第十三話
闘矢たちは観覧車に乗り込んでいた。とにかく落ち着ける場所、そして他人が割り込むことが出来ない場所。それを考えた結果だった。
「それでは、私から闘矢君に触ることが出来ないのですか?」
闘矢の対面に座った夏陽は話を聞き、驚いた顔を見せる。
「そうなるな。夏陽から触る場合、俺は反射的にそれを避けようとする」
それに対して前かがみに闘矢は俯いている。
あの現場を見せてしまったら話さざるを得ない。自身の異常な体質、潔癖症の最終系と言っても良いものについて。語って楽しいものではなかった。
今の闘矢は罪悪感に似たものに襲われていた。それはこの体質によって、恋人である夏陽さえも拒絶してしまうからだ。身体が勝手に反応し、回避行動を取る。余裕があれば回避の仕方をある程度は制御できるが、根本的にその反射に闘矢の意志は反映されない。
友人、家族でさえ、今の闘矢に接触は出来ない。
「聞いていいのか分かりませんが1つ、いいですか?」
恐る恐る夏陽が訊ねた。
「何でそんな体質なのかってことか?」
「……はい」
夏陽は戸惑う素振りを見せずに頷いた。戸惑いながら聞かれるよりそっちの方がずっと楽だ。
「じいちゃんが道場をやっててな。ガキの頃から体を鍛えるっていう形で色々無茶をやらされた」
「無茶って?あ、言いたくなければ、言わなくても」
「いや大丈夫だ。本当に色々あったが恐らく一番の原因に近いのは寝ている時の奇襲だろうな」
言葉に夏陽は首を傾げる。日本語に間違いはないが、文法的には理解に苦しむのは確かだ。
「ようは寝ている俺に対して踵落としを食らわせるとかそんな感じの攻撃で奇襲を仕掛けてきたんだよ」
「そんな!危ないじゃないですか!?」
夏陽は目を見開いて訴える。やっぱり普通の家庭からしたらそうだよなと思い、闘矢は苦笑いをする。
「それが普通だったんだ。あらゆる状況に対応できる能力を養う。だからこそ、俺は自然に自分に向かってくる危機に対して回避するようになったんじゃないかと思う。そしてそれが過敏に反応しすぎて、今では誰も俺に触れないってわけだ」
「そんな……虐待ですよ!」
「昔の俺はそんなこと思いもしなかった。ぶっちゃけると俺は5歳以前のことを全く覚えてなくて、物心ついたころからそんな状態だったんだ。あまり自信を持って言えないけど、性格がそこまで歪まなかったのは奇跡だと思う」
言っていて闘矢は自虐だなと思った。だが言わなければ伝わらない。夏陽は答えを求めていた。それには答えなければならない。
例えこれで嫌われることになろうとも言わなければならない。いつかは話さなければいけないことなのだ。
「直ったりは……しないんですか?」
しばらくの沈黙の後、夏陽が口を開いた。
「どうだろうな。じいちゃんのところから離れてもう5年は経つが、反射の方に衰えはないと思う」
「それじゃあずっとこのままなんですか?」
夏陽は先ほどまで荒げていた声がどこへ行ったのか、かなり低いトーンで言う。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。それは俺には分からない」
そもそも回避に闘矢の意志がない時点で闘矢にはどうしようもない。本能と理性、そのどちらにも属さない第三の意志。後天的に生じたその意志は時として他の2つの意志を凌駕する。自身の安全のためならば、どんなことでもやってのける。そういう意志を持ったものだ。
半ば、諦めたものだ。そして、今のこの状況ももう諦めている。
果たしてこの話を聞いた夏陽がどうするか、闘矢には分からない。突然別れを切り出される、という自体にはならないとは思っている。だが夏陽が闘矢に対して、やや引いた態度になるのではないかと思った。
触ろうとすれば勝手に避けてしまう。下手したら精神を疑われてしまうかもしれない症状に夏陽がどう思うか。
顔を挙げ、夏陽を見る。そして闘矢は困惑した。目線の先、夏陽は泣いていた。目から流れた涙が頬を伝い、落下していった。泣くのを必死に堪える様に、夏陽は口をへの字に曲げていた。
「えっ?」
思わず目を疑ってしまう。
「だって……不公平じゃ……ないですか」
やっと出した涙交じりの夏陽の声は震えていた。
「ふ、不公平?」
唖然としてしまう。
可哀想だとか、同情ならば意味は分かる。今までこの境遇を話した相手は殆どがそういう対応を取ったからだ。
だが不公平とはなんなのか。生まれ育った環境が不公平だとでも言うのか。
「ごめん、ちょっと意味が分からない」
泣いている人間に聞いて良いものか躊躇ったが、口に出てしまった。
それに対して、夏陽は一旦咳払いをして喉の調子を整えた。
「闘矢君が触れるのに……私が触れないのは……不公平じゃないですか!!」
夏陽は声を上げて泣き出した。何回も手で涙を払うが、涙は止まる事を知らない。それを目の前で見させられ、闘矢は何も出来なかった。どう対応して良いのか分からなかった。
夏陽が泣いている理由が未だに理解できなかった。闘矢からならば触れることが出来る。それは結果的に闘矢と夏陽が触れていると言う事。
それと夏陽の方から触れることと何が違うのか理解できなかった。結果は同じはずである。だが現に夏陽は泣いている。闘矢が理解できないことで泣いている。
「……」
闘矢は右腕を夏陽の頬へと伸ばした。何か考えがあっての事ではない、自然と手が出た。夏陽に触れたい。ただそれだけだ。
すると夏陽の頬に触れるより先に、右手に感触があった。
夏陽の左手が、闘矢の右手を握っていた。細い華奢な指。それが今闘矢の右手を包んでいる。避けるなんて事態は起こらなかった。
「触……れた?」
夏陽は驚くが、最も驚いたのは闘矢だった。