日本一周して見つけた私の愛
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後楽園の観覧車が、乾いた空に張り付いたように止まっていた。車輪の薄青いフレーム上に花びらのようにゴンドラが咲いていたが、その赤色が、妙にくすんで生彩を欠いていて、どうしてちゃんとした赤に塗り直さないのだろうと、何だか訳もなくむしゃくしゃした。
神保町から、真っ直ぐ歩いて水道橋まで来て、標識を確認してよし、池袋まで歩くかと、腹をくくって見上げた目の隅に、その観覧車は飛び込んできた。平日の午後四時。普段なら人影もまばらなはずの白山通りには、ぼつぼつ人の流れが出来始めていた。コートやダウンに身を包んで、おしゃべりに興じながら足早に通り過ぎていく人の中で、立ち止まってぽかんと上を見上げる人間の存在は明らかに邪魔だったが、そんなことは気にならなかった。
思いのほか、空が広い。東京の空はこんなに広かったかと思う。夢を見てるみたいだ。止まったままのゴンドラの、鈍い赤とその背景の、他人事みたいにがらんとした真っ白な空。だあれもあれに気づいてない。観覧車が止まってるのに。
あたしの横をすり抜けて、人の群れは動いていく。走る人はなく、振り返る人もいない。真っ直ぐ前を向いて歩き、そこには迷いがない。皆、目的地がどこかわかっているのだ。何が起きたのか、あたしにはまだわかっていない。物事のイミなんて、起きた瞬間にはいつだってよくわからない。ピントを合わせるのをうっかり忘れて、ブレててお話しにならない、一昔前のインスタント写真みたい。随分時間が経ってから、あっと思って後悔することもあるけれど、わかった時には、もう取り返しがつかない。
旅を終えて、半年が過ぎた。相も変わらずあたしはあたしだし、どっちみち不出来な自分を受け入れるしかないのだけれど、あの頃のように、もう立ち止まることはない気がするから不思議だ。
ジョエルのことが心配になってきた。ひどい揺れだったから、きっと怯えているに違いない。早く帰ってやらないと。ジョエルは、あたしのいわば心友であり悪友。長い困難な旅路を共にした茶色い顔の無邪気な戦友でもある。先っちょだけが白く、よく左右に動く雄弁な尻尾の持ち主。オスのビーグル、三歳。そして、この地球上のあらゆる生物の中で一番、あたしに近い。あたしには彼の感じていることがわかるが、彼にはあたしの考えていることは全くわからない。でもそんなことはどっちだっていいのだ。彼が、ただそこに居てくれるだけで、いつだってあたしの調子は上向きになる。茶褐色の瞳をじっと見詰めて、そこにあたしが映っているのを認めるだけで、種族の壁を乗り越えられる。今、ジョエルは茶色い顔を勇敢に上げて、震えまいと努力しながら、あたしが扉の鍵をがちゃつかせて飛び込んでくる瞬間を待って、じっとドアノブを見詰めているに違いない。
ジョエルのことを考えていたら、自然に足早になっていた。巡査が交番の前に立って、人々に道案内をしている。池袋までの道順を尋ねると、白山通りから不忍通りを左に折れてしばらく行くと、すぐに東池袋だという。巡査の丁寧な口調と態度に接して、少し気持ちが落ち着いた。ダウンジャケットを通して冷えきった風が肌をなぶる。雪の前触れのような、しんと地表に降りてくる寒さ。こんな寒い日には覚えがある。前年の冬、瀬戸内海の漁村庵治漁港に辿り着いた日だ。
その朝、四国で今年初めての雪が降った。道の駅に停めたミニバンのドアを開けると、滝の飛沫のような軽い粉雪が、さらさらと顔に吹き付けてきた。ジョエルを連れて雪の中を散歩していると、あら、かわいいビーグル、と足を止めた女性が、あたしの車の埼玉ナンバーを見て驚き、遠くから来たのね、こんな寒い朝は今年初めてなのよと笑った。
源平の合戦があった「屋島檀ノ浦」の古戦場跡が見たくて高松市から屋島を目指したが、古戦場跡は「ヴィラ檀ノ浦」という、どこまでも平らな住宅地に変わっていた。がっかりして、屋島の東側に見えていた半島に向かい、身の縮む寒さに思わず飛び込んだ温泉施設のポスターで、ここ庵治町が映画「世界の中心で、愛をさけぶ」のロケ地であることを知った。瀬戸内の海に舞う粉雪を眺めながら温泉に浸かり、洗い髪を急いで乾かして外へ出ると、さっきまでの乱舞が嘘のように、雪はぴたりと止んでいた。
映画に出てきたらしい写真館や電気店などを横目に見て路駐すると、助手席からジョエルを降ろし、コンクリートの堤防に沿って歩いた。下には広い砂浜があり、低い雲の下に濃緑の島々が間近に迫っている。あれは稲毛島、向こうは兜島、左手に見えるのは大島か。ジョエルを引っ張りながら地図と格闘し島の名を確認していると、青江さん、と声を掛けられた。顔を上げると、乱れた白髪頭の下に親しい一双の目があった。頬に血の気が昇ってくる。ああやだ、ここで赤くなるなんて。
「また会った」
「また、ですね」
あたしは地図を持った右腕を上げ、顔にかかった髪を掻き上げるフリをして、上気した頬を隠した。
老人の腿にジョエルが飛び付いて、再会を熱烈歓迎しだしたので、あたしは急いでリードを手繰り寄せた。老人は破顔する。
「ジョエル、元気だったかい? ああそうかい、元気か、元気か」
老人は腰を折って、ジョエルの顔を滅茶苦茶に撫で回した。ジョエルの尻尾が縄跳びの縄みたいに高速回転で回っている。
「青江さん、いつ来たの? ここ知ってると思わなかった」
「あ、たった今です。屋島からこの半島が見えたんで、ちょっと来てみたんです。偶然です。ほんとに」
あたしは最後の、ほんとに、のところに力を込めた。老人は黙って頷いている。いつものように、こちらの話す言葉などまるで聞いていないかのように。
「渡来さん、奥さんは?」
「港を散歩してる。向こうにすごくいい港があるんだよ。ここは映画のロケ地なんだってね。ええと、何て言ったかな」
「世界の中心で、愛をさけぶ」
「あ、そうそう。愛をさけぶ」
渡来は何がおかしいのかくっくっと笑った。
鳶色に焼け、深く皺の刻まれた顔から真っ白な歯がこぼれた。今年七十八歳になるという老人の歯にしては立派すぎると思うのだが、入れ歯ではないと本人は主張していた。四方八方に散った胡麻塩の髪は、もう長く鋏は入れていないらしく、首にかかるほど伸びて微風になびいている。年老いたサーファーのようだ。数えてみたいと思うくらいの無数の細かい皺に囲まれた瞳には、眠そうな重い瞼が垂れてはいたが、時折、何かおかしな事があると、早暁の最後の星のように、控え目にそっと輝き出す。顔全体にぱっと広がる清潔な笑顔、その屈託のなさに驚いて、あたしは一人でドギマギとする。でも実際には、枯木のように痩せ、時間の重圧に耐えかねたみたいに縮んで、タイムセールの売れ残りのような、吹けば飛ぶような老人なのだった。
あたしたちは庵治港に行ってみることにした。渡来がジョエルのリードを取った。ジョエルは張り切って尻尾をピンと立て、頭を雄々しく上げ、老人をぐいぐい引っ張って堤防沿いの道を歩いて行く。「僕について来て!」。自分がこの群れのリーダーだと思っているのだ。
雪は止んでいた。あたしたちは無言で歩いた。あたしは生来無口なほうだし、老人も明るいというほどでもない。老人の妻の都志さんも、物静かな人だった。
港の入口に、渡来の白い軽のワンボックスカーが停まっていた。江東区ナンバーのプレートが、泥を跳ねあげて無残に汚れていた。老人は、港の木造の電柱脇に佇む女性に右手を上げて、大きく左右に振った。
「おうい、都志。青江さんだよ」
ジョエルが女性の姿を見つけて興奮し、体を前のめりにして老人を引き摺るように進んでいく。あたしは女性に軽く会釈した。女性の背後には、光の加減によって、漆黒に、濃緑にと色を変える穏やかに波立つ海があった。
「お元気でしたか、青江さん」
小柄な老婦人は、ジョエルの額に手をやって微笑み、細い腰を丁寧に屈めてお辞儀をした。お元気も何も。この女性はとても腰が低い。孫ほどの年齢のあたしに対し、少しやり過ぎるくらい丁寧なのだ。その慎ましさに心動かされると同時に、ほんの少しの居心地の悪さも感じる。
「ええ、まあお元気というか。この前会ったばかりですよね。なんでこんなによくお会いするんだろ」
あたしは照れて恐縮した。
「縁があるんだよね、きっと」
渡来がくしゃっと顔を綻ばせる。年を取ると表情の無くなる人が多いけれど、この人はよく笑う。笑顔が似合うのだ。
渡来夫婦にはこれまで何度会ったかわからない。既に四か月に及んでいた旅の行く先々で、あたしたちは顔を合わせていた。まるであたしが、彼らを追いかけてでもいるかのようだ。そんなつもりはないのだが。いや、でもひょっとすると…。
庵治港は、半島の入江を囲むようにして、大きくもなく小さくもなく、すっぽり目に収まる範囲がそのまま港になっていて、オレンジや赤、黄色や青と、カラフルに塗り分けられた小型船が並んでいた。漁師の姿も観光客の姿もなく、静まりかえった港に、船体を打つ小さな波の音だけが響いていた。不吉なほどグレーの雲が時折途切れると、さっと光が射し、瀬戸内の海を青黒く染め、周囲の白い建物の影を水面に映す。小刻みに揺れる波頭が光って、建物の白が波に溶けた。視線の先には屋島の山々。
「こんなきれいな港ってないわね。あの突堤に行ってみましょうよ」
都志が港の向こうを指差した。漁協やら工場やらの先に、海に長く突き出た防波堤が見えた。ジョエルが港に置かれた漁網やブイを嗅ぎ回るので、犬に合わせてあたしたちはゆっくり歩いた。雲が嘘のように晴れてくる。西の空が色づき始めた。右側にテトラポッドがびっしり積まれた幅二メートルほどの堤が、長く長く伸びて海に落ちている。老人があたしを振り返った。
「その、なんとかいう映画では、ここで何かするのかね?」
「世界の中心で、愛をさけぶ」
あたしは辛抱強く繰り返した。
「そう、愛をさけぶ」
「ここは純愛の聖地って言われてるらしいですよ」
「みんな愛を叫ぶのかしら、ここで」
老女が口に指四本を当ててふふふと品良く笑った。
「いや」
あたしは記憶の底をひっくり返して、昔DVDで見た映画の内容を必死に思い出そうとする。あの映画、特別良くなんて別になかったけど、何だか妙にセピア色だったんだよな。『十数年前、僕は、世界が溢れるくらい恋をした』とか何とかクサいセリフがあって、彼女が白血病で死ぬんだよな。
「いや、ここでは愛は叫ばないと思いますよ。女優の長澤まさみが夕陽を背景に歩いて青春してたり、相手役の森山未來がアキーっとか言って夕陽に向かって叫んだりするんじゃなかったかな。女の子の方が病気で死ぬんです」
「ほうほう」と渡来が頷く。
「世界の中心、っていうのはここなんじゃないのあなた、きっと」
都志が真面目な顔で渡来の肩に手を置いた。
「いえいえ、世界の中心は確かオーストラリア? かどこかで。そこが神聖な場所だとかいう話で」
「あら、そうなの」
都志はがっかりして、今まさに沈もうとしている夕陽の方に目を向けた。あんなに曇っていたのに、この防波堤に来てこの夕陽とはタイミングが絶妙過ぎる。あたしは苦笑した。あたしたちはすでに防波堤の端まで歩いていて、三方を薄紫色の海に囲まれていた。
「ねえ、あなた。せっかくだから夕陽に何か叫びましょうよ」
都志が急に若返った感じで、娘のようにはしゃぎ出した。
「いいね。愛を叫ぶってのはどうかなあ。せっかくだし」
「それはちょっとお恥ずかしいのじゃない? 青江さんに笑われますよ」
都志がはにかんで微笑んでいる。
「いえいえ、私にお構いなく。どうぞ何でも叫んでください。せっかくですし」
あたしはせっかくですしせっかくですし、としつこく繰り返した。
「トーシー!」
出し抜けに老人が沈みゆく夕陽に向かって声を張り上げた。ジョエルが驚いて老人の尻に飛びつく。都志は、まあ、とかなんとか言って照れながら、でもまんざらでもない様子を隠し切れない。
「あなたー」
右手を口の端に当てて思い切り声を出した。
「トーシー」
「あーなーたー」
夕陽は何を言われても無言である。ジョエルが狼狽えて都志の脚にも飛びつき、二人の間をせわしなく行き来した。
「トーシー」
「一二さーん」
「なんなのこの人たち」ジョエルがあたしの顔を見上げて当惑気味に言った。本当に言うのだ、あたしには聞こえる。年甲斐もなく恥ずかしくないのかね、あたしは答えた。「ここは山じゃないんだよね。何を叫んでるの?」ジョエルが聞いてくるので、夕陽に向って愛を叫ぶことについて犬がどこまで理解するか、あたしはしばし考えた。「全くわけがわからないよ」キョトンとして二人を見上げるジョエルが憐れになってきた。さっきまでのテンションがすっかり下がり、尻尾はだらりと脚の間に垂れ下がっている。
犬が純愛の聖地に来ても意味がない。ジョエルは一歳半の時に去勢手術をしてから、雌犬にはことごとくそっぽを向かれ、女には全く縁がないのだ。可哀想なジョエル。でもそれじゃあたしは? 純愛の聖地に来てもいい資格とかあるとするならば、あたしだって胸を張れたものか心元ない。
何となく居心地が悪くなってきて、ジョエルのリードを強く引き寄せ、犬の首に顔を摺りつけた。周囲の薄紫色が濃い紫に変わり、波立つ影が濃くなった。点在する瀬戸内の島々がシルエットになって浮かび上がる。風が冷たい。二人の老人は吹き付ける風に抗するように顔を晒し、肩を寄せていつまでも叫んでいる。あたしは二人を風よけにして、犬と二人しゃがみ込んでいた。半ば呆れ返って、半ば訝しんで。何なんだろね、全くこの人たちは。
寝癖の髪をブラシでさっと整え、寝巻き代わりのジャージ姿でシルバーのミニバンのドアを開け、スニーカーをつっかけて外へ出ると、あたしの車の前をちょうど横切ろうとしていた男が振り向いて目が合った。
「おはようございます」
「あ、どうも。おはようございます」
男はラフなスラックスのポケットに両手を突っ込み、皺の刻まれた顔を綻ばせて、大きな低い声でゆっくりと言った。軽く右足を引きずっている。初めて見る顔だった。夕べここの道の駅に到着した車中泊組の面々は概ね把握していたが、その中にこの老人はいなかった。眠りに落ちる前に、車の前でオレンジ色のライトが点滅していたのをぼんやり覚えているが、どうやら夜中に到着してそのままここで眠った人のようだった。
二十四時間営業の道の駅の駐車場には、車中泊組の威圧感たっぷりの大型車がずらりと並んでいた。今朝はキャンピングカーが三台に、ハイエースのロングバンが一台、ステーションワゴンが一台、ポップアップルーフのバンが一台。
あたしの愛車はマツダのボンゴフレンディだ。年式が古く既に生産は終了しているが、後部座席がフルフラットになり、車高が高く、壁が垂直で居住性が高いので、アウトドア派には根強い人気のミニバンなのだ。あたしの車の向かいには、軽のワンボックスカーが一台停まっていた。
あたしは昨日、日が沈む前に早めに伊豆の道の駅に入り、ニ十台ほどの駐車スペースの、左の一番奥を確保していた。左奥は車中泊における一等席だ。二番目が右奥。だが右奥は、駐車した際にドアが左側を向いてしまう。そうするとドアの開閉時に、車の中が外に丸見えになるのだ。左奥なら、人目を気にせずにドアを開け閉めできるし、あたしの場合はジョエルを他の車から避けて安全に繋いでおくこともできる。
左側には芝生と腰の高さほどの植え込みがあって、道路と駐車場をうまく隔てていた。これで両サイドに他の車があると騒音が二倍になるし、両サイドの車に何かと気を使って面倒になる。だから道の駅やサービスエリアでの車中泊の際、駐車場の端は一番人気なのだ。
だが夕べは何故かあたしの向かいのスペースは空いていた。今、そこに夜中に加わった白い軽のワンボックスがあって、ドアの前に外向きに、履きつぶしたようなボロのサンダルが二足、きちんと揃えて並べてあった。まるで家の玄関の上り框で運動靴を揃えるみたいに。
二足のサンダルが気になってしばらく見ていたら、先ほどの老人が車の持ち主なのかと気がついた。トイレに行ったのだろう。あまりジロジロ見ていると、男が戻ってきた時に怪しまれる。車中泊では車は「家」に当たるから、あまりその前に立って見詰めるのは、人の家の中を覗くようで失礼になるのだ。急いで振り向くと、背後に老人が立っていた。あたしは慌てた。
「朝から暑いですな」
老人は微笑を浮かべた。その目には一切の不信も疑念も、こちらを窺うような様子もなく、きれいに澄み切っていた。
「ほ、ほんとですね」
あたしはジャージの裾を無意味に引っ張ったり下ろしたりしながら次の言葉を探した。
「九月も終わりなのに」
「ワンちゃんと旅されてるんですか。どちらからいらしたのかな」
どちらからというのが、出身地のことなのかそれとも昨日どこに居たのかという意味なのか、測りかねてもじもじしていると、老人が言葉を継いだ。
「わたしらは、昨日は伊東におりましてね。天気がいいんでゆっくり来まして、夕べ遅くここに着きました。いや、道の駅というのは便利なものなんですな」
「え、道の駅には初めてお泊りですか」
あたしは驚いて聞き返した。
「ええ」
老人は屈託ない様子で頷くと、軽のワンボックスカーの方を見た。ダイハツのハイゼット。よく商用に使われるようなタイプだ。車体の白が薄汚れてシルバーに変色していた。車の定番の色は白だし、白い車を買う人は多いが、なんで汚れることを考えないのだろうと思う。白だと汚れが目立つではないか。もしあたしが白い車に乗るとしたら、汚れを気にして一週間に一度は洗車をするだろう。白くて汚れている車は噴飯ものだ。汚して洗わないなら最初から白い車なんて買うなと思う。
ハイゼットのドアがゆっくりと開いて足が二本覗いた。
「おーい、おはよう。やっとお目覚めかい」
老人が声をかける。グレーの長い髪を一本の三つ編みにして背中に垂らし、地味な長袖シャツにグレーのパンツの女性が、車外にはみ出た毛布の上からそろそろと注意深く足を降ろして、外に揃えてあったサンダルを履こうとしている。サンダルを履き終えてから、女性は顔を上げ小さく微笑んだ。
「あらあなた。そこにいらしたの」
女性は、六十歳から八十歳の間でいくつであってもおかしくない年齢不詳の顔立ちながら、動作はとてもゆっくりしていて、もう若くはないことを示していた。
「おはようございます」
女性は老人の横にいたあたしに丁寧に頭を下げた。手にはタオルと歯ブラシを握っている。これから二十四時間空いている道の駅のトイレに、顔を洗いに行くのだ。
「おはようございます」
あたしもちょこんとお辞儀を返す。こんな時、つまり初めて会った人と向き合う最初の数分の間、あたしは大抵ひどく居心地が悪くなってまごついてしまう。あたしは自分が決して人好きのするタイプではないと知っていたから、悪い印象を与えてはいけないと妙に緊張してしまうのだ。ならばいっそ人に好かれることなど放棄してしまえば楽になるのだろう。しかし、できれば人に尊重されたいという自尊心は捨てきれず、できれば誰にでも好かれたいという欲求にも抗えず、とりあえず愛想のいいフリを装おってしまう。
この時も、別に話したくもないのになんとか会話を繋ごうとしていた。
「あ、あのご夫婦でご旅行ですか。今日はどちらへ」
そう言って晴れやかに笑んでみせる。僅かに右の頬が引きつったが、気にしない。老女はあたしの笑顔に釣られたのか上品に微笑んだ。
「どこに行くかは全然決めてないんですの。決まってるのはとりあえずこれから朝食を食べるというだけ」
「そうですよね。あたしもこれから朝食です」
そいじゃ、という感じでタイミング良くその場を離れ、急いで車に戻り、車内で殊勝にもお座りしてあたしを待っていたジョエルを抱きおろして、朝の散歩に出かけた。
道の駅の駐車場に停められた様々な車やナンバープレートを見ながら歩いていると飽きなかった。伊豆なので静岡ナンバーが多いのは当然だが、愛知や岐阜、遠くは秋田や広島と思われる地名もあった。あたしは無意識のうちにいつも自分の実家のある、埼玉のナンバーを探してしまう。もしくは東京でもいい。関東のナンバープレートが停まっていると、知らない人なのにまるでご近所さんに会ったような親しみを覚えるのだ。
この日の道の駅には関東出身者は一人もいなかった。あたしは大型トラックの間をすり抜け、休憩所のベンチの置いてある草地に行って、ジョエルに心ゆくまで草の匂いをかがせた。車中泊旅では、道の駅に併設された店舗が開店する前の、こんなひとときが一番好きだ。店の開店は大抵九時だが、開店すると店の人の目もあるし、掃除の人も来るし、車中泊組がいつまでも堂々と車を停めてゆっくりしているのが、どこか後ろめたくなってくるのだ。道の駅の人には、泊まった車と来たばかりの車の区別がつくはずもないのだが、なんとなく落ち着かず、早く出発しなければと焦ってしまう。現在七時半だから、店の開店まであと一時間半もある。ゆっくりコーヒーを飲みながら地図を眺めて旅程を練る時間があるだろう。
車中泊組の大型車の人々が起き出して駐車場を行ききし、朝の挨拶を交していた。キャンピングカーからコーヒーの匂いが漂ってくる。ハイエースの開け放したドアに垂らしたカーテンの隙間から、中が見えている。シートを取り払ってあるから車内でもちょうど大人が立てる高さだ。カーペットを敷き詰めたスペースの真ん中には備え付けのテーブルがあり、朝食が用意されていた。
車に戻ると、軽のワンボックスカーの前のコンクリートの上にコンロを出して、老人二人がその上に屈み込んでいた。駐車の白線の前なので路上である。あたしはぎょっとして立ち竦んだ。今時路上で料理をするとは。コンロの前にはお椀が二つ並べてあって、茶色い液体が入ったプラスチックの容器と、ネギが一本無造作に道の上に放置されてあった。女性が片手鍋の中身をお玉でかき混ぜている。どうやら味噌汁を作っているらしかった。あたしは目を疑いながらしばらくその様子を眺めていた。
「ああ、どうも」
老人が手を挙げた。
「朝食を作ってるんですよ。朝は味噌汁が一番ですしなあ」
「ええ、そうですね」
あたしはジョエルを車に繋ぎ、ドッグフードを皿にあけて食べさせた。味噌汁の匂いが漂ってくる。二人は幸せそうに身を寄せ合って、鍋の中身をかき混ぜている。ここはキャンプ場ではない。車中泊のルールも知らないのか、みっともないと呆れ果てながら、スニーカーを脱いで自分の車に上がった。
二人が路上で料理を作っているのを目にした時に、思わず軽侮の表情を浮かべてしまった自分を思い出してあたしは一人で赤くなった。またしても最近の悪い癖が出た。自分を尊重できなくなると我知らず卑屈になってしまう。どうしたら自分も他者も尊重できるようになるのか。それが近頃一番の悩みなのだが、とてつもない難題に思えてきてあたしは一つ溜息をついた。
車内の折りたたみ式簡易テーブルの上にコンロを出して湯を沸かし、ドリップコーヒーをゆっくりと時間をかけて淹れた。深いコクのある匂いが車内いっぱいに広がって、味噌汁の匂いをかき消した。食パンにチューブタイプのマーガリンを塗って食べ、夕べ買ったブルガリアヨーグルトを食べながら、地図を広げた。
当初の予定では伊豆半島を海沿いにぐるっと一周するはずだったが、半島沿いの細い道が思いのほか曲がりくねって急勾配が続き、かなりのドライビング・テクニックを要することが判明し、昨日半日で疲れきってしまっていた。道を曲がるとふいに現れる富士山の威容は捨てがたかったが、体力的なことも考えて今日は内陸を通って行こうと思った。
あたしは早速出かける支度に取り掛かった。コーヒーカップをウエットティッシュで拭き、鍋の水滴も同じウエットティッシュで丁寧に拭う。車中泊では水は貴重なので、考えた末に自分で方法を編み出したのだ。これなら油もきれいに取れるし排水を垂れ流さずに済み、節水にもなる。他のゴミと一緒に捨てればいいだけだった。
車内後方にカラーボックスを横向きにして固定させた棚があり、そこに食器や鍋をしまう。二列の後部座席はベッド兼リビングだ。シートをフルフラットにし、シートの凸凹を調整するために分厚いウレタンベッドを敷いて、その上からベージュのモヘアのシーツを敷き詰めている。ちょうどセミダブルサイズのベッド程の空間ができて、一人と一匹には十分な広さだった。
ベッドはそのまま作りっぱなしの状態だ。シュラフを巻いて枕と一緒に隅の毛布の上に片付け、棚と毛布の上に布を広げて覆い、左右の窓のカーテンを開けて、運転席と助手席とフロントに取り付けた目隠し用のシェードを外した。ジョエルは助手席が固定席だ。
ジョエル専用の助手席は、シートの上にクッションを置き、ジョエルが運転席に飛び出してこないように席を柵で囲った。ホームセンターで揃えた鉄柵を太い針金でつなぎ合わせ助手席に取り付けただけなのだが、これが危険運転を避け、急ブレーキをかけてもジョエルが投げ出されたりすることのない優れものの犬用シートベルトとなった。あたしはジョエルのクッションの埃を払い、彼の足をタオルで拭いて助手席に乗せた。準備は整った。
この旅のスタイルに辿り着くまでは試行錯誤の連続だった。車中泊に関連するムック本や雑誌を買い漁り、そこに登場するアウトドアの達人たちのテクニックを盗めるものはみんな盗んだ。紙面の中の旅の達人たちは、金と時間と手間を惜しまず、車内を改装し、布を敷き詰め、DIYの腕を駆使して車中に我が家を造り出していた。そこには飽くなき「快適さの追求」の精神があり、普段の生活スタイルがそのまま車内に持ち込まれていた。彼らの旅からは種々のハプニングや、不便さを楽しむリスクの要素が丹念に取り除かれ、あくまでも美しく、スタイリッシュで、人間の叡智が詰まったコンビニエンスなものにすり替わっていた。
あたしは、車中泊の達人だとネットで話題になった人物に憧れ、彼の教える公開講座にまで通って旅のスキルを磨いた。結果、自分でもかなり満足の行く快適さを伴ってこの旅に出てこられたし、入念な準備のおかげで、車で一人旅に出かけることを親に納得させ、ジョエルも連れてこられた。この駐車場に停まっている車中泊組の車ほとんど全てが、あたしと同じかそれ以上のスキルを持っている旅の強者のはずだ。
ところが今朝あの老夫婦を見て、心に沸いた違和感は、あたしを幻滅させた。あの人たち、何も考えてない。こっちは何ヶ月も前から勉強しお金もかけて、万全の体制でこの旅に出て来たというのに。道の駅すら知らないなんて。地べたに座って料理するなんて。食べ物を地面に投げ出していた。きっと洗いもしないで食べるのだ。不潔じゃないか。おかしいおかしいおかしい。
駐車場を見渡すと、何台かの車が出発したのか、もう消えていた。前の路上には老人たちの姿はなかったが、車のドアの前のサンダルが、またきちんと揃えて並べてあった。なにあれ? 路上が玄関代わりのつもり? あたしは軽く苛立ちながら運転席に上がってエンジンを入れた。
伊豆半島の中央を走る国道四一四号線に出て、いくつかの温泉を通り過ぎると天城高原に入る。山中の登攀を繰り返し、「あまぎーごーえー」と大声で歌いながら天城峠、天城トンネルを走り抜けた。その後、歌に出てくる浄蓮の滝の看板が見えたので、観光してみようと車を降りた。ほっそりとした柳のような姿で滴り落ちる浄蓮の滝は上品で美しく、ジョエルを抱いてしばし滝の前に佇んで見入った。「天城越え」の歌詞が刻まれた石碑があり、観光客が群がって写真を撮っている。「戻れなくてももういいの」という一文にいつの間にか自分を重ねている。
今回の旅は、一人で運転して車中泊しながら日本の全都道府県を周るという、あたしにとっては途方もない大冒険だった。運転は好きだが、これまで二日以上連続して運転したことはない。それが、おおよそ三万キロの道のりを、たった一人で運転して周ろうとしている。さらに地図を見てその日決めた好きなところに行く、気になるところがあったらどこでも立ち寄る、何びとにも左右されない旅をする、の三点が目標だったので、カーナビを搭載していなかった。この小さなアパートのような車の中で唯一こだわったアナログ部分が、カーナビを使わないことだった。目的地を最初に決めて住所を打ち込み、カーナビに従って進むだけでは、目的地に行く過程にある大事なもの、美しいものや様々な出会いが失われてしまうと思ったからだ。
手元に有るのは大判の日本地図と全国の道の駅ガイドブックだけ。後は勘を頼りに進むしかない。情報は少ない。事故に遭うかもしれないし、怪我をするかもしれない。車上荒らしに遭うかもしれないし、雪道で立ち往生するかもしれない。台風や暴風雨に晒されるかもしれない。それでも、何があっても、自分はこの旅をやり遂げるのだと決めていた。「戻れなくてももういいの」。天城越えのフレーズに気持ちが奮い立った。
天城高原の四一四号線を進んでいるつもりが、どうやら途中で脇道にそれてしまったようだった。「わさび田」の看板を見つけて興味が湧いた。せっかくだから寄り道をしていこうと深い森の中に続く山道にハンドルを切った。暗い森を抜けると、弱い光が射す開けた場所が見え、小さな駐車場に白い軽のワンボックスカーが一台停まっていた。
「筏場のわさび田」と橋の脇の看板に書いてある。清流大見川の上流。豊富な清水と、強い光の射さない山中がわさびの栽培に適していて、ここに畳石式と呼ばれる棚田状のわさび沢が作られたという。
深い谷の底に段々になったわさび田が広がる。わさびの根元は水で満たされていて、段々の上方から水が滴り流れる心地良い音が聞こえてくる。わさび田に、濃いオレンジに色づいた木々が、段々を覆うように垂れ下がっていた。わさび田を見るのは生まれて初めてだ。中伊豆の山中で不思議な場所に迷い込んでしまったようだ。
ジョエルが橋の欄干の間から顔を出し、谷と清流の新鮮な匂いに鼻をぴくつかせている。彼の小さな体の中は今、汚れない清潔な空気で満ちていることだろう。ジョエルの目を覗き込むと、両の瞳が喜びで輝いていた。「僕ここ大好きだよ。素敵な匂い!」
眼下に広がるわさび田を見ながらゆっくり歩いていると、橋の先の森に続く道路から人影が降りてくるのが見えた。よく見ると今朝、道の駅で会った老夫婦だった。
「あら」
女性が声をかけてきた。
「やあ、こんにちは」
男性がガニ股の右足を軽く引きずって歩きながら片手を挙げた。駐車場に停まっていたワンボックスカーは彼らのものだったらしい。全く気がつかなかった。
「こんにちは」
あたしは仕方なく一応頭を下げた。
「ここでお会いするとは奇遇ですな」
老人が屈託ない笑みを浮かべた。
「とてもいいところですね。このわさび田、知ってらしたのですか?」
女性が引き継ぐ。
「いいえ、偶然なんです。というか道に迷ってしまって。そしたらわさび田の看板が見えたもんですから」
彼らと話すのを少し億劫に感じたが、顔に出すのを何とか堪えてあたしは微笑んでみせた。
「あら、わたくしたちもだわ。道に迷ってしまったの」
女性がふふふと小さく笑った。そして屈んでジョエルの頭を撫でる。この人はとても上品に話した。ゆったりとした動作にもどことなく品がある。見た目にはわからないが、よっぽど育ちがいいのだろう。ジョエルの尻尾がマックスで左右に振られている。彼らのことを気に入ったようだ。男性はあたしの目を真っ直ぐに見ていた。思いがけないほど力強い目線だ。あたしは葉陰にちらちらするふんわりした日差しの中で、思わず目を瞬かせた。
「あなたさんは出身はどちらですか?」
「埼玉です」
「埼玉から一人でいらした?」
「はい」
「それはそれは。わたしらは東京です」
「お車が江東区ナンバーでしたね」
それきり会話は途絶えてしまい、あたしたちは無言で谷合いのわさび田を見詰めた。しんとした空気の中に鳥の鳴き声がかすかに響く。老女がふいに囁いた。
「ご存知ですかしら? 山の中の淵は隠れ里の入口なんですって」
「隠れ里?」
「そう。伊豆には実在の隠れ里があるそうだけれど、山奥の清らかな水のある淵を辿って登っていくと、豊かで美しい村があって、そこはいつまでも年を取らないで暮らしていける桃源郷なんですって。そういう伝説があるそうですよ」
「はあ」
「もしかしてここがそうなんじゃないかしら。ねえ、あなた? あたくしたちそう話し合っていたところなの」
「うん。そうかもしれんな。ここかもしれん。何ともきれいで不思議な場所じゃないですか?」
「そうですね」
わさび田の段々をどこまでも登っていくと、伝説の隠れ里がある? 実にロマンチックで、そんな話はジョエルだったら信じるかもしれなかった。何しろあたしより数倍も無垢なわけだし。伝説の隠れ里だって、ジョエル。清らかな心の人しかきっと行けない天国のような所が、この川を遡っていくとあるんだって。
「ワンちゃんに水を飲ませたらいかがかな。ここの水はおいしいですよ。わたしらもさっき飲んでみたんだ」
老人が言うので、ジョエルを連れ、しぶしぶ彼らの後について橋のたもとの方に降りていった。湿った柔らかい土を踏んで行って、下草に覆われた小さな流れでジョエルに水を飲ませた。ジョエルはぴちゃぴちゃごくごくと派手な音を立てて夢中で水を飲んだ。その音を聞いていると何だか幸せな気持ちになれた。
「ワンちゃんの名は?」
「ジョエルです」
「男の子かな」
「はい。今年二歳になりました」
「ほう、まだ若いな。そうだ。あなたのお名前を聞くのを忘れてた」
老女がそっと彼の腕を押した。
「そうですよ。先にこのお嬢さんのお名前を聞かないと失礼ですよ」
「そうだな。こりゃ失礼しました」
夫婦は声を合わせて楽しそうに笑う。
「わたしは青江と申します」
「わたしは渡来一ニ(いちじ)。妻は都志です」
「よろしくお願いします」
都志が丁寧に頭を下げた。あたしも慌ててお辞儀を返した。
「どのくらい旅を続けてらっしゃるのかな?」
「八月の終わりに埼玉を出てきました。しばらく関東を回って静岡に来ました」
「それじゃちょうど一ヶ月か」
「そうですね」
「わたしらは…。ええっと。どのくらいになったかな都志?」
「そうですねえ。もうあまりにも長くて。わからなくなってしまったわね、あなた」
「そう。ずうっと。もう長く」
「ずっと?」
あたしは絶句した。何年もという意味だろうか。
「失礼ですが、お歳はいくつくらいですか?」
聞かずにはいられなかった。この夏の終わりの一ヶ月間、車中泊の旅を一人で続けてみて、あたしは体力的にかなり消耗していた。毎日容赦なく照りつける日差しのせいで、日焼け止めの効果もなく肌は小麦色に焼けていた。日中はエアコンが効かないくらいに暑い。夜はエアコンをつけるわけにもいかないので、窓を開けて蚊取り線香を焚きながら寝たが、標高の低い土地にいると蒸して寝苦しい。朝は早くから日が昇って暑くなるので、日の出と共に起き、毎日寝不足気味だった。犬のジョエルは人間より暑さに弱いので、あたし以上にきつい思いをしているに違いなかった。真夏の暑さを避けるために、わざわざ七月、八月を回避して出てきたのだ。四季を通して何年も旅をするなんて信じられなかった。
「わたしたちの歳ですか。ハハハ。八十近くになったかな」
老人は白い歯を見せて笑い、ボサボサの長い髪を掻いた。
「伝説の隠れ里があるなら行ってみたいもんだな。あたしら二人で。歳はこれ以上取りようもないが、人里離れた美しい村があって、そんなとこで二人でひっそりと暮らせるのなら幸せだろうな。なあ都志」
「そうねえ。あたくしたちそろそろ、辿り着いても良さそうなものよねえ」
二人は微かな日だまりの中で、互いに見詰め合って微笑んでいた。あたしはそんな二人を信じられない思いで眺めた。この老人のドライビング・テクニックは知る由もないが、一年を通して休みなく運転をするなんて、事故でも起こしたらどうするのだ?こういう、人の迷惑を考えない人たちは、取り返しのつかない事故を起こすまで目が覚めないに違いない。伝説の隠れ里なんて何て呑気なことを言ってるのだろう。
「今日はどこまで行かれるんですか?」
水を飲み過ぎているジョエルを引っ張りながら、あたしは話題を変えようとした。
「決めてませんのよ。わたくしたち、どこまでとかどうするとか全然決めませんの」
都志が再びやんごとない口調で言う。白と黒の混ざった長い髪、皺の刻まれた日に焼けた顔には不釣り合いな言葉遣いだが、不思議と調和は取れていた。
「泊まる場所とかも決めないんですか?」
「ええ全く」
渡来は当然のような口調だ。
「夕べは運良く道の駅なんて便利な場所を見つけて良かったが、おとといは日帰り温泉の駐車場に泊めてもらいました。久しぶりに風呂に入ったら体が何だかだるくなってしまって、わたしら二人とも動けなくなって、ここに泊めてくださいって店の人にお願いしたんだが、駐車場は夜九時に閉めますから駄目です、出てくださいって言われて。それでも悪さはしませんからここで、車で寝るだけですからって頼み込んでようやく。いや人の親切心は信じるべきですな。あの時動いてたらどうなっていたことやら、真っ暗な中で運転も自信がないし、二人して途方に暮れとりましたわ。もっとも毎日がそんなもんなんですがな。日々綱渡りですわ」
老人は腰に両手を当てて仰け反って笑っている。なんて恐ろしいことを言うんだ。あたしは呆気に取られ、この人たち、大丈夫なんだろうか、そんなことしてたら今に路上で死ぬんじゃないかという不安が一瞬頭を過ぎったが、知ったことかと考え直し、彼に合わせて仕方なくはははと笑った。ジョエルがきょとんとした顔をして老人とあたしの顔を見比べていた。
2
そうだ。あの隠れ里のわさび田の日に出会ったのだ。あまり光が射し込まない、鬱蒼とした森に囲まれた水に溢れた場所。水がわさびの棚田を流れ落ちる音が絶えず聞こえていた。今耳に残るのはあの新鮮な水音だ。ジョエルが困ったような目をしていた。彼があの老夫婦に会う時はいつでも、喜びと戸惑いが両の目の中で交錯していた。
あたしは悩み傷ついて、未来のわからなくなっている若い女だった。あたしもジョエルと同じような目をしていたに違いない。飼い犬は飼い主に似るというけれど、あたしたちの場合はお互いがお互いを映す鏡だった。自分の気持ちがジョエルに伝染し、それによってもたらされるジョエルの変化に自分自身が影響を受けていた。あの老夫婦からすれば、実によく似た二匹に見えたことだろう。
そうだ、一体どんな風に見えていたんだろう、あの二人から見てあたしという人間は。よく考えたことなんてなかった。自分を取り繕うことに長けた、外側だけで中身のない神経質で孤独な若い女? そうかもしれない。あるいはあたしの存在など意に介していなかったのかも。あの二人にとっては透明人間のように実体のない、いやむしろ目障りな相手だったのかもしれない。少なくとも彼らの長い人生の中で、特に注意を払う必要のある何者でもなかっただろう。何故なら彼らはお互いがお互いに夢中だったから。今になってはそう思う。
それなのにあたしは二人をつけ回した。いや、つけ回したというのは言い過ぎかもしれない。ただ行き先々で彼らに出会った。最初のうちは単なる偶然だった。そのうちそれは、習慣になった。彼らがいなければ旅は味気ないものになっていった。ひょっこり出会う事が、あたしたちには運命づけられているようだった。
ブーツを通して冷たい空気が足先の感覚を奪う。三月だっていうのにこんなに寒いなんて。あたしは池袋駅前の人の波に揉まれながら辺りを見回し、入って休めそうな大きな建物を探したが、デパートもビッグカメラもシャッターを閉めてしまっていた。おそらくひどい揺れで商品が床に散乱したのだろう。携帯で実家に電話したが繋がらないので、公衆電話ボックスを目指した。とにかく情報を得なければ。実家の母なら何か知っているかもしれない。
公衆電話ボックスには長い列ができていた。隣の列の青年が、後ろの方に並んでいたお年寄りを呼び寄せて自分の前に並ばせている。見回すとあちらこちらで、お年寄りに順番を讓る人の姿が見られた。あたしの前の金髪の青年とその横の中年女性の集団が喋っている。
「震度六らしいっすね」
「五弱みたいよ」
「東北の方じゃ、津波で大変なことになってるらしいっす」
「家族と連絡取れた?」
「いや、携帯の通話がダメなんでわからないっす。親はメールしないんで」
「そうなの? あたしたちもなのよ」
一時間半程並んで、ようやく順番が回ってきた。緑の電話を使用するなんて久しぶりだ。百円玉を入れて実家の番号を押す。三回目のコールで母が出た。旅から帰ってから都内で再び一人暮らしを始めたので、実家の母の声を聞くのは久しぶりだ。
「お母さん無事?」
「陶子? 良かった無事だったのね。こっちは大丈夫。二階の小型テレビが棚から落ちてきたけど。居間の花瓶もひとつ落ちて割れちゃった。それくらい。大丈夫よ。今どこなの?」
「池袋。電車止まってて帰れないよ。また地震がくるかもしれなくて危ないから構内から出ろってアナウンスしてるし、でも行くとこないのよ」
「一時避難場所があるってテレビで言ってるわよ。人に聞けばわかるわよ。寒いからどこかに避難してなさい」
「お母さんは大丈夫? 余震があるかもしれないから用心してね」
「わかった。大丈夫よ」
ひとまず電話を切り、釣り銭の受け口を探ると、小銭がいっぱい入っていて驚いた。皆が財布のありったけの小銭を投入し、お釣りを取らないで帰ってしまうのだ。そしてそれを誰も使ったり持ち去ったりはしない。何て無防備な人々。あたしは五十円玉だけをそっと取り出して財布に入れた。
池袋駅で駅員がチラシを配っていたのを思い出し、駅構内に戻った。JRの職員が手にしていたチラシを見せてもらうと、この近辺の一時避難場所の情報が記されている。そのチラシをもらい、西口に向かった。立教大学が、行き場を失った人々を受け入れているというので行ってみることにする。西口のエスカレーターの降り口に立っていた巡査に道を尋ねてみると、彼は緊張からか青白く固い表情を崩さないまま、ひどくせかせかとした口調で道順を教えてくれた。
「徒歩で十分くらいですよ。近いんで是非そちらへ避難してください」
必要以上に大きな声が、今の緊迫した気分を伝えていた。ん? そうか、今って緊迫してるんだ。予期せぬ大地震が起きた。だから今は非常事態なんだ。そのことが未だに腑に落ちていない自分が居た。「非常事態」の切迫した感情が何故自分に湧いてこないのか。何だかヘンな感じだ。あたしのもっかの非常事態はトイレに行けないことだった。でも考えてみればこんなに長時間トイレを我慢しなければならないのも、充分非日常的なことなのだ。
怪我人は出ているんだろうか。倒壊した建物とかあるんだろうか。職場と職場の周辺では壊れた建物はなかった。永遠にも思えた長い長い揺れの間、ああ、これで死ぬのだと思っていたあの時間、机の書類は床に落ちて散乱し、本棚の本もバラバラと落ちてきた。揺れが一旦収まり、皆が恐る恐る机の下から這い出してきて辺りを見渡すと、「もう仕事どころじゃあなあい!」とショックを受けた男性社員の一人が叫んだし、若い女性派遣社員は、怖かった怖かったと言って泣き出した。
あんなに人々は動揺して震えていたのに、ビルそのものはしっかりと踏ん張って建っていた。職場は古いビルの六階でかなり揺れたのだが、一階のオフィスを覗きに行くと、職員が何事もなかったように仕事をしていた。
しかししばらく経つと、ビルの周辺と御茶ノ水駅前は騒然としてきた。地下鉄は止まり、バスは超満員、タクシーは拾えない。もう仕事にはならないが、かといって帰ることもままならない。そして人々が世界に溢れ出した。
しかしあたしはこの非日常的な世界を密かに歓迎すらしていた。仕事がさぼれる。早く家に帰れる。ジョエルに会える…。単調な日常が思いがけず崩れ去り、日常をぶち壊すような、破壊力のある慌ただしい何かが不意にやってきた。何だかワクワクするような気分が頭の片隅に取り付いて離れなかった。
この時はまだ知らなかったのだ。この地震が意味するもの、この地震が引き起こしたものの全て、凄まじさは、東京で働く人々の意識には上っていなかった。あたしたちがあの時考えていたのは、早く帰りたいということ、寒さに耐えなければならないということ、水買った方がいいかな、その程度のことだった。なんて呑気だったのだろう。
伊豆を抜け、富士山を右手に眺めながら一号線を駿河湾沿いに南下した。ジョエルが助手席の柵に寄りかかりうたた寝をしている。全身を柵に預けてしまっているので、肉が柵から網目状にはみ出ていた。あたしはそれを指でツンツンつついた。ジョエルがその度に大儀そうに薄目を開けてあたしを見上げる。「はいはい、わかってるよ、いたずらしたいんでしょ。僕は眠いんだから。邪魔しないでよ、暇な人間って最悪」ジョエルが呟く。
御前崎に入った。海側には防砂林、平野には見渡す限りの畑、高い建物が全くない。妙にがらんとした空の広さときつい日差しが相まって、どこか白昼夢のようなうつろな景色が続いている。ここまでノンストップで走ってきたのは、浜岡大砂丘に行くためだった。あたしは学生時代に見に行った、タクラマカン砂漠のような広大な砂の波を期待していた。さらさらの砂をかき分けて、素足に砂のずっしりとした重さを感じて歩きたかった。
すでに西に傾いた太陽はまだ威力を失わず、相変わらずじりじりと肌を焼いていた。日焼け止めを首筋と二の腕に重ねて塗り、ジョエルに水を飲ませてから車を降りた。暑い。これじゃほんとにタクラマカン砂漠と変わらない。砂は固く、足に力を込めても沈むことはなかった。風で舞い上がった砂が膝をパラパラと打つ。風が吹く度に砂上に風紋が広がった。
砂丘の先は視界が開け、まばゆい水平線が広がっていた。見渡す限りの海岸と砂丘が沈みゆく太陽に照らされて光輝いていて、その光景に見とれてしばし佇んだ。ジョエルも立ち止まり、じっと遠くの光を見詰めている。砂丘につくジョエルの足跡は五つの丸い肉球の塊で、それがカラスの、小枝を並べたようなか細い足跡と並んだ。そして足跡たちは絶えず風に吹かれて掻き消された。
足元で小さく渦になって吹き上がる砂を見ていると、ふいに寂しさが襲ってきて心臓が締め付けられた。あたしはこんな所で一人、一体何をやっているのだ?
今日もメールに返信をしなかったな。これで何度目か。あの人からのメールや電話には絶対に出ないと決めてから多分数十回目だった。最初の頃は考える前に電話に出てしまってうっかり口をきいて後悔したし、メールには例え否定的な内容でも返信してしまっていた。例えばもうメールしないで、もう電話かけてこないで、声すら聞きたくないからというきつい言葉でも、返事をする以上、それは会話だった。ほんの数語交わしただけで相手は安心し、まだ気持ちは繋がっていると錯覚する。
明日から携帯の電源をしばらく切っておこう。あたしは砂丘の中で次第に薄暗くなっていく辺りの気配に少し怯えながら考えた。何も考えまいと思って出てきた旅先で、つい思考がそちらへ流れていってしまう自分が嫌だった。
二十四歳の若さだったあの頃、世の中の景気は悪くて、両親も友人たちも将来に悲観的だった。だからこそ両親の勧めで大学院に進学することになったのだが、あたし自身は、それを両親が言うところの、「就職難を回避するための一時しのぎ」だとは認識していなかった。ところが修士課程二年を経て、学位論文を提出する頃になっても、一向にあたしの就職は決まらなかった。自分自身、就活に確固とした意志を持って取り組んだとは言えない。芸術学部の音楽学科で音楽教育を専攻したが、これといって何かになりたいと思って勉強したのではなかった。理由は簡単、ただ単に好きだったからだ。家の経済的な事情で、博士課程に進むことは諦めなければならなかったが、本音を言えば、あともう三年、思う存分勉強したいくらいだった。
社会に出るのが億劫だったし、会社員になる勇気がなかった。会社員になるのに勇気が必要とはおそらく大方の人間が思わないのだろう。だがあたしにとっては、世間の荒波にたった一人で乗り出していき、立派な会社員として人生をうまくコントロールしていく、またはコントロールされていくことには相当な度胸が必要と思われた。どこかの会社に所属して晴れて会社員になり、満員電車に揺られて始業十五分前には机の前に座り、朝礼で上司の演説を聞いて、社訓やら社是やら人間関係やらに振り回され、しゃかりきになって働く自分の姿が想像できなかった。
それでもとりあえず社会に出て経験を積んでみようという考えも、安易で流されているだけのような気がした。会社員の自分について想像する時、大きな岩のようなプレッシャーと疲労に押し潰されて、ぺしゃんこになっている惨めな自分の姿ばかりが浮かぶのだ。あたしには向いてない。とても無理だと思った。
なるべくいい会社に入っていい結婚をし、良い子供を産んで安心安全な老後を送るために、なりふり構わず就職活動をしているように見える同級生たちの真っ当さが眩しく、それが正しいと薄々認めながら同時に疎ましくもあった。あたしは自分の霞がかってさっぱり見通しが効かない頭の中身を持て余した。
父は忙しく、でもどうやらリストラの危機に晒されているようで毎日の仕事に汲々としていた。母はあたしの学費を捻出するためにパートをして、その上家事と夫と中学生の妹の世話でくたびれきって、家族団欒の余裕もなかった。両親は不仲で、母は父がリストラされれば離婚すると宣言していた。家庭のことは放ったらかし、無趣味、無調法で味気ない夫が、お金すら稼げなくなったら一緒にいる意味なんてない、と母は言い募った。
結局就職はせず、経済的な自立だけは目指して出版社でアルバイトをしながら、母校の大学で週一回、夜間の非常勤講師をした。長年専門教育を積みながら、何故不安定な職にしかつけないのか、と母は嘆いた。つけないのではない、つかないのだと、あたしは言い返した。そう言いながら毎日が虚しかった。十代の女の子たち相手に音楽史を教えるのは楽しい。楽しいのだが、それすらどこか虚しいのだ。だるい。本当のことを言えば、朝から自分の部屋に引き籠もり、何もしたくない気分だった。
自分が本当にやりたいことは何なのか。
何が不満で何が不安で、何故満たされず、何をどうしたら自分を納得させられるのか。
生きていくよすがが何もないように感じた。無駄に過ぎていく日々を何となくやり過ごすためだけに自分が生まれてきたんだと、これでいいのだと、開き直りたかったができなかった。現実は厳しい。楽になりたい。
そんな頃、知り合ったのが真人だった。友人と行った有楽町の混雑した居酒屋で、たまたま相席になった若い男のうちの一人だった。男は自分を二十代で独身だと言った。建設会社の現場監督だった。酔った勢いで盛り上がり、メールアドレスの交換をした。
次の日から、真人からの嵐のメール攻撃が始まった。食事に行こう、どこか遊びに行こう、飲み直してもいい、なんならお茶だけでもいい、都合のいい日はいつだと続く。居酒屋では礼儀正しく気遣いのできる優しい人という印象だったので、矢継ぎ早の一方的なメールには少々面食らった。居酒屋での印象はまあ良かったので、一回くらい会ってもいいかと有楽町のカフェで落ち合った。
土木建築学科を卒業して建設会社に就職した真人は仕事に燃えていて、今携わっている港湾建設プロジェクトについて夢中で語った。彼の話は緻密かつスケールが大きく、あたしはただただ圧倒された。夢中になれる仕事を持つ男の横顔は眩しかった。客観的に見てカッコいいというわけではないだろうが、好みの容姿だった。背も高い。明るい。繊細な気遣いを見せる優しい一面もある。
長年同棲していた彼女がいた、と彼は言った。だが喧嘩になり彼女は家を出ていった。今どこにいるのかわからない。おそらく実家に戻ったのだろう。連絡は取れない。帰ってくる可能性はないという。一人暮らしはとても寂しくて自分には堪える。
彼の積極性に釣られるような形で、あたしは真人と付き合い始めた。あたしにとっては学生時代以来の彼氏だった。強引だと思わなくもないが、トキメキもあった。
ドライブに遊園地、釣りにハイキング、彼の行きつけのスナックやバー、クラブ、夜はラブホテル。真人の行くところならどこでも行った。スナックでは、「あら、真人ちゃん新しい彼女なの?」とママに言われる。たくさんの友人や会社の後輩にも紹介された。今付き合ってる彼女だと真人が得意げにあたしを紹介すると、みな「へえ」と驚いて笑顔を見せた。悪い気はしなかった。彼はあたしのアパートに頻繁に出入りし、やがて週末は入り浸るようになった。しかし彼のアパートには一度も入れてくれなかった。最寄りの駅しか知らされず、自分のアパートに来いとは決して言わなかった。
そのことに不審を抱きつつも真人に夢中だったあたしは自ら思考停止状態に陥った。男の一人暮らしの部屋はむさ苦しいからと彼は言う。だから陶子の部屋の方がいいんだよ。あたしはまるごと信じて受け入れた。小さな不審にはあえて目をつぶった。
付き合い始めて半年ほど経ったある日、あたしはアパートの隣の駅の映画館の前を一人歩いていた。すると通りの向こうから見覚えのある車がやって来た。何気なくフロントに目をやると真人だった。助手席には知らない女性がいた。二人の寄り添うような狎れた様子に、あたしはひと目で悟った。彼女が帰ってきたのだ。車は一瞬であたしの脇を通り過ぎた。二人の姿が目に焼きついた。心臓がバクバクした。
真人を問い詰めると、あっさり認めた。しかも彼女は妻であると。自分は結婚していると。僕らはよりを戻したのだ、と。
ショックだった。
自分のしていたことは騙された上での不倫であった。何より驚いたのは、友人や会社の後輩やスナックのママに至るまで、みな真人の妻のことを知っていたはずなのに、シラを切り通したことだった。この子は騙されていると知っていながら見て見ぬ振りをした。そのことに深く傷ついていた。あたしはその場で真人に別れを告げた。
しかし別れた直後から、付き合い始める前のようなメール攻撃が再び始まった。悪かった、申し訳ない、騙すつもりはなかった。もう一度やり直したい、俺のことが本気で好きだったのだろう? 本気で好きだったと俺は知っている。自分も好きなのだから、今からでもやり直せる。
図々しいにも程があるというものだ。不倫を承知で付き合いを続けることを彼は再三要求した。
あたしは食事も喉を通らず一週間で五キロも痩せ、仕事に行く時以外は家で臥せっていた。何もかもが嫌になっていた。一番嫌だったのは自分自身だ。自分の迂闊さ、小さな不審感を抱きつつそこからあえて目を逸らしたこと、それほど真人に夢中で彼を失いたくなかったこと、要するにほんとはわかっていながら、自ら進んで自分を傷つけたこと、そんな自分のしてきた何もかもが嫌になった。自分が許せなかった。恥だ。こんな愚鈍で浅はかな自分のまま、この先生きてはいけない。
通勤時、駅のホームの最後尾に立っていると通勤快速電車が物凄いスピードで入ってくる。パーンとひとつ警笛が響く。超高速の巨大な鉄の塊。ああ、死ぬのは簡単なのだ。これなら痛みも一瞬だろうし楽に死ねる。あたしは一歩踏み出し、二歩踏み出して、そして我と我が身に慄然とした。
死ぬくらいならと、ある日、全てを捨てて旅に出ることに決めた。ジョエルだけを連れて、あとはすべて捨てていくのだ。両親も仕事も、失くした恋も。何もかも全部。
辺りは薄闇に包まれていた。ジョエルの顔を見ると、この状況にすっかり飽きてしまっているのがわかる。
「さ、道の駅に行ってご飯食べて寝ようね」
あたしはジョエルに言いながら立ち上がった。車に戻ってサイドドアの横で道の駅ガイドブックを開き、懐中電灯でページを照らして今夜の寝場所を探した。するとここから二十キロほど内陸に入った国道一号線上の掛川に、道の駅があることがわかった。地図の上に屈み込んで道順を確認していると、いきなり顔を強烈なライトで照らされ、驚いたあたしは目を細めた。
「ああ、ごめんねごめんねー」
ヘンなイントネーションの明るい声が言って、赤い派手な大型バイクに跨った男がヘルメットを取るのが見えた。ん、それはもしやかつて流行ったお笑い芸人のネタだな、栃木の人なのか、なんかいきなり馴れ馴れしい。あたしはちょっと警戒した。
「すいませんねー。あなた一人? どこ行くの?」
イントネーションがおかしい。一人と聞かれてあたしは警戒した。浜岡大砂丘でナンパ? 女一人旅と思われてつけ込まれたら困る。それに何でタメ口なわけ。薄闇を透かして目を凝らすと、男は外国人のように見えた。何人かは全くわからない。男は眩し過ぎるライトを消した。
「この辺にキャンプ場とかあるか知らない? どこか今日泊まるとこ探してるんだよねボク」
高速のタメ口が続く。黙っていると男がヘルメットを小脇に抱えてゆっくり近づいてきた。助手席のジョエルがウウと短く警戒の唸り声を発した。ジョエルはこの旅における自分の役割を最近になって徐々に自覚し始めていた。番犬としての役割。知らない人、車を無遠慮に眺める不審な人物がいると「やばいよ陶子ちゃん。気をつけて」と知らせてくる。ジョエルは咬む力も強いから、あたしにとっては頼もしいナイトになった。
男が数歩のところまで来て止まった。若い。背がひょろっと高い。薄い色の瞳。何色だか夜の闇の中じゃよくわからない。青ざめて見える程の白い肌、メッシュのライダーズジャケットに、膝から下が真っ赤なゴツゴツとした印象のレザーパンツ。派手なバイクの赤とコーディネートのつもりだろうか。ヘルメットも赤色だ。ヘルメットの癖がついてひしゃげてしまった長めの薄茶色の髪に手を入れてくしゃくしゃ掻き回し、男は言った。
「ボクはフランス人です」
フランス人には見えなかったがよくわからないので、とりあえず、そうですかとあたしは頷いた。日本語お上手ですねと言おうとしてやめた。
「泊まるところを探してるんですか?」
「そう。ボクはあのバイクで日本を旅行してるんだけど、キャンプの道具は持ってるからキャンプ場に行きたいんだよねー。でもこの辺キャンプ場ないね。公園で寝てもいいんだけど、できればキャンプ場がいいからね。あなた知ってるー?」
尻上がりのイントネーションで妙に威勢のいい声をしている。男は自分のバイクを指差した。バイクの後ろには黒っぽい荷物がふたつ、紐でぐるぐる巻きつけてあった。
「キャンプ場は知らないです。あたしは掛川の道の駅にこれから行こうと思って」
「ああ、道の駅? あそこもいいよねー。掛川ってどこ? 道知ってる?」
それからあたしは地図を広げ、見知らぬ男と頭をくっつけるようにして掛川の道の駅までの道順を調べた。その間ジョエルは助手席からずっと不審の目を男に向けていた。
「あなたはー、けっこう可愛いネ」
男が真面目な顔をして突然言うのであたしは面食らい、しかも「可愛い」に「けっこう」なんて割と難しめの微妙な日本語がついたことに腹を立てたが、顔には出さずに平静を装って言った。
「そんなことないけど、でもありがとう」
やっぱりナンパかあ。こんな人気のない砂丘の駐車場でしかも暗くなってからナンパとは。この男を巻かなくちゃならないと思い、急いで頭を巡らせた。
「どうもねー。じゃボクも行くから向こうで会おうよ」
ひどく軽い調子だ。
「そうですね」
会えるのかどうかはわからない。なにせ気ままな一人旅だ。途中で何が起こるかわからないし、気だって変わるかもしれない。それに車という鉄の箱に籠ってしまえば怖いことはひとつもなかった。車の中に居る限り、誰もあたしたちに手出しはできない。だから身の安全については自信があった。
男は耳の下まで伸びる柔らかそうな髪を手でしきりに掻き上げながらバイクに跨り、頭をヘルメットに押し込んだ。
「それじゃ向こうでネー」
男は革手袋の片手を挙げた。あたしはちょこんと頭を下げた。男が行ってしまってだいぶ過ぎてから、道順を頭に叩き込んであたしは運転席に座った。
「さあ、おなか空いたねジョエル。出発するよ」
窓の下に前足をついて立ち上がり、三分の一ほど開けた窓からジョエルが顔を出す。夜風に吹かれて大きな両耳が派手に左右になびいていた。暗くて景色はよく見えないが、風の匂いを嗅ぐだけでもジョエルには楽しいらしい。そしてあたしは風に吹かれる車窓のジョエルを見るのが楽しい。
途中で見つけたスーパーに寄り、地元の食材を吟味し、今夜の献立を考えているうちに、掛川の道の駅に着いてしまった。大型トラックがずらっと並んだ先の小さな緑地にテントが張ってあり、その前に赤いバイクが停めてあった。ああ、あの人無事着いたんだな。
今日は道の駅に入るのが遅くなってしまったので、駐車場左奥の特等席は確保できず、あたしたちの車は別の車に両サイドを挟まれていて窮屈な感じだった。ジョエルの散歩を済ませ、車内でご飯を炊く。長旅になるので節約のために朝晩は基本的に自炊だ。
飯盒をコンロの上に乗せて弱火でじっくり加熱する。加熱時間は三十分くらいとアウトドアの本にあったのだが、やってみると二十八分、二十七分、二十五分とその時間はだんだん短くなっていた。火加減も中火で沸騰させてから弱火にするとあったが、最初から弱火でトロトロやる方が具合がいいような気がした。
車中泊の自炊生活でご飯の炊き上がりは重要だった。ご飯に芯が残って固かったり、逆に柔らかくておかゆのようだったりと、初めの頃は失敗ばかりだった。ご飯で失敗すると、食事は惨めなものになった。おかずだけではひもじく、夜は無限に長くなった。サブバッテリーを積んで電源を確保し、炊飯ジャーでご飯を炊くのがゴージャスな車中泊組の主流だが、あたしにはサブバッテリーは高くて手が出なかったから、飯盒での炊飯に何とか慣れるしかなかった。
ソーセージとキャベツのざく切りをマーガリンで炒めておかずにし、炊きたてのご飯にスーパーで買った静岡県産の釜揚げしらすをたっぷりのせて醤油を垂らし食べた。すごくおいしい。ご飯はこの季節、翌日までとっておけないので、一杯半ほどの量をしらすと納豆で平らげてしまった。量は普段より多いが、旅に出て以来、毎日体を動かして早寝早起きの規則正しい生活をしているせいか、いくら食べてもちっとも太らない。
食器を車内の後ろの棚に片付けていると、助手席のジョエルが急にヴァウンヴァウンと吠え声を挙げた。「誰か外にいるよ」思わず体が強ばった。夜になって誰かが車に尋ねてくるなどあり得ない。コツコツと助手席の窓がノックされて、ジョエルがいっそう激しく吠え立てた。
「さっきはどうもネー」
シェードで目隠ししされた窓からくぐもった声が聞こえた。一瞬迷ったが、あたしはロックを外して恐る恐るドアを開けた。浜岡大砂丘で会った男が背中を少し屈めてこちらを覗き込んでいた。
「ボクの方が早く着いたネー」
この男の喋りはどうも語尾が長くて軽い調子なのが気になる。
「途中で買い物とかしてたので」
「もう晩ご飯食べたのー」
「ええ、今食べてるところです」
「そうか。一緒に食べようと思ったのにー」
馴れ馴れしさに思わず警戒感が顔に出たが、相手は気が付く様子もない。
「今テントでご飯作ったからー。いっぱいあるからー。一緒にと思って」
「ああ、ありがとうございます。でももうお腹いっぱいで」
「うん残念。犬可愛いネ。名前なに?」
「ジョエル」
「ジョエール!」
男は叫んでいきなりジョエルの首にヘッドロックをかけたので、ジョエルが驚いて後ずさった。ウーと低く唸り声をあげている。ジョエルは若い男が嫌いなのだ。これが女性や中年以上の男性なら、尻尾を振って舌を出し擦り寄って行くところだろう。男はへらへら笑っている。
「ジョエル、やめなさい」
あたしは鋭く叫んでジョエルの首輪に手をかけて引っ張った。
「だあいじょうぶ、だあいじょうぶ。そのうちこの子、ボクのこと好きになるネ」
ふふふと笑顔で相槌を打って、あたしはどうしようかと考えた。知らない人と話すのは苦手だ。この人いつまで車の前に居るつもりだろう。車の中はいわば家の居間だ。居間を開け放して外に立っている人と話すのは何だか落ち着かなかった。コンロや飯盒やゴミが散らかったままなのも気になる。
「あなたのー、名前何ていうのー?」
男はこちらの気持ちなど、全く推し量れない様子だ。
「あ、青江です」
「下の名前はー?」
「陶子」
「ボクはー、ソラ」
「ソラ?」
変わった名前だ。それはフランス人の名前かと聞こうとして、やめた。男の目が泳いでいた。癖毛なのかふわふわとして耳にかかる髪を掻き上げ、車のドアに手をかけて道の駅の売店の方を見やった。
「コーヒーでも飲まなーい? あそこの椅子で」
道の駅の売店はたいがい午後五時頃には閉まる。静まり返った店の前にずらっと並ぶ自動販売機が、闇夜にぼうっと青白い光を放っていた。「陶子ちゃん、やめとけって」ジョエルの声が聞こえる。この犬はあたしが見知らぬ男について行くのに反対なのだ。だが暇だったあたしは、誰かと話してみるのもいいと考えた。犬の反対に怯む理由はない。人間には人間の都合ってものがあるんだし。
「そうですね。今行きます」
自分でも意外なことに、あたしは元気よく答えてバッグから財布を出し、ジョエルを一瞥して、待っててねと声をかけた。「知らないからね」と素っ気ない返事があり、ジョエルは自分の寝床を作るためにぐるぐるとその場で回転し始めた。あたしはランタンを消し、サンダルを履いて外へ出た。
灰色のシミがくっきり浮かんだ鮮やかな黄色の月が出ていた。雲がひと筋かかって、ゆっくりと月を横切り動いていく。星は少ない夜だ。男はさっさと自販機の方に行っていて、飲み物を物色していた。背後に立つと男が振り返った。
「何がいいー?」
自販機の蛍光灯に照らされた男の肌は気味が悪いほど真っ白だった。涙袋が厚く二重まぶたの大きな目を覗き込むと、緑がかった薄いグレーの瞳とぶつかった。瞳の色はグレーだ。男が微笑んだ。
「えっと、ミルクティー。自分で買います」
あたしが財布を探っている間に、男は自販機のボタンを押していて、目の前にミルクティーの缶が差し出された。
「ボクのおごりネー」
男がウインクしたので、あたしは動転して仰け反った。彼はさっさと街灯の下のベンチに座ると、自分の隣をポンポンと叩く。夕方出会った時はライダーズジャケットを着ていたが、今は黒の半袖Tシャツ姿で、顔の造りに似合わぬ筋肉の盛り上がった二の腕を見て、あたしは少し狼狽えた。
「どこから来たのー?」
「埼玉です」
「へえ。ボクは板橋区」
「ずっとバイクで旅してるの?」
「そう。今三ヶ月くらい。七月に出てきた。仕事やめたから日本を旅して、それから国に帰ろうと思って。国に帰る前に日本中見たいなーと思って」
「フランスに?」
んーと、男はそこで口ごもった。やっぱりフランス人じゃない。いったいこの人、何人だろう。
「ボクのことはソラって呼んでネー。あなたのこと、陶子ちゃんて呼ぶよ」
名前で呼ばれるのは構わないが、この男とこれから先また会うことがあるのだろうか。会う、というのを前提で彼は言っているのだろう。男の調子の良さに既に乗せられている感じがした。
「ソラって変わった名前ね。あなたの国じゃよくある名前なの?」
「いやー、ボクの国でも珍しい名前ね。ソラって日本語ではお空のことだからいい名前でしょ」
ソラは首を上げて空を指さした。あたしも釣られて空を見上げ、玉のような重たい月の明るさにしばし吸い寄せられた。温かく甘いミルクティーがおいしい。一人暮らしのアパートを引き払い、実家に荷物を移して旅に出てきた時は真夏だった。いつの間にか温かいミルクティーがおいしい季節になっている。
「ソラさん、全然日に焼けてないのね」
「だってメットかぶってるしー。それにボクあまり日に焼けないんだよネー」
「いいなあ。あたしは日焼け止めが手放せない」
別におかしくはなかったのだが、あたしが思わず笑うと彼も声を合わせてハハハと笑った。しんとした駐車場の、仄かな街灯の薄明かりの中に、思いがけず明るい笑い声が響いた。こんな風に同世代の人と、屈託なく笑い合うのは久しぶりな気がした。
「陶子ちゃん、これからどこ行くのー」
「えーと、日本中。日本一周してみようかと思って」
「いいねえ。ボクとおんなじ。じゃまた会えるねー。明日どこ行くの?」
「それはわからない」
一緒に行く、と言われるのを警戒してあたしははぐらかした。それから、あたしたちはそれぞれのこれまでの旅について語り合った。彼はまず東北に行って、青森、岩手、宮城、福島、関東を通って静岡まで南下してきたらしい。
「夏は暑いから北の方に行った方がいいでしょ」
「それはあたしも思ったんだけど、来年の夏に、東北と北海道に行こうと思ってて」
「来年の夏ってことは一年以上一人で旅するってことー? すごいネ」
ソラは大きな目をさらに大きく見開いてみせた。
「じゃ、ボクもそうしようかなー」
思わず無言になったあたしにさすがに相手も気が付いたのか慌てて手を振った。
「いやあ、冗談、冗談」
「ミルクティーありがとうございます。あたしもう寝るね」
「うん、じゃあおやすみなさい」
男がコーヒーの缶を持った右手を振ってみせた。あたしはおやすみなさいと答えて、車に戻った。
助手席からジョエルが横目でじろりとあたしの顔を見てきたが、何も言わなかった。あたしはランタンの明かりで日記をつけ、ジョエルに就寝前の歯磨きガムを与え、十時には毛布にくるまった。
地図を眺めてみたら、愛知県が意外に山がちなのに気づき、愛知の山中を走りたくなった。国道二五七号をひたすら上っていくと、愛知国立国定公園に入った。緑なす山々で観光開発はほとんどされておらず集落も少ないが、川中にはやたらとヤナ場がある。
助手席の窓から上半身を出したジョエルは、口を大きく開け、鼻をぴくつかせ、清流と山の新鮮な空気を思う存分味わっている。大きな茶色い耳が風に乱れ飛ぶ木の葉のようで耳元からひきちぎられそうだ。
工事中の現場を通り抜けたところで、ホイールから後部座席まで赤い車体に、黒のラインが入った派手なバイクが追い越していき、赤いヘルメットが振り返って右手でピースサインを出した。あたしは驚いてハンドルを取られそうになった。ソラだ。何故ここにいるのか。海沿いを行くと思ったのに。赤いバイクは山中のカーブをスピードを落とさずぐいぐいと登っていく。あっという間に視界から消えてしまった。
山をいくつも越しているうちにいつの間にか岐阜県に入っていた。土岐市の道の駅に滑り込む前に、地図に出ていた瑞浪市の温泉に立ち寄って行くことにした。
日帰り温泉には大体二日に一度のペースで入っている。本当は、まだ暑い季節でもあるので毎日でも入りたいのだが、入湯料に五百円から七百円ほどかかり、毎日だと出費もかさむので我慢していた。今日は日が暮れてから温泉に立ち寄って汗を流し、その後は道の駅で寝るだけ、の状況が作れてラッキーだ。
瑞浪市稲荷温泉。文字通り、稲荷神社の隣にその温泉はあった。神社と共用の駐車場に車を停め、シャンプーや櫛、化粧品等を入れたプラスチックの籠を持ち、着替えを入れたバックを肩にして、ジョエルに待っててねと声を掛けた。「あ、お風呂ね」ジョエルはすぐに飲み込んで、毛布にくるまり寝る体勢に入る。あたしが温泉の時は何時間でも、ジョエルは飽きもせず寝て待っていてくれる。どんなに待たせても文句は言わない。最高の旅犬だ。
暮れ時の神社の境内からして恐ろしいのだが、「稲荷温泉不老荘」と書かれたその温泉の、摩耗した研ぎ石のような外観に衝撃を受けた。温泉というよりこれではお化け屋敷だ。いくらなんでもレトロ過ぎる。昭和の建物だということを差し引いてもひどすぎる。趣がある、というのとは明らかに違う。赤い屋根、汚くくすんだグレーの壁、くもりガラスの引き戸、何もかもがおどろおどろしく陰鬱なのだ。
営業はしているらしく薄く灯火が見えるが、壁に描かれた鮮血のような赤色の温泉マークの毒々しさに度肝を抜かれて、あたしは尻込みした。こんな建物に入ったら何をされるかわからない。取って食われるんじゃなかろうか。あたしは車を振り返ってジョエルに助けを求めようとしたが、ジョエルはもう寝入っているのか姿は見えなかった。
客は誰も来ない。神社の暗さと人気ない静けさにいっそう震えがくる。でも昨日は風呂に入ってないし、今日こそ体を洗わなければ。入ったが最後出てこられなくなるという予感がしたが、まさか死ぬこともあるまい。あたしは勇気を奮ってガラス戸を引いた。
「いらっしゃーい」
意外に明るい声が響いてきて拍子抜けした。受付にいたおかみさんにあっさり五百円払い、案内に従って畳み敷の廊下を行き、きしむ急階段を降りていくと風呂があった。脱衣所の調度は何もかもが古びていて、骨董屋にでも入ったようだ。タイムスリップの気分で、年代物のロッカーや体重計や壁かけなどを見て回った。
風呂はシャワーやシャンプーはついているが、湯船がとても小さい。だが客はあたし一人なので遠慮は要らなかった。放射能泉の湯を心ゆくまで楽しむ。独り占めの風呂を満喫して湯から上がり、心地良い気だるさに酔いながら廊下を進んで休憩所に戻ると、そこに見知った顔があった。
「こ、こんばんは」
「あっ」
受付にいた老人が振り返る。首に黄ばんでくたびれたタオルを巻いて突っ立っている。渡来だった。
「どうも。こんなところでお会いするとは」
あたしは驚きに少し後ずさって老人の顔を見詰めた。受付のおかみさんが困ったような表情を浮かべてあたしたちを見比べている。渡来の顔に一瞬怯えのような色が走った。
「お客さん、だからうちは、風呂の値引きはできないんですよ」
おかみさんの険のある声に渡来が我に返って受付に向き直り、俯いて足元を見はじめた。
「そこをー、なんとか」
蚊の鳴くような声がした。いつもの溌剌とした渡来はそこにはいなかった。
「無理ですね。一人五百円ずついただきます。二人で一人分というのは無理」
おかみさんがずけずけと言って声を張り上げた。あたしは見てはいけないものに遭遇した気持ちで顔を背け、ドライヤーで乾かしたばかりの髪を手櫛で梳くことに集中する振りをした。老人が振り返り足を引きずりながらゆっくり近づいてきた。恐る恐る顔を見上げると、渡来が破顔した。
「温泉というのはまけてはくれないものなんですかね。いや前に一度ね、頼み込んだらまけてくれたことがあったんでね」
富山県の日帰り温泉では、一人三百円で入れてくれたことがあったという。半年も前の話だ。
「普段はいくらで?」
「めったに入らない。たまに町の銭湯を見つけると入ることはあるけどね。銭湯はほら、安いでしょう? 普段は川や湖があるところで、こっそり水浴びしてるんですよ」
老人の目の色が、茶目っ気たっぷりに変わり、やがてきらきらと輝き出した。声のトーンが低くなり、囁くように続ける。
「夏に水浴びするのは最高に気持ちがいいもんでね。わたしと都志と二人、素っ裸になって、潜ったり水を掛け合ったりね。石や土の上に素足で立つと気持ちがいいんだよね。洗濯もついでにしたりしてね。人に見られたらまずいけど。何しろ裸だからね」
くっくっと低く笑う。あたしはショックを受けてしばらく言葉を失った。
「川や湖で!」
老人二人が素っ裸になって川ではしゃぐ姿を想像しようとして、あたしは慌てて自分を押しとどめた。
「どうしてそんなことを?」
「いや、金がないから」
老人はあっさりと口にした。何の衒いもなかった。あたしは一瞬、老人に羨望に似た念を抱いた。この人には自我というものがないのかもしれない。
長く旅するに当たって、出費をなるべく抑えようとするのは当たり前のことだ。だが風呂代を節約するために川や湖で水浴びするなどという話は見たことも聞いたこともない。そんなこと今時ホームレスだってやらない。第一冬はどうするのだ。真冬に水浴びなどできるはずがない。
「冬はどうするんですか?」
あたしは恐る恐る聞いた。聞かずにはいられなかった。
「冬は入らない。湯に浸したタオルで体を拭くだけ」
「なるほどね」
あたしは驚きを隠してなるべく真面目な表情を装った。冬は入らない。なるほどね。
彼らが一体どんな事情でこんなことを続けているのか気になった。最初から聞こうと思っていた。だが話せないような事情があるのかもしれないと思うと聞き辛かったのだ。自然な形でそんな話になればいいが、単刀直入に聞くのはまず無理だ。相手の気を損ねずに屈託なく話を聞き出すなんて小難しい芸当は、愛嬌のないあたしにできるはずもない。
「さて、ここは安そうだと思ったんだけどダメだとなると今日は諦めるか。お湯はどうでしたか?」
「とても良かったですよ。ここ外観はなんか怖いですよね。でも浴場はきれいでしたよ」
「外観は怖いですか! まあお若い女性にはそうでしょうな。わたしは味があると思ったんですがね。昔を思い出しますからね」
「これからどこへ向かわれますか?」
あたしはバツが悪くなってきたので話題を変えようとして、しまったと思った。もしあたしと同じ方向だったら、また連いて行くような格好になってしまう。
「今日はここで泊まろうと思います。しばらく岐阜と愛知を見て回るつもりですよ」
ここで泊まるなんて恐らくできない。いや、駐車場が神社と共用だからひょっとすると閉まらないのかもしれない。だがトイレを貸してくれることはないだろう。
「あの、この近くの恵那市というところに道の駅がありますが…」
あたしは自分がこれから行くつもりの場所をおずおずと口にした。言わずに済まそうかとも思ったが、良心に従うなら言うしかなかった。
「いや、今日はもう疲れて運転できません。ここで寝ますよ」
「そうですか」
あたしは諦めた。
二人で一緒に温泉を出た。おかみさんが不審そうな目を向けて出て行くあたしたちを見送っていた。
軽のワンボックスカーの脇に老女がそっと佇んでいた。普通に立っているのではない。そっと、としか言いようのないくらい浅く、地に足がついているかいないかのような立ち方で彼女はそこにいた。あたしは息を呑んで老女の姿をしばらく見守った。
「あら、青江さん。いらしたの」
都志が口元に薄い微笑を漂わせた。
「ダメだったよ温泉。今日はもうここで寝よう」
「そうね。また水浴びでもいたしましょう、あなた」
暗闇の中、神社の赤い鳥居と樹木だけが、温泉館のほのかな灯火に照らされて浮かび上がっている。長く白い髪を背中に垂らして微笑む老女と、その肩に手を置く老人の姿は絵空事のように現実味がなかった。もしかしてこの稲荷温泉に合わせて、本当に昭和にタイムスリップしてまったのだろうか。
夜風に当たって湯冷めしそうで、あたしは挨拶を済ますとさっさと車に乗り込んだ。ここに泊まるという二人のことが心配で後ろ髪を引かれたが、その考えを振り払って車を発車させた。バックミラーに次第に小さくなっていく二人に、もうこのまま会えない気がした。
3
大都会の名古屋は車を停められないので迂回し、知多半島や渥美半島を観光して、三重県に入った。地図で見つけた伊賀や甲賀の忍者屋敷で遊び、熊野古道を巡礼し、紀伊半島をぐるりと回って大阪を通過、兵庫に入る頃には十一月になっていた。
美しい明石の街並みを抜け、明石海峡のフェリー乗り場に夕方になって到着した。明石海峡大橋を行けば簡単に海峡を渡れるのだが、せっかくなのでフェリーに乗ってゆっくり行ってみたい。チケット売り場で車両代を払い、乗船券を買っていると背中に明るい声が降ってきた。
「陶子ちゃんじゃないー?」
妙に尻上りのトーンだったのですぐにピンときた。振り向くと赤いヘルメットを抱えたソラが満面の笑みで立っていた。
「ああ」
「ここで会えると思わなかったな」
「お久しぶりです。愛知以来?」
「そうだね。フェリー乗るんだ。ボクも橋かフェリーか悩んだんだけど、フェリーにして良かったー」
あたしたちは通称「たこフェリー」に一緒に乗り込んだ。あさしお丸。白い外壁に、明石名物のたこの模様が全面にあしらわれている。二人でフェリーの客室に座り、お互いの旅の話を交換した。ソラは紀伊半島を回った後、高野山や京都もゆっくり観光してきたらしい。京都は鞍馬山が面白かったと彼は言う。
「鞍馬山? なんか聞いたことある」
「そうでしょー。ミナモトヨシツネが子供の時、ウシワカマルって呼ばれてる頃に修行してた山よ」
「ああ、牛若丸。よく知ってるねソラさん」
「そうでしょー。勉強したもん。鞍馬山は結構キツイ登山だったけど楽しかったよ。鞍馬山全体が寺で、ヨシツネが十歳から十七歳まで天狗と一緒に修行した山なの。山の中にお堂や寺がたくさんあってね。今京都は紅葉がキレイだしー」
そうなのだ。紅葉の京都をゆっくり観光したかったのだが、時間もお金もかかると思って諦めていた。ソラはバイクが停められる安い宿にずっと泊まっていたという。
「ガイジンでいっぱいの宿。今京都はオンシーズンだからねー」
おネエのような言葉遣いとハイトーンボイスが響く。あたしは笑いたくなるのを必死に堪えた。
「日本語はどこで覚えたの?」
「仕事場でさ。あとテレビのドラマかな」
秋の光が明石海峡の波間を柔らかく撫でていく。穏やかに光る海を横目に見ながら、あたしはかねてよりの疑問を口にした。
「何で日本に来たの? その…、理由は?」
「仕事のためよ。お金を稼ぐため」
しばし言い淀んでからソラは答えた。
「フランスでは何をしてたの?」
「学生かな」
「じゃ、卒業してすぐ日本へ?」
「そういうこと」
「へええ」
どこか信用できなかった。いや、信用できないというよりウソが苦手で、ウソをつくとすぐばれてしまうようなタイプに見えた。
二十分ほどで海峡を渡りきり、淡路島の船着場に着いた。あたしは車を、ソラはバイクを船から出す。船着場からすぐの明石海峡大橋の袂に道の駅があったので、必然的に二人でそこへ入った。
「へへへ、こういうの日本語で、旅は道連れって言うんでしょー」
ソラが嬉しそうに言って、真っ赤なバイクから荷物を降ろしキャンプの準備を始めた。
日が落ちてきたのでここで夕飯を取ることにし、売店で明石焼きと明石海峡名物のたこ飯やたこ蒸しを買った。巨大な橋の下が海に面した広い公園になっていて、淡い空を背景に、複雑に入り組んだ鉄筋の人工的な橋のフォルムが間近に見られる。ジョエルがお座りをして、海峡を渡るカモメの群れを神妙な面持ちで見上げている。公園に点在する木製のテーブルでソラと二人夕飯を食べた。ソラがジョエルに食物をやろうとするので慌てて止めた。
「犬はたこが食べられないのよ」
「そうなの!」
二人でいると何だかデートみたいだ。この男と見知らぬ土地に二人きりで居て、何をしようと自由なのだ。その解放感が嬉しくもあり、異世界にたった一人で放り出されたような寄る辺無さも感じる。
ソラの長い睫毛に縁どられた大きな目を見ているのは楽しかった。陶器の表面のように滑らかな肌がきれいで、手を伸ばして触れてみたくなる。話し方はヘンだったが、弾けたように笑う顔は眩しかった。
「ボクたちって年も近そうだし、同じような旅してるし、運命じゃない?」
ソラがポケットから細密画のような絵が描かれたカードを取り出し、ここから一枚引いてとあたしの前に突き出した。
「え、なーに?」
笑いながら一枚抜くと、裏を見る前に彼が素早くあたしの手からもぎ取り、カードを仔細に眺めた。
「ふん、ほらー、タロットカードも言ってるよ。ボクと陶子ちゃんは運命の糸で結ばれてるって!」
「はあ」
あたしは呆れてソラの微笑に輝く顔を眺めていたが、胸の底にふわっと何かが温かく降りてきたのを感じて戸惑った。タロットカードをあらかじめポケットに仕込んでいたことには気づいたが、見え透いたことを、と思うと同時に悪い気もしない。
日が落ちると海沿いの堤防を波の音を聞きながら二人で歩いた。対岸が明石でその右手が神戸。煌く夜景が美しく、学生時代に行った香港の夜景を思い出した。明日は一緒に淡路島を回る約束をして車に戻ると、ジョエルがあたしをギロッと横目で睨んだ。「陶子ちゃんおかしいよ。最近男には目もくれなかったのに。何してきたの」。うるさい、と犬に答えて、あたしはジョエルにガムもやらずに早々に寝袋と毛布にくるまった。
翌日はヤシの木が点在する南国風の風景の中を、ソラのバイクと並走して走った。窓の全面に棚田をのぞむ温泉に浸かって、温泉館の休憩室でソラと二人気怠さの中横たわった。
四国を一緒に周ろうとソラが言う。
「わざわざ一緒に周らなくても、そのうちまた会えるでしょう」
あたしははぐらかして手を振った。
「そうだねー」
ソラが寂しそうに笑った。
愛媛の、夕日が美しいと言われる海沿いの道の駅には、夜になると駐車する車があたし一台のみとなった。確かに丸々としたオレンジの玉が海に溶けていく様は鮮麗だったが、日が沈むと黒雲が垂れ込め、暴風が吹き荒れ始めた。あたしはラジオを聞かないので天気予報を知らないが、予報を知っている人々は、こんな日に誰も海辺の道の駅などに泊まらないのだろう。
雨はなく、海の底から湧き上がってくるような黒い風が、渦を巻くごとく吹いてきて車を激しく揺らした。毛布を被ってジョエルを抱き寄せ、寒さに縮こまり、妙に心細く所在無げな気分になって、ランタンの灯りでパソコンを見たり本を読んだりした。だが地獄の呼び声のような風の音が耳に張り付いて集中できない。風で車が横倒しになったらと恐ろしくなる。ここで死んだら誰が助けてくれるだろうか。ジョエルを抱えていても震えが止まらない。辞めてきたバイト先の暖かいオフィスや、ストーブと炬燵でぬくぬくとした部屋で、熱い鍋をつつく自分の姿が頭に浮かんでは消えた。
あのままの生活を続けていればよかったのに、あたしは何故こんな所で震えているのだろう。便利で不自由のない生活から離れ、貯金を取り崩し、無職になってこんな所で一人震えている自分が途方もない馬鹿に思えてきた。自分は多くの真っ当な友人たちと違い、いくつになっても馬鹿げたことを繰り返す、救いようのない人間なのだとジョエル相手に小声で敗北宣言をしてみる。
一人ぼっちが身に滲みた。ジョエルはいくら話しかけても今日に限って何も答えてはくれない。ジョエルだって怖いのだ。ピンと首を伸ばして耳を持ち上げ、風の音に耳を澄ましている。茶褐色の瞳に怯えの色が浮かんでいる。
子宮の奥が疼くような感じがした。実際には、ついこの間まで、あたしは一人ではなかった。確かにこの子宮の奥に一個の命を宿していた。
その真人の子は、今はもういない。
妊娠を告げると真人の顔は凍りついた。目を背けたくなる面相だった。黙していればよかったのだ。北極の只中のような顔から、今度は額に汗を浮かべ始め、真人は産まない方が陶子のためだと説得を始めた。
「俺は嬉しいよ。でも結婚とか、そういうのはできないし。金がない。陶子のことはすごく好きだけど、でも今は無理だと思う。俺たち若すぎるだろ。産まない方がいいって。頼む。君のこと好きだから、陶子のこと考えて言ってるんだ」
あたし達は二十六歳と二十八歳になっていて、若すぎるということは全然なかった。すごく好きなのに産まないでくれというのも、あたしのためだというのも、大手の会社に勤めながら金が無いというのも、お粗末過ぎて言い訳にもなっていなかった。もう少しマシな説得をしてくれれば、まだしも諦めがついたのに。もう少し時間を取って、頭を絞って考えるフリでもしてくれればまだしも救われたのに。本当は妻が居るのだと、この時打ち明けてくれればもっと現実的になれたのに。
この最低な男に、それでもあたしはまだ愛情の欠片が残っていたのだ。喉まで出かかった疑念を飲み込んで、結局あたしは何も言い返せなかった。
真人と二人で中絶費用を折半して、子供を堕した。二人の責任なんだから折半で、という真人の理屈にもあたしは黙って従った。仕事を休んで手術についてきてくれた彼を優しいとまで思ってしまった。
病室の台の上で足を大きく開き、意識が遠くなっていく中で考えたのは、それでもまだあの人が好きだということだった。これで付き合いがまだ続けられるという安堵だった。お腹の子には何の感慨も沸かなかった。失ったものについて考えるようになったのは、堕胎をしてから少なからず時を経てからだ。
この風では怖くて眠れない。ジョエルを抱いていても眠れないだろう。あたしは、風で吹き飛ばされた地の果てで蹲る、一片の弱く醜い存在なのだ。たえず傷つけられ、そして知らぬ間に誰かをも傷つけて、それでも生きていかねばならないのだ。己の罪深さに耐えかねて、ふいに涙が出てくる。たまらなく惨めな脆い心を抱えて、夜が明けるのをひたすら待った。
明け方に風が止んだ。うとうとしながら東の空が薄明るくなるのを感じていた。目を覚まし毛布をどけて車のドアを開けてみる。風で雲が取り払われたようになっていたが、海はまだどす黒く表面だけが時々光った。その黒い海に何か平たい小さなものが浮いている。微かに動いて、それが人間だとわかった。サーファーだ。いつの間にか少し離れたところにハイエースのロングバンが停まっていた。そこから海に出て行ったのだ。
小さい人間はサーフボードの上に腹ばいになりパドルで沖へと進む。そして大きなウェーブが来たところでボードの上に立ち上がった。大風の後の朝焼けに光る波はせり上がってきて強く、黒光りする巨大なくじらの背のようだ。その滑らかな背を、彼は真っ直ぐ滑り降りてくる。心奪われた。
小一時間ほどサーファーに見惚れていると、彼がゆっくりと岸に近づいてきて、やがてサーフボード片手に上がってきた。時計は六時を回っていた。あたしが突っ立ったまま目を離せないでいると、青年が白い歯を見せた。
「おはようございます」
あ、おはようございますと頭を下げた。
「いつも朝、波に乗られるんですか?」
青年はロングバンの後部ドアを開けてウエットスーツを脱ぎだした。あたしは慌てて目を逸らした。
「ええ、毎朝、出勤前に乗りに来るんっすよ」
青年はウエットスーツを、開けたドアにハンガーで吊るした。
「これから一眠りして、ウエットスーツが乾いたら出勤です」
「へえ。出勤前に毎朝波乗りなんて、格好いい」
「そうですかあ?」
茶髪をタオルでかき回しながら青年が笑う。両肩に張り出した筋肉を見遣ってあたしは尋ねた。
「冬なのに水冷たくないんですか? 夕べ天気悪かったから」
「スーツ着てるし、やってるうちにあったかくなってくるから大丈夫。毎朝やらないと一日が始まらないんっすよ。生きてるって感じがしない」
「へえ、そうなんだ」
青年はジョエルに向かって軽く微笑んだ後、じゃ、と車の中に仮眠を取りに入ってしまった。もっとお喋りしたかったけれど、このちょっとした思いがけない会話にあたしは勇気づけられた。「生きてるって感じがしない」。そうか、そうだった。あたしも雪が降ろうと槍が降ろうと、大風で世界が荒れ狂おうと、旅を続けずにはいられないのだ。それじゃなきゃ、「生きてるって感じがしない」。こんな不甲斐ない我が身だけれど、自分だけの狭い世界から一歩踏み出し、管理された時間を離れて、見知らぬ土地で見知らぬ人と出会う。そんな刺激的な日々が気に入っているんじゃなかったか。「生きてるって感じ」とは死と対になっているのだ。だからこそ生に意味がある。あたしは急に力が漲ってきて、ジョエルの散歩を済ませ、コーヒーを沸かした。東の空に増していく光が、今日という一日を祝福しているようだった。
下関から九州へ渡るには関門トンネルと地上の関門橋を渡る方法があるが、海や船が見たいと思い、関門橋で行くことにした。関門橋は全長約一キロメートル。下関インターチェンジから門司港インターチェンジまで一区間だけ高速道路になっている。今回の旅では高速は使わない方針だったが、景色見たさで乗ることにした。
途中の壇ノ浦パーキングエリアで降りると展望台から関門海峡が見渡せた。想像よりだいぶ狭い。緑の丘に挟まれた海峡の橋の下をゆっくりと通過していく船。天気に恵まれて海峡の青と白い橋、船の赤い船体のコントラストが清潔な美しさを見せていた。
ジョエルを抱き上げて、一緒に海峡の景色に見入っていると、パーキングの端の方にいたバイクの一団の中から人が近づいてくるのが見えた。黒いダブルのレザーライダーズジャケット、同色のぴっちりしたレザーパンツに黒いサングラス。薄茶色の長めの髪をくしゃくしゃかき回しながら歩いてくる。
「陶子ちゃーん!」
ソラだった。服装が前と違って冬仕様になっている。
「また会えたねー。前に会ったのも海峡じゃない? なんか会える気してたんだよネー」
ソラはあたしに抱かれたジョエルの頭を自分の頭と同じようにくしゃくしゃに撫でた。ジョエルは不快だったらしくウウと短く唸った。ソラは全く怯まない。
「元気だった? しばらく会わなかったから大丈夫かなー、事故になんか遭ってないかなー、もう旅なんか止めちゃったんじゃないかなーって思ってた」
ソラがサングラスを額に上げ、腰をちょっと曲げてあたしの顔を覗き込んだ。口元は笑っていたが、薄く緑がかってくっきりとした楕円形の瞳には、思いがけない真剣さが籠っていた。相変わらず日にも焼けず、透き通るように白い肌だ。
「あのツーリングの人たちと山口で会って一緒に来た。これから九州周る約束したけど、陶子ちゃんに会ったからやーめよっと」
ソラはパーキングの隅に固まっている黒いバイクの一団を指差した。ごついバイクにライダーズスーツで決めているが、ヘルメットを取るとみな年配者だ。ライダーにはソラのような若者は少ない。若者は自転車で旅する人が多いのだ。「日本縦断中」や「日本一周」のカードをつけて大きな荷物を左右にぶら下げたサイクリストに時折出会う。
「ね、陶子ちゃん、せっかくだからボクたち九州を一緒に周ろうよ」
目の前でソラの笑顔が弾ける。
「うーん、それがあたし、九州は、鹿児島までさっさと抜けて沖縄に行って、帰りに西側をゆっくり周ろうと思ってるんだよね」
「あ、陶子ちゃん沖縄行くんだー」
「うん」
ソラは唇を窄め考え込んでいる。
「ボクは沖縄やめようと思ってるんだよね。その代わり九州をゆっくり周ろうかなって」
「そうなの」
ソラとべったり二人で九州を周ることからは免れたと思い、あたしは無邪気に関門橋を指差し、片手で写真を撮ったり感嘆の声を挙げたりした。ソラは肩を落としてそんなあたしを見遣っている。
「それじゃ、鹿児島まで一緒に行こう」
今時の男子にしては押しが強い。やはり外国人だからか。
「そうね。まあ、自分の旅程を優先しながら、一緒に走れる時は一緒に走ってもいいよ」
言い方に自然と牽制を含めてしまい、それを聞いたソラの瞳の色が複雑に揺れるのを見て、あれ、この人本気だったのかな、と思う。人に近づき過ぎるのが怖かった。あたしにはまだ早い。距離を保っていい子で居たかった。
「陶子ちゃんは彼氏とかいるのー?」
「とか」なんて口語体の難しい日本語を使えるわりには、語尾を不必要に伸ばす癖だけは直らない。
あたしは真人のことを考えた。真人はあたしが旅に出ていることを知らない。いや、アパートを引き払ったのには気付いただろうか。あたし恋しさに一人アパートを訪ねてくれたりしただろうか。メールの文面には消息を尋ねる言葉はない。
「さあね。どうだろうね。いない、かな」
あたしはジョエルを抱え直しながら、目を細めて波の上に漂う薄い光を見ていた。そのあたしの横顔をソラが横目で窺っている。
「そっか。いないんだー。ラッキー」
ソラがパチンと指を鳴らした。汽笛がボーッと鳴り響く。随分遠くまで来てしまった気がした。九州に来たのは生まれて初めてだ。
「じゃ、僕、彼氏でもいいよー」
あたしはソラの顔を振り仰いで、今の言葉の真意を探ろうとしたが、ソラのとぼけた表情では冗談としか思えなかった。
「日本語のイミ、通じてない。彼氏でもいいよってどういうこと? 彼氏になりたいっていうこと、彼氏になってあげてもいいってこと? どっちかというと後の方かな? それに会ってまだ日が浅い女の子にそんなこと言うの軽いよ。日本の男は口が重いからそんなことすぐ言わないよ」
我知らず語気が強まってしまってソラが一瞬慌てたのがわかった。
「ボクだって誰にでも言うわけじゃない。陶子ちゃんに対しては本当にそう思うから言ってるだけー。だって言わなきゃ後で後悔するよ。あの時ちゃんと伝えとけば良かったって後悔するでしょー」
「あたし、じゃあ、行くから。また今度ね」
途端にソラの表情が曇る。
「一緒に行こうよ。僕が先導するから」
「いいよ。あたし今日はなるべく先に進もうと思ってるんだ。泊まるのはどこでもいいし。きっとまた会えるよ」
ソラのひどくしゅんとした顔を見て、一驚すると共に密かに嬉しくもなった。この人、あたしにほんとに気があるんだろうか。まさかな。あたしにはもう、自分が人に好かれる可能性を信じる気力なんて、残っていない。そんなものは仕事や真人と一緒に捨ててきたのだ。
そもそもこの旅には、自分に何かしらの可能性と呼べるものが残っているかどうかを、確かめる目的も含まれていた。行動力、決断力、サバイバル能力、危険回避能力、体力、気力、未来への希望。人を再び愛する可能性。愛される可能性の方は頭になかった。真人の裏切り、真人の子供を亡くしたこと。ひとつの命を奪ったこと。そんな人間が今更人に愛されることを期待して何になる。愛される価値のある人間は裏切られたり殺したりしないのだ。もう手遅れだと思っていた。自分は一生、人に愛される機会を放棄するつもりでいた。
それなのに。目の前に立つ人の薄い色の瞳に宿った真剣な光を見ていると、胸の中が引っ掻き回されてぐちゃぐちゃになり、ふいに嗚咽を漏らしそうになる。
あたしはソラに心の中で感謝だけを捧げた。
「じゃ、またね」
あたしは手を振り、埠頭からジョエルの待つ車の方へと駆け出した。
門司港から国道十号線で海沿いを走り福岡県を一気に抜け、途中で内陸に入った。有名観光地である大分県の耶馬溪を走るためだ。耶馬溪の中にある小さな道の駅で泊まり、翌日は二十二号線で日田市の皿山地区にある小鹿田焼きの里を目指した。小鹿田焼きは重要無形文化財に指定されていて興味を惹かれたのだ。
里の入口に白い軽のワンボックスカーが停まっている。ピンときた。まただ。どうしてこう度々会うのだろう。あたしは一人で顔を赤らめ、シートに深く身を沈めて考えた。このまま立ち去るべきか否か。これではまるで彼らを尾け回しているみたいじゃないか。確かに今頃どうしているだろうと気にかかってはいたけれど。
せっかくここまで来たのだ。会ってしまうなら会っていこう。あたしはドアを開けジョエルを助手席から抱き下ろした。山の中の斜面に家々が固まって建っている。雨上がりの新鮮な空気が辺りに充満している。
小鹿田焼きは約三百年の歴史があり、朝鮮半島からやってきた八人の陶工たちがこの地に伝えたという。斜面に並んだ家々は全て窯元だ。ジョエルを連れてゆっくり坂道を登っていく。家の庭先に売り物の陶器が並んでいた。陶器の色はほとんど灰色で、内から外へ放射線状に描いた線や縄目の模様などが付いていて、原始的とも思えるほどの素朴さが感じられた。山の斜面に伸びる窯は「登り窯」と呼ばれ、煙突から緩やかな煙が立ち上っていた。人気のない坂道を歩いていると、数百年歴史を遡ったような感覚に陥ってしまう。「陶子ちゃん、ここいいね。僕好きだよ。素敵な音がする」。
ジョエルが立ち止まって耳を澄ます。唐臼と呼ばれる木製の大きな装置で、川から引いた水の動力を利用して土を突く音だ。トン、トン、トンと間隔の長いシンプルな音が響く。ジョエルの両耳が音に釣られてピクッ、ピクッと動いている。音は山の斜面に反響して里全体に響き渡る。川のせせらぎと唐臼の音が溶け合う。あたしも立ち止まってその音に聞き惚れた。
「誰か来るよ」。ジョエルが振り向く。低い家の屋根の陰から老人が二人現れた。渡来夫婦に違いなかった。咄嗟に軒先の器を眺める振りをして屈んだが、渡来にあっさり見破られた。
「青江さん」
腹を括ってあの二人に向き合うしかないのだ、人見知りで頑なな、小さく萎れた心で考えた。もうこれは運命なのだ。これが旅というものなのだ。
「渡来さん。こんな所で。また会いましたね」
渡来が白い歯を見せ、右足をちょっと引きずりながら近づいてくる。大きく手を振っている。
「青江さんこそ。こんな秘境みたいな所で会うとはね。運命だなこれは」
あたしと渡来は互いの旅の話しを交換した。彼らは伊勢神宮に何度もお参りし、熊野古道や紀伊山地を歩き、京都と奈良の郊外をゆっくり見て回り、その後四国から九州に来たらしい。二人の元気そうな様子を見て、あたしは心底ほっとしていた。渡来は前に会った時も軽装だったが、それにしても二月だ。あたしは車の床下に積んできたくるぶしまで届く長いダウンに、ヒールのない布製のブーツといういでたちだったが、渡来は例によってTシャツの上に薄いジャンパーを羽織っただけの姿である。都志は黒っぽい長袖のシャツ一枚だ。
「寒くないんですか」
「全然」
老人は胸を張っていた。都志が頷く。
「あの坂を上がるとこの集落の全体が見えるんだよ。すごく素敵だ。行ってみる?」
老人が言うのであたしはついていくことにした。ジョエルを引きずって歩き始める。トン、トン、トンとゆったりとした等間隔の、唐臼の音が耳に纏わる。
曲がりくねった坂道を上がると、集落全体を見渡せる開けた場所に出た。薄曇りの山の朝は美しい。周囲の山々から霧が降りてきた。勇み足で湧いてきた霧は瞬く間に小ぢんまりした集落を包み込み、霧の上にぽっかりと村が浮かび上がった。あたしとジョエルはまたとない清冽な空気を胸いっぱい吸い込んた。
「こんなところに来られて、わたしらすごく幸せな気分ですよ」
老人がふいに言った。
「皿の一枚も買う金はありませんがね」
渡来の顔を振り返ると、予想に反して顔を皺くちゃにした満面の笑顔だった。その後ろで都志も微笑んでいる。
「お皿はわたしも買えません。先が長いんで節約しなくちゃ」
「いやいやそうじゃなく。青江さんの旅にはいつか終わりがあるでしょう。いつかはおうちに帰られる。わたしらは帰るつもりはないんですよ。死ぬまで旅するつもりです。だから金は全くないも同然です」
「帰らない? 帰らないって…。じゃ、ご自宅はどうなるんです?」
渡来が顔をこちらに振り向けて真顔になる。
「家はもうとっくにありません」
あたしは驚きで目を見開いた。
「帰る家はもうないんです。だから死ぬまで流離うつもりで出てきたんですよ」
「青江さんはよくお若い女性一人で旅しておられる。勇気のいることです。どうして旅に出てきたの? 何かあったのかな?」
そう言いながら長いざんばら髪を片手で掻き上げた一瞬が若者のようで、あたしは気を惹かれ、思わず皺の刻まれた痩せた横顔に見入った。都志がその隣で夫にぴたりと寄り添い、上品に微笑んでいる。あたしは自分が捨ててきたものについて、突然何もかもぶちまけてしまいたい衝動に駆られた。
「あなた、若い娘さんにそんなこと聞いたら失礼じゃないこと」
都志がこちらに首を傾げた。
「おっと、それはそうだな。これは失礼」
「お二人は? お二人はどうして旅に出できたんですか?」
気が付くと口から出てしまった自分に驚いた。渡来は旅行という言葉を使わない。終始「旅」と口にするところに、この自然体の人の小さなこだわりを感じていた。旅行は行って帰ってくるもの、旅は帰らないかもしれないもの。そう言われているようだった。
五秒ほどの間があった。渡来の口元に淡い寂しげな笑みが浮かんですぐに消えた。
「旅に出るしかなかったんですよ」
「あたしくしたち、はぐれものなの」
都志がそっと言葉を添えた。
「二人ではぐれてしまったの。あたくしたちにはもうお互いしかいない」
渡来と都志は顔を見合わせ、眉を下げて肯きあっている。あたしは何の答えも得られないまま二人を黙って見詰めていた。
彼らの旅のスタイルについての最初にあった不快感は消えつつあった。生き延びるためのスキルをたっぷり持っていても、それをいくら駆使できても、果たしてそれが旅と言えるだろうか。日常生活や快適さを捨て、自然の脅威や冒険の危険に体当たりでぶつかっていくことが、やはり旅の本質であるのだ。金をかけてスキルを駆使したいなら、家に居ればいい。あたしたちがやっているのは一泊二日のキャンプ旅行ではない。命がけのサバイバルなのだ。渡来夫婦の有り様を、否定できない気持ちが湧いてきていて、そんな自分に驚いていた。それにしても。するとこういうことか、つまり彼らはホームレスなのか。しかしホームレスなのですか、と重ねて尋ねるのは憚られた。
「青江さんは不思議な人だ。前から思ってたんだが、あなたはわたしらにとって特別な人なのかもしれない」
あたしは意味を測りかねて黙って老人の顔を眺めた。老人の背後で茫洋とした霧がたゆたっている。
次に渡来から出た言葉はあたしをたじろがせた。
「あなたには都志が見えるんですね」
は? もちろん見えますとも。それが何か? と言いかけてあたしは言葉を飲み込んだ。都志を振り返ると、いつの間にか霧を纏った都志の身体が、霧と重なる部分だけ透けているように見えた。あたしは唖然として立ち尽くした。
「どうやらジョエル君にも見えるらしい」
渡来が膝を折ってジョエルの頭を撫でる。ジョエルは老人と都志の姿を交互に見ていた。透けていく老女の姿にジョエルは特に不審を抱いていない様子だ。吠えもしない。
「いったい…?」
「彼女が見える生きた人間は珍しいのです。彼女はこうして確かに存在しているのに。青江さん、あなたのような人は珍しい。何故なんだろう。わたしにもわからないが」
「都志さん!」
あたしは肩の辺りと胴の辺りに、背後の山々の木々を薄く映す都志に呼びかけた。霧が彼女の身体全体を包み込み、霧の透明な力で都志をどこかに連れ去ってしまいそうだった。
「見えるってどういうことですか!」
ほとんど叫ぶように言っていた。老人の頭がおかしくなったのだと思いたかった。これまでごくまともに見え、会話にも不自然さを感じさせなかった渡来だが、本当は少し呆けているのかもしれないという疑念が頭を掠めた。あたしと違い、ジョエルの曇りのない両目は真っ直ぐに渡来を見詰めている。
「わたしが呆けてるんじゃないかって今思ったでしょう」
渡来は照れくさそうに頭の後ろを掻いた。
「そうじゃないんですがね。いや、最近年のせいかだいぶ耄碌しとるとは思ってるが、呆けちゃいないんでね」
「い、いや。そういう意味ではなく…」
霧が老人の姿まで覆い隠そうとしていた。都志と二人して、どこかに消え入ってしまいそうな気配に思わず身震いをした。行かないで欲しかった。あたしを置いていかないでと唐突に思った。無意識のうちに、母親を求める赤子のような切実さであたしは二人の方へ手を伸ばしていた。