13
夜が来た。夕食を終え身を清め、一人になる時間は大体決まっていた。
獣蝋に火を灯し、ベッドに腰掛け水盆を両手に取り深く集中する。繋がるか――相手が水を満たしていれば、水盆でなくても構わないのだが――繋がった。
『私よ』
「教皇聖下。今日もお美しいですね〜」
『そう? ありがと。じゃあ連絡してもらえるかしら』
棒読みで感謝され、続いて促される。
「まず一点目ですが、治安に問題はありません。ついで二点目ですが、聖下がお気に召しそうな男はいませんでした。三点目ですが、狼族の少年の居場所を突き止めました。四点目ですが、くだんの少年に教皇庁の構造を教えました」
つかの間、沈黙が訪れる。
『待ちなさい。最後、なんて言ったの』
教皇の反応に内心笑みをたたえながら答える。
「狼族の少年に教皇庁の構造を教えました」
それに対し、水盆から僅かに水が吹き出した。
『なんてことを! マッド、貴方、馬鹿じゃないの!?』
「自分でもそう思いますよ」
『おちおち安心して眠れないじゃない!』
「丸腰で向かうよう言いました」
一呼吸間があいた。
『それなら……あるいは』
「捕まえちゃえばいいんじゃないでしょうか。彼は見た目、全然悪くないですよ。ここで提案なんですが――彼が突入する日の警備に穴が欲しいんです」
『いつも馬車の出入りで開けている穴だけではなくて?』
「聖下の元に辿り着けるように、です。勿論、決行の日が分かり次第お伝えします」
教皇はため息を吐いた。
『わかったわ。マッド。待っている。他には? 何か言い残したことは?』
「ありません」
『じゃあね』
集中を解くと、教皇の姿が消えた。一気に全身へと疲労がのしかかってくる。
水盆をベッド際の机に置き、狭い寝台に横たわる。
目を閉じ力を抜くと、身体がずっしりと重たかった。
◇
ペトルスの実家で昼食を共にした後、貸家に帰る途中でマッドさんを見かけた。
「マッドさん」
「ああ、君ですか〜」
「休みなんですか?」
修道士の服を着てはいるが、手に槍はない。
「ええ。この近くに用があったもので」
青白い顔でそう言い、腕の中の包みを持ち上げる。
「サヴィス菓子店ですか」
「甘い物、好きなんですよね〜ここはクッキーが好きで」
「おれも甘い物、好きです。これから、何か予定ありますか?」
「いいえ。街中をぶらぶらしようかと〜」
「よかったら、お茶していきませんか。丁度、ケーキと茶葉をもらったところなんです」
とは言ったが、不健康そうな顔が気にかかったのだ。
「いいですね〜。お邪魔します」
「それから、おれの名前はシアといいます」
ぱちくりと落ちくぼんだ丸い目が瞬く。
「シア君ですか〜。なんか女の子みたいな響きですね。でも、いい名前だ」
「これはありがとうと言っていいんですか」
「ははは」
会話しながら家に辿り着く。
「おれ、湯を沸かしてくるんで。狭いですけど、よかったら座るかベッドで休んでもらってもいいですよ」
「本当に狭いですね〜では」
マッドさんがイスに座るのを見届け、家の裏手に回り石窯で湯を沸かす。
頂いたケーキを切り分け、皿にのせる。蜂蜜の良い香りがした。
持たされた茶葉の袋を開ける。
沸き立つ湯を漉し器のついた陶製のポットとカップに注ぐ。
茶葉を入れると部屋に置き、ケーキの皿を手に往復する。カップの湯を捨てる。
良い頃合になった茶を温めたカップにいれる。
てきぱきと動き、ちょっとした憩いの場が出来上がる。
部屋を見渡していたマッドさんは整った用意に一口、紅茶を口にした。
「熱っ! ……おいしいですね~。お世辞じゃないですよ」
「ありがとうございます。よくしごかれたもんで」
こちらも一口。口の中に爽やかな、芳醇な薫りが広がる。初対面の茶葉だが我ながら上出来だ。茶葉がよかっただけかも知れないが。
互いにしばし目の前の茶と菓子に集中する。ケーキは中が半熟で甘く卵が濃厚だった。これは美味しい。
飲み、食べ終えたところでマッドさんが薄い唇を動かした。
「さて、シア君。なんで僕は招かれたんですか?」
「それは……今にも倒れそうな顔をしていたからですよ」
マッドさんが顔の前で一本、指を振った。
「それだけじゃないでしょう~。訊きたいことがあるんじゃないですか?」
「訊きたいこと……」
胸の内に問いかける。あるか。ないか。引き止めた時に頭をよぎったものがなかったか。なかったとは言い切れなかった。
改めてマッドさんの灰色の眼を見ると、今はすべてを見通すような――婆ちゃんのような眼をしていた。
思わず背筋をのばす。
「じゃあ……聞きます。なんで教皇庁の見取り図をおれにくれたんですか」
「それはですね~。教皇に混乱をもたらして欲しいからです」
この人は今、教皇と言った。しかし。
「混乱……ですか?」
「早い話が困らせたいんですよ」
「何故ですか」
灰色が瞬く間に濁りを含む。
「僕は……これも早い話ですがね。あの女を恨んでいます。あの女が救ったせいで母は一時持ち直したが長い間心を狂わせて死んだ。逆恨み? 結構。母は早い内に死ぬべきだった。何が代行者だ。神の声を聞く訳でもなしに」
呪詛のごとくそこまで語るとマッドさんは微笑んだ。あの、口端を吊り上げる不可解な笑みだった。
「君もあの女に人生を狂わされた一人でしょう。狼族のシア君。だからかな、嫌いだけど親近感もわくんですよね」
「……教皇が命令したんですか」「そうでしょう? 今はアークライト、ベイン、オルコットと分割されているあの土地は誰が命令したかを考えると明白なはずです」
森の所有権でもめていた――あの騎士の言葉を思い出す。そこに仲裁に入るか、あるいはもめる原因の一つを消しに焼き討ちを命じるか。
明白とまではいかないだろう。
「それでですね、シア君。いつ忍び込むつもりですか? 」