16
その瞬間、全身の血が沸騰するような感覚と共に――視界が下りていった。
手を見る。褐色の肌だ。
重い身体をやっとのことで立ち上がらせ、礼を言う。
「ありがとう。助かった」
「とんでもないです」
聖女は体の前で手を振る。
「とりあえず――休んでから。家に来てくれます?」
「はい」
少女は頷いた。
家に着くと一層の疲労感がおしよせてきた。
家のあれこれを教えてからは気を失うように眠った。
◇
こんな時でも夢を見るのはは変わらないらしい。内容は変わっていたけれど。
まず狼が湖に落ち、場面が変わり教皇と数人の誰かに狼が枯れた花を贈っている。また場面が変わり、騎士に花を抱いた狼が捕まっている。更に変わり、半獣の狼が拘束されている――。
そのまま考えれば、後半は今の状況にすぐさま通じる夢だった。
師匠は捕まっているがとりあえず命に別状はないらしい。また違った意味があるかもしれないが。
そして、拘束とはいかないまでも首輪をつけられた半獣の狼、はこれまでも定期的に夢に出てきた。いずれも師匠が長く離れる前のことだ。なにがしかの拘束を受け、その見返りに金を得ていると見た方がいい。
今まで問うてきて、その度にはぐらかされて来た。
今回はその度合いが強まったか、また別なのかは分からない。どちらにしろ師匠が無事な方でありますように。
花、というのは聖女のことだろうか。
とにかく早急に脱出せねばならない。
だがその前に。
懐に入れた小瓶を取り出す。ご両親はともかく、若夫婦には伝えるべきだろうか。伝えてどうする? 要らぬ災いの、苦悩の種をまくのではないか? 教えてくれと言った若旦那を思い出す。
要らぬ憎しみを抱かせはしないか。
しばし、眼を閉じて黙考する。
……伝えよう。ただ、伝える方法を考えよう。
真実を伝えず去ったとしても、その行動自体が逆に真実へと導く種となっている。
それはおれへの信頼が元になっているけれど。
あの騎士に伝えられた真実は、本当にどうしようもなかったけれど、長年の疑問が氷解する気持ちの良さも同時に覚えた。
重ね置かれた本の上。物入れから二つの封筒と、数枚の紙とペン、インク壺を取り出し、手紙を書いた。
書き終わるのを見計らったかのように、上のベッドから聖女が降りてきた。
着替えはおれのものだが渡してある。何だかこそばゆい気もしたが、仕方がない。
いささかだぶついた様子だが、着れてしまうところがおれの体格の悲しさよ。
「おはようございます」
「おはよう。今からおれ、パン買ってくるから」
そう言い、剣を手に取る。
「わたし、……あ、いいです」
「なに?」
「着いていこうかな、なんて思ったんですけどさすがに怪しいですもんね」
深くフードをかぶった人間が二人。
「……ごめん。家の中にいてくれ。すぐ戻るから」
「はい」
外に出る。辺りにまだ人の姿は少ない。路地の中をパン屋へ急いだ。
「いらっしゃい……おう坊主」
しめて二人分のパンを見て、グラムさんは言った。
「ペトルスの奴が帰ってきたのか!?」
「残念ながら……違います。けど人が増えたんで」
グラムさんがにやつきながら言い放った。
「女か!? 女だろ!?」
客が振り向いた。
「いやあ。すみませんすみません」
「否定はしませんけど……実はお願いがあります」
声をひそめる。
「なんだ? なんだなんだ?」
「これを……おれは行けないので、アルベール布店の若旦那に渡してほしいんです。若奥さんでもいいです」
まず手紙を取り出し、グラムさんに差し出す。
「カジミールさんとオレリーさんには渡さないんだな?」
「はい。絶対です。カジミールさんとオレリーさんには、これを」
グラムさんは真面目な顔で手を出し受け取ると、分かったと頷いた。
「そして、もしここに若旦那か奥さんが知りたいと言って来たら、これを渡して欲しいんです」
今度は布で包んだ小瓶と手紙を渡す。
これも分かったと頷いて受け取った。
「行けないのがなぜかは訊かないが……すぐに出るのか?」
「え?」
「これが今生の別れみたいな顔してるぞ、坊主」
フードは取ってないが。
困惑の気配を感じ取ったか、グラムさんは言う。
「嘘だ。でも、もう来ないつもりなんだろ? フードを取らないところを見ると、何かやらかした。違うか?」
「……違いません」
グラムさんは囁きながら、肥えた身体を揺すって笑った。
そして笑いを含みながら――真剣な眼で言った。
「じゃあ、元気でな。坊主」
「はい。お元気で」
店を出て、ひとつため息を吐く。さよならは済んだ。家に帰ろう。
家に帰り着くと、聖女の姿がそこにあった。やっぱり、誰かがいるっていいな。そう思った自分はきっと、一人では生きられない人種だ。これまで師匠と、ペトルスと暮らしてきた。両人とも依頼で不在ということはあったけれど。成長し、孤独に慣れた今も、否孤独に慣れたからこそ、奥底では誰かを欲しているのだ。
「おかえりなさい」
「ただいま。湯を沸かすからちょっと待っててくれ」
自分はいいが、聖女に水とパンだけというのは気が咎めた。
そうして茶をいれる。
「おいしいです」
「よかった。ありがとう」
しばし沈黙が降りる。パンをあらかた咀嚼した後、これからの話に入る。
「今夜ここを出る。真っ昼間の中、騎士に見つかれば終わりだ。人のままでは外へ出られないだろう。人の眼は少ない方がいい。変身して夜に出る。この家は知られているから、門が開く頃になったら宿屋へ行く。今は雨が降っているし、不審にも思われないと思う」
そう。グラムさんのパン屋を出て路地を歩いていた時、雨が降り出してきたのだ。これは好都合だと思った。そして門が開くまで、あと数刻もないだろう。
「貴女には名前を考えていてほしい」
「名前……」
そうして何事かを口の中で呟く。
「街中で呼ぶわけにもいかないでしょう」
「……決めました」
「は!?」
思わず身を乗り出す。
「わたしは……アメリア・オールディス。以前懺悔に来た方達の名前から頂戴しました」
「アメリア・オールディスだな。分かった」
そうして荷物をまとめにかかり、しばらくしたところで――扉が鳴った。
「シア君〜いますか〜?」
その平穏さえ感じさせる間延びした口調とは裏腹に、血が凍る心地がした。
予期していなかったわけではない。愚かにも信じていたのだ。困らせたいと言ったその言葉を。
戸を叩く音が強くなる。
聖女にはローブを羽織り裏口から出ていてもらう。
窓から外を見る。騎士はマッド一人だ。警戒させない為に離れて控えているのだろうか――分からない。
腰にある感触を確かめ、意を決して扉を開けた。