1.悪夢とはこのこと
拙い部分もいくつかあると思いますが、広い心で見て下さると幸いです。
「ディアメリオ様!私とダンスを踊って下さいませんか?」
「ああ、良いよ」
そう言って私の隣に佇む婚約者――ディアメリオ様は優しく微笑んだ。その美しい顔と甘い雰囲気に、ダンスを申し込んだ令嬢は嬉しそうに頬を上気させる。
行かないで。
そんな想いを打ち明けることなど出来もしない。我儘な令嬢だと思われ、嫌われたくないから。
「じゃあルシア、行ってくるね。君も好きな人と踊ってて良いよ」
「……はい、分かりました」
貴方と踊りたいのです、その言葉を飲み込み、精一杯の愛想笑いを返す。
ディアメリオ様は紳士的な仕草で令嬢の手を取り、私の元から去っていく。
ディアメリオ様がいなくなった途端、私の元に何人かの令息が寄ってきて、ダンスを申し込んでくる。それを承諾し、名前も分からない令息の手を取った。
私、ルシア・フローレンスとディアメリオ・グレイスはいわゆる政略結婚である。結婚式を数ヶ月に控えた今、お互いに愛はない。そう貴族の中では囁かれている。
――だが、それは少し違う。
私は少なくとも、男性としてディアメリオ様の事が好きだ。けれど、ディアメリオ様は私に全く興味がない。これが真実だ。
しっかりとステップを取って完璧にダンスをこなす。微笑みも忘れずに、相手のリードに合わせて。
「ルシア様はダンスがお上手ですね。それに、とてもお美しい」
どこの誰だか分からない令息は、頰を染めながら私を褒める。初めの頃は純粋に嬉しかった賛辞の言葉も、今や何とも思わなくなってしまった。
ダンスを必死になって練習したのもディアメリオ様と踊る日を夢見て。自分磨きをしたのも、ディアメリオ様の隣に立って恥ずかしくないように。そんな私の努力が報われる日は来るのだろうか。来ないまま、本音を言えないまま私は一生を終えるのだろうか。
そう考えると、辛くて苦しくて仕方なかった。しかし、数年間にわたって仮面を被り続けてきたせいか、私の微笑みが崩れる事はない。
ふと、ディアメリオ様とどこかの令嬢が踊ってる姿が目に入った。逸らしたいのに、逸らせない。つい2人を凝視してしまって、踊っている令息に不思議な顔をされた。慌てて視線を戻し、にっこりと微笑む。
ディアメリオ様は私と婚約する前から、数多の令嬢の注目の的だった。水に濡れたような艶やかな黒髪に、長い睫毛に縁取られた金色の瞳は煌めく星のよう。
優しく紳士的で、常に穏やかな微笑みを浮かべるディアメリオ様。そんな所も素敵で好きだ。けれど、その優しさ故に令嬢の誘いやダンスを断る事はしない。それを嫌だと思う私は心が狭いに違いない。
曲が終わり、令息は嬉しそうに微笑みながら私の手を取り、その甲にキスをする。結婚間近の令嬢に対してそれをするのはあまり良くないと言われているが、私たちの場合は「愛がない」ことになっているので、他の令息令嬢は私たちの間に入ろうと必死でアピールする。
ディアメリオ様はそれを拒まないので、私も拒まない。
暫く何人かの令息とダンスを踊り、私は疲れたと言い訳をしてそこからのお誘いを断った。パーティ会場の隅にポツンと佇み、自分の惨めさを改めて思い知る。
「ルシア嬢」
声がかかり、何かと顔を上げるとそこにはこの国の王太子であるライアン様が立っていた。その隣には王太子妃のメア様がいる。2人は腕を組み、誰から見てもそこに入る余地はなく、とても仲睦まじい様子だ。
「また1人でいるのか。ディアメリオはどこにいる?」
「他の令嬢と踊っております」
「はあ、信じられないな。こんなに可愛い婚約者を置き去りにするなんて」
ライアン様はそう言って呆れたように首を振った。
ディアメリオ様はライアン様と非常に仲が良く、その家柄もあって次期宰相候補として名を連ねている。
ライアン様は時々こうして自身の友人のディアメリオ様の婚約者である私を気にかけて下さるのだ。
メア様もライアン様の言葉に頷いた。
「本当よね。こんなに健気に想ってくれているのに、気付かないのかしら。結婚が近いと言うのに、ほいほい他の令嬢と踊っちゃって」
「……ディアメリオ様はお優しいので、お誘いを断る事はないのです」
「ルシア様」
メア様は近寄る。相変わらずお綺麗で、優しく強い心を持った方だ。ライアン様が夢中になるのもよく分かる。
「そんな優しさ、本当にルシア様の為になっているとは思わないわ。本当に相手のことを思いやるのなら、何かを切り捨てるくらいの覚悟も必要だと思う」
「……」
「令嬢の誘いを断らないのは優しさだと、そう思いたいルシア様の気持ちもすごくよく分かるわ。でも、そうだからといってルシア様を蔑ろにするのは話が別よ」
メア様は怒ったように顔をムスッとさせた。
「私だったら平手打ちくらいはするわね」
「……メア、それはちょっとどうかと思うぞ」
「あら、冗談よ」
からっと笑うメア様を、ライアン様は呆れた顔を向ける。しかしその瞳は優しくて、愛しいものをみる目つきに違いなかった。ふわっとした優しい空気に満ちた、2人だけの空間。幸せな空気に、妬ましいと思ってしまう自分も嫌いだ。
「とにかく、何か困ったことがあったら言ってくれ」
「そうよ。私たち、いつでも力になるわよ」
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げれば、2人は心配そうに顔を見合わせた後、その場を去っていった。
壁の花と化し、私はパーティーの様子をただ眺めていた。
幸せそうな男女が、とてつもなく羨ましかった。私もあんな風に甘く微笑んでもらいたい。それだけでいいのに。
ディアメリオ様に気持ちがないのは明らかだ。デートのお誘いも私からだし、ましてやプレゼントなんて貰ったことがない。当たり障りのない会話ばかりで、ディアメリオ様の事をあまり知らない。まさに書類上婚約しただけ。
苦しい。こんな思いをするなら、好きになんてなりたくなかった。何度も消えてほしいと思った。だけど、恋心は募るばかりで。
ぐ、と唇を噛み締めた。
「ルシア様」
俯いたのと同時に声が掛かる。ゆっくりと顔を上げれば、公爵家の令嬢で「仲の良い友人」のマリザ様が微笑みながら私を見下ろしていた。
「話したい事があるのだけれど、良いかしら」
「……ごめんなさい、少し用事があって」
「良いわよね?」
私の返事などまるで無視して、マリザ様は半ば強引に私の腕を掴み、バルコニーへと連行した。
混み入った会場を出ると、満天の星空が広がっていた。その美しさに少し心が洗われるような心地がする。
マリザ様は会場を背にして、腕を組みながら私に話しかけてきた。刺々しい空気は、酷く居心地が悪い。
マリザ様と私は「仲の良い友人」として世間から認知されている。だが、実際はそんな可愛い関係ではない。
「まだ滑稽な婚約者ごっこしてるの?」
「……っ、ごっこなんかじゃ」
「まだそんな事言えるの?貴女がどれだけディアメリオ様を好きでも、あの人が貴女を好きになることなんてないわ」
その言葉は、ぐさりと私の胸に突き刺さった。
そんなの、私が一番分かっている。ディアメリオ様と婚約して5年も経つのだ。その間に何もなかったということは、今後もある見込みは限りなく少ない。
だけど、もしかしたら。そんな期待をせずにはいられなくて。今日までずっと努力を続けてきた。
「婚約なんか、やめてしまえばいいのよ」
意地悪く、勝ち誇ったようにマリザ様は微笑む。マリザ様は家柄も高く、更に優しく美しい令嬢として人気の的だ。それ故に「白薔薇」なんて呼ばれているけれど、私は知っている。その薔薇には毒を含む棘があることを。
「そう仰るのは、マリザ様がディアメリオ様を好きだからでしょう」
しっかりとマリザ様を見つめる。
マリザ様は事あるごとに婚約破棄を要求し、嫌がらせを繰り返してきた。その理由は、マリザ様は婚約が決まる前からずっと、ディアメリオ様の事が好きだからだ。
「……それが、何だと言うの」
「あの方は、誰のことも好きになりません。分け隔てなく平等ですが、どの令嬢にも関心がないのです」
胸に秘めていた思いを吐露する。
ディアメリオ様は全ての令嬢からの誘いを快く受けるが、自分から誘う事はないし、それ以上踏み込まない。それは私にも同様だった。
ディアメリオ様に好きな人がいるのならまだ良かった。でも、誰のことも好きじゃないのなら。そう思って好きになってもらおうと思って努力し、婚約を続けたのだ。だが、それは上手くいかずに今に至るわけで。
「マリザ様にも、ディアメリオ様は振り向きません」
きっぱりと言い切る。正確には、そうであってほしいと自分に言い聞かせた。私と仲の良い令嬢を演じておいて、陰でこうして婚約破棄を迫るマリザ様の事を好きになってほしくなかった。この人より、私の方が。そう考える自分の思考の傲慢さにも嫌気がさす。
マリザ様は高飛車な笑みを消して、ぐしゃりと顔を歪めた。そのまま、私の肩を強く掴み、欄干に押し付ける。
私は思い切り腰をぶつけ、鈍痛に呻いた。
「……っ」
「自分が振り向かれないからって、勝手な事言わないでくれるかしら。私の想いも知らないで、軽はずみな発言しないで下さる?」
瞳孔が開いた目が鋭く射抜いた。
これだけ言われても、自分の意見を曲げる気にはならなかった。自覚してしまった恋心に嘘はつけない。
「全部、事実を言ったまでです……!」
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。えも言われぬ異様な気配。マリザ様の空気が完全に変わった。敵意を剥き出しにした刺々しい空気から、どろりとした闇を凝縮したような空気に変わる。
「貴女みたいな女がいるから、私は……」
マリザ様はぶつぶつと何かを呟いている。
自分の発言の迂闊さに気づくも、もう遅い。
「――貴女さえ、居なくなれば」
そこだけ、はっきりと聞き取れた。ただならぬ様子に、逃げようとするが、その時には既に肩を掴まれていた。振り解こうとするが、凡そ女性とは思えない力で、もがくことすら叶わない。
私の体が欄干を乗り越える。
「やめて、ください……っ」
「貴女がここから落ちれば、私が婚約者の座につける」
そう思い立ったように宣言するマリザ様の瞳は薄暗く、もはや正気ではない。その赤い瞳と目があったその瞬間――私の体はふわりと宙に浮いた。
「……あ」
確実に死ぬ。そう思った瞬間、恐怖と諦めが同時に襲ってくる。時間がひどく長く感じた。胃がおかしくなるような浮遊感。伸ばした手を掴む人は、誰もいない。
ディアメリオ様は、こんな時でも他の令嬢と楽しくダンスを踊っていらっしゃるのかしら。
意識が途切れる寸前に感じたのは、そんな絶望だった。