表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

蛞蝓のうたた寝 ~練習書きのやつ~

作者: 小窓

中学の頃に書いた駄文です。タイトルも付けていないし、そもそも書き上げていません。

完成させようと本文を読んでみましたが、こっぱずかしくて音をあげました。無理でした。

「蛞蝓の夢」の続きが書けなくて困っているので苦し紛れにあげてみました。後で削除するかも。

続きものの「蛞蝓の夢」とこの「練習書きのやつ」は、世界観は同じですが関連性はありません。

メリークリスマス(UPしたのが12/25だったので…あ、26日になってた)

 私の高校には旧校舎がある。昭和初期に建てられた、大戦の際の空襲にも耐えた貴重な建物だということで、近代的な新校舎が出来た今でも校庭を挟んだ向かい側に当時のまま残されている。木造の外壁には当時は鮮やかな朱色のペンキが塗ってあったのだろうが、今はほとんど剥がれ落ちて、その痕跡しかとどめていない。所々腐っているのか黒みを帯びた壁板もある。いかにも学校の七不思議なんかに出てきそうな舞台だ。埃で白ばんだ窓硝子からそっと外を眺める黒髪の女子校生の幽霊なんかは、実際に居てもおかしくなさそうだし。未来の兆しも無い、時間の止まった空間だ。

 でも、私は旧校舎がそんな嫌いではない。私は古い物が好きだ。落ちついていて、なにか説得力がある。私は好きだ。


------------------------------------------------------------


 香奈乃が旧校舎に入り込んだきっかけは、同じクラスの女子が5、6人で旧校舎の中での肝だめしを計画し、香奈乃にも誘いがかかったからだった。

「香奈乃、肝だめしやらない?」

「何処で?」香奈乃は元々そんなことに興味を持つ子ではなかった。はなから、何か理由を付けて断るつもりでいた。

『コワイノハ、ニガテナノ。ゴメンナサイ。』

「あそこよ」同級生は、両目を意地悪そうに歪めて笑った。

「あそこ?」香奈乃は彼女の意図が読めずにきょとんとした。その時、下校時刻を告げる校内放送がクラシックと共に流れ始めた。

「旧校舎よ」

「旧校舎…………」

 香奈乃は窓の外を見た。夕焼けの二色に彩られた旧校舎は、思い出のように美しかった。そのまま旧校舎を眺めていると、彼女は遠くの教室のひとつに人影が見えたような気がした。旧校舎の廊下側の夕日が教室にまで差し込み、大きく伸びた二つの影が見えたのだった。

(あれは……)

 影はほとんど動かなかった。椅子の足らしいものが見えたから、二人は座っているのかもしれない。香奈乃は目を細めて凝視しようとした。

「肝だめしは今夜の10時!!忘れないでね!」

 同級生は香奈乃の肩を軽くはたくと、机の上のカバンをひょいと肩に掛け教室を出て行った。廊下で友達とはしゃぐ声。慌ただしい足音。少女特有の甲高い笑い声。夕日を反射させる、新校舎のタイル。

 香奈乃はそれを見届けてから、また視線を先程影が見えた教室に向けた。あまり目は良くない方だから、さっきのは見間違いだったかもしれない。

現にそこにはもう、夕焼けで窓越しまで長く延びた二つの影はなかった。

(幽霊……。影の幽霊なんているのかしら)

 香奈乃は余り深くは考えようとしなかった。

いつの間にか、教室に自分一人だ。

それに気付いて、香奈乃はやっと腰を上げた。夕焼けはもう落ちる頃だった。この美術室は、窓がある一方の壁が屋根裏部屋のように傾いている。香奈乃は部屋の電気を消した。夕焼けが斜めのガラスに反射して、天井に海の中のような光の屈折を写し出していた。

 それを見ながら、彼女は今夜の肝だめしに行くための親への言い訳を考えていた。


…………………6時45分を過ぎました。………用事のない生徒は、……速やかに下校しましょう。………委員会やクラスの用事がある生徒は、先生に許可を得てから、………仕事を、始めて下さい。今週の音楽は、バッハでした。

 皆さん、さようなら。また月曜日お会いしましょう。…………担当は放送委員会、2年逢坂でした。さようなら。


------------------------------------------------------------


 小説を書くには忍耐が必要だ。自分の言いたいことだけ書く訳にはいかない。背景描写をし人物描写をし、心理描写を続けながら小説の真意をほのめかす。骨組みをたて、話になるように膨らませていく。プロットをまとめ、主人公の名前を考えて、舞台を決め、話が本当の意味で読者に理解されるように、セクションを推敲する。

 それがないのは、童話かエロ小説だ。昔むかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。二人は犬を飼っていて………。なみは、焦らされるのを半ば快感に感じていた。角張った男の指は乱暴になみの躰を愛撫していった。その快感になみは「あ、ああん。あン」…………。話には骨組みしか存在しない。それだけだ。

「そう思わない?」佐々井は少し肩をすくめた。

「で? この続きは?」男鹿は座ったまま、感熱紙の束で太股をはたいた。微かに教室内の埃が舞い上がり、夕焼けに反射してキラキラ輝いて見えた。

「また最後まで書いてないんだな。こっから、どうなんの」

 佐々井はちょっと黙っていた。

「そっから、なんも浮かばないんだ」佐々井は言った。

「そっか……………」男鹿はうつむいた。

 佐々井も男鹿も小説を書いていた。小説といっても、高校の文芸部員生が書くような程度の稚拙な文章だ。話のネタも表現方法もなっちゃいない。でも、そんなことではない。佐々井の小説には何かが隠れているような気が、男鹿にはしていた。いうなれば、未来。男女が結ばれる。約束を果たす。成長していく。そんな、身近な未来。そんな微かだが、人間が時には心の奥底から悪魔にでもすがりつきたい程欲する未来が、そこにはあった。

 しかし、彼はどうしても結末まで書くことができなかった。どうしてかは男鹿にも分からない。書き続けて書き続けて結末が見えてくると、目の前が真っ白になってしまうと彼は言っていた。主人公が運命に悩み、苦しみ、それを乗り越えようと必死にもがいている。そして、未来が見え始める時、彼のワープロを打つ手はピタリと止まる。それから、そこから何も書けなくなる。そして、そこでまたその小説は未完で終わる。彼の部屋には、そんな意味では存在価値の無い途切れたお話が山積みになっているはずだ。

 佐々井は不意に廊下側の窓の方に目を向けた。黄色なのか橙なのか分からない程眩しい夕焼けに目が眩んだのか、佐々井は目を細めていた。沈みかけの夕日は廊下から教室の中まで差し込んでいた。二人の影は新校舎の方に長く延びていた。旧校舎の教室の中に揺れる埃は、夕日を受けて雪のように見えた。

 だから、俺はここが好きだ。それは佐々井もそうだと思う。


 そういえば、校舎の方で下校をうながす校内放送も遠耳に聞こえる。そんな風に校庭の向こうに見える校舎を見つめた。

「ああ、帰ろう」

 俺は椅子の背もたれに掛けていたカバンを抱えた。椅子の影をふと見ると、二つの椅子の影は夕日が深く差し込んで新校舎へと長く延びていた。

 佐々井はさすがにしょんぼりしていた。それもそうだろう、自分の書いた小説をけなされたのだから落ち込むのも無理はない。

「なあ、帰りにラーメンでも食ってかねぇ?」男鹿は旧校舎の廊下で佐々井を肘でつついた。

「あ、うん」佐々井は顔を上げると、ニヘラッと力なく笑った。中性的な顔を持つ佐々井のそんな笑いを見た男鹿は深く自己嫌悪した。

「悪かったな」男鹿は聞き取れないほど小さな声で、同類に謝った。

「いいよ」佐々井は言った。

 彼は俺の言いたいことを分かっていて、あえて言わなかった。俺は八つ当たりしただけだ。俺は新しい小説が書けない。同じ小説ばかり書いている。もう、そんな紙ゴミが家には何百枚と捨て置かれている。佐々井と同類だ。俺は、佐々井の小説について何も言う権利なんて無いはずなんだ。

 俺と佐々井は一階まで降りてから裏庭側の廊下の窓を開け、カバンを外の芝生に放り投げ、桟をまたいで外に出た。俺が制服に付いた白い埃をはたいていると、佐々井は顔を上げて独り言のように呟いた。

「あ、飛行機雲」

 俺は手を止めて、二色に染まった空を見上げた。(おう)魔ヶ(まがとき)の空に、白いはずの飛行機雲は空と同系色に染め上がっていた。飛行機はもう秋の雲の向こうに飛んで見えなくなっていた。

 それを、二人は黙って見上げていた。


 よく行くラーメン屋に入って、二人は4脚あるテーブルを陣取り、同じ大盛りラーメンをたのんだ。狭いラーメン屋は油と醤油の匂いとスープをすする音と客の話声で、かなりこの時間帯は賑やかだ。

「この間、哲学のよく分かる本ってのを借りたんだ。図書室から」

 佐々井は自分のカバンから一冊の本を取り出した。抽象的な図形が幾重にも重なっている表紙は薄汚れていて、ハードカバーの角がささくれだっている。

「僕は、僕という存在が確立しているんだと思っていた。君はどう思う?」

「どういう意味だ?」

 店のおばさんがラーメンを両手に一つずつ持ってきて、どんどん、と二人の前に置くと何も言わずに厨房に戻っていった。佐々井は本をカバンの中にしまい、話を続けた。


「自分の前に置き時計があるとするだろ。時計は動いてるし、目の前にある。それを確認してるのが自分なんだから、時計がそこにあるのは確実だろ。でも、それを見ているのは僕だけだ。僕が自分の金で買って、僕の部屋に置いてて他にこの時計の事は知っている人は誰もいないんだ。僕が死ぬとその時計は誰にも存在を知られてないことになる。そうなると時計のことは誰も知らない」

 佐々井は自分のラーメンにほとんど手を付けていなかった。

「冷めるぞ」

「ああ、ごめん。で、僕が死んで時計の存在を誰も知らなくなった場合、その時、時計は存在してるというんだろうか?」

「? でも時計はそこにあるんだろ?」

「うん。でもだよ、時計の事は誰も知らないのに、時計はそこに存在している事になるんだろうか」

 男鹿は既に食べ終わっていた。蓮華をかちゃかちゃどんぶりの中で鳴らしていた。

「よく意味が分からないな」

「あ、ごめん。説明の仕方が自分でもよく分からないんだ」

 佐々井は慌てて割箸を割った。

「よく、刑事ドラマで容疑者に平気で二ヶ月前のアリバイとか追求したりするだろ。男鹿、いきなり二ヶ月も前の行動を一時間単位で証言できるかい?」

「………無理だな」

「そうだろ。それで辛うじて思い出した記憶を言うと、刑事がまず最初にする事は容疑者が言った事が間違っているか確かめることなんだ。変だろ。アリバイが正しいか確かめるんじゃないんだ。間違っている事を、あらかじめ予測した捜査方法なんだよ。

 それで容疑者が一人で行動してると、時間と場所の記憶はあっても、アリバイにはならないんだ。もちろん少しでも記憶が数日分ごちゃまぜになってて相違点があると怪しいと思われる。おかしいと思わないか? 自分にとって真実だと思っていた記憶が、あそこでは全てがまず最初は虚想と断定されるんだ。

 それに人間の記憶力自体が曖昧なんだよ。あまり意味のない一日の出来事なんかすぐに忘れてしまう。深夜の強盗の目撃者なんかに多いんだけど、よく見えなかったり覚えなかったりする部分を想像で補っていたりしているケースがかなりある。明かりがなくて、犯人の顔なんか暗くて見えない場所から強盗の犯行現場を目撃したアメリカ人女性が、何故か犯人の顔を見たと主張したりね。ああ、もちろん証言者は警察の調査の邪魔をしようなんて考えてないんだよ。その逆さ。人間には多少なりともヒステリー的な性格を持っている。いきなり金切り声あげる方のヒステリーじゃないよ。なるべく警察にものすごくいい証言をして、優越感に浸った後で自分の周りに言いふらしたいんだよ。

 ある脳外科の教授なんかが作った論文とサンプルグラフがあるんだけど、人間が意識して何かを暗記するだろ。どのくらい先まで、どの程度の正確さで覚えているかのグラフなんだけど、翌日には50%忘れているとその本にはまとめられているんだ」

「記憶力なんて意識してもそんな持続力なのに、現場に巻き込まれて混乱していたり、その場ではそんな事件だという事に気付かずにいて、数日後にいきなり目撃者として聞かれて言えるかい? 精密で正確な記憶があると思うかい?」

 佐々井は熱のこもった声で(しゃべ)りまくった。ラーメンはもう冷め始めている。

「なあ、佐々井」俺は言った。

「あ、僕ばっかり喋ってごめん」

「そんな事いいよ」俺は答えた。本当にそんな事はどうでもよかった。

「さっきと今の話題の共通点が、俺には分かんないんだけど」

 ああ、ごめん。佐々井はまた謝りながら笑った。

「僕も喋っている内に何を言いたいのか分からなくなってきた」

 俺はうなずいた。よくあることだ。

 佐々井は結局ラーメンの半分も食べていなかった。もう麺はのびきって、見た目には御世辞でも食欲なんかわかない。スープも冷えて油が固まっている。

「この世に、確立したものなんてあるんだろうか」

 彼は遠い目をして呟いた。

 彼は未来に向かいたがっていた。行きたくても行けずにもがいていた。それは確実だった。小説と同じだ。自分の未来を探してもがき続ける主人公。何があっても変わることのないモニュメントを探している佐々井。二人とも。

 男鹿はもう何も言わずに掛け時計を見上げた。ラーメン屋の窓の(すり)硝子(がらす)の向こうはもうとっぷりと日が暮れていた。


------------------------------------------------------------


 とっぷりと日は暮れ、秋虫が風流な鳴き声を披露している頃、香奈乃は旧校舎の前まで来ていた。夜の学校は何者も寄せ付けないような雰囲気がある。そこに入る時は、香奈乃はいつも自分が侵入者のような錯覚を起こしてしまう。ここにいてはいけない、まるで自分が空き巣にでもなったような。

 時の止まった旧校舎、ここには、もういない人間の想いが形ある姿で存在しているのではないだろうか。香奈乃は思った。

「香奈乃。早いじゃない」雰囲気をぶち壊すような元気な声に香奈乃は振り返った。夕方のクラスメイトを筆頭に、5人の少女がかたまって立っていた。それぞれの手には懐中電灯が握られている。

「あら、香奈乃は懐中電灯持ってこなかったの?」

 香奈乃はそう言われて、何ももっていない自分の両手を見つめた。

「ちゃんと言ったでしょ。忘れないでねって」彼女は、しょうがないわね。じゃ、一番最後を歩いてねと言った。

 香奈乃は何も言わなかった。


旧校舎の表の玄関は錆びた南京錠が掛けられていて、開かなかった。予想外の出来事に、女は焦った様子で裏に回れば他に入口があるはずだとちょっと(うな)って言った。他の女達は後ろでそれを聞いて明らかに白けたようだった。香奈乃は黙って、女達の後ろについて行った。校舎の後ろに回ると手入れのされていない裏庭と低い柵で仕切られた奥には、小さな林があった。濃い緑の生い茂る樹木とその奥の暗闇は、人間に無意識的な恐怖を湧き起こさせた。校舎を見ると、職員室側に小さな扉がある。

「あそこから入りましょ」女は言った。

 しかし、彼女達は後ろの暗闇をにらむ様に見つめていた。

「あそこ、気にならない?」

「う、うん」女は口々に言った。

 香奈乃は黙って林の奥を見つめていた。

「ねぇ。こっちから入れるわよ」女はもう少し大きな声で言った。

 その声に、女達はその扉から次々と中に入っていった。香奈乃が低い柵を越え林に入ろうとしていることにも気付かずに。


 林には長い間人が入っていなかったのか、道らしい道がなかった。雑草がそれぞれ好き放題な方向に伸びていた。香奈乃はふくらはぎ程もある雑草の道をざくざく歩き進んだ。四方八方から虫の声と、風に扇ぐ葉の擦れ合う音だけが香奈乃の耳に響いた。林の中は、ここに来る連中の持つ空気よりも心地よく涼しげだった。

 周りを見渡すと、あちこちに怪しい影が見えた気がした。あの幹の影、枝の上。こちらに自分の姿を見え隠れさせ、目を輝かせる。樹のざわめきにかき消されるほど低い声で囁く。餌がきた。久しい我らの餌がきたぞ。森に潜む何かは沢山の影と暗闇に隠れながら、私の後をついてくる。私を恐怖に陥れて追いつめてから捕まえて抵抗するのを押さえながらむしゃむしゃと血の浸った生肉のまま食べてしまう事をよだれ垂らしながら考えてるんだわ。

 そう考えてから、香奈乃は一人笑った。

「痛っ」不意に鋭い痛みがふくらはぎに走った。草の葉で足を切ったようだ。痛い辺りをさすって()めてみるとしょっぱい味がした。ズキンズキンとした傷の痛みは心臓の鼓動と少しずれて響き、ますます私の中で大きくなっていった。


 この感じはよく知っている。ママが私を叱るときは何度も何度も同じ話を繰り返す。私は正座をしたまままっすぐママを見ていなければいけない。ママは一通り話し終えるとまた最初の話に戻る。ママはあなたに叱りたくて叱ってるんじゃないのよ。ママはね、あなたの事を思って言ってるのよ。そんなことを言って、何でもないことでも、何カ月か前に怒った事でも平気でほじくりだす。前にも言ったけど………。私は分かっている。そんなこと。何度も聞いた。でも黙って聞いていなければならない。一言でも口出しすれば、また話が長くなる。だから私はただ黙っている。ずっと正座していると足が痺れてきて、まるでギプスを付けている様に感覚がなくなる。ずっとおんなじ話を聞いてると、平衡感覚がなくなる。頭がクラクラしてグルグル頭が回り出す。まっすぐ座れなくて、体が斜めになっているような気がしてならない。どう身体を傾ければ、まっすぐ座っているように見えるだろうかと真剣に考える。

 それでもママの話は続く。30分も1時間も延々と同じ話を繰り返す。窓の外では車が走っている音がする。子供が遊んでいる声がする。テレビからはワイドショーが流れている。そのうち、それらの雑音が共通のリズムをもって聞こえてくる。そのリズムは香奈乃に不快感をもたらすようになる。聞こえなくなってからは絶対思い出せない、無性にイライラするリズム。車の音も子供のはしゃぎ声もテレビの音もママの声も私の心臓の音も、同じリズムをとっているように聞こえる。私はそれが嫌で、一生懸命他の事を考える。テレビでよく聞く歌とか学校の事とか妹の事。でも頭の中のリズムは消えることもなく、ますます酷くなる。風の音、服の擦れ合う音、耳の中の海の音。それらもおなじ音楽で香奈乃の胃をキリキリ締め付ける。不快なそのリズムは、私の心の中の奥底の湖のまん中の船の上の何処かの赤のドアのある部屋の地下室の下の中の奥の戸棚の中の小箱の中のどこかにあるかもしれない狂気を私の中に呼び起こさせる。

 ママはそうして長い時間私を叱りつけていると、急に黙ることがある。しばらく黙る。私はやっとお話が終わると思う。すると、また話し始める。またしばらく話して、また黙る。私はママが何故黙るのか長いこと分からなかったが、ようやく分かった。ママは言うことがなくなって、黙って私に何を言おうか考えてるんだ。私はママを見ながらそれに気付いて吹き出しそうになった。ママ、やっぱりあなたは私を叱りたいのね。怒鳴りたいのね。それでしかストレスを解消できないのかしら。

 私は心の中でほくそえむ。

「こんばんわ」

 後ろで男の声がした。香奈乃は驚いて振り返った。

「こんばんわ」


 少し離れたところに二十歳前後の男が暗闇の中、立っていた。月明かりだけが頼りの林の中にいた男は優しい笑みを浮かべていた。

 男は濃い藍色の寝間着を着ていた。そのせいで男は周りの景色と溶け込んでしまい、よく見ないと首と手足しかない幽霊と化してしまう。

「こんな夜中に、何故こんな所に?」

「それは君も同じだろ?」男は笑った。

「そうね」香奈乃も微かに笑った。

 男は黙って空を見上げた。両手は前で組んでいた。香奈乃は男と同じ視線で空を見上げたくて歩き始めた。香奈乃は10歩ほど歩いて足を止めた。足元の地面に水気を感じたからだ。その先は沼が広がっていた。生臭い臭いがする腐った沼だ。上を見ると林が開けて夜空が見えた。空が多少濁っていて星は見えないが、その反面か月が大きく見える。男は月を見ていた。

「あなたは幽霊かしら」香奈乃は男に言った。男のそこにいるという存在感は、風に吹かれて今にも消えてしまいそうだった。

「あはは、そう見えるかい?」男は笑った。

「見えるわ」香奈乃は言った。

「足もあるし、(さわ)れるよ。ほら」男は軽く自分の太股を撫でた。

 しかし男は沼のまん中に立っていたので、香奈乃は触って確かめることが出来なかった。汚れた水面には男の姿が映っていた。彼の足も確かに見える。だが、水面に触れている彼の素足は濡れているようには見えなかった。足が触れた水面は静かで波紋もなかった。実際男に触ることが出来ないので、香奈乃は彼が幽霊か確かめる術がなかった。

「名前はなんていうの?」香奈乃は尋ねた。

「名前なんてないよ」男は答えた。

「名前はなくなったんだ」男は言った。「どうしてか知りたい?」

 香奈乃はうなずいた。男はそれを見て笑った。

「僕に名前がまだあった頃、夢を見たんだ」

「夢?」


「そう、夢だ。僕はそれまで、この世界に幻想を抱いていたんだ。目に見えるものは目に見えるそのままの物体だとね。夢の中で<彼>は僕に言った。(あり)は人間に踏まれると死ぬだろう?でも、人間は(あり)に踏まれても死なないだろうってね」

 香奈乃は、男の言っている意味が分からなかった。

「人生はよく箱に例えられるのを知っているかい?箱を開けても、中にはまたその箱より少し小さい位の箱が入ってる。またそれを開けても、中にはまた箱がある。それをまた開けても………。人間は『人生』という名の箱の中に、何が入っているか知る権利がある。でも、箱を開けるのに疲れてしまって、開けるのを止めてしまうともう二度と箱を開けることはできなくなる。

 君は箱の中に何が入っていると思う? <なにか>入っていると思いますか?それとも、何も入っていないと思いますか?」

 男はそこで一呼吸置いて、月を見上げていた。香奈乃には男の言っていることがまるで分からなかった。だから、黙っていた。いつの間にか風のせせらぎも虫の音も香奈乃には聞こえなくなっていた。そこに今いるのは、男と香奈乃と臭い沼と月と樹木だけだった。それだけ。

「僕は、箱の中に何か入っていると思っていた。だってそうだろ?何か入っていないと、僕が生きている意味が無いじゃないか。今まで生きてきた意味もないし、これから生きて行く意味もないだろ?人間に生まれてきたからには、僕らは何かする為に生まれて来たんじゃないのか?

 でも<彼>に出会って、僕はやっと分かった。人間の生まれてくる意味について。なぜ僕がここにいるか。箱の中身は何だったか。そして、僕は名前を無くしたんだ」

 香奈乃は男に何か言おうとした。でもその代わり男が言い終わった直後、香奈乃は「きゃあぁ」と叫んだ。男が頭から次第に沼と同じ色に変わっていき、そのままどろどろと溶けていったからだ。

 月が鈍く光っていた。


------------------------------------------------------------


 "At breakfast when I open an egg. I dont have to eat all to discover it is bad."


------------------------------------------------------------


 佐々井は自分の部屋で小説の続きを書き出そうとしていた。カーテンは閉め切っていて時計はもう午前を回っている。蛍光灯の白い明かりに白いディスプレイは、更に白さを際立たせていた。

「どうして、最後まで書けないんだろう」

 何げに(つぶや)いてみたものの、口に出して答が分かるのなら苦労はしない。

 外からは、秋虫の鳴き声が聞こえてくる。


------------------------------------------------------------


 その頃香奈乃は部屋のまん中に座り込んで、作りかけの人形と(にら)み合いをしていた。両腕をまくって作業用のエプロンをきっちり後ろで結んでとめている。腰の下まである長い髪は編み込みでまとめてある。両手は粘土で爪の中まで汚れていた。

 香奈乃がにらんでいる人形に瞳はまだ入っていない。そこには空虚な穴があるだけだ。黄色を帯びた肌の少女の頭部は何も語らぬ瞳で香奈乃を見つめている。少女の体になるだろう腕や胴体や長い脚は、香奈乃の部屋の隅にかたまって、頭に命が吹き込まれるのを息をひそめて待ち望んでいた。部屋のあちこちに置かれている完成され服を着せられた人形は、棚の上やベッドの横や床から仲間の誕生を静かに見つめていた。

栗色の長い髪の少女はセピア色のクラシックなワンピースを着ていた。漆黒の髪を肩まで伸ばした少女はフリルのワンピースを着ていた。どの人形も両足はだらしなく投げ出していた。光の加減では赤毛にも見える金髪の少女は大人しく香奈乃の机の上に座っていたが、その深い藍色の両目は何かを語りかけているかのようだったし、その微かに開いた唇は今にも言葉を発しそうなリアルさを持っていた。

 この部屋には時計はなかった。外の目まぐるしい時の流れから忘れられたような、過去と現在の時の狭間だった。部屋の中に溢れた人形は子供でも大人でもぬいぐるみでもなかった。全ては第二次成長期に差し掛かる少女を連想させるかのような、あの中性的な躯を持った人形ばかりだったのだ。人形は様々な色のドレスを着せられ、時から忘れられたのをどう思っているのか、黙っていた。

 香奈乃は新しく誕生するべき人形を、(にら)むように見つめていた。そして、彼女を見つめる、部屋中の人形達。

「みんな」

 香奈乃は部屋をぐるっと見渡して言った。

「みんなはいつまでも、私と友達でいてくれるよね」

 香奈乃はにっこり笑った。

 人形は(少なくとも香奈乃には)微笑んでいるように見えた。香奈乃の瞳には少女の人形の姿が映っていた。その間香奈乃は人形でいられた。成長することもない、将来をせかされる事もない、時間から忘れられた人形。

(ズルッ)

 突然、鈍い痛みが下腹部に響いた。同時に、体から何かが剥がれる感覚が体を駆け抜ける。

「やばっ」

 香奈乃は小さく叫んで部屋を出て、トイレに駆け込んだ。下着を脱いで洋式の便器に腰掛けると、お腹にほんの少し力を入れた。

 途端に、ドロッとした赤い個体が血液に混じって白い便器を赤く染めてゆく。

「危なかった……」香奈乃はため息をついて、ナプキンを新しいのに変えた。

(こうして、大人になっていくんだわ)香奈乃はうんざりだった。ふくよかになりつつある胸も、この生理痛も。

 べつに子供なんかほしくないんだから、こんなのいらないのに。めんどくさいだけだわ。

 体の中を何かが通っていく奇妙な感覚の少し後、また血に混じって何かが出てきた。

(何かしら、これ)

 香奈乃は座ったまま便器を覗き込んだ。途中まで出来上がった胎盤は、卵子が着床しない時はそれが細かくちぎれて血液と一緒に出てくるとか、そんな話をどこかで聞いた事がある。

 これは、あたしの体の一部なんだわ。

 香奈乃はゾッとした。私の中にこんな醜悪(しゅうあく)なものがあるなんて。

 顔を上げて、香奈乃はトイレのレバーをひねった。すさまじい水音と一緒に私の体の一部が流れて行く。

 自分の体の一部がトイレで流されるのは奇妙な感覚だったが、それよりも、あの塊は何かに似ていた。

(細長くて、濡れてて、気持ち悪いもの………)

 香奈乃は、ふとある単語を思い付いた。

蛞蝓(なめくじ)………?)



 水音は、しばらく止まらなかった。


------------------------------------------------------------


 なぜ人々はアートが意味のあるものだと思うのかわからないね。

 人生は意味のないものだという事実を知ってるくせにね。(ディビット・リンチ)

                   

------------------------------------------------------------


 男鹿は、いつもの通り必須授業が終わってから旧校舎に入り込んだ。ここに2人が入った当初は廊下や部屋の中も埃で一杯だったが、今は俺と佐々井が入りびたっているせいで通り道では埃は目立たなくなっている。まるで犯してはならない場所を侵食しているかのように。

 ばさばさ、ばさばさばっさばっさ、ばさばさばさ。

 いつもの教室に近付くうちに、不規則に羽の羽ばたく音が耳についた。

「佐々井?」男鹿は開きっぱなしのドアを覗き込んだ。中には佐々井ともう一人、客がいた。

 鳩だ。

「ああ、男鹿。僕が来たら、これがいたんだ」佐々井は膝の上に鳩を乗せていた。

 鳩は今の状況に恐怖を感じているのか、佐々井の膝の上でばたばた羽を動かしていた。

「翼に怪我をしてるみたいだ。飛べないんだよ」

 確かに鳩の翼の羽一本一本は、抜けかけたりちぎれてたりしていた。床にも数本落ちている。紺色の躰だからよく見えないが、出血もしているようだ。佐々井はそんな状態の鳩を、優しく包み込むように膝の上に乗せていた。

「消毒とか、できないかな」佐々井は鳩を可哀相な顔で見詰めて言った。

「保健室の先生は?まだいるかな」男鹿は言った。鳩に近付いてよく見ると、呼吸も荒く、ぶるぶる震えている。

「まだ4時限目に入った頃だから、いると思うよ」佐々井は鳩を抱いたまま手首を回して、ぎこちなく時計を見返してから言った。

「脱脂綿とか、マキロン貰ってくる?あ、あとガーゼとか包帯もいるね」佐々井はそこまで言ってから、考え込んだ。「鳩にはくれないかな」

 鳩は、俺らが治療の事を話しているのも知らずただ逃げることだけを考えているらしい。ばたばた暴れていた。俺は尻のポケットから財布を出して、中を見てみた。

「外で買って来るか」

「あ、そうだね。そうしてくれる?僕も半額出すからさ」

 佐々井は鳩を抱いたまま言った。

 俺は、財布をまたポケットに突っ込んで、旧校舎の桟を越えて校門を出た。坂道を走り下りて、小さな薬局に飛び込んだ。


「おばちゃん、消毒液とガーゼちょうだい。それに包帯も」

「おや、学校はいいのかい?」年配の店員は言った。

「俺が取ってる授業は終わったよ」

「はいはい。いいのかい」

 店員は馴れた手つきで、棚から幾つか小箱を取り出した。

「小さいのでいいかい?」

「ああ、うん」男鹿は適当に答えた。

「怪我はいけないよ」

 店員は(うつ)ろな目をして、独り(ひとり)(ごと)のように言った。「怪我はいけないよ」

 男鹿は、それに何も言わなかった。

「消毒液と包帯、それにガーゼでいいのかい。脱脂綿は?」

「あ、それも」

 店員は男鹿の言葉に答えず、小さめの袋にそれを詰めた。

「1200円にしとくよ。脱脂綿はおまけ」

「ありがとう」

 店員にぶっきらぼうな言葉で答えると、男鹿は財布から素早くちょうどのお金を出した。それから、袋を(つか)んで急な坂道を全力で駆け上って行った。


「あ、男鹿。お帰り」

 教室の中には、佐々井と鳩が男鹿が出て行った時と全く同じ場所にいた。鳩は佐々井に()れたのか大人しく(ひざ)の上に収まっていた。

「静かだな」

「うん。やっと落ち着いたみたいだ」佐々井は少し嬉しそうに鳩の小さな頭を()でながら答えた。

 男鹿は袋の中身を取り出して、ほこりのかぶった机の上に乗せた。マキロンのビニールカバーをはがして脱脂綿に染み込ませる。

「静かにな」

 佐々井は、男鹿が脱脂綿を(つま)んで鳩の方を向き直った時、確かにそうささやいた。鳩に人間の言葉が分かるはずもないのに。そして傷口にしみる感覚を自覚した瞬間、鳩は再び暴れ始めた。耳につくかん高い鳴き声。

「大丈夫、大丈夫。君を傷つけてるんじゃないから。大丈夫」

 逃げようと暴れる鳩を必死になだめながら、佐々井は言った。それとも知らずに暴れる鳩。


 男鹿は慣れない手付きで消毒を終えると、真っ白い包帯を取った。

「巻き方、知ってる?」


「テーピングなら慣れてるんだけど……」

 しかし人間の腕に巻くのと鳥の羽根に巻くのとは、訳が違う。きつく巻き過ぎると羽根の形が変わってしまうだろうし、ゆるすぎると包帯が外れてしまう。男鹿は、包帯を持て余したまま、佐々井の方を見上げた。

 佐々井は空を見ていた。窓の外に広がる明るい午後の空をぼんやりと見つめていた。

「いいよなあ、お前。あそこ飛んでたんだろ。羨ましいよなあ」

 鳩は佐々井になついているかのような甘ったるい声で一声鳴いた。佐々井は鳩の小さな頭を撫でながら、目を細めて外を眺め続けていた。


------------------------------------------------------------


 誤読(ごどく)こそが読みのオリジナルである(ブライアン・イーノ)

                     

------------------------------------------------------------


 香奈乃は、その夜奇妙な夢を見た。今になると何が奇妙だったのかどうも上手く言い表せない。とにかく肝だめしから帰った夜の夢は、翌日大変奇妙に感じられた。


私は一人霧雨(きりさめ)の降る夜に田舎道の真ん中で乗合馬車を待っていた。傘は持っていなかったので、私は帽子を深くかぶった。(わだち)の深く入った道の端にまっすぐ立つ事はかなり難しく、私は仕方なく道の中央で馬車を待った。やがて右手から車輪のきしむ音が聞こえてきた。間もなく、一台の乗り合い馬車が私を見つけて止まった。

「ウェスト・セントラルの近くまでいいかな?」

 御者の顔は周りが暗いせいか、よく見えなかった。

「へえ、紳士様。御婦人が一人いますが、宜しいですか?」

 その板に付かない丁寧語で、やっと彼が男だと分かったくらいだ。

「うん。私もかなり急いでいるからね」

 私は自分で馬車のドアを開け、中に入った。見ると、クラシックな白いドレスを着た女性が、うつむいたまま向こう側の窓に寄り掛かるような姿勢で座っていた。

「こんばんわ。御婦人?」私は帽子を外して声を掛けた。

 女性は少し顔を上げて、固くなっていた表情を少し(やわ)らげた。天井から吊り下げられたランプの淡い光に照らされ、彼女の顔は辛うじて読み取ることができた。

「こんばんわ」

「どうしたのですか? 顔色が悪いようですが」

 女性の顔色は青ざめて、冷汗すらかいていた。美しい顔は、何かに(おび)えているのか少し(ゆが)んでいた。


「少し気分が悪いのです。大丈夫、大した事はありません」女性は片手を軽く挙げて横に振った。

「紳士様、出発しますぜ」

 立ったままの私を見かねたのか、窓を覗き込んだ御者が声を掛けてきた。

 私は女性の斜め向かいに座った。御者の方から、鞭のしなる音が耳についた。馬の(いなな)く声がしたかと思うと、馬車は急に走り出した。

 (すす)で汚れたランプが激しく揺れた。

 馬車が走り出してからも女性は黙ってうつむいていた。話し相手になりそうになかったので、私は仕方なく片手に持っていたステッキをもてあそびはじめた。

 馬車が揺れる度に、ランプも揺れた。影のかかった女性の顔がその度に現れたり消えたりした。

 冷たく湿った空気が、馬車の中にも入り込んでくる。私は(わず)かに身を震わした。


「う」突然、女性は低い声でうなった。身を固くして下腹を両手で押さえている。

「……レディ?」私は身を乗り出して尋ねた。

「大丈夫ですか?」

 女性は答えない。ただ微かに震えて腹の痛みに耐えているようだった。

「御者!!御婦人が腹痛を。馬車を止めたまえ!」

 私は立ち上がって、ステッキで御者側の壁を二度叩いた。しかし、御者は何も答えない。

「御者!」

 私は焦ってもう一度叩く。しかし、答は無い。

 そういえばいつの間にか、馬車特有の獣臭が無くなっている。(むち)の音も聞こえない。馬車の揺れはあいかわらずだ。ランプも揺れている。

 木枠の窓を開けて、御者に今の状況を伝えようとした。しかし、蝶番(ちょうつがい)()びきっていて、きしむ嫌な音がするだけだ。

 ランプが変わらず不規則に揺れて、私を必要以上にイライラさせる。

 本当に馬車は走っているのか?ウェスト・セントラルに向かっているのか?それとも………。私は自分の想像力の素晴らしさに身を震わせた。

「う」

「御婦人、大丈夫ですか?」

 私は失礼を承知で女性の肩に触れようと、足を彼女の方に一歩進めた。

(ぬちゃり……)

 私の足元はびしょぬれと言っていいほど濡れていた。足元を見た。

 彼女の足元が、ぬっとりと赤く濡れている。

「……レディ?」

 私は気が動転していて、それしか言うことが出来なかった。彼女の太股の奥から流れ出る血液は半固体のようにドロッとして見えた。

 ランプが揺れる度に、彼女の血が光ったり消えたりする。私が気が狂いそうだった。

「御者!!馬車を止めろ!」御者のいる壁に向かって私は叫んだ。

 しかし、答は無かった。

「レディ、何か私に出来ることはありませんか?」

 私の言葉に答えられず、彼女は苦痛に歯をくいしばって耐えていた。肩にかけた手から小刻みで激しい震えが、私にも伝わって来る。

 もう一度彼女は「う」と小さくうなる。

「……………御婦人?」

 彼女の体から、ずるっと鈍い音がした。それから熟しきったトマトを床に落としたような嫌な音がする。

 いや嫌にそっと目線を落とすと、彼女の両足の間からは赤黒い縄が床に垂れていた。その先には、ぬらぬらと彼女の赤い血を身に纏った赤ん坊が転がっている。

 いつまで待っても、あのカン高い産声は聞こえてこない。胎児の目の周りは青く染まり、固く握られた手はピクリとも動かない。

 気付くと、彼女の肩に置いた手からは女の呼吸が伝わってこない。



 そんな夢だった。


------------------------------------------------------------


 善行は砂に書かれる 悪行は岩に彫りつけられる(ポーランドの諺)


------------------------------------------------------------


 #佐々井、鳩のおかげで明るくなる。小説完成まじか。


------------------------------------------------------------


 その翌日の放課後、香奈乃はもう一度旧校舎に入ろうと思い付いた。理由はなんて事ない。裏庭の臭い沼を見ていると、旧校舎の方から声が聞こえてきたからだ。

「… ……なん ……もう帰… ………」

 風と虫の声に(さえぎ)られ、ほとんど聞き取れないが確かに男の子の声が聞こえたのだ。

(この間の、影の二人かしら)

 微かに聞き取れる声の方を見上げながら、香奈乃は肝だめしの時に彼女らが使っていた職員室のドアを開けた。

 旧校舎の中は、ほこりと蜘蛛(くも)の巣で満ちていた。ただ静けさだけは上の階で時々する足音と声にここの権利を譲っていた。足を進める度に、床のけむりが舞い上がり香奈乃の白い靴下と上履きをくぐもらせた。窓の外から入り込んでくる賑やかな人々の声と、ここの空間は余りにもかけ離れていた。

 死んだ空間。


 時々天井から舞い落ちる埃も、あちこちにのさばっている蜘蛛もげじげじも、香奈乃には何の気にもならなかった。

 3階まで階段を上ると、床の埃がそこの階だけ綺麗に無くなっていた。人の声もこの階から聞こえてくるようだ。

 羽の羽ばたく音も聞こえてくる。

(鳥?)

 香奈乃は一瞬躊躇(ちゅうちょ)したが思い切って開けっ放しのドアの前に体を出した。

「こんにちわ」

 教室の中には男子生徒が二人と鳩が一匹、いた。

「……君は?」中性的な顔つきの方の男の子は、かなり驚いているようだった。鳩から手を放して呆然と香奈乃の顔を凝視している。

「ここで何してるの?」

「授業が終わったから遊んでんだよ」こっちの男の子は短くそろえた太めの髪の毛をジェルかなにかで立たせている。片方の男の子と違ってあまりあたしの事で驚いてはいないようだ。

「ここって、入っちゃいけないんじゃないの?」

「じゃ、お前はどうなんだよ」

「いいじゃない、男鹿。僕たちだって黙って入ってるんだし」

「ふうん。男鹿くんって言うの?」香奈乃は男鹿を見つめて笑った。男鹿は香奈乃の『くん』付けに多少不機嫌になったらしく顔を(そむ)けた。

「僕は佐々井。ところで何処から入ってきたの?」

「一階の職員室のドアから。貴方達は?」

「一階に窓ガラスが無いところがあるんだ。そこから」

 佐々井はようやく落ち着いたらしく、鳩を抱き直してから言った。

「君の名は?」

「あたしの名前は香奈乃。お人形が好きだけど、鳩も好きよ。名前はあるの?」

 佐々井は少し困ったように笑った。男は、女ほど何でもかんでも名前を付けたりしないもんだ。

「名前はないんだ。君が付けていいよ」

「『めめ』ってのは、どう?」

 香奈乃は嬉しそうにそう言った。


------------------------------------------------------------


私は、つきが好きです。

どうか、私から、つきを取り上げないで下さい。(日記)


------------------------------------------------------------


 それは、男鹿がいつもの窓に両手を掛けた時だった。

「おや?君」後ろから男性の声が聞こえた。

 男鹿は振り返ってから、気まずそうに言った。

「先生」

裏庭には、生物の先生が立っていた。俺と同じくらいの身長で、アイロンを掛けていないよれよれのワイシャツの上に所々薄汚れた白衣を羽織っている。

「何してるんだい?授業は終わった?」

「はい」

 男鹿はこういう事を聞かれるのが苦手だ。

「何を投げ込んだのかな?」

 先生は男鹿がたった今、外から旧校舎の中に投げ入れた学生鞄を、後ろからひょい、とのぞき込んだ。

「あっ、これは………」男鹿は言葉に詰まって、口をつぐんだ。

「ここで何をしているのかな?」先生は、にこり微笑んだ。




「男鹿?」

「男鹿?」

「あれ?」

「佐々井君だったね。君もここにいたのか」

 先生は、男鹿の買った薬の袋を抱えていた。

「ここは一応、一般生徒には立入禁止という事になっている。知らなかった?」

「知ってます。でも何の説明もなしで出入りを禁止されても、僕らは納得できませんよ」

 佐々井は鳩を抱えたまま反論した。

「そうだねえ、なんて言えばいいかな?」先生は、笑って言った。

「以前ここで、生徒が自殺したんだ」

 『自殺』という言葉を聞いた途端、佐々井は小さく、一度だけ震えた。

「それ以後、その生徒が幽霊となってここに出てくるんだよ。それで立入禁止になったんだ。………そう言ったら、信じるかい?」

「信じませんよ。そんな噂話」男鹿は廊下から先生に言った。

「あははは。そうか」先生は頭をバリバリ掻いて笑った。

「先生方がみんな言ってるよ。君達は、必須授業が終わるとすぐ何処かに行ってしまうってね」

「単位は取れているはずです」佐々井は少しムキになって言った。

「そうだね。でも、きちんと毎日授業に出てた方が定期テストも楽だよ。それに大学受験だってね」

 先生は言いながら、佐々井に近寄って行った。

「この鳩は?ここにいたのかい?」

 鳩は知らない人の気配をさとったのか、昨日より激しく力いっぱい暴れていた。

「ええ、僕がここに来たら教室の中で走り回ってました」佐々井はかなり不機嫌そうな顔だった。

「消毒が必要だ。これ、借りるよ」先生は袋の中からマキロンやガーゼを手に取って、鳩を佐々井の膝に乗せたまま器用に消毒し始めた。

「ノラ猫に襲われたんじゃないかな」手を動かしながら、先生は言った。

「……猫ですか」佐々井は先生の後頭部を見おろしながら呟いた。

 外では、体育でマラソンでもしているのか生徒のざわめき声が聞こえた。窓からは秋の暖かい陽の光と涼しい風が入っていて、先生がいなかったら多分最高の昼寝ができただろうな、と男鹿はふと思った。

「はい、できたよ」

 先生はポンポン膝についたほこりを払って立ち上がった。

「包帯はしないほうがいいかもしれない。半月もしたら、良くなると思うよ」

「先生。良くなったら、鳩は放した方がいいですよね」

 佐々井はポツリと言った。希望を持った声だ。それに反して先生の声は低く、落ち込んでいた。

「いや、………直っても、もう飛べないかもしれないな」

「そんな!」

 佐々井は鳩の存在を忘れて立ち上がらんばかりの勢いで叫んだ。

「そんな恐い顔をしないでくれよ」先生は弁解の声を上げた。

「それだけ翼をやられてたら、もう飛べない事を考える方が普通だと思うけど?」

 その通りだった。その傷は素人が見ても、再び飛べるのだろうかという不安をかき立てる。しかし佐々井は先生の言葉に憤慨(ふんがい)したようだった。

「飛べるかもしれないじゃないですか」

「そうだね。でもね、君。その翼を見て、それでもそう思うのかい?」

 先生は佐々井をじっと見て言った。試すような目だ。

「佐々井…………?」俺は彼の異様なほどの顔つきに声をこわばらせた。

 佐々井は先生に見つめられて、表情を固くした。頬はこわばって顔は青ざめていく。

「佐々井君? それでも、そう思うのかい?」先生はもう一度言った。

 佐々井はこわばったまま、ゆっくりと抱いた鳩を見おろした。男鹿から見ると、鳩を見る佐々井のそれは恐怖の顔つきにしか見えなかった。現実を直視したくない、恐怖の目だ。

「佐々井君?」

 先生の問いかけと佐々井の行動はほとんど同時だった。佐々井は、苦しそうな顔で鳩を一蔑した後目を閉じると、鳩を掴んで高く持ち上げ力一杯締め上げた。

 鳩は奇妙な鳴き声を上げた。

「佐々井………!?何を!」

「佐々井君!!止めなさい!」

 側にいた先生は咄嗟(とっさ)に佐々井を突き飛ばした。佐々井は、椅子から倒れるのと同時に手の中の鳩を宙に放り出した。鳩は驚いて、空中を不自由な翼で懸命に羽ばたいた。

「佐々井君!」先生は佐々井が埃まみれで床に倒れているのを見て、自分が突き飛ばした事にやっと気付いた。

「ごめん!!つい、夢中で!」先生は、倒れている佐々井に手を差し伸べた。

 男鹿は、突然の出来事に対処できず立ち尽くしたままだった。鳩は羽をばたつかせながら教室の中を走り回っていた。ほこりと抜けた羽が舞い上がる。

 佐々井は、先生の手に気付かないのかつっぷしたままだった。

「佐々井君?」

 佐々井は目を開けたまま動かなかった。

先生は佐々井の開いたままの目を覗き込んで、手首を取って脈を確かめてからこう言った。「大丈夫。気絶してるみたいだ」

 佐々井は体中を埃まみれにして倒れたままだった。鳩は、そこら中に抜けた羽を落としながら狭い教室を走り回っていた。


------------------------------------------------------------


 四月三日・・・・・・ロビンソンクルーソーを読み終えた。彼がそれからどうなったか

 もっと知りたいとばくはいったがキニアン先生はこれでおしまいだという。なぜだろう。

 (『アルジャーノンに花束を』ダニエル・キイス)


------------------------------------------------------------


 香奈乃が旧校舎に出入りするのは、もう習慣になっていた。彼女は毎日のように、裏庭に回り、元職員室のドアから埃をかむった校舎の一階に上がった。

「ふう」

 香奈乃はいつもの通り、校舎内をぐるっと見渡した。粉くさい廊下も蜘蛛の巣も、霞がかった窓ガラスから入ってくる、すすけた日光も、昨日と同じ風景だった。

「よかった。ここはいつも同じね」

 目まぐるしく変わる現実と違って、ここは何時も同じ空間だ。香奈乃の部屋と同じ。

 香奈乃は、足取りも軽く、ほこり舞う階段を上っていった。外からは、賑やかな声が聞こえてくる。自分とは正反対な、明日に向かっている声だ。

 明日に何があるだろう。将来はどうなるんだろう。香奈乃はそんな事考えたくもなかった。将来の夢を書く作文も、進路調査の紙切れも大っ嫌いだ。水は汚れ、空気は淀み、森林も減り、ゴミは増え、物価は高くなり、景気は衰えている。みんなが一様にナニカ、シナケレバと叫ぶ。何をするのか?みんなは私に無理やり未来を語らせる。いつまで人形なんか創ってるんだ。受験勉強はどうした。将来、何の職業に就くんだ。

 私は何をしたいのだろうか?分からない。

 大人はみんな、子供の頃は良かったと言う。夢も叶えられず、どうして今こうしているのだろう。昔の夢は一体何処にいってしまったのだろう。皆そう言う。


 ならば、私は大人になりたくない。ずっと子供のまま、人形を創って毎日暮らしたい。これは、許されないことなんだろうか。みんなのように、やりたくもないつまらない仕事を一生しなければいけないんだろうか。

 香奈乃は首を振った。薄汚れた窓ごしにまぶしく光る太陽を薄目で見てみた。

(誰か、時間を止めてくれないだろうか)

 ふと、頭に浮かんだ言葉は、階段を黙々と上る体とは別にいつまでも頭の中に染み着いて離れなかった。

(ダレカ ジカンヲ トメテ クレナイ ダロウカ)

「こんにち……は?」

 いつもの部屋のドアを開けて、右手を挙げて挨拶した香奈乃の目に最初に入ってきたのは、鳩でも男鹿でも佐々井でもなかった。

「あなた、誰?」

 香奈乃は汚い白衣を羽織った、自分の父と歳は大差ないだろう男を(失礼にも)人差し指で指した。

「僕は、ここの教師だ。君は?」

「ここの生徒よ」

 香奈乃は先生を頭のてっぺんから爪先まで眺めて、結論づけた。

(この人、変人ね)

 テレビや小説に出てきそうな科学者って感じなんだもん。

「香奈乃、そこにある消毒瓶取ってくれ」

 男鹿が指さした香奈乃の近くの机の上には、確かに消毒瓶が置いてある。

「いやよ」

「何だって?」男鹿は立ち上がって低く怒鳴った。

「それが、人にモノを頼む態度?こんな近くなんだから自分で取りにきたら?」

 香奈乃は消毒瓶を二本指でつまみ上げ、挑発するように男鹿の前でゆらゆら揺らした。

 男鹿は何か言いたそうだったが、きゅっと唇を結んで香奈乃の手から消毒瓶を引きちぎるかのように奪い取った。

「変な人の世話になってるのね。何やってるの?」

「鳩の治療」男鹿は香奈乃を振り返らずに言った。

 香奈乃は先生が鳩を治療するのを、じっと見つめていた。

「へえ、先生は怪我を治せるんだ」

「大学で習った位の知識だよ。人間に対する治療法を、そのまま動物にやっていいのか、ちょっと考えるとこだけどね」

 香奈乃はさっきとは違う表情を先生に見せた。それは、尊敬味を帯びていたのだ。そんな声を聞いて、男鹿は心の片隅で先生に対する嫉妬と、香奈乃の人を見る目のなさに怒りを感じていた。

(そんな奴の何処がいいんだよ)

「そんな偉そうなものじゃないよ」

 先生は照れくさそうな声で答えた。

「生物の生命を左右するのは、結局は生物本人なんだよ」


「あの先生って、なんかイイ人そうよね」先生が帰って行った後、香奈乃は少し嬉しそうな(少なくとも男鹿にはそう見える)表情でつぶやくように言った。

「さっきは、逆の事言ってた癖に」

 男鹿は香奈乃の言葉にピリピリしたものを感じていた。それが何なのか、本人も気付いていなかったが。

「あら、運命の赤い糸の人って最初はお互いに反発するものなんだから」

「女って、みんなそんなもん信じてるのか?」

 男鹿はバカにした声で言った。

「あら、それに計り知れない所があるじゃない?そこがいいのよ」

 香奈乃の、男鹿をまったくかえりみない言葉に彼はカッとした。

「あんなの、俺から言わせればただの変態だよ!」

 男鹿はそう叫んで、立ち去ろうとしていた香奈乃の手を掴んで強引に引き寄せ、抱きしめた。

「何するのよ!」

 香奈乃は男鹿の腕の中で、じたばた暴れた。男鹿は、自分の腕の中にいる香奈乃が自分の体の一部になったような幻覚に襲われた。一瞬自分でも何をしたのか理解できずにいたが、しばらくしてからばっと香奈乃をはね付けた。

「何するのよ!!」

 香奈乃にそう言われたものの、男鹿は自分の行動を把握できずに呆然と立ち尽くしていた。香奈乃は顔を赤くして叫んだ。

「あんたなんか大っきらい!」

 香奈乃は、廊下を走り去って行った。男鹿は、香奈乃の残した肌の温もりを呆然としながら確かめていたが、それをかき消すように腕を大きく振り回した。


------------------------------------------------------------


 #鳩が死ぬ。書きかけの原稿を破り捨て、泣きながらめめを抱いて出て行く。


------------------------------------------------------------



 #先生強姦する。


------------------------------------------------------------


「佐々井?」

 ちょっと便所に行ってる間に、佐々井は消えていた。鞄はあるから、旧校舎にいることは確かだ。

「どこか行ってんのかな」

 そう思ったものの、鳩があんな風に死んでからの佐々井は少々おかしかった。元々、口数が少なかったのが更に酷くなり、必須授業にも出ず、殆ど一日中旧校舎に閉じ込もっているようなのだ。人より冷めていると言われる男鹿も、さすがに佐々井が気になっていた。

男鹿は旧校舎の教室を、佐々井がいないか一つ一つ覗いて回ることにした。日も落ち始めて、空の色が、鮮やかなオレンジと藍色の二色に断ち切られていた。校庭の向こうの新校舎からは、微かに下校時刻を伝える校内放送が聞こえて来る。

 かさり。

 男鹿が二階に降りたとき、二年二組の教室だった部屋から、紙を丸めた様な音が聞こえた。

「佐々井?」立ち止まり、階段の手すりに手をかけたまま恐る恐る声をかけてみても返事はない。ただ、また

 かさりかさり。

 と、音がするだけだ。何か嫌な予感がしたが、男鹿は足を進めた。皮膚の上を目に見えない蛞蝓が這い回っているような感触がしたのは、この空気のせいかもしれない。ゴミ捨て場の様な、…………何かが腐った臭い?

 教室を覗いてみた途端、男鹿はその場に立ち尽くした。中にいた佐々井が、男鹿に気付いて声を掛けた。

「やあ、男鹿。鳩が生き返ったんだ。見るかい?」

 ものすごい腐臭だった。鳩一匹が発した腐臭とは思えない。自然界では、この異臭が生物の最後の存在主張なのだろう。男鹿はこみ上げる吐き気を押さえきれず、口を押さえた。胃から何かが逆流してくる。

 鳩は、箱に入れられ紙で包まれていた。顎の筋肉の緩みのせいか、くちばしは大きく開いている。体が微妙に動いているのは、生きているように見えるかもしれないが、それは皮膚下で動き回っている蛆虫のせいだ。羽が抜けて、赤紫に変色した皮膚が羽毛の間から垣間見えた。周りは蝿が何匹か飛び回っている。紙の隙間からのぞく鳩の姿は、醜悪としか言いようがなかった。

 それより、男鹿が絶句していたのは佐々井の行動だった。佐々井は、その醜悪な鳩の死体を、まるで絶対神を盲信する信者のように輝く瞳で見つめながら傷を付けた左手首から流れる血を、死体の上にかけていたのだ。

「男鹿」

「お前、死体は埋めたんじゃ……」

「男鹿」

 佐々井の少しかすれた囁き声は、男鹿には余りにも甘美すぎて即座に拒絶された。

「君もやるかい?」

 右手に持ったカッターを差しだした佐々井をみて、男鹿はたまらず大声で叫んだ。

「俺は、お前じゃない!」

 そう叫んで走り去って行った男鹿を見送った後、佐々井は大声で笑い始めた。



------------------------------------------------------------



 その頃、香奈乃家の中で目を血走らせていつもは見ることもないカレンダーを見つめていた。

「25、26、27、28…………」

 数えるまでもなかった。まだ『来ていない』のだ。

「そんな、ちょっと遅れてるだけよ」香奈乃は震えた声で自分に言い聞かせようとした。

 しかし凶兆は既にあった。昨日の晩御飯の唐揚げを気持ち悪くて吐いてしまった。他にもある。人形達がこちらを見てくれないのだ。今まで友達だった人形がこっちを見てくれないのだ。いつまでも一緒に、この部屋にいようと約束したのに。

「わ、私が約束を破ったから?ねえ、そうなの?」

 香奈乃はカレンダーに、そのきれいに切りそろえた爪をかきむしるかのようにえぐり立てた。腰まで伸びた黒髪は乱れまるで台風を通り抜けた後みたいだった。

「ねえ・・・答えてよ!ねえったら!!」

 その叫びと同時に、香奈乃はカレンダーを掴んで力一杯引いた。支えている(びょう)が外れて、カレンダーは音を立てて床に落ちた。

「私のせいじゃないのよ!先生がむりやり約束を破らせたのよ。私が悪いんじゃない!」

 人形は何も答えない。

「置いていかないで、お願い。置いていかないで!」

 香奈乃は床にうずくまって泣きだした。人形達は、何も知らない純粋な瞳の中に香奈乃を映していた。



 頭の中にあるのは、真っ赤な血。そして、腹の中に寄生している胎児。

 それとも、赤い蛞蝓?


------------------------------------------------------------


 俺は一人で電車に乗っていた。いつもは隣にあいつが居るのに今はいない。平日のせいか、車内はがらんとしている。

 佐々井はあれから学校へ来なくなったと思ったら、不思議の国へ行ってしまったらしい。

(不思議の国?)

(バカ。頭がおかしくなった奴らが行く病院に入っちゃったらしいぜ)

 同じクラスの奴はそう言っていた。そいつの話によれば、佐々井は家庭内の不和に耐えきれなくなって頭の大事な血管がプツンと切れたらしい。でも、そんな噂は他でも聞いた。先月の体育の授業で、太田に殴られたショックだとか、女に振られたせいだとか。

 そんなくだらない噂はもう沢山だ。俺は本当の事を知っている。鳩だ。鳩が死んだせいだ。

 俺は陽の沈みかけた東の空を眺めていた。周りのビルは、冷たい風と月の光を受けて、心なしか青白く光っていた。

(もう冬は近いか)

 男鹿は思った。

 少しゆれたかと思うと、電車の扉が開いて、二人のサラリーマンが何やら話しながら入ってきた。

「そう、もう寒いよなあ。俺の下の子なんて、風邪こじらしててさあ」

 お互いに子供の話をしながら、男鹿の隣に腰を下ろした。

「だよなあ。今年の風邪はなかなか直らないって聞くけど、大丈夫か?」

「ああ、もうおかげさんで。でも泣くわ、(わめ)くわ。仕舞には布団にゲーゲー吐いちまってさ。大変だったんだぜ」

「そうだよなあ。俺んとこも気を付けなきゃ」

 仕事を終えた男たちの口調は迷惑そうだったが、表情はまるで幸せな父親の顔だった。俺はそれを聞きながら、涙を浮かべていた。

 泣きながら、男鹿は自分の泣いている訳がよく分かっていた。ようやく分かったのだ。

 俺は今まで何をしてたんだろう。


------------------------------------------------------------


 #赤い部屋の夢を見る。


------------------------------------------------------------


 #その頃、香奈乃は、以前見た奇妙な夢の意味がやっと理解できた。寝まきの男が話した、たとえ話の意味も。


------------------------------------------------------------


 拝啓 男鹿へ


 この手紙は書き上がってから担当医師に渡すつもりだが、君にきちんと届くかどうか確信が無い。その位、この病院の環境は最悪だ。


 いま、僕は精神病院にいる。

 両親にむりやり入れられたも同然の入院だが、ここは、ここなりの面白さがある。もしかしたら高校よりも面白いかもしれない。

 君は誤解しているかもしれないから一応記しておくが、精神病院という所には必ずしも狂人ばかりが閉じ込められている訳ではない。

 町の、そこら辺を歩いているばかな人間よりも、ずっとまともな人の方が多いんだ。ただ、思考経路と自己防衛法に関しては、妙な人が多いんだが。

 僕を異常だと言う人も(多分)いるだろう。しかし違う。僕は『正常』でも『異常』でもない『超常の中』にいるんだ。


 大学の卒論のために何度か僕の所を訪ねてきていた学生が、一ヶ月後ここに入院してきた。先生達は、僕の話の影響を受けて気が変になったのだろうと勘違いしているが、違う。

 彼も『超常』を見たのだ。


 退院したら、また会おう。ここで書いた小説を同封する。自分で言うのもなんだが、傑作だ。



 男鹿は、A4封筒の中にきっちりしまわれていた原稿用紙の束を学習机の上で揃えて一瞥した。

 傑作どころではない。完結されているものの、これ以上はない位の駄作だった。


------------------------------------------------------------


 人間は、(例えそれが面白かろうが、つまらなかろうが)

 一冊の本を書くために生まれてくるのだ(アゴタ・クリフトフ)


------------------------------------------------------------


 それから10日後、捜索届を出されていた香奈乃が、旧校舎の裏庭で死体となって発見された。臭い沼に入身して(それとも溺れて?)溺死したのだ。


 香奈乃が妊娠していることを噂で聞いて、男鹿は彼女が自殺でないことを知った。




                             END


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ