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──黄色い、熔けそうな甘い月が、零れ落ちるほど円く満ちた夜。
蜂蜜よりもっと甘そうで、どうか一滴でいいから落ちてこないだろうかと願わずにはいられない、そんな夜に僕は生まれたらしい。
甘い、甘い、甘い、月。
たぷたぷと、あと少しで零れそうな音すら聞こえたと後に語った母は、どこか夢見がちな瞳をして夜空を見上げていて、僕の誕生を語っているのか、甘い月の思い出を語っているのか、どちらが主題なのか分からない口調で、ただ、舐めたこともない月の甘さに酔った笑みを浮かべていた。
それはそれは、とても甘く、幸せそうな笑み。
今は亡き母の思い出は、その笑みでほぼ全てだったけれど、それが幼すぎた頃に喪われた母の思い出の少なさに起因しているのか、それともあまりに母のその笑みが印象的過ぎて、他の出来事を全て駆逐してしまったのか、どちらなのかも分からない。でも・・・、どちらでも良かった。だって、母はその、幸せな笑みをもたらした月の思い出を、生まれた僕の名前として贈ってくれたのだから。
母から子へ、それは祝いであり・・・、同時に、ある種の楔となった。
贈られた名を疎ましく思った事はないけれど、僕はその名の引力で、毎晩、夜空を見上げる人間に育ってしまったのだ。母が見たという、甘い月を探す夜を繰り返す人間になってしまった。でも、何度、夜空を探しても、話に聞く月は見当たらない。見当たらないけれど、諦める事も出来ず、毎晩、毎晩、月を見上げ、月を願い、月を目指して、気がつけば、僕は・・・、
次代の『星拾い』になるべく、奮闘する日々を送っていた。
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──空に浮かぶ星は無口だ。何故なら黙っていられなくなった星は、感情に耐えきれなくなって墜ちてくるから。
「蜜夜、海蛇の尾の一つが墜ちたようだから、行ってきなさい」
「はい、分かりました。お師匠様、拾ったら、そのまま湶へ向かえば宜しいですか?」
「そうだね。うん、そうしなさい。私は先に向かっているから」
「え? 見ていなくていいんですか?」
「一晩に、そう何個も墜ちてくる事はないよ。それに夜空の様子も落ち着いているからね。もう、今夜は他の星が墜ちる事はないだろう」
では、行ってきなさい・・・、お師匠様はそう言うと、僕が動き出す前に、さっさと湶に向かって歩き出してしまった。もうお役目を引退されると決めている方とは思えないほど機敏な動きに、まだまだ見習いとさえ言えないほどの実力不足を実感している身としては、是非、引退宣言を撤回して、長年このお役目を果たしてきた大先輩として、今後も色々教えてほしいと願わずにはいられない。
・・・というか、僕が一人前になれる日なんてくるのかな? 一人前になりたいのかどうかも良く分からないけど。
金属で出来た銀色の桶と、その中に同じ素材で作られた柄杓を入れると、それを左手に持って歩き出す。お師匠様が歩き出したのとは、丁度反対方向。先ほど、お師匠様が見上げていた夜空の方角。海蛇座はそんなに遠くはないから、たぶん、尾星の一つが墜ちている地点も、歩いて数十分程度だろう。遠くなくて良かった、そんな他愛ない感想を抱えながらも、つい口の中で零すのは愚痴に近いもの。この星拾いの仕事を習い始めてすぐに零れるようになった、毎度お馴染みの呟き。
だって、そもそも何故星拾いを目指してしまったのか、どういう経緯でこんな状態になっているのか、自分が歩いてきた道を振り返って見てみると、誰に強要されたわけでもない道なのに、さっぱり訳が分からなくなっているのだ。
月を、望んでいたはずだった。
それは間違いない。今だって、夜空を見上げれば最初に目が探すのは月の姿。でもそれなのに、今、夜空を見上げて細心の注意を払って探さなくてはいけないのは星の姿。このギャップは、一体どうして生まれてしまったのか? もう幾度となく考えているのに、分かってはいるけど納得が出来ないギャップで、納得は出来ないけど自分で生んでしまったギャップだから、今更誰の所為に出来るものでもなかった。
いくら望んでいても、月に関われるような手段はどこにもなかったから。そんな職種はなかったのだ。だから、それなら月の傍にいられる、毎晩月を眺められるような職種はないだろうかと探して辿り着いたのが・・・、
「あ、スターだっ!」
ぼんやり歩いていた背中に覆い被ってきた、一人の子供の叫び声と、その声に触発されたかのように巻き起こる、複数の子供の笑い声。罪なき子供の、他愛ない笑い声だと分かっているのに、聞こえてきた瞬間、酷く居たたまれない気持ちになる。そして沸き起こる気持ちに比例して、足取りも心持ち、早くなって。
手にしている桶と柄杓が、金属特有の耳障りな音を立ててその存在を主張している気もして、身体で隠すように両手で持ち、胸の前に抱えて歩いた。そうしてそっと澄ませた耳に、まだ聞こえてくる笑い声。いや、もしかしたら気にしすぎで、もう聞こえていないのかもしれない。そうでなくとも、笑っていたのは僕の事じゃなかったのかもしれないし、たとえ僕のことを笑っていたのだとしても、僕が気にするような、馬鹿にした意味で笑ったわけじゃないのかもしれない。
確かめてないから、分からない。居たたまれなくて、気恥ずかしくて、振り向くことすら出来なかったから、子供達の表情すら確かめられなかったし・・・、たぶん、今から振り返っても、もう子供達はいないだろうし。居たとしても、子供の興味なんてもう別の方向を向いてしまっているだろうし。
「・・・名称が悪いんだよ、そもそもの。どうして拾う方をメインの名前なんてつけたんだろう?」
今度の愚痴は、さっきと違って声になって零れた。でも、仕方ない。だって居たたまれなくて仕方がないのだ。『スター』と呼ばれる度に、笑い声が聞こえる度に、まるで馬鹿にされているようで・・・、一応、色んな微妙な思いがあったとしても、毎晩真面目に仕事をしているのに、どうしてこんな居たたまれない気持ちにならなくてはいけないのだろう。
胸元から、僕のそんな不満に同調するように、少し耳につく音が続く。毎晩頑張っているのに、と唇を尖らせる子供の姿がイメージされるのはどうしてなのだろうと、どうでも良い事をその時、少しだけ思った。
『星拾い』に『スター』という別称がついたのがいつからなのかは、もう誰も知らない。
ただ、正式名称である『星拾い』という名そのものが、少々からかいの対象になりやすいものだった。それが『スター』という別称までからかいの対象になるそもそもの原因だった事だけは確かだと思う。
『星拾い』・・・、本当に、どうして『拾い』なんてつけてしまったのか? 『拾い』じゃなくて、『掬い』とか、『助け』とか・・・、まぁ、それもどうかと思うけど、でも他にいくらでもつけようはあったと思うのに、どうしてよりによって『拾い』なのか?
まるで『塵拾い』みたい、と最初にそんな酷い台詞を口にしたのは、誰だったのだろう?
本来なら夜空できらきら輝くはずなのに、地上に墜ちてきてしまった星。地面に転がる星は本来の輝きを失っていて、それは夜空で輝く星とはあまりにもかけ離れた姿だ。そんな星達を拾い歩く僕達についた名称が『星拾い』なのだから、まるで塵を拾い歩く人のようだと笑われても、無理はないと思う。毎晩、毎晩、墜ちてしまった星を探して、拾って歩く。とぼとぼと、拾った星を持って、湶まで歩く。
本当は、墜ちてしまった星をもう一度、輝く星として夜空に還す、立派な仕事のはずなのに。
『スター』は勿論、拾っている対象である星を指しているわけだけど、同じだけ、塵拾いをしているかのような僕達の姿を揶揄する名称だった。拾っているものは星なのに、拾っている姿は塵拾いの人と同じ。塵拾いだって立派な行いのはずなのに、僕は胸を張るような度胸が持てなくて、星拾いは立派な仕事なんだからという意識やプライドも持てず、結局、あの別称が聞こえる度に、俯いて逃げるように早足にその場から離れるばかり。
そんな姿や行動こそがみっともないと、冷静な脳裏の一部では思っているのに。
「・・・この辺、かなぁ?」
不毛で惨めな考え事の果てに到着した落下予測地点に立ち止まり、完全なる独り言を洩らしながら辺りを見渡していると、斜め前方の辺りから、激しく何かがざわめく音がしていた。夜露に濡れる、柔らかな草木を激しく打ち鳴らしているかのような音に自然と零れる溜息は、あまりにも響く物音に恐れをなして、後方へ転がっていく。
素直な気持ちがその溜息を追ってこの場を離れたがるのを繋ぎ止める労力が、一体どれほどのものなのか、きっと今、あの場所で煩くざわついている存在の理解を得る事は生涯、ないだろう。まぁ、なくてもいいけど。いい、けど・・・、出来れば墜ちてくるのは止めてほしい。
口にすら出せない切なる願いを込め、嫌がる足を叱咤してざわめきの発生源へと近づけば、草木のざわつきの他にもはっきりとした音が聞こえてくる。いや、音、というか・・・、
『恋人に振られただの何だの、俺が知るかってんだっ! バーカ!』
・・・声だった。それも、あの小ささでよくそんなに出るなと感心するほど盛大で、夜空に浮かんでいる時はあんなにも綺麗なはずなのにと悲しくなるほど粗暴な罵詈雑言だ。毎夜の事とはいえ、本当に、本当に悲しい。相手はお星様なのに。
胸一杯の悲しみを抱えながらそれでも止めなかった足は、やがてその罵詈雑言の発生地点へと辿り着く。夜露で艶やかに撓る細長い草の間、夜が照らし、頭上で尾の星を一つ欠いた海蛇座が見守る場所。驚かさないように、踏みつけないように、気をつけて覗き込む、その場所に・・・、いつも通り盛大な罵詈雑言と化した愚痴を撒き散らす、青黒い色をした星が転がり墜ちていた。




