4 名前(三人称)
ふらつく足取りで競売台に立つ。内臓は揺れ、心臓は早鐘をうち、乾いた唾液を飲み干そうと喉が無駄な煽動を行う。
頭には血の気がなくふらふらするし、手足は震えてだらしない。それでも、気取られてはいけない。
自分の値段を吊り上げなければ、皆を救う事は出来ない。
お笑い種だ。『皆を救う』など自分が考えるなど。死と殺戮と呪詛の穢れにそまったこの哀れな女が。
表向きには結婚相手だが、実際はみっともない競売だ。台の上には彼女の自由を奪い、処女か否かを衆目の前で確認させる器具が見えた。
嗚呼。
夢のような日々だった。
いや、夢だったのだと彼女は思った。
物心ついたときには両親はおらず、『姉』と共にスラムで育った。
その姉と引き離され、汚水を舐めて生きながらえながら姉を奪った連中に復讐する日を夢見ていた。
毒を操り、睨んだだけで人を殺す『破壊と殺戮の女神』の力に目覚めたときは歓喜した。
幼く弱い少女の身体を弄ぼうとして死んだ男どもはだらしなく半裸で横たわり、あらゆる体液と糞便を撒き散らして死んだ。
醜い。どんな人間も最後は醜く死ぬ。ならばそれが早かろうと遅かろうと大差ないであろう。
彼女の声は人々に疫病を撒き散らし、唾液は人を殺し、歌を歌えば人の耳は潰れ、その目でひと睨みすれば悉くが死んで行った。
あっけない。
ほんとうにあっけない。
もうすこし楽しめないものか。
そうだ。邪神を蘇らせて自らを供物にするのはどうだろうか。
きっと楽しいことになるであろう。
儀式の最中に二人の男が乱入してきた。
一人は青年。薫るような美しく優しい顔を引き締めて小剣を手に握り。
もうひとりは少年。白いローブに長い棒を持ち、腰に小剣を差している。
いくばくかのやり取りを経て、彼女と彼らは死闘を開始した。
死と破壊、殺戮と疫病を振りまく彼女の力に、青年の癒しと慈愛の女神の力は拮抗し、
その合間を潜り抜けた少年の棒の一撃が勝敗を決した。
死。
甘美なその響きを。その瞬間を望む彼女に二人の男性は暖かい手を差し伸べた。
彼女の粗末な服を破り捨てようとしたあの乱暴でゴツゴツした手ではない。
剣ダコはついているが、柔らかく、相手の手を潰さぬように遠慮がちに握った手。
少年の屈託のない微笑みに彼女は何故か頬があつくなるのを感じた。
「トーイ。提案がある」少年は何事かを青年に呟いた。
白く冷たい石の床の上、自らの血と少年と青年の血の香りの中、彼女は恍惚として思索に耽っていた。
これで死ねる。これで無になれる。望んでいた完全な無になれると。
「ふむ。しかし。だが試す価値はあるな」「だろう」
??? 彼女は青年たちの会話に飽きた。
床の上に転がった自分の剣に手を伸ばし、ゆっくりと自らの身を捧げた。
はずだった。
「……ここは? 」
「慈愛神殿です。あなたは『記憶を失って』倒れていたところをトーイ様が保護したと」
きつい顔立ちに反して優しい笑みを浮かべる美女に彼女は戸惑った。
綺麗な女性だ。この娘が恐怖にゆがみ、泣き言を述べながら糞尿を垂れ流して死ぬ姿が見たい。
「私は、カレン。カーンブール村のカレンと申します。くちさのない同僚たちは『神官長』と呼びますが。……貴女は? 」
なまえ。じぶんのなまえ。
どんな名前だったっけ。忘れてしまった。
路地裏の光景が蘇る。空腹と痛みと寒さに泣く彼女に力強く呼びかける姉の言葉。
「ソフィアナ」
温かな薬湯の香りがする。彼女には馴染み深い。もっとも毒草の香りのほうだが。
病に伏せる老人が、盲いた老婆の姿が、手足を捥がれて苦悶の顔を浮かべる戦士の顔が見える。
唾を飲み込む。おなかがくぅと鳴る。「何も食べていないようですね」
粗末な衣装を身に纏った美女がまたやってくる。その手には粥。
「食べなさい」戸惑う。『死と破壊の女神』の呪いと加護にまみれた彼女には食事も睡眠も必要がない。
ゆっくりと粗末な粥を口に運んでみた。おいしい。
「ここは慈愛神殿の施療院です」比較的豪華な服装をした若い娘が微笑む。
その周囲には同じように若い娘たちが取り囲み物々しさを感じる。
その視線の先が何故か自分に集中していることに気がついた。
これほどの殺気を受けたことはない。
「ゆっくりしていきなさい」華やかに微笑む青年を見ると何故か頬が熱くなってしまう。
思わず粗末な匙を落としてしまった。
青年がその匙を皆が止めるのを聞かずに拾い上げ、彼女に渡す。頬どころか耳まで熱くなってしまった。
「私はトーイ。若輩ですが。この神殿の……恥ずかしながら高司祭を務めさせていただいています」
黒髪の青年はそう呟いた。彼女は知った。周囲の女性の殺気の篭もった視線の理由を。
それは、大いに不本意ではあるが、心地よい感覚ではあった。
「まだ動いてはいけません」カレンと名乗った女性の声が聞こえる。
『心配される』と他の人間が呼ぶ行為の対象になる。不思議な感覚だ。
「『死と破壊の女神』よ」彼女は小声で彼女の信仰する邪神に祈る。
彼女の破壊の力は、傷を砕き、病を砕き、毒を消し去り、盲いた老婆に光を取り戻させていく。
微笑みに戸惑い、優しさに戸惑い、叱られることと意味無く憎まれ怒られることの違いを知った。
きっかけはあの優しい少年の微笑み。
「ロー・アース様」
怖い。不思議だ。だが。
毅然とした態度を貫き、群集に華やかにほほえんでみせる。
「お慕いしております」
彼女の瞳から流れた一滴の涙を見ることが出来るのは、『神』と彼だけ。




