26
シアの、支えになってくれないか。
そうネイさんは言ったけれど。
どうして顔が合わせられるだろう?
どんな顔をして会えばいいというのだろう?
わたしのために身をささげた彼に。
ネイさんの部屋を飛び出し、闇の中外気は暖かいのに冷たい指をこすりあわせる。
翌朝、どうやって自分の部屋に帰りついたのか分からなかった。
心は沈んでいても身体は元気で、身についたままに動いた。
わたし、どうして笑えるんだろう。
それでも何か異変を悟った奥様の視線に応えることなく、ニコラさんの話に乗り、奥様の前から辞した。
そうして幾日か過ぎた。
思い付いた心が固まりつつあった。
明日、ここを出よう。
明日は休みだ。誰に見とがめられることなく出入りができる。
シア君の鎖になることもない。
ひそかにまとめた荷物を確かめる。
この前いただいた給料と少しの衣服。
それだけ。他のものは街に出てから調達しよう。
そう決めていた。
そうだ。クレアさんはどうしよう? 休みを合わせていると聞いていた。
わけを話せば協力してくれるかも知れない。
道中危険がつきまとうだろう。街の中だって危ないのだ。
ネイさんはどうだろう? いや、いけない。支えになってほしいって言われてるんだから。
ここから離れることさえすれば。
翌朝。あまり眠れなかったわたしは食事をしっかりとり、荷物を手に出入り口へと向かった。
そして。そこにはクレアさんではなく、ニコラさんがいた。
ニコラさんは金色の眼に哀しみをたたえて言った。
「どこへ行くつもりなの?」
「ちょっと街でお散歩しようかと」
ニコラさんは早足に近寄ると、わたしの両手を取って話す。
「私の情報網をなめてもらっちゃ困るわね。騎士さんとも仲良いんだから。数日前の夜、ネイさんの部屋を飛び出したでしょう? そしてここの所様子がおかしい。昨日クレアと話した内容、覚えてる?」
「……いいえ」
「アメリア、あなたここを出ようとしてるでしょう。何故だかは知らないけれど、それって私達に話せないこと? ネイさんに何かされそうになったのなら殴りに行くわ。教えなさいよアメリア」
「違います。ネイさんは何もしていません。わたしが……考えて」
わたしの手をぎゅっと握って言う。
「その考えたことを話して。フィネットさんには言ってあるから」
「でも……わたしは」
「ああもう!」
突然抱きしめられて戸惑い、のち体温に安心する。
「話して。ね。奥様だってご心配されてるんだから」
耳元で声が響く。
みんなに心配をかけてしまったことに、胸を陰がよぎる。
それからは、ニコラさんとフィネットさんの部屋で二人ベッドに座り話した。
鎖であること。
わたしのためにシア君が身を投げ出したこと。
わたしがいなくなればいいと思ったこと。
ニコラさんは相づちをうちながら聞き、やがて言った。
「馬鹿ねぇ。第一、シアって子の気持ちは考えたの?」
「シア君の……?」
今はもしかしたら、もしかしたら落ち込むかも知れないけれど、長い眼で見たらいいことのはずだと思っていた。
「既にあなたは彼の中で大きな存在なんだと思うわ。じゃないとそんなことできないもの。確かに鎖かも知れない。けれど……彼にはあなたが必要なのよ。必要なの。わかった?」
「でも、それじゃあ……」
「大体、あなたが出ていったところで彼の鎖はなくならないじゃない」
「ネイさんなら何とかなるって思ったんです」
「馬鹿ねぇ。監視が厳しくなって逃げるなんて不可能よ。それに一度逃げ出して捕まったんだから。ネイさんより強い騎士がいるのよ?」
そこまで言われて、ようやく息を吐き出した。
「わたし、馬鹿ですね……」
「馬鹿よ。何よりなんで相談してくれなかったのよ。外に出たら身ぐるみはがされて売られて終わりじゃない」
わたしの頭をわしゃわしゃと撫でながら、ニコラさんは強い眼をして言う。
「まず、シア君の気持ちを確かめなくちゃね」
「えっ」
「こうなったら突撃よ! さ、いきましょ!」
「ええっ」
◇
また、夢を見るようになった。
枷をはめられた狼の前で老人が笑い、満月に照らされた湖のかたわらで花が咲き、その花びらが舞い湖面に落ちる。鬱蒼とした薄暗い森から鳥達が飛び立つ。場面が変わり、半獣の狼人間が――灰になる。
師匠にこのことは話している。
自身の生死にかかわることを、重く受け止めた様子だった。
剣を振る。止める。繰り返す。
集中を重ね、研ぎ澄ましていく。
頭に像を描き、動かし、その通りに振り抜く。
一通り終えたところで暑さが蘇ってきた。
顎の先から汗を垂らしながら、眼に入りかけた粒を袖で拭う。
隣りではまだ素振りを反復していた。
そこに。
「いた? いたー! ちょっといいかな?」
こちらを指差しながら駆けてくる金髪の女性と……それよりは淡い色合いの少女。
少女の姿を認めた瞬間、ドクリと心臓が跳ねた。
女性とアメリアが立ち止まる。
見れば女性の手が少女の手首を捕らえていた。
「ねえ。ちょっと話す時間もらっていいかな。ほら!」
女性が少女の背中を押し出す。
しばし青と緑の眼が合う。
沈黙が降り、少女が一度眼を伏せ、今度は青に強い光が宿っていた。
「……シア君。わたし……あなたのことが好きです」
言葉の意味を理解した瞬間、鼓動がうるさくなった。
思わず剣を取り落とす。
しかしそんなことには構っていられない。
「おれも……おれも、アメリアのことが好きだ」
少女の眼が湖のように潤みを帯びる。
「シア君」
自分の名を呼ぶ声すら愛しくて、気がつけばその身体を抱き締めていた。
その様子を見ていた連中がおれと彼女をはやし立てたのは言うまでもない。