のほとんどが、試合時間終了前に何らかのサインを見せるんです』

 気づいたのは北泉大会のビデオを見返している時だった。その動画には、ずっと時計係りのアップばかりが続く時間帯があった。自分のミスだったことを思い出すのと同時に、この時計係が、試合終了のだいぶ前からストップウォッチを握っていたことを思い出した。そして、ふと、そのような生真面目なタイプであれば、ストップウォッチを握るタイミングすら自分の中で決めているのではと考えたのだ。そして、それは当たった。彼女はいつも試合が終了するちょうど五秒前にストップウォッチを手にしていたのだ。

 颯太は片っ端から過去の動画を見た。試合時間終了間際のタイミングにちょうど時計係が映っているということは滅多になかった。しかも、同じ人物で二回以上となると想像以上に少なかった。結局確認できたのは北泉の時計係を含めて五名だった。そのうち四名が、試合が終了する一定時間だけ前に、決まった仕草を見せていた。

『だから、その仕草を掴んでおいて、時計係りがそれを見せた時に僕に合図をくれれば、正確に終わる時間を知ることができると思うんです』

 この大会では、コート係りの交代は午前から午後にかけての一回だけだった。だから、午後に入ってから、颯太と豊は清竜との試合が行われることになるこのコートに頻繁に目をやるようになった。そして、このコートの時計係が毎回試合完了の十秒前に笛を手に取ることを確認していた。

 しかし、試合の残り時間を正確に把握するためのそんな小細工も、五分を乗り切れて初めて生きてくる。そして、自分はおそらく一分も持たずにコートを下りることになる。

 空気の変化を感じて、颯太は物思いから覚めた。決勝行きを決めたばかりの今暁がずらりと並んでこちらを見ていた。いや、こちらではない。彼らが見ているのは佐久間だけだ。颯太を見ている者など一人もいなかった。当然と言えば当然だった、颯太が次の対戦相手になる可能性など露ほども考えていないに違いなかった。

「颯太、魅せろよ」

 大声が降ってきた。リュウジの声だ。

 ――勝手なことを。相手は次元が違うんだぞ。

「ファイトです」

 後輩のうちの何人かが声を合わせた。

 振り返ってみる。沢木と目が合った。座っているだけでも大変なはずだが、きちんと背筋を伸ばしてこちらを見守っている。小山とも目が合った。やると決めたならやりきれ――厳しい目がそう言っていた。そばに並ぶすでに試合を終えた三人は、目が合うと小さくうなずいて見せた。誰も諦めていなかった。

 ――皆、勝手なものだ。

 元に向き直り、戻ってきた北村と拳を合わせる。北村は目を伏せていた。その目には涙が滲んでいた。

「すまん」

 声は震えていた。

「大丈夫です」

 颯太は言っていた。「策はあります」

 小さく息を吸う。わかってはいた。自分もまた彼らと一緒なのだ。冷静でいたいと強く思いながらも、本心では、限りなくゼロに近い可能性にすがっている。リアリストを気取りながらも、頭の奥底では、代表者戦にたすきを繋ぐ自分の姿を思い描いてしまっている。

 コートの向こうの佐久間と立礼を交わす。引き分けで回ってきた大将戦。相手は佐久間。狙うのは試合時間終了間際の片手突き。決勝戦でこそ無いが、それ以外はまさにずっと夜の公園で思い描いてきたシナリオだった。もう一つの準決勝はすでに終了しており、観客の視線は全てこの試合に注がれている。

 そう。この日をずっと夢見て苦しい練習に耐えてきたのだ。

 ――燃えなきゃ嘘だろ。

 開始線上、蹲踞で構えた瞬間から、思わず後ろ向きに倒れそうなくらいの強力な威圧感が颯太にぶつかってきた。佐久間につり上げられるように立ち上がる。

「はじめ」

 審判の声がかかり、会場中の拍手に包まれながら、耐え続ける五分間が始まった。

 竹刀を構え合うと、とたんに汗が吹き出してきた。本能に近い部分が、颯太に逃げろと叫んでいた。樋口や甲斐とも試合で構え合えばこうなるのだろうか。本物の刀を手に彼と戦った場合、自分はまず間違いなく殺されるのだという恐怖が、全身を貫いていた。

 ――相手が持っているのは刀では無い、ただの竹の棒だ。

 自分に言い聞かせ、棒の動きの少し先を目で追う。

 ――これは剣道では無い、相手の棒を受けきる競技だ。

 そして、もしそんな競技があれば、俺は一流になる男なのだ。

 数日前、たまたま食堂で同期四人が揃ったことがあった。そこで、北村の防具の話が話題に上がった。樋口と甲斐は揃って小山に頭を下げた。北村の防具を投げた犯人を彼に決めつけていたことを打ち明け、許して欲しいと謝ったのだ。小山は笑いながら、いたずらっぽい口調で言った。

『才能ある岸谷君を竹刀受け職人にさせてるのは北村さんだと当時は思ってたからね。本当に僕かもよ』。

 竹刀受け職人という言葉に三人は笑った。

『職人ね。でも、そうかもしれない。颯太の目はやっぱり非凡だよ。最近、俺も甲斐もなかなか決められなくなってきてるからね』

 樋口のこの言葉に対して小山が言ったのだ。

『相手の打ちを受けきるっていう競技がもしあれば、岸谷君は間違いなく一流になると思うよ。剣道で大成する以上に確率は高いと思うよ』

 でもね、と彼は続けた。

『そんな競技無いでしょ』

 ――これはそんな競技だ。

 颯太は佐久間の打ちを既に何本か受けていた。佐久間は明らかに驚いた顔をしていた。次の決勝に備えて軽く勝負を決める予定が狂ったのだ。見たことも聞いたことも無い、こんな人数合わせのような存在に交わされることなど、想像もしていなかったのだろう。彼は一つ気合いの声を上げた。その目が颯太の心臓を貫いた。そこから、佐久間の動きは明らかに変わった。

 しかし、それでも三十秒は防いだ。奇跡の時間が終わりを告げたのは試合開始から約一分後のことだった。小手に確かな感触を感じながらも、決まったことを認めたくない颯太は、相手の次の打ちを防ぐため、がむしゃらに鍔迫り合いに持ち込んだ。そんな颯太を迎え入れたのは、佐久間の苦笑だった。彼は憐れみの目で颯太を見ると、そっと組み合った拳を解き、開始線へと戻っていった。

 嵐のような拍手が降り注いできた。ここまでは想定通りだった。まさか0―0で引き分けきれるなどとは思っていない。ここから、いかに試合時間終了直前まで、持ちこたえられるかだ。それには、追加の一本を取りに行くよりも、試合終了を待つ方が楽だと相手に思わせる必要がある。ここから一分程度が正念場だった。開始線に立った颯太は、佐久間の体全体を視界に収めながら、彼の周りに次に生じうる竹刀の軌道を何本も描いていた。ずっと樋口と甲斐の竹刀を受け続けてきたのだ。守り切るのは不可能では無いはずだった。

 二本目から、佐久間の打ちはトリッキーになった。フェイントがいくつも入るようになった。器用に受ける颯太を面白がっているように見えた。ただ、それと同時に、このまま試合終了を迎えれば負けが決まるにも関わらず、依然守りに徹する颯太に不審な視線をよこすようになった。

 ――深く考えるな。

 颯太はその目に訴えた。リードされてるのに守っているのは、この舞台に少しでも長く立っていたいからだ。それだけなんだ。意外に守りは堅いだろ? 体力を使ってこれを破るよりも、少しでも余裕のある状態で決勝を迎えた方がいいんじゃないか? 突っ立ってるだけで、決勝進出は決まるんだぞ? そっちにとっても悪い話じゃないだろ? もう少しだけこの舞台を味わわせてくれよ。

 その訴えが通じたのだろうか。いつしか佐久間の目から不審の色は消え去っていた。颯太は攻撃の意思が無いことを必死にアピールしながら、死に物狂いで相手の攻撃を受け続けていた。一分が経過した。佐久間の目が不意に横に逸れた。そして、その目に何かの思惑が浮かぶのが見えた。彼の視線の先にあるものを理解して、背中を冷たい汗が流れた。彼は今、新藤を見たのだ。試合の内容が見ている者に与える心理的影響は大きい。桜塚戦、樋口と甲斐の華麗な試合運びに、偵察に来ていた高校は明らかに心の平静を失っていた。彼は今、こんな相手に手こずっているところを次の敵に見られるのはまずいと考えたのではないだろうか。そうであれば、一気に片をつけにくる可能性があった。颯太は怒濤の攻撃を覚悟した。

 しかし、その読みは外れた。彼の攻撃はむしろ甘くなった。このまま残り時間食らいついていけるかもしれないと思えるくらいのレベルになった。颯太はほっと息をなでおろした。佐久間が新藤の姿を見て考えたのは自分のスタミナだったのだろう。いかに体力を残したまま次の勝負に臨むか、それを考えたときに彼が選んだのは、このまま残り時間を乗り切るという選択肢だった。

 ――行けるかもしれない。

 三分が経過した頃、颯太はそう思い始めていた。試合開始から、颯太は面以外の技を打っていない。その面すら、佐久間が危機感を覚えるような場面では出していない。佐久間の中に颯太は面しか打てない初心者と映っているはずだ。まさか突きが飛び出してくるとは思っていないはずだった。

 今、両者の思惑は一致している。どちらも、このまま時間が過ぎ去ればいいと考えている。そうであれば、それが実現する可能性は、低くは無いはずだ。願いにも近い希望的観測を抱きながら、颯太は必死になって佐久間の技をかわし続けた。

 そして、颯太のその願いは叶った。試合開始から四分が過ぎ、颯太はまだコートの上にいた。豊の声を聞き逃さないように、集中力のいくらかを聴力に割り当てる。佐久間戦では、豊は合図以外の声は出さないことになっていた。豊が何か言えば、それがすなわち時計係が笛を握ったという合図だった。そこからきっかり十秒後に試合は終わる。

 その時が、刻一刻と迫ってくる。この大舞台、大観衆の前で片手突きを決める。ずっと夢見てきたその瞬間が、もう後わずかというところまで迫っていた。こんな大技を一発で決めようとしている無謀さは考えないようにした。そんなことは百も承知。駄目で元々の作戦なのだ。

「颯太、落ち着け」

 思ったよりも少し早く、その時はやってきた。

 人生で一番長い十秒が幕を開けた。

 颯太は佐久間と鍔迫り合いの途中だった。離れてくれ。彼は心の中で呟いた。このまま終了を迎えるのだけは避けたかった。佐久間が引き小手を打って下がった。浅い。下がっていく佐久間を颯太は追った。

 残り五秒。

 片手突き――何度も練習した技だ。左腕に力が入る。目が佐久間の喉元に落ちる。豊に何度も注意されていたが、結局最後まで染みついた癖を取ることができなかった。直後、佐久間の目が嗤った。やはり来た。そう言っている。

 ――ばれていた。しかし、なぜ?

 思った直後にはもう、颯太の中で一つの仮説が組み立てられていた。

 佐久間は自分のことなど知らないと思い込んでいたが、そうではないのかもしれなかった。接点が一つだけある。舞だ。

 舞は、颯太が片手突きを必殺技と呼び、それを佐久間に決めることを目標にしていることを知っている。しかも、北村によると、颯太のことを非常に買っていて、新藤の次に佐久間に片手突きを決めるのは颯太かもしれないとすら話していたという。彼女は佐久間の元彼女で、彼との復縁を望んでいた。佐久間とはまだコンタクトを取っているはずだった。その中で彼女は颯太を話題に出したことがあるのかもしれない。

『長槻の岸谷って子がね、佐久間君に片手突き決めるって張り切ってるんだって』

 初心者の颯太が佐久間と試合すること自体が非現実的な話だった。二人で笑ってその場はそれで終わったのだろう。しかし、なんの運命のいたずらか、その機会が訪れた。颯太が片手突きに本気で取り組んでいるという舞の言葉は、同じ長槻の豊が中堅戦でそれを見せた途端、俄然現実味を帯びてきた。そして、リードされながらも守り続けている颯太を不審な思いで見ているうちに、その目に企みの影を見つけた。

 全て想像だが、片手突きを打とうとしていることを彼が知っていたと仮定すると、自分が佐久間相手に五分間を乗り切れた理由が見えてくる。泳がされていたのだ。

 既に次の試合に気持ちが向いている佐久間の頭の中で、新藤の片手突きが占める割合は小さく無かった。昨年決められた技に対して、それなり以上の対策をしてきてはいる。しかし、むろん、できれば打ってきて欲しくは無い。そこで、この身の程知らずな初心者を利用することにしたのだ。試合の内容が見る者に与える心理的影響は大きい。佐久間はやはりそれを利用しようとしたのだ。あえて泳がせておき、颯太が片手突きを打ってくるのを待つ。そして、用意しておいた応じ技で派手に返す。新藤に見せつけて牽制するのだ。片手突きはやめておけ、お前もこうなるだけだぞと。

 一度派手にやられている片手突きの対策を、佐久間が熱心にやっているであろうことなど、少し考えてみればわかることだった。危うく待ち受けている罠にまんまと飛び込むところだった。

 ――残りは三秒。

 突きは打てない。しかし、得意技の面は、もうさんざん見せている。

 考えがまとまる前に体は動いていた。腕が面に向かって竹刀を突き出していた。

 佐久間の目が嘲るように笑った。勝負してこないのかよ、臆病者が。

 彼の竹刀が颯太の面打ちを防ぐために上がった。

 ――かかった!

「小手!」

 小気味いい音を残して、佐久間が視界から消えていく。充分に離れて体勢を立て直し、彼に向かって構え直す。彼はまだ元の場所にいた。信じられないといった様子で棒立ちになっている。コートの空に白い旗が三つ、祝福のように咲いていた。


『それでも清竜の大将なんですか!』

 大将戦を引き分けで終え、佐久間の耳の奥で三年前に聞いたその声が何度も繰り返し再生されていた。いや、それは過去の声では無い。この会場にいる全員が今、同じ言葉を呟いているはずだった。代表者戦を直訴しにいった時、顧問の目に浮かんでいたのは蔑みそのものだった。

 もう慣れたものだった。上や下から常に笑われ、馬鹿にされ続けてきたのだ。

『あんな相手に取られたんですよ』

 再び過去の声が佐久間を責めた。そんな者清竜の大将としてふさわしくないと。

 確かにそうなのかもしれなかった。しかし、スタミナに難のある佐久間にとって、勝負に影響の無いところでは極力抜くというのは、最大のテーマだった。それによって、なんとか清竜として恥ずかしくない結果を残してきたのだ。あんな相手が最後の最後でフェイントをかけてくることまで考え、気を張り続けていたら、これまでの戦績はずっと悪いものになっていただろう。

 ――言い訳だ。

 醜いと自分でも思う。

 ――何も言わなかったあの時の方がまだ綺麗だ。

『わざと外しやがって』

 三度、同じ声が耳朶を打った。

 あの日、樋口は全てがどうでもいいという風に流していた。言っても変わらず、竹刀を中心に保つ意思さえ見せなかった。それを注意する意味での迎え突きだった。突きはそのまま突き垂れを捉えるはずだった。しかし、その直後だった。竹刀の軌道から突き垂れが消えたのだ。そして、樋口の喉に竹刀は突き刺さっていた。

反射的によけたのだ。普通はよけられない場面だった。樋口の反射神経と運動能力があってこその反応だった。冷静に考えれば有効打突部位に竹刀が当たるのを避けるためとはいえ、それで喉を突かすのは正解では無い。試合の外では尚更だった。剣道という競技に勝つことのみに能力が特化した結果、生じたエラー。それはむしろ彼の不完全さを示すものだったが、あの時の佐久間の心境ではそこまで考えられなかった。完全に手を抜いた稽古の中で、才能の違いを見せつけられた。その思いで頭は沸騰していた。我に返った時、竹刀はまだ樋口を突いていた。慌てて外すと、樋口はしわがれた声で言ったのだ。

『わざと外しやがって』

 驚いた。無意識のうちによけ、自分がよけたことに気づいていないのだ。やがて、甲斐が近寄ってきた。

『本当にわざとやったのですか』

 わざとでは無かった。しかし、佐久間はすぐにそう答えることはできなかった。樋口の喉に竹刀が刺さった時、この反抗的な後輩に一矢報いた感覚は無かったか。そして、なかなか竹刀を外すことに思いが至らなかったことに、自分の深層心理は影響していなかったか。わざとじゃないと、否定する気にはなれなかった。

 樋口は佐久間に対して次から次へと暴言を吐いた。そして、その中で、彼は言ってはいけないことを言った。樋口はもう気づいただろうか、あれ以降、彼が急に孤立するようになった本当の理由を。清竜を辞めた時点では、自分による指示だったと思い込んでいたという。

『佐久間さんの指示で皆が無視したんだそうです』

 言いに来た水沢の目は笑っていた。そんな指示で人を動かす力が、まだあなたに残っていると思ってるんですね――そうあざ笑っているように見えた。怒りは沸かなかった。全く同感だった。的場の言うことしか通らなくなってから、その時点で既に随分と経っていた。

『努力だけの凡才だ』

 大会開始前のあの言葉を、彼は意識的に使ったのだろうか。

 清竜の選手にとって、樋口の存在というのは痛みを伴うものだった。自分にはとてつもない才能があると信じて疑わなかった者たちを、奈落に突き落とすような存在だった。彼の動きはその一つ一つが自分たちとは決定的に違っていた。荒削りだが、どこまで伸びていくのか計り知れない、まさに原石と呼ぶべき存在だった。上の人間の目は皆、樋口に向けられていた。

 人格者だったはずの小堀もまた、彼の才能にとりつかれておかしくなった。

『あいつを潰してみろ。殺すぞ』

 樋口を大将にしようと思う。そう小堀に相談に行った時の言葉だった。樋口が自らそう言い始める、遙か前の話だった。

『あんなメンタル弱い奴に大将やらせて、万一のことがあったらどうするんだ』

 小堀の言う万一とは、負けた樋口が心に傷を負うことだった。

『心を鍛えるのも重要です。今からプレッシャーのかかるところで――』

『知ったふうなことを言うな!』

 怒声が飛んだ『お前になんのフォローができるんだ。お前の役目はあいつを無傷で高校まで上げてくることだ。わかったな』

 樋口はよく噛みついてくる後輩だった。驕りではなく真剣に清竜を変えたいという気持ちから来るものだとわかってはいても、人の気も知らないでと思うことは多々あった。勝ち気な樋口の性格に、部員の多くが一度は反発を経験していただろう。しかし、そんな時、いつも彼らの心をよぎる言葉があった。

『才能なんて強くなるための一要因でしかない』

 自分の才能をうらやむ瀬戸に対して、樋口はそんな言葉をかけたという。この言葉に、瀬戸だけで無く清竜の選手の多くが救われていた。樋口と同じ場所で剣道を続ける日々は、自分たちがどれだけ練習しても到達できない世界があると、言葉ではなく形で見せられる日々だった。そんな毎日の中、剣道を続けること自体に疑問を抱くことすら少なくなかった。そんな時に皆がすがりついていたのがその言葉だった。

『才能なんて強くなるための一要因でしかない』

 圧倒的な才能を持つ樋口に、やはり皆一目置いていたのだろう。樋口の言葉というのは不思議な重みがあった。すんなりと心に浸透していく説得力があった。皆、心の片隅にひっそりとその言葉を隠し持ち、厳しい稽古を乗り切るための拠り所にしていた。

 その中でのあの言葉だった。

『やめてしまえ、才能無いんだから』

 佐久間にだけ向けられたその言葉は、しかし、その場にいた全員の心をえぐった。かかっていた魔法は瞬時に解けた。傷ついた彼らは皆、一斉に樋口との距離を取った。それに過剰反応したのが甲斐だった。二人の態度に呆れ、皆さらに離れていった。

 察知した小堀に高校の部室に呼び出された。

『樋口に何かあってみろ、高校に上がってきたお前らに居場所なんて無いからな』

 そこまで言われていても、まだ佐久間の中には油断があった。まさか辞めることはない、そう高をくくっていた。しかし、彼は甲斐と共に清竜を去った。

『ふざけるな』

 怒声だけではなく今度は手も飛んできた。殴り倒され、踏みつけられた。それを見ても、他の先輩たちは止めなかった。それどころか、小堀と一緒になって怒鳴りつけた。お前らみたいなクズばっかり寄こされて、どうしろって言うんだ。後輩一人引き留められない無能が。

『お前が辞めろ』

 最後の言葉は、今日に至るまで言われ続けた言葉だった。

 佐久間はコートの向こうに目を据えた。周りと対話することから逃げ、壁を作り、歩み寄るものを撥ねつけ、そして清竜から逃げ出していった男が、いっぱしの顔をして立っていた。

 ――出てこい。

 佐久間は彼に語りかけた。楽に逃げた天才の剣と、蔑まれ笑われながらも愚直に稽古を重ねてきた凡才の剣、どっちが勝つか勝負しろ。

「代表者戦、樋口」

 その声が、はっきりと佐久間の耳に届いた。

「はい!」

 樋口が初めてこちらに顔を向けた。その口元が小さく笑みを描いた。


 沢木の前に信じられない光景が広がっていた。意識はもうずっと朦朧としている。夢を見ているのではないかと何度も隣の妻に確認していた。

 清竜相手に代表者戦まで持ち込んだのだ。

 最高の試合だった。気を抜けば薄れていく意識を繋ぎ止め、沢木は懸命にコートを見つめていた。

 ふいに右側に気配を感じた。

「座っていいか」

 桑原だった。妻のいる左側と違い、そこは空席だった。しかし、沢木は首を振った。

「邪魔しないで欲しい……」

「お前の勝ちだと言いに来ただけだ」

 彼は気にせず腰をおろした。「俺が決勝に進んだ時は、清竜に全く歯が立たなかった。ここまで追い込んだ時点でお前の勝ちだ」

「どうでもいいよ」

 本心からの言葉だった。今はただ、これから始まる試合を見守っていたかった。

「高校の時から、何もお前に勝てなかったことになる」

 相手にしないと決めていたのに、その言葉に心は乱されていた。記憶の隅から、高校時代の記憶が、次から次へと溢れ出してきた。それは、ほとんど全て桑原とその仲間によって埋められていた。休み時間や部活前後の時間が怖くて仕方が無かった。トイレに隠れたり、わざと部活開始ぎりぎりまで部室に行かなかったりなど日常茶飯事だった。桑原の影にすら怯え、周りに姿が無くても、彼や彼の仲間がどこにいるか把握できていなければ不安だった。

「高校時代、俺が一体何で勝ってたというんだ。君におびえ、隠れて暮らすような毎日の中で」

 思っていたよりもずっと暗い声が出た。桑原は押し黙り、やがて言った。

「お前がそんな風に感じていていたとは知らなかった」

 怒りは沸かなかった。いじめの加害者というのは総じて同じようなことを言うものだ。しかし続く言葉は少々意外だった。

「俺のことなんて見下していると思っていたからな。劣等感から、必死になってお前を叩いたが、お前はいつも余裕あり気な顔でひょうひょうと毎日を過ごしていた――少なくともそのように見えた。教師になってからもそうだ。インターハイ県予選決勝の実績を突きつけても、長槻よりも強いチームを作っても、その程度じゃお前はびくともしなかった。そりゃそうだよな、嫁に逃げられグレた息子を持つ俺と、幸せそのものの家庭を築いているお前とじゃ持っている余裕が違うもんな。それでもな、トーナメントで北高が長槻より少しでも高い位置まで進むたびに、俺はいつもお前に一矢報いた気持ちになってたんだ。それなのに、樋口と甲斐まで入ってきて・・・・・ずるすぎるだろ」

 沢木は混乱していた。劣等感? 桑原が俺に?

「なぜ劣等感を? 今はともかく、高校時代なんて、俺に負けてるものなんて無かったんじゃないのか」

「それをここで言わせるのかよ」

 桑原の苦笑の意味が理解できず、沢木は首を傾げるしか無かった。

「知らないから、主人は」

 妻が隣で言った。

「知らない?」

「うん。知らない」

「どうして?」

 桑原は驚いた表情で妻を見た。

「あなたと約束しちゃったからね、誰にも話さないって」

「それは……どうも」

 なんと返していいかわからないといった様子で、桑原はそう答えた。

「あなたのためじゃないわ」

 ぴしゃりと妻が言った。「約束を守るところが好きだってこの人に言われた時から、それがわたしの生き方になったの」

「どういうことなんだ」

 沢木は桑原に聞いた。

「高校時代、俺がお前に辛く当たっていた理由を、お前は知らなかったんだな」

「理由って、家じゃないのか」

 自分が彼の家をおんぼろだと言ったことが全ての始まりだったはずだ。

「家? なんだよ、それ」

 桑原が怪訝な顔で沢木を見た。

「家をおんぼろだと言ったことだよ」

「そんなこと言ったか?」

「いや、もういい」

 沢木は答えた。今わかった。妻は桑原の家を馬鹿にした自分の言葉を彼に伝えていなかったのだ。

「あんな建ってるのが不思議なくらいの家、おんぼろだって言われて気分悪くする奴いないよ」

 桑原は笑った。

「じゃあ、何が理由だったんだ」

 桑原はしばらく黙った後、意を決したように言った。

「嫉妬だ」

 桑原は妻に片想いをしていたのだという。そして、沢木に対する嫉妬が彼をターゲットにしたあの数々の行動へと桑原を向かわせた。思い当たる節が無いわけでもなかった。誕生日かな? あの日、夕食の誘いを断った自分に向けた彼の目、あれは決して弱者をいたぶる目では無く、完全な敵意だった。そもそも、今考えてみれば一クラスメートの誕生日を彼が把握している時点で、疑うべきことだったのかもしれなかった。

 ――家の話は関係なかった……。

 感覚が麻痺しているからか、なんの感慨も無かった。この数十年間、自分はずっと勘違いから、当時のたった一言を後悔し続けてきたのだ。そして、それをさらに勘違いした豊は自分や妻に家をプレゼントすることを夢として持ち続けてきた。それは悲劇のようにも、またとても愉快な喜劇のようにも思えた。

 彼はいつ自分と妻が付き合っているのを知ったのだろう。それは随分早い段階だったはずだ。高校時代の妻との思い出には、ぴたりと桑原の嫌がらせの記憶が貼りついている。ふと、ぼやけた頭の奥でおかしいと呟く声を聞いた。沢木は自分の思考力などもはや信用していなかった。しかし、記憶はしっかりしている。そして、これは記憶の問題だった。

「時系列がおかしい。君の嫌がらせが始まったのは、俺が彼女と付き合う前だ」

「俺がふられたのは、それより前だ。沢木君のことが好きだから無理。それが彼女の返事だった」

 あっさり言い返された。

「私が余計なことを言ったのが悪かったの。桑原君の性格を知っていれば、ごめんとだけ答えて、あなたとはこっそり付き合ったのに」

 桑原は妻に告白のことは誰にも言わないでくれと頼み、妻はそれを守った。約束を守るところが好きだという沢木の言葉があったからだ。それは授業の中で本当に何気なく書いた言葉だった。約束したからと何店も回って腕時計を買ってきてくれた、そのイメージがあって書いた言葉だった。

 付き合ってみると彼女はイメージ通りの人だった。しかし、先の彼女の発言からすると沢木の言葉こそがそんな彼女を作り上げたのかもしれなかった。

 ――この年齢になっても知らないことはたくさんあるものだ。

 誤解や勘違いの連続で人生というのは成り立っているものなのかもしれない。ふと、そんな感慨に襲われた。そして今、沢木はさらに一つ、自分のしてきた勘違いに気づき始めていた。

 樋口が代表者戦の舞台へと向かおうとしている。会場内の全視線が彼と対戦相手である佐久間に向けられている。長槻の残された四人が祈るようにして樋口を見つめているのが、後ろからでもわかった。既に奇跡を起こしている彼らの背中に諦めの二文字は無かった。樋口が一歩ずつ歩を進めていく。県下の高校の中で残っているのは、後たった三校。それが後数分後には二校に絞られることになる。そこに残るのか外れるのかは、全て今から始まる試合にかかっている。その重圧を充分に感じながら、しかし、それにつぶされることなく、樋口は背筋を伸ばし、堂々たるそぶりで歩いていく。沢木には、この一瞬一瞬が、これまでの人生で味わったどの瞬間よりも濃密で美しく感じられた。

 ――自分は本当にこれ程の場面に立ち会うこと以上に、自分の隣に座るこの男への苦手意識を解消することを望んでいたのだろうか。

 そんなわけがないというのが答えだった。自分はただ、この子たちのことを純粋に応援できる心境こそを欲していたのだろう。桑原への苦手意識を解消するためにインターハイ出場を願っていたのではなく、インターハイ出場を果たすことにより、試合について考える度に彼の顔がよぎる今の状況から抜け出し、純粋な気持ちで応援できる心境を取り戻したかったのだと思う。

 ――そうであれば、自分はもうとっくに夢を叶えている。

 この大会が始まって以来、自分はずっとただ純粋にあの子たちを応援していた。今、桑原が現れるまで、彼のことが脳裏をよぎることなど、ただの一度も無かった。

 コートの上に樋口と佐久間の姿がある。

 一挙手一投足まで見逃せないと思うのに、さっきから景色が滲んで見えて仕方がなかった。

 ――豊、ありがとう。

 出会ったときの彼の姿が、滲んだ視界の裏に滑り込んできた。

 あの無意味に広い応接室の椅子に座り、目を合わすこともできずにうつむいていたあの子が、自分をこんなところまで連れてきてくれた。

 ――ありがとう

 沢木は心の中で何度もそう呼びかけていた。

 審判のはじめの声がかかり、代表者戦が始まった。

 ――ありがとう。

 そのわずか二分後、佐久間の見事な面打ちと共に長槻の夏が終わってからも、沢木はその言葉を繰り返していた。コートに一列に並び、清竜と対等に礼をする五人の後ろ姿が、誇らしくて仕方がなかった。


        終章


 梅雨の合間の晴れ間だった。コンビニの窓に映る自分の私服姿を見て、ふとスーツの方が良かったかなと思った。豊と同じ方向に歩く同年代の者の中には、何人かスーツ姿の者が混ざっていた。昼食を用意してこなかったことを思い出し、コンビニに入る。サンドイッチとジュースを買い、再び会場までの道を歩いた。腕時計に目を落とす。開会式には間に合いそうだった。

 会場に着くと、豊は二階入り口に向かう階段を上がった。何人かが同じように上がっていく。ドアを開け、中に入っても、まだ試合会場は見えなかった。この先の重い扉を開いた向こうにそれは広がっているはずだった。扉の前で、豊は歩を止めた。あれから一年経つという感慨がふいに襲ってきたのだった。

 あのインターハイ県予選を境に、父の容態は一気に悪化した。管に繋がれ、どうにか生命をつなぎ止めている父だったが、豊が訪ねるといつも上体を起こして、楽しそうにあの試合の話をした。夢を叶えてやれなくてごめんと謝る豊に、彼は必ず首を振った。そして、夢は叶ったのだと話した。最初は気を遣っているのかと思ったが、話しているうちに本当にそう感じていることがわかってきた。豊もまたあの日の話は楽しかった。特に颯太の騙し小手が決まった場面は、話す度にあの時の興奮が蘇ってきた。時計係が笛を持った瞬間の心臓の高鳴り。裏返る自分の声。解かれた鍔迫り合い。突っ込んでいく颯太の背中。面に跳んだ時の失望感。そして、気づけばコートに咲いていた三本の白い旗。いつも時間を忘れて話にふけった。

 しかし、そんな楽しい日々も一ヶ月は続かなかった。最期の日、父は豊と母に一つずつ腕時計をくれた。母に渡した腕時計は銀色の自動巻きで、豊が初めて見るものだった。

『昔、母さんが買ってきてくれた時計なんだ』

 父は豊に向かって言うと、年期の入ったそれを母の手にそっと収めた。そして、豊の手を強く握り、いつもしていた電波時計を押し込んできた。

『お前を育てると決めた日に買った時計だ。お前が一人前になったら渡そうと決めてた』

『じゃあ、まだもらえないよ』

 父は少し笑ってから言った。

『誰に対してもおどおどしない、自分に自信のある男になると約束してくれ』

『なるよ、絶対に』

『じゃあ、OKだ』

 それが父との最後の会話になった。その後、父の容態は急変し、医者が近しい人に連絡を取るよう豊と母に告げ、その日のうちに、父は眠るように死んでいった。

 父は試合に遺影を持って行くのは恥ずかしいからやめてくれと、よく話していた。だから、豊は形見の腕時計だけを連れて来ていた。時刻を確認する。秒単位で正確な時刻を示す父の自慢の時計は、開会のちょうど二分前を示していた。

 扉を開くと、ぱーっと景色が開けた。視界の周りを楕円形の応援席が縁取った。階段状に下っていく応援席を目で追っていくと、やがて視線はすとんと一階に落ち、そこに正面を向いて並んだ何本もの列が見えた。応援席に目を戻す。少し離れた場所に、北村と玲奈が隣り合っているのが見えた。その前に、見覚えのある制服たちが座っていた。

「久しぶりだな」

 北村と一つ席を空けて隣に座ると、豊は言った。その声に、前に座る後輩たちが一斉に振り返った。おはようございますと次々に挨拶をする。笑顔で答えながら、カバンとコンビニで買った昼食を隣の席に置いた。

「あいつらはあそこな」

 北村の指差した先には、確かにキャプテンの小山を先頭に、見覚えのある後ろ姿が並んでいた。

「沢木君も部活始めたんだって」

 玲奈が訊いた。

「ああ。知っての通りの弱小校だけどな」

 北村も同じく大学の剣道部に入っていたが、そこもまた全国レベルの部では無かった。

「やっぱりあれが全国に行く最後のチャンスだったんだろうな」

 北村が懐かしそうに目を細めた。北村の言う通り、あれが一番全国に近い位置にいた時なのだろう。今はもう、豊にとっても北村にとっても、全国は遙か遠くのものになっていた。そして、長槻にとっても――。

 あのインターハイ県予選以降、長槻は強豪相手には惨敗を続けた。それでも、見かねた今暁から再度スカウトがあった時、樋口はこう答えたのだという。

『一回基礎に戻って剣道の本質の部分からやり直したいんです』

 実際そのように、同期四人で決めたのだろう。キャプテンを小山にしたところにも、その想いが見て取れる。

『勝てない言い訳に使うなよ』

 あえて釘を刺した。小山はびくともしなかった。一度稽古に来て下さいと微笑んだ。数日後、長槻の道場で構え合った瞬間、はったりでないことがわかった。高段者と構え合った時に似た圧力をその剣先に感じた。

『勝負に勝てないから、負けの言い訳のように自分の哲学を守ってる――休部した直後に北村さんに言われた言葉です』

 稽古後、小山が言った。『その言葉で僕は打ちのめされました。自分ですら気づいていなかった本音の部分を暴き出された気がしたからです』

 でも――と彼は続けた。

『改めて自分の心の奥底に目を向けてみて、それが誤りだと気づいたんです。自分が言い訳ではなく本心から正しい剣道にこだわってることが、見えてきました。僕は休部中に様々な剣道・武士道の本を読み、自分の考えを整理し、ヴィジョンを描き、それを次の一年でやるべきことへと落とし込み、案として剣道ノートにまとめて、部に戻ってきました。自信は無かったけれど、皆受け入れてくれました』

『小山の話を最初に聞いた時、ふと、清竜時代に七十歳のOBの方と稽古した時のことを思い出しました』

 樋口の言葉だ。

『歯が立たなかったんです。普通のスポーツでは絶対にあり得ないことが起こる。それは剣道がスポーツではなく武道だからなのでしょう。剣道を続けていく中で高校のスピード剣道からはいつか卒業しなければならない。それが少し早くてもいいかなって小山の話を聞いているうちに思ったんです』

『お前らの気持ちが半端なもので無いのは、稽古してみてよくわかった。強豪校との交わりが無い中で、よくこれだけのものを会得できたな』

『清竜の力が及ぶのは高校までです。大学や警察にとったら関係ありません』

 甲斐が言った。

『じゃあ、お前ら大学生や警察と?』

 甲斐はうなずいた。

『凄いな』

 大してつてもない彼らが、大学や警察との稽古を取りつけるというのは、口で言うほど容易くはないはずだった。

『そういった場所で剣道の神髄に近づくことを目指していると――。なるほど、大会での勝ち負けを犠牲にしてでも取り組む価値は、確かにあるな』

『誰が犠牲にするなんて言いました?』

 いたずらっぽく笑って言ったのは颯太だった。小山、樋口、甲斐、それから新しくレギュラーに入った一年生も、颯太に合わせて微笑んだ。補欠の一年生たちもまた、それにうなずいていた。

『路線変更には時間がかかります。これまでの敗戦は一年計画の中で想定済みです』

 小山は大事そうに手に持った剣道ノートを指差した。そして微笑んだ。

『このノートの、来たる六月のページに何と書いてあるか見せましょうか』

 自信満々の口調に苦笑しながら、豊は首を振った。

『本番で直接見させてもらうよ』

 長槻の列を見下ろす。一回り大きくなった後輩たちの背中は自信と誇りに満ちていた。彼らがコートの上で披露することになるこれまでの集大成を早く見たいと思った。少しでも長く見ていたいと思う。

 ふと、選手に対して向き合う形でこちらに顔を向ける主催者側の一人が目に留まった。右手にマイクを持ち、しきりに腕時計で時間を確認している。おそらくそのマイクで何かをアナウンスすることになるこの男は、その何秒か前に、やはりなんらかの仕草を見せるのだろうか。

 男が胸の位置までマイクを上げた。豊は反射的に自分の時計に目を落とした。

 小山たちが作った全く新しい長槻の、最初で最後の夏が、後十秒で幕を開けようとしていた。



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― 新着の感想 ―
[良い点] おなじく応募者(横溝ではないですが)です。貴重なものを読ませていただき、ありがとうございました。横溝クラスの賞の一次通過作を読む機会はなかなかないので。以下、簡単ですが、感想です。 まず、…
2014/04/16 21:08 退会済み
管理
[良い点] 余韻が心地よく好きです。 [気になる点] 余韻から抜け出せず、次に読む話を選ぶことが必要でした。(笑 [一言] ふらりと読みはじめ、そのままラストまで心地よく読ませて頂きました。 それぞ…
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