3
どこかの飼い犬が頬を舐めるまで、キリアは地面に座り込んで呆然としていた。当たらない勘が自慢だったのに、今日という今日に限って当たりそうな気がする。――いや、確信している。
「……ちっくしょう!」
草を毟って空へ向けて放り投げる。ばらばらと散った緑の屑を、犬が嬉しそうに蹴散らしに行く。
そうだ、馬を盗もう。マーブルや村長らの大きな家には立派な馬が飼われていたはずだ。そいつを頂戴して、領主の元まで行って――それからどうする。捕まって叱られて仕舞いだ。
出来ない。何一つ、子供の自分に出来ることはない。
畜生、ともう一度唇を噛んだ時。
「キリア君、だっけ?」
どこかで聞いた声が降ってきた。
驚いて後ろを振り仰ぐと、見覚えのある黒髪、黒目の男がすぐ傍で自分を見下ろしていた。キリアは一瞬息を止めると、すぐに柳眉を吊り上げた。耳元で血が勢い良く巡ってくるのを感じる。
「てめえ、何しに来やがった! 人殺し、食人鬼、ごくつぶし、変態、はげでぶちびばかあほまぬけ! あの馬鹿をどうする気だ!」
黒い服の襟を掴み上げて小突き回すが、背の高い彼はただ困惑したように眉根を寄せて暴れる少年を見下ろすだけだった。
「何のことだ? 俺は彼女と話をしに――」
「知ってるんだぞ、お前が、領主が人間を食ってるってなあ! ええ、どうなんだ料理人!」
その瞬間、カイムの相貌から表情が消えた。何一つ窺い知ることの出来ない凪のような瞳、ともすれば冷たささえ感じる程の無感動な顔。彼は少年の手を払うと、視線を逸らした。
「知らない。まさかあんな噂を本気に捕らえたのかい?」
「見苦しいぞ変態、だったら何でガリを連れてったんだ!」
「……え」
途端に青年は顔から色を失い、逸らした目を再びキリアに置く。少年はその視線を真っ向から受け、力の限り睨みつけた。カイムは信じられないといった様子で首を振り、小さく呟く。
「俺のどこが変態なんだ」
「そっちかよ!!」
右手を体に対して垂直に突き出し、肘を直角に曲げて勢い良く手の甲で相手の胸に叩き付けたところで観客席からボールが流れ落ちてくる訳でもない。
無駄なエネルギーをその一撃にこめてしまったキリアは、再び地面に腰を下ろして畜生と呟いた。犬が戻って来て彼の頭によじ登ろうとする。されるがままに脱力していたら、もう一度声が降ってきた。
「彼女が連れて行かれたのは、本当か?」
「わざとらしい。もしあいつに何かあったら、おれはてめえを殺すからな。人殺しの変態野郎」
僅かな間を置いて、相手が小さく嘆息したのが判った。
「……早まったな」
ぽつりと呟くや否や、カイムは足早にその場を後にする。キリアは頭に乗せた犬をそのままに立ち上がり、待てよと叫んだ。青年は立ち止まり、こちらを振り返る。
「本当なのかよ。本当に、お前は人を――」
カイムは答えなかった。
色の失われた相貌で、ほんの少しだけ悲しそうな表情を作り、再び村の外へと向かって歩き出す。やがて歩調は早足から駆け足へと変わり、馬車と同じように黒い点となってキリアの視界から消えた。
暫くそのまま突っ立っていたが、やがてがくりと肩を落とす。ずるりと犬が落ちた。
そしてうっすらと霧のかかった頭で、やっぱりあいつは徒歩でここまで来たのか、と僅かな驚愕を覚えた。ならば、自分だって馬が無くとも歩いて敵地まで行けるのではないだろうか。叱られても怒られても構うものか。日がとっぷりと暮れる頃にはきっと着くだろう。
(間に合うか、ボケ!)
だんだんと地団太を踏む。彼の剣幕に、ふんと鼻から息を出してつまらなそうな顔をした犬は、ふらふらと家々の中へと姿を消した。
事は一刻を争うということを、本能が告げている。キリアは、既に自分の勘が当たらないということを否定していた。
「あれ、さっきのカイム様じゃない? どうしてここにいるの、てっきりお館で待ってると思ってたのに」
その時、気楽な声と共にミミが現れた。手に昼食のデザートらしい青い林檎を持ち、小さく齧りながらキリアの元へ歩み寄ってくる。昨日の白いスカートではなく、桃色のキュロットを履いている姿は矢張り抜群に可愛らしく――。
いやいやいや、それどころではない。
「ガリが危ないんだ、ミミ。おれはどうすればいいのか分からない」
「危ないって、まさか油ギッシュなちびでぶはげ領主に手篭めにされそうなの? 嘘お! いえどんな人か見た事ないけど!」
途端に飛び上がり、少女は興奮したように眉を吊り上げた。手篭め、の意味が解らなかったが、キリアはただ頷き続ける。「どうすればいいんだよ……」
あらやだ忘れたの、とミミが怒ったように言う。
「冥魔術が使えるんでしょ? 今使わずにいつ使うのよ。カイム様がガリ様の傍にいない今、貴方が勇者になるしかないでしょ!」
「で、でも」
色々な所で色々な勘違いをしている少女に対して口を挟む気も起こらず(正確にはどこで挟めばいいか分からず)、キリアはただ相手の気迫に飲まれて仰け反った。
「今から歩きで行ったって間に合わないし、大人はきっと馬なんか貸してくれないし」
「なんだ、そんなこと」
屈託無く笑うと、少女は後ろを振り返った。質素な家々から成る村の正面通りである。料理屋も彼女の泊まっている宿屋も、全てこの通りに連なっている。
その通りに向かい、高く長い指笛を響かせると、ミミは腹の底から大声を出した。
「ミッフィー!」
最初は、風の音かと思った。そして次は誰かが家の中で階段を転げ落ちたのだと思った。最後に地震だと思い、遂にそれが姿を見せるまで、キリアは恐ろしい地鳴りを固まったように聞いていた。
大きな黒い影が二人の前に立ちはだかる。
否、正確には白いのだが、青空の光を逆光にしている為、黒く見えるのだ。それは大きな鼻を鳴らし、うるるるると獰猛な唸り声を上げるとミミに擦り寄る。
……なんという、巨大な馬だろう。
「紹介するわ、ミッフィーよ。あたしの親友。宿の厩でじっとしてたから、丁度良い運動になるわ」
ミッフィーは灰色のたてがみの下から覗く目を凶悪な光で輝かせる。そして、にやりと笑った。
今この馬は、キリアに対して確実に笑った。
「あ、あの、なんで馬の顔にサンマ傷が」
「どうでもいいでしょ、馬社会の抗争よ抗争。さあ行くわよ、ガリ様を助けに!」
なんてハードボイルドな、と口の中でもごもごと呟きながらも、キリアはミミの後ろに乗った。早駆けが苦手な彼は、言われるままにしっかりと少女の腰に手を回す。予想だにせぬ密着率に頬を赤らめたのも束の間、眉間から目の下まで立派なサンマ傷を走らせる巨大な白馬は、ブルルァァと馬らしからぬ咆哮を上げて走り出した。
それは風というよりも、嵐に近いと思った。
+
馬車に揺られること一刻、湧き上がる不安を収めるために熟睡していたガリーナは、車輪の緩やかに回転する音で目が覚めた。窓の外を覗くと、既に車は館の敷地内で、玄関口を目指してゆっくりと進んでいるようだった。
「うー」
目を擦って欠伸をし、涎を垂らしていないことを確認した後、手に小さな白い包みを握っている事に気付いた。出発直前にミミが投げて寄越したものだ。それは袋の形をしてはいるものの、しっかりと縫い付けられた口は開きそうも無い。
「なんでしょう、これ」
揉んでみるとかさかさと音が鳴り、砂のような葉の様な感触が指先に伝わる。すると、ほんの微かな微香が放たれたような気がした。丁度その時馬が足を止め、慌てて胸元に小袋を仕舞い込む。ついでにまだ握っていた木槌も放り込む。胸がごつごつして、とても気持ちが悪かった。
無言で扉を開かれ、振動で痺れた足をどうにか動かして降り立つと、眼前に見た事も無い程大きな玄関が現れた。玄関だけではない。顔を上げると自宅の寺院ほどの高さを持つ屋根が延々と左右に連なっている。暗い色で聳える城のような館は、嫌でも忘れかけていたガリーナの不安を煽った。
「凄いです……。一体家賃はおいくらなんでしょう」
御者にじろりと一瞥され、慌てて口を噤む。この男は少し苦手だ。先程から何を言っても、返ってくるのはこの冷たい睥睨だけなのだ。しかし、彼の役目はどうやらここまでだったらしく、館の中に入ってからは執事らしき黒服が赤絨毯の上を先導して歩く。金色に輝く像や煌びやかな壷、美しい女性の肖像画がこれでもかと陳列されている廊下を進み、やがて食堂へと辿り着いた。
食堂と一口に言ってもバーバババ亭や久利金豚のようなものとは雲泥の差で、薄暗い照明の中に大きな暖炉を脇に構え、ガリーナが五人程寝そべってもまだ余るほどの長い長い食卓が置かれている。その一番向こう側でふんぞり返って座っている肥えた男が居た。
プーさんだ、と確信した時、背後で扉が閉まる。慌てて振り返ると、執事はとっくに消え失せていて、ぽっかりと空いていた入り口は頑ななまでにその口を閉じていた。
いきなり二人きりにされてしまった。
(どうしましょう、こういう時はどうすれば……そうだ、ごますりですごますり)
そう思い立って佇んだまましゃかしゃかと両手を擦り合わせる。しかし相手は何も言わない。逆にじっとその動きを注視され、段々と居たたまれなくなって手を後ろに隠した。
「それは何だね、何かの儀式か挨拶かね?」
プーさんが初めて口を利いた。少女に対する興味と、気だるさの漂う倦怠感、両方を併せ持つ声音だった。
「はい、えと、おまじないです。貢税が下がりますようにって……はっ、しまった直球過ぎました」
「なんだ、苦しいのか? 望みはどの程度だ」
「え? あの……五分、くらいですかねえ……」
領主アルプーは暫く間を置いた後、大仰に頷いてみせた。
いいだろう、という言葉を、ガリーナは半ば放心した状態で聞く。副村長マーブルは指紋が血を吹くまでごますりして来いと言ったが、まだ自分は十回ほどしかごまをすってない。労せずしてこんな簡単に税を下げてくれるとは、まさか彼は――
「プーさん、良い方なんですね! 感動しました! 村の皆さんもきっと喜びます」
領主は感動で目を潤ませる少女に笑顔で頷きつつ、彼女の呼んだ妙ちくりんな名前が自分を示す事に、話題を移行させてから気付いた。
「ガリの聖女、思っていたよりもずっと美しいな。その明るい色の服も良く似合う、今までの娘達の中で最も気高く綺麗だ。さぞ美味いのだろう」
「は――はい?」
聞き慣れない単語が頻出した為、ガリーナは笑顔のまま首を傾げた。今まで聞かされる言葉は馬鹿や間抜けやガリや駄目や用無しばかりだったので、脳の処理速度が新たな語彙に追いつかないのだ。
美しい、気高い、綺麗、とは果たしてどのような悪口だったろうか。そしてその後、アルプーは何か奇妙なことを言わなかっただろうか? 頭がくらくらしてきて、ガリーナはヴェールの上から耳の辺りを押さえた。
その時、大きな音がして自分に置かれていた領主の視軸が背後に移った。ゆっくり首を巡らせ、後ろに昨夜の青年が立っている事を認めると、初めて今の音が扉の開いた印だということが解った。
「旦那様、どういうことですか。俺達に何の相談も無く、このようなことをされては」
カイムが少女を一瞥し、さり気無く隣に立つ。――何か、良い香りがする。
「今朝も申しましたが、彼女はあの村の大切な巫女ですので」
「巫女じゃなくて、聖女です」
反論した途端に足元がぐらつき、青年が返事の無いままガリーナの二の腕を掴んだ。
アルプーが鼻で笑ったのか、短い空気の摩擦音が聞こえる。
「聖女だと、馬鹿馬鹿しい。街中で溢れかえっている乞食の予言者と何が変わんのだ。迷信に振り回されるなどお前らしくない。ぐずぐずしている様だから私自ら使いを遣ってやったのだ」
「ですが……」
「やれ、カイムスターン。三人殺しが四人殺しに変わるだけだ。それにお前達料理人の首を飛ばすことなど、造作も無いんだぞ」
領主が首筋に食卓のナイフを宛がって見せ、それが物理的な話であることを示唆すると、カイムは黙して目を伏せた。
ガリーナは彼が眉間に寄せている皺をじっと見つめて、二人の会話を頭の中で反芻しようとした。けれどその努力とは裏腹に、何も出てこない。確かに彼らが剣呑な雰囲気で何らかの会話をした事は理解しているのだが、くらくらする頭の中では全ての事象が上滑りする。
――プーさんは、カイムさんに無理を言っているのかしら。
その程度が精一杯だった。
眠い。眠くて堪らない。
半分閉じかけた目で最後に見たものは、そこらじゅうを飛び回る極彩色の引き攣った笑顔の蝶々やそこらじゅうに咲き乱れるパステルカラーの痙攣した笑顔のきのこ、そしてカイムがじっと自分を見つめる黒い瞳と、微かに動いた唇だった。頭に水色と橙色のきのこを生やした彼は最後に、確かに言った。
ごめん、と。
自分に寄りかかる様にして気を失ったガリーナを抱きすくめながら、カイムは遠く正面に座るアルプーを睨んだ。
「何を飲ませたんですか」
知らん、と相手は目の前に置いてあった赤ワインをコップに注ぎながら返す。
「執事がやったのだろう、気の利いた事だ。――さて」
彼は赤い酒を一気に煽り、溜息と共に二人を見据えた。カイムは手前の椅子にガリーナを座らせ、体がずり落ちないようにと細心の注意を払う。
「どうやって殺すのだね、カイム。普段はザロク料理長がやるのか? それともお前が? 間近で見るのは初めてだな」
青年は、俺です、と無表情に返事をし、興味津々で身を乗り出してくる相手に冷たい視線を送る。
「銃や剣で一発という訳にはいきません。的確に血を抜くために、まず生かしたまま逆さ釣りにして喉を」
「わかったもういい」
些か顔を青くした軟弱な男に頷くと、幾らか逡巡した後に踵を返した。ガリーナはそんな男達の不穏な会話など知る由も無く、静かな寝息を立てている。
「――色々と、準備がありますので。失礼します」
扉を閉めた後、カイムは豪奢な絨毯を滑るように厨房へと急いだ。
まさか領主が獲物の少女をこんなに早く、しかも自ら呼び寄せるなど、予想外の事だった。まだ準備が整っていない。急いで同僚達に火急の用件と告げ、用意に当たらせねばならない。
しかし、今回は難しい。何せガリの聖女だ――どう足掻いても彼女の存在を揉み消せそうにない。
「くそ、どこまでも面倒な事を」
口の中で悪態を吐いた時、厨房へと辿り着いた。
しかし、その部屋の異常な雰囲気を、彼は敏感に感じ取っていた。用は無くとも何時もそこで座っている、老人の姿が無いのだ。ザロク料理長は料理に一生を捧げ、この館でカイムの上司として常に彼を導き、そして共に働いてきた同僚だ。
彼が言った、「共に責を追う」という言葉。それは小さくはあるが、カイムの心の中で安堵という名の礎として佇んでいる。
「ザロクさん、領主が彼女を連れて来ました。急がないと……ザロクさん」
薄暗い厨房を早足で横断しながら、カイムは料理長がここには居ない事を知る。焦燥と共に口を引き結び、そして再び違和感を感じた。
ザロクが愛用している椅子の上に、手紙のようなものが置いてある。訝りつつもそれを手に取り、屋外の陽挿しが挿し込む窓辺まで持って行く。
白い紙には達筆でこう記されていた。
『 辞 表
もう色々としんどいので辞めさせて頂きます。
料理長の座はカイムスターンに譲ります。
新しい時代は彼が作ることでしょう。
私が最後の料理長でない事を嬉しく思います。
ザロク元料理長 』
「……あのくそじじい……」
カイムは手の内で紙をぐしゃぐしゃに丸めると、火の消えた暖炉の中に放り込んだ。
誓いの言葉をあっさり放棄し、責を全部青年に押し付けて逃げた老人は、自分の俎板すら残していなかった。普段の気弱な顔などどこ吹く風の見事な逃げ足ぶりである。
力無く椅子に座り込んだカイムは、ザロクが唯一残して行った机の上の赤い腕章を手に取り、袖に着けた。なかなか様になっている、と空虚な笑みを浮かべながら、これからの事について考え始めた。
ザロクが突然失踪したことは多少は痛手であるが、自分が料理長として他の料理人と力を合わせれば、恐らく単なる杞憂と終わるだろう。彼の消失という穴を、皆で埋め合わせるのだ。
そうすれば、今まで通りの平穏と言えなくもない生活を送ることが出来るはずだ。
物思いから帰ると、青年は立ち上がって指を鳴らした。
とにかく、このトラブルに対して全ての手筈を大急ぎでこなさなければならない。既に心中の暗雲は天気雨程度の雲へと変化していた。
ふと、食器棚に目が行った。
白い大皿の上に給料袋が置いてある。
二袋……三袋もだ。誰か置いて行ったのだろうか?
背を這い上がる嫌な悪寒を敢えて無視しながらそれを手に取り――表面に書いてある字面を目に入れた。
『 辞 表 』
聞こえもしない春雷の音を聞きながら、カイムは大地に伏臥した。
そして彼は――諦めた。