門出
『20:00』
品田は部屋の天井を見上げていた。床に仰向けになり、頭の後ろで手を組んでいる。そろそろ寝る時刻の約一時間ほど前となっているため、品田は眠りに引きずり込まれそうである。意思に反して落ちてくるまぶたを無理やりにあげて、真正面にある白熱電球の光を目に焼き付けるようにする。扇風機は優しい風を身体に当ててくれている。
「蒼汰ー! お風呂、寝る前にササッと入っちゃいなさいねー」
母親が一階の居間から声を張り上げる。ぐおんぐおん、と中の洋服を勢いよく振り回す洗濯機の機械音にも負けない声量だ。
ぐるぐると頭の中を巡る思考を振り払う。品田はお腹に力をいれて起き上がった。のっそりと立つと心臓の鼓動が早まるのを感じる。眼前が一瞬真っ白に包まれて、すぐに視界を取り戻す。壁に手をつき、数秒地面とにらめっこ。そうしてようやく歩き出す。部屋のドアを開けて階段を下りながら、いつもこうなるんだよな、と思った。
品田は脱衣所の鏡に映る自分を見つめていた。細い腕に細いウエスト。無駄な脂肪が削ぎ落とされて浮き出る腹筋。走りだけは得意だからなのか、それ以外の部位とは不釣り合いにも見える太い脚。料理店に訪れるミステリーショッパーのように、自分の全身をじっくりと観察する。視界の隅では遠心力で震えるやかましい洗濯機がちらつく。
「これからは僕が燈夏を守るんだ」
品田は振り返って、すりガラスのスライドドアを開けた。年々作業感が増す洗体を速やかに終わらせ、一畳程度の浴槽のお湯に浸かる。
ふぅ、と声が漏れる。身体が外側から更に温まるのを感じた。
「暑い」
品田は一人呟く。暑い日に熱い湯には入りたくなかったが、しかし思考を整理するのにはうってつけだった。
品田は膝を抱えながら考える。昼に浮き彫りになった問題点を思い返した。
強い日照りの中、二人は川岸で向かい合っている。
「そうね、じゃあこうしましょう。村から出発するのは今日。大人たちは気づくのが速いからね、こっちも行動は速いほうがいい」
三橋は今一度考えをまとめるように、一度天を仰ぐ。
「それで問題の服装なんだけど、お母さんはあたしがお気に入りの白のワンピースを着ずに帰ったらまず間違いなく怒るわ。かといって血まみれのそれを着て帰るわけにはいかない。きっと、お仕置きとしてしばらくは外出を禁止されるのがオチね。実質、あたしは自分の家にはもう帰れない」
若干俯いて話す。帰れない、という事実は少なからず三橋の不安を煽っているようだった。
「これから大人たちから逃げるとなれば、流石に裸で行動するわけにもいかないわよね。そこで蒼汰、どうすればこの問題を解決できると思う?」
いきなり話を振られて品田はしどろもどろする。
「ええと、そうだね。家に帰れなくて、それに燈夏はここから動けない。となると......」
考えをひねり出すように身体をくねくねと動かす。右、左、右、左。揺れる頭を見て、三橋は笑った。
「蒼汰、あなたが服を持ってくるのよ。あなたが自分の部屋のタンスに仕舞っているであろう服を、あたしに渡すの。そしてあたしはそれを着る」頬をやや赤らめて言う。「背に腹は代えられない、仕方ないわ。流石に今すぐに家に帰って持ち運ぶのはリスキーだから、夜のお母さんたちが寝静まった頃を見計らって持ってきて」
「ちょっと待ってよ」
なに、と三橋は答える。
「僕は良いんだけど、本当にそれで大丈夫かな。逃げた先の大人たちは燈夏の格好を見て何か疑うんじゃないかな。この子、女の子なのに男の子の服着てるって」
三橋は品田が言い終わる前には口を開けていて、すぐに反論した。「外に出ればそんな古臭い考え方をしている大人はいないわ。蒼汰、あなたもこの村にいる人達と同じようになってはいけないの。女の子だって、男の子の格好をしていいのよ」
品田はその回答に、自分と三橋の間に生じている齟齬を感じ取った。しかしいつになく真剣な面持ちで言葉を放つ三橋に、それを意見する隙はなかった。
「う、うん。分かったよ。少し前、僕が夜10時に起きてトイレに行った時お母さんは寝ていたから、その時間ならきっと持っていけると思う」
「そう、それなら夜行バスの時間にも間に合うわ。大体十一時十五分に都市部に向かうのが一本あるから、それに乗って今日、この村を出る。それでいい?」
こくっ、と頷く。
「学校からバス乗り場までは歩いて二十分程度......余裕を持っておきたいから十時半には再度この川辺に来てね。眠たければ寝てもいいけど、時間は厳守でお願い」
厳守の意味が品田にはよく分からなかったが、とにかく遅れてはいけないのだと理解することは出来た。
「分かった、遅れないようにするよ。ところで僕は何を持っていけば良いんだろう。旅に出るのなんて初めてだから、道具とか何が必要なのかわかんないや」
「たしかに、そうね」
三橋は品田の発言に首肯し、一度目をつむる。数十秒経ってから、三橋は思いついたであろうアイデアを口にする。
「まず必須なのは服の他にお金ね。持ってこれるだけ持ってきて、できればお母さんの財布を盗んで」
母親の財布を盗むという、普段品行方正な三橋の口からは想像もできない提案をされて品田は面食らった。
でも、燈夏のためだ。
そう思い直して品田は相槌に徹した。
「ゲームやトランプなんかの娯楽用品......おもちゃは持ってきちゃ駄目よ。なるべく荷物は軽くしたいからね。バスを乗り切るための軽めのお菓子なら許容範囲よ」
ああっ、と思い出したように三橋は話し出す。
「懐中電灯とその電池も必須だわ。それとお水。これは多少多くなってもいいわ。蒼汰のリュックだとこれくらい詰めたらパンパンに膨らんじゃうかしら」
「まだまだ入るよ! 教科書四、五冊なら」
「服も入れるんだから、これでもかなり無茶している方よ」品田の発言を遮って言う。
あそっか、と品田はすこし落ち込む。やっぱり燈夏は頭の回転が速いな、そう思った。
「それか、もう一つあたし用にリュックを持ってこれるなら、それに服を詰めるのもいいね。というよりもそれが最善か」
じゃあ、とクッションを置く。
「それができたら時計も持ってきてほしい。それとスマホの充電器」
「うん。燈夏はすまほ、持ってるもんね」
羨ましさを隠せず品田は反応してしまった。
ええ、と三橋は軽く返す。
「そしてもう一つ大切なのは」
───ピーッ、ピーッ、ピーッ
そこまで昼の出来事を思い返して、洗濯終了の合図が鳴った。
「そろそろ上がろう」
そして準備しよう。品田はそう思った。
身体にまとわりつく水滴を拭き取り、着替えた後、品田はそれぞれ必要な物品の位置を把握する。
財布はキッチン前にある食器棚の引き出しの中、おやつはその下で、水は冷蔵庫の中。懐中電灯と電池は玄関横の靴箱の中にあり、服は自室のタンスの中、もう一つのリュックも遠足用に買ったことを思い出した。たしか自室のタンス横のクローゼットの中だ。
そして、三橋が言っていた一番大切なもの。それは、フライパンの横だ。
「蒼汰、なにしてるの」
場所の確認をしている現場を見られた品田は母親に声をかけられた。心臓が跳ねるのを感じた。
懐中電灯の位置確認をしている時で良かった。
「昔買った戦車のラジコン、あるでしょ。明日はそれで燈夏と遊ぼうと思ってさ」
品田は震える声を押さえつけて言った。三橋は発見できたことにしている。
「そうだったのね。それなら物置においてあるから、明日遊ぶときにお母さんに言ってね。取り出すから」
「うん、分かった。それとさお母さん、前に遠足用に買ったリュックって、僕の部屋のタンスの中にあるよね? 夏休み明けにも遠足あるらしくて、一応確認しておきたいんだ」
「あらそうなの? ええ、蒼汰の部屋のタンスの中であってるわよ」
母親はそう言ったっきり、お便りにそんなこと書いてたかしら、と呟いて台所に戻っていった。
「お母さん、燈夏と約束があるから僕はもう寝るね」
母親の背に言葉を投げかける。
「はあい、おやすみなさい」振り返ってそう言った。
この会話が最後なのか、そう思うと品田は自然と涙が零れ落ちそうになった。
「おやすみ」
品田はリュックと服を確認して、電球を消灯させた。布団の上で、ちょうど一時間前と同じように仰向けになり、手を頭の後ろで組んでいる。
身体を回転させて、窓から見える星を眺める。虫の鳴き声がいやにうるさく聞こえた。