1話 背中を押されて、決意したはずが
(アズヴァルト・イーステイン公子様は、私の婚約者です)
会場の隅でジッと壁の花になっているアフィリナは、自分の婚約者であるアズヴァルト・イーステインを遠目に見ていた。
アズヴァルト・イーステイン公爵令息。
スラっとした長身で、麗しい美貌を持つ。白に近い水色の髪と、薄群青色の瞳だ。令嬢令息に人気があるのも頷ける。だが、そんな彼の婚約者が会場の隅っこで寂しげな表情をしながら見ているのを、誰か気付いて欲しい。そしてそれがアズヴァルトに言い寄っている令嬢なのならば、アズヴァルトから離れて欲しい。
そんな奇跡は、来ないだろうが。
今日は憂鬱な社交の日。
壁の花になり、婚約者の人気っぷりを見て惨めになってしまう日だ。お腹が空いても、コルセットを着けているので食べる気分にもならない。食べたところで、何口しか口に含めないだろう。
ベルドース侯爵夫人が主催の、この侯爵家の大広間が今回の社交の会場になっている。義務として行かなくてはいけないのと、侯爵家の方が身分が上ということもあり、断れないというのもあった。これが子爵か男爵ならば、断っていたのに。
アズヴァルトをずっと見詰める気にもならなくて、目を伏せて、噂話や恋の話などに話の花を咲かせているアズヴァルトに奇跡的にも言い寄っていない令嬢、夫人たちの話に聞き耳を立てる。
令嬢たちの話題は無論、アズヴァルト。
「——見て、アズヴァルト公子様ですわ」
「えぇ。本当に、今日もとても人気ね……」
二人の令嬢は、薄らと頬を染めてアズヴァルトを遠目に見ていた。
「わたくしたちも、行きますか?」
「えぇ、そうね。相手にしてくれるかは、分からないけれど……」
そこまで聞き、アフィリナは頭を振る。
恐る恐るこの目で見てみると、そこには先程の令嬢二人が増えていた。周りの令嬢のように積極的ではなさそうだが、やはり『相手にして欲しい』という欲が透けて見える。
アフィリナはというと、放心状態なのか絶望しているのか、ボーッとアズヴァルトを見ていた。その顔は健康的で白く、誰しもが虜になりそうな美貌なのに、壁の花になっているからか目立たず、チラチラとした熱い視線も感じない。
アフィリナはパッチリとした淡い水色の目を瞬かせた後に、自嘲気味に笑いながら俯く。だがその際、アズヴァルトの瞳の色である薄群青色のドレスが見えてしまい、自分にも少しだけドレスにも嫌悪感を覚えた。
アズヴァルトは今、数多の令嬢たちに向けて「あはは……」と苦笑をしている最中だ。笑顔といえど困り顔なのだが、どうして令嬢たちはそんなことに気が付かないのか聞いてみたいと思ったことは何度もある。尤も、それは断じて嫌味ではなく、本当に思ったことだ。
今までを振り返ると、どうして自分はこんなにも臆病なのかと疑問に思う。今も昔と変わらず臆病者というのが、とてもではないが、怒りが募る。つまらないと顔に出ているアフィリナは顔を上げて、アズヴァルトの唇に触れられた部分に触れてゆく。
まずは、手の甲。右手で左手に触れる。
初めてアズヴァルトと出会った日に、義務的にキスされた手の甲。この時はアズヴァルトは自分に興味が少なく、アフィリナはアズヴァルトに少しでも好かれたいと思っていた。
そして、頬。利き手である右手で、右頬に触れる。
アフィリナが努力してアズヴァルトと同じ学園に入学した暁に、「嬉しい、本当に……」と言いながらアズヴァルトがアフィリナの右頬にキスをしたのだ。その後に、顔を真っ赤にさせながらアフィリナもアズヴァルトの頬にお返しをしたことを、よく覚えている。勿論、その時のキスした頬を抑えながら顔を赤く染めて目を見開いている彼の姿は、一年経った今でも記憶にある。
次に、額。両手で額に触れると、己のその手と手が重なる。
二人を含める親族だけのお茶会で、アフィリナは人々の美味しそうに食べている姿や、楽しそうに話している姿を見ていた。隣で幸せそうに微笑みながら親族たちを見ていたアズヴァルトに「好きですよ、アズヴァルト様」と呟く形で告げた後。驚愕に染めた顔でこちらを見て、瞬間にアズヴァルトはアフィリナの額にキスを落とした。そして親族全員に生温かい目で見られたことは、言うまでもない。
それを思い出し、少しだけ頬が赤くなった。
だが、見えるところに居る令嬢とアズヴァルトを見て、現実に引き戻される。
そして思う。
(唇には、されたことがないわね……)
そう。アレだけ頬や額などにキスを落とされたというのに、何故か唇にはしてくれなかった。「恥ずかしいから」という理由だったら可愛いで済ませる。だが、どうにも違う気がしてならない。それも、アフィリナが自嘲してしまう原因に繋がるのだ。令嬢がアズヴァルトに言い寄る姿と、唇に口付けをしてくれない不安。それが何よりも辛い。
そんな人は、数多の令嬢たちに言い寄られているのを、苦笑しながら受け流している。苦笑という笑顔といっても、その細めている目には逆に嫌悪が滲み出ていて、一切頬を染めていない。
何の感情もなく微笑んでいる彼を怖いと思うのは、甘いアズヴァルトを知っているアフィリナだからなのか。
エルファント伯爵家の一人娘は、アフィリナだ。
アフィリナ・エルファント。
そんな彼女がアズヴァルトと婚約出来たのは、両家がWin-Winな関係に至ったからだろうか。伯爵家は、自分たちより身分が上の公爵家と縁を持つことが出来る。公爵家は、王家の血が混じっているエルファント伯爵家と縁を持つことが出来る。
どちらも同じような理由だが、貴族社会にとってそれは大切で重要な部分。身分を失うとただの平民になってしまうというのは、この国の貴族たちにとって、とても嫌で避けたいナンバーワンだったのだから。
それを見ると、貴族というのは大変なのだなとも思う。
(アズヴァルト様、ご令嬢方の勢いに流されていたわよね……)
今回は婚約者を伴い入場するということだった。婚約者が居なければ親族に頼んでエスコートしてもらうのだが、アフィリナはアズヴァルトという婚約者がいるため二人で入場した。
だが、人気者でモテモテなアズヴァルトは、令嬢の波に流されて今に至るという訳だ。あの時は、婚約者が側にいるというのに、何故その婚約者を気にもしないの? と令嬢たちに抗議の声を上げそうになったが、それはそれで皆の注目を集め、恥をかくことは目に見えているので、言いたくとも言えなかった。
一度は挨拶に行きたいからと令嬢たちから離れたが、今回主催のベルドース侯爵夫人や、侯爵、そしてベルドース侯爵令嬢に挨拶した後に、アフィリナのところへ戻ろうと何歩か歩んだところで、また待ち構えていた令嬢たちに囲まれた。
そんなことを思い出し、先程とそんな変わらない目の前の光景を眺め、左胸がズキと傷む。反射的に傷んだ胸を両手で優しく抑えた。だが、令嬢に囲まれているアズヴァルトから、目が離せなかった。それは、辛いからか、慕っている婚約者だからか。
アズヴァルトの友人は呆れた顔で彼を見詰めていた。学生時代からの友人なのだという。学園を卒業したのはつい最近だ。学園に在籍が許される十二歳〜十五歳を過ぎ、今はアズヴァルトもアフィリナも十六歳になった。
因みに、アフィリナには友人が殆ど居らず、居ても一人だ。
そんな一人が、アフィリナの相談役だったりもする。
「アフィリナ!」
「………っ、オーロラ……」
オーロラ・コルネレーラ伯爵令嬢。
同じ伯爵令嬢ということもあって、相談しやすく公爵令息の婚約者だというのに、気軽に声を掛けてくれる明るく元気な令嬢だ。銀髪に淡いピンク色の瞳をした、おっとり系の美人だと一時期評判だったが、直ぐに元気な性格だと分かり、令息たちが落ち込んでいた。
元気な子も素敵だというのに、この国の令息たちは……。
そんなオーロラは今、視線でアズヴァルトを指差している。
どこか呆れ顔なのは、オーロラとアズヴァルトも仲が良いからだろう。
(嫌……友達にそんな、アズヴァルト様と仲良くしないでください……なんて、言えないわよ……)
元を言えば自分がアズヴァルトにオーロラを紹介したのだ。そして思った以上に二人は仲良くなってしまった。
挨拶だけで終わると思ったから、紹介しただけなのに。
(アズヴァルト様を独り占めしたい、という想いは、叶わないだろうけれど)
オーロラは視線でアズヴァルトを指差しながら、呆れたように口を開いた。
「まぁ〜た、モテてる。令嬢たちもよく飽きないわよね」
「………そうね」
悲しげな笑顔になってしまったが、アズヴァルトの方を向いているオーロラには気付かれないだろうと思った。が、こちらに顔を向けた。そして、言い聞かせるように手を腰に当てる。令嬢とは思えない仕草だが、これはこれで関わりやすいということ。
「……ねぇ、アフィリナ。いつまで、アズヴァルトをほっとくつもり?」
「…………」
(『アズヴァルト』)
オーロラは、様付けをしていない。婚約者のアフィリナでさえ、「アズヴァルト様」と呼んでいるのに。オーロラは「アズヴァルト」と呼んでいる。
それにドクンと、心臓が跳ねた。
「致し方ない、ことなのよ……オーロラ。だって、あちらにいるアズヴァルト様を連れ出したら、令嬢方の反感を買いそうなんだもの……」
オーロラは大きい溜息をついた後。腰に当てていた手が震えているアフィリナの手を包み込んだ。
「えぇ、そうね。反感は買うわ。でもね、アフィリナの婚約者はとっっっっっっっても、困った顔してるわよ。笑ってるけど、それは義務的なことだってこと、ホントは分かっているでしょう?」
「……………そうね。でも、出来ないの。私にアズヴァルト様を連れ出す、という勇気が、私にはないのよ……」
オーロラが深い深い溜息を吐いた。
「アズヴァルトが、あそこに居るのを嫌と思わないの?」
「嫌に、決まってるわ……」
婚約者が、しかも異性として好きな人が他の令嬢たちに囲まれていたら、嬉しいなんて思わない。思えない。もしも別に良いと思っていても、決して良い気分にはならない。
それに……。
「泣いちゃうのよ……」
忌々しいという視線を向けられたら、どうしよう。
そんなネガティブ思考を遮るように、オーロラは何ともないというように、淡々と、さらりと言った。
「でも貴女、我慢強いからこの場では泣かないでしょう?」
「え…………それはっ、そうなのだけど」
自分が我慢強い性格というのは、嫌というほど自覚している。だから、アズヴァルトが唇のキスをしてくれないというのも我慢して待ってるし、さらには泣かないようにしている。泣くというのは弱みを出すということもある。だからアフィリナは、絶対に人前では泣きたくないと自分に言い聞かせて、何とか唇にキスをして欲しいという欲望をアズヴァルトの前で言わずに済んだ。
本当は、「唇にキスをしたい」と言った方が、効果はあるのかもしれないが。
「なら行って来なさい? 婚約者様も、貴女のことチラチラ、チラチラ見てて、こっちが落ち着かないのよね〜」
「え………?」
吃驚して、アズヴァルトの方を見る。
すると本当に、アズヴァルトはアフィリナの方をチラチラ見ていて、早くこちらに向かいたいという感じに眉を顰めていた。
オーロラは、「気付いてなかったの?」と言うような視線を、アフィリナに投げていた。
「まぁその……何。アズヴァルトは、アフィリナのことをいつでも待ってるってことを言いたかったの。こっわ〜い視線を向けられたら、人気が皆無な場所で泣けば良いのよ。淑女は人前で醜態を晒さなければ、それで良いでしょう! 『淑女は、どんな時も強くなくては』なんて、家庭教師は言ってたけどねぇ、私個人の考えだと、人前で醜態を見せなければ別に良くない? って感じだし!」
オーロラは、ガッツポーズをした後に、ウィンクをしてみせた。
「ありがとう、ございます……オーロラ」
「いいえ〜、これくらいお安い御用よ!」
オーロラのウィンクを合図に、アフィリナは震える足を我慢しながら、アズヴァルトのいる方向へ進んでゆく。足がドレスで隠れていて良かったと、今更ながらに思ってしまう。
近くに行き、彼の周りを囲っている令嬢たちの間をアフィリナの細い腕が、彼を求めるように通り抜ける。
「アズ……」
アズヴァルト様というつもりが、その言葉を区切ってしまった。何故なら。
あと少しでアズヴァルトの腕に届きそうというところで。
「イーステイン公子様!」
萌え声に近い声が、聞こえて来たからだ。