予感
「......遅い」
約束の時刻を三十分過ぎても、三橋が品田の部屋のドアをノックすることはなかった。三橋は生真面目な性格だ。それ故に普段なら必ず約束の十分前、遅くとも五分前には到着し、家のインターホンをいつ押そうか、と玄関先で足踏みをしている。
だからこそ、品田は嫌な汗が止めどなく溢れてきた。もちろん母にも相談した。
しかし「そういうこともあるでしょ」と一蹴されて終わってしまった。母ちゃんがいつも触っている『すまほ』があれば僕も燈夏の状況が分かるかもしれないのに、と品田は思った。
と、デジタル時計が『40』を表示した時、品田は「電話を使えば良いんだ」と思いついた。三橋の家に電話をかければ何か分かるかもしれない。
品田は部屋を飛び出した。ダンッダンッダンッ。角度が急な階段を一段飛ばしで降りる。大きな音立ててどうしたの、という母の声が聞こえたが、無視する。今は母ちゃんより燈夏の方がずっと大切だ。
「0161...」
明るい小麦色に変色した固定電話のキーパッドに市外局番を叩き入れる。玄関前の廊下だから自室よりも多少涼しい。
───プルプルプル ガチャッ
「もしもし、三橋ですが」
「おばさん!僕だよ、蒼汰だよ」
「あら蒼汰くん、こんにちは。うちの燈夏がなにか粗相をしたかしら」
......そそう、ソソウ。ソソウって、なんだ。
「ソソウ......えっと、こんにちは。今日燈夏ちゃんがうちに来る予定だったんだけど、まだ来てないんだ。今どこにいるか知ってる?」
「......さあね。今日は学校に忘れ物を取りに行くって言って家を出てからそれっきり帰ってきてないけど」
あの燈夏が忘れ物。品田は不審に思った。
「そう、なんだ。ちなみにいつ頃家を出たの?」
「うぅんと、お昼ご飯食べてちょっと経っていたから、大体13時前後ね。学校についたのは遅くとも20分頃じゃないかしら」
「そっか、分かった。ありがとう、おばさん」
「はぁい、それじゃあね。あ、お母さんによろしく伝えておいて」
「うん、言っておく。じゃあね」
品田が受話器を置くよりも先に、電話の向こうから「ピーッ、ピーッ」という無機質な音が聞こえてきた。優しく受話器を置きながら、品田は至って冷静な三橋の母の声を聞いてイラつきを隠していられなかった。
「そんなんだから、燈夏はいつも暗いんだ」
愚痴や不満というよりも、抵抗に近い言葉を吐いた。
品田家から学校までは歩いて約二十分、今からだとぴったり15:00だ。それじゃあ遅い、と品田は思った。全速力で走れば十分で着くだろうか。
「僕は学校で一番徒競走が速いんだ、僕ならできる」
どこか決意めいた声音で品田は言った。真っすぐ壁を見つめるその眼は、もっと遠いところを力強く捉えている。
そうして次の呼吸をする間もなく、品田は登校用の靴に履き替えた。
「母ちゃん、僕学校に行ってくる!」
ガラガラッ、と木でできた玄関の引き戸を勢いよく開ける。ドォンッ、という戸を閉める音で母の声は聞こえなかった。それでいい。今はもっと大切な人の声を聞きたいから。
「燈夏、待ってて」