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「へー、で、新しい料理の開拓を命じられてここに来たと。大変だなあ」
「ですねえ。でも、こんは、ひんほうはははひへほはへははひはふはへえ」
口の中にしこたま枝豆を放り込んだガリーナの言葉に、異邦人は困ったように曖昧な笑みを浮かべた。
「つまり、こんな貧乏酒場にお目に適うものがあるのであろうか、と」
短い稲穂のような髪をした少年が鯉のタタキを頬張りながら解説すると、料理人は――確か、カイムと名乗ったその青年はやっと会得したように首肯した。
「料理の体系は遠方に行けば行くほど異なるものだし、その上各々の家伝の家庭料理もあるからね。あなどれないんだよ、その――田舎の料亭でも」
「はひははっへんははひへぶらっ」
キリアに後頭部を平手打ちされ、ついに少女は黙り込む。「つまり、何か新たな発見はあったであろうか、と」少年が再び解説する。
「そうだね、このクリームフェアリーのタレに林檎の絞り汁を入れているのは初めて見た。それに、こっちのぶつ芋にはコイビトタケが微少ながら振りかけられてる。乾燥させて香として焚けば幻覚を引き起こす茸を使うとは、なかなか思い切っていて面白い。思っていたよりもレベルが高いね」
「おっさん、聞いたか。領主お抱えの料理人にお墨付きだぞ」
店主は相変わらずの憮然とした表情のまま調理を続けるが、まんざらでもなさそうだった。無愛想が売りの男だが、実は料理と人情に賭ける情熱は大変暑苦しいものを持つのである。
店の中は既に満員御礼で、給仕達が大忙しで人の間を縫って皿を運搬、回収している。あちらこちらでてんでばらばらにグループを作った大人達は、それぞれが好き勝手に喋りまくっていた。大きくは無い店であるのに、すさまじい喧騒である。カイムは穏やかな目で、楽しそうにその声の波の応酬を眺めていた。
「それにしても、こんなに歓迎されるとは思わなかったな」
「でしょう? みんな、とっても気さくな人達なの。あたしが去年初めて来た時もこんな感じだったのよ。きっと、ただ単に宴会がしたいだけなのね」
ミミが苺ミルクをつつきながら、どこか眩しそうな目で客人に言う。キリアとガリーナはまだ料理を貪りながら、うんうんと首を縦に振った。
「少なくとも私は今日ほどお客様を歓迎したことはありません」
「うむ、おれもだ」
「なんせ折半ですから。それはもう有耶無耶に」
「うむ、さよなら皿洗い」
カイムはもう一度笑みを見せた。一見気弱に見えるその微笑は、彼が困惑した時に出す癖のようなものらしかった。この二人と同じテーブルについた時から、もう十回程繰り出している。
領主といえば、この村にとって雲上の存在であった。見えはしないが確実に強大な力を持ち、村人達はその見えない存在に対して納税している。雲上の館の料理人達と言えば当然腕の立つ人間であり、料理長ともなれば下手な料亭よりもよっぽどの稼ぎがあるだろう。
平穏そのものの村に突然現れたカイムという料理人は、歓迎の対象であると同時にほんの僅かな畏怖をも同時に喚起させる、そんな存在だった。
「あれ、ハラミ召し上がらないんですか? いただいても良いですか?」
全く畏れを感じていない人間も、ここにいるのだが。
「ところで、さっきのお話の続きだけど。ガリさん、聖女って何なさってるの? 鐘を落とすのがお仕事?」
「聖女? ガリの聖女って、君が?」
だからガリじゃないです鐘も不可抗力ですと不平を呟きながら、ガリーナはヴェール越しに頭を擦った。たんこぶのことを思い出したのだ。
「ガリーナです、ガ・リ・イ・ナ。趣味はお裁縫と畑仕事、奥様のための服飾教室でお小遣い稼いでます。嫌いなものは黒い悪童、好きなものは動物、特に犬とか狼とかにゃんことか」
「聖女って何なさってるの?」
笑顔で少女の答えを封殺し、再度同じ問いを返すミミは無邪気にも不思議な迫力がある。カイムも注視しているのに気付くと、ガリーナは咳払いして姿勢を正した。
「守ってるんです。――人界と、冥界の境界線を」
「嘘だけどな」
「本当ですってば小童!」
キリアは非難を無視して芋を口に放り込む作業を続ける。
「この村には、絶えることなく聖女がいる。ガリーナは二十二代目の聖女の生まれ変わり。聖女が村を捨てたり彼氏を作ったりすると冥界の力が人界に溢れ出して村が滅びるんだとさ。あほくさ」
「きいっ、全部言いましたね! 私が言おうとしたのに!」
美味しいところを全て少年に奪われ、聖女は歯を食いしばってばんばんと悔しそうに膝を叩く。
顔を輝かせてその様子を見つめているミミは、この話を真実と捉えているか否かは解らない。ただ一人、カイムだけが真面目な顔をしてガリーナを見つめている。
「この村を出たら、どうなるんだ?」
「滅びるらしいですよ、村が」
えへへ、とタイミングのずれた間抜けな笑いと共に少女が返す。
それは全て実際の伝承である。
曰く、聖女が村を離れると村が滅びる。従って聖女は質素に堅実に村で生きてゆかねばならない。冥魔術を学んではならない。結婚してはならない。酒は週に五杯まで。男性に十秒以上触れてはならない。外泊は村長に届出をして二回の夜を超えてはならない。宗教を立ち上げてはならない。お布施を強要してはならない。親を大切にしなければならない。スイカに塩をかけてはならない。雷が鳴れば机の下に隠れねばならない。
ならない尽くしの定規が、聖女の証である。
カイムはその言葉に眉を顰め、何事か考え始めた。
そして、ずずいと少女の鼻先まで顔を突き出す。
「う、え、あ、か、そ」
至近距離から漆黒の瞳に凝視され、ガリーナは大いに混乱した。翠色の眼を見開いて、身を引く。
――自分と年の近い男性に、これ程までに近くで見つめられた事は記憶に無い。
「あ、あ、あの、嘘じゃないですよ、そういう伝説と決まりなんです。わわ私はそれに従わなくちゃいけなくて」
解ってる、とカイムは頷いて前傾姿勢を元に戻した。
「君はこの村を出る事は出来ない。聖女としてこの村で生活していかなければならない。そしてこのルールは誰も破ることが出来ない。――だね?」
「あ。……はい」
難儀だな、と呟いて、僅かな渋面を作る。そして沈黙が訪れた。子供達はそれぞれ呆然としたようにカイムを見つめ、止めていた息を吐き出す。
「なんだか無駄にどきどきしちゃったわ……」
「ううううこの部屋、暑いです」
はたはたと両手で顔に風を送るガリーナと、未だ目を丸くしている子供達。料理人は彼らを制するように片手を挙げると、懐に手を入れて財布を出す素振りを見せた。
「あ、もう帰んの? また来る?」
「そうだね、きっと。気に入ったよ――特に」
そっと、はたはた振られていた手を取って。
驚愕して体を固める少女に囁く。
「出来れば君と、二人で話がしたい。近いうちにでも」
そして見る者を安堵させるような優しげな笑みを口元に浮かべると、立ち上がってカウンターへ向かう。それから彼の帰宅を惜しむ喧騒に苦笑しながら、手を振って外へと出た。彼の視線が最後に三人に置かれた時、扉が閉まった。
ほんの僅かな静寂の後、再びわいわいがやがやと始める大人達。話題は主に領主に関するものだった。カイムの存在で抑圧されていた全てが一気に噴出したのだ。
「見ろよ、金貨だ。全部奴の奢りってことでいいのかよ?」
「気前の良いことだねえ。流石領主お抱えの料理人だよ。そういや知ってるかい、あの噂――」
「ああ、アレなあ」
キリアは漸く、口の中で停滞していたハラミをごくりと飲み込んだ。両隣に目を遣ると、ミミは呆気に取られたままで、もう一人は口をぽかんと開けたまま微動だにしていない。フォークの柄でほっぺたを突付くと、元々上気していた頬が茹蛸のように真っ赤になった。
思い出したかのように両手をぶんぶんぶんぶんと動かし、必死で風を送る。
「ううううううううううう暑いですこの部屋暑いです」
少年は小さな嘆息に驚愕を乗せた。
信じられん。知らないと言う事は、時に恐ろしい運命を導くものだ。
肩を落とし、独り言のように呟く。
「村一番の馬鹿に彼氏が出来そうだ……」
「誰が馬鹿ですか誰が彼氏ですか誰が誰が! 危ないところでした、あと四秒で聖女失墜でした。恐ろしい人です」
真剣に恐怖に戦いているガリーナを横目に、キリアはもう一度深い深い溜息をついた。
駄目だ。
こいつの馬鹿っぷりには誰一人ついて来られない。
きっとあの男だって、すぐに彼女に愛想をつかして諦めるだろう――。
「だからさあ、食べるらしいよ」
「眉唾くさいって。いくら領主とはいえ……」
恐らく達成したら村がひっくり返るほどの大騒ぎが起こるであろうこちらの話題には全く気付かず、店は噂話が満開である。蛸のような顔色をしているガリーナは、夜風に当たると言い置いて急いで外へ出て行った。
そこでキリアは、外がもう真っ暗だということに気付いた。ここから領主の館までは馬で一刻半はかかるのだ。カイムはどうやら手ぶらで来ていたようだし、泊まる事は無いだろうから、本当に帰ってしまったのだろう。馬は一体、どこに置いてきたのだろうか。――まさか、徒歩でここまで?
漠然と考えるでもなく考えていたら、不気味な笑い声が聞こえてきた。慌てて辺りを見回すと、どうやらミミが顔に笑みを張り付かせて肩を揺らしている。
話しかけるのが怖かったので黙っていると、彼女は笑顔をこちらに向けた。
「カイム様って、素敵じゃない? ガリ様もちょっと変わってるけど、とっても愛らしいし」
いきなり様付けである。
キリアが思わず眉を吊り上げると、彼女は可愛い顔立ちに輝くような笑みを浮かべて顎に手を添えていた。――まるで、何かを企んでいるように。
「ふふ、決めたわ。ミセス・ジングル学級白百合の仲介人の名にかけて、絶対成功させてやるわよ。……手伝ってね、キリア君」
うふふふふふふと含み笑いを続ける少女を見つめながら、キリアはぼんやりと考えた。
その二つ名は老獪さとあどけなさが混在して鮮やかなハーモニーとなって桃色のリボンを舞台とする協奏曲を演じていやしないか、と。
+
深夜、厨房に入ると暗闇の中に一本だけ燭火が灯っていた。もう既に明日の仕込を終えた料理人たちの姿は無く、水の滴る音だけが闇に反響している。蛇の舌のような炎がちろちろ瞬き、その度に黒い影は大きく小さく変容する。
「早かったね」
老人の声に、カイムは目を凝らした。
闇の中で、ぼんやりと光に照らされて男の姿が浮かび上がる。細い体を椅子に乗せ、弛緩させた手足が疲れた様子を伺わせた。
「何時も思うのだが、君は足が速いようだ。逓騎にでも転職したらどうかね」
「今回ばかりは無理です、ザロク料理長。彼女が消えればあの村は大騒ぎになる――伝承が真実にしろ、出任せにしろ」
相手の冗談を無視し、カイムはテーブルに手を置いた。
「もう、限界です。俺はあれを調理したくない」
「やるんだ、カイムスターン」
ザロクはその瞳に悲しみの色を浮かべ、小さくかぶりを振った。青年は唇を噛み締めると、俯いて目を伏せた。黒髪が落ち、深い影となってその表情を隠す。
「君の腕は真実素晴らしい。あれをあそこまで芸術品として昇華出来るのは君しかいないのだよ。大丈夫、一人にはしない……君の負担も、罪も、我々が共に背負うものだ」
ふうと風が吹いて燭火が消えた。
+
ぼく、ぼく、ぼく、ぼく。
奇妙な音に眉を顰めながら小道を歩み続けると、例の自称聖女が草の上に座り込んで落ちた鐘を打ち鳴らしていた。勿論、振動は全て大地が吸収するので普段の古びた清らかな音は響かない。
ぼく、ぼく、ぼく、ぼく。
したたかに陰鬱な濁音が鳴る。正午の麗らかな日差しすら、彼女を避けて通るようだった。俯き加減で一心不乱に木槌を振るう少女は、ある種鬼気迫るものがあった。
ぼく、ぼく、ぼく、ぼく。
「…………何してんの」
「うおわう」
不意を突かれたガリーナは木槌を放り投げ、風のように立ち上がって声の主を振り返る。そして笑顔を作ると、スカートの端を摘み上げた。
「今日のテーマは河原でタイマン張った後ダチと共に見上げた空です」
良く解らないのは何時もの事だが、昨日とは違う空色の聖服とヴェールを身に着けている。キリアは感嘆とも諦めともつかない表情で小さく頷くと、そのバリエーションの豊富さを思った。気にした事はなかったが、毎日違うテーマの服を着ている気がする。――尤も、聖服のデザインはそう変えられないらしく、豊富なのはその色数なのだが。
「昼っぱらから陰々滅々と……。どうせ鳴らないんだから放っとけよ」
そうはいきません、と河原でタイマン張った後ダチと共に見上げた空色のガリーナは些か憮然としたように頬を膨らませた。
「決まりは決まりです。明け、正午、暮れ、一日三回カンカンと鳴らすのです」
「ぼくぼくと聞こえたけどな」
「……だってファイさんが手伝ってくれないから……」
消え入るような語尾で大地にめり込んでいる鐘を見下ろすと、それきりガリーナは黙り込んだ。学校――というほど立派なものではないが――帰りのキリアは、その鉄の塊に腰を下ろすと、空を見上げた。自分の腕ではこの鐘を持ち運ぶことは出来ない。ほんの少し、苛立つ。
「昨日の兄ちゃんさあ」
「あっ黒い悪童発見!」
途端に木槌を拾い上げて怒涛の勢いで地面を叩きまくる。それが演技なのか本当なのか、キリアには解らない。
「くそう、また逃がしました……。ん、さっき何か言いましたか? キリア」
少年は肩を竦め、別にと返す。
そう、別にどうでもいい。ガリーナに恋人が出来ようが、騙されようが。
それ以前に彼女はきっと、聖女の掟だと言って異性に触れる事すら避けるだろうから。
だから、昨晩から胸をざわつかせている嫌な予感など、杞憂に過ぎない。昔から自分の勘は当たらないのだ。
頬を撫でる風に目を細めた、その時。
遠くで呼ぶ声が聞こえた。
緑色の小道、両脇に茂る木の向こうから見慣れた男が姿を現す。彼はこちらに向かって手を振りながら、少し出っ張ったお腹を揺らしつつ小走りに駆けてくる。二人の元に辿り着いた時、彼はぜえぜえと息を切らせて額に光る汗の小粒をぬぐった。
「あらファイさん、こんにちは。ついにこの鐘を持ち上げてくださるのですね」
「違うよ馬鹿わたしまだ怒ってるね。そうじゃなくて、領主の使いの人が来てるよ。あんたを夕食に招待したいとかなんとかかんとか」
「へえ?」
二人は奇妙な申し出に顔を見合わせた。
今まで聖女を訪ねてきた酔狂な人間はいるが、招待されるのは初めてだ。少なくとも、ガリーナの代では。しかもそれが領主だという。雲上の人間、実のところ彼女はその名前すら知らない。
「あの、どうしてでしょう。私何かしたでしょうか。あっ、まさかこのびぼーに心を奪われたり嫁にしたいとか言い出しちゃったりなんかしませんよねえ。何でしょう」
首を捻って不思議そうな顔をするガリーナに、ファイは何時も握っているお玉を振り回して「知らないよ」と怒ったように言う。「いいからさっさと行くね。上手いことしたら税も軽くなるかもよ」
昨日、宴があった酒場『バーバババ亭』は、ファイの料理屋『九里金豚』とは好敵手の関係にある。それこそタイマン張ったらダチだがライバルはライバル、そんなアレだ。従ってファイが先ほどから機嫌の悪い素振りを見せているのも、昨日の鐘や黒い悪童とは別の要素が絡んでいるのだろう。
「カイムだ」
キリアがぽつりと呟くと、ガリーナは益々首を傾げた。
「うううん……いつかと言って、昨日の今日じゃないですか。性急な聖騎士様ですねえ」
「ほらほら、さっさと行く! 村を代表して指紋が擦り切れるまでごますりして来るね!」
また別の意図を持っているファイは、追い立てるようにして村長の家の前まで少女を連れて行く。そこには赤い毛並みの立派な馬が二頭、そして馬車と御者が佇んでいた。
副村長のマーブルが物珍しげに遠巻きに囲んでいる人々の中から現れ、派手な色眼鏡を押し上げた。そしてガリーナの肩をぽんと叩いて小声で言う。
「ガリーナ、用無しの聖女が一世一代の晴れ舞台だ。用件は知らんが、村を代表して指紋が血を吹くまでごますりして来い。せめて五分は下げるまで帰ってくるなよ」
貢税、と低い声で言い終えると、きらりと輝く白い歯を見せて退く。あう、とかえう、とか間抜けな声を出して少女が周囲を見回すと、群集は一斉ににかっと口を耳まで引き裂いて歯を輝かせた。
(こいつら……)
ここぞとばかりにぶら下がりやがって、とキリアは三白眼でマーブルを睨む。派手な老人はそ知らぬ顔で嘯笛を吹いた。
「ガリの聖女様ですね。ヘイルバスク=オルドラン=ノム=アルプー様が是非とも貴女と夕餉を共にしたいとのこと、命を受け馳せ参じました」
「プーさんですか」
じろりと御者が睨むと、ファイが追従笑いを浮かべながらお玉で少女の頭をぱかんと殴る。「すいませんね、礼儀のなってない子で」
また叩いた、と涙目で頭を擦りながらも、ガリーナは先導されるままに馬車に乗り込む。固唾を飲んで見守る群衆が作り出す沈黙の中、ついにキリアは耐え切れず声をあげた。
「あの、おれもついて行っちゃ駄目ですか。そいつ一人じゃ何にも出来なくてきっと、いや絶対確実に無礼を働くと思うんです」
「まあ、キリア! 私を何だと思ってるんですか、一人で全然平気で……平気……」
心細くなったのか、まだ持っていた木槌を握りしめて少女は小さく喉を鳴らす。御者は鉄面皮を崩さず、「ガリの聖女様だけです」と冷たく言い放つと、呆気なく扉を閉めた。そして窓から顔を出して不安げな顔をするガリーナを乗せ、馬車はゆっくりと歩を進め始める。
キリアは妙な焦燥を覚え、馬の速さに合わせて隣を歩く。少女の見下ろす視線に何を言うべきか分からず、口を引き結んで。
その時、桃色の物体がキリアの後ろから飛び出してきた。
「ガリ様、これ!」
そう言いながらミミが馬車に向けて白い包みを放り投げた。危なげなくそれを受け取ったガリーナに、「頑張ってね」と笑顔とウインクを送る。
馬は一気に加速した。少年の足がそれに敵うはずもなく、あっというまに馬車は黒い点となって村から離れて行く。キリアは呆然と佇み、それを見送った。
「ああ、行った行った。上手いことやってくれよ、ガリーナ」
マーブルが白い顎鬚を撫でながら、満足げにその場を後にする。それを合図に、集会は解散となった。
……無責任な!
あのガリーナを、たった一人で知りもしない奴の家に送り出すなんて。彼女はろくに村の外まで出た事がないんだぞ。
口には出さず、その後姿を睥睨したキリアの隣に、ファイが立った。ぽんぽんと少年の頭を軽く叩きながら、ぽつりと零す。
「まあ、あんな噂はどうせガセだし、気にする事ないね。大丈夫、すぐ帰ってくるよ」
「噂?」
弾かれたように、キリアはファイの一重の目を見上げた。それが昨日の料理人と似た黒い色だと気付き――いや、彼はもっと深い闇夜のような黒をしていた。思わず柳眉を吊り上げる。
「知らないの? ……別にいいね。知らなくても」
「言えよ、おっさん。ガセなんだろ? 教えてくれよ!」
ファイは躊躇するようにお玉を弄っていたが、やがて小さく零すように呟いた。
「領主は食べるんだってさ。女の子を」
――あの、黒い瞳。
キリアは馬車を追った。けれど、すでにその姿は胡麻粒のように小さくなり、追いつけるはずもなかった。