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昨夜はどうだった? その問いに値切りませんと返すと、フフ、と笑いよかったみたいねと鼻に口付けをされた。
約束は守るからねー。そう嘘か真か分からぬ口調で言われた。娘を出すくらいだから守ると信じたい。
いつ頃聞きに来るか言うと、住所を教えてくれたらそこへ行くと言われた。それは出来ないので行きつけのパン屋を教えると、秘密が好きなのねと笑って今度は頬に口付けをされた。おれは頭を掻き掻き娼館を出た。
ドリー金貨を三枚も手放したことで手持ちの金が哀しい。ギルドに行き、仕事を探しに行くべきだ。
師匠はひと月(三十日)かひと月半の間顔を見せないと言っていたから、もうすぐ帰ってくるだろう。
師匠は――師匠は、あの男の狂言でなければ、三枢機卿の仕業だと知っていたのだろうか。
十六歳だった師匠はおれと共に災厄を逃れてくれた。おれは重荷でしかなかったろうに、と同じ歳になって改めて思う。
おれはあの日、集落を出た瞬間包まれた害意に昏倒してしまった。それからひと月のも間、意識を失っていたのだと後になって聞いた。その間、おれは星読みの婆ちゃんと夢を見ていた。
村が無くなったこと、婆ちゃんは死んでいること、ネイ――師匠を頼り生きること、憎まないこと、予知夢を大事にすること、夢を見なかったのは自分のせいだと責めないこと、あらゆる修業を怠らないこと……それが師匠とおれの為になること。
婆ちゃん、おれ、考えてきたけど今でも夢がよく分からないよ。そう言ったら、きっと笑って言うのだろう。――わしにも分からないだろうさ。星を読み、そこから未来が変わることなんてザラにある。
だから。考えることを、鍛えることを止めてはいけない。
毎日貸家の裏手でやる剣の鍛練も、夢を思い返し日記をつけ意味を探ることも、知識を得ることも。何も、無駄にはならない。
しかし三枢機卿が村を滅ぼしたのだと聞いても、何もできない。悔しいと思った。悲しいと思った。憎しみが熾火のように激しく揺らめいていた。だがそれだけだった。 小さな自分にできることは――今度、危機に直面したら――師匠の背中だけでなく自分のまわりにあるものを守れるように、なりたいと強く思った。
◇
だいぶ流された後、最初とは対岸に出て周囲の気配を探ってみる。辺りはすっかり夜も明けていた。これがアデル河――否、河幅からして支流だろう――とすれば、オルコットの別邸のあった北西からクローマ教国を南方向に抜けてきたことになる。
生き物の気配はするが、人はいないようだ。
あれから一晩中泳いできたとあって、疲労困憊していた。
ともかく休める場所を探さなければならない。
シアは――殺害未遂に終わったが、昨晩オルコット枢機卿を手にかけた上で何をと言うところだが――大丈夫だろうか。都にいるとは言ったが、詳しい所在については分かっていないだろう。
頼むから、目立つな……それか、都の外へ、国外へ出ていてくれと願う。
しかし自分に対して従順なシアのことだ、あの貸家で待っているに違いない。
これまで通り守らねばと思う一方で、これでもういいじゃないか、とも思う。
一通り身を守る術は教えた。それに何より、シアには未来予知と狼への変身能力がある。いざとなれば逃げおおせることは出来るはずだ。
俺は、シアが来そうなところで待つか――これを今生の別れにするか。どちらかにすればいい。
生きていくのか? この世に一人しかいない同胞と別れて?
師匠、師匠とついてまわる幼き日のシアが目の前に浮かんだ。
なんだ。離れられないのは俺か。
……戻ろう。それが例え火の中だとしても。
◇
グラムさんのパン屋にその手紙が届いたのは、ジェーンと一夜を共にしてから八日後のことだった。
あの色街を駆け巡ることを考えるに、短期間と言えるだろう。
シア君へ
約束した通りペトルス君が行きそうな店に特徴をメモにしてまわしてみたら、接触していた子が一人いました。 彼女に何か聞いていないか尋ねてみたけれど、聖女様の名前を呟くこと以外何も知らないようでした。
お役に立てなくてごめんなさいね。
ジェーンの母より
思わずため息を吐いてしまった。……聖女様か……。
それを見ていたグラムさんがカウンターから身を乗り出して、おい、シアよ。お前も男になったんだなあ。だけど俺からしたら坊主だから坊主呼びで行くぜと言った。
ありがたい話だが、さてこれからどうするかだ。
数日前にも行ったが、またギルドへ確認に行こう。
それから――店を出たおれの前に、路地に座り込み辺りを伺う孤児の姿があった。
そうだ。何かを目撃していないだろうか?
おれは真っ直ぐ大通りを横切り、十歳ぐらいの男児に近付いた。何から話そう。
「……何だよ」
薄汚れた印象の中で、茶色の大きな眼が睨みあげる。
「聞きたいことがあるんだけど」
小さな手が突き出された。
「カネ」
「ペトルスっていう金髪に碧い眼の背の高い男だ」
「カネ」
懐から銅貨を出す。
「足りない」
銀貨に変えた。否はないようなので渡す。
「ありがと」
そう言ってくるりと踵を返し、あっという間に去っていった。
「あっ待て!」
反射的に追いかけたが、不慣れな道にすぐ見失ってしまった。