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期待の欠片、醒めない夢

作者:

 放課後の旧校舎、三階の突き当たりにある備品室。

そこが、私と小夜だけの領土だった。

埃っぽくて、西日が差し込むと空気中の粒子がキラキラと光る、時間の止まったような場所。


 私は、壊れかけたパイプ椅子に深く腰掛け、窓の外を眺めていた。

視線の先には、グラウンドで声を張り上げる運動部員たちの姿がある。

彼らは何かを目指し、何かに期待して、汗を流している。

私には、それがひどく遠い世界の出来事のように思えた。


「綾、またそんな顔してる」


 背後から、衣擦れの音と共に小夜の声がした。

振り返らなくてもわかる。彼女は今、私が座る椅子の背もたれに手をかけ、少しだけ身を乗り出しているはずだ。 案の定、私の視界の端に、小夜の長く黒い髪が滑り込んできた。


 小夜は、私という人間に何かを求めている気がする。

それは愛情かもしれないし、執着かもしれない。

あるいは、私を変えたいという傲慢な欲求なのかもしれない。

けれど、私は彼女が何を求めていようと、それに「応えよう」とも「裏切ろう」とも思わない。


 期待という言葉が私の辞書から抜け落ちている以上、彼女の行動はすべて、ただの現象でしかない。

雨が降れば傘を差す。風が吹けば目を細める。 小夜が私に触れれば、その感触を皮膚が受け止める。誰でもおんなじだと思う。


「……どんな顔なの?」



「何も見ていないような、全部どうでもいいと思っているような。……私がいなくなっても、綾はきっと、今と同じように空を眺めているんでしょうね」


 小夜の手が、私の肩に置かれた。

指先から伝わってくるのは、微かな震え。

彼女の声には、いつも鋭い棘が混ざっている。私を傷つけたいわけではないのは知ってる。

そうしないと、私という無に飲み込まれてしまいそうだと言わんばかりの、必死な自衛の響き。


「いなくなるの?」


 私は淡々と尋ねた。ただ、彼女が提示した仮定を確認しただけ。

私の問いが小夜を逆撫でしたらしい。 肩に置かれた手に、ぎゅっと力がこもる。

制服の生地越しに、彼女の爪が食い込むのを感じた。


「行かないわよ。行けるわけないじゃない。……貴方をこんなふうにしたまま、一人でどこかへなんて」


小夜は椅子の横に回り込み、私の膝の上にすとんと腰を下ろした。急に視界が彼女の顔で埋まる。

小夜の瞳は、燃えるような熱を帯びて私を射抜いていた。


「ねえ、綾。期待してよ。私が明日もここに来ることを。私が貴方だけを愛することを。……裏切られてもいいから、絶望してもいいから、一度くらい私に何かを望んでみてよ」


彼女の言葉は、悲鳴に近い。 期待されることを、人は重荷だと感じるらしい。

でも、私はその重みすら知ることができない

私にとって小夜は、明日も来るかもしれないし、来ないかもしれない存在。

どちらの結果になっても、私は結果だけを見る。


その諦めすら持たない感情が、小夜をどれほど追い詰めているかは、わかっていると思う。

頭では理解している。

彼女が流す涙も、その熱がこもった声も、全部が本当だとは思ってる。


「……望むって、どうすればいいの」


 私は、小夜の細い腰に手を回した。 彼女の体は驚くほど薄くて、今にも折れてしまいそうだった。

守ってあげたいとも思うし、このまま壊してしまいたいとも思う。

相反する衝動が、胸の中で静かに激しく渦巻く。


 小夜を抱きしめる腕に力を込める。 彼女の体温が、私の肌に溶け出していく。

このまま一つに混ざり合ってしまえば、期待なんてややこしい概念を知らなくても、彼女を満足させてあげられるだろうか。それとも壊してしまったら私は考えなくても済むのか?


「……わからなくていいわ。綾は、そのままでいい。……私が勝手に、貴方に絶望し続けるから」


 小夜は自嘲気味に笑い、私の首筋に顔を埋めた。

熱い吐息が肌をなでる。 彼女は、私が彼女に期待しないことを知っている。

それでもなお、彼女は私に執着し、私の隣で心を削り続けている。


 その滑稽なまでの献身が、私にはたまらなく愛おしくもあり、同時にひどく不快だった。

大切に扱いたいと思う一方で、その綺麗な心を泥で汚してやりたいという暗い悦びが、背骨を這い上がってくる。


 私は小夜のあごを指先ですくい上げ、強引にこちらを向かせた。

驚きに揺れる彼女の瞳。 そこに映っているのは、空っぽな私。


「小夜。……私は、明日のことはわからない。でも、今、君の心臓がうるさいくらいに鳴ってるのは聞こえる」


 私は彼女の胸元に耳を寄せた。 トク、トク、と、規則正しく、でも急ぎ足で刻まれる鼓動。

それが生きている証拠だというのなら、小夜は今、間違いなく私によって生かされている。


「……これだけで、十分じゃないの?」


「……十分なわけないでしょう。……でも、やめられないのよ」


 小夜は私の髪を乱暴に掻き乱し、そのまま唇を重ねてきた。

噛み付くような、痛みを伴うキス。 口の中に鉄の味が広がって、視界がチカチカと火花を散らす。


 期待なんてなくていい。 未来の約束なんていらない。 ただこの薄暗い備品室で、互いの体温を奪い合い、傷つけ合い、生を確認する。

この閉じた世界の中だけで完結する、終わりのない、醒めない夢。


 窓の外では、ようやく雨が降り始めたようだった。

アスファルトが濡れる匂いが、隙間風に乗って忍び込んでくる。

私は小夜の背中に爪を立て、より深く、その熱狂の中に身を沈めていった。


 期待の欠落した世界で、私は彼女という「今」だけを、壊さないように、そして確実に壊しながら、抱きしめ続けていた。


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