ヒシャカイシンド
1.
不公平だ、と思った。
屋上に出ると雨が降っていた。雨粒は小さい代わりに風に乗って身体にまとわりつき、追い討ちをかけるように体温を奪っていった。この辺り一帯に広がる鈍色の空と、遠くの方にある青空との境目と、そしてその更に奥の晴れ模様とを比べて僕は悪態を吐いた。
そんなこと私に言われてもねえ。
そう答えるように、トタンで出来た古い屋根に落ちる雨音が大きくなったような気がした。
私設水族館の屋上にある喫煙所。オーナーがDIYで造ったというこの憩いの場は、彼の飽き性と、彼の家族からの健康への圧力と、世の中が思う『あるべき成人男性像』の変化により数年前に元の主人を失ったという。傾いた柱に錆びたトタン屋根、壁の代わりに張られたワイヤーメッシュには、幾つかの焦げ跡がついてアクセントとなっている。それは喫煙所と言うより小学校にあったウサギ小屋に似ていた。
強い風が吹けばわざとらしく騒ぎ立てるお粗末な造りのオアシスは、数少ない従業員の中でも唯一の喫煙者だった僕が新しい主人の役割を引き受けた。
この喫煙所は一般来館者に対しても開放していたが、ただでさえ少ない水族館来館者の中で、減少の一途を辿る喫煙者という条件に加えて、1階の裏口から階段で6階まで昇り、寒空の下ボロボロの小屋の中で喫煙したいという好事家は殆どいない。
「火。どうぞ」
初めに声をかけられたことに反射的に驚いた。次にこの小屋に先客がいたことに驚き、最後にそれに気付かないくらいぼんやりしていた自分に驚いた。無意識に煙草を咥えてライターを取り出すため、ポケットを探っていたらしい。
声の主は制服の上に灰色のスクールコートを着た明るい髪色の女性で、その颯爽とした姿はこの喫煙所とも、この水族館自体とも不釣り合いで馴染んでいないように見えた。
「どうも」
差し出されたライターを受け取って火を着ける。深く吸うと、ぼぅ、と音にならない振動が手を伝って来た。僕はライターを彼女に返した。彼女も細い煙草を咥えていたが、その先端に灯は無く、あるべきはずの紫煙も見えなかった。
「ああ、これ?今日はこっち。でもただ飴舐めてるだけじゃ、なんか気分出なくって」
彼女はそう言うと棒付きキャンディを振って見せた。
「えっと、ウチのお客さんですよね?」
「そう、お客さん」と彼女は言った。「こんな天気の日は学校に行ってる場合じゃないと思って、社会科見学に切り替えたの。臨機応変ってやつ」
「なにか役立つ知見は得られました?」
「うん。都内の水族館ってこんなに人気が無くても運営出来ることと、その屋上にこんなに"ちょっといい感じ"の景色が見られるところがあったこと」
からからと笑いながら彼女は言った。笑い声を聴いてガラスの風鈴の音に似ているなと思った。
返す言葉を見つけられなかったのは、そのどちらもが僕も常々思っていることだったのと、それ以上にその音色がとても綺麗だと思ったからだ。
「じゃ、たぶんまた」
ガリッ、という音がした。彼女が飴を噛む音だった。彼女はキャンディの抜け殻を灰皿に捨てると、少し駆け足で裏口の階段を降りて行った。僕はそれを見送ってから、少しずつ夜が降りていくように変わっていく遠くの空を眺めていた。
雨はいつの間にか止んでいた。
***
2.
一般的に水族館の閑散期は11月から2月のところが多いと言われている。この水族館に来館者が殆ど居ないのは、閑散期だからなのか、それ以外の理由なのかを考えてみて、どちらにしろ同じことだという結論に至った。疑問に思うことと考えてみた後に残る結論はいつだって線を結ばない。
都内の一等住宅地に構えるこの『熊野水族館』は、熱帯魚を中心に幾つかの大きさの水槽を持つ私設水族館だ。小綺麗にはしているが年季の入った6階建てのビルの最上階とその下の階を、水族館と銘打って開放している。入場無料のこの施設は、半分以上がビルのオーナーの道楽で運営されており、残りは幾らかの寄付金や補助金、そして冗談みたいな金額で働く従業員で成り立っていた。働き始めて3年、決して余裕のある生活では無かったが、社会との距離感をいまだに掴めないでいる人間にとって都合の良い空間だった。
彼女はいつも天気の良くない日にやって来た。週に4回の時もあれば2週間ほど全く来ないこともある。ただし来るのは決まって平日のお昼過ぎで、その度に「自主的に週休3日制を導入した」だとか、「昨日2倍の頑張りで試験勉強したからその代休」だとかと、洗練された言い訳を持ち合わせていた。
この喫煙所で彼女と言葉に言葉を重ねるだけのやり取りをしていると、時間の流れを示す雲だけがやけにはっきりと見える気がした。
「ね、七草粥って食べたことある?」
棒付きキャンディを片手で持て余しながら、視線は空に向けたままの彼女が口を開いた。思えば彼女が煙草を吸っている姿を見たことはない。制服姿、喫煙所、棒付きキャンディ。そのどれもが彼女に似合っていないように見えた。
「実家にいた頃にね。そんなに美味しいものじゃなかったけど」
「そなんだ。でも身体にいいんだよね、食べてみよっかな」
彼女はそう言ってキャンディを口から出して振りながら言った。「あれ七草ってなんだったっけ?」
「確かゴギョウ、ハコベラ…」
記憶の中の頼りないそれを必死に手繰り寄せながら僕は答えた。先人が知恵を絞り厳選したその食材たちには、それぞれ意味が込められていた気がしたが何一つ思い出せなかった。
「ハトムギ、玄米、月見草……」
彼女は僕からバトンを無理やり引き継いで、フシをつけながら歌った。彼女にとって七草の正体が何なのかは大きな問題では無いということらしい。キャンディの棒を振りながら鼻歌を歌うその仕草が、ようやく年相応の振る舞いに見えて安心と少しの寂しさを覚えた。
ひとしきり鼻歌を歌い終えると、息をほぅ、と吐いてから彼女はこちらに顔を向けて口を開いた。
「あ、じゃあさ。お兄さんは人を殺したいって思ったことある?」
急な問いかけに、聞こえた言葉とその意味をうまく結ぶことが出来なかった。聞き返そうと思いながら、声が出ずに沈黙だけが流れた。とても長い沈黙だった。彼女は遠くの方で飛行機が飛んでいくのを見ていた。
「あるよ」
笑えない冗談。というわけではないことを、彼女の少し潤んだ目が表していた。なるべく感情が声に乗らないように気をつけながら、慎重に僕はそう答えた。そして「というか殺したことがある」と言葉にせずに付け加えた。言葉にしなかったのは彼女にそのことを伝えたくなかったのと、自分自身忘れそうになっていたからだ。上昇を続ける飛行機の軌跡が薄れていく様を見ていた。
「どこまで本気に?」
「悩むくらいなら大丈夫。迷うくらいなら止めといた方がいい。それさえわからなくなったら、相談のるよ」
今度は必要分より少しだけ意味が重力に負けないように、そう答えた。が、彼女の期待する重みでは無かったようだ。
要望と異なるクリスマスプレゼントを貰った子どもの反応は大きく二つある。泣くか諦めるか。彼女の場合は後者のようだった。手に取り、眺めて、やがてつまらなさそうに捨てた。
「そなんだ、そうだよね。そっか。でも、そういうことじゃないんだよな」
殆ど聞こえないくらいの声で彼女はそう言って喫煙所を出た。追いかけようかと一瞬考えて、追いついたとして次に掛ける言葉を持ち合わせていない自分に気付いて足を止めた。
左手の先で器用に形を保っていた長い灰が、均衡を失い崩れて足元に落ちた。
***
3.
覚えている限りでは、熊野さんが喫煙所に来たのは初めてだったと思う。
王の帰還を讃えるように小屋が風に吹かれて喜びの声を上げた。夜からは雨が降るらしい。これから降りますからね、ちゃんと言いましたからね、と念を推すように風が強くなり始めていた。
「煙草あるか?」
熊野さんは言った。
70歳に近いらしいとは聞いていた。その恰幅のいい体型と綺麗に手入れされた白い毛髪と白毛混じりの髭、仕立ての良いグレーのスーツに身を包んだこのビルのオーナーは、控えめに見ても50代後半にしか見えなかった。けれども目の周りの皺だけが、経過した年月を偽りなく掲げていた。
「吸うんすね」
お疲れ様です。を失礼のない程度に崩した後、煙草の箱とライターを渡しながら言った。熊野さんは慣れた手付きでその中の一本を取り、火を付けた。先端が踏切のように赤く灯り、そして褪せていった。
「不味いな」
「不味いです」
僕は彼の言葉に最大級の同意を込めて返した。
「君はウチに来てどれくらいだったか?」
「二十歳になる前からなので、おかげさまでもう三年くらい経ちます」
「長いな」
「ホントですね。三才の子供が六才の子供になる年月ですから」
「なんだそれ」
熊野さんが笑った。浮かべた笑みから煙が漏れて蒸気機関車みたいだと思った。
しばらく沈黙が続いた。時折口から逃げ出した煙は、そこに留まろうとささやかな抵抗を見せた後に消えていった。屋上から見える景色は人や車は動いていたが、時間が止まっているようにも見えた。まだ明るい昼下がりの空間でそれらは、境界線が曖昧でピントの合っていない写真みたいだった。
「君には言っておこうと思ってね。今年いっぱいでここを閉める」
「あ、やっぱりそうなんですね」
「わかってたのか?」
「むしろ今まで続いていた要因がわからないくらいには」
「君は、いつまでもこんなところに居座ってちゃダメだよ」
熊野さんの言う『こんなところ』が、この喫煙所のことのようにも、この水族館のことのようにも、もっと違う何か抽象的なことのようにも思えた。
これが雇用主と従業員の会話なら無責任だと非難されて然るべきだと思ったが、彼の言葉にはもっと個人的な、連帯性を求める色があった。
熊野さんは例えるなら、人を二分した時に『うんざりしている人』と『うんざりしている自分にもうんざりしている人』に分け、自分は後者だとうんざりしているような人だった。
「閉めて、それでどうするんですか?」
「どうもしない。魚の世話は変わらずするだろう。本業もある。ただ自分の"好き"に他人を付き合わせるのに疲れてね。君はどうする?」
「まずは労基に行きますかね、不当解雇だって訴えます。そのあと失業手当の申請手続きしないと」
「やっぱり不味いな」
熊野さんは苦笑しながら半分以上残っていた煙草を灰皿の縁に擦り付け、喫煙所から出て行った。残った煙草の匂いを僕は初めて良い匂いだと感じた。ここを辞めた後の生活を微塵も思い描けなかったが、不安はなかった。それは前向きな意味ではなく期待がなければ不安は芽を出さないということだった。
あれだけ騒ぎ立てたのにも関わらず、その夜の天気予報は外れた。そんなこと言いましたっけ?というような顔で日々は過ぎていった。
***
4.
『小春日和』は秋に使う言葉だと教えてくれたのは、誰だったかを思い出そうとしていた。誤用を認めた上でそう名付けたくなるほど、1月にしては暖かく気持ちのいい日曜日だった。
あの日以来、喫煙所にも水族館にも現れなかった彼女が久しぶりに、再び王を失った孤独なこの城にやって来た。
「この前はごめんね、変なこと聞いて。ちょっと病んでただけだから」
顔を合わせるなり慣れたようにわざとらしく笑みを浮かべてそう言った彼女に、僕は苛立ちを覚えた。初めて見る彼女の私服姿は、順序よく並べられた本棚のようにも、気の抜けたコーラのようにも見えた。
彼女がいつものキャンディではなく細い煙草を取り出して、火を付けようとした。僕は咄嗟に彼女の咥えた煙草を取り上げ灰皿に投げ入れて、代わりに言った。
「なぞなぞです。誰かを殺したいと思うのは何故でしょう?」
彼女は一度虚をつかれた顔をして、それから捨てられた煙草が灰皿の汚水に浮かぶ姿に目をやりながら言った。
「その人が憎いから?」
「自分を変える勇気がないから。もしくは……」
「自分が変わるのが怖いから」
彼女が答えを引き継いだ。何度も会ったはずなのに向かい合って、しっかりと顔を見て話すのは、初めてのような気がした。彼女の左の頬に控えめなほくろがあることを初めて知った。どうやら仮説は当たったようだった。
「その人はどんな人?」
「知らない。顔も見たこと無いし、名前だってまだ無い。でも私の中にいるらしい」
「そっちじゃない方は?」
ああ、と言葉にならない声を出して彼女は目を伏せた。
「ずっと年上の人。奥さんと子供がいる人。だから、届かない人」
彼女の声を聞きながら、この苛立ちの在処を探していた。嫉妬でないと言えば嘘になる。けれどもそれ以上に、僕は自分自身に苛立っていた。僕と彼女は、やり場のない感情と行き場のない状況をそれぞれに抱えて、ただ立っていた。澄んだ空気のせいで、日本一を掲げる山がくっきりと見えた。
遠くから見るとこんなに小さい癖に。
「前に言ったこと。僕も昔に考えて、悩んで、迷って、わからなくなった末に、殺したことがある。今も後悔している」
言うつもりの無かった言葉が、緩んだ意識の隙間をすり抜けて飛び出した。
殺した。言葉にして改めてその重さを感じた。あの決断について、表現が適切かはわからなかったが、その言葉以外に適切な重みを持つ言葉を僕は知らなかった。言葉が口をついた時、何かが確かに失われた気がした。代わりに失った分だけ背負っていたものが軽くなった。
「そっか、だからだったのかな。似てるなって思ったの、私に」
驚いた素振りを見せることなく彼女はそっか、そっかと自身に言い聞かせるように繰り返した。
6年前。僕は16才で父親になった。その15日後、僕は父親を辞めた。社会や他人との距離感を掴みにくくなったのはその頃からだったか、今ではもう覚えていない。
「まだ六年しか経っていないのに」と僕は言った。「気を抜くと忘れていることにさえ、気付かない時がある。そんな自分に嫌気が差す。この先もそれが続いていくと思うと、生きていくことに億劫になる。何かを食べてそれが栄養となるのも、夜に眠ると翌日になってしまうのも怖くなる」
取り繕うことなく、伝えたいことだけを切り取ってそのまま言葉に出来たのはとても久しぶりだった。彼女にではなく僕は僕に向かって言葉を投げていた。けれども彼女は僕の暴投を冷静に受け止めて返した。
「ご忠告ありがとう。優しいんだね。でも、それ、間違っていると思うな。生きていればお腹も空くし、夜になれば眠くなる。誰かと話したいなって思うことだってある。そういうことを否定していくのは、生まれてこれなかったその子にも、いま生きてる人にも失礼だと思わない?例えば、私にとか」
「ごめん」
「考え直せって言いたいんだろうけど、もう決めたんだ。例えば十年後の自分が今の自分を恨んでも、十年後の誰かから今の自分に向けて何か言われても。全部受け入れて、それでも生きようって」
だから、これ渡しとくね。もう必要ないから。
彼女はポケットから冴えた赤色の御守りを取り出して僕に差し出した。『安産祈願』と書かれた御守りは、何度も握られたような皺が寄っていた。
「おまじない。これから赤いものを見るたびに、今日のこと、そしてその過去のことを思い出すよ、毎回じゃなくても、ふとした時に。きっとね」
御守りの色には見覚えがあった。父親を辞めると選択した日に見た捺印の色。『まじない』を『呪い』と頭の中で変換して彼女の言葉を受け止めた。
呪いに打ち勝つには同じくらいの祈りを捧げなければいけない。そう言われている気がした。過去を起点に手を伸ばす呪いならば、その手に追いつかれないように未来に向けた祈りを捧げればいい。そして、それは彼女自身に向けられた言葉でもあった。
君は、いつまでもこんなところに居座ってちゃダメだよ
どこかで引っ掛かていたままだった熊野さんの言葉がようやく意味に辿り着いた。
「それじゃ、もう行くね。ここでの時間は私にとって必要なものだった。おかげさまでこの先、背負う分の足腰も鍛えられたしね」
彼女は地上へと繋がる階段に感謝を述べてから歩き出した。たぶんもう会う事はない、と彼女の歩き方がそれを示していた。僕は何も言えないままその背中を見ていた。せめて彼女の行く先が暖かい場所であるように、と初めての祈りを捧げた。
階段を降りる直前で彼女が思い出したように振り返った。
「あとその眼鏡、似合わないからやめた方がいいよ」
「覚えとく」
僕は右手を挙げて答えた。
***
5.
ふと顔を上げると横断歩道を挟んだ向こう側で、男の子が泣き出すところだった。幼い少年はしゃがみ込んで右足の膝小僧を押さえていた。すかさず少年の母親が彼を抱き抱え、歌うように唱えた。
「いたいの、いたいの、飛んでいけ」
飛ばされた痛みはどこに行くのだろう。痛みの全てを請け負うことは出来なくても、その一部だけでも担うことが出来ればどんなに良いだろう、と思った。
そして、それすら出来ない無力さにうんざりしかけて、止めた。黒いハイエースが横切ってほんの少しの時間、視界を覆った。
「なおったー」
『とおりゃんせ』のメロディに重なって、男の子の声が響いた。
たとえそれが相手に届かないただの言葉遊びでしか無かったとしても、僕は、いまのために、祈りを捧げている。
あの日のおまじないに負けないように。
fin.




