逃げ道
『22:05』
品田は荷物をリュックに詰めていた。初めに服をタンスから取り出すとき、三橋がサンダルを履いていることに気がついたため、自分の靴も一組だけ持っていこうと思った。
朝八時にアラームがセットされた置き時計を自分のリュックに入れた。
行動する上で、極力気をつけているのは足音と明かりについてだ。どちらも少量の変化が母親の睡眠を妨げるかもしれないからだ。ササッ、と床の表面を擦る足裏の音が、心臓の音に負けて聞こえなかった。荷物を詰め始めてから五分しか経っていないのに、喉が渇いている。
───玄関から一番遠いし、次は台所の冷蔵庫へ水を取りに行こう
品田は今から台所へと移動し始めた。
───ブブブ、ブブブ
冷蔵庫から発せられる冷気と微かな音がうざったく感じられる。
いつも冷蔵庫横に置かれている品田用の小さめの椅子を、暗闇の中から感覚だけで探し当てる。
「あっ」
見つけて、足を掴む。高さ四十センチほどの、スチールとポリ塩化ビニルでつくられた丸椅子だ。
自分の側まで手繰り寄せて、椅子のクッションを踏みしめる。水が入ったペットボトルを地面においている最中、母親と大手家具屋へと足元の椅子を買いに行ったことを思い出した。別の大きなソファが欲しいってねだったな、そう思った。青色の、品田が好きな色合いだった。
二つあるチュックのうち、自分の方に二リットル程度の水を入れた。
次にナイフを持っていこうとしたが、もしかすると怪我をしてしまうかもしれないと思いカッターを持っていくことに変更した。初めには自室にある学校へ持って行く用のもの持ち出そうとしたが、部屋に戻る余裕はもはや残されていなかった。そこで品田はいつも母親が使っている、手に収まらないサイズのカッターを自分のリュックに詰め込んだ。その時薬箱も近くにあったことを思い出し、箱ごと三橋のチュックの中に入れた。
───あと必要なのは懐中電灯とお金、それにスマホの充電器だ
そう思って、母親の財布を食器棚の引き出しから取り出した。三橋のリュックに入れながら、母親が一万円札を数枚入れた茶封筒を引き出し裏にテープで貼っつけていることを思い出した。
品田はそれを引き剥がし財布と一緒にリュックに入れた。
グミとクッキーを自分のリュックに入れた後、居間のコンセントから充電器を引き抜き、玄関まで移動した。
向かって右手にある靴箱を開けようとして手をかける。沈黙がうるさく感じられた。
すると、二階からドアが開く音がした。嫌な音だ。品田は額から汗を垂らした。
お母さんが起きた、すぐにそう理解する。
さっきまで落ち着いていた心臓が一気に跳ね上がる。血液の過剰供給に筋肉が追いつかず指先が震えだす。汗が吹き出るくらい暑いのに、唇まで震えている。
───パチッ
二階と一階をつなぐ螺旋状の階段の壁に付けられた照明が一斉に灯る。
───どうしようどうしようどうしよう!
品田の焦りは品田の焦りは最高潮に達していた。もはや心臓の肋骨を叩く音が大きすぎて、母親の足音は聞こえなかった。
階段を降りる影が、曲がり角から頭だけを出して覗いてくる。階段は一つの壁も挟まず玄関の正面に位置していた。
影を見て品田は、咄嗟に靴箱と対称の位置にあるウォークインクローゼットを開けた。
「あら蒼汰、こんな時間になにしているの?」
「あっ、お母さん」品田は喉の乾きでうまく発音できなかった。
つばを飲み込んでから言葉を続ける。「ちょっとトイレをするのに起きただけだよ」
目と目をあわせて会話することは出来なかった。そうしたら、自らの胸中を見破られてしまいそうだったから。
「ふうん、そうなの」母親が視線をそらす。「じゃあ、どうしてクローゼットを開けてるのかしら」
「......」
言い訳を無言で考える。リュックを隠すためにクローゼットを開けたのだが、閉められる時間の余裕はなかったのだ。
「お母さんこそ、どうしたの? 夜も遅いのに」
「お母さんも蒼汰と同じよ。トイレするのに起きたの」母親は訝しげに品田を観察する。
「蒼汰、なにかあった───」
「バ、バドミントンだよ!」
大げさに声を張り上げた。
「明日燈夏と遊ぶときに戦車のラジコンだけじゃ飽きちゃうかなって思ってさ! それで、ちょっと前に買ったバドミントンの道具を探してたんだ!」
品田は声を上ずりながら若干早口で言った。
「そう、だったのね」母親の品田を見る目は以前不思議がっている。
一瞬、沈黙が場を支配した。
「でもどうして電気をつけていないの? じゃないと何も見えないじゃない」
「懐中電灯を使ったのさ! ほら、前にお母さん、電気代が上がって困るって言ってたじゃない」
少々言葉に詰まりながらも、懐中電灯を見せつけて品田は話す。
それはそうだけど、と母親は言う。なにやら納得しきれていないようだ。
「バドミントンなら戦車と同じところにしまってあるからそこにはないよ。わかったら早めに寝なさい。明日、燈夏ちゃんと遊ぶのに起きれなくなるわよ」
品田は一言、はあい、とだけ返事をして足早に階段を駆け上がった。懐中電灯と電池を握りしめたまま、クローゼットを閉めて。
自分の部屋の布団に潜り込み、一応寝たフリをする。心臓の音はまだ止んでいなかった。
───キィィィ、カチャ
我が子を気遣ってドアを開けしめする音を聞いて、品田は起き上がる。もはや罪悪感を感じられるほどの心の余裕は、品田にはなかった。
なるべく体重を分散するために、全身を階段にこすりつけて降りる。実際その方法は効果があって、衣擦れの微かな音以外はほぼ発しなかった。
クローゼットの中から2つのリュックを取り出し、靴箱から三橋用の靴を一組取り出し、彼女のリュックに入れた。
玄関のスライドドアに手をかける。
「お母さん、ごめん。行ってきます」
そう言って静かに家を抜け出した。玄関前で、置き時計を取り出し時刻を確認する。
『22:25』
数字を見て品田はギョッとする。そのせいか、ドアの戸締まりをすることも忘れてしまった。外出する時はいつもするように母親から言いつけられているはずだった。
満月に睨まれながら夜の道路に飛び出す。
品田は全速力で道を駆け、三橋のもとへと向かった。