前編
オーレリアが婚約者のアルベルトと留学から戻って来た時には、すでにその噂は出来上がっていた。
ーーオーレリア様は権力でアルベルト様を脅して無理やり婚約者にした。それから今までずっと権力をちらつかせて仲睦まじい様を演じさせているらしい。
「……て、ことらしいけど?」
背後の婚約者、噂のアルベルトに問いかけてみる。
「なんでそんなことになってるんだ?」
「さぁ……。下位貴族の間で噂になってるみたい。高位貴族のみんなはハナから信じてないみたいだけど」
「まあ、そりゃそうだよな」
留学から戻って来た二人にご褒美として与えられた別邸。
使用人も寝静まった夜、風呂に入っている。オーレリアがもたれかかっている相手はアルベルト。
確かにこんな場面をもしも彼らが見たとしたら、奴隷のように扱っていると言うかもしれない。
もちろん、入浴についてオーレリアは婚約者を脅してはいない。どちらかといえば押し切られた側である。
誓って婚前交渉はしていないけれど、婚前交渉以外のことは全てしようとするアルベルト。優秀な頭脳を使ってあの手この手で説き伏せてくるから今では諦めてほとんど抵抗しないでいる。
「で、どうする?」
「んー。しばらくは何もしない。誰がどういう理由で流してるのかもわかんないし。留学から戻って来たばっかりでまだ忙しいし」
「俺なんかしたほうがいい?」
「アルが何かすると大ごとになるから。いいって言うまで何もしないで」
「はーい」
「それより、そろそろのぼせそうだから出たいんだけど」
「んー、もうちょい」
「……あと十秒だけよ」
「二十秒がいい」
「そんな変わんないでしょ!」
ははっ!と楽しげに笑うアルベルトをぺし、と叩いてオーレリアは十秒後に出て行った。
***
オーレリアといえば社交界で知らない人はいない。
この国で最も高貴なお嬢様。
王族に王女がいないため、ベリー公爵家のオーレリアは未婚の令嬢として最も高い地位にいた。
そんな彼女の婚約者はもちろん王族……ではなく、伯爵家の次男だった。
オーレリアを巡る水面下の戦いを勝ち抜いたのは、多くの騎士を輩出するリシュシュー家の次男アルベルトだ。もっとも、本人に誰かと競い合った自覚はないのだが。
元々アルベルトはオーレリアの婚約者候補ですらなかった。
王太子の八歳を祝う誕生日パーティ。
そこでアルベルトがオーレリアに一目惚れしたのが全ての始まりだ。
オーレリアは『最も高貴なお嬢様』の名に恥じない美しい容姿をしている。母親譲りのウェーブがかったブロンドに、全てを魅了しそうな赤い瞳、白く柔らかい肌に細い身体。『貴族令息たちの初恋』と言われるくらい、まるで天使のような子だった。
王太子の誕生日パーティなのに王太子よりも輝いていた。
アルベルトはその時初めてオーレリアを目にして、あまりの可愛さに衝撃を受けた。
その場から一歩も動けなくなり、両親に抱えられることになるくらいには。
アルベルトの幼い脳はオーレリアの可愛さを処理できなかった。一瞬たりともその姿を逃すのが惜しくて、主役の王太子には目もくれず、一日中オーレリアを見つめていた。
ちなみにオーレリアは今でもたまにあの日のことを引き合いに出しては「だいぶ怖かった」と言っている。見られることに慣れているとはいえ、あそこまでストレートに見続けられたのは後にも先にもアルベルトだけらしい。
パーティが終わり帰宅する時になっても、アルベルトは放心したままだった。
帰りの馬車でも、自分のベッドに入っても、次の日を迎えても……。鍛錬も上の空で父親に叱られる、けれどそれすらも上の空だった。
ずっとオーレリアの姿で頭がいっぱいだった。
約一週間後、ようやくアルベルトの脳はオーレリアの可愛さを処理し終えて、放心状態から帰って来た。が、
「かわいい、きれい、かわいい、すき、ほしい、かわいい、ほしい、ほしい!」
可愛さを処理し終えたら今度は己の欲望に支配された。
朝起きたその足で着替えも忘れて両親の元へ行き「オーレリア様と結婚したいです!!」と叫んだ。
父親からは身の程知らずとゲンコツを喰らい、母親からは無理に決まってるでしょうと一蹴された。脳筋伯爵家の両親は何の頼りにもならなかった。
でもアルベルトはそこで諦めるような人間ではなかった。
物心ついた頃から父親に常に言われていた言葉がある。
「たとえ四肢をもがれても命ある限り諦めず戦い続けよ」と。
今がその時だ、とアルベルトは思った。
アルベルトの父は「俺の教えはそういうことじゃない」と言ったが聞きやしなかった。
この話をするとオーレリアは決まってお腹を抱えて笑ってくれるので折に触れて何度も話す。父親の教えがなければ今頃オーレリアの婚約者になれなかったので、アルベルトにとっては大事な教えだ。例え的外れな使い方をしたとしても。
両親が頼りにならないと思ったアルベルトは、それこそ四肢をもがれる覚悟でオーレリアの父親、ハーヴェストに直談判しに行った。
「この国で一番相応しい人間になります。だからどうか僕にオーレリア様をください。お願いします」
当然ハーヴェストは目の前の小僧を一笑に付した。
アルベルトも別に一度で認めてもらえるとは思っていなかった。だから次の日も、その次の日も、毎日毎日あの手この手で目の前に現れては、オーレリアを欲した。八歳にして驚くべき執念である。
最初は所詮脳筋伯爵家の小僧が、と小馬鹿にしていたハーヴェストも半年間毎日欠かさず現れては求婚する姿に次第に絆されてきた。……その根性に対して少し見方を変えた。
ーーどうせ娘に相応しい男はいないのだから、この小僧を今から相応しい男に育て上げるのはどうだろうか。と。
ハーヴェストは娘を溺愛するあまり、王族ですら足りないと思っていた。
実は過去に王族から口頭でそれとなく婚約を打診されたが、きっぱりとその場で断っていた。
王族が婚約者になってみろ、娘の負担が大きすぎる。無駄な苦労をかけることになる。どう考えても損だ。血統がいいだけの王家などお断りだ。
ただ他の家のどんな男が来ても娘を与える価値がないと思ってしまう。愛しい妻とのただ一人の素晴らしい子ども。ずっと公爵家で守っていたい。
でもそれでは将来的に娘は幸せになれないこともわかっている。いずれは誰かを伴侶として選ばなければならない。常々妻から要求が高すぎるとも言われている。
そんなところに根性だけはありそうな小僧が転がって来たのだ。自分が娘に値する男に育て上げれば少しは溜飲が下がるかもしれない。
「リシュシュー伯爵家の身体能力は疑っていない……。だとすれば問題は頭だな。おい、小僧。本気でオーレリアが欲しいか?」
「はい!」
「ではそれ相応の人間になれ。まずは二年以内に騎士学校を卒業しろ。あとはお前に家庭教師をつけてやる。家庭教師から同じく二年以内に合格を貰え」
「わかりました!そしたら婚約できますか」
「そこまで行ったらとりあえず会わせてやる。娘がお前を気に入らなければそこで話は終わりだ」
「わかりました!強く、賢く、いい男になります!」
あまりの素直さと勢いに、ハーヴェストのそばに控えていた騎士たちは吹き出した。ハーヴェストは奇妙な生き物を見るような目で片眉をあげていた。
素直さはアルベルトの長所だ。
言われるがままにアルベルトは励んだ。素直に。ただオーレリアと一緒になるためだけに。睡眠時間を削り、ひたすら鍛えて勉強した。
両親はちょっと引いていた。
父親は「俺の教えはそういうことじゃない」とまだ言っていたけど、その頃にはまるで耳に入っていなかった。兄だけが励ましてくれた。
ハーヴェストの求める要求に応えるには、騎士学校へ早期入学して尚且つ飛び級しなければいけなかった。だからひたすら鍛えて勉強した。ただ飛び級するだけじゃ鼻で笑われそうな気がしたので首席も取った。家庭教師からの合格は一年半で得られた。ついでに出られる剣術大会には全て出て優勝をもぎ取った。
もうすぐ11歳になるころに、予定通りアルベルトは騎士学校を卒業した。
卒業式が終わるとアルベルトは全てを無視してまっすぐ家に帰った。両親の歓迎もほどほどにして身だしなみを整えるとすぐにハーヴェストの元へ向かった。
「少しは見られる顔つきになったな」
「約束通り二年で卒業して来ました」
「ああ、お前の話は私の元まで届いている。約束通り娘に会わせてやろう。あとは娘がお前を気に入るかだ」
ハーヴェストは仕事を早めに切り上げ、アルベルトを連れて公爵邸へと戻った。まさかその日に会えるとは思っていなかったので移動中はずっとドキドキしたのを覚えている。
「お父さま!おかえりなさい、早かったですね」
偶然にもオーレリアは庭を散歩中だった。公爵の姿を見るなり無邪気に駆けてくる。
「……!」
それは人生で二度目の大きな衝撃だった。
一度目と違うのは、オーレリアの可愛さを素早く処理できたことだ。視界に入れて、彼女が公爵の元へ辿り着くまでの数秒間の間に、なんとか処理し切ることができた。
(かわいい!!初めてみた時よりも大人になっててさらにかわいい!!)
二年の間にオーレリアは少しだけ大人になっていた。背と髪は伸び、体は少しだけ丸みを帯びていた。八歳の頃の可愛らしいドレスから、少し控えめで大人しい、けれど上品なドレス。変わらないくりくりと丸い瞳。相変わらず天使のように可愛く美しく輝いて見えた。
アルベルトは二年の間に培った力で何とかにやけそうな表情を抑える。
「あら、お客さまですか?」
「私が目をかけていた小僧だ。お前に見せられるくらいになったので会わせようと思ってな」
公爵の陰からひょこりと顔を出すオーレリアに一歩近づく。
「お初お目にかかります。私はリシュシュー伯爵家が次男、アルベルトです。以後お見知りおきを」
何度も脳内で練習したはじめましての挨拶を披露する。
平静を装っていたが、正直心臓が爆発しそうだった。
「まあ、噂の騎士さまだわ!お父さまが連れて来たってことはリシュシューさまが私の婚約者さまになるの?」
「お前が気に入ったならば。お前が決めていいんだよ」
「やだわ、お父さま。私はお姫さまじゃないの。公爵家の一人娘だもの。お父さまの意思も重要よ」
「うちのお姫様はずいぶん大人になったようだな」
「もう!……リシュシューさま、よかったらお庭を見に行きませんか?」
ね!と言われて手を握られる。
行きたい、行きたいけどハーヴェストの意思が重要である。
チラリと見上げれば「行ってもいい。だが余計なマネはするな」という表情をしていたので、控えめに「喜んで」と答えて天使をエスコートした。天使からはいい匂いがした。最高に幸せな時間だった。
……そこからは意外と早かった。
ハーヴェストもなんだかんだ家庭教師を通じて育てあげたアルベルトを気に入っていたし、オーレリアも真っ直ぐに自分を愛してくれるアルベルトを気に入った。
ちょうど顔合わせの一年後、アルベルトの父親が魔物討伐で大きな戦果をあげたのをきっかけに、二人は婚約を結んだ。タイミングが良すぎてこの戦果すらハーヴェストが仕組んだのかと疑ったが、流石に父親の実力らしかった。父はすごい人だったのか、と今更気づいた。今まで両親の言葉をほぼ全て無視してオーレリアのことだけを追い続けたことを少し反省した。
そんなわけで、アルベルトの重く一方的な片思いが身を結んだ婚約だった。
それからほとんど毎日一緒に過ごした。
朝早くから鍛錬をし、公爵邸に向かうと今度は勉強、午後はオーレリアと過ごして、夕食後に自宅へ帰る。一日の半分以上は公爵邸にいた。だんだん帰るのが面倒になって来たので、両親と公爵家の了承のもと、公爵邸に住み込むことになった。
最初は一方的にオーレリアを崇拝する形だったアルベルトだが、時間が経つに連れてほとんど対等な、そしてかなり砕けた態度で接することができるようになった。オーレリア自身がそれを望んだのも大きい。婚約して一年後には二人はほとんど対等だった。愛情の重さにはやや偏りはあるが。
……もしも本当にオーレリアが仲睦まじい様子を見せつけるようにアルベルトに命じたとしよう。アルベルトはそれを喜んで受け入れるだろう。ここぞとばかりに人前でもくっつくに違いない。
故に噂はあり得ないのだ。
高位貴族たちはどうしてアルベルトが騎士として優秀で、かつ学業の成績も良いのか、それはオーレリアを手に入れる、ただそのためだけにハーヴェストの元で己を磨き続けたが故なのだということを知っている。
だから噂は信じていない。信じたらハーヴェストに何をされるか、愛情を拗らせたアルベルトにも何をされるかわかったもんじゃない。
だからひとまず静観している。
一体噂を流しているのは誰なのか。そしてこの国で最も高貴なお嬢様に手を出すとどうなるのか。その結末を静かに待っているのだ。
***
「こんなことしてるから噂になるのだと思うんだけど?」
学園の昼休み、二人は人気のない場所で戯れていた。
アルベルトは足を組んで座り、オーレリアはアルベルトの腿に頭をのせている。
もちろんこれはアルベルトの要望。
授業ではずっと一緒にいられないから、せめて昼休みだけでもと弁当を持参して、人気の少ない中庭で食べている。そして食後にこのようなスキンシップを要求するのだ。
「いや、これはどう見ても逆だろ。どう見ても俺がごねて膝枕させてもらってるだろ」
「普通は私が膝枕させてるって思うんじゃない?逆に私が膝枕すればいいのかな」
「いや、それはまずいって。リアの膝に頭乗せるなんて烏滸がましすぎる」
「今更何言ってんのよ」
本当に今更だ。
この中庭、人気が少ないだけで居ないわけではない。なので二人がこうしてベタベタしているのは校内に知れ渡っている。膝枕の時もあれば膝上に座っている時もあるし、手を繋いで庭の植物を見ながら散歩していることもある。
婚約者とはいえ異性なのだから節度ある交流を、という考えを持つものも少なくない中で、公爵令嬢が堂々と仲良くしているので、婚約者とイチャイチャしたい貴族たちから二人の行動は密かに感謝されていた。
「そういえば、俺たちが留学してる間にあの人の妹が入学して来たんだろ?誰だっけ、リアが尊敬してる先輩の……」
「シャルロット先輩」
「そう、シャルロット先輩!文官になって王城で働いてるんだっけ」
「そうらしいわ。マルグリットおばさまのところにいるんだって」
「へえ、世間せま」
「おばさまのところなら安心だわ。……シャルロット先輩は好きだけど、妹はあまり好きじゃないのよね。いい噂聞かないし」
「そうなのか?」
「んー。性格に難ありで婚約者がまだ決まってないらしいわ」
「ふーん」
アルベルトは興味なさそうに返した。
実際オーレリア以外に興味がないので、オーレリアがあまり好きではないと評するならアルベルトにとって興味を持つに値しなかった。
一つ上の先輩、シャルロットにはそれこそ嫉妬するほどに懐いていたので多少気にかけてはいるが。彼女は二人が留学している間に卒業してしまった。留学している間も手紙のやり取りをしているのを見かけたので交流は続いているようだ。
「しかし生徒会に入ってないと暇だな」
「そうねえ。かといって今更クラブに入る気もしないし。いいんじゃない。卒業したらまた忙しくなるんだから今のうちにゆっくりしましょ」
「ん、だな」
入学してすぐの頃から留学直前までオーレリアとアルベルトは生徒会に入っていた。
本音を言えば面倒だったが公爵令嬢という立場を考えると入らざるを得なかった。
入りたての頃によく面倒を見てもらったのがシャルロットだった。周りが公爵令嬢という立場にやや距離を取りがちなのに対し、シャルロットだけはただの後輩として接してくれた。
オーレリアが間違えれば優しく指摘してくれるし、正しいことをすれば褒めてくれる。一人っ子のオーレリアには姉ができたみたいで嬉しかった。
学園を卒業すると文官になるのだと言っていた時は驚いた。少しだけ悲しそうな顔をして「後継は妹なの」と言っていたのを覚えている。
後日、少し後ろめたく思いつつも、シャルロットの家を調べた。
派手な虐待はないものの、あまり家でいい思いをしていないことを知った。その時オーレリアは密かに心に誓ったのだ。
絶対に先輩を幸せにしたい、と。
でも先輩から助けてと言われたわけでもないのに何か手を出すのは違うと思った。
だから静観することにした。そしてどうしても先輩に助けが必要になったら、絶対に自分の持てる全てを出し尽くして助けるのだと心に誓ったのだった。オーレリアにとってそれだけ大切な人だった。
「そういえば例の噂、いつまでほっとくか決めてるのか?」
「んー、特には。本当に一部しか噂を信じていないし。私の評判を貶めたいか私たちを仲違いさせたいかのどちらかだろうから、こうやってベタベタしてればそのうち何かあるんじゃない?」
「俺とリアを仲違いさせたい……??」
「こら、落ち着いて。あんたが今動くと大袈裟になっちゃうんだから」
仲違い、と聞いてアルベルトの目の色が変わる。
アルベルトは対外的には品行方正で柔和な紳士で通っている。見た目もオーレリアに見劣りしない程度には整っていて、もしも婚約者がいなければさぞ人気だろう。
でも根っこはやはり脳筋伯爵家の次男なのである。
オーレリアがいる手前、穏便に済ませることが多いが、キレてしまえばなんでもかんでも武力で叩き潰そうとしてしまう。
オーレリアをしつこく口説こうとするものがいれば決闘を申し込み、オーレリアの悪口を言うものがいれば決闘を申し込み、留学中、このままこの国に残ってくれないかとアルベルトに内緒でオーレリアに打診していたことを知った時には隣国の王族にまで決闘を申し込もうとしていた。
なので、今学園内に流れている噂にアルベルトが我慢できなくなったら。またどこぞの誰かに決闘を申し込むに違いなかった。




