5.違う未来へ
その手が空を切る――ことはなかった。
「ルシア!」
誰かの腕が、私の腕と危うく落ちそうになった体を抱き止める。切羽詰まった声は聞き覚えのあるもので、私の大好きな人の声でもあった。
ディアメリオ様だ。彼は潤んだ瞳で、私を痛いほど抱きしめる。彼の体は小刻みに震えていた。
「ルシア……良かった……間に合わないかと思った。大丈夫?怪我はない?」
「あ……はい」
ぎゅうぎゅうと抱きしめられ、少し苦しい。だけど、それが酷く嬉しくて。恐怖から解放された安心感からか、糸が切れたように涙が後から後から溢れてくる。
正夢にならなくて良かった。ディアメリオ様が来てくれた。伸ばした手を掴んでくれる人がいたのだ。
ディアメリオ様は暫く私の背中を摩っていたけれど、やがてゆっくりと離れていく。
「――ねぇ、君」
地を這うような低い声。聞いたこともないディアメリオ様の声に、マリザ様がびくりと肩を跳ねさせる。カツカツと、ディアメリオ様がマリザ様に近づいていく靴の音だけが、この空間に響く。
ディアメリオ様は、静かに問う。
「もしかして、ルシアの事、殺そうとした?」
「……わ、私は」
「違う?」
「…っ」
「殺そうとしたってことは――」
ディアメリオ様はそこから先の台詞は聞こえなかった。
だが、何かキツイことを言っているのは分かった。マリザ様の顔が真っ青になり、ガタガタと震え始める。先程の強気な態度や正気を失った翳りのある瞳は消え、すっかり勢いを無くして縮こまっている。
「そこまでにしておけ、ディアメリオ」
そんな重苦しい空気に割って入ったのは、ライアン様だった。鋭い視線は、マリザ様ではなく、ディアメリオ様に向けられていた。
「……っ、ですが」
「やめておけと言った。聞こえなかったか?」
低く、威厳のある声は、どこか諭すようでもあった。
ディアメリオ様は唇を噛み、俯く。
その様子を見て満足そうに頷き、ライアン様はマリザ様に向き直った。
「それ相応の処分が下されるだろう。未遂でも、罪は重いぞ。おい、お前たち。連れていけ」
「「はっ」」
何処からか来た衛兵が、マリザ様を捕らえる。ディアメリオ様に責められ、意気消沈した様子のマリザ様はすっかり大人しくなっていて。そしてそのままマリザ様はどこかへ連行されていった。
「……未遂とはいえ、ダンスパーティーはお開きにした方が良いだろうな。ルシア嬢もこのようなことがあっては、満足にパーティーを楽しめないだろう」
私は中止の勧告をしてくる、と言って王太子様は去っていった。バルコニーには私とディアメリオ様が残される。
ディアメリオ様は、私をそっと抱きしめた。
彼は私の肩に自身の頭を乗せる。サラサラと黒髪が肩にこぼれ、頰に少し当たるのがくすぐったい。
「ルシアが、生きていて良かった……」
良かったと何度も繰り返すディアメリオ様の声は震えていた。私はここにいます、そう意思を込めてギュッと抱きしめ返す。
悪夢が正夢になることはなかった。他でもないディアメリオ様が、助けて下さった。それが、嬉しい。押し寄せてきた安心感からか、私はぽつりと零していた。
「正夢にならなくて良かった……」
「ん?」
「あ、えっと」
私は昨日見た夢の話をした。
パーティーで、マリザ様に突き落とされる夢を見たこと。
それを伝えれば、ディアメリオ様は驚いていた。
「そう、そんな事が……」
「はい……でも、ディアメリオ様が助けて下さって、本当に安心しましたし、凄く嬉しかったです」
「ふふ、うん。本当に良かった、間に合って」
そう言ってディアメリオ様は安心したように微笑んだ。
今日だけで、ディアメリオ様の色々な表情を見れた気がする。優しくて、当たり障りのない笑顔を浮かべるだけでなく、嬉しそうな顔や怒った顔、安心した顔や悲しそうな顔。今日の出来事の密度が濃かったように思える。
静かな沈黙が落ちる。不思議と気まずくはなく、居心地の良い時間だった。どれくらいだっただろうか。ディアメリオ様がゆっくりと話し始める。
「こんな時に言うのもなんだけど……数ヶ月後に結婚式控えてるでしょ?」
「あ、はい」
「今までは僕もあまり時間がなくて、デート出来なかったから……それも言い訳に過ぎないしね。ごめんね、ルシア」
「いえ……」
「だからさ。結婚式までに、2人で色んなところ行こう」
ディアメリオ様は楽しそうに、国内のデートスポットとされる場所を次々に挙げていく。
そういえば、ディアメリオ様からのデートのお誘いは初めてだ。嬉しくて、頬が緩む。
「ふふ……」
「ん、どうしたの、ルシア」
「いえ、すごく嬉しくて」
そう言って心から微笑めば、ディアメリオ様はその青い瞳を細めた。いつか見た、ライアン様がメア様を見ている時の瞳とそっくりだ。きゅうっと胸が締め付けられる。
「やっぱり、僕にはルシアだけだ。これから先も、ずっとずっと一緒にいよう」
「……っ、はい……」
返事をした途端、涙がポロポロと溢れる。
急に変わったディアメリオ様。でも、私の望んだ方に変わっていた。それは、どうしようもなく嬉しい事で。
ディアメリオ様に恋をして良かった。諦めずに努力を続け、想い続けて良かった。そう、心から思った。
「君は僕のこと、好き?愛してる?」
ディアメリオ様は私の顔を覗き込んだ。吸い込まれそうな青い瞳には、私だけが映っている。
好きな人が、自分を想ってくれているという奇跡に、心が舞い上がった。
「私も、ディアメリオ様の事を愛してます……!」
しっかりと伝えれば、ディアメリオ様は嬉しそうに微笑み、また私を抱きしめ――そっと、唇を重ねる。
2人の下には、輝かしいほどの満点の星空が広がっていた。