日本一周して見つけた私の愛
8
ソラとあたし、ジョエルの三人旅が始まった。あたし達は毎朝7時に起き、朝食を一緒に食べ、ソラはテントを片付け、あたしはジョエルの散歩をした。時々はソラがジョエルの散歩を代わってくれた。ジョエルは嬉しいのか、しきりにソラを見上げてアイコンタクトを取りながら歩いている。その光景をあたしは微笑ましく見詰める。そしてあたしのボンゴフレンディの前になり後ろになり、ソラのバイクが走った。停車して休憩したい時や景色を見たい時は、ソラが前で手を振った。あたしが止まりたい時にはクラクションを三回鳴らした。
滋賀に入った。気温は十度。寒い。近江八幡に入ると、商家の町並みと水郷地帯が広がる。五百円のパーキングに車とバイクを停めて、水の都をゆっくり見て回った。菜の花と桜が同時に咲き乱れ、水郷を屋形船が流れ、遠足の小学生たちとジョエルが水辺で戯れた。ジョエルが川面を覗き込むと小学生たちも好奇心に駆られて川面を覗き込み、小学生たちがふいに川面を覗き込み始めるとジョエルが釣られて一緒に覗き込んだ。その様子をあたしとソラは笑いながら眺めた。
あたし達はちょっと贅沢をして近江牛に舌鼓を打ち、ソラとたわいのない話をして笑い転げた。たわいのない話は合うのだし、話の種は尽きないし、笑いのツボも同じなのだった。だがことお互いの過去の話になると、何となく牽制しあって聞かない雰囲気になっていた。ソラの過去や故郷の話が聞きたかったが、彼に喋らせると自分も話さなければならなくなるのが辛い。旅に出てきた理由など、話の核心になるとあたしはつと話を逸らせたし、ソラも特段追求はしなかった。
ソラの顔を見ながら、自分は果たしてこの人が好きなのかと何度も自分に問いかけた。明らかなのは、これは真人の時とは違うということだった。自分は恋に落ちているわけではない、と冷静になってあたしは自分に言い聞かせた。恋というのはもっと、体が動悸で張り裂けそうになって、頬に血が昇り、まともに顔を見られず、傍に居たいのに思わず逃げ出したくなるような、ややこしい状態に陥ることではないか。会っていない時には相手のことを夢想して過大評価し、実際に顔を合わせてもその夢が覚めないでいられるような、美しく有難い誤解なのかもしれない。実際、真人の時は、少なくとも高ぶりがあった。二人で会う時には胸が騒いだ。
ソラと自分とは少し違う。ソラと居る時に感じるのは安らぎだった。あたしが話していても黙っていても、彼は特に気にしなかった。話したい時だけ話して、気が済んだら後は自分の世界に引きこもり、考え事を続けていても彼は別に干渉しなかった。そしてソラが話したい時にはあたしが耳を傾け、あとは放っておいた。少なくともソラに関して、あたしの脳内からドーパミンは出ていないようだった。それでも楽だったし、いい旅の相棒だった。
ソラとセックスすべきかどうかは悩み所だった。毎晩、ソラのテントで二人で食事し、少し話をして、明日の予定を二人で考え、適当な時間を見計らってあたしは立ち上がる。ソラは引き止めなかった。いつかその腕が伸びてきて、あたしの体を捉える時が来るに違いない。人を一人殺してきたこの体を、その身に引き寄せるに違いない。まだ準備はできていなかった。
ソラに思い切って、渡来夫婦の話をしてみた。夫婦との出会いと都志がいなくなったこと。渡来が必死に妻を探していること。あたしも一緒に探したいと思っていること。
「突然奥さんが居なくなって、でもどこかに居ると思ってるの? 歩いて旅してるってこと? お年寄りの女性が一人で? 時々消えるってどういうこと? 島根で居なくなって、今石川県に居るかもって?」
ソラは至極真っ当な問いを発した。あたしはそれに答えることができなかった。不自然なのはわかっている。渡来が少し呆けているかもと疑ったこともある。しかし、渡来と面と向かって会話を交わすと、渡来の話に真剣に耳を傾けていると、そこに疑いの余地を挟めないのだった。
「その都志さんって人、ほんとに最初から居たの? 夢でも見てたんじゃない陶子ちゃん」
違う違うとあたしは全力で否定した。都志は居た。初めて会った時から、渡来の傍らにはいつも都志のおっとりとした姿があった。上品にふふふと笑い馬鹿丁寧に腰を屈める、小柄でほっそりとした都志の姿が。
「能登半島できっと渡来さんに会えるよ。奥さんを見つけてるかも」
ソラは肩を竦めただけだった。何で信じてくれないんだろう。ジョエルだって都志を知っている。あたしと犬だけが、あの不思議な女性の存在を共有しているのだ。
国道八号線を疾走して福井を抜け、石川県に入った。ちょうど能登半島の付け根の辺りの羽昨市に「千里浜なぎさドライブウェイ」なるものを見つけて走って見ることにする。日本で唯一の、波打ち際を走れる道である。ソラのバイクが先に立って、ざばざばと波が寄せる海岸を走った。車はあまりないのでスピードを上げて疾走する。タイヤが全く砂に取られず、普通の道路を走っている感覚だ。砂が細かくて角張っているので、毛細血管のように水が染み込み、大変硬くなっているらしい。時々バスも走ってきて、海とバスとの不思議な取り合わせが見られて面白い。
途中にはイカ焼きやはまぐりを、ほとんど同じ年恰好の女性が、全く同じ商品名を掲げて、ほとんど同じ構えで売る店が等間隔で五軒ほど並んでいる。どこで買ったらいいかこれじゃあわからない。何度もデジャブに襲われて、でも半信半疑で最後のお店でイカ焼き買ってみたら、これがものすごい美味で、ソラと半分ずつにして貪り食べる。ジョエルは犬なのでイカは食べられず、不満気な顔であたしたちを見上げている。砂の上を引きずって歩いていたらジョエルはすっかり砂まみれになってしまった。「別に平気だよ、砂まみれの何が不都合なの? 僕には関係ないね」ぶつくさ言う犬の全身をソラと二人でタオルで払って、犬を助手席に上げる。今ではジョエルはソラにすっかり懐いて、群れの構成員の一人と思っているらしかった。「陶子ちゃんが駄目になったら、僕こいつと一緒に行くよ。こいつはちょっとアホかもしれないけど信用できる。陶子ちゃんは何しでかすかわかんないからね。そしたらバイバイだからね」素っ気ない愛犬の態度にあたしは少し傷ついた。ジョエルのためなら何でもできる、体さえ張れると思っているのに。この世で一番愛している生き物なのに。
「いざとなったら存在を忘れるようなのは愛じゃない。陶子ちゃんの元彼みたいに、時々しか陶子ちゃんのことを想わないのは愛じゃない。愛っていうのはいつもそこにあるものだよ」犬に核心を突かれてあたしは落ち込んだ。そう、真人はあたしを愛していなかった。騙されるのも捨てられるのも構わない。只、愛の不在だけが今になって身に堪える。一方的な感情だけでは育くめないものが、実体のない、手を伸ばしても届かない、でもどこかにきっとあるはずの、愛というどうやら価値あるらしい感情なのだろう。でも今のところあたしには愛なんて、空中楼閣のようにあやふやな、薄弱で根拠のない、いい加減な感情に思えた。
能登半島に入って海沿いを北上し、増穂浦海岸の「道の駅とぎ海街道」に入り、あたしは今夜の駐車場所、ソラはテントを張る草地を確保した。道の駅のすぐ隣の階段を上った丘の上に長い長いベンチを見つけた。背もたれが付いた、こげ茶の板で組んだベンチが、先が見えない程長く続いている。全長約四百六十メートル。世界一長いベンチとしてギネス認定されていて、「ロマンチックな雰囲気」が売りのベンチらしい。
ジョエルをベンチの板の隙間に繋ぎ、ソラと二人で腰を降ろし、日本海に沈みゆく夕日に目を凝らした。騒々しかった海が少し静かになって銀色に光り始め、そこに本当に少しずつ柔らかな光が広がっていくさまを二人で息を止めて見詰めた。こういう時間には空気の匂いまで変わっていくようだ。ほのかなピンク色が神々しい金色に転じる刹那、あたしは右手でソラの手をまさぐっていた。ソラの手があたしの手を捉え強く握り返す。自分は今この瞬間、幸せなのではないか、ふとそう感じて目を閉じた。海原と夕日、大自然とソラの存在に励まされてあたしはその懐に身を委ねていた。哀しみが背を向けて少し遠ざかっていった気がする。こんな瞬間を積み重ねていけばあたしは変われるのかもしれない。仄かな希望が湧いてきて目を開けてソラを見上げた。
「きれいだね」
「キレイだね」
「幸せだね」
「シアワセだね」
ソラの顔から温かい笑みが零れた。
その夜、あたしはソラのテントから帰らなかった。荒々しかった真人とは違う、優しく頼りなげな愛撫がそこにはあった。彼はあたしのために全身全霊を捧げていた。そのことにあたしは感動して、ほとんど泣きそうになり、初めてセックスに深い歓びを覚えた。顔を重ね、体を重ねて、ソラの骨ばった滑らかな背中を撫で、いつか触れてみたいと思っていた薄茶色の長目の髪に両手を突っ込んで、思う存分撫で回した。これもありかもしれない。これでいいのかもしれない、あたしはこの人にきっと慣れていくだろう。
真人と付き合っていた頃、一度だけ彼と旅行したことがある。真人は基本的には旅行が嫌いで、アウトドアもどきや釣りならするが、泊りがけで荷物を持って、どこかに観光の目的で移動する、ということを好まない人間だったから、その時はよほどあたしが勇を奮って真人を強引に連れ出したのだろう。
あたし達は一泊二日で大阪に出かけた。道頓堀商店街をそぞろ歩きながらたこ焼きを食べ、かに道楽のオブジェの下でタラバガニの炭焼きを食べ、グリコの看板の前でピースサインを振りかざして写真を撮ったりして大阪観光のお決まりのコースを辿った。有名餃子店で餃子をつつき、パンパンに張ったお腹を抱えながらラーメンまで食べた。
あたしはその頃、流行りの韓流スターに興味があったので、大阪に行く機会があったら日本最大のコリアンタウンにも是非寄ってみたいと思っていた。しかし真人が何故か嫌がった。
「どうして?」
「だって」
「だって何? 興味ない?」
「朝鮮人だろ」
吐き捨てるように真人が言った。あたしはぽかんと口を開けてしばらく横目で真人の顔を見ていた。
「だから何?」
真人はそれきりそっぽを向いてしまった。
これ以上何か言うと喧嘩になりそうだったので、あたしは速やかに引き下がり、コリアンタウンは諦めた。彼のその一言は、その後長くあたしの心の中に驚きと共に残った。真人に呆れたり嫌悪したわけではない。ただ軽い衝撃だけが残ったのだ。
真人は、本当は家でダラダラしながらDVDを見たり、鍋をつついたり、近くの居酒屋に繰り出したりと日常の延長を楽しむのが好きで、自分の生活圏内からあまり出たがらない人間だったのに、あたしが無理に旅行なんかに連れ出したのが悪いのだ。
あたしだとて日常を楽しむのは好きだったし、真人が顔馴みやあちらこちらに居る大勢の友達といかにも親しげに会話したり、笑い転げたりする様子を傍らで微笑みながら見守るのが何より好きだった。真人には実にたくさんの友達が居て、相手を逸らさない洒脱な話振りや、親しげなボディータッチを見ていると、彼はいい人なのだな、皆に好かれているのだと嬉しく、誇らしく思ったものだった。奥手で人見知りのあたしには、真人の闊達さが眩しく、真人のようになりたいと憧れ、鏡の前で真人の話振りを真似てみたりしさえした。真人の近くに居て彼と呼吸を合わせ、同じものを食べ、同じものを見ていれば、真人のようになれるかもしれないと思った。例え表面的な優しさや性格の派手さ、明るさだけだって、充分に彼を好きでいる理由になったのだ。
真人を諦めることは、真人のような人間になることを諦めることに繋がる気がした。そんな真人に裏切られ、傷つけられて、それでもこの旅の一年間で経験を積み、彼を赦すことができる人間になれればいいと願ってきた。そして彼と離れて一年近くが経ち、ようやく真人という人間の輪郭が形となって浮かび上がり実体となって迫ってきて、そして今少しずつ、隔たっていこうとしていた。
渡来を見つけられずに、あたし達は春の能登半島を彷徨った。福浦漁港では今ではすっかり港好きになったジョエルがはしゃぎ、木造では日本最古の旧福浦灯台を見つけるため、黒い瓦屋根が特徴的な古い横丁の、迷路のような小道を探索して歩いた。白米の千枚田に感動し、輪島の朝市を冷やかして歩いた。このまま富山、新潟、山形、秋田、青森と北上し、夏までには北海道に渡りたいと思う。ソラは青森を既に回っているが、北海道は初めてだった。
「旅の一番の目的は北海道よ。信号も人もない大自然の中の一本道を、愛車で走るのが夢だったんだ」
ソラは誇らしげに真っ赤なバイクを叩く。あたしにとっても北海道は今回の旅の一番の目的地だった。北の大地、雄大な自然と野生動物達の姿を想像して二人で興奮して喋った。
「知床に行ってヒグマを見ようよ」
「オホーツク海も見たい」
北海道への憧憬が募ってはち切れそうだった。それまでに渡来に会えればいいとそれだけが気掛かりだった。
富山、新潟と走り抜け、山形に入ると、海沿いから内陸に入り十三号線を北上した。有名な山寺のある天童市へ。ソラは登山が気の進まぬようだったが、あたしは山上の神秘的な山寺、立石寺を訪ねてみたかったのだ。
山寺に近い国道沿いの道の駅「天童温泉」にひとまず落ち着いた。広大な道の駅で、二百三十三台収容可能という駐車場のほとんどが、車で埋まっていた。午後の日差しは生暖かく、あたしたちはドライブの疲れを癒すため、車のセミダブルサイズのベッドに長々と身を横たえ、二人仲良くまどろんでいた。ジョエルも助手席の定位置で午睡を貪っている。ふいにジョエルが伸ばしていた体をひくつかせ、立ち上がって鼻息をひとつ鳴らすとヴァウンヴァウンと吠え始めた。
「ジョエル!」
あたしは起き上がって犬の首輪を後ろから押さえた。運転席側の開け放した窓から、男の顔がひとつ現れて、車の中を覗き込んだ。
「ちょっとすいません。いいですか」
男は三十代半ばくらいで短髪にブラックスーツ。よく見ると男の後ろには、薄茶色の髪をひとつに束ねて、同じくブラックのパンツスーツを着た若い女が立っていた。ジョエルが狂ったように吠えている。あたしは警戒心が目の色に出ないよう努めながら、居住まいを正した。隣でソラも起き上がる。
「何でしょう」
男はスーツの裏ポケットから何やら黒い革の手帳のようなものを取り出してさりげなく見せ、すぐに仕舞ったが、咄嗟にあたしの頭に浮かんだのは「警察」の二文字だった。
「ここで何してらっしゃるんですか?」
「運転で疲れたから休んでるんですけど」
何か言おうとしたソラの膝を軽く抑えながら、あたしは答えた。外国人であるソラに喋らせない方がいいとの判断だった。男はあたしとソラの顔をしばらく見比べている。
「埼玉ナンバーですけど、どこ回って来られました?」
心なしか男の目がきつくなっており、後ろの女性の目も笑っていなかった。彼女の口元には不自然な笑みが張り付いたままだ。
「何か事件でもあったんですか?」
男は答えない。ソラの顔をじっと見てから車内の様子を観察している。
「いつから、どこを回ってこられました?」
これはあれだ、いわゆる「職質」ってやつだ。そう思った途端、あたしの心臓は緊張で跳ね上がった。
「日本一周旅行してるんです。去年の夏に出てきて。埼玉から西に向かって沖縄まで行って、日本海側を旅してここまで来ました」
「日本一周?」
後ろの女が身を乗り出すのがわかった。何があったのだろう。車で逃走している凶悪犯でもいるのだろうか。男が続けて何か言っているが、ヴァウンヴァウンと吠え続けるジョエルの声がうるさくてよく聞き取れない。この犬は警察が大嫌いなのだ。というか、制服を着た人種が嫌いだ。でも彼らは私服刑事なのにどうしてジョエルは警察とわかるのだろうか。
「ジョエルだまんなさい!」
あたしが鋭く叫ぶとジョエルは大人しくなった。男はそんな犬の様子も観察している。
「お連れの方はご主人ですか?」
男の背後から女が質問してきた。
「いいえ。友達です」
「どこの国の方ですかね?」
ソラは答えなかった。ちょっと俯いてしばらくして顔を上げ、ぼそりと言った。
「イラン」
私服刑事たちは一瞬目を見合わせた。その仕草にあたしは恐慌に陥った。
「身分証拝見できますかね? 外国人登録証明書とか持ってます? あなたは運転免許証を」
あたしは足元に投げ出してあった小さなショルダーバッグを探った。横目でソラを見る。ソラはあたしがバッグを探る様をただじっと見ているだけで動こうとしない。その目がひどく虚ろで色を失っていた。
「ソラ、何か身分証持ってる? パスポートとか免許証とか、外国人登録何とかとか。テントの中?」
あたしが小声で尋ねるとソラは我に返って顔を上げた。
「テントに置いてある」
あたしは免許証を男に渡しながら言った。
「彼の身分証はここにはなくて、テントにあるって言ってますけど」
「じゃ、自分がテントまでご一緒します」
男は言って、後ろの女に声をかけ、ソラが座っているドアの前まで歩いてきた。ソラは男の動きを注視している。左手のソラの側の窓を男が叩いて、ドアを開けるように促す。
「陶子ちゃん、ボク陶子ちゃんのことが好きだよ。信じてね」
ソラが突然口走った。ソラは素早い身のこなしであたしの頭を引き寄せ、髪に一瞬唇を埋めた。そしてあたしの目を強ばった顔で真剣に覗き込んでから、静かにドアを開けた。
「ソラ、もしかして…」
言いかけたあたしの言葉を無視して、ソラはスニーカーをつっかけ、男と共に歩き出した。一度も振り返らない。あたしは後を追おうとしたが、残っていた女に止められた。
「ここで待っていてください」
駐車場の脇の草地に張ってあるソラのテントの前で、私服刑事は突っ立って、ソラがテントの中をごそごそ何やら探し回るのを見ている。片足に体重を軽くかけて、所在なげな様子で。何も起こっていないのに、その光景が恐ろしくて恐ろしくてあたしは身震いした。もうソラに会えない予感がした。
車後部の窓ガラスには、目隠しを兼ねて細かい横線が入っていて、ソラが男に何かを渡す様子がストライプ越しにだんだらに霞んでいる。ソラは終始俯いている。その姿はひょろっとしていて青白くて煮えすぎたもやしのようだ。この映像にはリアリティーがまるでない。ああ、でもあたしには確信があった。きっとそう、彼はそうなのだ。
男がソラの腕を引いてこちらに近づいてきて、窓ガラスを肘でつつく。あたしは窓を開けた。
「この人にはちょっと署まで来てもらいます」
「いったい何ですか?」
「オーバーステイ」
私服刑事は素っ気なく答えた。
「私も行きます」
あたしは即座に答えた。
「いえ、彼だけ連れていきますから」
「どこへ?」
男はそれには答えない。男の後ろからソラが歩み出てベッドの上に身を乗り出した。
「陶子ちゃん、携帯の番号教えてもらってなかった。今教えて」
そうか、そうだった。あたしは震える手でバッグを探り、メモと書くものを見つけようとした。ボールペンは取り出したが紙が見当たらない。日記帳の切れ端を破って、そこに携帯番号を書き付けた。焦って殴り書きのような字になったのが癪に障った。ソラは青ざめて表情の失せた顔で紙片を受け取ると、ジーンズのポケットに押し込んだ。
私服刑事たちに両腕を取られて、ソラは連行されていく。あたしは外に出て彼らを追ったが、白いセダンの後部座席に押し込まれたソラはこちらを見ようとせず、あっけないほど簡単に、あたしを置いて走り去った。
オーバーステイ。強制送還。まさか自分の身辺に降りかかってくるとは思いもしなかった非現実的な言葉たち。やっとソラに近づけたのに。誰かを好きになるためのささやかな力が、自分にも残っていたのだと、少しずつ勇気を取り戻しつつあったのだ。今彼に遠くに行かれてしまったらあたしはどうしたらいい? 主の去ったテントを眺め、バイク置き場の赤いバイクを眺め、途方に暮れた。ソラからの電話を待つしかない。それまでこの道の駅に泊まり続けようか。それとも山形県内をうろつきながら、ソラの電話を待つか。
ひどく気持ちが沈み込み、ジョエルの「刑務所行きだ、刑務所行きだ!」の言葉に傷つき、地面が堕ちていくような不安感と恐怖に苛まれる。ソラの手をずっと握っていればよかった。うっかり手を放したら、あっけなく行ってしまう人だったのだ。
気が付けば初夏の陽光が降り注ぎ、季節は着実に移ろおうとしている。五月の連休が過ぎたから、そろそろ日焼け止めを塗らなくちゃいけない。旅の途中だからといって、紫外線にまみれて染みだらけになるのは嫌だ。これから汗ばむ季節を迎えて、節約のために三日に一度だった日帰り温泉も、二日に一度に増やさなければならないだろう。とりとめのないことを考えて気を紛らわしていたら、携帯にメールの着信があって慌てて覗くと真人からだった。遠い過去からの呼び声のように感じ、開かずに削除する。そのままの勢いで続けて真人の携帯アドレスと電話番号も削除した。震える手で真人のメールをブロックしようとするが操作がうまくいかない。ひとつの恋を終わらせるのが、こんなに厄介だとは。過去を全て振り切らなければ前に進めない。真人や、真人の子の亡霊を忘れるためにはソラの力が必要なのに。
車の運転席を倒して横になり、ジョエルのぷっくりと盛り上がった足の爪の上を無心に撫でる。ジョエルは不審気にあたしを見詰めて視線を外さない。「陶子ちゃん、なんであいつ追いかけない?」ジョエルが話し掛けてくる。「追いかけて連れ戻さないと。もうあいつ帰ってこないかもよ」さっきは「刑務所行きだ!」と騒ぎ立てた無情な犬が何を言う。だが図星だった。何故彼にすがり付いてでも止めなかったのだろう。あたしは間違いを犯したのだ。
携帯に着信があって、慌てて起き上がって電話を取った。ソラの掠れた声が聞こえてきて、あたしは携帯がソラそのものででもあるかのように両手で握り締めた。
「陶子ちゃん、ごめん。急にこんなことになって。今、警察に居る。話をしてる」
「どうしたのソラ。オーバーステイってどういうこと?」
焦って声が上ずった。
「前の奥さんとは結婚、一年間だけしてて、離婚して仕事も辞めたけど、ビザの更新に行かなかった。定住ビザっていうのがあるけど更新に行かないで、そのまま旅に出てきちゃった。大丈夫と思って。ボクの考え、甘かったね」
ホントに甘い、とあたしは思った。あなたが好きだけど、あなたは甘い。そのせいで、あたしたちは引き離されたのだ。
「これからどうなるの?」
「わからない。しばらくは警察に拘留? されるみたい。それから入管施設? に連れて行かれる」
「いつ戻ってくるの?」
「わからないよ。というか戻れないと思うけど。陶子ちゃん、ごめん」
「ごめんって? どういうこと。戻れないって? あたしたちもう会えないってこと?」
「わからないよ」
「答えてよ、ソラ。あたしどうしたらいい? あたしにできることある?」
ソラは一瞬、沈黙した。
「何もない、と思う。陶子ちゃんは旅を続けて。今まで通り。日本一周するのが陶子ちゃんの目標でしょう。大事なことなんでしょう。それをやってほしい」
「ソラ。やめてよ。ほんとにもう会えないの?」
最後の方は涙声になり、ふいに湧いてきた憤りで、携帯を投げつけたくなった。
「もう切らなくちゃ。また電話する」
ソラが早口で言って一方的に電話を切った。あたしはやり場のない怒りと哀しみで、呆然と声の途切れた携帯の画面を見詰めていた。
昼をとうに回っていたが食欲はなく、全身から力が抜けてしまっていた。回らない頭で必死に考える。警察に拘留の間、面会はできるのだろうか。入国管理局に移送されてからは? どこの入管に移送されるのか。それもこれも、再びソラから電話がなければわからないのだ。ソラは旅を続けろと言った。続けたい気持ちは確かにある。だがその間にソラが強制送還にでもなったりしたら、もう会えないではないか。逡巡しながら道の駅の駐車場をぐるぐる歩き回って、ソラの赤いバイクを撫で、疲れて車に戻ると、ジョエルが何やってんの? という目であたしを見ていた。
しばらく後部のベッドに敷いたラグの上に俯せになって頭を抱えた。ラグにはソラの体臭が染み付いていた。石鹸と汗と草原と土が混ざったような匂い。あたしにとっては限りなく平らかな、安寧の匂いだ。ずっとこの匂いに包まれていたい。やっと見つけたと思ったのに、その人はもうここには居ないのだ。今すぐに、猛烈にソラと抱き合いたかった。
「旅を続けなよ、陶子ちゃん」ジョエルが鼻を鳴らす。「一度始めたら、最後までやるんだよ」あんたに言われたくない。あたしはぶつぶつ言いながらジョエルの垂れた大きな耳を引っ張った。そしてジョエルの柔らかい体を抱き寄せ、犬の首に顔を埋めた。すると興奮した気分が徐々に静まっていく。アボリジニの言葉に「犬のおかげで人間になれる」というのがある。本来の意味はお互いが協力し合って家族になれる、というような意味だが、今のあたしには違う意味でしっくりきた。ジョエルが一個の動物として、鼓動する命として、そこに存在してくれること、自分が犬であるという事実を疑問の余地なく受け入れ、決して揺らぐことがないこと、その確かさが、あたしを鎮め、本来の自分を取り戻させてくれるのだ。
旅を続けよう、あたしの頭の中の理性がそう囁いた。ここで挫けたらダメだ。でもこの激しい喪失感をどうコントロールすればいい。ふいに渡来の顔が頭に浮かんだ。隣にそっと寄り添う都志の姿も。ワンボックスカーの外にきちんと揃えて並べられた二足のサンダル。初めて見た時は嫌悪すら覚えたあの光景が、その後何度もフラッシュバックして、今では馴染み深い彼らの姿の一部になっていた。渡来を探さなければいけない。渡来を探して、日本中をぐるぐる回るのが、あたしには運命づけられているのだ。おそらく馬鹿げた考えなのだろう。でもやめることは今の自分を捨てることなる。先へ進もう。旅を続けながらソラからの連絡を待つのだ。
あたしは運転席に座り、地図を広げた。山形から北へ目を移すと、飛び込んで来たのが奥羽山脈だ。山越えは難儀だけど、奥羽山脈を越えて十和田湖へ抜けよう。渡来が海岸沿いを北上しているとは限らない。イチかバチか内陸へ入るのだ。その先は北海道。金のない渡来が行く可能性は低いが、あたしの目標は日本一周だ。北海道は外せない。ソラと北海道の大地について興奮して語り合ったことを思い出した。ソラのためにも諦めるわけにはいかない。
シートベルトを締めてハンドルを握る。ようし、行くよ。ジョエルに一声掛けて、あたしはエンジンをかけた。
国道十三号線を北上して秋田県に入り、角館辺りから東へ折れる。目指すは八幡平、そして十和田湖と奥入瀬川だ。
9
汗ばむような陽気の日が多くなり、新緑が深くなって、山中を旅するのにはいい季節になってきた。六月のこの時期でも、岩手と秋田にまたがる火山群八幡平の山中には雪が残る。八幡平では五月までスキーができるらしい。
昨日、ソラから携帯に着信があって、警察での拘留後、仙台の入館管理局に移送されたと言ってきた。オーバーステイ以外の嫌疑はなく、速やかにパトカーで移送されて、収容所内から電話をかけることができたらしい。本人が望めばすぐ本国に強制送還されるが、ソラはできれば日本に居たい。その場合、日本で生活していくのにふさわしい人間かを収容期間中に調査される。おそらく駄目だろう。調査にどの位時間がかかるかもわからない。何とか時間を稼ぐのでいつでもいいから面会に来てくれと言われて二週間経った。それなのにあたしはまだ、八幡平の山中を彷徨っていた。広大な山脈には煙の吹き上がる渓谷があり、近づけば天然の露天風呂があり、ひっそりとした古風な建物には鄙びた内湯があって、そんな秘湯の数々に心も体も癒された。誰も居ない薄暗い湯に浸かって、あたしは心ゆくまで自分に問いかける時間を持てた。
こうなった以上、ソラに会ってどうなると言うのだ。どのみちイランに強制送還されるのだ。国家権力には逆らえない。会って束の間、いたずらに喜んでもまだその先があるのだ。永遠の別れを言いに、わざわざ仙台へ行くのは躊躇われた。誰かと別れるのはもう嫌だ。特に今は。やっと出会えたのに。毎晩のようにソラの匂いを思い出すのに。北海道に渡ってしまったらソラにはもう会えないかもしれない。北海道に渡って、いっそこのまま忘れてしまおうか。再びもがき苦しむよりは、忘れてしまった方が楽だ。渡来を探して、一緒に都志を見つけるのだ。
ラジオをつけると、平井堅の「瞳を閉じて」が流れ出した。庵治港の片隅で愛を叫んでいた渡来夫婦の後ろ姿が浮かんでは消えた。
青森の大間崎から函館へ向かうフェリーは一日二便。十四時の便に乗り、ジョエルは船底の車の助手席に置いてペット積載車の紙を車両前面に置き、あたしは二等座敷にて、トラック運転手やら観光客やらと一緒に一時間半海上の人となった。沖縄に比べれば散歩に行くようなものだ。それでも北海道の陸地が見えてきた時には感動を覚えた。「暗いし、他にワンコいないし、寂しかったよ」ジョエルがぶつぶつ文句を垂れる。函館に着いて早々に道の駅を探し、夜を明かすことにする。本州と違って何だかうすら寒い。夢にまで見た地だが、函館の賑わいを見ていると、まだ北海道の大地を踏んだという実感が沸いてこない。
翌朝は内浦湾沿いにぐるっと海岸線を回って東へ走る。六月だというのに、寒くて服を四枚も重ね着した。天気が悪いと人恋しくなる。
室蘭市は北海道有数の重化学工業都市で、人口密度も高いのだが、町にはどこか裏寂れた雰囲気が漂っている。道の駅の隣の公園に水場があったので、石鹸を片手にジョエルを引っ張って行き、前触れもなくいきなりジョエルに水をぶっかけ、石鹸でごしごし洗う。そろそろジョエルは臭うようになっていた。「冷たい冷たい!」と犬が叫ぶ。それを無視して背中でうんと泡を立てた。寒く辛かった冬を越し、事故にも遭わず無事に旅を続け、一番いい季節に一番いい場所で、犬を洗う幸せを噛み締めた。自分は北海道に来て、少し放心状態になっているらしい、濡れた犬を乾かそうと公園を散歩しながら思う。ソラのことも、渡来夫婦のことも何だか遠い昔の出来事のように思えてきていた。北海道の広々とした空を見、開放的な空気を吸って、心も体も遠く吹き飛ばされてしまったようだ。
二風谷という風変わりな名の地がアイヌの里だと知って興味を引かれた。平鳥町・二風谷。日本の文化的景観として北海道で初めて登録された地だ。沙流川沿いに開けた土地で人口は三、四百人。その過半数がアイヌだ。アイヌと聞くとどこかセンチメンタリズムを掻き立てられて、そんな自分を少し恥じ、あたしは人種差別主義者だろうかと訝りながら、羞恥と期待の入り混じった奇妙な感覚のまま、あたしは「萱野茂二風谷アイヌ資料館」で車を停めた。萱野氏は二風谷出身で、アイヌ語辞典を編纂した人物だ。彼の所蔵品を展示しているのが萱野茂二風谷アイヌ資料館だった。
資料館というだけに小ぶりな建物の小さな駐車場に入り、最近の癖で辺りを一通り見渡すと、見覚えのある軽のワンボックスカーが目に止まり、心臓が止まりそうになった。元は白かったのに、汚れでグレーになりかかった見すぼらしい車、それは渡来その人と同じに見えた。車の外観でも、渡来はその存在感を主張していた。車に人影が無かったので、あたしは入口に走って行って入館料四百円を払い、資料館に飛び込んだ。
青や紺、アイヌ風に言えば藍色を基調とした布にシンプルだが力強い手刺繍が施された装飾品、頭巾や手袋などの日用品がびっしりと並べられた中で、アイヌの着物の刺繍に前屈みになり見入っている背中を、感無量の思いで見詰めた。あたしはこの小さな資料館の中ではいささか大き過ぎる声を張り上げた。
「渡来さん!」
驚きで見開かれた皺くちゃの目が、振り返ってあたしを見て小さく輝き、数秒後に破顔した。
「やあ、青江さんじゃないですか」
「こんな所で会えるなんて」
あたしはこの旅で何度言ったか知れないセリフをここでもまた繰り返した。願えば叶うのだ。会いたいと思い続ければ何度でも会えるのだ。
「北海道に来てるかもしれないと思ってたんです。良かった。でもまさか二風谷で会えるとはね」
あたしは興奮してきて、渡来と本州で別れて以降の旅の道筋を説明しだし、お喋りが止まらなくなったあたしを渡来が制した。
「しーっ。ここは資料館ですから静かに。外に出ましょう。ここには庭があるでしょう」
皺だらけの灰色の長袖シャツに、車と同じように、元は白かったかもしれないが今は黒っぽく変色したスラックス、サンダルという姿の老人は、ホームレスだと言われれば頷けるほどの薄汚れ方で、おまけに臭った。しばらく体を洗っていない人間の放つつんと饐えた臭い、そこに加齢臭が加わって以前なら閉口したかもしれないが、あたしは狼狽えなかった。髪は以前と同じ位の長さで、おそらく自分で切っているのだろう、相変わらずのざんばら頭、髭は最近になって剃るのをやめたという風で、冷静に見ればかなり引くような姿であったにせよ、あたしにはただただ懐かしかった。抱きつきたいのをかろうじて抑えて、老人の腕に軽く触れながら、あたし達は資料館の外へ出た。
庭には、チセと呼ばれるアイヌの伝統的な家屋や高床式倉庫などがあって一見の価値があったが、あたしの興奮はまだ収まっておらず、こんなにも偶然に渡来に再び会えたことの喜びが胸から溢れ出てしまって、ほとんど泣きそうだった。渡来の方はというと、特に話もせず、右足を軽く引きずりながら、ゆっくりとアイヌの人々の住居を見て回り、「コロポックルの家」という大木をくり抜いて穴を開けたような奇妙な建物の前で立ち止まり、喋り続けるあたしを制して言った。
「コロポックルというのをご存知かな? アイヌの伝説に出てくる小人で、蕗の下に住む人という意味なんだが、アイヌのさらに前の先住民族なんだよ。アイヌとコロポックルは助け合って仲良く暮らしていた。でも人種が違うというのは難しいね。とうとう彼らの間で諍いが起きて戦争になり、アイヌが勝利してコロポックルは北へ去った。北海道では和人がアイヌを追いやったが、アイヌもまた、他の民族を追いやっているのだよ」
「そうなんですね」
「異文化を理解し共存するというのは、かくも難しい。アイヌを侵略したと思っていた和人だが、アイヌもまた侵略者だったんだからね」
「渡来さん、都志さんは?」
あたしは聞きにくいことをおずおずと切り出した。言わずもがなだが、聞かないわけにはいかなかった。
「見ての通りさ。戻っては来ないよ」
渡来は痩せた肩を落とした。一段とみずぼらしくなった渡来が哀れだった。
「渡来さん、ちゃんと食べてます?」
「食べてるさ。死なない程度にはね」
あたしたちはコロポックルの家が乗っているコンクリートの台座に並んで腰を下ろした。周囲の木々の間から曇った空が見えた。北海道に来てからずっと天気が悪い。雨か、良くても曇りだ。それでも北の大地と空は、あたしには充分広かった。
「あの青年はどうしたんだね? 一緒に居ただろう? ほら竹田城で」
しばらく言葉が出てこなかった。喉の奥につかえたような塊があって、ふいに涙が出そうになるのを堪え、やっとぼそりと声に出した。
「今は一緒に居ないんです。色々と事情があって」
「そうですか」
渡来は目を細めてあたしを見て、一つ頷いた。
「都志さんはどうしたんでしょう?」
「さあ、こうなったのには訳があるからね。そういえば話の続きがまだあったね」
「是非聞きたいです。お願いします」
渡来は咳払いをして、コンクリートの上で座り直した。しばらく肩を落として自分の両の手の平を見詰めていた。
「さて、どこまで話したっけな」
「イラン人たちの家に行って、仕事の話を色々聞かされて渡来さんは腹が立ったというお話しでしたね」
「ああ、そうだった」
渡来は深い溜息をつくと、記憶を呼び起こすようにじっと宙に目を彷徨わせていた。沈黙の中に小鳥達の愛らしい囀りが響いた。渡来はしばらくその音に聞き入ってしまってあたしの存在を忘れてしまっていた。あたしはそんな渡来の横顔を眺めながら辛抱強く待っていた。
アクバルとアリの家で食事をご馳走になった日以来、渡来は頻繁に彼らと会うことになった。最初のうちは金曜日の仕事の帰りに代々木公園で待ち合わせをして、公園内を散歩したり、日曜日に彼らの家に遊びに行く程度だったが、付き合いが深まるにつれ、彼らの人懐こさや情の深さ、純粋さに惹かれていき、息子と言ってもおかしくないほど年の離れた彼らを次第に親友と思うようになっていた。時には「ワタライさん、どうやったら日本人の女とセックスできる?」などとしつこく聞いてきて渡来を困らせはしたが、人との付き合いに一線を置く日本人と違い、彼らの感情表現は直截であけっぴろげだった。余計な気を遣うことなく信頼できることも彼らを好きになった要因のひとつだったかもしれない。
彼らに連れられて同じくイラン人たちの集う上野公園にも行き、イラン人たちのコミュニティーについて知識を深めた。彼らを上野動物園に案内して、初めてだというパンダを見せたり、日本食をご馳走したり、しまいには自分の家に連れてきて、都志や娘の沙耶に紹介したりした。都志は驚き、でも歓迎してくれて、せっせと手料理を作って彼らをもてなしてくれた。都志はその頃専業主婦だったので、時間はたっぷりとあったのだ。
都志は地方の土地の資産家の娘だったが、人の好い父親が友人の会社の連帯保証人になり、その友人がグループ会社の経営を破綻させてしまったことで友人の借財を背負い込み、一家は没落して両親は他界、都志は十歳違いの兄に育てられた。ところが都志が女学校に在籍中、その兄が突然失踪してしまった。理由はわからない。おそらく都志は捨てられたんだろう。だが都志はたった一人の兄弟である兄をとても慕っていて、捨てられたとはつゆとも思わなかった。この世でたった一人ぼっちになってもいつか兄は帰ってくると信じ続けた。彼女は長く独身を貫き、出版社に就職して、編集者とデザイナーとして四十歳の時、わたしらは知り合った。遅い春だった。お互い一目惚れで数カ月程付き合って結婚したんだ。わたしはどうやら失踪した彼女の兄に似ていたらしい。彼女はそれもあってかわたしに執着した。わたしの方でも彼女のわたしへの愛情の底に兄への思慕があることは承知の上で、それも含めて彼女を愛した。わたしらは幸せだった。
娘が生まれた後、しばらくして都志は独立し、フリーライターとして働いていた。当時日本では空前の海外旅行ブームが沸き起こっていて、旅行ガイドブックの取材でヨーロッパだのオーストラリアだのアメリカだの、海外を飛び回っているうちは彼女も楽しそうだった。都志は英語も堪能だし、文章にも長けていたからやり甲斐も感じていたと思う。ただ長い時には三週間も家を空けるので、わたしと娘だけの生活を心配し、沙耶の成長を間近で見られないもどかしさもあって、ガイドブックの仕事は諦め、国内で医療関係の雑誌のライターをするようになった。その頃から都志は変わっていった。取材先で心無い扱いを受けたり不条理な言葉を浴びせられたりすることが増え、出版社に訴えてもそれが仕事だろと相手にされない。どうして人は人が傷つくようなことを言わずにいられないのだろう、どうしてあの人はあんなことを言ったのだろうと、日々悩み抜いてわたしに訴えていた。仕事量が増え一日の三分の二は仕事に費やしているという過重労働も重なって繊細な都志の心には負担がのしかかり、やがて鬱病を発症して仕事を辞めた。
その頃都志はよく言っていた。外国は素晴らしいのに日本に居るとどうしてこんなに辛いのかしらと。そりゃ海外に居れば些細な日常が見えないからだよ、とわたしは言った。国内だってそれが旅行ならば案外素晴らしいのじゃないのかって。そうね、わたくし、いつか日本の素晴らしさを発見できる旅に出たいわ。わたくしたちどうしたって日本人だもの。日本人であることからは逃れられない。ここではない遠いどこかに、きっと夢のような素晴らしい場所があるわ。いつかあなたと沙耶とわたくしと三人でそんな桃源郷を探す旅に出ましょう、と。おそらく都志の目指す旅には失踪した兄さんを探す目的も含まれていたのだろう。
都志の鬱病は十年ほどかけて完治したが今度は娘の沙耶が鬱病を発症した。何を見ても聞いても一切感情を表に出さない。アクバルはそんな沙耶の様子を見て心を痛め、しきりに話しかけたり笑わせたりしようとした。それでも彼女は眉ひとつ動かさない。大学を休学し、家に引き籠りがちになり、日々表情を無くして口も聞かなくなっていく一人娘を、夫婦はそれこそ息を詰めて、腫れものに触るように扱っていたし、特に都志は自分の病気が娘に遺伝したのだと思い込み、そのことで思い悩んでいた。しかしアクバル達は沙耶に遠慮などしなかった。沙耶の目を覗き込み、肩に手を置き、おどけた顔をしてみせ、時にはイランの歌を唄い踊り、彼女を踊りの輪に引き込もうとした。しかし沙耶は頑なに口を閉ざし、彼らの手を振り払った。一度、ファルシードがそんな彼女を宥めようと、左手で彼女の腕を押さえようとすると、彼の手を見た沙耶ははっとして身を固くした。ファルシードの小指と薬指の無い手に驚いたのだった。それは沙耶が近年で唯一感情を顕にした瞬間だった。
アクバルは小さな印刷工場、アリは建築現場で働いていたが、無職のファルシードのことが渡来は気掛かりだった。アクバルやアリ、その他のイラン人仲間に金を借りて何とか凌いでいるらしかったが、金に困っているのは明らかだった。イランに帰国する金さえない。あってもまだ帰りたくはないらしい。せっかく出稼ぎに来たのだから、何とかして金を作って故郷の両親に送りたいのだった。
そのうちにファルシードは渡来たちの遊びに加わらなくなった。姿を消したファルシードのことを不審に思ってアクバルに尋ねると、彼は口を濁して大きな瞳を曇らせた。「あいつは今上野にいるね。上野のストリートに立ってるね」どういうことだと尋ねると、アクバルとアリは顔を見合わせた。それきり何も教えてくれない。胸にざわつきを覚えた渡来が都志に相談すると、上野に探しに行きましょうと言う。日曜日の午後、二人して上野に行き、上野公園やアメ横などをファルシードを探して歩いた。日も暮れて、アメ横の革ジャンなどを売っている通りに差し掛かると、横丁から「おニイさん」と呼び止められた。目を凝らしてみるとファルシードだった。右手には小さなカードを握っている。「お前、何してる?」渡来が彼の手を掴むとファルシードは怯えた目をした。
当時は携帯電話なんてものはなく、電話といえば公衆電話が主流だったが、この電話を使用するには小銭かテレフォンカードを使う。このカードは大体五百円か千円で売られていて、電話器に差し込めばその金額の分だけ電話ができるという仕組みだ。ところがファルシードが手にしていたのは、表からみると普通のカードだが、裏には銀色のテープが貼ってあって、このテープでパンチ孔を塞ぎ、磁気データ部を書き換えて再び使用できるように細工してあるものだった。いわゆる偽造デレフォンカードだ。
「こんなこと、何でやってる?」「ワタシ仕事ないね。この手じゃもう仕事できないね。何もしなかったら生きていくこともできない」「あたくしたちが仕事を探してあげます」「この手じゃ無理ね」しばらく暗闇で押し問答を繰り返した。そうこうするうちにも、前を人が通り掛かるとファルシードは渡来たちを振り切って「おニイさん」と声を掛ける。「そのカードはどこで手に入れた。誰に渡されたんだ?」「それは言えないね」そう言う渡来にも見当はついていた。元締めは暴力団。不可抗力で手指を失くし、会社を首になって、挙句の果てがこれだ。渡来は怒りと暗澹たる思いで目の前が暗くなった。「今すぐやめるんだ」「やめられない」「やめるんだ」「ワタライさん、ワタシのこともうほっといて」
大男のファルシードを引きずって行くこともできず、二人はその場を諦めて上野を後にした。アクバルの家に電話して事情を話すと彼は電話の向こうで黙り込んだ。「アクバル、知ってたのか?」「うーん」「あいつをどうにかしないと」「どうにもできない」「どうして?」「お金ないからね。ワタシももう仕事やめるかもしれない。ワタシの社長さん、もう五ヶ月給料くれないよ。ワタシ一生懸命働いているのに。もう生きていけない。ニホンはケイザイ悪くなってるね。ワタシの会社ももうダメね」「やめてどうするんだ?」「国には帰れないよ。飛行機のお金もない」決して裕福ではなかった渡来なので、金に関してはどうしてやることもできないのはわかっていた。無念だった。「悪いことに手を出すのだけはやめてくれ」渡来は祈るような気持ちで言った。「うーん」アクバルは曖昧な返事を寄越し、そのまま電話は切れた。その日以来、アクバル達は渡来の前から消えた。代々木にも姿を見せず、川口のアパートを訪ねると、既にもぬけの殻だった。
彼らを親友とまで思いながら、どうしてやることもできないのか。無力感が彼を苛んだ。都志がもうやめましょうといくら言っても、渡来は憑かれたように夜の新宿や渋谷、原宿、上野の街を彷徨った。どこかに彼らは居るはずだ。国には帰れないのだから。この日本のネオン煌く夜の街のどこかで、哀れにも途方に暮れているに違いない。そう思うと居ても立ってもいられなかった。
一九九一年に日本のバブル景気が崩壊し、企業の相次ぐ倒産や人員削減による失業、新規雇用抑制による就職難などが、末端で働く外国人労働者を直撃していた。日本人が嫌がる仕事、「きつい」「汚い」「危険」の3Kと呼ばれていた職種の貴重な担い手であった彼らが次々と就労機会を失っていた。渡来の焦りはピークに達していた。
ある日、渡来は会社帰りにふと思いついてアクバルたちが住んでいた川口周辺に向かった。隣の西川口の住宅街を歩いていた時、路上に停まっていた車からさっと出て来た外国人らしき人物の姿が目に入った。彼は辺りを一瞬見渡し、足早に去っていく。その後ろ姿に見覚えがあった。「アリ!」渡来は叫んで男の後を追った。男が驚いて振り向く。アクバルの友達のアリだった。アリは顔を歪め、血走った目で渡来を凝視している。渡来はアリに近づき、挨拶もなしでいきなりアリがポケットに突っ込んでいた両手を引き出した。直感が何かを渡来に告げていた。「なに?」アリが掠れた声で言う。「ポケットの中身は何だ?」アリのジーンズのポケットを探る。何もない。アリが羽織っていたジージャンの胸のポケットに手をやり、胸の前を開いて内ポケットを探ろうとした。アリは抵抗して渡来の手を払いのける。「やめて!」「やめない」揉み合いになって、しまいにアリの怪力に突き飛ばされて渡来は無様に路上に転がった。
打ち付けた肩を摩りながらゆっくりと起き上がり、渡来は路上にあぐらをかいてアリを下から見据えた。暴力を振るったことを後悔しているのか、アリは落ち着かな気に目を泳がせている。「ポケットの中身を出せ」渡来は腹に力を入れて声を絞り出した。「出せって言ってるんだ!」「ワタライさん、ごめんなさい。僕たちにもう構わないで」アリが懇願するように言う。「僕たち? アクバルやファルシードのことか」アリがしまったと言うように顔を顰める。渡来は立ち上がり、前から手を回してアリの尻ポケットを探った。今度はアリも抵抗しなかった。出てきたのはパケと呼ばれる小さなビニール袋に小分けされた三つの白い粉だった。「覚醒剤か」アリが顔を背ける。「生きてくため、仕方ない」ぼそぼそと呟いている。車のドアを開けて渡来は車内を捜索した。必死に探しているとやがて運転席ドアの内側ポケットから小分けされた白い粉、大麻樹脂と思しき焦げ茶の物質、乾燥大麻などが出てきた。彼は背筋に寒気を覚えた。「どこの組だ?」渡来は俯いたままのアリの腕を掴み、激しく揺さぶった。
当時、麻薬は中国、台湾、韓国のマフィアから日本の暴力団が買取り、自分たちの検挙リスクを回避するためにイラン人集団に売人をさせていた。仕事を失った一部のイラン人集団にとっては、偽造テレフォンカードの密売に加え、次第により利益が上がる薬物密売に手を染めるのは自然の流れだった。彼らは覚醒剤、大麻、モルヒネ、コカイン、アヘン、LSDなどの薬物を暴力団から仕入れ、川口、西川口周辺などで組織的に密売を始めた。暴力団の末端で、彼らのシノギの売人としてイラン人が暗躍することとなったのだ。日本での末端価格は一パケ、ビニールの小袋に覚醒剤が約0・3gで一万円から二万円。仕入れ価格にもよるが、アリが持っていた覚醒剤の上がりも、きつい肉体労働で一日中汗水流すより、ずっと楽な収入源であるに違いなかった。
「アクバルやファルシードも一緒か」渡来はアリを揺さぶった。「そう」不貞腐れたような目を上げ、アリが頷く。「どこにいる?」「一緒に暮らしてるよ」「そこに連れて行け」アリは横を向き、思い詰めたような表情で考え込んでいたが、やがて渡来に目を戻し「仕方ないね」と言った。「こっち」ひと言呟くと、先に立ってずんずん歩き出した。渡来は黙って後を追う。西川口の駅からはだいぶ離れた住宅街の一角に、築五十年は超えると見られる寂れた五階建てのマンションがあった。アリは正面玄関を避け、エレベーターを使わずに階段を登っていく。階段からすぐの三階の角部屋の前まで来ると、鍵をがちゃつかせて扉を開け、「ちょっと待ってて」と渡来を制し、中に入ると扉を閉めた。ペルシャ語で何か言い争う声が聞こえてきた。
しばらくすると、「どうぞ入って」とアリが顔を出し、渡来を招き入れた。狭い玄関には靴やサンダルがたくさん脱ぎ捨ててあって、廊下の先にいくつもの顔が見える。懐かしいアクバルやファルシードの他に、知らない男たちが三人居た。みなイラン人らしかった。アクバルの目には険があり、渡来は一瞬怯んだ。「何しに来たワタライさん」アクバルが低い声を出す。「話がしたくて」「話って?」「お前たち、暴力団とつるんでるんだろう。捕まるぞ」「ワタライさんに関係ない」「関係なくない。友達じゃないか」「もう友達じゃない」しばらく押し問答が続いた。他のイラン人たちは皆俯いたまま無言で渡来たちのやり取りを聞いていた。
そこへ電話がかかってきて、アリが出た。低い声で話をしていたアリがいきなり奇妙な大声をあげた。振り返ってアクバルにペルシャ語で何かを叫ぶ。アクバルが大声をあげ、六人のイラン人が一斉にわめき始めて場は騒然となった。アクバルが黒電話に取り付いて慌てた様子でどこかへ電話をかける。「どうしたんだ?」渡来はアリに尋ねた。「塩をつかまされた」「何だって?」
アクバルが必死の日本語で喋っている相手は暴力団関係者であろう。どうやら顧客からの知らせでアリが売った大麻が塩であるとわかり、元締めに確認したが白を切り通されているらしかった。アクバルは電話を切ると仲間たちにペルシャ語で手短に説明し、その場にへたり込んだ。アリやファルシードは両手で頭を抱えて唸っている。渡来の知らない他のイラン人たちは怒りの叫びをあげ始めた。アリが廊下を走ってサンダルをつっかけ、外へと飛び出す。一人が所持していたパケをいくつも取り出し、蓋を開けて舐めてみて首を横に振った。
「いくらで買ったんだ?」渡来はアクバルに尋ねた。「二十万円」短く答えが返ってきて、アクバルは両手で顔を覆ってしまった。二十万は彼らにとって大金だ。慰めの言葉も浮かばない。「暴力団とつるんだって碌なことにはならない」沸々と怒りを滾らせて渡来は言った。「今すぐ関係を断つんだ」「無理だよワタライさん、ボクたち生きていけない。仕事ない。ご飯食べられない。アリは建設会社をクビになった。ボクは給料くれないから会社辞めた。ファルシードが世話になってた組のワカイシュウが、売人の仕事紹介してくれた。やるしかない。他にどうすればいい?」若い衆? 仕事を紹介してくれた? 何を言う、体よく使われているだけだろう、簡単に騙され食い物にされているだけだろう。渡来は喉まで出かかった言葉を飲み込んで、打ちひしがれた彼らを絶望的な思いで見下ろしていた。このまま見過ごすわけにはいかない。彼らを利用し尽くしてゴミのように捨てていく連中を。何とかしなければ。
アクバルを説き伏せ、組の名前を聞き出すと、彼らと関係を断つ方策について渡来は思案を巡らせたが、糸口は見つからなかった。都志に相談すると「直接話しましょう。それしかないわ。あたくしも一緒に行きます」と言い募る。都志はいつでもどこへでも、渡来と一緒に行くと言うのだった。それがどんな危険な場所でも構わない、あなたを心配しながら留守番をするくらいなら一緒に行ってどんな目にあってもいい、何をするのでも共にありたいと願うのだった。だがさすがに暴力団と関わらせるわけにもいかず、渡来は都志を諦めさせ、一人で直談判の決意を固めた。
事務所に単身乗り込むわけにもいかないので、新宿歌舞伎町の事務所の前を毎朝うろついて、それらしき人物が出てくるとこっそり後をつけて回った。彼らはパンチパーマに派手なスーツのわかりやすい出で立ちなので、つけ回すだけなら造作もなかったが、問題は彼らが単独行動をしないことだった。必ず二、三人で連れ立って、辺りを警戒しながら歩くのだ。これでは付け入る隙もない。そこで、渡来は会社帰りの毎夜、組の周辺の店での聞き込みを始めた。彼らのシマであるバーやキャバレー、風俗店などで客を装いホステスやバーテンダーに尋ねて歩く。
そうするうちに一つの有力な情報がもたらされた。組の若頭補佐で、毎朝欠かさず一人でサウナに行き、その後歌舞伎町のある喫茶店に一服しに行くのが日課だという男がいるという。ヤクザと口を聞いたことなどないので、渡来は身内に震えを感じたが、躊躇している暇はなかった。平日に一日会社を休み、歌舞伎町の某喫茶店に朝から陣取り、何杯もコーヒーをお代わりしながら、それらしき男が来るのを待った。
午前十一時頃になって、窓側に座っていた渡来がふと気づくと、窓側の奥の席にでっぷり太りパンチパーマにサングラス、派手なスーツに開襟シャツの男が座っているのが見えた。あいつだ、しかし困ったことに彼は一人ではなかった。男の前には二人の若いチンピラが座っていた。三人して煙草をくゆらせている。
仕方がない。やるしかない。渡来はひとつ深呼吸すると立ち上がり、慎重な足取りで奥のボックス席に近づき、太った男の目の前に立った。
「何だ?」というように男が顔を上げた。「寛いでいるところをすまないが、話がある」渡来は言った。ヤクザに向かって、丁寧な口を聞くべきなのかどうかは迷うところだった。喋り方もわからない。自分が小さな子供のように感じた。「てめえ、誰だよ?」手前にいた若いチンピラが険しい目で腰を浮かした。太った男はそれを制して「あんた、何の用だ?」と言って吸殻を灰皿に押し付けた。「私の友人のイラン人がおたくの組でヤクの売人をやらされてる。先日は偽物の塩を押し付けられた。売人をやめさせてもらいたい」渡来は一気に喋るとひとつ呼吸をした。「何?」奥と手前のチンピラ二人がすごんだ。「塩? イラン人? そんなものは知らんね」太った男は笑って体を揺すった。「何かの間違いだろう」「いや、おたくの組だと彼らが言っている。名前はアクバルにアリにファルシードに…」「ふざけるな!」と手前のチンピラが叫んで話を遮った。「言い掛かりをつけられちゃ困るね、あんた。馬鹿なこというと厄介なことになるよ」太った男が鷹揚に言った。「痛い目に遭わないうちに引っ込みな」「いや、抜けさせてくれるまでは帰らない」渡来は一歩踏み出した。「今、抜けさせると保証してくれなければ警察に訴える」太った男は笑ったが、手前のチンピラは立ち上がった。「なんだと、てめえ」といきなり渡来の胸倉を掴んだ。「舐めたこと言うとただじゃすまねえぞ」渡来がその手を振り払おうとするうちに揉み合いになり、奥のチンピラも飛び出してきて渡来は床に倒されそうになった。テーブルの上のコップが倒れ、水が滴った。辺りでキャーという声が上がった。渡来は全身の力を込めて踏ん張り、二人のうちどちらかを一発殴った。激しく揉み合ううち、一人が身内からナイフを出した。と同時に渡来の右足に衝撃が走り、彼はそのまま昏倒した。「素人相手に手出してんじゃねえ」「ずらかるぞ」という声が頭上で聞こえた。渡来はなす術もなく両手両足を投げ出して床に転がり、喫茶店の天井の染みを眺めていた。右足の腿から血が溢れている。店内は騒然となり、誰かが「警察、救急車」と叫んでいる。やがて救急隊員がやってきて彼を病院に運び、手当を受けたが渡来の右足には後遺症が残った。
渡来を刺した若いチンピラはほどなく警察に捕まり、アクバルたちは放免になった。渡来はアクバルたちに僅かな金を与え、職が見つかるまで何とか忍ぶように言ったが彼らの顔は浮かなかった。「ヤクの密売が一番金になる」ファルシードとアリはそう言い放ちさえした。
ある日、渡来とアクバル、アリ、ファルシードが代々木公園で集い、イラン人たちが相互扶助のための一環で行っている炊き出しの、大鍋の前で食事を待っていた所に警察の手入れが入った。偽造テレフォンカードや麻薬密売の不良イラン人摘発の名目らしかった。棍棒を握った警察官たちの乱入に彼らは逃げ惑い、アクバルたちに掴みかかった警官の間に割って入って渡来も抵抗したが無駄だった。三人を含め大勢が連行され、アクバルたちはオーバーステイの容疑で入管に送られた。拘留後、彼らはすぐに強制送還になった。渡来にはどうすることもできず、ただ彼らの無事を祈り、眠れない日々が続いたのだった。
青々とした牧草地が果てしなく続くサラブレッド街道を過ぎて、襟裳国道から県道に入る頃には、視界は悪くなり、海の波は荒くなり、左には断崖やら湿地やら荒地やらが交互に現れる荒っぽい風景になってきた。歌に出てくるほど有名な襟裳岬のあるえりも町なら、きっと大きな町に違いないと思いきや、寒々しい小さな港町だった。天気の悪さも相まって、気分が沈んでくる。襟裳岬の、観光客が大勢居る中でジョエルを連れて歩くと、人々の視線がジョエルに集中する。「わー、ワンコだ」「犬が襟裳岬見てるよ」などという囁き声が聞こえてくる。岬は海を臨む展望台になっていて、鋭く尖った大地にまともに海風が吹き付けてものすごく寒い。ウインドブレーカーの襟を首まで立て、あたしは寒さに震えているのに、渡来は長袖シャツ一枚で平気な顔である。
あまりの寒さに渡来を急き立てて車に戻り、襟裳岬から国道を北上していくと、人家はなく、茫漠とした荒野、断崖絶壁に霧が立ち込めている。このあたりは黄金道路といって、建設するのに黄金を敷き詰めるほどのお金がかかったという。このような荒地にアスファルトを敷くのがいかに困難を極めたか想像してみる。今でもやたらに工事をしている。
今日は寒くて情けなくなり、話の続きを渡来に促す気も失せてしまった。道の駅であたしの車に渡来を招き入れ、二人無言で暖かい鍋をつついた。渡来の表情には疲労が滲んでいるように見えた。年寄りと犬と寂しい女の道行には寒い荒地の道東が似合う。あまり人がいない。今日の道の駅にもあたしたちしかいない。寂しさが募ってふとソラのことを考えた。
北海道に来て、まだ晴れた日が一日しかない。毎日曇りか雨が続いている。釧路湿原まで辿り着いたが、雨と霧でほとんど何も見えなかった。仕方がないので渡来と二人、展望台のベンチに座り、ジョエルを抱いたまま無言で遥かに霞む草地や川を眺めた。
釧路の先の小さな入江で車を停めて休んでいたら、目の前の海岸をキタキツネが通り過ぎて行った。灰色の岩肌と積み上げられたテトラポットの前にはこんもりとした茂みがあって、その前の砂浜に大量の昆布が打ち上げられている。どうやらその昆布を食べていたようだ。渡来とあたしは息を潜めてその野性動物を見た。キタキツネはふいにこちらに気づき、まるでジョエルに「お座り」と言う時のようにお座りをしてあたし達を眺め出した。まだ子供だろうか。愛らしい顔立ちをしているが、胸から背中、太い尻尾の先まで黒ずんでひどく汚れ、濡れそぼっている。が、その薄汚れて研ぎ澄まされた体躯は、灰色の海岸の風景と見事に溶け合ってひどく美しかった。大自然を相手に体を張って生きている命だ。それに比べ、飼い慣らされたジョエルはどこかふわふわと地に足がついていない。あたしたちが見詰め合ったのはほんの数十秒ほどだろうか、キタキツネはあたしたちを見飽きたのか、ふいにそのシャープな体を軽やかに持ち上げて行ってしまった。
夕暮れ時には草原にジョエルが鹿を見つけた。キタキツネの時には何故か黙していたジョエルだが、鹿には吠え付いた。鹿は立ち止まって、ジョエルを興味深けにじっと見ている。丸い愛らしい目に惹かれて車を降りて近づこうとすると、さっと長い後ろ足を蹴って駆けて行ってしまった。北の大地は野性の王国だ。
国道44号線をひた走り、根室の道の駅スワン44ねむろに到着すると、あたしと渡来は車を降りて体を伸ばした。人気のある道の駅で、駐車場は車中泊組の車でいっぱいだった。それもそのはず、オオハクチョウやタンチョウヅルが飛来する風蓮湖という湖の畔が駐車場になっていて、希少な鳥たちを間近で観察できる上に、湖や原生林を見ながら食事ができるレストランもあるのだ。あたしたちはジョエルを連れて湖畔をゆっくりと散歩し、日の落ちる瞬間の青と蒼が重なる幻想的な湖に見惚れ、一緒に夕飯を食べてそれぞれの車で眠りについた。
いつの間にか始まっていた老人と犬との三人旅。語り出したら止まらない渡来だが普段は口数が少なく、あたしも必要以上は話しかけない。どこまでも平らかでスローな日々なのだが、何だか自分がひどく年老いた心地だ。毎日冷たい雨と霧に包まれて視界不良の先が見えない旅路には、自分たちがこのままどこかに消えて無くなりそうな心細さがつきまとう。あたしたちはどこを目指し、どこに辿り着くのだろう。
翌日は嘘のような快晴になった。六月も末なので、晴れると暑いくらいだ。あたしは急にテンションが上がって俄然観光気分になり、渡来を引っ張って野付半島を目指した。標津の野付半島は、長さ約二十キロメートル、幅約百五十メートルの、地図で見ると一本の線のように細長い、野付湾に突き出した半島だ。遊歩道があり、往復一時間位で散歩できるようになっている。
ここのところ、あたしたちに影響されて寡黙になっていた犬が久々に張り切り、「よおっし、今日は歩くぞー」と勇んで先頭に立ってあたしをぐいぐい引っ張る。野付半島を代表する花、エゾカンゾウが低く咲き乱れている。その黄色い花々は可憐さとは無縁で荒野にきつく根を張り、暴威を奮って咲き誇っている。花畑の向こう両サイドは海だ。この半島の一番狭いところは幅わずか五十メートルほどなのだ。
風化したミズナラが残る「ナナワラ」と呼ばれる林は、特に渡来を惹きつけたようだった。白々とした剥き出しの幹が半分死にかけて、風に吹かれた形そのままに奇妙に傾げ、骸骨の軍団が永遠の歩みを止め一斉に無言の哀願をしているような、不気味な静けさを湛えて密生している。この半島が「この世の果て」と呼ばれる所以だろう。その林を、渡来は目を細め前のめりになって凝視している。行こうと促しても動こうとしない。その横顔を見ていたら、ふと畏怖を感じて背筋が寒くなった。
なんといっても二歳の若さで、あたしたちとは対照的に元気なジョエルは、ぜえぜえ言いながらも首を伸ばして先頭を歩いていたが、ついに道の脇の花の下に潜り込んでしまった。ずっと天気が悪く車に引きこもりがちで、それでも文句ひとつ言わなかった犬だが、今日は炎天下の中、後先考えずに張り切るから暑さにやられてしまったらしい。「陶子ちゃん、僕日射病だよ」咲き誇る花々の下でうずくまるジョエルを見て、渡来とあたしは声を合わせて笑った。この老人にはやはり笑顔の方が似合う。
野付半島から、あたしたちは知床半島の羅臼を目指した。あたしの提案だ。渡来は今やただあたしに付いてくるだけの老人となり果てていた。夜明けに射す薄日のような、絶えない希望のような、彼の根幹であると感じていた何かが、少しずつ損なわれ、惚けたようになっていく姿を、あたしは辛い想いで見ていた。都志を探すという目的すらも最早見失っているようだった。
羅臼町に着いた頃には曇天に変わっていて、ほの暗い空の下で見る根室海峡は黒く泡立ち、波に洗われた岩肌が屹立する海岸沿いを、あたしたちは港を目指して走った。がらんと広い殺風景な港に適当に車を停め、あたしたちは車から降りた。船はまばらで、水産加工場らしき建物があるだけの、物寂しい場所だった。早朝には水揚げがあって工場で立ち働く人々で賑わうはずだが、午後の遅い時間帯には人影すらない。町といってもコンビニやガススタンドを見かけた程度で店らしきものもなく、知床半島で一番大きい町のはずなのに、本当にここに人が住んでいるのだろうか。冬の雪はいかばかりだろう。
あたしと渡来は、ジョエルを連れて船のない埠頭の岸壁に並んで腰を下ろし、両足をぶらぶらさせながら黒々とした海を漫然と眺めた。沈黙が続き、あたしは渡来の話の続きを促そうと思った。それが渡来にとってほんの少しの気慰みになればいいと願って。
彼らが強制送還になってから二年ほどが過ぎ、その間渡来は会社を定年退職し、閑暇ながらも心穏やかな日々を過ごしていたが、頭の隅では絶えず連絡の取れなくなったアクバルたちの心配をしていた。彼らはイランに帰ってどんな暮らしをしているのだろうか。家族に十分な仕送りができなかった彼らなので、また困窮に陥ってはいまいか。日本に来たことは何の意味もなさず、ただ悪事を覚えただけで、イランでもまともな生活ができていないのではないか。
そうしたある日、渡来の元に一通のエアメールが届いた。アクバルからだった。住所はイランの首都、テヘラン。意外にもアクバルは英語が書けるらしく、日本で渡来に世話になったことへの感謝や、連絡が遅くなって申し訳なかったということ、共に強制送還になったアリやファルシードも元気なこと、自分たち三人は詳しくは言えないが、今は隣国とビジネスをしていて順調なこと、だから心配は要らない、渡来や彼の家族の幸せを願っている、とだけ簡単に綴られていた。
彼らが無事で居ることに安堵した渡来だが、隣国とのビジネスという部分が引っ掛かった。イランの隣国とはアフガニスタンやパキスタンだろうか。あのような貧しい国々と何を取引きすると言うのだろう? 思い当たるものがあるとすれば麻薬だった。アフガニスタンとパキスタン、イランの国境が交錯する地帯は後に「黄金の三日月地帯」と呼ばれる麻薬の一大生産地になりつつあった。アフガニスタン全三十二州のうち七州でアヘンの原料となるケシを栽培しているという。ケシから作り出されたアヘンや、アヘンを化学薬品で精製したヘロインを、イランの内陸部を通って周辺諸国や欧州に運ぶルートがあるのだ。
日本で覚えた麻薬ビジネスのノウハウを使って、母国で違法行為に手を染めているのではないか、という疑念が頭を掠めた。それは渡来にとって苦しい疑念だった。自分が路頭に迷う彼らの力になれなかったことが、彼らをあのような犯罪行為に走らせたのだ。渡来は自責の念に駆られた。
都志にはあなたの責任ではない、考え過ぎだと諭された。それでも渡来は拘り続け、その考えに囚われて、どうしても頭から消し去ることができなくなった。何故だか自分でもよくわからないが、単なる自分の思い込みに過ぎないと客観的に考える心の余裕を失っていた。
「イランに行こうと思う」
ある日渡来は都志に告げた。テーブルを布巾で拭いていた妻の手が止まった。驚きで見開いた目が痛々しかった。頬が引きつっている。
「イランに行ってどうするんです?」
「彼らを助け出す」
「何から?」
「麻薬組織」
都志は二、三歩後退ってキッチンの縁に背中をぶつけた。
「そんなことできるわけないでしょう。第一、彼らが麻薬取引をしているという確証はないのでしょう」
「それでもこの目で確かめないと気が済まない」
「狂ったの? 何があなたをそうさせたんです? わたくしや沙耶はどうなるの?」
「確かに私は狂ってるのかもしれない。自分でも説明がつかない。ただ、このままじゃどうしても気持ちが収まらないんだ」
沙耶の部屋の扉が僅かに開き、隙間から暗い瞳が二人を凝視していた。渡来は罪悪感で目を逸らした。都志はそれ以上、もう何も言わなかった。諦めたようにぐったりして、ソファに座り込んだだけだった。愛する妻や娘のそんな様子を見るとひどく気が引けたが、心にわだかまりを抱えたまま、この先生きて行けないような気がした。何もしなければ、そのことが後々自分を苦しめるだろうという予感がしたのだ。長い間、この数十年間、会社のため、家族のために生きてきた。もう六十を過ぎたのだからこれからは自分のために生きてみたかった。自ら進んで関わったことに責任を持つこと、親友と思い定めた人々の安否を確かめ、必要なら両手を差し出し掬い上げること、そしてそれ以上に真の人生を生きてみたいという身を焦がすような欲求が渡来を突き動かしていた。今、それが目の前にあるのだ。
遅くに所帯を持った渡来には家のローンも残っていたが退職金で全額返済していた。僅かな貯蓄の半分を持参することにし、北京経由テヘラン行きの航空券を買った。都志も一緒に行きたがったが長期間沙耶を置いて行くこともできず、泣く泣く断念した。蒼白な水面のような沙耶の顔は感情の欠片もなく、虚ろな目は動かず、渡来が旅立つ日も部屋から出てくることはなかった。すっかり諦めた様子の都志は兎も角、娘のことが気がかりで彼は本当に行くのかと自分の胸に再び問いかけたが、ノーという答えはそこにはなかった。
北京経由テヘラン行きの航空機には、大勢のイラン人が乗っていて、渡来を驚かせた。話をしてみると皆気さくで、日本で大金を稼いでテヘランに既に家を買った者、日本で稼いだ金で店を持つ夢を語ってくれた者、中には日本の女性を伴い、結婚してイランで暮らすのだという男も居た。意気揚々と帰る人を見ていると嬉しかったが、中には暗い目をして口を利かず、顔を上げようとしない者も居た。アクバルたちもその口だったろう。何故もっと力になれなかったのか、またしても渡来の胸を後悔が締め付けた。
テヘランの国際空港に着くと、出迎えの家族でごったがえず人々をかき分けてすぐにタクシーに飛び乗った。アクバルの寄越したエアメールの住所をドライバーに示す。これだけを頼りにはるばるイランまでやって来たのだ。ところがドライバーはよくわからないという。ダウンタウンの住所だから、とりあえずダウンタウンにあるイマーム広場までと言われ、朝の六時で他に行き場もないので、とりあえず乗せてもらうことにした。
車窓を流れる街並みに目を凝らしながら、これがあのイランかと渡来は呟いた。劇的なイスラーム革命のあと、イラクとの血みどろの戦いを経て、再び立ち上がろうとしている中東の大国。日本のニュースで流れていたのは戦争と、狂信的とも思えるほどの、イスラム教シーア派の過激な言動などの陰惨なイメージだった。横にくねくねと伸びる奇妙なペルシャ語の看板が次々と目に飛び込んでくる。英語の看板は無いに等しい。女性たちは皆、頭にスカーフを被って長いコートを着るか、黒い布で全身を覆っている。意外にビルが多いのに驚いた。北にうっすらと雪を被ったアルボルズ山脈が見える。山裾に広がる高い空の街、それがテヘランだった。
タクシーから降ろされ、とりあえず人気のないイマーム広場を一周してホテルを探す。一軒だけHOTELの看板を見つけ、シングルは無いと言われたのでダブルの部屋を値切って十五ドルにしてもらった。機内でも寝たのだがとても眠い。熱いシャワーを浴びて横になるとすぐに寝入ってしまった。
外が騒がしくなって目が覚め、時計を見ると十二時半だ。すぐに起きだして支度をし、アクバルのエアメールを握りしめ、拙い英語でフロントに住所を指し示して道を聞く。運良く、どうやらここからそう遠くない所らしかった。外に飛び出すと、途端に喧噪が襲ってきた。早朝の静けさが嘘のように広場は車と人で溢れかえっていた。バス停もあるが行先がわからない。街中を走るタクシーは乗り合いのようで乗り方がわからない。
戸惑っていると声を掛けられた。「日本人ですか?」振り向くとイラン人の中年の男が笑顔で立っていた。「ああ」「ワタシは群馬で働いていました。北海道や広島、長崎や日光にも遊びに行きましたよ」男はいきなり流暢な日本語で喋り出した。渡来が驚いていると「どこに行くの?」と聞いてくる。天の助けと、アクバルのエアメールの住所を見せると、男はしばらく考え込んでいる。「大体わかるね。こっちこっち」そして先に立って歩きだす。渡来は慌てて後を追った。「日本はほんと楽しかった。懐かしいね。ワタシ一年前にテヘランに帰ってきた。今すごく退屈」男は溜息をついている。
幾つかの道を真っすぐ歩いたり曲がったりしながら男は日本での生活を喋り続けた。ウチの会社ね、仕事はきつかったけど、給料もたくさん貰って今はそのお金で車の部品を扱う小さな店を持ったよ。日本のテレビは面白かった。お酒もたくさん飲んだ。地元のお祭りにも参加したよ…。ウチの会社、か。運のいい奴もいたんだな。稼げて良かった。アクバルたちのような運の悪い奴もたくさんいたのに。
男はふいに立ち止まると首を傾げ、通行人の別の男に声をかけてエアメールを見せた。しばらく二人は話し合っていたが、こっちだ、と通りがかりの男が顎で示して歩き始める。すると通りがかりの男がさらに別の男に声をかけ、三人になった。三人に連れられてビルと家々の間を縫い、裏ぶれた通りをぐんぐん歩いて行く。この連中についていって本当に大丈夫だろうか、と思いかけたその時、前を歩いていた三人が立ち止まり一軒の今にも崩れそうなマンションを見上げた。地震が来たらひとたまりもないだろう。「ここみたい」最初の男が日本語で言った。そして四人で階段を四階まで昇り、左側にある戸口の前で立ち止まった。「この家だ」男は髭面の顔に満面の笑みを浮かべている。思ったより若いのかもしれなかった。「どうもありがとう。助かりました」渡来が礼を述べると男はいやいやと手を振ってさっさと帰ろうとする。知らない異国の町で、こんなに簡単に目的地に辿り着いたことが嬉しく信じられない気持ちで、渡来は見知らぬ三人に何かお礼がしたくなったが、彼らはまたね、という感じでさっと行ってしまい、渡来はしばし呆然と立ち尽くした。
彼らが去ったあと、渡来はしばらく逡巡していた。さて、何と言ったものか。片言の英語は話せるが、果たして通じるだろうか。白い木製の扉を何度か叩いていると、やがて扉の向こうで人の気配がして、ギイと軋んだ音を立てて開いた。出てきたのは地味なスカーフで頭を覆い、踝まで届くくびれのないワンピース姿の太った婦人だった。何か? と言いたげに顔を上げて、突然現れた異国人を凝視している。渡来は焦ってハローと言った。狼狽える婦人にポケットから出したアクバルのエアメールを見せ、アクバルの名前を指し示した。婦人は目が遠いのかエアメールを手に取って顔に近づけ、裏にしたり表にしたりして仔細に眺めている。
「わたしはアクバルの友人です」
渡来は言った。
「彼を探して日本から来ました」
彼女は英語がわからないらしく、でもアクバルという名とジャパンをジャポンとイラン風に聞き取って、ジャポンジャポンと繰り返した。
「アクバルは居ますか?」
ノーノーと彼女は頭を振った。そして渡来の手を引いて家の中に招き入れてくれる。
けばけばしい絨毯を敷いた居間らしき所に通されると、十四、五歳に見える色白の少年が一人ソファに座っていたが、渡来の姿を見るとテレビを消し、さっと立って行ってしまった。婦人は身振り手振りで座れと言う。渡来はされるがままに壁際に据えたソファに腰掛けた。そこは六畳ほどのスペースで、家具は低いテーブルとソファ、それにメーカーのわからない古びたテレビのみで、テレビの脇には造花が飾られていた。カーテンの隙間から灰色の空が見える。他に部屋は二部屋ほどらしいが、玄関に散らばっていた靴の数からすると、ここに大勢の人が住んでいることがうかがわれた。
婦人はペルシャ語で盛んに何かまくし立てていたが、ジェスチャーからは待て待てと言っているように思われた。やがて婦人は奥の部屋に入ると、小さなガラスのコップに琥珀色の茶を淹れて現れた。茶には砕いた砂糖の塊が添えられていた。これがイランのチャイというものだな、渡来は思い、熱いチャイに口をつけた。
婦人が時折ペルシャ語で何か言い、時折アクバルと口に出し、「アクバルはどこ?」と渡来が尋ねると婦人が首を振る。その繰り返しで小一時間が過ぎ、渡来が諦めかけた頃、扉が大きな音を立て、若い男が一人帰ってきた。二十六、七歳だろうか。部屋の入口で渡来を見て驚いて突っ立っている。婦人が何か言うと男は破顔した。
「日本人ですか?」
若い男は英語を喋った。
「アクバルを探してる?」
「そうなんです」
渡来は片言の英語で自分は日本でアクバルやその友達のアリ、アリのいとこのファルシードと親しかったこと、アクバルたちが強制送還されて心配していたこと、アクバルからエアメールが来たので、日本から会いに来たことなどを説明した。若い男は理解し、自分はアクバルの三番目の弟だと言った。アクバルは五人兄弟の長男で家族の中で唯一、日本に出稼ぎに行ったのだという。婦人はアクバルの母親だった。
「それで今、彼はどこに?」
若い男は一瞬眉根を寄せ、表情を曇らせた。
「アフガニスタンか、パキスタンか、イランの国境に居る。たぶん国境。わからない」
「どんな仕事をしているんですか?」
アクバルの弟は首を振って、よくわからない、時々お金を送ってくる、自分たちは仕事がないのだと説明した。
「兄弟みんな仕事がない?」
「そう」
渡来は言葉が出ず、しばらく黙っていた。沈黙に耐えかねたように、アクバルの弟が言った。
「兄さんの仕事はあまりいい仕事じゃない。危険だと思う。会いに行かない方がいい」
「でも会いたいんだ」
痩せてハンサムなアクバルの弟は忙しい顔をしてノーノーと繰り返した。
「どうやったら会える?」
「たぶん国境の町」
「どこの?」
「イランかアフガニスタン」
「わかった。行ってみる」
渡来は膝を叩いて立ち上がった。母親と弟が真剣な目を投げかけている。母親が息子に何か言った。弟はそれを英語に訳した。
「食事をしていかないですか?」
「ありがとう。でも急ぐので」
渡来は断り、チャイのお礼を言って玄関に向かった。扉の内側で「やはり止めた方がいい」と弟がぶつぶつ言っている。それを制して母親と弟にさよならを告げた。
渡来はホテルに帰り、しばし思案に暮れた。イランのガイドブックなどは探しても出版されていなかったので、旅行の頼りと言えば紀伊国屋書店で買った中東の地図のみだった。漫然とアフガニスタンの箇所に見入っていると、何だか怖くなってきた。
内戦で疲弊しきったアフガニスタンに一九九四年頃に台頭してきたタリバンは、一九九六年のこの年には、急速に勢力を拡大しつつあった。アフガニスタンでケシの栽培が本格的に行われるようになったのは、一九九四年以降からで、タリバン政権が当時ケシの栽培を奨励し、ケシから得られる資金で軍事費を捻出していると言われていた。また、もともと雨量の少ない乾燥しがちな貧しい大地は、水をほとんど必要としないケシの栽培に適していた。アヘン取引のルートは二つあり、ひとつはパキスタン、イラン、トルコ、ギリシャ、ブルガリアなどヨーロッパ南東部を経て西ヨーロッパ市場に入る「バルカンルート」、もうひとつは「北方ルート」と呼ばれ、タジキスタン、キルギス、ウズベキスタン、トルクメニスタンからカザフスタンを経てロシアに入るものだが、どちらも後に莫大な利益をあげる産業となった。
アクバルたちは、「バルカンルート」でヨーロッパ諸国へのアヘンの密輸に関与しているに違いなかった。日本で覚えた麻薬取引の旨味が、日本の出稼ぎに失敗した彼らを密輸ビジネスに向かわせたのだろう。
地図で見ると、アフガニスタンとイランが国境を接している場所の大部分にキャビール砂漠という茫漠とした砂漠が広がっていた。ここへどうやって行くのだろう。手段が思い当たらない。アフガニスタンとパキスタン両国の国境に近いシスターン・バルチスターン州にザへダンという比較的大きな町があったので、渡来はその箇所にボールペンで印を付けた。どこまで行けるかわからないが、ザへダンで更なる国境へのアクセスを探ろうと思った。まずは無事にイランに着いたことを都志に知らせることしにして、ホテルを出てイマーム広場近くの電話局へ向かった。おそらく首都ぐらいしか国際電話をする手立てがないだろうと思われたからだ。
電話局は大きな建物だったがとても混んでいて、国際電話の前には長い行列ができていた。外国に出稼ぎに行っている家族にでも掛けるのだろうか。渡来は辛抱強く五時間ほど並んでやっとカウンターまで辿り着き、並んでいた間に周囲の人たちが教えてくれた方法通り、係員に「ジャポン」と国名を告げ、紙に自宅の電話番号と自分の名前を書いて渡した。しばらくして名前が呼ばれ、係員が指差したボックスへ入って受話器を取った。
「もしもし、あなたなの?」
懐かしい都志の声が遠くから響いてきた。渡来は受話器を握り締めた。
「今、テヘランに居る。これから国境に向かおうと思う」
電話代を気にしてすぐに本題に入った。
「沙耶は元気か?」
「あなた、国境ってどこの?」
「とりあえずパキスタンに近い国境の町ザへダンへ行って、パキスタンかアフガニスタンに入る道を探ろうと思う」
「沙耶は相変わらずよ。あなた、アフガニスタンに行くなんて危ないですわ。政情不安なのよ。麻薬密輸組織に接触するつもりなの? そんなことできっこないし、危険よ。お願いだからもうやめて帰ってきてください」
「ここまで来て帰るわけには行かない。アクバルの家族に会ったんだ。国境地帯に居ると弟から聞いた。何としても探すつもりだ」
「後生だから、お願いだから、やめることはできないの?」
「申し訳ないが決めたことなんだよ」
都志が黙したので渡来は電話を切ろうとした。すると震える声で都志が言った。
「わたしも行きますわ」
「何言ってる」
「あなたを失いたくない。あなたに何かあったらわたくし一人では生きていけません。危険なところへどうしても行くのなら、わたくしもお供します」
「馬鹿言わんでくれ。沙耶はどうする? 危険なことは俺が一人で…」
「ザへダンね? ザへダンという所に行くのね? わたくしもすぐ行きますから」
都志は渡来を遮り、都志には珍しい大声を出した。
「馬鹿言うんじゃない。沙耶を頼むよ。もう切るよ」
そう言って渡来は電話を切った。
テヘランから長距離バスに乗りイランの古都イスファファンでバスを乗り換えザへダンに向かった。バスでの旅は長かったが、それがイランの慣習なのか、乗務員がバラの香りの香水を乗客に振りかけてくれたし、渡来の座席周辺の乗客たちは食べ物を分けてくれ、休憩場所のレストランで食事をし、会計しようとすると「バスの乗客があなたの分も払ったから不要です」と言われる。スカーフを被った女性たちも、髭面の男性たちも子供たちも、みな一様に親切で人懐こかった。渡来のことを「ジャポン」と呼び、珍しがり、何かと気にかけてくれた。アクバルたちはこのような国で育ったのだと、渡来は深く納得した。
ザへダンは色彩のない町だった。美しかった古都イスファハンとは佇まいががらりと変わり、埃っぽい小さなバスターミナルに降り立つと、国境の町らしいどこか胡散臭い退廃した気配が漂っていた。人々の顔つきも険しいものを湛えている。色褪せた建物が並ぶ埃っぽい通りに、異様にカラフルなモスクがポツンと建っていて目を引いた。
倹約のために町で安いホテルを探し、初めてドミトリーというものに宿泊した。一ベッドいくらで、見知らぬ他人と同部屋になり、トイレやシャワーは共同。一ベッドが日本円にして三百円位だった。同部屋になったのは頭にターバンを巻いた立派な眉の男で、自分はバルーチ族だと言った。名はマルアシー。バルーチ族はイランとアフガニスタンの国境地帯に住んでいる遊牧民だ。と言っても彼は都市生活者で、パキスタンとの貿易の仕事をしているという。ジャポンを見たのは生まれて初めてだと言って笑った。これはいい所でいい相手に出会ったと渡来は思った。この男なら何かしら国境の情報を持っているに違いない。自分はパキスタンやアフガニスタンとビジネスをしているイラン人の友人を探している、と渡来は自己紹介した。アフガニスタンの国境に行きたいのだが、どうやって行けばいいのだろうかと尋ねてみる。マルアシーは太い眉をきゅっと寄せ茶褐色の瞳で渡来をじっと見、つと目を逸らした。それっきり黙り込んでしまった。
どうやら質問が単刀直入に過ぎたようだ。この男と親しくなるのが先だと渡来は判断した。ここザへダンは国境地帯なだけにデリケートな街なのだろう。二、三日ここに滞在して様子を探ろう。そう思い直して町へ出た。
マルアシーと同じ、頭に布を巻いたバルーチ族の姿が多く目についた。皆目つきが鋭い。チャイハーネを見つけて入り、店先のテーブルに座って、ひょっとしてアクバルたちが歩いていないだろうかと道行く人々に目を凝らした。
渡来にはガラクタに見える種々雑多な品物や中古と思われる粗末な服などを並べた露店をひやかして歩き、目についたモスクに入ってみることにした。特に見張りが居るわけでもなく、誰でも自由に入れるようだった。靴を脱ぎ、中に足を踏み入れた。白い柱が林立していて、高い丸い天井、壁の精巧なイスラム装飾に目を瞠った。多くの人の行き来で赤い絨毯は擦り切れている。
そこに蹲って祈る一人の年老いた男の姿に渡来はくぎ付けになった。男は正座をしてぶつぶつと何事か呟き、目を閉じて頭を絨毯に擦り付け、その同じ動作を一心に繰り返している。モスクの中は静まりかえっていて、男の呟く声だけが厳かに響いていた。宗教というものに関心のなかった渡来だが、見ているうちに男のことがとてつもなく羨ましくなってきた。何かをこんなに信じることができれば、自分の心に虚ろな空白を感じることもなく、もっと人生が楽になるのではないか。少なくとも贖罪の機会があれば、その相手がいれば、渡来にも祈りたいことはたくさんあった。それでも、特定の宗教を自分が信じることはまずないだろうとわかっていたので、それが妙に切ないのだった。
埃っぽい町を歩き回り、疲れるとモスクに行き柱にもたれて壁を見上げ物思いに耽り、宿に帰ると一日中部屋でゴロゴロしているマルアシーと片言の英語で喋った。彼にイスラムの教えについて問うと、物憂げに、しかし目だけは光らせて熱心に解説してくれた。イスラムは自由だ。アッラーにだけ従っていればいい、他の権威や偶像崇拝は一切認めない。人間はアッラーの前に平等で本質的に自由なのだ、アッラー以外の何者にも従わなくていいんだぞと。そんな言葉が印象に残った。お前はイスラムに改宗すればいいとも言われた。そんな日々が三日ほど続いた。
四日目の朝、宿の主人が部屋へやって来て、日本人の女の人が下に来ていると渡来に告げた。驚いた渡来がロビーに降りて行くと、スカーフを被って膝丈のコートを纏い、疲れ果てて土気色になった顔を空へ向けたまま固まっている都志が立っていた。イランでは外国人女性も例外なくスカーフとコートが必須だが、初めて目にするイランスタイルの都志は見知らぬ人のようだった。
「都志!」
「あなた」
渡来は駆け寄って妻を抱きとめた。
「どうして来たんだ、こんな所まで」
「だって」
「とにかく、横になった方がいい」
渡来が部屋へ連れて行こうとすると、宿の主人に引き留められ、他人の男と女性の同房は認められないと言った。ダブルの部屋があるので、夫婦ならばその部屋へ泊まれと言う。渡来は承諾して自分の部屋へ行き、マルアシーに事情を話して荷物をまとめた。すると彼はおもむろに渡来に告げた。
「イランからアフガニスタンの国境へは直接行けない。パキスタンのペシャワールへ行って、そこからアフガンの国境へアクセスするのが一番いい。国境を抜けたらジャララバードへ行け」
渡来は数秒あっけにとられて手が止まったが、すぐに笑顔になってありがとうとマルアシーに頭を下げた。彼はうるさそうにひらひらと手を振って、ぷいと横を向いてしまった。
都志を連れてダブルベッドのある小さな部屋へ入ると都志のスカーフを剥ぎ、ベッドに寝かせた。するとすぐに都志は寝息を立て始めた。渡来は妻の寝顔に見入った。よっぽど疲れたのだろう。一時も休むことなく長距離バスを乗り継いでここまで来たのだ。よくぞ俺の宿を突き止めたものだ。渡来はこんな辺鄙な場所で大事な妻を連れ歩く不安と、恋しかった妻に会えた歓びとがない混ぜになった複雑な気持ちで、自分もベッドの都志の隣に横たわり天井に広がる染みを見詰めていた。
二時間ほどして妻が目を覚ますと、どうして沙耶を置いてイランにまで来た、と渡来は妻を詰った。
「だって、わたくしたちは二人でひとつよ。いつもそう誓い合ってきたじゃない。沙耶は大丈夫。あの子だってもう大人なんだから一人で留守番していられます」
渡来はこれからイランの国境を越えて、パキスタンのペシャワールまで行くのだと話した。そこからハイバル峠を越えて、アフガニスタン東部ナンガルハール州の州都ジャララバードへ行くのだと。一晩寝て、明日出発する。都志は溜息をひとつついた。
「どこまでも行きますわ。そのために来たのだから」
あたしたちはその夜、知床横断道路沿いの羅臼キャンプ場に泊まった。森に包まれた駐車場にはたくさんの車中泊組が停まっていた。清掃管理料が三百円だったが夜着くと無料なのだ。国道を挟んだ向かいには熊の湯という露天風呂があって、渡来を風呂に入れたかったあたしは、嫌がる老人を促し、温泉に足を運んだ。
橋を渡った原生林の中に男湯と女湯があるのだが、真っ暗で足元も覚束無い。すぐ下が川になっているらしいが暗くて何も見えない。掘っ立て小屋のような脱衣所があって、お湯は乳白色の岩風呂だ。ランプ一つの明かりの中、数人の裸体が蠢いている。手探りのようにして風呂に浸かった。上がってきた渡来はのぼせてふらふらになっており、彼を支えて橋を渡り駐車場に戻った。「熊の湯」という呼び名だけあって、クマでも出そうな温泉で、あたしにはワイルドで楽しいのだが、渡来は疲れたようだった。日に日に渡来が弱っていくようで悲しい。どこかが苦しい、痛いと言うわけではない。痩せて皺がいっそう増え、あたしは躍起になって手料理を食べさせようとしたが、食欲もない。生きようとする意思が萎えている。どうしたらいいのかあたしは当惑していた。
翌日は、海岸線を網走まで走り、網走湖、内陸へ入って屈斜路湖、摩周湖と湖を彷徨う。北海道の地には数え切れないほどボコボコと穴が開いているのだ。そして道東の大地は無限に広い。人間のコントロールの範疇をとうに超えている。牧場では濃い霧のため足しか見えない牛たちが緩慢な動きで草を食むのが垣間見え、白樺の林の中には時折鹿が現れた。霧を透かして立派な角がゆらゆら揺れるのを車中から垣間見ると、はっとして手が止まる。
マリモで有名な阿寒湖にやって来た。観光地らしく周囲にはホテルが建ち並び、遊歩道も整備されている。天気もよく、湖面に明るい日が射して光り、保養地らしく輝いて見えた。ひと目で気に入ったので、あたしはここでしばらく休むことにした。阿寒湖に道の駅はなく、湖畔のパーキングが一泊四百円もしたが、渡来のためにあたしが支払うことにした。数日滞在して彼を休ませなければならない。
阿寒湖には道内最大のアイヌコタン(アイヌ村)があって、約百二十人のアイヌが暮らしている。だいぶ観光化されてはいるが、アイヌの文化にたっぷり浸れる場所だ。トーテムポールが立ち並ぶ通りには二十数軒のアイヌの民芸品屋やアイヌ料理レストランなどがあり、不思議に寛げる。どこか懐かしい感覚があるのだ。アイヌは縄文人の末裔と言われているし、アイヌ語は日本で最も古代の言葉に近いという。原点回帰の感覚だ。
シアターでアイヌの古式舞踊が見られるというので、せっかくだからと渡来を引っ張り二人で鑑賞した。ムックリの音色と歌声が響く青を基調とした舞台で、色とりどりの刺繍が施された衣装に見惚れ、カムイ(神々)や自然に感謝を捧げるゆったりとした動きのアイヌの踊りを見ているうちに、人と動物と自然とが一体となって生きていた原始の世界に引き戻されていく。
夜は観光客を集めて松明行進があった。疲れている渡来を連れ出すのには躊躇いもあったが、彼にも見て欲しくて誘い出した。アイヌの火の神「アペカムイ」と北の大地に感謝する祭りで、手に手に松明を持った人々が夜の闇の中を温泉街からアイヌコタンにしずしずと進んでいく。やがて広場に到着すると、そびえ立つ二本の柱の間のアイヌの祭壇に火を灯す。燃え盛る炎を見ていると、心の底があぶり出されるようで羞恥で体が熱くなるが、と同時にやすらぎも感じる。横に並ぶ渡来の顔そっと見やると、炎に照らされて赤くなった顔を振り仰ぎ、何を考えているのか放心した目を虚空に放っていた。
翌朝は遅めに起きて、快晴の空を見たら散歩がしたくなった。湖畔の森に遊歩道が続いており、あたしたちは木漏れ日を感じながら緩緩と歩いた。途中、犬連れのご夫婦と出会い、ジョエルが摺り寄って行ったので彼らと立ち話をした。道内から観光に来ていて湖畔のホテルに泊まっているらしい。埼玉から来ましたと言うあたしと、やつれ果てた老人の取り合わせを、彼らは不思議そうな目で見ていた。
美幌峠を越え、再び網走市に出て、能取岬から先はオホーツク国道をひた走る。右にオホーツク海、左は荒野。色のない海、大地を侵食せんばかりに打ち寄せる波に心が凍り付いていく。冬には流氷が浮かぶのだ。茶褐色の大地とまばらな草木、生き物の気配がない。押し潰されそうな鈍色の空。時々思い出したかのように建物が現れる。この殺伐とした荒野と荒海の大自然は、日本ではなくすでにシベリアだ。
サロマ湖を過ぎ、小さな湖をいくつも抜けて紋別市の道の駅で一泊する。地元の小さなスーパーで買ったオホーツク海産の生ダコを刺身にすると、今まで食したことのないほど新鮮な滋味が口中に溢れた。渡来も珍しく食欲を見せ、「これは人生で一番美味しいタコだ」と言いながら、白米と一緒に貪り食べた。そしてふいに顔を上げてあたしを見詰める。
「どこまで行くつもりだね?」
「この世の果てまで」
「中心じゃなく?」
「中心じゃなく」
あたしは答えた。
日の出岬は見渡す限り百八十度のオホーツク海で、密漁は禁止なのに、岬にはウニの殻が散乱していた。それをまたジョエルが次々と口に入れるので難儀した。馬鹿な犬だ。あたしは少し捨て鉢な気分になっていた。オホーツクに来てから、ジョエルも無言になっている。北のユリ、エゾカンゾウが冷たい風に吹かれてひっそりと咲いていた。
クッチャロ湖キャンプ場に泊まることにする。クッチャロ湖は周囲二十七キロメートル、日本とロシアの間を渡る水鳥の中継地でコハクチョウが飛来する、ラムサール条約登録指定地だ。湖畔にはキャンプ場の他に温泉施設なども完備されていた。
闇が舐めるような星々に埋め尽くされ、月はない夜だった。誰かが焚く焚火の火が爆ぜる音が耳に心地よく響いてくる。老人と二人、湖畔に足を投げ出して座り、温泉に浸かった後の気怠さの中で、このまま暁の頃まで黙って星を見ていたいと思った。名も知らぬ鳥たちが、時折低く鳴く声が響いてきて、ここが地上であることを思い出させてくれる。
「都志さんは、戻って来ると信じてるんですか?」
「信じてるよ」
あたしは次の言葉に窮してしばらく迷い、思い切って疑念をついに口にした。
「都志さんは生きてるんですか?」
老人は黙ったまま、水平線の彼方にしばらく目を遣っていた。その目には今まで見たことのない鋭さが宿っていた。
「さて、どこまで話したっけな」
老人は砂の上で足を組み直した。
ザへダンでの翌日の朝、都志を連れた渡来は、国境行きの乗り合いタクシーに乗った。国境までの間に検問所が六ケ所くらいあり、その度に兵士にパスポートの提示を求められ、都志はことさらにジロジロと見られた。日本女性を見るのが初めてなのかもしれない。国境の審査はかなり甘く、パキスタン側も甘く、こんなもんかと渡来は面食らった。係官はみなやる気がなさそうに見える。国境で七十二時間のパーミッションが取れたので、七十二時間以内にペシャワールまで行き、正式なビザの申請をしなければならない。パキスタン側のイミグレーション近くから国境の町タフタン行きの乗り合いトラックがあり、二人は荷台に飛び乗って、都志は被っていたスカーフを脱ぎ捨てた。
「ああ、イスラム教って厄介ね。女性の髪は男性をむやみに誘惑すると思われているのよ」
「わたしはあなたの髪に誘惑されるね」
「あらやだ」
都志は頬を赤らめて、口元に手をやって微笑んだ。そんな妻の姿が十五の少女のようで渡来には可愛かった。やはり妻が傍に居てくれると思うと素直に嬉しい。
タフタンに着くと、すぐに西部の町クエッタ行きのバスを見つけて乗り込んだ。これからバスで二十時間の砂漠の横断だ。
「イランに来たばかりなのに、パキスタンに行くことになるとは思わなかったわ」
都志は笑った。バスには冷房がなく、窓は所々割れたりひびが入っていたりして、そこから入ってくる風で都志の髪は四方八方に飛んでいた。砂漠の埃も入ってきて、都志はスカーフを口元に巻き付けた。窓の外には赤茶けた砂の不毛な大地が広がっていた。草木さえもほとんどない、灼熱地獄だ。砂で白く汚れた顔に汗が流れて筋ができ、渡来と都志はお互いのひどい顔を見て笑い合った。ミネラルウォーターなどないので喉の渇きに苛まれ、休憩所でのチャイが待ち遠しかったが、トイレがないからと都志はチャイさえ口にしなかった。
クエッタに着くとすぐに長距離バスターミナルを探した。何やら不穏な空気が漂う高原の町は乾燥して焼け付くように暑い。二十時間のバスの旅で疲れ切った都志をホテルで休ませたかったが、なにせ時間がない。七十二時間以内にペシャワールに行かねばならないのだ。町の中心部に広がるバザールなどを見て歩きたい誘惑に駆られたが、二人は慌ただしく北西部のペシャワール行きのバスに飛び乗った。今度はアフガニスタンの国境沿いの山岳地帯をひた走るのだ。二十四時間はかかるらしい。
夜の休憩所で二人がカレーを食べている間、乗客の人々は草地に布を敷いてメッカの方角である西の方を向き、アッラーに祈りを捧げていた。仄かなランプの明かりだけの暗い夜に、静かな月の光が彼らの背中を照らしていた。イスラム教徒の祈りの姿だけは、例え彼らが普段どんなに騒々しく悪辣であったとしても、それを忘れさせるほどの威厳とひたむきさがあった。渡来と都志はしんとした心持ちになって声も無く彼らを見詰めた。
ところが夜のバスはとんでもないことになっていた。ミュージックテープが大音量で流され眠ることができない。おまけに同乗のパキスタン人によると、朝まで休憩はないだろうという。エアコンの無い蒸し暑いバスの中で鼓膜を突き刺す音楽に苛まれ、人々はうめき声をあげている。渡来も声にならないうめき声をあげていた。バスの窓に曙光を見た時の嬉しさは表現できない。おまけに窓の外には田園風景が広がっていて、気が付けば牛やヤギがのそりと歩く牧歌的な道を走っていた。目を固く閉じたままの都志を揺り起こして、夜明けの空の下で静まり返る田んぼや、風にそよぐ草花を感嘆の思いで見詰めた。神が作った原初の風景があるとしたら、こんな所かもしれないと思った。
ペシャワールのバスターミナルは広く、大きな荷物を背負って東へ向かう人、西へ向かう人、甲高い声で男たちに指図するシャルワールカミースという民族衣装姿の女性たち、負けじと怒鳴りかえして走り回る白や土気色のだらりとした民族衣装の男たちで溢れ返り、ものすごい喧噪に満ちていた。バスターミナルの規模で町の規模がわかる。この北部辺境に近いバレーに囲まれた盆地の町はかなり広いのだろう。
小さな荷物を抱えて二人はリキシャーに乗り、安宿の多い市内中心部の旧市街へ向かった。リキシャーの男に勝手にヤドガー・チョークという広場に位置する安宿の前で降ろされたが、そこはバザールの真っただ中だった。とりあえず粗末なツインベッドと机が一つあるだけの狭い部屋にチェックインして荷物を降ろし、数十時間ぶりに二人は横になった。薄い壁を通してイスラム教の祈りの呼びかけ、アザーンが聞こえてきて、その心地良い響きに渡来は身を委ねた。アザーンを聞くと異国にいるのだという実感が胸に迫ってきてぞくぞくする。眠ってしまいそうだったが、眠るわけにはいかなかった。
その日はパーミッションを携えて、パキスタンの正式なビザを取得するのに一日の大半を費やした。九十日間のダブルビザが取れ、ペシャワールでアクバルたちを探し、見つからなければアフガニスタンに行く算段をするだけの時間が稼げた。
旧市街には宝石類を集めたジュエリー・バザール、皮製品を集めたモチ・ララ・バザール、野菜市場や女性の装飾品を集めたバザールなどが広がっていて、散策するのに楽しい場所だった。装飾品のバザールでは都志が細かい細工の施されたシルバーのブレスレットに見入っていたので、渡来は都志のために買ってやった。都志が少女のようにはしゃいでそれをはめて見せるのを見て、渡来は幸せな気持ちになった。通りには果物やジュースの屋台が点々と続き、腹の具合も気にせず渡来はさとうきびやオレンジのジュースなどを試した。パキスタン人は人懐こい笑顔で道を歩けば次々とジャパニ、ジャパニと声をかけてくる。両替商がたくさんあり、彼らは持ち金を少しずつ両替して暮らすことにした。イランのような絢爛たる歴史に裏打ちされた優雅さは微塵もないが、この雑然とした未開の地のような騒々しい町が渡来は気に入った。
翌日からは安宿を片っ端から当たって、アクバルたちを探してみることにした。アフガンとの往復でビジネスをしているのであれば、パキスタン側の拠点はこの町である可能性が高い。ペシャワールの旧市街を二人は歩き回り、安宿から中級クラスのホテルを見かけると入り、宿泊客の中にアクバルたちの名前がないか尋ねた。手分けして探すのが効率的だが、都志をこの町で一人歩かせるのには不安があった。同じイスラム圏のイランもそうだが、異教徒の女が一人で外を歩くのは無防備過ぎた。歩き疲れ、日が暮れると宿に帰って泥のように眠った。そんな日々が一週間続いた。全て回り終えると、新しくイラン人が宿泊する可能性もあると思い、最初から回り直した。
ある夜、宿の近くの食堂で遅い夕食を摂っていた二人のテーブルに三人のパキスタン人の男が近づいてきた。入口付近に座っていた二人を通りすがりに見かけた様子だった。遠慮がちな笑顔の三人は、渡来にジャパニか、と問いかけた。そうだ、と渡来は答えた。食事をしていると話しかけられることは頻繁にあるので、渡来は気にしなかった。彼らは単に外国人が珍しく、喋ってみたいだけなのだ。一緒に座ってもいいか、話がしたいと英語で言われ、渡来は都志の顔を見たが、都志が頷いたので構わないと言った。自分たちは学生で、日本に憧れていると彼らは言った。そして日本の話をしてくれるようにせがまれ、飲み物を奢らせてくれと、渡来たちの分までコーラを注文しに行って、五人分のコーラを抱えて戻ってきた。
話は盛り上がり、拙い英語ながら渡来は日本の経済、政治、生活、物価など問われるままに話して聞かせた。都志は日本の食べ物について微に入り細を穿って説明してみせた。納豆や、刺身などの生魚の説明やその食べ方では特に盛り上がり、自分たちはとても食べられないだろうと彼らは笑って頭を振った。彼らは自国の経済状況や生活水準を憂い、大学を出ても職を得るのは難しいと嘆いた。日本に行きたいがビザは取れるか、仕事はあるかと問う。わからないと渡来は答えた。日本での住所や電話番号を教えてくれないか、手紙を書くと言われ、快諾してノートに手を伸ばしたところで、渡来の記憶は途絶えた。
次に目を覚ましたのは、裸電球がひとつ灯ったきりの、薄暗い壁に囲まれた小さなベッドの上だった。頭が重く意識が混濁して自分が何をやっているのかよくわからない。ぼんやりと男たちの影が見えていて、恐ろしさに彼の頭はパニックに陥ったが、体が思うように動かない。そこが自分の宿の部屋だと気づくのに数分を要した。
「ワタライさん」
どこか見覚えのあるような顔が呼びかけている。
「ワタライさん」
「ワタライさん!」
他の男たちも渡来の名を口にした。はっと思って隣のベッドを見遣るとそこには都志が横たわっていて苦し気にもがいていた。
「都志!」
渡来は無理やり口を開いて必死に妻の名を呼んだ。手足が訳も無くバタバタと動いた。
「奥さんは大丈夫」
男の一人が言った。その顔に確かに見覚えがあって、渡来は思わず叫んだ。
「アクバル!」
男たちはほっとしたような笑みを浮かべて渡来の目を覗き込んでいる。
「ファルシード、アリ!」
あんなに必死に探し求めていた男たちが、何故か今、自分たちの部屋に居る! 幻だと思った渡来は目を瞑った。信じられない。これは一体どういうことなのか?
「ワタライさん、生きてて良かった。命、一番大事ね。奥さんも。生きてて良かった」
「どうして…」
「飲み物の中に、眠る薬入れられた。あの男たち、悪い人たち。ワタライさん、お金全部盗られたよ。奥さんのもたぶん。でも生きてるから良かった」
「あのコーラに?」
「そう。外国人は狙われるね。パスポートは盗られていない。良かった」
「この宿は?」
「店の人が知ってた。店の人、ワタライさんたちが眠ってしまって、お金盗られるの見てた。ジャパニがジャパニがってみんなで騒いで外でも騒いでて、ワタシたち歩いてて聞いた。ジャパニなら助けなくちゃって思って、来てみたらワタライさんたちだった。びっくりしたね。店の人がジャパニのホテル、知ってた」
ひどく混乱している上に、頭の中でブルドーザーが轟音を響かせているような不快な頭痛がした。渡来は目を開けていられなくなって瞼をきつく閉じた。アクバルたちはしばらくペルシャ語で話し合っているようだったが、「もう大丈夫と思うからワタシたち帰るね。明日また来る」と言って帰ろうとする。「あ、アクバル、明日必ず来てくれ」渡来はアクバルの背中に必死に呼び掛けた。「必ず来るよ」彼は笑ってウインクした。
その後、渡来はすぐに再び眠りに落ちてしまい、次に気が付いた時には朝になっていた。痛む頭を抱えて起き上がり、隣の都志を見やると、ベッドに半身を起こしたまま悄然としている。渡来が都志に事情を説明すると、都志は悲鳴を挙げて服やバッグを探り、中身を確認した。財布の中はごっそり小銭まで抜き取られていたが、腹に巻いた貴重品袋にはパスポートと百ドル札が残っていた。渡来のパスポートも無事で、金は無くなっていたが、バッグパックの底に数百ドルとクレジットカードを封筒に入れて隠してあったので、当分はもちそうだった。自分たちは迂闊だったが、命とパスポートがあっただけ運が良かったのだ、と渡来は都志と話し合った。悪質な輩なら殺されていただろう。アクバルたちが二人を担いでホテルに連れ戻してくれたことも話した。悪運が生んだ奇跡的な邂逅だ。やはり彼らはこの町に居たのだ。
翌日の午後になってアクバルたち三人が連れ立ってやって来た。改めて助けてくれた礼を言うと彼らは笑って手を振った。アクバルは少し老けたように見え、アリは痩せて目つきが鋭くなり、ファルシードは顔中を覆う髭がやつれた印象を与えていた。三人共に笑顔を絶やさなかったが目に陰りがあるのが気になった。
「ワタライさん、どうしてこんな所にいる?」
アクバルが尋ねた。君たちを探しに来た、と答えると三人は驚いた顔をした。
「どうして?」
「アクバルがくれたエアメールに、パキスタン、アフガニスタンとビジネスをやっているとあった。そのことが気になったんだ」
アクバルが顔を背けた。あとの二人は俯いている。
「まさか、麻薬の取引じゃないのかい? 日本で麻薬取引の旨味を覚えたろう? またここでやっているんじゃないのか?」
「ワタライさん、違うよ。ワタシたち絨毯のビジネスしてるだけ」
アクバルは言い張ったが、ファルシードは真っすぐ渡来を見詰めていた。小指と薬指のない左手を右手で覆っている。その様子を見て、渡来の胸の痛みが蘇った。
「本当か?」
三人は沈黙していた。長い沈黙だった。安宿の薄い壁を通して、隣の部屋の話し声が聞こえてくる。
「正直に話してもらいたいの。本当のことを聞くために、わたくしたち、ここまで来たの」
都志がゆっくり穏やかな声で言った。アリが都志の柔和な眼差しを見詰めている。
「麻薬のビジネスは儲かる。他にワタシたちができることはない」
アクバルが吐き捨てるように言った。太い眉が吊り上がっている。
「でも麻薬ビジネスはイランでも犯罪だろう?」
「死刑だ」
ファルシードが唐突に鋭い声を出した。渡来はたじろいだ。都志も息を詰めている。
「ワタライさんを信じてる。誰にも言わないで。ポリスに言わないで」
「そんなことは言わない。ただ君たちが心配だ。麻薬ビジネスなんて止めて欲しい。それが言いたくてはるばる日本から来た」
アクバルが下から掬い上げるような眼差しで渡来を見ていた。両目が潤み、おどおどとして落着きなく腰を動かしている。
「でも止めるのは難しい。組織から抜けたら殺されるかもしれない」
アリが言う。それきり三人は俯いてしまった。渡来はふいに激しい感情が沸き上がってきて、どんと傍にあった机を叩いた。二度、三度叩いた。
「どうしてこんなことになってしまうんだ!」
「あなた」
都志が涙ぐんでいる。アリもファルシードも泣きそうな顔で渡来を見ていた。どうにもならない深みに嵌リ込んだのだ。日本からここまで苦労してやって来て、何もできないのか。彼らは行くも地獄、帰るも地獄の絶体絶命の中に居る。いずれ命を失うことになるだろう。そう考えただけで心臓の鼓動が激しくなり息苦しくて、渡来は口を開けてハアハアと息をついた。
「逃げよう」
渡来は苦しい息の中で言った。イランに渡航前に眺めていた世界地図を思い出していた。イランという広大な国が世界でどんな所に位置しているのか、飽かず眺めていたのだ。
「イランの北のアゼルバイジャンなら入れるだろう。イランにはたくさんのアゼルバイジャン人が住んでいるじゃないか。そこから隣のグルジアに入って黒海を渡ってルーマニアに行け。そこからオーストリア、その隣がドイツだ」
「逃げるなんて危険だ」
「仕方がない。このままでは死んでしまうぞ。ドイツに行けば仕事があるだろう。まっとうな仕事をして家族に仕送りをすればいい。君たちはもう二度と日本には戻れないのだから、ドイツに行くしかない」
渡来の背中をさすっていた都志がうんうんと頷いた。
「そうよ。逃げるのよ」
「アゼルバイジャンの国境まで送っていく。私らが一緒で観光客を案内していると言えば怪しまれないだろう。今日にも経つんだ。君たちがここに来たということは、今は時間があるんだろう。何も言わずにこの町を立ち去るんだ」
「宿に戻らないと。金がないよ」
「金ならある」
三人の目が泳いでいた。しかし渡来は決心していた。このまま消えてしまえば、当分は気が付かれずに時間を稼げるかもしれない。
渡来は荷物をまとめ宿にチェックアウトを告げ、戸惑う三人を急き立ててバスターミナルへ急いだ。ターミナルで数時間待たされたが、夕方発のクエッタ行きを捕まえ、五人分の金を払って乗り込んだ。元来た道を辿る旅が始まった。着の身着のままで出てきた三人の飲食や交通費を払ってやり、クエッタからイラン国境のタフタン、イランのザへダンへとひたすら走った。ザへダンで一泊して翌日はイスファハン、そしてテヘランへ。家族には会わせてやれなかった。彼らも会いたいとは言わなかった。テヘランからバスで十一時間かけてアルダビールへ。アルダビールはアゼルバイジャンとの国境が迫り、標高が高い高原都市だ。アルダビールから二時間ほどバスに揺られれば、国境の町アースタラーがある。カスピ海沿岸であるこの町の中にアゼルバイジャンとの国境が走っている。国境検問所の前まで来て、三人に別れを告げた。徒歩で国境を越えて、アゼルバイジャンの首都バクーへ向かうのだ。渡来は有り金の数百ドルを全て、アクバルたちに押し付けた。
「ワタライさん」
「何も言わなくていい」
アクバルは泣いていた。ファルシードもアリも泣いていた。
「泣くんじゃない。国境で怪しまれるだろう」
「アリガトウ。ドイツに着いたら日本に手紙を送るよ」
「ああ、待ってる。死ぬんじゃないぞ。必ずヨーロッパに辿り着いてくれ。手紙を待ってる。元気で」
「どうかご無事でね」
都志が祈るように両手を前で組み合わせた。渡来は三人それぞれと握手をして肩を叩きあった。
クッチャロ湖で日の出を見てから、あたしたちは宗谷岬へ向かった。いよいよ北海道旅行のハイライト、日本最北端まで到達するのだ。天気は相変わらず悪く気温は十二、三度で涼しい日が続いている。最北端には鉛を溶かしたような色の海が広がっていた。曇天が海の色をさらに沈ませている。黒い波。ここが最果て。遠くの岩陰にゴマフアザラシが動いているのが見えて、手すりに寄り掛かった人々が指差し合っている。
宗谷岬には、数段の階段上に「日本最北端の地」と彫られた碑文があって、その後ろに三角形の低い塔があり、その前で記念写真を撮るためにたくさんの人々が順番待ちをしていた。あたしたちも列に並んだ。「あら、ワンちゃんも最北端?」周囲の人々がジョエルを見遣って微笑む。記念碑の前でジョエルを抱きかかえたあたしを渡来がカメラに収めた。渡来は記念写真に写りたがらなかった。一人で写るのは嫌だというのだ。都志がいない、と。
稚内でしじみラーメンを渡来に御馳走した。あっさりしたスープに縮れ麺のラーメンに、大きなしじみがゴロゴロ入っていて潮の香りがし、本州で食べるラーメンのどれとも違っていた。今まで食べたラーメンの中で一番おいしいと感じた。
ショルダーバッグの中の携帯が突然鳴り出したので、慌てて取り出し渡来に会釈してから電話に出た。
「陶子ちゃん?」
ソラだった。懐かしい細い声が鼓膜を震わせる。
「何度も電話したけど、電波が届かない場所だって言われてボク焦ったよ」
「ずっと北海道の森とか原野とかに居るから」
喋りながらあたしはラーメン屋の外に出た。何故だか渡来に会話を聞かれたくなかった。
「元気だった? 旅は順調?」
「うん、順調だよ」
「会いに来てくれないの?」
「会いたいよ…」
あたしは言い淀んだ。今の気持をソラにどう説明すればいいだろう。わかってもらえるとは思えなかった。
「前に言ったよね。ボクたち会わなければダメになるって。それとも他に彼氏でもできた? 旅では色んな出会いがあるもんね。陶子ちゃんはボクと違って自由があるから誰とでも付き合えるよね」
面倒くさいセリフを吐き出したソラが滑稽だった。拗ねたり嫉妬したりする人だったんだ。だが恋の途中にはそれも有効だ。あたしは電話口で続くソラの繰り言を、あたしへの一途さと前向きに受け止め、聞き流した。
「来てくれるよね?」
「うん。考える」
別に焦らしているわけではない。本当に検討の余地があると思っているのだ。それなのにソラはイライラとした口調で仙台へ来るように繰り返した。いつ強制送還になるかわからないのだ、このまま会えなくなってもいいのか、陶子ちゃんは卑怯だ。あたしは聞き流して電話を切った。
10
アクバルたちを送り出した渡来はすっかり気が抜けてしまい、その場でへたり込み動けなくなっていた。都志が「あなた、あなた」と呼ぶ声が遠くで聞こえる。これで果たして良かったのか、自分のしたことは正しかったのかと自問していた。ドイツに向かう途中で彼らが命を落とす羽目になれば自分の責任だ。急に居なくなった息子たちを、家族も心配することだろう。そんな危険を冒してまでやる価値があったのか。考えても答えは出なかった。
「あなた、帰りましょう」
都志が渡来の肩を叩く。そうだ、帰ろう。ことの是非は兎も角、自分は最善を尽くしたのだ。家に帰ろう。
「テヘランのアクバルの家族に知らせよう。そしてアリやファルシードの家族にも知らせてもらおう」
「そうね。そして家に電話しなくちゃ」
都志はもう気もそぞろになっていた。
テヘランに戻り、アクバルの家を訪ね、アクバルたち三人がヨーロッパに向かったことを告げると、アクバルの母親は衝撃を受けたようだったが黙って頷いた。そして涙を流した。何の涙だったかはわからない。嬉し涙か、息子を遠くへやった悲しみの涙か。麻薬密売組織の追手がアクバルの実家を突き止め、家族を脅迫するかもしれないとは思ったが、その時には彼らは既に欧州へ抜けているだろう。
テヘランの電信電話局に再び一日並び、日本へ国際電話を掛けた。だがいくら都志がコールしても繋がらない。沙耶は家から出るような娘ではないはずなのに。そのため都志は一カ月分の食料を家に備蓄してきたのだ。
「おかしいわね、あの子が電話に出ないなんて。あたしたちからの電話だとわかるはずなのに」
都志は首を傾げたが、国際電話は一人一回しか掛けられない。明日また並ぶしかなかった。
次の日も朝から二人で並び、順番が回ってきたのは夕方になってからだった。二人して立ちっぱなしの痛んだ足を引き摺りながら交換台の女性に電話番号を告げて、電話を掛けたが沙耶は出ない。コール音を聞きながら、都志の顔色が土気色に変わっていく。
「おかしいわ。あの子が電話に出ないはずない。何かあったんだわ」
沙耶の身に何か起きたのかもしれない。そう思うと渡来の心臓はバクバクと音を張り上げ、吐き気がしたが、明日自分の妹のところへ掛けてみようと言って都志を宥めるしかなかった。
翌日、今度は一人ずつ分かれて並び、都志は義妹、渡来はもう一度自宅に掛けてみることにして、二人は少し離れて電話局の列に並んだ。日も暮れかけ、先に並んでいた都志が係員に指示されてボックスに入るのが見えた。渡来はその都志の背を見詰めていた。と、都志が突然森の野鳥のような鋭い悲鳴を一声挙げたかと思うと、受話器を離してその場に崩れ落ちた。渡来は列を飛び出し都志を抱き起すと、「もしもし、もしもし」と受話器に叫んだ。
「兄さん、義姉さんは大丈夫?」
わたしの妹のくぐもった声が響いてきた。
「何があった?」
「沙耶が亡くなったのよ。自殺らしいの」
渡来は都志の首を抱えたまま、その場にペタリと尻をついた。ザーッザーッという耳障りな雑音が一瞬妹の声を掻き消した。
「兄さん、兄さん!」
「ああ、聞いてるよ」
「暑いんで、早めに火葬するしかなかった。兄さんたちに連絡が取れなくて困っていたのよ」
「ああ」
「兄さん?」
「ああ、聞いてる」
「頼むから早く帰ってきてちょうだい」
「わかった」
「本当に帰ってくるのね?」
「ああ、すぐ帰る」
渡来は電話を切って、悪い冗談なのだと咄嗟に思った。しかしあの真面目な妹にしては人の悪過ぎる冗談だ。でも意識を失った都志の顔を見下ろしている間に冗談ではないことがわかってきた。人が集まってきて皆口々にペルシャ語で何か言っていた。病院に連れて行けと言っているのだろう。渡来は都志を両腕に抱き、人混みを掻き分け外に出てタクシーを拾った。宿に帰る道すがら、心臓を頭に移植したみたいに頭の中で爆音が響いていて鳴りやまなかった。その癖、心は空洞だった。
どうやって飛行機に乗り、日本の、東京の家にまで辿り着いたかよく覚えていない。リビングの奥に白い布で覆った祭壇が出来ており、骨壺がひとつ置いてあった。それが沙耶だと渡来の妹は言うのだった。異臭がするという近所の人の通報により、管理人が部屋を開けたら風呂場の浴槽に遺体があった。手首を切ったのだが死因は溺死だとのことだった。死後二週間が過ぎていた。都志や渡来と連絡がつかず、夏の暑い盛りなので待ってもいられず、火葬にしたが葬式は出してないと妹は説明して、その後に長い長い溜息を吐いた。
飛行機の中からずっと、都志は口をきかず、焦点の定まらぬ目で空を見ていたのだが、この時初めて祭壇の骨壺を立ったまま上からまともに見下ろして口を開いた。
「わたくしのせいだわ」
都志が一言囁いて、その場に崩れた。
「なに?」
「わたくしのせいで沙耶が死んだ」
都志は骨壺を開けて中に手を突っ込むと、ひとつかみの骨を取り出して手の平に載せた。それは小さく白く所々黒ずんで干からびて見えた。これが沙耶だと言われても、俄かに信じることはできない。
「お前のせいじゃない」
「わたくしのせいよ。病気の沙耶を置いて家を出てしまった。最近調子がいいと思ってたから。あの子を一人にした。どんなにか寂しかったでしょう」
骨を胸に当てた都志の口から絞り出すような嗚咽が漏れて、都志の肩を抱いた渡来は都志と二人で声の限りに泣いた。泣いて泣いて、食事も取らずに泣いて、それは何日も続いた。今日がいつだかわからないままに、いつ寝たかもわからないままに数日が過ぎた。ある日の朝、リビングのテーブルの上にあったメモを渡来は何気なく手に取り読んだ。そこには都志の走り書きのような乱れた文字があった。
「わたくしが沙耶を殺しました。沙耶のところに行ってきます。でも沙耶の顔を見たら必ずあなたの所に戻ってきます。あなたと共に死ぬのがわたくしの夢なのだから。だから待っていて。必ず戻ってきます。戻ったら旅に出ましょう。そして二人で桃源郷を探しましょう。見つけたらそこに住みましょう。そこできっとあなたも沙耶と会えるわ」
渡来はメモを両手で握り締めて何度も何度も文面を読み返した。やっとその意味を飲み込むと全身から血の気が引いていくのがわかった。彼は外に飛び出し、地下鉄駅や公園、近所のスーパーや商店街など片端から見て回ったが都志の姿はなかった。迂闊だった。都志から目を離した自分が恨めしかった。自分の悲しみに浸るのが精いっぱいで都志のことを真剣に考えてやる余裕がなかったのだ。まさか馬鹿なことはすまい、一時的な感情で思わず書いたメモなのだと思う傍ら、都志の一徹な性格から考えて、もしものこともあり得ると焦る自分もいた。日の暮れる頃、疲れ果てた渡来は通りかかった交番に寄って事情を話し、メモを警官に見せた。警察は応援を要請し、すぐに動いてくれた。区内で情報提供のアナウンスと一帯の捜索が始まった。
渡来は誰もいない家に帰っても眠ることもできず、再び外に出て都志を探して彷徨い歩いた。またしても心臓が頭の中でガンガン鳴っていた。見つかることを願いながらも、もう既に都志はこの世に居ないのではないかという気がした。何故だかそんな気がするのだ。都志が傍らに居たこの二十数年という時間の中でいつも感じていた、体の奥から漲り出る生気や明日への希望のようなものが、いつしか萎んでいた。きっとこれは都志がもうこの世から消えてしまっているからなのだ、俺にはわかる。もう駄目だ、渡来は思った。
二日後、荒川水系の旧中川の河岸で、女性の遺体が発見されたと警察から連絡が入った。警察の説明を聞いただけで、渡来はそれが都志だと確信した。都志のやつ、入水したのか、俺を置いて。
僅か三週間ばかりの間に二人の家族を失って、渡来にはもう流す涙もなかった。業者のいいなりに二人一緒の葬式を出し、墓は作らず骨壺を二つ家の祭壇に並べても、この世に二人が居ないという実感はなかった。これは現実ではないのだ、自分は夢の中に居るのだ、この骨壺は偽物なのだ。何故ならメモにあったではないか、わたくしはすぐに戻って来ると。
渡来がまだ勤めていて都志も忙しかった頃、彼女は言ったではないか、あなたが定年退職したら、三人で日本一周の旅に出ましょうよ。そしてわたくしたちの桃源郷を探すのよ、と。必ずそうすると渡来は約束した。まだ約束は果たせていない。ならばメモにあったように、都志は沙耶に会ってから戻って来て、自分と旅に出てくれるのではないか、それは沙耶を探す旅にもなるはずだった。渡来は信じて待つことにした。人は愚劣だと笑うだろう。でも都志が嘘をつくような人間ではないことを彼は知っていた。
二人が居ない生活は苦しい。一人で食べる食事は味気ない。一人で洗濯をしてもテレビを見ても、面白くも何ともないのだ。それでも渡来は都志が置いて行った希望という細い糸にしがみつくことで生き永らえようとしていた。残されたものは他にはない。都志がいなければ自分は空っぽのバッグパックみたいなものだった。何を入れるでも出すでもなく、どこに行く当てもない。時折、妻と娘はどこへ行ったのだろうと考えた。自分にとって未知の世界なのは確かだ。「そこ」はどんな場所だろうか。自分も行ってみた方がいいだろうか。それとも待っていた方が賢明なのか。「そこ」で都志は沙耶に会えただろうか。生への執着は最早ない。ただ「そこ」へ行ってみたとして、万が一手違いで二人に会えなかったら困ると思うと自信がないのだった。自分にできることは信じて待つことだけだ。
一年、二年、三年、四年が過ぎた。
ある二月の初め、粉雪が舞う冷たい朝、玄関の鍵をがちゃつかせる大きな音がした。誰かと思って上がり框に出てみると、黒っぽい服に粉雪を全身に浴びた人間が白い息を吐きながら飛び込んで来た。都志だった。ハアハアと息を弾ませ、ひたむきに光る黒目で真っすぐ渡来を見上げている。
「あなた、少しお痩せになったんじゃない?」
「都志」
ひと言呟いて、渡来は言葉を失っていた。夢にまで見た妻が目の前に居て自分を見て笑っている。言葉を操っている。
「お待たせしちゃってごめんなさい。わたくし帰ってきたわ。何も言ってくれないの?」
「おかえり」
掠れる声でそう絞り出して、渡来は男泣きに泣いた。大粒の涙がボロボロ目から溢れて止められなかった。
「あなた、約束通り旅に出ましょう」
「そのために帰ってきたのか」
「決まってるじゃない」
渡来はタオルを持ってきて都志の全身から雪を払い、震える体を抱き締めた。暖かな人間の温もりが、これが現実だと渡来に語りかけてきた。そうだ、旅に出よう。二人の桃源郷を探す旅に。
旅の準備をするのに数カ月を要した。家は古家なので解体し更地にして売りに出して、旅の資金にした。小回りのきく中古の軽のミニバンを買い、家財道具はほとんど捨てて、皿や鍋釜、衣類など必要最小限の荷物だけを車に積み込んだ。全国版の地図が一冊。それだけが頼りだ。でも俺には都志がいる、渡来に躊躇いはなかった。
こうして二人は出発した。どこへ行くとも、何をするでもなく、達成すべき目標もない、当て所もない旅へ。最初の数年は土地の美味しいものを食べ、観光地では観光をして、博物館や資料館、美術館を巡り、それなりに旅を楽しんだ。温泉地を巡り、疲れるとホテルにも泊まった。頭を空っぽにしてひたすら旅に没頭するのは楽しかった。日本中をぐるぐる回り、やがて十年目を迎える頃、金が尽きてきた。それでも二人は気にしなかった。生きてさえいれば旅は続けられる。少しの食べ物とガソリン代さえあればいいし、あとはお互いが居れば十分だった。ここまで生かされた命、路上で果てても本望だ。
ところが十年を過ぎたある日、土産物を見に行った都志がいつまでも帰ってこなかった。渡来は土産物屋や付近を探し回ったが見つからない。その日はそれきり帰って来ず、渡来はその場に車を止めて一晩過ごした。翌日、弱り切った渡来が車中で思案している最中に、ふっと横を見ると助手席に都志が座っていた。
「お前、どこに行っていたんだ!」
渡来が声を挙げると都志はただ黙って唇に手を当て、ふふふと薄く笑うだけだった。その日以来、都志は時折消えるようになった。数カ月に一度の時もあれば二週間に一度の時もあった。長い時は二日、三日と帰って来なかった。どこへ行っていたと問い詰めても答えない。次第に渡来はその状況に慣れていった。ちょっと沙耶に会いに行っているだけだ、そう思おうとした。実際にそうなのかもしれなかった。
「そして青江さん、あなたに会ったんですよ」
渡来は憔悴した顔に汗を滲ませ、額を薄汚く黄ばんだタオルで拭った。
「わたしの話を信じてくれますかね?」
あたしはしばらく考えてから口を開いた。
「信じます」
そう思うしかなかった。久しぶりに雨はなく、七月の刺すような太陽が容赦なく北海道の大地を炙っていた。状況的に信じるしかないのではないか。確かに都志は存在し、そして今は居ないのだから。彼女はどこへ行ったのだろう? 一足先に桃源郷を見つけたのだろうか? そこはどこなのだろう? 世界の中心、それとも果てなのか。
渡来は顔を奇妙に歪ませて、鶯色に滲む地平の彼方を熱心に眺めていた。そこに何かあるのだろうかと釣られてあたしも地平線を見遣る。ただの地平線上に紺青の空が広がっているだけだ。中心なんかない、都志も沙耶も居ない。彼女たちは死んでしまったのだ。そう渡来に言った方がいいと本能が告げ、しかし辛い事実を突き付ける冷たい女になるのを怖れてあたしは卑怯にも口を噤んだ。
そんなあたしの戸惑いを感じ取ったのか渡来が労わるような目をあたしに向けた。
「馬鹿だとお思いでしょう。わかってますよ。都志も沙耶ももう居ない。わたしは苦しみました。全てわたしのせいです。もがき苦しんだけど、どうにもならなかった。わたし一人が生き延びて、情けないんだけど」
「渡来さんのせいではないです。お二人の分まで頑張って渡来さんが生きないと」
自分の陳腐なセリフに吐き気がした。どこかからもっと気の利いた言葉を絞り出そうとあたしは額に手をやった。
「でも希望は捨ててない。都志はまた戻って来てくれる。ちょっとどこかに行っているだけだ。きっと戻ってきて、桃源郷を探す旅をわたしと共に続けてくれるに違いない」
「そうですよね」
あたしは相槌を打って何度も頷いた。本当に戻ってきそうな気がした。この見る影も無く憂愁に沈んだ老人を勇気づける力はあたしにはない。都志が居なければだめなのだ。ソラなら何と言って励ますだろう。ソラの明るい笑い声が懐かしくなった。やはりソラに面会に行こうか。将来のことを考えると二の足を踏む自分が居るが、こう寂しくては自棄を起こしてしまう。
「渡来さん、本州に戻りましょう」
渡来はしばらくざんばら髪を風になぶらせ黙っていたが、静かにうんうんと頷いた。
入管の面会は平日の八時半から十一時半と十三時から十六時の間。身分証明書を見せて手続きすれば面会ができた。仙台の入管の、食堂のような部屋でソラと向かい合い、ソラの揺れる緑がかった灰色の瞳を見ているうちにあたしは泣きだしてしまった。いざソラを目の前にしてみると言いたかったことは何も思い出せず、ソラも落ち着かな気に尻を動かして口を開いては閉じを繰り返すのみで、時間のない切羽詰まった自分たちの境遇を思うと涙が溢れて止まらなくなった。
「ソラは迂闊よ。あなたを好きにさせといて、これは無責任でしょ。どうしてくれるの、あたしの気持は」
久しぶりに会う恋人にいい顔を見せたいという最初の思惑は崩れ、涙を拭い何度も鼻をかんで醜い顔を晒しながら、相手を詰る言葉しか出てこなかった。本当は収容されたソラの労苦をねぎらい、優しい言葉をかけてあげたかったのに。
「陶子ちゃん、ほんとにごめん、こんなことになって。でもボクは強制送還になる前に陶子ちゃんに一目会いたいと思って、ずっと異議を申し立て? してた。なんとか粘ったね。イランに帰ってしまったら、五年は日本に入国できないって」
五年。それは想像もつかない長い年月だった。あたしには無理だ。五年も恋人を待つなんて。そんなに強い人間じゃない。
「イランに帰ったらメールするから陶子ちゃんもメールして。いつも陶子ちゃんのことを考えてるし、いつも陶子ちゃんの返事を待ってる。ボクには陶子ちゃんだけだから。それが言いたかった」
「どうせ国に帰ったら気が変わるよ。あちらにはキレイなイラン女性たちがいるし、離れ離れじゃ心も離れるよ」
ソラはイライラと貧乏ゆすりを始めた。
「気が変わるなんてこと絶対にない。ボクは陶子ちゃんとほんとに気が合うと思ってる。一緒に国中旅して回れる女性なんてイランには居ない。最初の結婚は失敗だったけど、今度こそ、運命の人に出会ったと思ってる」
ソラの言いたいことはわかっていた。それでも納得はいかなかった。納得はいかないが、このまま別れを告げることなどやはりできそうになかった。
ソラが話したかったもう一つのことについて、彼は口早に喋った。俄かには信じ難い話だった。前にワタライさんのことを話してくれた時に、ワタライさんのイラン人の友達の一人はアクバルだと言ったろう? アクバルってのはイランではよくある名前だけど、子供の頃、テヘランのボクの家に日本人の男の人が尋ねてきたことがある。一番上の兄、アクバルの友達だった。子供だったから詳しい話は知らないけど、彼はアクバル兄さんを探してると言ってたらしい。今、アクバル兄さんはドイツに居るんだ。ボクの母さんや兄さんたちは、その日本人にとても感謝していた。それでボクは日本に憧れを持ち、日本に来ることになったんだ。
「それ本当? それが渡来さんだって言うの?」
「おそらくは」
それではこの日本で、ソラとあたしを出会わせてくれたのは渡来なのだ。ソラは渡来があたしにくれた奇跡のような贈り物なのだ。
「メールしてくれるね?」
「おそらくは」
あたしがソラの口真似をすると、そんなあたしをソラが抱き寄せた。あたしはソラの頬に一瞬唇を寄せ、そして入管を後にした。
渡来には、函館から大間崎へ向かうフェリーの中で、自分はしばらく日本海側をもう一度回ってみると告げられていた。自分と都志は秋田や山形をゆっくり旅していない、だからもう一度探してみたい、と。あたしは心配のあまり行かせたくなかったが、縛り付けるわけにもいかず、渡来の意思に任せた。冬になるまで、自分は東北を回るから、東北のどこかで必ず会いましょう、と固い約束を交わしたのだ。
11
石巻の、そこだけぽかりと異空間のような敷地内で、あたしは我が身の安全に溺れてそれを噛み締めている。東北の遅い春の僅かな日差しに、芝生の緑が薄青く光っている。敷地の外では生命の形がほとんど失われた荒廃が広がっているというのに、百平方メートルほどのこの敷地内にだけは労働意欲に溢れた溌溂とした老若男女と動物たちが戯れていて、荒波に乗りだしたノアの方舟に数十の人間と動物たちが一緒に同乗して漂流しているみたいだった。舟の外は死の海。
アニマルレスキューのボランティアに応募して、東京から苦労してここまでやって来た。高速道路は所々陥没していたし、迂回路はどこも通行止めばかりで、多くの人々を飲み込んで沈黙した海と、打ち上げられて、積み重なった木片や瓦礫の山を縫って、へとへとになって、何が何だか訳がわからず、泣きながらここへ辿り着いた。
海から五キロほど離れた石巻浄化センター。その敷地内に石巻獣医師会と長崎から来たボランティアグループが共同で場所を借り、活動の拠点にしていた。アニマルレスキューの拠点としては最北端、つまりは最前線なのだった。トレーラーハウスが一つとテントが数張り、仮設トイレ、犬舎にしているプレハブ。支援物資を積んでいる大型のテントには全国から届いたペットフード、ペットシーツ、猫砂、各種ゲージ、タオル、人間用の食料や鍋釜コンロ、トイレットペーパーから生理用品までありとあらゆる支援物資が山と積み上がっている。これらを仕分けたり運んだりは重労働で、あたしはすぐに筋肉痛になった。ボランティアの誰かが作る温かい食事、近くの飲食店の人による炊き出しなどに励まされながら懸命に働く日々。
いくつかの犬舎に大型犬や小型犬、猫たち総勢百匹程が居た。避難所生活を強いられている人のペットの一時預かりや身元不明の放浪犬、福島で一時避難後戻れなくなった人々が置いて行き、その後保護された犬猫たちだ。朝晩の散歩タイムには、たくさんのボランティアが一匹ずつ散歩に連れて行く。ボランティアは全国から集まっているが、中には地元で家が流され愛犬も亡くなってしまい、犬に触れたくてボランティアに来たという青年も居て胸を衝かれた。いざそのような境遇に間近に接するとお悔やみのひとつも言えず、ただ目を瞠って立ち尽くすだけの自分が居た。
ここに居ると時間の観念を忘れてしまう。来る前は余震や津波やアスベストの粉塵の心配をしたけれど、いざ来てみると目の前の仕事に無我夢中になって、余震やらアスベストやら放射能のことも遠くなり、誰もラジオすら聞いておらず、気にする余裕もなかった。再び津波が来たら皆平気で流されていたことだろう。遠く離れた場所からテレビで見ている光景とはやはり違うのだ。
アルバイト先に二週間の休みを貰って、渡来の携帯番号のメモを握りしめ、あたしはここまで来た。渡来を探すこと。手掛かりは携帯番号だけ。あたしはボランティアの合間を縫って渡来に電話を掛け続けた。
七日目の朝九時半、ちょうど朝の犬の散歩が終わり、犬たちのご飯タイムが始まるところだった。あたしの携帯に着信があり、あたしは呼び出し音が鳴り止んでしまわないかと怖れ慄きながら慌ててプレハブの裏手に回って携帯の着信ボタンを押した。
「こちら石巻市の職員の者ですが」
張りのある若い男の声が言った。
「すみません、電話しておいて何なのですが、そちらはどちら様でしょうか」
「え、えーっと」
あたしは言い淀んで見知らぬ男に名乗るべきかどうか迷った。
「実は誠に申し上げにくいのですが、私どもで管理している身元不明のご遺体がありまして、この携帯の所有者の方にあなた様からの着信が多数ありましたので、ご連絡差し上げた次第です」
「遺体?」
そう言ったきり、喉元にせり上がってくる巨大な空気の塊を押しとどめるために、あたしはもう口を利くことができなくなった。絶句するあたしを労わるように、男は丁寧な口調で辛抱強く喋り続ける。
「突然こんなお話で申し訳ありません。ご夫婦と思われるご遺体があるのです。三月の十五日に石巻市内の南浜町で発見されました。あなた様はこの携帯の所有者様のご家族ですか?」
家族ではない、と否定する自分の声がやけにか細く上ずっていた。自分はもう喋れないだろう。何も言いたくない。もう何も聞かないで。それでも気づいたら知人だと伝えていた。
「ご家族と連絡を取りたいのですが、連絡先をご存じじゃないでしょうか」
知らない、とあたしは答えた。あんなに身近な存在だった渡来と都志のことを、実は何ひとつ知らないのだという事実にあたしは改めて愕然とした。しっかりしろしっかりしろ、とあたしの中で何かが囁いて、その携帯の所有者は渡来一二であること、娘は既に死亡しており、渡来の妹が関東のどこかに住んでいるかもしれないが連絡先はわからないことを伝えた。
「一度、遺体安置所の方に確認に来ていただけないでしょうか。何しろ手掛かりが何もないのです」
男は石巻市内の「上釜ふれあい広場」が遺体安置所になっていること、実は火葬場が足りず、ご遺体を長期間放置すると腐敗が進むので、仮埋葬の処置を進めている。ついては身元を確認できるものが何もなかったので、所持品と遺体の写真、特徴やDNA鑑定に必要な血液、細胞の採取などをして、土葬にしてあることなどを伝えた。あたしはすぐに確認に行くと約束して遺体安置所の住所を聞き、電話を切った。
とうとう来る時が来てしまった。あたしはプレハブの裏の隅に頭を抱えて蹲った。涙は流れず、ただ強烈な胸苦しさに苛まれながら、ああ、二人は一緒だったのだなと混乱した頭で考えた。最後に再会した岩手で、都志が青森で戻って来たのだと渡来が言い、若やいだ表情で都志を見守る笑顔が印象的だった。ずっとこのまま二人が一緒に居られることを願いながら、雫石で別れを告げた、あれからまだ数カ月。昨日のことのように思い出されるのに。
あたしはボランティアのボスに事情を説明して抜けさせてもらい、自分の車に飛び乗った。あらゆる建物が破壊され、木片や潰れた車やバイクや鉄筋が転がっていた道を自衛隊が掘り起し、市内にはかろうじて道が作られていた。四月中旬にしては曇天の鈍色の空が重苦しい日だった。所々残った家や建物以外は何もなく、やけに見通しの良くなった世界は、海の存在を身近に感じさせ底知れない不気味さに包まれていた。
「上釜ふれあい広場」は被害のひどかった門脇町の北、石巻市の西部を流れる定川の広い通りを挟んだすぐ脇にある市民の運動場だ。緑の美しい芝生のサッカーコートと野球場、バスケットコートもあり、小さな子供向けのちょっとした遊具が置いてある公園もある広大な敷地。そこが死者3236人、行方不明者488人、大震災最大の被災地となった石巻で三番目に指定された遺体安置所だった。受付小屋の壁一面に身元が特定されていない人の写真が貼ってあり、あたしは尻込みをして思わず後退った。安置所には大勢の人々が家族や親類を探して詰めかけていた。皆一様に表情を失くしている。テントの方からは、家族を見つけたらしい人々の喚く声やすすり泣く声が聞こえてきた。
市の職員らしき係の人に電話をくれた男性の名前を告げると、まだ二十代後半に見える若々しい顔に疲れを滲ませ、太い眉を寄せた背の高い職員が現れて応対してくれた。彼の説明によると、携帯は遺体のスエットのポケットに入っており、発見当時は電源が入っておらず、水に濡れて入れることもできなかった。昨日の夜になって電源が入っていることに気づいた者が居て、何度も着信があったことがわかり、今朝試しに掛けてみたのだという。携帯電話の住所録には誰のアドレスもなく、ひとつも発信記録はなかった。遺体は南浜町の、海から見て東側で、倒壊した家と家との間に挟まれた車の中で発見された。衣類や僅かな食糧の他は車内には何もなかった。車検証もない。免許証さえ発見されていない。車のナンバーは資料として控えているが、法務局の登記簿には既に車の所有者の土地、建物は存在しなかった。
それはそうだろう。あの人たちは何も持たなかった。免許証さえ所持していないとは渡来らしい。あたしは思わず口の端で少し微笑んだ。
「ご遺体の写真はこれです」
男性が指差す写真を振り仰いで、あたしは思わず口元を手で覆った。そこには紛れもない渡来と都志二人が写っていた。水没でパンパンに膨れ上がった遺体や、体に瓦礫が刺さってひどい裂傷を負っていたり、顔がつぶれていたりと目を背けたくなる痛ましい写真が多い中で、二人並んだ写真の顔には傷ひとつなく穏やかに目を閉じており、頭髪も服装も整って、口元には笑みさえ浮かんでいるように見える。あたしは吸い込まれるように写真に見入った。こんなに幸せそうな二人が死んでいるなんて嘘っぱちに思えた。何かの悪い冗談を聞かされているのだろうと心の中で男性の職員に毒づきかけた。
「お知り合いの方で間違いないですか?」
男性が気の毒そうに小さな声で尋ねる。
「間違いありません。渡来一二とその妻、都志です」
あたしは自分でも驚くほど落ち着いて男性を振り向いた。
「二人は亡くなったのですね?」
「ええ、そういうことです」
医師の死亡診断書によると、死因は溺死ではなく低体温症だった。津波で車ごと流され、全身水を被ったあと、瓦礫に阻まれて脱出できなくなったのだろう。南浜町の西側では火災が発生したが、彼らが流された東側では、比較的火災が少なかったという。あの日はとても寒かった。濡れた服のまま屋外で眠ってしまったら凍死する。
遺体が見つかった三月の中旬、自衛隊による瓦礫の撤去の最中に大量の瓦礫の下から、屋根がひしゃげた軽のワンボックスカーが一台見つかった。車の後部座席の布団の上に、夫婦が手を繋いで横たわっていた。死後硬直が進んでいて、二人の固く結ばれた手は大の男たち数人で試みてもどうしても離すことができなかった。土葬するにあたって棺に入れる必要があり、非常に心苦しくはあったが二人の手を切断したのだ、と職員の男性は申し訳なさそうに言った。
「よろしかったでしょうか?」
「仕方ないですね」
あたしは二人の写真に見入りながら答えた。岩手からここ石巻までやって来て、昼食のあとの気怠さの最中に二人して、黒くうねり盛り上がる水平線を目にしたのだろうか? 煙のような黒い水しぶきを見ただろうか? その瞬間何を思っただろう? 引き波に攫われなくて良かった。ここに居てくれて良かった。あの日は雪が降っていたそうだ。でも星のきれいな夜だったとも聞いた。夜は晴れていたのだろうか。彼らも二人して星を見上げただろうか? 彼らが見た星はどこよりも世界の中心のような輝きを放っていたのではあるまいか? 冷たくなっていく体から彼ら自身が抜け出し、どこかあたしの知らないところへ旅立っていくのを意識しただろうか? そこは二人が焦がれ続けた桃源郷だっただろうか?
「遺品をご覧になりますか?」
男性の言葉に我に返って、あたしはいいえと手を振った。あたしはただの知人でしかなく、遺体の火葬に同意する権限もない。できることは何もなかった。二人は身元不明の遺体として行政が処置を決めることになるだろう。
「携帯の電源が突然入ったのは不思議ですね。水没して駄目になったと思ってたのに」
「おそらくあたしが石巻に居ることを知って、渡来さんが呼んでくれたんだと思います」
あたしが勢い良く答えると、男性職員は不審そうな顔をしてあたしを横目で見た。
「それでは後をよろしくお願いいたします」
あたしは深々と頭を下げた。あんなに心配していたのに、今、悲しみの底には何故か安堵の気持ちがあって、あたしは来る時よりも遥かに心が軽くなっていることに気づいた。さよならと声に出さずに二人に告げ、愛車に飛び乗り遺体安置所を後にした。
二〇二〇年三月七日、ソラとあたしは六歳になる娘のサヤを連れて、「あの日」を前に石巻へ向かう車中にいた。暖冬のせいか暖かい日だった。でも風景の山の色は三月の物悲しさで、蓬色の枯れ枝と濃い緑が合わさり、折からの小雨に山上には靄がかかっている。東京から埼玉、茨城、栃木、福島と抜けて、あたしたちはゆっくりと北上した。あいにくの天気とはいえ、七年振りに目にする日本の山々や冬支度の田んぼたち、ひっそりと流れる澄んだ小川、道を曲がるとふいに現れる鮮やかなピンクの梅の花などの小ぢんまりとして細やかな風景に癒された。
両親の反対を押し切り、小さなスーツケースひとつとジョエルを連れてイランに渡って七年。ソラと結婚し娘を授かった。今ではペルシャ語を操り、ソラの家族とも自分の家族同然に親しくしている。明るく聡明で純粋なイランの人々とそこでの生活を心から愛していたが、イランの核開発を巡るアメリカの経済制裁により生活が次第に逼迫し、サヤのためにまた日本で暮らすことをあたしたちは決断した。
三月の初めに帰国して、まず真っ先に向かったのが石巻だった。助手席にはすっかり老いて顔が白くなったジョエルが、やんちゃだった若い頃とは違い、最近になって身に着けた泰然自若とした風情で座っている。以前は賑やかだったお喋りもすっかり影を潜めていた。ジョエルを見ていると九年という歳月が変えるものの姿形を見せつけられる思いだ。
今では車にはカーナビゲーションが付いていたが、石巻の市中に入った途端、役に立たなくなった。新しい道ができている。あちこちで区画整理のための工事をしている。石巻はまだ復興の真最中だった。あたしたちはまず南浜町に建つ「南浜つなぐ館」という震災のメモリアル記念館に向かおうとして、何度も行き止まりにぶつかり、車道であるはずの場所が歩道になっていたりトンネルになっていたりして、石巻の町中を右往左往した。
南浜・門脇地区はかつて一八八五世帯もの住宅が立ち並ぶ住宅地だったが、今は見渡す限りの盛り土と、工事現場のクレーンや工事車両が行き交う寥寥たる風景が広がっていた。工事中のでこぼこの路面を何とか走り、つなぐ館に辿り着いた。駐車場に車を停めて、その小さなプレハブのような造りの質素な建物に入った途端、あたしは突如圧倒的な悲しみに襲われて胸が詰まり、涙が溢れてきて止まらなくなった。立っていられなくなり、思わずソラの腕に寄り掛かった。
この九年間泣いていなかったのだ。あたしはただ、渡来と都志の面影を胸に異国に渡り、懸命にこれまでの日々を過ごしてきた。祖国を襲った震災という悲劇と、二人の死、そして南浜町に入って以来感じていた、胸を静かに締め上げ、声を発することを拒むようなしんとした圧力、この地に降りる音もない世界の悲しみが、ようやく現実となって迫ってきて体がぶるぶると震えた。それは思いがけず激しくて、身をよじるほどの苦しみで、あたしは子供のように声を放って泣いた。ソラがあたしの体を支え、サヤがあたしを見上げて心配そうに手を握ってきた。つなぐ館のスタッフが驚いて立ち尽くしている。
サヤがしゃくり上げるあたしの手を引き、館内の展示を指差しては、舌足らずの日本語で展示の説明書きを読み上げた。ソラは黙ってついてきて、時々あたしの肩を抱き締めた。
館のスタッフに勧められて、あたしたちは門脇町にそびえる日和山公園に登ることにした。日和山公園は標高六十メートルの丘陵地帯に広がる公園で、石巻の町を一望できることから古来より多くの文人たちが訪れていた。山頂には松尾芭蕉と弟子の曾良の銅像がある。桜とツツジの名所として知られるが、三月初めのこの時期には花もなく、赤茶けた植え込みが続く歩道を三人で黙々と散策した。鹿島御児神社に参拝して展望台に来ると、眼下には工事中の盛り土の先に旧北上川と太平洋が広がっていた。震災時には多くの人々がこの日和山に避難し、恐怖と絶望の中で町を飲み込む津波を見下ろしていた場所だ。
北東に見える旧北上川は震災時津波で川が逆流したことから、十四キロメートルにも渡って堤防が造られているという。太平洋側には七・二メートルの防潮堤が建設中だ。何もかも変わってしまう。悲しみは時間が押し流してくれるのだろうと思っていた。しかし無かったことにできることなどあろうはずもなく、人は痛みの残滓を朝な夕なに宥めすかして赤子のようにあやしながら、後ろ髪惹かれる思いで席を立ち、日々の生活の隙間にそっと取り出して見てみては撫で回して懐かしんでいくしかないのであろう。
展望台の手摺の外側から、太い三本の幹を絡ませた桜の木が聳えていた。他の桜木と比べてもひと際たくましいその幹は、数週間後の桜の開花に備えて全身に覇気を漲らせ、いざ咲かんとその時を待ち構えているようだった。未来へ向かい雄心に溢れるその幹にしばらく触れてから、あたしはソラの手をまさぐり、娘の肩を強く抱き寄せた。
桜の向こうには遠く白く穏やかに光る海が広がっていた。