プロローグ 罪
「素晴ラシキ世界鉄道」の第三話です。内容的には第二話「巡礼本線」の続編になっています。楽しんで読んで頂けますと幸いです。
プロローグ 罪
はじめに風があった。
男女が、林檎の木の作る陰に横たわっていた。太く白い雲が、目が覚めるほどに青い空を、風に身を任せて漂っている。緑の草むらが優しくうねり、たんぽぽの黄緑がちらちらと光を放っていた。周りでは、蜜蜂が、花弁に掴まり、せわしなく動いている。
男は顔を横に向け、隣の女に微笑み、その豊かな胸を恍惚とした表情で眺めた。女は、男の短い口ひげを指の背で撫でながら、男の顔を両手で寄せて接吻をした。
風に草が騒ぐ。二人の近くで鈍い音が響いた。
男女が振り向くと、木陰に熟した林檎の実が転がっていた。女は艶やかな体を起こし、艶やかな手でほのかに赤く染まった実を掴んだ。胸が静かに膨らむ。女は大きく息を吸って匂いを味わうと、徐に小さな口を開けて実をかじった。ゆっくりと顎を動かす女の頬が満足げに赤らむ。男は胸毛の濃い上体を起こし、女の小さななで肩に頬を預けた。差し出された実を右手で受け取ると、女の囓った跡を覆いつくすほどの大口を開けて、威勢良くかぶりついた。咀嚼する男の顔を見て、女も笑った。
風がまた草を揺らした。前よりも強い風だ。林檎の木が大きく揺れ、女の長い亜麻色の髪が男の視界を遮った。男が指で髪を払うと、突然耳元で唸るような雑音が聞こえてきた。驚いて飛び上がると、手元の林檎を狙って何匹もの蜜蜂が集まってきているのに気づいた。女は悲鳴を上げ、男は咄嗟に林檎を目の前の草むらに放り投げた。実の落ちた場所に、男は鱗のついた尻尾を見た。蛇だった。
林檎が消えても、蜜蜂は不安げな音を立てて唸り続けた。男は手を振り回して蜜蜂を追い払おうとしたが、ふと、蜜蜂が周りにいないことに気づいた。男は横を振り向いた。女は跡形もなく消えていた。男の足元を明るい陽光が照らしていた。林檎の木はなくなっていた。ただ、姿を見せない轟音だけが、男の耳におどろおどろしく響いていた。
男は、はっと目を開いた。
鉄の臭いが鼻についた。
薄らと赤くなった空に、何本もの黒い線が走っている。無機質な建築物が僅かに視界に入る。男は汗をかいていた。目蓋に眠気が重たくのしかかっている。ふと吐いたため息は、酒の臭いがした。
耳を突く轟音が徐々に大きくなる。男の背中が小刻みに震えていた。それが悪寒でないと分かったとき、その轟音の正体が何かが分かったとき、絶望に悲鳴を上げようとしたとき、既に男はこの世から身体ごと吹き飛ばされてしまっていた。
風のあとには、静けさが残った。