・信じる事から始めよう
目が覚めたのは、懐かしさを感じる自分の部屋だった。
なのに、なぜか懐かしさよりも余所余所しさを感じてしまうのは、たったの数ヶ月一緒に暮らしていた人との生活が、私の中ではもう《当然》な事になってしまっていたからなのだと思う。
意見が合わなければ喧嘩をし、腹が立ったら八つ当たりしてみたり、時にはお互いを驚かせようと策を巡らせたり。
最初はいやいや受け入れたお見合いと言う名の契約。
その契約を世間に認知させる為だけに結んだ婚約と言う名の約定。
面倒な事に巻き込むな、干渉するな、といろいろな条件を出したのは此方側からだというのに、私の方が今にもその条件を覆そうとしている。
なんて都合のいい頭なのかしらね。
自分で自分が嫌になってくる。あんなにあの人の事は好きにならない、いけすかない、気に食わないと心の中で罵倒しておきながら、ほんの少し触れあっただけで心を揺らがせてしまうだなんて。それがおかしくて、苦しくて。
――コトッ
「あははっ、なんって、ブサイクな顔」
ベッドサイドのテーブルに置いてあった手鏡を手に取り、覗き込んでみれば、そこには歪んだ不安そうな笑みを浮かべる、疲れ果てた女がいた。その女が自分だと思えば、心は泣きたいのに、頭は逆に笑えと顔の表情筋に命令する。
それはとても奇妙で、気持ち悪い、見ているだけで不快な気分になる顔。
これじゃあ帰れない。(まぁ、帰れるかどうかも分からないけれど。)
ぼやける視界を瞬きすることで鮮明にし、ベットから降りる為に足を降ろした所で、部屋の扉がカチャリと小さな音を立て開かれた。
多分、開けた人は私がまだ眠っているものと思い込んでいたのだろう。現に、瞳が合わさった時には、ヒュっ、と息を飲み込んでいたのだから。
「緋弓・・・」
喘ぐような、苦しんでいるかのような、苦痛を感じているかのようなその人の声音に、私はポロリと一雫の涙を流してしまっていた。
別にそこに理由なんてない。
ただ、酷く安心した事だけは自分でも理解出来た。
あれだけ鬱々としていた気持ちも、彼が私の名前を呼んでくれただけで、嬉しくて堪らなかった。
躊躇いがちに伸ばされてくる彼の腕に、こちら側から求める様に両腕を伸ばせば、瞬き一つの後には、彼の胸の中で抱きしめられていた。そこには、私が夕方見かけた女性の痕跡は一切感じられなかった。それだけで、私は救われたような心地だった。
「家に帰ろう。帰って来てくれるよな?」
「・・・で、いいの?」
寝過ぎてカラカラになった声。
そんな声で聞き返す私に、彼、聖は。
「俺の婚約者は、お前だけだろう、緋弓。お前以外に俺の女は務まらない」
聞く人によってはなんて傲慢なんだと、聖を嫌う人もいるかもしれない。でも、私は聖だけを責めたり批判する事はもう出来ない。
だって、いつもはきっちりと完璧に整えられている髪も、堅苦しく締められているネクタイも、もとの形が見る影もないほど崩れていたから。
スーツのジャケットも湿っていて。あぁ、必死に私を探してくれたんだなと、解ってしまったから。
――だから私は。
「私ね、独りが嫌いなの。それにいつまで経っても奏詩が忘れられないかもしれない。それでも良いなら、私は聖を信じて一緒に生きていけるかもしれない。」
嫌いだとは強くハッキリ言えなくなってしまうくらいには心を許してしまった人。一度疑ってしまったからには、これからも何度も疑ってしまうのかもしれないけれど、今一度、彼を本気で信じてみる事から始めた方が良いのかもしれない。
私はスーツの上着にシワが寄ってしまうのも構わず、聖の背にしっかりと腕を回し、キスを乞う様に瞳を閉じた




