前編
残酷な描写は無いですが、人が死ぬだろうことは仄めかしてあります。
「本当は、知っていました。あなたが本心から私と婚約したいと思っていなかったこと」
私があなたの耳元で囁くと、あなたは全身を震わせ驚いた顔をしてみせる。その顔は、あなたの嘘偽り無い本心を見せた顔かしら。それともそれすら、演技かしら。
いえ、今となってはどちらでも構わない。
私の告白に、あなたは何かを言おうと考えているのか、いえ、私が何を言おうとしているのか知りたいのか、黙ったまま。
「父があなたのお父様を陥れたことに気づいたのは、あなたと婚約した後だったけれど。だからこそ、あなたが父に復讐しようとしていることに気づいたの」
さらに耳元で囁いていけば、あなたが「バカな」と微かな声で呟いた。
そうね。
あなたは、私が恋に恋する女の子だと思っていたものね。現実を知らない夢見がちな女の子だと。自分の周囲に悪意は無く温室の中で蝶よ花よと育てられた甘ったれな女の子だと。
「ふふ。私が気づいてたことに聡明なあなたが気づかなかったのなら、私の演技も悪くなかったのね。あなたが私に恋する婚約者の演技をしていたのと同じくらい、かしら」
そう。あなたが私に恋する婚約者のように振る舞っていたことも知ってたわ。
最初は本当にあなたが私に恋をしてくれているって思っていたのよ。
きっと使用人たちや周りの人たち、父も含めて、あなたの気持ちが偽りだなんて思ってないの、今でも。
「演技だと」
「知ってたわ。最初は気づかなかったけど。私の父があなたのお父様を陥れて破滅させたのは、あなたが六歳だったのでしょ? 私は十一歳だった。その頃も父に甘えっぱなしの私。それなのに。あなたはその頃から苦労をしていたのね。あなたが私を甘ったれだと思うのも分かるわ」
ずっとあなたの耳元で会話をしている。
婚約してからこんなに近い距離は初めてね。
「最初はそれでも警戒したのよ。だって五歳年上の私の婚約者なんだもの。私の家はあなたが養子に行ったところより格上だけど、それくらいしかあなたの婚約に良いところなんて無いもの。だから何か狙いがあるって思ってたの。父は年を取って警戒心が薄れたのかしら。あなたの正体に今も全く気づいてないわ」
「君はいつ気づいた?」
ここまで具体的に私が話すから、あなたは諦めたようにそんなことを尋ねてくる。
「あなたが十七歳で私の前に現れた時から警戒はしていたのよ。だって一目惚れだなんて言うから。私、一目惚れされるほど容姿端麗では無いから。でも一ヶ月で私の警戒心を解くくらい、愛を囁いてくれたのだもの。絆されるわよ。だから婚約に応じた。でも半年くらい経ってから、あなたを紹介してくれた友人と人目を忍んで会っていたことに気づいたの。当然、おかしいって思うでしょう? あなた達の後を追って会話を聞いたわ。はしたないし、あさましいことも承知の上でね。あなた達が本当は恋人同士で、私の父を陥れるために私と婚約した、と聞いて、納得したの」
あなたは息を押し殺すように吐き出した。
「迂闊だったな。君に尾行されていたなんて」
「ふふ。気付かれてしまうかも、とドキドキしながら後を追ったけれど、気付かれなかったことで、私はそんな才能があるのかしらって思ったのよ」
クスクス笑うと、彼は更に息を吐き出す。
「だから。そこから今日までの半年、私なりにあなたに協力したつもりなの」
「君の父親の悪事の証拠を私に掴ませていたのは、わざとだったのか……。君は知らないで、気づかないで悪事の証拠を私に提供しているのだと嘲笑っていたのに、な……」
「もちろん、あなたと彼女が陰で私を嘲笑していたのも知ってたわ。恋人同士の語らいの最中で」
あなたは、そこまで気づいていたのか、と目を丸くする。
「それなのに、なぜ婚約者のままで居たんだ」
「あら、あなたがそれを尋ねるの? 聡明なあなたなら理解できるでしょう? 私があなたに本気で恋をしていたことに」
あなたの顔が歪む。
ああ、私の気持ちを利用していたことを私が気づいていて、それでもあなたに恋している私のことを理解出来ないのかしらね。
「君が私を心から好きだと分かっていた」
「だから、あなたは最後に私に会いに来てくれた。今日が最後でしょう? これから父に自分の正体を告げて告発すると宣戦布告するつもりで。その前に私との婚約を解消するつもりで、会いに来た。実際、あなたは私に婚約解消を申し込んだ。あなたは私があなたを好きなことに気づいていたから、自分の父親を陥れた男の娘と結婚なんてしたくない。そう言えば、私が身を引くって分かっていたのでしょう? それくらい、私があなたを好きだって気づいてた」
あなたは無言になってしまった。
「でもそれを告げずに、私が婚約解消を受け入れたから戸惑ってるのよね。そして、最後の思い出にあなたに抱きしめられたいって願った私の気持ちを無碍に出来なかった。ふふ。その上でこんな話をされるとも思わなかったのよね」
そう、私があなたの耳元でこんな話をしているのは中途半端な優しさを発揮したあなたが、私の願いを受け入れて抱きしめてくれているから。
中途半端に優しさを発揮しなければ良かったのに。
私が気づいていることを知って、何とも言えない顔をするくらいだったら。
「でも、ごめんなさいね。私、あなたのことを本当に大好きで協力もしたけれど。最後の最後はあなたに協力しないわ。さようなら、大好きなあなた」
そこまで耳元で囁いた私に、また驚いた顔をしてあなたが何か言おうとしたのを遮るように、私は眠り薬をあなたの顔に吹きかける。
「な、なにを、した」
「ふふ。眠り薬よ」
「な、に」
「安心して。直ぐに眠れるような強いものじゃないから。あなたの本当の恋人が我が家の外で待っているでしょう? そこまでは私の気持ちを知っている侍女に連れて行ってもらって頂戴」
「なにをいって」
「ダメよ。聡明なあなたなら理解できるでしょう? 私の父を告発するとかって彼女に言っておきながら、あなたが父と刺し違えるつもりでいることに、私が気づいていないとでも? あなたが隠し持っているナイフは私がもらうわ。あなたは手を汚してはダメよ。あなたは手を汚さないで彼女と幸せになって」
父を訪ねるより先に私を訪ねて婚約解消を申し出てくる、と私は分かってた。
だって中途半端に優しくて、愚かなほどに誠実なんだもの。
だから私は、あなたを死なせたくなくて、こうしたの。
私の侍女にはあなたを頼んでそのまま出奔するように話してある。
我が家の使用人にも執事以外は休みを取らせていたし、執事は父の悪事に加担していたから残ってもらってる。父の悪事を止めきれなかった後悔から、執事も私と父と最期まで共に居てくれるそう。
眠り薬は執事が手に入れてくれた。父の酒にも入ってるはず。執事も飲んでいることだと思うけれど、怖気付いて執事が飲まずに逃げることを選んでも、それはそれで構わないと思っている。
侍女に意識が朦朧とし始めたあなたを託して、玄関から出て行くまでを見送り、父の執務室へ向かう。
父と執事が眠っている。
執事が寝たふりで後から起きてもそれはそれで構わない。
取り敢えず、使用人達には職を失わせて申し訳ないけれど、諦めてもらおう。
あなたが持ってたナイフはどこの家でも、貴族でも平民でも持っているようなナイフだから、あなたが疑われることはない。
さぁ、私はこのナイフで父を殺め、私も死のう。執事は……どちらでも構わないから、私が殺めることは無い。
願うのは、あなたの幸せ。
だからあなたの代わりに私が父をこの手にかける。
お読みいただきまして、ありがとうございました。