表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

百鬼夜行

たまに夢を見ることがある。毎日楽しく仕事して、帰宅してから一息ついたらゲームや読書といった好きなことで夜を過ごして、朝起きてまた仕事をする。時々休んで思い切り羽を伸ばしてまた好きな仕事をする充実した日々。やりたいことを思うように出来ない今だからこそ余計に強く感じる。「やりたいこと」よりも「やるべきこと」が多くてこれまたどうして気持ちが追いつかない。気持ちの来ない物から体が逃げようと反応してしまうのは否定しきれない事実であって、誰しもそういった経験が一度はあるだろう。魔が差すような、障壁が出来たような、一歩踏み切れないもどかしい気持ち。それでも尚歩き続ける人々はどう踏み切っているというのだろう。


何のために自分が今その道に立っているのか、ふとした時につい思い浮かべしまう。その道を志すものとしてあるべき姿をしているか、誠実さを欠いていることには変わりない。では何故自分に鞭を打ちながらいつまでもみっともなく縋り付いているのだろう。私が面白くないと思うことを、平然とやってのける人がいる。何食わぬ顔で「楽しかった」などと語る口がある。私には到底理解し得ない珍妙な光景である。そうして一日、何をしてもしていなくても毎夜毎夜に訪れる、魔の時間。陽が落ちると同時に気も落ちていくのは何の因果があるものか。さして平凡な一日であっても行き着くところは同じなのだ。自分の中の、私の意思を持たない得体の知れない一行が思考の中を散策していく。


ところで、このひと月あまりで私は純文学にすっかり心を奪われてしまった。きっかけは寝る前に興味から聴き始めた朗読であったが、純文学といえば普段本を読む人でも敬遠しがちで堅苦しいイメージが持たれやすく、かくいう私もその一人であった。義務教育の国語の授業で取り扱うような、登場人物の気持ちを読み取れなどという無理難題が定番の、わかり易さよりも文学の芸術性を追求した難しいものである、と。しかし思い違いもいいところ、難しいどころか書き手と共にさながら言葉遊びを楽しんでいるかのようだった。勿論難しい内容もあるが、何より「人としてどう生きるか」を考えさせられるような文にまんまと魅せられてしまった。


毎夜毎夜本やら朗読やらで純文学に触れるうち、毎晩現れていた百鬼夜行──私の中の得体の知れない一行の凱旋──は現れる回数が減ってきた。目を背けていると言えばそうかもしれないが、ある意味では真正面から対峙していると言っても過言ではない。一行が現れないよう夜道に灯りを付けているイメージで相違ない。しかしモノノ怪たちは非常に気まぐれであり神出鬼没である。出逢いたくなくても気付くと大抵近くに控えてたりするものだ。今日は出会っていなくても明日にふらと現れているかもしれない。奴らはきっと私より私を知っているだろうから、例えば丑三つ時より前と決め就床するのが賢明であると判断した。さて、いよいよ丑三つ時が近付いてきたので、早いがお先に瞼を閉じようと思う。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ