バルザックと苺の帽子
なぜだか分からない。何も分からない。分かっていることといえば、世界が水没しいるということだけ。そして変えようのない未来がそこまで迫っているということ。政治家もマスコミも専門化も、誰一人真実を語らない。ヒーローの登場など望むまでもない。
そんな秘密社会の中にも、生活はある。
非日常を日常に替えて淡々と暮らす人々がいる。
……旧東京。ある日、とある丘に暮らす中学生達が、この謎の解き明かしを思い立つ。
世界の終末の驚くべき真実へと導かれていくために。
「生きているからには、何かを見つけなきゃね」
これはSFなのか?あなたの住む現実なのか?
ほろ苦い私たちの未来なのかも知れません。
小説を読み終えてもFANTAjikは終わらない。
お楽しみください。
ひめくり零人
1. バルザックと苺の帽子
「ねえ、高円寺が浮かんでたっぽい。き、の、う」
「ふーん、どこに? 」
「どこかって、訊かれても」
ポプラは下唇を噛む。自転車を漕いできたせいか、額に薄らと汗が滲んでいる。
「ねえソラ、あなたいったい、世界地図が崩壊してから何年経ったと思ってるの?」
朝である。僕は三沢くんに調査を依頼することにした。
モニターに向かって、
「三沢くん、おはよう」
三沢くんというのは、僕のアバターでAIだ。
「おはようございます」
朝のAIは妙に白々しく素直だ。
「昨日の調査の続きを教えてくれ」
「了解。高円寺の路上生活者は三十八人でした。内、男性二十一人、女性八人」
三沢くんからの報告は簡潔だが、それでいて的確。そこがいい。人間とは真逆だし。
ポプラが口を挟む。
「ねえ、流されたのは路上生活者さん達じゃなくって、駅舎よ。しかも足し算合ってないし」
僕はシトロンソーダのグラスを口に運ぶ。
三沢くんがすかさず、
「調査依頼の結果を報告したまでですが、何か?昨晩の地盤陥没で行方不明者が出ています」
気分を害したな。
「駅舎のことは、今、訊くから」
僕は弁解めいて言った。AIに比べて反応が少し遅れたようだ。
壁に貼られた「大人は判ってくれない」のポスター。主人公の少年がこちらを見つめている。名前はなんだっけ?バルザックの文章を丸写しにした作文がばれて叱られるんだったよな。いいぞ。丸写しだ!
ミルクはネイブルの皮を剥くのに手こずっている。オレンジ色に染まった指をタオルで拭う。
「口も拭え」
三沢くんがボソっと一言。さっきの反撃のつもりか。根に持つAI。
神は人を神に似せて創った。人はAIを人に似せて創った。根に持つところも。神の気持ちが少し判った。
「行方不明って、可哀想」
テーブルの上に置かれた小さな苺柄の野球帽に手をあて、ポプラが声を潜める。毎日のように被っているご愛用の品だ。
話題が逸れたので、改めて質問。
「ところで、高円寺の駅舎は今、どの辺りを漂っているのかな?」
〈杉並区高円寺南四丁目〉 と地図表示。
それは駅舎のあった場所だろ、と言いかけたところで、
〈高円寺駅跡地〉 と表示が変わる。
そこから半円形が描かれて、北西47度ライン沿いに3.2Kmと表示されたポイントが点滅した。
ポプラは朝日が風に揺らめくレースのカーテン越しに、外を眺める。純白の帆を上げ、一艘のディンギーがベランダ越し、遠く環七を行く。どこもかしこも水浸しだ。
「水没した世界」
言いながら彼女は、バスケットのガーリックトーストに手を伸ばす。
「学校は終わりのない夏休み。校庭は全部が流れるプール。得体の知れない脚長の昆虫が水面にうようよと。部活もなし。水泳部のみがもっぱら励む」
バターナイフで薄く塗りながら呟く。
かつては坂道だらけだった僕達の住む丘は、今はほぼ孤立した小島のように見える。通っていた中学は丘の中腹にあった。今やそこへ行くにも、流水に寸断されたデコボコ道を自転車で縫うように1時間ほど走る。迂回に次ぐ迂回。汗だくだ。
「少し外の様子を眺めに行くか?」
三沢くん、
「今日は金曜日です。良い週末を」
ポプラは馬鹿にしたような薄笑いを浮かべ、
「良い週末ねえ。駅舎を回収しにでも?」
嫌味か。謎の伝染病が流行っているともいわれ、気が進まないのだろう。
構わず扉を開ける。彼女は、渋々素直ぶる子犬ように従った。
七月だ。丘から見下ろす水辺の乱反射で、目が眩む。
この町が水没するずっと前から、僕らの住むこの世界はいつだってほろ苦い。
二人は、自転車に跨った。
「さあ、終末を抜け出すぞ!」