日本一周して見つけた私の愛
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今思えば渡来は、あの時全てを誰かにぶちまけてしまいたかったのだと思う。それなのに、あたしの寛容さに欠けた意固地で幼稚な心が、閉じてしまったままの魂が、彼にそれを赦さなかったのだ。窮屈な自分を持て余していたあの頃の自分を残念に思う。各駅停車になった西武線に揺られながら、急に後悔の気持ちが胸に溢れてきて苦しくなった。
混み合った車内で、携帯に向かってしきりにがなり立てている男がいる。あたしは現実に引き戻されて、静かな車内というのに大声を挙げている、今時珍しい男の声に耳を傾けた。見ると辺りの乗客全員が男の声に耳を澄ませていた。
「だから愛してるって」
男はせかせかと声を張り上げた。
「今帰る途中。西武線の中。すぐ着くから」
男の声は漏れ聞こえる女性の甲高い声に釣られて、どんどんヒートアップしていく。
「愛してるよ」
車内から微かに笑い声が上がった。近くにいた女子高生二人組が、顔を見合わせて口に手を当てて笑いを堪えている。電車の中で電話すんなよ、金髪の若者が呟いた。
「だからもう、まだ言わなきゃいけないの?」
人々の頭の間に埋もれたような小柄な男は、辺りの気配など全く気にせず声を張っている。
「わかったよもう。アイラブユー」
車内でどっと笑い声が起きた。あたしも思わず笑いが込み上げた。男が止める気配はない。
「はいはい。もう一度ね。アイ、ラブ、ユー」
一語一語丁寧に区切って、男は繰り返した。周囲の人々のざわめきは静まらなかった。男は携帯を切ると、平然として顔を挙げ、両足を踏ん張って立っている。
アイ、ラブ、ユー、か。あたしも釣られて笑いながら、震災で尖っていた気持ちが少しだけ緩んだ。世界は動いている。何万人もの人々が死にかけ、疲れきった人々が蠢き、放射能が世界を覆うかもしれない今、平然と電車の中で愛を叫ぶ人も、この世の中には確かに存在する。時間は人間に忖度なぞしてくれない。一つ所に留まっていることなど決してないのだ。
鹿児島に入った日には雪がチラついていた。桜島の近くに行く頃にはそれが小雨に変わっていて、雨が噴煙と混じって車の窓を黒く汚した。傘をさして外に出るとその傘もすぐに濡れた灰で黒ずんだ。ジョエルの背中にも灰が積もった。道のあちこちには掃き集めた火山灰を袋詰めにしたものが土嚢のように積んである。これじゃ洗濯物も外に干せないし、家の窓も開けられないだろう。鹿児島の人が毎日こんな暮らしをしているとは想像すらしていなかった。
沖縄へ向けて旅立つ前夜は、鹿児島市の南、二二六号線上の道の駅喜入に泊まった。沖縄に行ったら渡来夫婦とは会えないだろう。彼らは金がない。鹿児島から沖縄へのフェリーは、車両代金がとても高いから乗ることは出来ないだろう。そう思うと後ろ髪を引かれるような心持ちになった。
その夜はまたもや暴風雨になった。
夕暮れ時、道の駅の駐車場下の東屋で、自転車グループの若者たちが宴会をするのが見えた。大学のサークルだろう。道の駅やキャンプ場に泊まりながら九州を走っているのかもしれない。男女の若者たちは笑いさざめき、ひどく楽しそうに見えた。あたしは若者たちを横目に見ながら、ジョエルを道の駅の敷地中ぐるぐる連れ回した。後方でバイクのエンジン音がブウーンブウーンと響いた。振り向くと真っ赤なバイクに跨ったソラの懐かしい白い顔が見えた。「こいつまた現れたよ」ジョエルがヴァウンヴァウンとソラに向って吠えた。
「陶子ちゃん! やっと会えた」
あたしが驚きのあまり沈黙していると、ソラが怪訝そうに目を細めた。
「どんなに陶子ちゃんのこと探し回ったか。ボクに会えて嬉しくないのお?」
ソラは緑がかったグレーの片目をさっと瞑ってみせ、ヘルメットを取って顔にかかった長い髪を振り払うように頭を左右に振った。心臓が逆立ちを始めたまま喉にせり上がってきた。この男に、こんなにも会いたかったのかと自分に問う。そう、会いたかったのだ。
「このバイクは何てバイクなの? いくら?」
照れのため頬が染まったのがわかったので、焦ったあたしは挨拶もそこそこに、矢継ぎ早に質問を繰り出した。
「どこで買ったの?」
畳み掛けた自分に、また照れる。
「ええ? 久しぶりに会った感想がそれ?」
「だって知りたかったんだもん」
「KAWASAKIのニンジャ250スペシャルエディション。五十万円以上したよ。地元の板橋で買ったのよおー」
あたしは脱力した。せっかく照れた自分に少し後悔する。
「ねえ、お願いだからそのおネエ喋りやめて」
笑いがこみ上げてきて顔を俯けた。忍び笑いが押さえられない。
「おネエ喋りって? 何のこと。ボク普通に喋ってるつもりだけどお」
「その語尾を伸ばすのがヘンなのよ。似合わないよ」
「そうなのー。じゃ、気をつけるよ。ていうか止めるよ。陶子ちゃんにそんなことで嫌われたくないもんね」
笑いを堪えながら、つと近寄って赤いバイクの側面を撫で、思い切って顔を上げてソラの目を真っ直ぐに見た。柔らかい二双の光がそこにはあって、薄い色と相まって吸い込まれそうな透明さにあたしは身震いした。
日の落ちかけた空に、黒雲が投げつけられたように唐突に現れ、グングン拡がっていた。ジョエルがやけに熱心に雲を見詰めている。
「やばいなあ。陶子ちゃん。天気崩れるよ」
ソラがハンドルに置いたヘルメットにもたれかかり、溜息をついた。
「どこか屋根のあるとこにテント張らなきゃ」
「手伝おうか?」
「慣れてるから大丈夫」
大粒の雨が一粒ヘルメットに落ち、赤い表面をツーと流れていった。
「来た」
あたしたちは二手に別れ、ソラは道の駅に併設されている体育館のような巨大なコンクリートの建物の、狭い屋根の軒先に走り、あたしはジョエルを急き立てて自分の車に戻った。ジョエルを助手席に放り込むと同時にパタパタと不気味な音を立てて雹かと思うほどの強い雨が降ってきた。風が強まり、あっという間に雨は横殴りになる。東屋の学生たちが呆然と空を見上げている。ソラの居場所を気にしながらあたしは車に飛び乗った。窓に当たる雨粒に絶えず掻き消されて、一心に青いテントを張るソラの姿が滲んで見えた。
この道の駅には温泉がついていて、九時までの営業なので入るのを楽しみにしていたのだが、駐車場から本館までの距離を考えると、この雨じゃ諦めた方がよさそうだった。駐車場に車はまばらで、二台先に紺色のロングバン、その先に白い乗用車が停まっているきりだった。
風に煽られ、車体が揺れる。風の強弱に合わせて、ザザッザザッと雨が流れる。辺りが見る間に闇に沈む。
ソラのことを気にしながら車内で簡単な夕飯の支度をした。飯盒でご飯を炊き、インスタント味噌汁と昼間に買ってあった刺身で食事を済ませた。ソラは食事ができただろうか。後方の窓のカーテンを開けると、遠くに小さく光るランタンの明りが見えた。さぞかし寒いに違いない。車の中だってこんなに寒いのだ。あたしは毛布を掻き集めてくるまり、横になった。
遠い悲鳴のように風が唸って、この世の全ての音を掻き消す。渦を巻く風の軌跡が見えるようだ。あたしは世界を暗黒の荒野に変えてしまう風を憎んだ。急に自転車の学生たちのことが気になりだした。彼らもテントだろうか。吹き飛ばされていないだろうか。確か女性も居たはずだ。ジョエルが助手席から飛び出してきてあたしの足元の毛布に潜り込んだ。ジョエルを胸元に抱き寄せる。
トイレに行きたくなった。車から十メートル程の所に道の駅の小さなトイレがあった。が、外に出る勇気はない。しかしこのまま朝まで我慢し続けるのは無理というものだ。こんな時、簡易トイレでも持っていればと思う。ぐずぐず迷っても仕方がない。ようやく決心してレインコートを着込み、フードを深く被ってドアを開けた。凄まじい突風と雨が吹き込んでくる。これでは壁や布団まで濡れてしまう。小さな電灯ひとつを目印に走る。顔は瞬時にして雨にまみれ、スニーカーの足元もずぶ濡れになった。スニーカーが濡れると、車内では中々乾かないので厄介なのだ。一度濡らすと、数日は踏む度にぐしょぐしょと水が鳴る靴で、居心地悪く歩く羽目になる。だからこれまで極力スニーカーは濡らさないように旅してきたのに、一瞬にして水を吸ったスポンジのようになってしまった。
トイレの小さな入口の軒下に人が何人か座っていたので、ぎょっとして立ち止まった。中には男子トイレの内部に入って立っている人もいる。自転車の学生たちだった。
「大丈夫ですか!」
声をかけると、後ろから肩を掴まれた。
「陶子ちゃん」
ソラの蝋のように白い顔が黒いレインコートのフードに囲まれて宙に浮かんでいた。
「ソラ! 何してるの?」
「ボクたち、テントに居られない。吹き飛ばされてダメ。ここなら屋根があるから少なくとも雨は防げるでしょ。女の人も居るけど、壁と屋根に囲まれたとこに居る。そこは狭くてボクたち入れない。だからここに居るの」
「ここじゃ寒いでしょ!」
叫んではみたものの、あたしは五、六人にもなる男子学生たちとソラを交互に見比べて困惑した。自分の車に入れたいけれど、この人数では無理だった。ソラだけでも助けたいが、他の人達をどうすればいいかわからない。
「私の車に二人くらいなら乗れるかな」
怖る怖る提案してみる。車は八人乗りのバンだが、助手席に柵を張って犬仕様にしてしまっているのと、後部座席は全て倒してベッドにしているので、大人の男が二人も入れば自分と三人でいっぱいだと思われた。残りの人達はどうすればいいのか。
「僕たちは大丈夫ですよ」
眼鏡をかけた背の高い学生の一人が、肩を竦めて言った。フードに囲まれた顔は判別がつかない。
「ここに居れば大丈夫ですから。お二人お知り合いなら、どうぞ車に行ってください」
「でも…」
「仲間同士なんで、誰か一人が抜けがけであったまるとか、できないですから」
隣に居た背の低い学生が体を揺らす。
「俺たち六人も居るんで。女子二人は何とか雨露凌いでます。それだけでも良かった。どうぞお二人で行ってください」
「交代であったまりますか?」
あたしは風の音に負けないようにうんと声を張った。いいアイディアだと思った。一時間位ずつ、交代で車に入ればいい。
「そうしようよ」
ソラが言う。
「いや、ほんとに大丈夫なんで」
眼鏡の学生が鼻の前で手を振った。あたしとソラは顔を見合わせた。ソラはこの若い人たちを見捨てて行けないだろう。諦めの表情がその白い顔を過ぎった。現状、譲り合って結局誰も来ず、無駄に終わる雰囲気が人々の間に漂った。あたしが決めるしかない。
「とりあえずソラ、ソラがまずあたしの車に来れば。一時間くらいしたら誰かと交代すればいいし」
ソラの死人のように青ざめた顔に安堵の表情が微かに差した。
「わかった。とりあえずそうする」
全員が納得した顔だった。
「走るよ」
「ウン」
あたしが先に雨を突いて駆け出し、ソラが後に続いた。たったの十メートルがとてつもなく長く感じた。水に潜ったようにびしょ濡れになる。車のドアを素早く開け、スニーカーのまま布団の上に飛び乗ると、上がってくるソラに手を貸して、あたしたちは重なって倒れこむように車の奥へと転がり込んだ。ジョエルが驚いてそこらを飛び跳ねている。二人同時にもの凄い勢いでレインコートを脱ぎ捨てると、目を見合わせてハハハと少し笑った。
「陶子ちゃん、これはキツイよ」
「キツイね」
あたしは座席の下の物入れからタオルを二枚引っ張りだし、一枚をソラに渡した。しきりにお礼を言いながら、顔や首筋や髪の毛を、ソラが滅茶苦茶に撫で回している。あっという間にソラの長い髪が逆毛になって天を向く。その様に笑い転げながら、エンジンをかけてエアコンをつけた。アイドリングは普段極力避けているが、非常時なら仕方がない。あたしたちは体を暖め、乾く必要があった。しばらくの間、自分の体を擦ったり、手に息を吐きかけたりして、二人は何も言うことができなかった。
「やっぱり陶子ちゃんはボクの女神ねー。あ、やばい、また語尾伸ばしちゃった」
モヘアのシーツの上であぐらをかき、ソラは革ジャン姿で伸びをした。
「うわ、濡れないってシアワセ」
ソラに毛布を投げかけて、自分にも毛布とジョエルを引き寄せ、あたしはソラと向かい合った。車の中が一気に狭くなる。狭くなっただけでなく、空気まで圧縮されたように感じる。ジョエルがソラにひたと目を据えて、ウウと低く唸っている。
「全くこの犬はどうかしてるね。ボクは恐い人じゃないのに」
「だよね」
「あの学生さんたち可哀相ね」
「うん」
「でもとりあえず仕方ないね」
「うん」
「ボク、陶子ちゃんに触りたかったから、この状況はラッキー」
「ええ?」
「アハハ。触りたいの。でもその犬が邪魔してダメだね。陶子ちゃんを守ってる」
あたしはどぎまぎして咄嗟にジョエルを抱き締めた。すると何だかソラを怖がっているような、避けているような空気が生まれた。それは本意ではなかった。あたしは話題を変えた。
「ソラの話し方、変わったよね。語尾がほとんど伸びてない」
「陶子ちゃんに言われてすぐ直したもの。これでもすごく気をつけてる。前にも言われたよね。二度も言わせちゃった。さっきは癖でちょっと伸ばしちゃったけどね」
「そうなの? ところでソラって本当は何人?」
ソラがちょっとの間沈黙した。毛布を肩から巻いて俯せに横になる。顔の左側だけをこちらに向けて、綺麗な色の瞳が揺れながらあたしを見ていた。
「だからフランス人って言ったじゃない」
「それ、ほんとう?」
「何で信じない?」
「何となく。違うかなって」
ソラが片肘をついて両目を上げた。
「うそ。本当はボクはイランから来た」
「イラン?」
「そう。すごく遠い国。イラン」
「フランスより近いよ」
「ほんとだ。確かに近い」
「何で嘘つく?」
ふーっとソラが溜息をついた。毛布を少しいじって髪に手をやり、それからジョエルに手を伸ばす。ジョエルが警戒を解いてソラの指の先をぺろっと舐めた。
「だって驚くと思って。日本人の女の子、イラン人って言うと最初警戒するね。フランスの方がイメージいい。日本人の女の子、フランス絶対好きでしょ」
「絶対とは限らないけど」
「いや、イランよりフランスの方が好き。イタリアとか。でもボク、イタリア人に見えないからね」
あたしはイランの一般的なイメージについて思いを巡らせてみた。確かに不穏なイメージもあるが、いい側面だってある。長い歴史とか。そう、栄光の歴史、例えばササン朝ペルシャとか、豪華な絨毯とか。いつか都内のギャラリーで見た遊牧民の素朴なキリムとか。美意識の高い民族なんだなとあたしは思ったのだ。
「イランを警戒するってのは、例えば核開発疑惑とかアメリカと仲悪いとか、政治的な話のこと?」
「それもあるし、イラン人は昔、日本にいっぱい出稼ぎに来てて、偽のテレフォンカード売ったりヤクザとつるんだりしてた人がいて、でもそれはほんの一部の奴らなんだけど、それで犯罪者のイメージある。戦争のイメージもあるね。長く戦争してたから。陶子ちゃんだってイラン人怖いでしょ?」
ソラの透明な目の色が少し濁り、真剣な光が宿ってまともに見詰めてくる。長い髪が蒼白な頬に落ちかかる。
女の絶叫のような風が轟いた。その度にバラッバラッと雨が窓を打つ。あたしはその音に耳を澄ませながら、自分がこの嵐に少し怯えているのに気づいた。大風ごときに怯えるなんて情けない。でも今、ソラがここに一緒に居てくれることを神に感謝したいような気持ちだった。
「あたしはないな。イランに悪いイメージなんて」
「ほんとに?」
ソラが薄く笑って体を伸ばす。足の先が布団からはみ出していた。大きな人だな。それともここに男性を入れたことがないからそう思うのか。
「それは良かった。陶子ちゃんステキ。陶子ちゃん、眠いよ。一緒に寝よう。ジョエルも一緒に」
ソラが空いた腕を伸ばしてあたしの肩に触れてきた。あたしは焦った。素早く頭の中で考えを巡らす。やばい。今日の下着は何を付けてたっけ。そうだ、ちょうどいい塩梅に新しいピンクの下着を穿いてたんだった。温泉には昨日入って体を洗っている。ちょっと待て。あたしこの人と寝る気なんてあんのか? いや、そんなのまだ早すぎる。この人のこと好きかどうかまだわかんないし。ゆきずりの行き当たりばったりってのもありっちゃあありなんだが、それにしてもこの嵐の中で? いやいやいや待て。あたしってば先走って何考えてんだか。何も寝るって決まったわけじゃないし、この人、そんな意味で言ったんじゃないかもしれないし、あたしが勝手に早とちりしてたら恥ずかしいし、でも…。
「なあんにもしないから陶子ちゃん。今、一瞬心配したでしょ? ボク、そんな人じゃないよ」
ソラはあたしの背中に腕を回して体を引き寄せ、ついでにジョエルも抱き寄せた。ちょうどジョエルを挟んで、ソラと向かい合って横たわる形になった。ジョエルは大人しくソラにされるがまま、黙って伏せの体勢を取って二人の間にちょこんと収まっている。
「あの学生さんたちと交代しなくちゃならないから、それまでの間ほんのちょっと、陶子ちゃんの隣で眠りたいだけ」
ソラは目を閉じた。黒く長いまつ毛が目の下に影を作っている。男の人のこんなに長いまつ毛を初めて見た気がした。突然、手を伸ばして触りたい誘惑に駆られる。何だか背中の方がむずむずして、頬が火照った。ジョエルがあたしを見ている。「こいつ、別に危険なやつじゃないんじゃない?」あたしもソラに倣って目を閉じた。ソラは寝息を立て始める。スースーと気持ちの良さそうな音だ。不快感はなかった。ジョエルの背に腕を乗せ、毛布を肩まで引き擦りあげて、あたしは安心しきって少しウトウトした。ひどい嵐の中で、よく知らない男と共に、狭い車内で横たわるなんて訳のわからない状況に陥りながら、こんなに安らかさと平穏を感じるなんて、自分でも意外だった。
三十分程眠っただろうか。ふと視線を感じて目を開けると、ソラが片肘をついて微笑を含んだ目であたしを見下ろしていた。あたしは慌てて起き上がった。
「よく寝てたね。交代の時間だ。陶子ちゃんはここに居て。ボクが次の人を呼んでくる」
「大丈夫ソラ? これから一晩、外に居るつもり?」
「大丈夫、大丈夫。ボクは雨風には慣れてるね。何度も嵐には遭ったよ。こんなひどいのは初めてだけど。バイクのことも心配だ。倒してきたけどね。風に飛ばされてないか見てこないと」
「わかった。じゃあ気をつけて」
ソラはレインコートを着込んでフードを深く被ると、湿った革靴に足を突っ込んでドアを開け、急いで閉めて出て行った。一瞬鋭い風が舞い込み、モヘアのシーツの裾を捲くりあげた。ドア付近のシーツはすっかり濡れている。
しばらくして、学生が一人、運転席の窓を叩いた。窓のロックを開けると彼は運転席に飛び乗ってきて、バタンとドアを閉めた。
「後ろに来たらいいのに。そこは狭いでしょ」
後部のスペースをなるべく広く確保するために、運転席も助手席も一番前まで席を引いていた。足を置くスペースにも困るはずだった。
「いいんですここで。ほんとすんません。入れて貰って助かります」
男子学生はそう言って窮屈な座席で苦労しながらレインコートを脱いだ。あたしはヒーターの温度を上げて毛布を一枚彼に渡した。
「ちょっと温まったらすぐ行きますから」
そのまま学生は黙り込んでしまった。凍えて口も聞けないようだった。三十分位したら、彼は嵐の中に再び出て行った。
その夜は運転席のロックは開け放しで、ひっきりなしに学生たちが交代で出入りした。あたしは人が出て行く気配、バタンと閉まるドアの音、ガサガサとコートを脱ぐ音、誰かが体を縮めて車のヒーターに手をかざす気配などを、ぼんやりと頭の隅で感じながら眠りに落ちた。
風の音は絶えず頭の中心にあって、夢の中にまで吹き寄せてきた。大風に吹き晒された渡来夫婦が腕を絡ませ合い、どこかの荒野を一歩一歩足を踏みしめながら歩いていて、風に抗して必死に体を前に倒している。都志の姿が次第に透けていく。やがて二人は手をつないで大地を蹴って宙に舞い上がり、上空をひたと見詰めたままぐんぐん上がっていき、そのまま濃い灰色の空に溶けていった。あの二人、ひょっとしてまともじゃないんだろうか。あたしは騙されているんじゃないか。何か見落としていることがあるんじゃなかろうか。そんなことを思ったところで目が覚めた。
風は収まり、カーテンを透かして薄い日が差していた。運転席にはもう誰も居なかった。あたしはジョエルの体を抱きながら毛布に巻かれて俯せになっていた体を起こした。目を擦ると光が飛び込んできて、安堵の思いが全身に広がった。
ジャージの上からダウンを羽織って外に出てみると、昨夜の学生たちが駐車場をウロウロしていた。一人があたしを見つけて手を上げて、ちょこんと頭を下げた。一番手前に居た男の子が一人、近寄って来る。
「おはようございます。昨夜は本当にありがとうございました。おかげで助かりました」
その顔をあたしは全く覚えていなかった。当然だ。寝ていたのだから。爆睡していたに違いない自分の寝姿を想像して少し恥じ入りながら、挨拶を返した。
「とんでもない。あたしは寝てただけなので。皆さん無事でしたか」
「おかげさまで。女子二人も元気です。いやそれにしてもすごかったですよね。僕らサークルで九州一周旅行してて、でもこんな目に遭うとは思わなかったな。油断してましたよ」
「九州一周ですか。あたしも雨風には遭ってきたけど、昨夜みたいなのは初めてで。嘘みたいに今朝は晴れましたね」
ほんとうに嘘みたいに美しい朝だった。群青色のペンキで塗りつぶしたような空が広がり、風は心地よく、小鳥でも囀り出しそうな朝だった。
「陶子ちゃーん!」
コンクリートの壁の前で、バイクを前にしてソラが手を振っている。テントは結局畳んだようだった。あの風ではテントなんて意味がない。
「ソラ! 朝ご飯一緒に食べよう」
あたしは叫んで、飛び上がりながら手を振っていた。
鹿児島港に着いた。火山灰でも黄砂でもない、なんと雪が降っている。鹿児島に雪が降るなんて思わなかった。沖縄に旅立つ記念日に雪なんて。
ソラには行くなと言われた。沖縄には行かないで。このままボクと九州を周ろう。沖縄へ行くフェリーは車両代が高いから、もったいないよ。
実際その通りだった。人間の乗船料はドライバー一人分がただになるし、ペット代も千五百円だが、車両を載せるのに往復十六万円程要した。一年間も旅する予定の者には手痛い出費だった。しかしあたしには日本一周という譲れない目標があった。それで紛れもなく何かが変わると信じていたのだ。真人への怒りや煮え切らない想いを断ち切るため、仕事も恋も振り捨てて一から出直すには、自分の力だけで何か大きなことを成し遂げる必要があった。そうじゃなきゃ、一歩も歩みを進められない気がしたのだ。そうだ、あたしは今崖っぷちなのだ。だからどうしてもこの旅を完遂させる。自力で日本の全都道府県を制覇してみせる。
三月の終わり、あたしとジョエルは鹿児島港から、沖縄の本部港に向けて旅立った。二十二時間の船旅だ。あたしは二等船室、ジョエルはペット室のゲージに入れられた。ジョエルが見えない所に隔離されるのは不安だった。ジョエルには充分言い聞かせたものの、なにせあたしの言うことは全く解さないのだからどうしようもない。「どうして僕ここに入るの? 陶子ちゃんはどこに行っちゃうの?」と何度も訴えてくるが、いくら二十二時間の辛抱だからね、沖縄に行くんだからねと繰り返してもジョエルの頭には何の情報も入らないのだった。
幸いペット室は出入りが自由だったので、あたしは起きている間中、一時間に一度は彼の様子を見に行った。ジョエルは狭いゲージの中でちょこんとお座りの体勢のまま横目であたしをじっと見て、「早く出してよ、陶子ちゃん。僕捕まったの? これからガス室行くんでしょ。人間の卑怯者」と頓珍漢なことを訴えて憐れを誘った。
十六時出発予定が大幅に遅れて十九時発。ろくに説明もなしの三時間もの遅れが、これから行く土地の長閑な気分を表していた。
朝の五時。最初の港である奄美大島に着く。眠い目を擦りながら甲板に出て、暗い海を眺めた。奄美大島ではたくさんの乗客が降りて行った。十時、徳之島着。お昼頃、沖之伊良部着。いきなり海が真っ青になる。続いて与論島。見たこともないような海の青さだ。これ以上深い青があるだろうか。まるで宇宙の色。ここでいっそ降りたくなる。夕方五時、沖縄本島本部港着。
ゲージの中で用を足す習慣のないジョエルは、いくら言い聞かせても一度もオシッコをせず、二十二時間を耐えた。「陶子ちゃん、僕、ガス室の前に膀胱炎で死ぬよ」ジョエルが溜息混じりに言った。まず降りた港でオシッコをさせてから、車に乗り直して海岸に出る。ビーチでは沖縄の夕日があたしたちを出迎えてくれた。
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刻々と伝わる、東北の津波被害の惨状をテレビで目にしながら、あたしは東北で出会った人たちのことを考えていた。多くの人々に親切にしてもらった。あの人々は今頃どうしているだろうか。まさか流されたのでは?
海外からは続々義援金が届いていて、アフガニスタンの難民キャンプの子供たちが、自分たちは日本に世話になったからその恩返しがしたいと、なけなしの小遣いを募金する映像が映し出され、涙を誘った。この国は沈没したのだろうか。東北だけでなく、日本全体が海の底に落ちたみたいだ。
宮城県の女川では、津波は十八・四メートルに達した。岩手県の宮古では、高さ十メートルの世界一の防潮堤が崩壊し、二百人近い犠牲者が出た。世界一だろうが何だろうが自然の前では全くの無力だった。
父、母、姉、妹、祖父母、全て流され行方不明で、たった一人残された少年がインタビューを受けていた。少年は俯いたまま無言だった。レポーターは声を詰まらせた。こんなインタビューが成り立つはずがない。聞く方も聞かれる方も、言うべき言葉が思い浮かばないのだから。孫を助けて亡くなった祖母、寝たきりの義理の母を置いて逃げられず、一緒に流されたお嫁さん、外国人留学生を助けて自分は津波に飲まれた学校の先生、住民にぎりぎりまで防災無線で避難を呼びかけ流された、役場の若い女性。失われ続けた命、命、命…。
それでも東京のあたしたちは働き続けなければならなかった。会社に行き続けなければならなかった。現実の時間は容赦なく過ぎて行く。立ち止まることも赦されなかった。そのうちあの、放射能が襲ってきて、首都圏も恐怖に包まれた。不気味なのは恐怖の対象が目に見えないことだ。霧となって空気中を舞うでもなく、臭いもなく色もなく手で触れることもできない、実体のないものに包まれている恐怖。ほうれん草や小松菜、ブロッコリーが当分食べられないということがわかっても、命に別条がないのかどうかはわからなかった。
表向き、平穏を取り戻したかのように見える東京だったが、人々の心の中には嵐が吹き荒れていた。少なくともあたしはそうだった。ある一つの疑念に取り憑かれ始めていたのだ。
沖縄の旅は三週間の予定だった。東南アジアの田舎町のような雰囲気の街角や、透明と緑と青に煌く海原を見ながら、琉球王朝の遺跡や沖縄地上戦の戦跡を巡り、北部のやんばるの森へも行った。
沖縄の食べ物は、学生時代に旅行した台湾の食事を思い出させた。全体的に薄味だが食材が豊富。毎日沖縄の食を楽しんだ。
那覇市の国際通りから通じる第一牧志公設市場の食堂で食べたシンプルなゴーヤチャンプルー。沖縄ではチャンプルーに麸を入れるのだと初めて知った。抜群に食感が良くなるのだ。毎日食べても飽きない「ちんすこう」、アメリカ生まれ、沖縄育ちのブルーシールのアイスクリーム、夢中になった「海ぶどう」。とろとろの三枚肉をのせた「沖縄そば」、生のよもぎがたくさん入った「てびち(豚足)そば」。しゃきしゃきレタスのタコライス。スパムを挟んだライスバーガー。那覇の市場で売られていた「ジーマーミー豆腐」。デザートのようでデザートではない、かなり柔らかめのピーナッツ味の豆腐に、生姜の効いた甘辛のタレを付けて食べる。たった百円のこの豆腐の、言葉に尽くせぬ味といったら!海岸で、岩場にびっしり生えるアオサを拾って帰ってスープも作った。深い磯の匂いがした。
浦添市や宜野湾市、太平洋戦争末期、米軍が本土初上陸した読谷村などを通り、恩納海岸を走り抜けた。戦争があった、基地問題もある。それでも沖縄はあたしにとっては眩しすぎる楽園だった。感傷に浸るには不向きな場所なのだ。
三週間ぶりにフェリーで鹿児島に戻ると、空気が少しひんやり感じられた。四月の上旬で、気候は春先の不安定さを残していた。桜島は相変わらず火山灰を降らせている。ここでは時間が止まっていることに、あたしは少なからず安堵を覚えた。
熊本に入って小瀬戸内と言われる美しい海岸線に囲まれた天草諸島の上島、下島をドライブし、長崎の教会群を見て回った。佐賀の呼子の朝市を見物し、名物の新鮮なイカを食べ、門司港に沈む夕日を見ながら関門トンネルを抜け、山口県に渡る。海岸沿いに北上し出雲市に入ると、島根半島日御碕の突端にどんと聳え立つ灯台、日御碕灯台がある。白い波頭が岸壁に砕け、今にも灯台に襲い掛かりそうだった。高さは日本一だという。灯台の中はペット不可とあったので、ジョエルを連れて岩畳の上を所在なく彷徨う。
灯台周辺には遊歩道が整備されていて楽に歩けたが、少し外れると波に洗われたような尖った柱状の奇岩が続く。断崖絶壁と群青色の海のコントラストが鮮やかだ。ジョエルは夢中で歩き回っていた。この犬は岩山や山道や深い森に来るとすっかり本能を取り戻して我を忘れてしまい、話し掛けても答えもしない。観光客もまばらな静かな平日の午後、あたしたち一人と一匹は無言で奇岩を登ったり降りたりした。聞こえてくるのは波の音だけ。
その時だった。灯台の方から片手を挙げてこちらに近づいてくる、右足を少し引き摺った男性の姿が目に入った。あたしは逆光に目を細めた。
「おーうい、青江さーん!」
「渡来さんじゃないですか!」
ジョエルが気がついて走り出した。あたしもジョエルの怪力に引き摺られて走る。
「お久しぶりです」
「久しぶりだなあ、青江さん」
あたしは危うく渡来を抱き締めそうになり、慌てて身を引いて老人の腕に自分の手をかけるに留めた。胸に喜びが溢れてくる。また会えた。また会えるなんて奇跡に近い。渡来の両の瞳も、こちらが恥ずかしくなるくらい輝いていた。焼けた肌に真っ白な歯が眩しい。老人の、潮で色抜けしたような白髪の襟足に、手を伸ばして触れたい欲求をかろうじて抑えた。
「元気でしたか? どれくらいだろう。二ヶ月振りくらい?」
「そうですね。前にお会いした時はまだ寒かったもの」
少し痩せて皺が増えたように感じたが、渡来も元気そうだった。ジョエルを撫で回す両手にも力が入っている。
「都志さんは?」
あたしの問いかけに老人は答えなかった。片膝を付き両手で犬の顔を包んで擦り、熱心に覗き込んでいる。
「今、灯台に登ってきたところなんだよ。内部に螺旋階段があってね。登るのはきついけど、ほら、ここ日本一高い灯台だから。でも展望台からの眺めは絶景だったよ」
渡来は下を向いたまま喋り続ける。あたしは都志を探して周囲を見回した。
「島根半島がぐるっと見渡せてね。遠くに見える山は、ありゃ中国かな。いや、すごいもんだね」
中国が見えるわけないと思ったが聞き流し、灯台の入口付近や遊歩道、波が打ち寄せる断崖絶壁辺りにも目をやるが、老女の姿はなく、ただ白い泡が垂直に上がって崖の手前で砕け散るのみだった。
「渡来さん…」
「青江さんも登ってみたら。そうか、ワンちゃんはわたしが見ていてもいいよ。入場料がかかるけどもね。二百円は痛いけど、払う価値はあるな」
「渡来さん」
強く言うと渡来は膝を付いたままあたしを見上げてきた。苦悶の色がその瞳に宿っている。あたしは思わず身を固くした。
「都志が居ないんだよ」
「居ない?」
「最近、時々居なくなるんだよ」
「居なくなるってどうしてですか?」
老人は膝を付いたままの姿勢で崖の向こうの波頭を見やった。先程まで若々しく見えた顔が今は無様に崩れている。こめかみ辺りに黒々とシミの浮き出た横顔には焦燥と疲れが滲んでいた。あたしは思わず目を逸らした。
「昨日は居たんだ、確かに。確かにね。でもその前の日は時々ふっと姿を消していた。居ないと思うと、しばらくすると戻って来る。でもまた急にふっと居なくなる。最近居なくなるんだよ。いったい彼女はどうしたんだろう」
老人は自分に問いかけるような静かな声で呟き続け、顔を上げようとしなかった。九州の小鹿田焼きの里での不思議な会話を想い出した。あの時確かにあたしは「見えないってどういうことですか!」と霧の中に向って叫んだのだ。どう贔屓目に見てもおかしな会話だったので、あたしは真剣に取り合おうとしなかった。渡来が、呆けているのではないかという疑念がまたしても頭を過ぎった。しばらく忘れていた感覚だった。
「居なくなるはずないですよ。買い物にでも行ってるとか…」
「数時間、長い時は半日位、戻って来ないんだよ」
渡来の声は嗄れて震え出した。それが老人特有のものなのか、それとも泣いているのか、あたしには見当もつかなかった。
「確かに居るのに。青江さん見たでしょう? 妻は確かに居るのに。なのに居なくなるんだよ、時々。どうしてなのかわからない。どうすればいいのかわからない。いくら都志に問い掛けても答えてくれないんだよ」
老人の焦点の定まらない瞳があたしを見上げて揺れていた。汚れ切った子供のようだ。しっかりしてくれと、その肩を乱暴に揺さぶりたくなる衝動をかろうじて抑えた。
「前にお会いした時…。霧の中で見えなくなった時…。その事を言ってるんですか? それなら気のせいですよ。あたしは自分の気のせいだと思いました。だから今もちょっとどこかに出かけているだけですって」
「いや、そうじゃないんだよ青江さん。都志は居なくなってしまうんだ。本当に。どうすれば戻ってくれるだろう。妻が戻ってくるのをただこうして待っているだけじゃ、気が狂いそうなんだよ、わたしは…」
語尾が、下手な口笛みたいにぶるぶると震えて聞き取れなかった。渡来が大声を上げて泣き出すのではないかとあたしは心配した。このような大の大人、いや老人に、目の前で泣かれたらお手上げだ。あたしは渡来の気を逸らそうと焦った。
「この二ヶ月間ほどは、どこを旅してたんですか。この辺りですか」
渡来はジョエルが鼻先で彼の顔をつついても微動だにしない。
「山口とか広島とか岡山とか。中国地方をうろうろしてた。事故を起こしかけてね。危なかったよ」
渡来はようやく立ち上がってこちらに力無い視線を送ってくる。
「最近よくエンジンが止まってしまうんだ。道の真ん中で急にね。その度に往生したが、この前は交差点の真ん中で止まってしまって。右折しようとしてたんだけど、後ろの車に軽く追突された。お互い怪我は無かったし、わたしらの車が悪いんで、車の修理は頼まなかったよ。後ろが少し凹んだけれどね」
「その時、都志さんは?」
「助手席にちゃんと乗っていたよ。シートベルトはしていたから、怪我はしなかった。元気にそこに居たんだよ」
「そうですか」
あたしたちの間に、また沈黙が流れた。ふんわりと甘い初春の風が、二人の隙間を吹き抜けていく。
ジョエルが人間の会話に待たされるのに焦れてそわそわしだしたので、あたしたちは駐車場に向って歩き出した。緑の並木が遊歩道に濃く影を作っていて、吹き抜ける潮風は海の色だ。一人であれば心浮き立つほどに楽しい気分なはずなのに、老人の悲嘆が伝染し、あたしの心は彼と共に重く沈み込んでいた。一体どこに行ったというのだろう、あの上品な老女は。
「もう妻はこの岬には居ないのかもしれない。どこかで彼女を見失ってしまった。青江さん、わたしは一足先に行きます。松江に戻ってもう一度あの街を探してみる」
松江はこれから行こうとしていた街だった。それでも、一緒に行こうとあたしは言わなかった。あたしはあたしで都志を探してみよう。車で旅しながら姿を消すなんておかしな話だが、渡来がそう言うのだから仕方がない。都志を乗せぬまま発車してしまったのか、途中で彼女が降りたのに気がつかなかったのか。どちらにしてもこのお年寄り達なら、どんなことでもしでかしそうな気がした。
駐車場に着くと挨拶もそこそこに、渡来は難破船のようなボロボロのワンボックスカーを発進させて行ってしまい、取り残されたあたしはジョエルの足をタオルで拭いて助手席に乗せた。「陶子ちゃん、あの人少しイカレてるね」ジョエルが鼻を鳴らした。「僕あの人大好きだけど、でもイカレた匂いがするよ。僕には匂う」。「滅多なこと言うんじゃないの、ジョエル」あたしはジョエルを叱った。口には出さないが自分の頭の隅をコツコツと叩き続ける疑念を、ジョエルに代弁させたような気がして罪悪感に駆られた。
胸騒ぎが収まらないままに、出雲へ行って出雲大社に参拝し、そのまま四三一号線で松江を目指した。渡来を追い掛けるような形になってしまうが、心配なのだから仕方がない。
県庁所在地で島根第一の都市である松江には、近代的な高いビル群も都会的な華やかさもない。県庁所在地の中で最も人口が少ないというのも頷けるような静けさが漂っている。しかし二つの湖に挟まれた小じんまりとした平野に、必要なものは過不足なく揃っており、城下町として程良く栄えていた。広すぎず狭すぎず品良く佇む街の姿には好感が持てた。松江城の隣に県庁があるという立地にも驚く。
松江城のパーキングに車を入れ、ざっと見渡したが、渡来の車らしきものはない。駐車料金三百円は渡来には高いだろうから、パーキングには停めないのかもしれない。松江城では松江開府四百年祭りが開催されていた。黒々とした瓦が立派な美しい城が聳え、城の庭では花見の宴が繰り広げられている。
ジョエルを連れて城内をくまなく歩くが都志の姿は見えない。だいたいこんな広い所で一人の人間を探そうなんて無茶な話だ。あたしは自分の浅はかさに呆れながら城を出、お堀の周辺の店や、武家屋敷の黒い塀が続く通りを虚ろな気分で歩いた。小泉八雲の旧居もある。何も無い時であったなら、楽しく散歩できたはずの街だ。しかし今は、困惑して疲弊し切った老人一人の力にすらなれない無力感に苛まれ、流れゆく景色もどこかよそよそしかった。
日が西の空を薄い橙に染め、肌寒さを感じてあたしは捜索を諦めた。宍道湖の湖畔に道の駅があったのでジョエルを連れて向かう。小さいが湖岸の景色がいい清潔な道の駅で車を停め、あたしは再びジョエルの夕方の散歩に出かけた。
波のない、ゼリーのように滑らかな湖面に、薄青い空を垂直に割いて白色の夕日が沈んで行く。なだらかな山と僅かな建物が見え、水鳥が岸辺に集っていた。しんとした時間が流れる。しじみの貝殻が岸辺に黒々と積み重なっている。
ガードレールの脇に見覚えのある軽自動車が停まっているのを見つけて、胸が逸った。視線の先に渡来の黒い姿が見えた。膝の抜けたパンツのポケットに両手をだらしなく突っ込んで、放心したように湖を見詰めている。
「渡来さん!」
薄闇の中で、血走った目がこちらを振り返った。よく生きていると思うほどのボロ切れのような老人は、砂浜に散ったしじみの上で今にも波に吸い込まれそうに見えた。あたしは走って行ってしっかりと彼の腕を掴んだ。
「見つかりましたか?」
「ああ、あなたか」
老人は弱々しく笑った。
「一瞬都志かと思ったよ」
「見つからないんですね」
「ああ」
「それならもう自力で探すのは無理かもしれないから警察に…」
「そうじゃないんだ」
あたしの話を遮って吐き出すように言うと、老人は湖面に視線を移した。
「わたしらが見てた都志は最初から居ないんだよ。いや、居たことは居たのだが、本当は居ないんだ」
「どういうことですか」
訳がわからずに混乱した頭であたしは考えた。やっぱりこの老人は正気じゃないのだろうか。
「わたしはあれが一度死ぬのをはっきりと見た。一度彼女は死んだんだよ」
「死んだっていつ? どこで? いったいどういうことですか?」
「わたしの話をあなたは聴いてくれるのかね。信じてくれるのかね。とても信じられんと思うが」
「いえ、信じます。一体どうしたんです?」
両手をポケットに突っ込んだまま、渡来は静かな波が打ち寄せる岸辺を、サンダルの足が濡れるのも構わずゆっくりと歩き出した。あたしは彼に歩調を合わせ、数歩後ろをついて行く。彼は静かに語り出した。
7
テレビのニュースや新聞では、日々刻々と被災地の死者数・行方不明者数が増え続けていた。逆カウントダウンのように無表情に増えていく数字に実感はなかった。あたしたちがこれまで生きてきた、命を重々しく扱う日本という国で、真夏の氷片のように人命が軽々と失われているという事実がうまく飲み込めなかった。東北のことを考え出すと、恐ろしさに頭の芯が痺れるように痛くなって、あたしは現実から逃れようともがいた。
別れ際の「彼ら」のことにようやく思いを馳せられるようになったのは、震災から三週間程たった三月の下旬のことだった。見ない振りをしていた影を影とせず、正面から向き合う気持ちの余裕が生まれていた。
あの日は東北に花びらのような粉雪が舞っていた。クリスマスが近づいていた冬の寒い一日だ。あたしは自分の旅の終わりを彼らに告げた。一年四ヶ月にも及ぶ旅だった。予定が思いがけず延びてしまったのだ。所持金が底を尽き、体力気力も尽きた。
「家に帰ろうと思います。とりあえず実家ですけど」
渡来の目を真っ直ぐ見るのが怖くて、伏し目がちになった。嘘をついているわけでもないのに、瞬きが多くなった。
「いいんですよ、青江さん、あなたには世話になった。わたしら、あなたに会えて良かったと思う。いつかお帰りになると思ってました」
「私こそお世話になっちゃって。お別れするのはとても辛いです。これからも旅を続けられるんですよね」
「あと三、四ヶ月は東北に居ると思います。寒いけど、冬の東北をもっと体験してみたいの。それに旅っていうか、あたくしたちは帰らないから。これは放浪って言うのかしらね」
都志が赤茶けた額に手をやって、そっと雪を払った。ひらひらと舞う雪が都志を消し去りそうだった。あたしたちは岩手県の雫石に居て、彼らはこれから遠野に向かうという。冬の東北を、スタッドレスタイヤなしで走るつもりかと聞いたら、チェーンがある、と渡来が言う。必要な時は外に出てチェーンを巻くのだ、と。少し心配になったが口には出さなかった。
「何かあったら携帯に電話してください。最近は公衆電話が少ないから電話も大変かもしれないけど」
あたしはあらかじめ用意しておいた携帯番号を記したメモを、渡来に握らせた。
「何かなくても電話していただけると嬉しいです。無理ですかね」
「いやいや。私の携帯の番号もお教えしますよ」
渡来は意外にも携帯を所持していた。尻のポケットから傷だらけのガラケーを取り出すと、あたしが渡したメモを半分にちぎってそこにナンバーを書き付けた。渡された小さな紙切れにあたしは見入った。初めて見る渡来の字だった。細くて繊細な、女のような丸文字。粉雪が落ちて、字が滲みかける。あたしは慌ててメモをダウンのポケットにしまった。
「それじゃ」
「それじゃね」
「さよなら」
あたしは一瞬渡来夫婦を抱きしめたい衝動に駆られた。一人一人にギュッと抱きついて、その薄い肉や骨、体温、老いた体臭までもこの身に感じたいと願った。もう二度と会えないのではないかという予感が突き上げてきて足が一歩動く。しかし二歩までは動かなかった。自分を曝け出す恐怖が勝った。
あたしは彼らに背を向け、ジョエルの待つ車まで歩いて行くとそっと振り返った。粉雪の中に彼らがひっそりと寄り添って立っていた。鼻がつんと痛くなって、泣くまいと空を見上げた。気の遠くなるような空白の広がりからボタボタと落ちてくる物体を顔にまともに受けて、もう無理だと思った。気温は零度。これからどんどん寒くなる。彼らはいつまで保つだろうか。もう一度振り返って彼らの姿を目に焼き付けた。あたしが車で遠ざかる間、二人はずっと手を振っていた。
あれから三ヶ月。あたしはようやく渡来に電話をかける決意をした。こんにちはの挨拶だけでいい、元気でいるとのひと言だけでいい、彼らが存在している証が欲しかった。
携帯で番号を押す手が震えて何度も間違え、一文字ずつ消しては数字を入力し直す。呼吸を整えて、携帯画面を耳に押し当てる。所在無い右手はいつの間にかジョエルの体を抱き寄せていた。プルル、プルルと無情な音が響く。出るだろうか、出るわけない、でももしかしたら。あたしは携帯を鳴らし続けた。二十回目の呼び出し音を数えて切った。留守電にも切り替わらない。どういうことだろうか。あたしは再び番号を画面に入力する。一回、二回、三回、四回、もうやめろと頭の中で声がする。あたしはなおも鳴らし続けた。十八回、十九回、二十回。携帯を切る。かけ続ければいつかきっと出るに違いない。渡来の陽気な声が画面から飛び出してきて、あたしは仰け反って喜ぶだろう。
それから一週間、あたしは仕事の昼休憩、家路の途中、ジョエルと寛ぐ夜のひとときに渡来の携帯を鳴らし続けた。「現在使われておりません」でも「電波が届かない場所にある」でもなく、留守電に切り替わるでもない、いつ何回かけても呼び出し音だけが鳴り続ける不気味な携帯だった。ストーカーまがいの着信履歴を見れば、さすがの機械音痴の渡来も気が付くに違いない。それとも携帯を所持していても使い方がわからない、もしくは音が鳴っていても出方がわからないとか? まさか。いやあり得る。大体、あの金のない渡来が携帯の使用料を月々払っているなんて信じられない。滞納しているとしたら、使用停止になったのかもしれない。でもならば「現在使われてない」旨のメッセージが流れるはずではないか。あたしはあらゆる可能性に考えを巡らせ、よく吟味しては一つ一つその可能性を潰していった。
「わたしは昔、原宿の小さなデザイン会社に勤めていてね。表参道口を出て、洒落た店の並ぶ通りの裏手にある小さな会社でね、そこで働きながら四十を過ぎてから所帯を持って、都志と娘の沙耶と三人静かに暮らしていた。幸せな会社人生だったよ。仕事は好きだったし、妻と娘を心から愛していて、彼女たちのために生きていると思っていたから。でもどこかに漠然とした物足りなさというか、平穏に過ぎてしまった人生ってのも悪くはないんだが波風立たない生活ってのも、平和すぎて、頭の隅っこの方には、これで良かったのかなというか、ちっちゃな惑いの塊みたいなものをいつも抱えてはいたがね」
「娘さんが居たんですか。知らなかった」
あたしはそこで驚きのあまり渡来の話の腰を折った。渡来が微かに顔を俯けたので、何かまずいことを聞いたのだと思い口を噤んだ。
「あれは一九九二年の秋頃、仕事が終わったらすぐに家へ直行していたわたしだが、春の初めで空気が心地良かったせいだろう、ふと会社の周りを散歩してから帰るかという気になった。表参道口から神宮橋を渡ると明治神宮だが、夜は門が閉まっている。そこで道なりにぐるっと回ってみると代々木公園に着いた。普段は縁のない場所だ。そこで不思議な光景を見たんだ。日本人じゃない、欧米系でも東南アジアでもない、おそらく中東系、でもアラブ人ではないような顔つきのごつい男たちが、原宿門の前にたくさんたむろしてた。最近表参道口の改札へ抜けるスロープで時々見かけるようになった奴らだ。彼らはここに集まるのが目的だったのだなと思った。薄暗い代々木公園内に目を凝らして覗いてみると人だかりがあり、街灯の弱い橙色の光で人間の頭が照らし出されてて、しかもそれが全員男で。何か露店のようなものがあり、煙も立っているようだった。
わたしはしばらくその場に立ち尽くしてた。頭の後ろの方が誰かに支配されたみたいに、ここはどこだ、ここはどこだ、ここで一体何が起こってるんだって声が響いてるんだ。あれがショックを受けるってことなんだなって後から気づいた。今でもあの時のことをよく思い出すよ。夜の公園の入口で、男たちが群がり薄明かりに照らされて、煙の中でゆらゆら揺れてる光景。何か運命的なものを感じたね。しばらく門の外から眺めてたんだけど、その時、魔が差したっていうのかね、よせばいいのに、日本人なんか一人も居なさそうなその集団の中に、いっちょ入ってやるかって気になった。だいたい、わたしは子供の頃から外国が好きでね。外国というか異文化だね。カルチャーショックを受けるとゾクゾクするんだよね。その時がまさにそんな感じ。それがたまらなくて、大きくなったら世界をまたにかけて働くんだとずっと夢見てた。ところが大人になって、気がついたら普通に就職してたのね。英語が不得意だったからかな。子供の頃の夢なんて忘れてたね。その忘れてた幼い頃の諸々とかが一気に噴き出してきてね、ええい、ちょっと恐いけど、恐いもの見たさで行ってやれってね。それで踏み出した。それが運の尽きってわけだよ。へへっ」
暗く沈んでいた渡来の顔に一瞬輝きが戻り、少年のようなはにかんだ笑みが口元を掠めた。あたしはそれを見上げてほっとした。大丈夫、話している間は悲嘆にくれずに済むかもしれない。あたし達は砂の上をゆっくりと移動していた。湖の波は静かだ。辺りも音ひとつなく静まりかえっていた。
「人混みの中にそろそろ入っていくとね、集団の男たちが全員わたしをジロジロ見て、そして集団が分かれていって細い道ができた。最初はみな無言だったね。わたしは煙の上がってる方へ行ってみた。串焼きを焼いてたんだよね。油が滴って、何だか獣臭くて、香辛料の匂いもして食欲をそそった。じっと見てたら隣にいた男がね、チャイニーズかって聞くのね、それで違う日本人だって言ったら驚いて、日本人はこんな所に来たりしないって、たどたどしい日本語で言うの。俺が奢ってやるってポケットから二百円出して串焼きを買ってくれた。キャバブっていう羊の肉。ミンチにして串に巻きつけてあるんだけど、これが旨かった。どこの料理だって聞いたら、イランだって。「ワタシたちみんなイラン人」って。
彼の名はアクバルといった。お互いに自己紹介してわたしたちは仲良くなった。どうして代々木公園に集まってるんだって聞いたら、自分たちは日本で働いてるけど、仕事の後、遊びに行くところがないからって。「イラン人公園好きね、イランではみんな公園にピクニックに行く。ここに来ればイラン人たくさん居て情報あるね。友達にも会える。ワタシたちここ好きね」って。全然知らなかった。連中がこんなに日本に働きに来てたなんてね。「日本人、わたしたちに近づいて来ない。あなた珍しいね。勇気あるね」そう言ってアクバルは喜んでわたしの肩を叩いた。体格のいいアクバルの太い腕で叩かれるとちょっと痛かった。
彼と一緒に公園内を歩いた。幅三メートル位の道の両側にいろんなものが売っていた。カセットテープ売りはイランの怪しい音楽を大音量で流してる。くねくねした文字の雑誌や本、ペルシャ語だね、とかカメラや時計、指輪やネックレス、煙草や服やスニーカーまでね。煙草なんか、バラにしてね、一本いくらで売ってるの。道に布を広げてそこで。もちろん日本のものじゃないよ、みんなイランのもの。通勤ラッシュ並みに混雑してるんだけど、わたしの顔を見て、みな少し驚いて振り返って行く。ベンチに座って弁当を食う人や男同士肩を組む連中、大声で喋ったり煙草を吸ったり。酒を飲む人はさすがに居なかったね。イランじゃ禁止だもんね。アクバルが隣で、商品の説明を一生懸命してくれる。彼は埼玉の工場で週六日働いてて、その日は金曜日だったが金曜日はイスラム教の休日なので、原宿まで遊びに来たんだ。ブロークンな日本語喋るし、敬語とか全然使えないけど話は良くわかったよ。
何で日本に来たんだって聞いた。そしたら彼が言うには、イランは長い間戦争をしてて、戦争が終わったのはいいけど仕事が無く、兵役を終えた人は外貨が優先的に手に入ったし、ちょうど日本にはビザ無しで行けたから日本に来たのだと。「日本はケイザイ、グッドでしょう。でも最近ダメになったね。」太い眉を下げてひどく悲しそうな顔をする。イラン・イラク戦争のことはわたしもニュースで見て知っていた。聖戦、ジハードとか言って日本の昔の神風特攻隊みたいに戦車に人が突っ込んで行くの。最後の方は少年兵とか駆り出されて大勢死んでね。息子の遺体の写真を見せながら泣く母親がテレビに映ってて、悲惨なんだけど、何だかグロテスクなのね。思わず目を逸らしてしまう。イランって変わった国、国民感情が激しいというか、ちょっと今の日本人には理解できないような、暗くて不気味で近寄りがたい国だと思ってたね。
ところが目の前のアクバルは大きな図体でニコニコ笑ってるし、アクバルの友達だというアリってやつが来て、そいつがまた気さくで明るいのね。わたしのことをイラン人の中に来てくれた仲間だってすごく喜んでね、案内してくれるし、あさって日曜日に自分たちの家に遊びに来いと。どうしようかなと思ったんだけど、約束させられてね。「あなたワタシのうちゼッタイ来る」って言うから「絶対?」って笑っちゃってね。それで、要するに出稼ぎか、日本でちゃんと稼げてるかって聞いたら、アクバルもアリも少し深刻な顔をした。今度話すって、とりあえず約束させられた。イランの料理を家で振舞ってくれるらしい。急な展開になってわたしは本当に驚いていたが、正直嬉しくもあった。さっき勇気を奮ったばかりなのに、もう友達が出来たんだものね」
宍道湖に夜の帳が降りてきた。湖の向こうに見えていた山の端も闇に沈んだ。渡来の話は止まらなくなってきていて、あたしは不安になった。とりあえず、道の駅に戻って何か食べ、渡来を落ち着かせて寝かせなければならない。こんな時にソラが居てくれれば頼りになるのに。
あたしは恐る恐る渡来の話の腰を折った。
「渡来さん、寒くなってきたから、もうそろそろ車に戻りましょう」
「話はまだ始まったばかりなのだけど。聴いてくれるのだろう、青江さん」
「お聴きしますよ。でも続きは明日でもいいし」
「わたしは明日もう少し先に進んでみようと思ってる」
「でも都志さんは?」
「彼女が消えたのはここだけど、旅を続けていれば戻ってくるかもしれない」
「どういうことですか」
「都志は根っからの旅好きだ。ここで待つのもいいが、旅を続けていた方が戻ってくる確率は高いだろう」
「そうなんですか」
あたしには訳がわからなかったが、渡来の思い詰めた目を見ていたら何も言えなかった。あたしは、ガードレール脇に停めてあった渡来の車を誘導して湖岸にある道の駅に戻った。湯を沸かしてカップラーメンを作り、食欲がないと言い張る渡来に無理矢理食べさせた。
「明日はどこまで行きますか? あたしは、この先内陸に入ろうと思っています」
「わたしは兵庫県の朝来市に向かおうと思っている。そこに竹田城という城があってね。雲海に包まれると空にぽっかり浮かんでいるように見えるんで『天空の城』って呼ばれていてね、二度行ったんだが運悪く雲海は見られなかった。都志がもう一回チャレンジしようと言っていたんだ。だからここまで来たら行ってみようと思う。青江さんもどうかね」
「わかりました。では朝来市に向かいます」
「向こうで会えるといいね」
あたしたちは、あえて細かい待ち合わせ場所や時間を決めなかった。会いたいと思っていれば必ず会えると思ったのだ。
鳥取市まで北上してから内陸に入り、国道二十九号を通って長いトンネルや峠を越え、朝来市の道の駅「但馬のまほろば」に入った。新しくて広々としており、道の駅の前には古墳もある。良い道の駅に入れた時には気分がいい。あたしにとって、道の駅はホテルと同じだ。今晩の道の駅を決める時の気持ちは、今日はどんなホテルで寛げるだろうと期待する気持ちに近い。
ここから竹田城はすぐ傍だ。今晩はここで寝て、明日の朝一番で城を見に行こうと情報を集める。雲海に浮かぶ城は早朝に見られる。但し季節や天候によってであり、早春のこの時期は見られる確率は低いらしい。
ジョエルの散歩をしながら渡来の車を探したが見当たらなかった。道の駅には泊まらないのか。あの人のことだから、そこらの公園や草むらにでも車を停めて寝るのかもしれない。少し心配になったが、その思いを頭から振り払い、明日に備えて早めに寝袋にくるまった。
朝五時。ジョエルを叩き起こすと「なに、なに」と目をしょぼしょぼさせてジョエルがぶつくさ文句を言う。あたしの足元で寝ているのだが、ふくらはぎに乗せた両頬がつぶれて平たくなり、かなりの変顔になっている。変な顔で文句を言い続ける犬を連れてそそくさと散歩を済ませ、ヨーグルトとパンだけを食べて、竹田城を見渡せる雲海スポット、立雲峡に向かう。朝来山の中腹にある駐車場に車を停め、ジョエルと山道を登り始めるが、かなりきつい。今が盛りの若いジョエルは、跳ねるように土を蹴り岩を登って行く。あたしはジョエルに引っ張られる格好だ。約四十分で展望台に着く。
しかし朝六時過ぎの絶好のタイミングにも関わらず、朝霧は立たず、雲海はない。人もいない。数キロ先に見下ろせるのが竹田城だ。羽柴秀吉によって落城させられた城だが、岩を積み重ねた土台は堅牢で、この山城を落とすにはさぞかし難儀をしたに違いない。いつまで待っても雲海の気配はないので、諦めて山を下りることにした。ジョエルに引っ張られてほとんど走るように下り、駐車場に着くと、そこに渡来の車があった。
あたしたちは挨拶を交わし、再会を喜びあった。渡来は相変わらず一人だった。夕べはこの駐車場で夜を明かしたという。
「竹田城にはまだ登っていない。青江さん、一緒に登りましょう。ワンちゃんも行けるから」
あたしたちは車に乗り込み、向かいの城まで二台連なって走った。渡来の運転は危なっかしく、センターラインにやけに近づいたり、左の歩道にふらふらと寄っていったりして、後ろに付いているとはらはらした。これでよく、今まで無傷で日本中走ったものだ。
竹田城は標高三百五十メートル。聳え立つ石垣は高い崖のようだ。ジョエルを連れ、渡来と石垣に囲まれた草地をゆっくりと歩き回った。天守閣跡には梯子で登れるようになっている。一番高い場所なので眺望が良く、一メートル程の高さの石垣に囲まれていて小さな庭のようだった。他の観光客もいないのでジョエルのリードを外した。ジョエルにとっては天然のドッグランだ。「陶子ちゃん、ここいいね!」と尻尾をぴんと立てて喜び、走り回っている。渡来と二人、それを眺めながら石垣に腰を降ろした。
「お話の続きがあるんですよね」
「ああ。どこまで話したっけな」
「代々木公園でイラン人と仲良くなって、家に遊びに行く約束をしたところ」
「そうか」
渡来はざんばら髪をかきあげ、前を向いてしばらくの間、記憶を探るように遠い目をした。それからふーっと大きく息を吐いて、あたしを見てにっと笑った。そして語り始めた。
「彼らと代々木公園で会った次の次の日だ。わたしは妻に断って、約束場所に勇んで出向いた。埼玉の川口の駅で待っていると、時間に少し遅れてアクバルとアリともう一人、知らない男が三人並んで歩いてきた。ダボダボのジーンズを履いて髭面の男たち三人はとても目立つ。知らない男はアリのいとこでファルシードといった。川口駅から彼らのアパートまで四人で歩いた。二十~三十分位かかったかな。随分遠いと思った。自転車で来るとかバスに乗るとかの距離だと思う。そうしないのかと聞いたら、歩くのは平気だとアクバルは笑った。彼らはとても仲が良い。三人絶えずお喋りをしていて、時々アクバルがわたしに話しかける。
アクバルのアパートは木造二階建ての二階で、昔風のボロアパートだ。四畳半一間に小さな台所がついていた。畳が日に焼けてそそけている。アクバルは薄い扉を開けてわたしを嬉しそうに招き入れた。これからイランの料理を作ってくれるという。「ワタシのトモダチ、他にも来るね」。その言葉通り、しばらくして二人のイラン人がアパートを訪ねて来て、わたしたちは六人になった。狭い部屋で膝を突き合わす。髭面の体格のいい男たちばかりで迫力満点だ。
アクバルの作ってくれた料理はうまかった。イランの主食は意外にも米だそうで、皿に大量に盛られた米を見て嬉しくなった。牛肉をミンチにして串に刺して焼いた香辛料たっぷりのシシカバブと、焼いたトマトと一緒に米を食べる。シチューのような煮込み料理もあった。アクバルの家のお袋の味だという。アクバルはテヘラン出身で、他の五人も皆テヘラン出身だと言うが、よく聞くとテヘラン郊外の小さな村から出てきたらしい。家族や友人の絆を大事にするイラン人は、忙しくても週に一度の休日にはこうやって同胞で集まって食事をするのだという。
親切で気のいいイラン人たちがすっかり好きになっていたわたしは、彼らが日本でどんな待遇を受けているのか気になっていた。住環境は決して良いとは言えない。職場はどうなのか。満足して働けているかどうか、わたしはアクバルに尋ねた。アクバルは少し俯いて、その太い眉を寄せしばらく押し黙った。「渡来さんいい人。いい日本人。あなたになら話すね。仕事、うまくいってない。ワタシ、悩んでる。社長さんはいい人よ。時々日曜日に社長さんの家でご飯ご馳走してくれる。でもワタシの給料もう三ヶ月くれない。いつもあと一ヶ月待ってって言う。ワタシ国に仕送りできない。小さい印刷会社で、ワタシの仕事は厚い紙をたくさん、パレットから断裁機のところまで持って行って紐をカッターで切って断裁機にかける。機械を止めないように一生懸命速く運ぶ。力仕事ね。いっぱい汗かく。でもワタシのアパート、家賃は少しだけど風呂ないね。銭湯は行かない。イラン人は人前で裸にならない。恥ずかしいね。だからワタシ台所の水道でタオル濡らして体拭くだけ。日本人の社員がアクバルは臭い臭いって言うね。イラン人はお前みたいに皆臭いのかって。鼻を摘んで手の平をひらひらさせる。臭いから昼飯の時もあっちに行けって言われてグループに入れてくれない。飯がまずくなるって。すごく悲しいね。ワタシ一人でご飯食べるのイヤね。友達とみんなでワイワイ食べたい。イラン人はみんなそう。ワタシ、昼休みはとても嫌いな時間。もうワタシ、ノイローゼね。イランに帰りたくなる。
日本人の社員はすごく意地悪。中でもヒガシって若い社員が特にね。仕事は朝八時から夜六時まで。でも残業ある時は必ずやるね。お金欲しいから。十時頃までやることもある。社長さん喜ぶ。お前はよく働くなあって。でもワタシ褒められるとヒガシが必ず嫉妬するね。帰る時こっそり機械の速度上げる。そうすると追いつかなくてワタシ走り回る。両手にいくつも紙の束を持って走る。紐が手に食い込む。追いつかない。機械を止める暇もない。くるくる走って死にそうになる。汗噴き出して目が回る。ヒガシがそれを見てげらげら笑ってる。ワタシ頑張れば頑張るほどあいつはバカだなって笑う。ワタシは、社長さん機械止めてーって叫ぶ。ヒガシは仕事できないし、サボってばっかり。ワタシにガイジンのくせに、イラン人のくせにって言う。イラン人はイランに帰れって言う。ワタシ悲しいけど、何も言わない。渡来さん、ガイジンのくせにって何? どういう意味かワタシわからない。ガイジンは日本にいちゃいけない? ガイジンは一生懸命働いちゃいけないのか? イラン人だとイジメられるのは何故?」
アクバルは濃い睫毛に覆われた大きな目を見開き、泣きそうな顔でわたしを縋るように見詰めてくる。その場の空気が急に重苦しく感じられ、胸が冷えた。「そいつは卑劣な奴だな。そのヒガシって男は」わたしは呟いた。「人間が卑しいんだ」「ヒレツって何?」わたしはその問いかけには答えられなかった。「日本人がみんなヒガシのような奴ばかりじゃない。たまたまだよ」
アリのいとこのファルシードがふいに左手をわたしの目の前に突き出した。わたしはぎょっとし、両目はその手に釘付けになった。小指と薬指がない。欠損しているのだ。「この手、どうしたと思う? ワタライさん」アクバルがファルシードの左手を握って言う。「どうしたと思う?」「戦争か?」「戦争じゃない。ワタシたち、みんな戦争には行った。でもケガしなかった。少しだけケガした人もいる。でも少しだけ。生き残った。戦争でもケガしなかったのに、日本に来てケガした。仕事中にね」「仕事中? どういうこと」「ファルシードは工場で旋盤が落ちてきて指なくした。潰れたの」その後をファルシードが引き取った。「機械が落ちてきた。ワタシのせいじゃない。指がぐしゃぐしゃになって、社長さんと病院に行った。すごくすごく痛かったよ。指はもう切断するしかなかった。ワタシこの手じゃ仕事できない。病院のお金は社長さんが出してくれたけど、その月の給料だけ貰ってワタシ仕事辞めた。もう仕事ない」「労災は下りなかったの?」「ローサイ? 知ってるけど、聞いたことあるけど、下りるわけない。でも会社に責任あるとワタシ思う。とても困ってる」
わたしは言葉を継げずに押し黙った。俄かには信じられなかった。三ヶ月給料貰ってない? 怪我をさせておいて、そのまま放り出した? 日本人相手ならあり得ない。外国人だからなのか。わたしは今までこの国に生きる人間の間に広く根付いている良心のようなものを信じて生きてきた人間だった。それなのに今、過酷な現実を突き付けられて自分がひどく浅はかな人間であると感じ、腹の奥から沸々と怒りが湧き上がってきた。嫌な話を聞かされて、頭に血がのぼって顔色が変わっていたと思う。日本が狂気のバブルに酔った時代は終焉しつつあったが、それでもまだ慢性的な人手不足は続いていて、雨後の筍のように沸いて出てくる外国人労働者は使い勝手が良く、また切り捨てやすい労働力なのだろう。経営者側の思惑は透けて見えるが、相手は生身の人間だ。あまりの惨さに目眩がした。
後で調べて徐々にわかってきたんだが、一九七四年に日本とイランはビザ相互免除協定を締結して、日本への出入国ビザが要らなくなった。一九八八年、イラン・イラク戦争は休戦したが、戦後のイラン経済は低迷したため、ビザなしで渡航できる唯一の経済大国であった日本へのイラン人の出稼ぎ者が急増した。しかし一九九二年、つまりこの年だったんだが、不法滞在者の増加が原因で日本はイランとのビザ相互免除協定を終結してしまう。しかし、日本からの帰国者が大金を稼いできた上に悪い話はしなかったため、日本への出稼ぎ希望者は歯止めがかからず、ひたすら増加し続けた。イランのテレビでドラマの「おしん」がちょうど流行っていて、金曜の夜に四話まとめて放送されてたんだが、その時間帯には町から人通りが途絶えるほどの人気だったんだ。日本のイメージは良くなって、みなあの国に行きたいと考えるようになった。イラン人は旅行好きだしね。
でも元々外国人に慣れていない日本人にとって、肌が浅黒く、多くが口髭を蓄えた体格の良い人々、そして中東系ということもあって珍しく、イラン人はちょっと怖いイメージを持たれたんだな。その彼らが、故郷を遠く離れた寂しさと、親類縁者などの血縁や友達とのつながりを大事にする彼らの性格もあって、街角に群れるようになった。でも街角で群れていると警戒される。イスラム教の戒律が厳しいイランでは娯楽が少なく、遊びというと、公園や郊外へのピクニックが主流らしい。そのせいもあって、彼らは公園が好きだった。街角よりも集まりやすく、自分たちだけの世界を作れる公園なら彼らにとって好都合だ。大勢が集まると仕事の情報交換もできる。それでイラン人たちは代々木公園や上野公園に集まるようになったんだ。本来決して群れるのが好きな人々ではないんだけど、異国での過酷な生活からの自衛の要素が強かったんだろうな」
渡来の話はここでしばらく途切れた。次に続くのが語り辛い話なのか、それとも単に話疲れただけなのか。全く突飛な話に思えた。昔のイラン人の話と都志の話がどう繋がるのか疑問だった。
石垣の塀に前足二本を掛けて首をぐっと前へ伸ばし、ジョエルが城の下の何かを眺めている。何が見えるんだろう。犬が城の下の何に興味を持つのかなんてわからず、あたしは首を傾げながらしばらく渡来と黙ってその様子を眺めていた。今日は天気が良さそうだ。空は高く、青々と冴え渡っている。
「お腹が空きませんか、渡来さん」
あたしが声を掛けると、渡来は首を振った。
「全然」
あたしは昼食を食べていなかった。おそらく渡来も。だが昼食のことを持ち出す雰囲気ではなかった。渡来は何か考え込んでいるようだったし、この竹田城天守閣跡の一角は、語らったり、思索にふけったりするのに絶好の場所に思えた。
再び渡来を見ると、目を瞑っている。思索にふけっているのではなさそうだ。寝ているのだ。渡来を起こすのを躊躇って、少しの間、ジョエルと天守閣のドッグランを走り回った。古の人が触れた大地を蹴って存分に。渡来の頭が右に左に揺れている。この人は疲れて眠たいのだ。妻を探しあぐねて彷徨って、きっと夜もよく眠れないに違いない。あたしは渡来を起こして車に戻ることにした。
渡来の肩にそっと触れると、彼は皺の寄った瞼を薄く開けてあたしを見上げた。
「眠ってしまったかな」
「ええ。話はまた今度にして、車に戻りましょう」
渡来の腕を取ってジョエルのリードを引き天守閣を降り、城の中を突っ切ってあたし達は歩いた。渡来の腕に絡ませた手を、離したくなかった。渡来もされるがままになっていた。あたしたちは恋人同士のように寄り添って、右足を引き摺る渡来に歩調を合わせ、ゆっくりと山道を歩いて駐車場まで辿り着いた。
あたしのシルバーのバンの横に、真っ赤なバイクが停めてある。心臓がどきんとひとつ跳ね上がった。
「ソラ!」
バイクの横から、ヘルメットの跡がついた薄茶の髪をぐしゃぐしゃと掻き上げながらソラが現れた。あたしたちを見て足を止める。あたしはそっと渡来の腕を離した。
「陶子ちゃん、久しぶり」
ソラが笑った。心ごと吸い込まれそうな笑顔だった。
「たまたまこのお城に来たんだけど、何と陶子ちゃんの車が停まってるじゃない。ボクってラッキーと思ったよ」
言葉が出てこないあたしの前へ、ソラはずんずん歩いてきて、いきなり頭をポンポンと叩いた。
「会いたかった」
あたしも、と言いかけて隣に立つ渡来を見ると、小柄な渡来は目を細めてソラを見上げている。
「友達のソラさんです」
あたしは渡来に紹介した。
「彼はイランから来たんですよ」
「ほうほう」
渡来がしきりに頷いている。
「こちらはお友達の渡来さん。旅で知り合ったの」
「サラーム」
渡来が唐突に言ったのでソラは目を見開いた。
「ああ、サラーム」
「ペルシャ語でこんにちはっていう意味だよ」
ソラが説明してくれる。
「渡来さん、ペルシャ語がわかるんですね?」
「ほんの少しね」
「へえ」
あたしは今にもペルシャ語で喋り出しそうな二人を期待を込めて交互に見詰めた。ソラは失礼と思われるほど渡来を上から下まで眺め回し、時々あたしの顔を見、また渡来に目を移して観察している。この人誰? 大丈夫陶子ちゃん、とその目は言っていた。どんなに眺められても、渡来は平然としている。
「渡来さんはね、奥さんと二人で長年旅してらして、でも事情があって今は一人なの。今、一緒に竹田城に登ってきたとこ」
ジョエルはソラには飛びつかず、ソラの足元でこちらもまた丹念に匂いを確認している。「陶子ちゃん、またこいつだね。でももう僕そんなに嫌いじゃないよ」ジョエルが鼻をヒクつかせながら言っている。そのジョエルをかまうのも忘れてソラは渡来に見入っていた。
「青江さんのボーイフレンドかな?」
渡来がニコニコしながら言う。
「いえいえ、あのそんな、えーっと…」
「そうなんです。ボク、陶子ちゃんの彼氏です」
あたしの言葉を遮って、ソラが声を挙げた。渡来はまだニコニコしている。
「ええ? ソラ、何言ってるの!」
あたしは思わず叫んだ。頬が熱くなってくる。
「違うの?」
ソラが真面目な顔を向けるので、あたしはソラの腕を掴んで渡来から二、三歩離れ、声を潜めて抗議した。
「いつ私がソラの彼女になったの? 急に変なこと言わないでよ」
「だって、あのオジイサン誰よ。仲良さそうにしちゃって。陶子ちゃんはボクの陶子ちゃんじゃない?」
「馬鹿!」
ソラの腕を叩いて、渡来を振り返ると、渡来が今度は真剣な顔つきで天を振り仰いでいた。
「渡来さん、これは誤解なんです」
「若い人はいいですね。都志と初めて会った頃のことを思い出します。人を好きになるというのは大事なことです。その人を丸ごと受け取ることですから。お互いに受け取り合える相手なんて、そうそう見つかるものじゃない。人生とは大事な誰かを探す長い長い旅のようなものかもしれない」
気のせいか語尾が少し震えていた。渡来が泣いているように見えて、思わずあたしは目を逸らした。
ソラが興味を惹かれた風に渡来を振り返った。あたしは渡来の唐突な言葉を心の中で反芻する。大事な誰かを探す旅? それは違う。あたしなどとっくにその可能性を放棄しているのだ。そしてそんな人間は幸せにはなれないのだ、きっとそうだ…。
「ボクもそう思います。ボクは奥さんとダメになったけど、これからも誰かを好きでいたいと思うんです」
ソラの発言が引っかかり、首を傾げてソラを見上げた。ソラは何? とおどけた顔をしてみせる。
「奥さんいたの? ダメになった?」
「そう。ボク、結婚してたの。一年前にダメになったね。リコンした。とても残念。隠してたわけじゃないよ。聞かれなかったから言わなかっただけ。でもボク、レンアイは全然、諦めてないよ」
へえ、日本の草食系男子に聞かせてやりたいようなセリフだな。ふーん、結婚してたの?
結婚してたのに言わなかった男については大いに心当たりがある。最近になってまた、旅なんてしてどうする、早く帰って来いと携帯にメールを送ってくるアイツ。無視しているけど読むだけは読んでいる。自分の未練がましさにうんざりする。
「陶子ちゃん、びっくりした? リコンした男は嫌い?」
ソラは渡来の存在など忘れたようにまた彼に背を向けて、身長差のあるあたしの顔を真剣に覗き込んでくる。こんな状況を渡来に見られているのが、あたしは恥ずかしくなった。
「嫌いって、別にそんなことないよ」
「お二人さんの、わたしはお邪魔かな? 良ければわたしは少し車の中で横になって、その後東へ向かいたいんだが」
ソラの背後で渡来が重そうな瞼を瞬かせた。
「え、東ってどこへですか?」
「遠いけど、能登半島目指してゆっくり行くよ。あそこは都志が好きだったから」
「能登半島を?」
「ああ、一度回ったことがあってね。その時、必ずまた来ましょうって二人で約束したのでね。青江さん、あなたは共に居る人を見つけるべきだ。わたしも都志を探し続けます」
兵庫から、京都、滋賀、岐阜と内陸を抜けて北陸までというと大分ある。観光しながらだと、あたしが渡来に追いつけるかどうかはわからない。今度会えるのはいつだろう。ひょっとして渡来はこのまま行方をくらますつもりじゃなかろうか。あたしは焦った。
「渡来さん、お話の続きはどうなるんでしょう?」
「ああ、話ね。長くなるからね。あまりいい話でもないし。また今度ゆっくり話しましょう」
「話って?」
ソラが割り込んでくる。
「いいの。あたしたちだけの話。ソラには関係ないの」
ソラが青白い頬の片側を引きつらせた。突き飛ばされた子供のような目で突っ立っている。しまった、とあたしは後悔した。
「ごめん。ソラ。話せば長くなるから…」
「もういいよ、陶子ちゃん」
不貞腐れた顔のソラが、落とした赤いヘルメットを拾ってジョエルの頭をちょっと撫でた。
「ボクが行くから」
「あ、待って、ソラ、そうじゃなくて!」
自然に動いた足を止められずにあたしはソラを追いかけた。今渡来を置いて行きたくはない、渡来が心配なのにソラを追いかけてしまっていいのか。でもソラにはやっと会えたから。会いたかったから。ずっと会いたかったから。ソラに触れたかったから。
「待って!」
赤いバイクの傍らでソラの腕を捉えた。長い髪が顔を半分覆っていてソラの白い顔に濃い影を作っていた。
「行かないで。せっかく会えたのに」
血の気の引いた顔を翳らせ、ソラは暫く黙っていた。初めて見るソラの、表情の失せた顔だった。
「関係ないって嫌なコトバ。ボク嫌いだね」
「え?」
「関係ないって前にも言われたことある。関係ない、関係ない。全部否定するコトバ。日本語の中で一番嫌い。人と人とは関係でできているでしょ。関係なかったら何もないと同じ。ボクの言う意味わかる?」
あたしは視線を彷徨わせて押し黙るしかなかった。
「陶子ちゃんは人と深く関係しない。表面だけだよね。むしろ何かから逃げてるように見えた。ボクだけじゃないでしょ、関わろうとしない人は。今日、あのオジイサン見てびっくりした。あの人と陶子ちゃんすごく親しいんだね。そういうの初めて見た。それは良かったけど、ボクには関係ないなんて言わないで。寂しいよ」
「ごめん」
いつも屈託なく明るいソラを、どうやらひどく傷つけてしまったらしいことに困惑した。こんなに会いたかった彼に剣呑な態度を取った自分が悔やまれた。一体あたしはこの人をどうしたいんだろう。
「陶子ちゃん、この後どこへ行く予定? せっかく会えたんだから一緒に回ろうよ」
頭で考える前に顔が頷いていた。どうとでもなれという、自棄のような気分がどこかに取りついている。たまには感情のままに動いてみたっていい。ソラを本当はどう思っているのか、自分を試してみたっていい。
渡来がゆっくりとした動作で軽の薄汚れたワンボックスに乗り込んでいる。さよならを言おうとして片足を踏み出したが、窓越しに渡来が目で制するのが見えた。目を細めて泣き笑いのような顔で片手を挙げたかと思うと、ワンボックスがアスファルトの上を静かに滑っていって、やがて見えなくなった。ジョエルがあたしの数歩前に出てじっと見送っている。ジョエルは渡来がとても好きなのだ。あたしも好きだ。それなのにまた渡来を見失ってしまった。
「陶子ちゃん」
ソラがあたしの左肩に手を置く。陽光が両肩にほんのり暖かく感じられ、そこにソラの手の温もりが加わって、熱い。
「陶子ちゃん、陶子ちゃんにもう一度会いたいと思ってボクすごく探したよ。有名な観光地は全部回ったし、道の駅に行ったら必ず駐車場一周して車をチェックしたし。それでも方角間違えてたらアウトだよね。東に進んでるだろうとは思ったけど。会えたのは奇跡ね。やっぱりボクたち赤い糸。こんな所で会えるなんて」
ジョエルがリードの先で、茶褐色の瞳をソラの顔にじっと当てている。「陶子ちゃん、こいつにまた会えて僕意外と嬉しいよ。陶子ちゃんは嬉しくないの? なんで悲しそうなの?」ジョエルが言う。いや嬉しいよ、そりゃ。とあたしは答えた。
ソラとあたしはバイクの上で日本地図を広げ、頭を寄せてこれから向かう場所についてあれこれと相談し合った。一人旅のつもりだったのに、他人と地図を広げ合うことになるなんて全く、一寸先のことはわからないものだ。あたし達は福知山盆地を抜けて京都を突っ切り、滋賀を通って福井へ向かうことにした。
福井の先に見えるのはもちろん、石川県、能登半島だ。あたしの目は自然、日本海に突き出したその鈎のような形の半島に吸い寄せられてしまう。
岐阜や長野については話し合いが必要だった。岐阜は山がちで飛騨高地があるし、長野には中央アルプスがある。あたし達はそれでなくても、これまで日本の多くの山々を越えてきた。山また山、山、山、山。山を越えなければ、どこにも行くことができなかった。人間の土地は非常に狭い。日本の国土の実に七割が山に専有されているのだ。車と言えども山越えはテクニックがいるので緊張する。気力が削がれていく。長時間の山越えには体力もいる。そうして山越えして、苦労して辿り着いた先のほんの小さな空間に、いつも街があった。ああ、あたし達はこんな小さな所に暮らしているのか、と呆然とする思いだった。そしてあっちの世界やこっちの世界、それぞれの世界があって、それぞれに生きていて、人と人、自然も動物も、お互いにお互いを知ることはないのだ。世界はそういう風に成り立っているのだ。当たり前のことかもしれないが、旅に出てあたしはそのことを初めて知った気がして、感動もしたし、無常をも感じた。
しかしそろそろ長旅の疲れが出ているあたしに、アルプス越えは必要なこととは思えなかった。しかも今度は車とバイクの並走だ。山岳地帯は危険なので避けて行こうということに二人の話し合いはまとまった。
「へへへ、旅は道連れね」
ソラが嬉しそうに笑う。あたしも何だか楽しくなってくる。一人旅も良いけれど、誰かと一緒に美しい風景を分かち合うのもいいものだ。ジョエルが足元で「ヴァウンヴァウン」と吠えた。「陶子ちゃん、こいつと行くの? あのイカれた爺さんとじゃなくて?」「こいつじゃなくてソラでしょ!」あたしは憤然として答えた。「必ずまた渡来さんを見つけるから」